おひるごはん、どうする?

おひるごはん、どうする?

「唐揚げ定食」――京都市中京区

「おひるごはん、どうする?」
 わたしは隣を歩く同僚の茅場に聞いてみた。彼は額に光らせた汗を袖で拭いながら、考えるような顔をした。
 わたしたちの会社にはクールビズなんてものはない。初夏が訪れたって、わたしも彼もスーツのジャケットを着なくてはならない。移動中はジャケットを脱ぎ、皺にならないように持ち歩くようにし、取引先に入るときに羽織るようにしていた。
 せめて、少しでも涼しく過ごしたいと思い、わたしは普段着用しているパンツスーツからスカートにして、冷感タイプのストッキングを試してみている。それでもやはり、暑かった。
 わたしたちの会社では、スポーツ向けのエナジーゼリーやサプリメントを販売している。スポーツショップだけでなくアウトドアの専門店や、今ではドラッグストアでも販売してもらえるようになった。その会社でわたしたちは営業の業務をしている。
 わたしたち同期二人が京都のエリア担当になってから、それなりの年月が経つ。何度経験しても、この街の夏の暑さには勝てそうになかった。
「吉田は何か食べたいものある?」
「質問を質問で返さないでよ」
「俺、全然思い浮かばない」
「それなら、あそこにしよう」
 わたしは、前方に見える「からあげ食べ放題」の文字を指さした。
 場所は、四条烏丸から裏に入ったあたり。ちょうど、東洞院錦小路を少し上がったあたりで、お昼時なので多くの人の往来があった。その路上に「からあげ食べ放題」の看板が出ていたのだ。
 町家をリノベーションした建物の前には、すでに二組が並んでいた。わたしたちは、そのままその後ろに並んだ。
 わたしたちが並んだすぐ後に、ぞろぞろと列が伸びていった。
「なあ、吉田。けっこう女性も多いんだな」
「むしろ、男はきみくらいしか見当たらないね」
「いるいる、今一番後ろに並んでいるのは男性のお一人様」
「指ささないの」
 男性のお一人様と目が合ってしまったように感じたところで、ちょうどよく店内に入れた。
 わたしたち二人は、入ってすぐのカウンターに案内された。
 カウンターの向こうには、あらゆるお酒のボトルが並んでいた。まさしく、ずらり、だった。
 わたしたちは、メニューを眺めた。
 潔い。メニューはたったの三種類。
 日替わり定食と唐揚げ食べ放題のからあげ定食、そして京野菜のカレーライス。
「おれ、カレーライスとからあげ定食で悩んでいる」
「わたしは唐揚げ定食にするよ。ここのお店のウリになっているみたいだし」
「どうすっかなあ」
 彼が悩んでいるうちに、店員が注文を取りに来てしまった。小柄で可愛らしい女性の店員。わたしよりだいぶ年下だと思う。動物で言い表せば、小型のげっ歯類のような雰囲気がある。
「ええと、わたしは唐揚げ定食」
「あ、おれもそれで」
「飲み物は冷たいお茶を」
「おれはホットコーヒーで」
――コーヒーは食後でよろしいですか?
「あ、はい、食後で」
――唐揚げの数がお選びいただけます。一つ六十グラムの大きな唐揚げで、女性の方なら三、四個。男性なら五個くらいの方が多いですが、いかがいたしましょう?
 わたしは普段、あまり料理しないので鶏肉六十グラムの大きさがわからない。
「すみません、六〇グラムってどれくらいですか?」
 彼女は小さな手を握って拳を作り、「これくらいです」という。
 けっこう大きい唐揚げを、四つも食べられる気がしない。一つ、二つならどうってことない。むしろ物足りない。ここはやっぱり三つかしら。そうね、三つ。
「わたしは三個でお願いします。」
「おれは十個で」
――十個、でよろしいですか? 唐揚げのお替り自由なので、足りなければ後からご注文いただけますが。
 茅場は目を泳がせながら「いいえ、十個でお願いします」といい、それを聞いた店員は厨房へ向かった。
「本当に十個も食べれるの?」
「おれ、唐揚げが一番の好物だし」
「ほかにもおかずがついてるんだよ?」
「え、そうなの?」
 彼は慌ててメニュー表を摘まみ、眉間に皺を寄せて読む。いい加減、度数の合った眼鏡を買えばいいのに、いつまでも度の弱い眼鏡を無理して使っている。彼が睨んでいるように見えたら、それはこちらをよく見ようとしている時なので、悪しからず。
「それにしても、こんな暑い日によく暑いコーヒーなんて飲めるね」
「氷が入ってキンキンの飲み物飲むとお腹痛くなるし、これから行く取引先の冷房めっちゃ強いし」
「お腹弱いって大変だね。で、カレーは良かったの?」
「向こうにいるお客さんの唐揚げ見てたら、食べたくなった」
「だから、指ささないの」
 そう言いながら、彼が指さすほうを見ると、テーブル席で唐揚げを頬張るマダムたちが見えた。マダムの一口が大きいからサイズ感がおかしくなりそうだけれど、さっきの店員の拳よりあきらかに大きな唐揚げの山が見える。あれを三つ。たぶん食べきれるけれど、お米が足りなくなりそうだ。
