ペルーの三男おじさん
人それぞれのどのように生きるかを問う
ペルー三男おじさんの生き方
ペルーの三男叔父さん
作・三雲倫之助
世界の日系人は三百五十万人、沖縄系移民は三十五万人、全体の十パーセン
トになる。
「元年者」とよばれる明治初年、一八六八年六月十九日にハワイに渡った者た
ち、ハワイへの日本人集団移民第一陣である一五三人を乗せてサイオト号がホ
ノルルに接岸した。
しかし、沖縄県人は移民が禁止され、三〇年後の一八九九年にようやく認め
られた。
それから沖縄県から移民する者が増え、第二次世界大戦後の沖縄からは多く
の者が飛び立った。
その主な国別の移民分布である。
百五十万人のブラジル日系人 沖縄県系一七万人
ペルーの日系人十万人 沖縄県系六万九二一全体の八割
アルゼンチン日系人三万九二七九 沖縄県系・二万七千四百九十五
ボリビアの日系人・一一万一一七三 沖縄県系六七〇三人
ハワイの日系人一八万五〇〇〇人 沖縄県系五万人
カリフォルニア及び他の州の日系人・二十七万二五二八 沖縄県系四万六〇〇
〇人
沖縄は人口比から言えば広島、熊本を抜くトップの移民県なので、沖縄では
だいたい親戚に移民した者がいる。
移民した人との結束も堅い。
その一つの例が戦後間もない頃に建てられた与那町与原区のコンクリート平
屋の公民館がある。
その建築費用は与(よ)那(な)町のけして豊かではなかった与原(よーばる)区
出身であるペルーの有志が募って送金したものであった。
与原区出身の移民した人が帰郷した時には必ず公民科で細やかながらも歓迎
会が開かれる。誰もが未来永劫に繋ぎたい絆だと思っているからだ。
南米、北米は遠い、だがかつての関係は日本本土より近かった。
宮城貴史(たかふみ)にもペルーに二人の叔父がいる、長男で移民した善(よ
し)久(ひさ)とペルーで生まれ育った三男の叔父がいる。
母親は三男を産んだが産後の肥立ちが悪く半年後に亡くなり、それを後を追
うように一年後に父親も亡くなった。
善久は弟にペルーで活躍するように日本語を教えなかった。
カルロス・善兼(よしかね)・宮城、ペルーの日系二世・三男叔父の名前であ
る。
両親が移民したときには、仕事のできない幼い二男の貴史の父・善豊(よし
とよ)は沖縄の親戚に預けられた。
それは第二次世界大戦の前のことである。
戦争の間、善豊は長崎の造船所で働いていた。
原爆が投下された日には建造中の軍艦の中で作業をしていたために助かっ
た。
だが長崎の原爆の様子を誰にも語ったことはなかった。
戦争が終わると、内地から帰郷した。そして焼け野原と変わり果てた沖縄を
見て、悲嘆に暮れ移民しようとペルーの長男に手紙を書いたが、
「ペルーもそんなに甘くはない、日本で頑張れ」とけんもほろろに断られた。
善久にすれば、古里に身内のいないのは耐えられないことであった、それで
は根無し草になってしまう。何かにつけて思い出す古里、沖縄は心の拠り所で
あった。
そこに身内がいなければ沖縄は縁遠いものとなってしまう、それでは余りに
寂しい、一世の善久にとって祖国は日本であり、ペルーではなかった、生きて
いる内に帰れるか分からぬ遠く仰ぎ見る祖国・日本であった、どうでもあって
欲しい古里だった。
だが戦後南米に移住した県人は多かった。
戦後移民だけを見れば日本全土で五万三四九八人(昭和二三から平成五
年)、沖縄は戦後に六一七五人で一一%を占める。
「海を越えたら本土も南米もいっしょ」という気概があった。
土地を軍部に接収された農民の移民であり、先に移民した人からの誘われて
の移民であり、焼け野原の沖縄よりは南米の方がいいだろうとの思いの移民で
あった。様々な思いを乗せて船に乗って行った。
戦後八年になろうとする頃、琉球テラゾー合資会社という石材会社に勤めて
いた善豊は本土へ引き上げる社長から会社を任されることになった。
但し、条件があった。それは別れる社長の愛人に二千ドル支払うというもの