「ねえ茅場、本当にあんなに食べきれる?」
「ああ」
「どうせ、さっきの店員さんが可愛いから見栄張ってたくさん頼んだんでしょ」
「違うから」
 否定しているけれど、これは図星と見た。
 取引先の担当者が美人だと、すぐ調子に乗る茅場を何度も見てきた。そのたびにこっちはハラハラしてきたし、そのあとに取引先や上司に謝る事態になることもあった。
「食べきれないと、恰好つかないし、自分で食べてよね」
「だから、食べきれるって」
「お腹いっぱいになると、茅場って口数減るよね」
「そうか?」
「次行くところ、この辺りじゃ一番の大口だし、ちゃんとやってもらわないと困る」
「大丈夫だって」
 そう言ったところで、わたしたちの料理が運ばれてきた。
 それを見た途端、茅場の顔色が変わった。
 一つ六〇グラムの唐揚げが十個。これがどういうことなのかを彼は実感したらしい。ごはんもおかずも、おみお付けもある。ざっと、一キロは超えるだろう。
 うず高く積まれた十個の唐揚げは、まるで登山道にある積み石のようだ。わたしの唐揚げは、積み重なることなくお皿に収まっていた。
 目の前に置かれた瞬間から、揚げたての油の香りが漂った。揚げ物の香りに勝るものはないと思うほど、わたしには心地が良い。これを心地よく嗅げるということは、まだわたしにも若さが残っているということだろう。
「いただきます」
 積みあがった唐揚げに衝撃を受けている茅場を放って、わたしは最初の一つに箸を伸ばした。
 一口、かじる。
 揚げたての衣が香ばしい。まだかなり熱くて、肉汁で火傷しそうになる。厚めでしっかりした衣と、中の柔らかで汁気の強いもも肉との組み合わせ。これぞ、まさに。
「マリアージュ」
 わたしは唐揚げを口に含んだまま、ほくほくと言った。
 ようやく、彼も一つ目に手を出した。
「うお、うめえ。ああ、うめえ。米に合うな」
 そうなのだ。肉汁が多いこの唐揚げは、白米との相性が抜群に良い。一口かじった唐揚げは、お皿に戻さずに白米の上に乗せた。衣の油と、肉汁を吸った白米から食べていく。
 箸休めに、副菜たちを頂く。ひじき、切り干し大根、おひたし、お豆腐。副菜だけでもそれなりのボリュームがある。副菜たちのさっぱりさと、唐揚げのガツンとしたジューシーさ、その間で司令塔としてバランス係をする白米。このお盆の上はワンチームなのだ。
 二つ目は日替わりで出されるというポン酢タレをつけて食べる。濃厚な肉汁の旨味を殺すことなく、さりげなくさっぱりと仕事をこなすポン酢タレ。最高のアシスト。日によっては、柚子塩やカレーパウダーなどがあるらしい。どれも気になる。
 わたしたちは黙々と食べ進んだ。
 白米の残りを確認する。できることなら、唐揚げをもう一つ頂きたいくらいの量がある。
 ここは、お替りと洒落込もう。
 わたしはきょろきょろと店員を探す。
「吉田、もしかして、追加注文しようとしてる?」
「うん、美味しいから、もう一つか二つはいけそう」
「それなら、おれのを食べてくれないか」
 彼の皿を見る。ようやく半分を食べ終えて、残るは五個。すでに茅場は苦しそうな顔をしていた。
「え、きみ、たったのそれだけしか食べられないの?」
「いけると思ったんやけど、たぶん、暑さにやられた」
「言い訳でしょ、そんなの」
 わたしは彼の情けなさを彼に実感させるような小言を並べながら、二つの唐揚げをひったくった。
 大振りな唐揚げは、これほど時間がたっても、一口噛めば熱い肉汁が流れ出る。プレーンな唐揚げも、ポン酢タレもどちらもいい。どちらもいいから、奇数だとどちらにするか悩む。ましてや、最後の一つはどちらで食べようか決められない。
 悩みに悩んで、最後の一つはプレーンで食べた。
 でも。
 でも!
 やっぱりポン酢タレが捨てがたい!
 わたしがひったくった分を食べきる間に、茅場はようやく一つを食べた。わたしは容赦なく、もう一つをくすねた。
「あ、待って、勝手にとるなよ」
「いいでしょ、どうせ食べきれないだろうし」
「あげると言って譲るのと、勝手に盗られるのとじゃ、気分が違うやろ」
「じゃあ、さっきとり忘れた分もらうね。はい、ありがとう」
「ちょっと、おい、こら」
 わたしは素早くポン酢タレにつけて、その一つを平らげた。
 そうして、彼は最後の一つを苦しそうに流し込んだ。結局、わたしは六個、茅場は七個を胃袋に収めたのだが。
「いわんこっちゃない。全然食べれてない」
「だから、ここんとこ急に暑くなったから食欲が」
「はいはい。並んでいる人もいるし、もうお店を出よう」
 これ一食で九百円なり。
 大満足の九百円の使い方。今日も午後から頑張れる、素敵なおひるごはん。お金を払えばこんなに美味しいものでお腹いっぱいになるのだから、やっぱりわたしは料理ができなくても良いのだ。
 明日のおひるは何食べようかしら。
 そんなことを考え、重たくなったお腹でわたしたちは次の取引先へ向かった。