であった。その時の会社にそれだけの金を一括して払う余裕はなかった。
そこで善豊は愛人のアパートに三ヶ月通い続け、頭を下げ、ご機嫌を取り、
やっとの事で無理なく三年で月々返済していくという案で決着をつけ、千載一
遇のチャンスを物にして社長となった。
そして手堅い会社経営で順調に売り上げを伸ばしていった。
社長になった噂はペルーの与那町出身者に大きくなって伝わり、善豊は与那
町一の金持ちになっていた。
それを聞いた善豊は貧乏と思われるよりは増しだと相好を崩した。
十年も立とうとする頃、善兼に時計の修理を習わせるために、援助してくれ
と善久から手紙が来た。
丁度町長が慰問団でペルーに行くというので、手紙と金を渡してくれるよう
に善豊は頼んだ。
与那町出身の通訳を兼ねていた善久はすぐに費用が工面できて大喜びだった
と、帰郷した町長から善豊に連絡があった。
一月ほどして、ペルーから手紙が届き、弟も大喜びで感謝しているとのこと
であった。それと善兼のポートレートが同封されていた。
善兼は斜め横を向き、口髭を生やし、スターのブロマイドのような修正の施
された写真であった。
善豊は沖縄の宮城家では考えられない、バタ臭いペルー産の宮城家の写真だ
と笑った。
それから五年後、手紙には善兼の件でこう書かれていた。
善兼は駄目だ、商売っ気がない、腕は一流だが商売を知らない。
ペルーでは五分で直せるものも、さも難しい、手間暇のかかる仕事のような
振りをして、三十分ほどいじり、客が早く直せないかと頼み込んだ時、チップ
を貰うのが常識だ。
そうしなければ儲けが少なくて時計屋や個人業はやっていけない。
しかし私がやっている大衆食堂は別だ、旨い、早い、安いが勝負だからだ、
それに、食堂で値切る奴はいない。
時計屋は商売の才覚がないとやっていけん。
あいつは五分か十分そこらで手際よく治して、すぐ時計を渡す。
だから客は大したことのない、自分でも治せたぐらいの故障だったと思い、
善兼の腕の良さに気付かずに定価でさえ値引こうとする。
人のいい善兼は世間知らずで、粘られると根負けして、値引きまでしてしま
うことがある。
そんな事では大きな時計店でさえ遣ってはいけない。
だから私が口を酸っぱくして、時計はまずは別の仕事で手が塞がっているか
らと言って預かり、日にちを指定して渡せばいい。
それなら定価通りで商売もできると言っているのだが、聞かない、できな
い。
そう言う風に育てた積もりはないのだが、なぜかこのような結果になってし
まった。
善兼の子供達は四人とも私の所へ遊びに来るし、懐いている。
長男としては嬉しい限りだが、善兼はこの子供達のために儲けようという覇
気がない。
子供を愛していないのではない、子供達は父親を尊敬している、ただ金儲け
ができないだけだ。
これが家庭を顧みないバカなら叱り飛ばして、説教して、心を入れ替えさせ
ることもできる。
だが自分の仕事は一生懸命にしている。
私も堪りかねて、酒の席でこの話に及んでしまった。
「善兼、仕事は儲けるようにしないと駄目だ、いつまで経っても蓄えもできな
い。
子供達の進学のことも考えないと、教育には金が要る、お前もそこの所はよ
く分かるだろう。
せっかくの時計の技術も宝の持ち腐れになっている」
「そうだね、分かるよ、兄さん」
善兼は頷くだけで反論しない。
親代わりの私には反抗しない。それが善兼は感謝の印だと思っている、小さ
い頃からの習慣のようなものだ。
善兼はずっと黙って聞くだけで、うんともすんとも言わない。
それで分かってくれたものと思ったが、或る日の晩、吉兼の妻が来て、
「あの人は全然変わってない、チップを請求しないから、前よりはちょっとい
いぐらい。同業者はもっと稼いでいる」
善久は呆れて、吉兼の妻に言い放った。
「あいつは変わらないよ、諦めなさい、そんな男と結婚したんだと」
「お兄さんが内の両親に善兼を薦めたんでしょう」
「それなら聞くが、善兼は嫌いか、離婚したいか」
「好きに決まってるでしょう、女遊びもしないし、真面目だし。
でもお金は欲しい」
「難しいな、とても難しい。
お前は金儲けが上手で、遊び人がいいか、それとも稼ぎは悪いが、家族思い
とどっちがいい」
「家族思いが言いに決まっているでしょう、女のことで苦しむのは耐えられな
い」吉兼の妻は俯き押し黙り、帰った。
一年が過ぎた或る日、善兼の妻が善久に済まなさそうに話した。
「私の市場での屋台の稼ぎも高が知れている、これでは子供達を満足に養って
いけない」
吉兼の妻が泣きついた。
頼るのは一族の長、長男とペルーの日系社会では決まっている。それだけ権
限も大きければ責任も重くなる。
宮城一族は長男・善久が背負う、それでこそさすが長男だと日系社会は認め
てくれる。
「電話の設置や修理が儲かると聞いた。
その講習を受けさせたい。個人業ではなく電話会社の社員になるから、収入
も増える、そうすれば兄さんに迷惑を掛けないで済むでしょう」
「善兼が言ったのか」
「私が勧めた、でも納得した」
「分かった、二男の善豊にも半分もって貰おう。
教わる気があるのなるならいい。月給はいいのか」
「時計屋よりはいいわよ、自営業は色々と雑費が自腹だからね」善兼の妻は言
った。
「まあ、勤め人が善兼には向いているだろう、融通がきないからな。
何で金を儲けようとは思わないのか分からない、金持ちのお坊ちゃま育ちで
もないのに、お金が嫌いな変人か」
善兼は講習をトップで終え、電話会社に就職した。
リマ電話会社のユニフォームを着た善兼の会社の評価は断トツだったが、相
方には散々の評価であった。
「遅い、もっとテキパキしなければ、時間の無駄だ、私が代わりにやる」
相方は憤懣やるかたない、会社で一番チップが少ないからだ。それもこれも
一日に何軒でも熟そうとする善兼の性格が問題だった。何軒熟そうが、給料は
上がらず、会社に重宝がられるだけだ。それにも拘わらず、仕上がりと速さを
望む善兼が疫病神のように思えた。だが相方を変えることはできない。善兼は
会社の模範社員だからだ。
善兼の妻は給料が時計屋よりはいくらかよかったことより、仕入れの費用、
雑費のない会社勤めで毎月決まった額が入ってくるのが嬉しかった、チップが
どうのこうのと言うことはなく、吉兼の妻は働かない碌でなしよりは増しだと
思うと、心も晴れた。
だが善久のショックは大きかった。チャンスをやっても、誰もがやっている
ようにチップが貰えるようにすればいいものを、それをしない。どんな考えな
のか、善兼の頭の中を覗きたくなった。きっと覗けても、理解はできないだろ
うと善久は考え込んでしまった。食うには困らないが、手元に残る自由になる
金は少ない。
ほんとにそれでいいのか。どうして皆がやることができないのか、それは泥
棒ではない、罪ではない、ペルーの常識だ、そんなことも分からないのか。
褒めても叱っても無駄で結果は同じ、暖簾に腕押し、糠に釘だ。
手紙がくると、父は貴史に三男叔父の話をした。
その話を聞く度に、三男叔父の不器用さを笑ったものだ。欲がないというの
も罪作りだと思った、そのせいで家計は火の車だからだ。男の責任と言うもの
がない、と言うより、哀れみのようなものを感じた、父や善久のようになぜで
きないのか、それが不憫に思えた、兄弟と言えども、こうも違うのかと溜息を
吐いた。
だが沖縄にいる貴史はどうだ、会社は長男が継ぐから、自分は窮屈な父の下
で働きたくはないから一番無難で楽そうな町役場を選んだ。
県庁とか銀行は出世争いが嫌で、大学二年の時には諦めて、勉学はほどほど
にして大学生活を満喫し、社会人になった。
人様に威張れるようなものではなかった。
貴史はいつの間にペルーや善兼のことは忘れていった。
一九九五年、五年に一度の世界のウチナーチュ第二回大会が沖縄県主催で催
された。
世界に散らばった県人が、子孫が、ゆかりの人々が沖縄に集まり、親戚巡り