「餃子の定食」――京都市下京区

「おひるごはん、どうする?」
 わたしと同僚の茅場は、滴る汗を拭うことを諦め、垂れ流しにして歩いていた。
 わたしたちは、スポーツ向けのエナジーゼリーやサプリメントの販売をする会社で営業の部署に属し、京都市内を担当している。
 今日も朝から四条通り沿いの取引先へ新商品の試供品を届けたところだ。宵山を迎えた四条通り界隈は、人がごった返す。これをかき分けて取引先に行くのは骨が折れた。
 午後のアポイントメントまで時間はたっぷりあるので、昼食をとることにした。
 四条通り沿いなら探さなくても飲食店が目に入る。
 今いる四条烏丸から河原町方面へ向かってインディアンオムライスを食べるのもいい。そこまで行けば狸小路のカレー屋、という手もある。西へ向かって、キラメいているチキンスープのラーメン、いや、まぜそばが食べたい気持ちにもなる。
 決められない!
「茅場、なんか言ってよ」
「俺は、こっちにうまい店がある予感がする」
 そう言って、茅場は四条通りを西進し、西洞院通りを下がり始めた。
 ところが、四条通りの喧騒が遠ざかっても、わたしたちの食欲を刺激する飲食店は現れなかった。
 綾小路通りを越え、仏光寺通りも越え、ようやく高辻通り沿いに気になる提灯を見つけた。
「なあ、吉田」
「わかってる」
 わたしたちは言葉少なめに意思を疎通し、提灯へ向けて歩みを進めた。
 軒先に吊られた白く丸い提灯には、達筆な文字で「ぎょうざ」と記されている。
 外まで垂れ流された匂いにつられ、わたしたちは目くばせだけして入店した。
 わたしたちは、入り口そばの二人掛けのテーブルに通され、メニューに目を落とす。
「潔いね」
「餃子専門なんやな」
 定食メニューは一つだけ。餃子二人前、ごはん、お味噌汁、お漬物がセットになった定食。「餃子定食」でも「餃子セット」でもなく、「定食」とだけ書かれている。
 他のメニューは、単品の餃子やライスやお味噌汁と、つまみ数品と飲料の類。それと、テイクアウト用の餃子。以上。
 そういうわけで、ランチに食べるものはおのずと決まる。
 そろって定食を注文した。
「けっこう、女性のお一人様も多いんだな」
「指ささないの」
 入店客のほとんどが、仕事のお昼休憩、という雰囲気だった。作業着の人もいるし、商業施設の名札を付けている人も、わたしたちのようにスーツ姿の人もいる。皆、お一人様か二人組で入店していた。
 人間観察をしていると、わたしたちの定食が運ばれてきた。
 二人前。十二個の餃子とライスとお味噌汁、それとお漬物はきゅうりと茄子。
「はい、きゅうりもらうね」
「ありがとう、茄子は俺が食う」
 長くコンビで仕事をしていると、お互いの好き嫌いがわかる。わたしは茄子が苦手だし、茅場は生じゃないときゅうりが食べられない。
 漬物のトレードを終え、無言でタレを小皿に入れ、茅場に差し出す。
 茅場はラー油の壺を片手に「おや?」という顔をしていた。
「けっこう辛いと思うからやめておけば?」
「そうじゃなくて、これ、なんだと思う?」
 彼はさじで黒いナニカを取り出した。
 一センチ四方くらいで、厚みは一ミリくらいだろうか。黒。だけど、少し青みがかって見える。
「昆布?」
「あ、ここに書いてあった」
 彼は調味料トレイに置かれた案内を指さした。
「やっぱり昆布だね」
「昆布って、合うんかな」
「入れてみれば?」
「辛いかもしれへん」
「なら、やめたらいいじゃない」
「でも、気になる」
 うじうじと女々しい茅場から、ラー油をひったくって自分の小皿に入れた。
「わたしのタレで試してみたらいいから。早く食べよう、お腹空いた」
「ほんと、吉田って男勝りだよな」
「うるさい。黙って食え」
 わたしのこころも口も、もう餃子なのだ。茅場とくだらないことを言い合っている時間なんて、一秒もない。
 一つの餃子をタレにちょこんとつける。
 いざ。
 一口。肉と野菜のうまみが凝縮された汁が口の中に溢れる。ほのかで優しい甘みとコクを感じる。餃子特有のジャンキーさと、和食のような奥深さを併せ持つ餃子。
 昆布のうまみが染み出したラー油も絶品。餃子の奥深さを支える、縁の下の力持ち。
「ラー油、そんなに辛くないし、つけてみな」
「おう」
 彼は、どぶん、とタレに餃子を浸す。垂れるタレを白米で受け止めて、ワンバウンドさせてから一口で頬張る。
「ほ、あつい、ほ、ほ、うめ、うめえ」
 御託を並べなくとも、彼の頬張る姿で伝わるでしょうか。
 これは、テイクアウトセットも買って帰ろう。
 そう思って先ほどのメニューに目を移すと、うまさの答えが書かれていた。
「味噌、入ってるって」
 この餃子には、老舗の味噌が使われているという。甘さやコクの秘訣。
 一つの餃子で、ごはんがすすむ。お替りは確定。
 味噌の風味をしっかりと感じたくて、二つ目はタレを付けずに食べてみた。良い意味で餃子らしくない味わいをダイレクトに感じる。一つ目よりも素材と味噌の持つ甘さを感じる。タレがなくても美味しいのに、昆布入りのラー油が恋しくなって、三つめはやはりタレを付けた。
 その三つ目を口に運ぶ前に、気になる調味料を見つけた。黒い粉のようだ。香りを嗅いでみる。山椒の聞いた香ばしさがあった。これは、たぶん黒七味。
 黒七味をハラリと振りかけ、口に運んだ。品のある黒七味の香りで、さらに雅な餃子になった。

 どうしよう、またさらに美味しくなっちゃった。

 いけない、いけない。餃子とごはんばかりじゃなくて、お味噌汁もバランス良く食べなきゃ。
 お味噌汁を箸でかき混ぜて、違和感を覚えた。
 浮いている具は、どれもみじん切りになっている。キャベツ。ネギ。ひき肉。
 何かが頭に過ったけれど、それを追いかける前に手が動いていた。
 お味噌汁をすする。
「!」
 頭に過った何かが引き返してくる。お味噌汁の具が一体、何なのか。キャベツ、ネギ、ひき肉。
 全部、餃子の具じゃない。
 わたしの持つみそ汁のイメージが覆される瞬間だった。
 優しい家庭料理?
 いやいや、これは、お味噌汁の皮をかぶった、まったく別の物。名づけるなら、「餃子スープ」
 味噌と出汁の柔らかい味わいの中に、『あの』パンチの効いた具材たちが主張をする。カミナリお父さんと柔和なお母さんのような、これぞ、まさに。