をし、友好を深め、世界の沖縄人(ウチナーンチユ)のネットワークを構築する
ためのフェスティバルである。
その時、貴史は四十才、父は七十一才であり、ペルーの善久・七十八や善兼
・六十才である。
十一月十六日から十九日まで沖縄コンベンションセンターを中心に行われ、
海外から三千四百人、各イベントに参加者数延べ五十二万人で盛況の内に幕を
閉じた。
大会前夜、国際通りでは楽隊を先頭に各国の名前の書かれた横幕を広げ、そ
の後にその国の国旗の小旗を振りながら、その国の名前を入れたTシャツや移
民先の民族衣装で踊りながら行進していく、その後には日本本土の都道府県の
県人会の沖縄人(ウチナーンチユ)が続く。
県系人やその子孫の晴れやかな舞台であり、喜びに活気に溢れている。
この期間だけは何もかも忘れて、彼らは沖縄を経験する。
貴史は今年役場に入った部下の金城とパレードを見ていた。
金城は学生の頃に、リュックサック一つを背負いアメリカ、南米、北米、東
南アジアを旅したバックパッカーである。
アメリカでは現金輸送車とは知らず、道を聞きに近づいたら、拳銃を向けら
れ、アメリカ人と同じ服装なら撃たれていたに違いないと言った。
旅での一番の危機はブラジルのリオデジャネイロで財布を掏られ、一文無し
で二日も喰わずに当てもなく彷徨(うろつ)いていた時であった。そして空腹に
耐えきれず、食べ物の有りそうな雑貨店に跳び込んだ。
ポルトガル語会話集を見せ、仕事をさせてくれとの文を指さすと、お前はハ
ポン、ハポンかと聞いてきた。そうだと頷くと、分かったと店主はレジの操作
を教えると、飯を食うジェスチャーをして出て行ってしまった。
「宮城さん、おかしいですよね、身も知らぬ人間に店の番を任すなんて、そし
てレジの操作まで教えるんですよ。大した額は入れてなかったけど、根こそぎ
持って行かれたらどうするんですか。
でもね、陽気な南米の乗りだなと思うと笑っちゃいましたよ。日本ではこん
なことは考えられませんよ。
これは地獄に仏の忘れられない経験でした」金城は笑った。
「それで旅費はどのように工面したの」
「そこの店主の家で一泊し、事情を話すと、翌日建築現場に連れて行かれて、
そこの半場で飯場で寝泊まりして一月働きました。
そこでもハポンかと聞かれました。なぜかハポンは受けがいいんです。
日本政府がブラジルに多額の開発援助でもしたんですかね」
「南米とは相性がいいのかな、それにしてもよくコミュニケーションが取れる
な」
「英語とその国の会話集をちゃんぽんにすれば十分通じます。案ずるより産む
が易し、出たとこ勝負です、考えすぎるとバックパッカーにはなれませんよ、
考えれば考えるほどどこも自国と比べれば危険で一杯です」
「そういうものかな」
「難しく考えると、外国には団体旅行でしかいけなくなります。
行けばどうにかなります」
「移民はどうなのかな、案外そんなものなのかな、どこで決断したか、推測が
難しい」
「ボクは大学で専攻は歴史なんです、だからそれには詳しい。
一八七九年に琉球国から日本国沖縄県になったのですから、二十年後には移
民しているわけです、日本の外に出たかったということもあったんじゃないで
すか」
「そうだな、沖縄にすれば大変な過渡期であり、琉球語は日本人に通じない、
日本語を覚えるのも年を取った人には難しい、色々なこと積み重なったんだろ
うな、それで海外へ飛んだ、そこは本土の移民とはちょっと違ってくるな」
華やかなパレードを見ながら、二人は暫く先人の暮らしぶりや状況のことを
考えながら、その苦労を思った。
「沖縄の人が移民で行ったところには大体どの国でも沖縄会館があるんです。
それは初期移民の人たちがあまり標準語を話せなかったからかも知れません
ね。だから沖縄の移民の結束は固くなった。
その人たちが子孫がこのウチナーンチュ大会にやってきた、古里なんでしょ
うね」金城はふと溜息を吐いた。