「マリアージュ」

 餃子にしては和食のようにマイルドな餃子と、お味噌汁のくせにパンチが効いたお味噌汁。一つのランチ盆の中で保たれるバランス。
 試しに、お味噌汁に黒七味をハラリしてみた。美味しいという言葉では、追いつかなかった。
 それからわたしたち二人は、一言も発さずに定食を平らげた。そろってライスをお替りした。二人前の餃子を余すことなく味わうには、一杯のごはんでは足りなかった、足りるわけがなかった。
 もしくは、ここにビールがあっても良い。茅場と仕事終わりに飲みに行くときは、四条大宮にある有名チェーンの餃子を食べることが多かった。(ちなみに、茅場はほとんど呑めない)
 でも、今後しばらくは、ここの餃子以外食べられない。それほどに、この餃子はわたしのストライクゾーンにズバッと決まったのだ。
 辛いものが苦手な茅場も黒七味と餃子のコンビネーションにご満悦の様子だった。
 二人前の餃子がついて、八九〇円。満足を越えた満足のランチ。
 もちろん、わたしはテイクアウトセットを十人前購入した。昆布入りのラー油も購入した。これで数日分の夕飯は手を抜いて美味しいものが食べられる。テイクアウト、万歳。

   ◇

「こんな暑い日に冷凍の餃子持って取引先に行ったら、溶けて腐っちゃうかしら」
「ネットでも買えるって書いてあったから、それで買えば良かったんちゃう?」
 なんでそれを先に言ってくれないかなあ。

「オムカレー」――京都市上京区

「おひるごはん、どうする?」
 今日も同僚の茅場とふたりで、担当エリアの営業周りをしている。スポーツ向けエナジーゼリーやサプリメントを販売するわたしたちは、新商品の試食品を携えて京都市は西陣の界隈までやってきた。今出川大宮のバス停で駅まで戻るバスの時刻を調べていると、目当てのバスが接近していることを示すマークが灯った。
「今から会社に戻ったら、昼飯食えるの遅くなるし、この辺で食って行こうぜ」
 確かに、今から出町柳駅へ出て京阪電車で北浜の営業所まで戻ったら、おひるごはんにありつけるのは三時くらいになってしまう。
「じゃあこの辺で食べるとして、茅場の嗅覚はなんて言ってるの?」
「マスクしたままじゃわかんねえや。ちょっと外す」
 今年の初めごろから世界で猛威を振るい始めた新型ウイルスによる感染症の波は、わたしたちの生活を大きく変えた。一時期と比べると、この国では落ち着いたように見え、こうしてわたしたちも営業まわりを再開した。
 マスクが手放せない生活。いつまで続くのだろう。
 この時期のマスクは暑くて蒸れるし、マスクの縁にファンデーションがついて手洗いを余儀なくされるし、何よりも「いつ終わるのだろう」という不安な心で落ち着かない。
「そういえば、吉田のそのマスクって自分で作ったもんなの?」
「ああ、これね。うちの弟が急に作ったやつをもらった。ミシンの使い方なんて知らないくせによく頑張ったよ」
「姉弟が仲良いのは良いことだ。うちとは大違い」
「甘やかされて育った弟だけどね。で、茅場の嗅覚レーダーはなんだって?」
 彼は一本の通りを指さす。大宮通り。茅場はまっすぐと良い姿勢で北を示した。
 この通りのこれより北へは、取引先がないので行ったことがない。何か飲食店があるようにも見えない。たぶん、取引先がないから行ったことがないわけではない。わたしの行動における原動力は、美味しいごはん。
「本当にこっちにあるの? 飲食店のあるような通りに見えないよ、北行きの一方通行だし」
「間違いない。俺の嗅覚がそう言っている」
 鼻が何かを言う、というのはなんだか妙な表現だ。
 こんなところで時間を食われてごはんが食べられないくらいなら、バスで出町柳駅まで出て何かを食べたらいいのではないかという提案をわたしが口にする前に茅場はずんずんと進み始めてしまった。
 大宮通を上がり始めて、すぐ。
「な、あったやろ」
「うん、あった。いい匂い」
 昭和レトロな建物に、浅黄色の暖簾がかかる。扉も窓も閉じられているのに、絶え間なく漏れ出す珈琲の香り。
 こういう喫茶店のランチが美味しい。
 けれど。
 喫茶店のランチは総じて物足りない!
 そんじょそこらのヘルシー志向な小食小動物系あざと女子ならまだしも、わたしは滝汗を流して足で稼ぐようなOL。唐揚げ、餃子、ラーメン万歳。食生活が男子大学生と言われるようなわたしの胃袋満足させられるようなメニューがあるとは思えない。
「ねえ茅場。喫茶店ランチってくちじゃない。汗もかいたし、がっつりいきたいんだけれど」
「吉田、お前気付かないのか。かすかに、スパイシーな香りが漏れ出してきているだろ」
 マスクをしているとわからないので、はずす。外してもわからない。けれど、スパイシーと言われると急激に胃袋が動き始めた。
 そのまま入店。奥のテーブル席に通された。
 壁には無数のレコード。流れているのはビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」。ポコポコとしたサイフォンの音と相まって、落ち着く空間。
 手際よくサイフォンを操る坊主頭のマスターと、若い女性スタッフが一人。
「なあ、あれって親子かな」
「やめて、指ささないの。わたしも、マスターと店員さんの顔が似ているなあとは思ったけれど、たぶん違うでしょ」
 茅場の指さし癖をなんとかしないと、なんだかいつか恥をかきそう。
 店内をぐるぐると見まわしながらメニュー表を開いたわたしたちは、開いた瞬間に示し合わせたように注文を決めた。

 運ばれてきたソレから立ち上る湯気を、余すことなく吸い込みたい。胃袋が急激に動いて、唾液が一気に分泌されて顎がキュっとする。
「オムライスとカレーをいっぺんに食べられるなんて、すげえよ。どっちも俺の一番好きな料理」
「茅場って、何食べても一番好きって言ってない?」
「全部同率で一位」
「女ったらしみたい」
 なんてごちゃごちゃ言っている時間がもったいない。こうしている間にも、食欲をそそる湯気は、絶えることなく湧き出ている。
 わたしたちが頼んだのは、オムライスにカレーがかかった、好きな物の融合体。ずるい組み合わせ。
 まずはルーをすする。
 さらっとしているのに、肉や野菜の旨味がそこにいる。固形の具なんてほとんどないのに、具たちが主張してくる。辛すぎることなく、辛いものが苦手な茅場でも食べられるカレーだ。スパイスの爽やかな辛さで、さらさらと口に運びたくなる。カレーって、本当に飲み物かもしれない。
 わたしがルーを飲み進めている最中、茅場はあろうことかオムライスとカレーの瀬戸際から一口目を頬張った。
「すげー、なんだこれ、うめえ、このオムライス、なんだ、うめえ」
「美味しいのはわかったから、口に入れたまま喋らないでよ」
「吉田もはやく食えって、うめえから」
「口を開けるな、黙って食え」
 茅場が黙ったところで、わたしも波打ち際にスプーンを突き立てた。外はしっかり目、中は柔らかい卵が切り離され、ライスに向けてカレーが流れ込む。
 たっぷりカレーを付けて、改めての一口目を頂く。
「え!」
「なんやねん、吉田だって口に入れたまま喋ってるやん」
 違う、違うんだ茅場、という想いで右手のひらを茅場の眼前に、左手のひらを自身の口にかざした。
「これ、普通のオムライスじゃないよ」
「ああ、なんか入ってるよな」
 入っている、というよりも、これはピラフだ。ピラフのオムライスにカレーをかけるなんて、贅沢すぎる。
 今までやったことがないような組み合わせ。これぞ、まさに。

「マリアージュ」

 いやいや、待った。オムライスをピラフにした時点できっとそれはマリアージュなので、そこにカレーをかけたら、それは三角関係になっちゃうんじゃないか。それはちょっとドロドロと複雑な気もするけれど、料理は美味しいことが正義。美味しければ、それでいい。
 ピラフとカレーだけ掬って食べたり、卵とカレーだけ口にしてみたり、偏った食べ方をしてみた。もう全ての組み合わせが絶妙に感じられ、これは相当こじらせた三角関係らしい。
 料理の三角関係の味を知ったわたしは、こんなに贅沢な組み合わせで、一体いくらなんだろうとメニューを開いて見てみた。オムカレー八五〇円のそばに、大切なことが書いてあった。
「ピラフのオムライスって書いてあった」
「そうなんや、メニュー表見たの一瞬過ぎてわからなかった」

 メニューを見たのも一瞬、食べ終わるまでも一瞬。

 喫茶店ランチと侮ることなかれ。大きな皿に「でん!」と横たえたオムライスやカレー、ピラフの織り成すボリューム感。がっつり食べたい系女子(まだ自分のことを女子って言う)のわたしだってお腹いっぱいになれた。
 今日も満足のおひるごはん。八五〇円で買える、幸せと仕事へのモチベーション。これだから外出できる営業部署はやめられない。明日も取引先へ行く予定がある。次のおひるごはんは、どうしよう。明日は何を食べられるかしら。
 わたしたちは食後にサイフォンで淹れた珈琲を嗜んで、職場への帰路についた。