「古里だ、移民に行った人は三線を持って行った人が多かったと言うからな、
沖縄で聞く沖縄民謡は堪らんだろうな」
「民謡とは言っても、本土とは違い、NHKではなく民間のラジオ局からも必
ず流れていますからね。食っていけるプロの民謡歌手も他県に比べて圧倒的に
多い」
「沖縄民謡はずっと、廃藩置県でも廃れずに、却って流行りだした、戦後も一
つの世界を作り出した。
それは蕩々と続いた沖縄の誇るべきものだ、他県では民謡が今でも作曲し続
けられているという事はないからね、沖縄では一月に一曲は作られていると聞
いたことがある。
凄いことだよ」貴史は感慨もひとしおであった。
「そうですね、琉球の世から、大和(ヤマトゥ)の世、米国統治、アメリカの
世、祖国復帰して又大和の世よ、絶えることなく続いているんですからね。
異郷の地で三線を弾きながら歌う古里の歌、その心境を考えると胸に迫るも
のが有りますね」金城が熱く語った。
「模合(もあい)・頼(たの)母(も)子(し)講(こう)の金を取って来た人もいるだ
ろう、死ぬ前に訪れたいと思った一世たち、或いは一度は父母が、祖父母が語
った沖縄に行ってみたいとの気持ちがあった」
「どこでもそうですが、皆が成功するわけではありませんから、外国での貧乏
は辛くはないですかね」金城は呟いた。
「ペルーでは食事だけなら、どこの知り合い家でも嫌がらずに食事を提供し、
一緒に食べるそうだ。だから飢え死にすることはないと言っていたのを耳にし
たことがある」
「そうですか、それはいいですね、そう言う習慣があったら、遠慮せずに食え
るから。
食えればどうにかなるものです、これはバックパッカーをして学んだことで
す」
「まあな、腹を括ればな、でも仕事をしないことには世間体があるからな」
「その内に誰かが仕事を紹介してくれますよ、知らんぷりをするなら、飯を食
わせないでしょう」
「お前はいい生まれをしている」貴史は笑った。
「そうですかね、考えすぎないことですよ」金城は苦笑いをした。
善兼の長男・ミゲルから英語で手紙が届き、貴史が訳して両親に聞かせた。
私たち家族は善豊叔父さんが父・カルロスが若い頃に援助してくれたことに
感謝しています。
私はサンマルコス大学を卒業し、運良くペルーの上級国家公務員になりまし
た。両親も善久叔父さんもとても喜んでいます。これで我が家の暮らしも楽に
なります・
話は変わりますが、善久叔父はペルーを褒めたことがない。ペルーは泥棒が
多く、ペルー人は怠け者だとしか言わないから、たまにですが不愉快になるこ
ともあります。
第二次世界大戦の時ペルーの日系人が捕虜収容所に収監されたのは不合理で
すが、なぜならペルーのイタリア系やドイツ系は収監されなかったからです。
しかし日系ペルー人はペルーに住みながら日本人であることを誇りに持ち、ペ
ルー人ではなかった。詰まり、ペルーのことを考えなかった。それが収監の一
因であったと考えます。
しかし、私たちの世代の日系人は第一にペール人であり、ペルーを愛し、ペ
ルーのために尽くす、それが義務だと考えています。
勿論、日系ペルー人としての誇りもあります、それは消えることはありませ
ん。
私はペルーが日本のように治安がよくなることと経済発展することに貢献し
たいと思っています。
善豊叔父さんとご家族が健康でありますように。
ミゲルの手紙を訳し終えた貴史は嘗て悩んだアイデンティティの事を考え
た。
祖国復帰前までは、アメリカの教えた民主主義はアメリカ兵にのみ、アメリ
カ国民にのみ適用される、統治された沖縄の人々には適用されない、それが沖
縄の人々を怒らせた。
祖国復帰運動の一因はそこにもあったと貴史は考えていた。
アメリカは日本との分断を図って、「人間は生まれながらにして法の下に平
等である」と民主主義、民主主義と誇らしく謳ったが、沖縄を二枚舌のアメリ
カ合衆国が属国に組み込むことはできなかった。