   ◇

「ところで、茅場の中でピラフは何番目?」
「一位だな」
「あっそ」

「唐揚げ定食こってり大盛り」――京都市中京区

「おひるごはん、どうする?」
 一通りの営業周りも済ませたわたしと茅場は、阪急河原町駅を目指して新京極通りを下がっていた。朝晩は冷え込む九月の終わりでも、昼間は半袖の通行人ばかり。わたしたちもご多分に漏れず、秋空の下でクールビズを継続中。
 わたしたちは、スポーツ向けのゼリーやサプリメントを販売する会社で営業マンとして勤めている。茅場とわたしは同期であり、同じエリアを担当するコンビ。週のほとんどはドラッグストアやアウトドア専門店への営業周りをしており、ほとんど毎日、二人で昼食をとっている。
「次のアポまであんまり時間ないし、ちゃっちゃと食えるもんにしようや」
「その提案には賛成。わたし、ラーメン食べたい」
「奇遇やな、俺も吉田と同じことを考えてたし」
 京都出身の茅場が言う「ラーメン」と言えば、一つしかない。わたしたちはその定番ラーメン店を目指して進む。錦天満宮を越えた次の路地を左に入った。
 おしゃれなカフェが視界に入る。でも、ここじゃない。おしゃれなカフェのランチで、胃袋お化けのわたしたち同期コンビを満足させられる代物なんて限られているのだ。今はとにかく、お腹すいた。次のアポだってある。手っ取り早く、なおかつ美味しくお腹と心を満たしたい。
 そうして、左手に見えた半地下のラーメン店へ足を踏み入れた。
 小汚い店構え。ぬるぬると滑る床。動かせないタイプの椅子。なのに、なんでこんなにこころが躍るのだろう。
 わたしたち二人は、湿った熱気のある店内で、カウンター席に並んで座った。
「吉田って、なんかすごいよな」
「なにがよ」
「女子が来るタイプの店じゃないだろ、ここ」
「あんたよりよっぽど板についてると思うけど」
 こんなに汚くても、全国的に有名なラーメン店だ。北は北海道から南はハワイまで、津々浦々に展開する超有名チェーンのひとつ。わたしたちが把握する限りでは、店内が汚いのはここの店舗だけで、他の店舗はとても衛生的に整えられている。
 そんな天下一おいしいとされるラーメンチェーンは、京都人のソウルフード。茅場とコンビを組んだばかりの頃は、お互いの食の好みもわからなかったので、週に九回はこのチェーンへ足を運んでいた。
 その中でも、とりわけわたしたちが好きなのが、この店舗なのだ。店員のおばちゃん、失敬、女性の方の愛想は決して良いとは言えないし、店構えもこんななのに、ここに通うだけの理由がある。
「いつものやつだろ?」
「当たり前だ、わたしを誰だと思っている」
「吉田」
「よろしい」
 この店でカウンターを選ぶと、茅場との距離が近くて暑苦しい。半袖の季節は素肌が触れるほどの距離になるので、甚だ不快。だけれど、椅子が動かないこの店舗では、テーブル席よりもカウンター席の方が圧倒的に食べやすいのだ。
「吉田、暑い。もっと離れろよ」
「うるさい、あんたが痩せればいい」
「痩せられるなんて、一ミリも思っていない俺は、カラテイこってり大盛かな」
「わたしも、同じやつ、ライスも大盛で」
 ちょうど、わたしと同じかそれより若い女性客と男性客のアベックが入店した。どうせ半ラーメンとかで小食アピールするか、「もう食べられないから食べてよお」なんて甘ったれたことを言うんだろうな。食べ方は人それぞれだけれど、わたしは苦手なタイプ。
「あの人、どうせ半ラーメンだぜ」
「指ささないの。狭い店内なんだから、本当にやめてよ」
 ひそひそと小言を並べ始めたところで、本日のおひるごはんが目の前に現れた。唐揚げ定食こってりラーメン大盛ライス大盛。わたしの胃袋は、半ラーメン程度じゃ満たされないのだ。
 いつものようにスープから勢いよくすする。どろっとした濃厚なスープは、どの店舗でも変わらぬ美味しさがある。スープだけでごはんが進む。うめえなあもう。いつ来てもやわやわに炊かれたライスの甘さと相まって、美味の相乗効果が発揮されていた。
 麺をすすりつつ、ライスを掻き込む。時折つまむのは唐揚げ。衣がピリ辛なのに、ほのかな甘さもあって、それがまた米を進ませる。
 しかし、これらは他の店舗でも味わえる幸せなのだ。
 わたしは我慢ができず、カウンターに置かれた小瓶に手を伸ばした。
 わたしはこれを味わうためにここへ来たのだ。
 京都の限られた店舗にしかない、魅惑の小瓶。わたしが把握している限りでは、一乗寺の本店と、知恩院前の店舗にしか置かれていない。
 手にした小瓶の蓋を開け、ソレを小さなトングで摘まみ、どんぶりへ落とした。
「え、もう壺ニラ行くんか」
「うん。だってわたし、これが食べたくて通ってるし」
 それは知る人ぞ知るトッピング。この、ニラの辛子漬けを『壺ニラ』と呼ぶ。
 これでもか、という量の壺ニラをどんぶりに沈め、残りの麺をすする。ジャンキーな味と、強烈なニオイ。これがたまらない。
 あっという間に麺は姿を消した。あんまり勢いよく食べたからワイシャツに飛び散っていないか心配になったけれど、そんなのご無用。わたしはラーメンをすすっても汁飛びさせないプロかもしれない。
 麺がいなくなったどんぶりから、パンチが効いたスープをライスに掛ける。ひたひたになったライスに、さらに壺ニラを添えた。
 〆はやっぱりこれ。
 レンゲで一口食べ、添えたニラも口に含む。
 汁を吸って膨れた米の優しい甘さに負けない濃厚なスープを追い越す壺ニラのパンチ。それらは闘うことなく、味蕾を刺激する。これぞ、まさに。

 「マリアージュ」

 ライスは万能の食べ物かもしれない。食べきられてしまった麺の後を引き継いだライスは、その役目を充分すぎるほど全うする。そこで力を見せつける壺ニラの存在。しかし、ライスと壺ニラだけでは成し得ない。中軸の要として支えるこってりスープがあってこその、この幸福が生み出される。
 要するに、天下一おいしいラーメンチェーンの唐揚げ定食に壺ニラを足すことで最強の布陣が完成するのだ。
 これが食べられるのは京都のごく限られた店舗だけ。この味を知らない人たちを憐れむ気持ちが沸き上がった。だけど、誰にも教えたくないような気持ちも生まれる。
「俺はどうしようかな」
「なにが」
「この後だってアポ入っているし、ニラはヤバいやろ」
「なに言ってんのよ、男のあんたが。何しに来たのよ本当に」
 わたしは彼の手から小瓶をひったくり、ニラをごそっと摘まんで彼のどんぶりへ投下した。
「つべこべ言わず、美味しいものを美味しいと思って食べたらいいの」
「マスクが必要なご時世で良かったよ、まじで」
「マスクあるんだから気にしないで食べちゃいなよ」
「それがさ」
「また食べきれないんじゃないでしょうね」
 小さく頷く茅場。
 呆れた。自分で大盛にしたラーメンも定食のライスも中途半端に食べている。唐揚げは綺麗に食べきっていた。唐揚げ、好きだもんね。
 茅場の食べ残しをひったくる。実は、もう少し。もう少しだけで良いから壺ニラが食べたかった。そのためには、ラーメンもスープもライスも必要だったのだ。
 小瓶から壺ニラを摘まみ入れる。ラーメンもライスも残さず食べきった。二度目の幸福。
 今日もこうやって美味しいおひるごはんが食べられた。唐揚げ定食は八五〇円。ライスの大盛とラーメンの大盛がそれぞれ五〇円と一〇〇円。合計一〇〇〇円の至福。炭水化物と炭水化物の夢のコラボレーションというだけでも幸せでお腹が満たされるのに、そこに切り込む壺ニラの存在。
 明日もここでいいな。ちょうど、明日もこのあたりの店舗さんへ足を運ぶ予定だし。
 人と会うような仕事なのに、こんなに強いニオイのものを食べてもいいのかと思う。間違いなく、わたしのおひるごはんライフはマスクに救われているのだ。早く、未曽有の感染症が落ち着いて欲しいと願う反面、落ち着いてもマスクをつける生活がスタンダードであってほしいと思わずにいられない。
 感染症の影響で、多くの飲食店が休業を余儀なくされた。わたしのお気に入りの飲食店の中には、廃業という決断をした店もある。
 世間が平和になって、自由に美味しいものを美味しいと言って食べられる日々が、早く戻ってきてほしいです。

「インディアン」――京都市中京区

「おひるごはん、どうする?」
 わたしは、同僚の茅場と二人で寒風が吹き抜ける河原町の界隈を歩いていた。本社がある大阪・北浜とは比べ物にならない寒さ。悪名高い京都の盆地的気候には、まだ慣れない。このエリア担当になってから、幾度も洛中の冬を経験してきたのに、次の冬にはその感覚を身体が簡単に忘れてしまう。
 今日は、いくつかの取引先への新年の挨拶も済ませたところ。茅場と二人で京都市内のエリア担当になってから、多くの取引先を得た。挨拶周りをするだけでも、恐ろしいくらいの日数を要する。午後からは新規顧客への訪問予定がある。先方から取引の相談を持ち掛けられての商談なので、確定と思っていいだろうけれど、ここは腹ごしらえをする必要がある。商談とは戦いなのだ。腹が減ってはなんとか、って言うじゃない?
「久しぶりに、あれ、行ってみないか? 吉田、あれ好きだったろ」
 あれ、と言われても、頭の中には無数のアレが出てくる。わたしが思いつくようなアレは、四条烏丸のアレだって、出町柳のアレだって、西陣のアレだってそう。この界隈だって、キラメくチキンスープのアレも、汚ねえ店構えなのに美味しいアレもある。一体、茅場はどの『アレ』のことを指しているのだろう。
 彼とコンビでこのエリアを担当するようになって久しい。平日はほとんど毎日、ともに昼食をとっている。お互いの食べ方も好き嫌いも把握しているというのに、今は無数のアレが頭に浮かぶ。本音を言うと、どれもわたしが食べたいと思っているものたち。
「俺があれって言えば、これしかないやろ」
 茅場が指さした先には、地下に降りる階段。
 場所は、寺町通り商店街の、四条通り側の入り口。そこに地下へ通ずる道があると知らなければ、気づかずに商店街へと足を踏み入れてしまいかねない。それゆえ、知る人ぞ知る名店。以前、友人にこの店を教えてあげたところ、迷ってしまったと言っていたので『迷店』かも?
 狭い階段を通って地下へ降り、店の扉を開ける。暖かな印象のある照明に包まれた店内で、奥の席へ通されて着席。レトロで落ち着いた店構えとは対照的に、客足が途絶えず、混み合って賑やかだった。寒い屋外からここへ踏み入り、その温かさに身体がふやけそう。外との寒暖差で茅場の眼鏡が曇っていて、そのことに触れて欲しいという顔をしているので絶対にその話はしない。間違っても「曇っているよ」なんて言わない。
 この店でのお目当ては、一つしかない。
「インディアンオムライス、二つで」
 悩むことなく、注文した。メニュー表なんて、見る必要がない。
 店員は、調理をする中年男性と、注文を取ったり下膳をしたりする中年の女性が一人。昼食時で満席に近い店を二人で切り盛りしていた。
「なあ、吉田。あの二人って、夫婦なんかな?」
「指ささないの」
 彼が店員さん二人を見てそう言うので、すかさず彼の指をへし折ってやった。本当に折れてしまっては傷害事件になるので、痛いという顔をしたら解放してあげた。ちなみに、彼の眼鏡はまだ曇っている。わたしは、触れない。
 混んでいるので、提供までにそこそこの時間を要する。この待ち時間。待ち遠しい。「旅行は準備している時間が楽しい」とか「恋愛は追っている間が幸せ」なんて言う人がいるけれど、おひるごはんはそんなことない。待っている時間は、ただただ待ち遠しく、食べている時間が一番幸福なのだ。
 この街の冬の寒さを身体が忘れてしまっても、美味しい店のことは身体とこころが覚えている。空腹も相まって、うずうずと、無意味に身体を揺らしてしまう。小学生の頃の遠足前夜だって、こんなにこころが躍ったことはなかったと思う。
 隣の席では、スーツを着たお一人様の男性がインディアンオムライスを頬張る。その向こうでは、大学生くらいのカップルがおしぼりアートをしているところに、インディアンオムライスが提供された。着々とまわりの席へ提供されていく無数のインディアンオムライス。甘美な響き、インディアンオムライス。
 ようやくわたしたちのインディアンオムライスが到着。普段はすぐに食べ始めてしまうのだけれど、久しぶりにこの店へ訪れた喜びで、思わず写真を撮ってしまった。別にSNSに投稿しようとか、そういうつもりはない。ランチ自慢するとか、「映え」を狙っているとか、そういう魂胆はわたしには皆無。なお、彼の眼鏡は、まだまだ曇っている。たぶん、意図的に曇らせている。だから、絶対にその話題にはしない。
 しっかり目で薄く焼かれたタマゴの上にさらっとかけられたデミグラスソース。センターに鎮座するタルタルソースがこの料理の個性を表している。
 これが、この店のオムライスです。
 いや、これだけではないのです。
 この料理の神髄は、一口食べればわかる。
 わたしは、すぐさま食べ始めた茅場に遅れてスプーンを手にする。いざ。
 見た目どおりの硬さのタマゴをスプーンで切り、デミグラスソースと一緒にすくって口に運ぶ。食べる瞬間には、鼻腔を刺激するスパイシーな刺激。口に入れてから広がるカレーの香り。
 そう、このオムライスの中身は、カレーピラフ。しかも、具だくさんで、ゴロッゴロ。人参や玉ねぎ、キノコだって入っている。食べ応え◎。タマゴとデミグラスソースとカレーピラフの絶妙な組み合わせ。甘さも辛さも、一つになって舌を転がる。一つ一つの味が個々で戦っているのではない、まじりあって一つになってわたしに幸せを与える。
 しかし、このオムライスの楽しみはこれだけではない。
 ちょうど半分まで食べたわたしは、次なる一手を打つ。
 センターに乗せられたタルタルソースを、タマゴの上でのばす。デミグラスソースとタルタルソースが不規則なマーブル模様を描く。今度はタルタルソースも一緒に頂くのだ。
 そうそう、これこれ。他では味わえない、魅惑のハーモニー。これぞ、まさに。