例えば、沖縄の女性が強姦されてもすべてが泣き寝入りであった。殺されれ
ば犯人は強制送還されアメリで裁判に掛けられるので、被害者の声は伝わらな
い。
つまり人間とはアメリカ人だけを指し、沖縄人は人間に含まれない、アメリカ
は厚顔無恥のダブルスタンダードだった。 一九七二年祖国復帰、高校二年、
核抜き・基地撤去の沖縄のシュプレヒコールは完全に無視され、基地はそのま
まであった。アメリカに弱腰の日本政府に失望し、平和憲法が揺らいだ。
その日まであった思い焦がれた祖国日本はその瞬間に消えた、祖国というす
べてが沖縄人(ウチナーンチユ)の幻想だった。
自分沖縄人か、日本人か迷った、どちらにも心の針は揺れ動いたが、その意
識も時と共に薄らいでいき、考えなくなった。
西暦二〇〇〇年で沖縄が日本に組み込まれて百二十一年しか立たない、二千
年も変わることなく日本であった内地の人々と意識に違いがないという方がお
かしいのだ。私たちは違うことを恐れ忌避しすぎる、違いを認めてこそ、今の
世は成り立っている、それを拒絶するのは時代錯誤だ。
嘗て沖縄県は琉球国(一四二九~一八七九)、独立国であった、それは否定
できない歴史である。
小さな島でありながら国家としての全てを備えていた、言語、法律、文化、
歌、食べ物がある。
そのために内地の人は沖縄観光するのではないか、花は一種類ではなく色々
に咲いてこそ美しい、その感性こそが違いを融和へと導くのだ。
二〇一一年十月十三日から十六日までの第五回世界ウチナーンチュ大会が始
まった。
海外からの参加者五三〇〇人、 沖縄セルラースタジアム、沖縄コンベンシ
ョンセンターなどのイベント会場に延べ参加者数入約四十二万人
沖縄のミュージシャンの歌声が、三線が太鼓が鳴り響く。イベントは速弾き
の三線で皆が踊り出すカチャーシーで幕を閉じる。
善久叔父が長男の家族と親族に見守られて十年前に八十四才で天寿を全うし
た。
善豊は八十七だがいつもデイケアに行く行かないと喧嘩しながらも夫婦揃っ
てデイケアに通っているが、善豊は年相応に呆けている。
貴史に吉兼は元気だとミゲルから手紙が届いた。ミゲルにはイタリア系の妻
に一男一女の子供がいる。
次の世界のウチナーチュ大会には家族で参加しようと思っているとのことで
あった。
そして叔父の写真が同封されていた。
カルロス・善兼・宮城、ペルーの日系二世六十六才がペルーで与那町とプリ
ントされたはっぴを平然と何の蟠(わだかま)りもなく着て、大きな合(ね)歓
(むの)木(き)の木陰で安らいでいる一枚の写真である。
きっと沖縄県人会が主催する沖縄祭りの時のものであろう。
善兼は語らないかった、彼のことは今までずっと長男叔父から伝え聞いたも
のだった。
ハポンは受けがいいんですよといつか聞いた金城の言葉が胸をよぎる。
日系の移民のことを調べたことがあった。南米でも、北米でも日系は評価が
高かった、きっと移民で最も評価が高いと貴史は考えた。北米でも南米でも日
系移民は教育を重んじる。移民した人の大多数に学問はなかったが、子供の教
育には熱心であったため、圧倒的に両親よりも教育を受け高学歴が多く、大学
へ行くのも多かった。
南米で大金持ちになり名を轟かしたからと言っても個人が祭り上げられるだ
けで、ハポンの信用とはならない、却って計算高いとか、欲深いだとか見られ
るだけだ。
ペルーでは日系のアルベルト・ケンヤ・フジモリが一九九〇年に大統領に選
ばれ二〇〇〇年まで勤めた。
なぜマイノリティである日系人であるフジモリが選ばれたのか。
それは南米や北米の地元の人たちは黙黙と泣き言を吐かず誠実に仕事を熟す
姿を、正直に生きる姿、多くの日系の人々の生き様を見ていたからである。
それこそが、「日本人は信用できる」と南米、北米の地元の人たちに言わし
めたのだと思った。
貴史は万感の思いで呟いた。
『ペルー日系二世・カルロス・善兼・宮城』
ペルーの三男おじさん
三男おじさんの隠れた力