「マリアージュ」

 言わずにはいられなかった。
 甘さと辛さに足されるタルタルソースの酸味。一つになって口いっぱいに広がる。さっぱりとした味わいに変化し、いくらでも食べられるような気持にだってなる。それくらい、この上ない組み合わせなのだ。
 この変化を楽しむわたしとは対照的なのが、茅場の食べ方。
 彼は最初っからタルタルソースを全体に引き延ばして食べる。マーブル模様が消えて、完全に混ざり合うくらい、スプーンで撫で続けるのだ。マイルドな酸味が最後まで続く。このお皿の上では、わたしたちは自由なのだ。もちろん、向こうのカップルみたいに、彼女のタルタルソースを彼氏が全部食べてあげたっていいし、彼氏のキノコを彼女が食べてあげたっていい。
 今回は、珍しく茅場が先に食べきった。それもそのはず。「男性サイズ」をわたしが、「女性サイズ」を彼が食べていたのだから。見た目で判断されてしまいがちなわたしたち。女性だってたくさん食べるし、小食な男性だっています。誰がどれくらい食べるか、それも自由。見た目や性別に縛られないことも自由。
 でも、彼が大柄な男のくせに小食なおかげで、今日も満足のおひるごはん。これで六百円。コストパフォーマンスも◎。
 手作りのお弁当女子? いやいや。
 カフェでごはん食べたガール? いやいや。
 お手頃価格で満腹の幸せになれるおひるごはんを、明日も食べたい。
 幸せにくるみ込まれて、取引先へと向かった。

   ◇

「なあ、俺、さっきさ、めちゃくちゃ眼鏡曇ってなかった?」
 わたしが触れないでいると、自分から言ってくる。
 子供か!

「シチュー」――京都市中京区

「おひるごはん、どうする?」
 わたしは三条名店街のアーケードを歩きながら、隣を歩く同僚の茅場に尋ねた。茅場センサーが反応しているらしく、彼は「ついてこい」と言わんばかりにずんずんと進む。
「こっちだ」
 茅場は素っ気なく言う。
 彼もわたしも、大阪にある企業で営業の仕事をしている。京都市内がわたしたち二人の担当のエリアだったが、取引先の増加に伴い、最近になって京都駅より北に限定された。
 アーケードもそろそろ終わりに差し掛かる。巨大なカニが現れる。あんまりに大きなカニは、人間に食われるのではなく、逆に人間を食いそうな目でわたしたちを見下ろしているようだ。きっと、道楽で人を喰らうに違いない。
 なおも彼は無言で進む。いつもなら、わたしが聞いていようがいまいが、無駄話を満開にするというのに。今日は朝からちょっと素っ気ない。だけど、怒っているというわけではなさそうで、きっとこじらせた風邪がつらくなってきた頃なのだと思う。
「ねえ、茅場、どっか入っちゃわない?」
「もう着く」
 彼はずびーっと鼻をすすりながら答えた。音が不快なので、ポケットティッシュをあげたら、目まぐるしく消費していった。ちなみに、彼は彼で、箱ティッシュをカバンに常備しているらしい。なら、返せ。
 彼が「もう着く」と言ってから、そこそこ歩いた。わたしと彼の「もう着く」の感覚は一致していないらしい。一致しているのは、食の趣味くらい。
 そうして到着した店は、町屋を改築した飲食店だ。入り口には「ランチはじめました」と墨書きされていた。
 店内はお座敷になっていて、靴を脱いであがる。
 いつもならパンツスーツスタイルのわたし。服装よりもランチにお金をかけたいわたしは、パンツスーツは二着しか持っていない。一着をクリーニングに出しているタイミングでもう一着のスーツにカレーをこぼしてしまい、今日は仕方なく学生時代に使っていたスカートで出勤した。
 スカートの時のお座敷は座りにくいんだよなあ、茅場は気が利かないなあと思っていたが、着席して安心した。
 ここは全席、掘りごたつなのだ。
 これなら気にせず座れる。
 意外と気が利くのか、それとも、ただの偶然か。答えは茅場のみぞ知る。
 メニューに目を通す。ランチメニューは潔い。店の外の墨書きでも「名物」と謳われていた「シチューランチ」を頼もうとして、止まった。
 一八〇〇円。
 これは、審議が必要だ。ランチは一〇〇〇円未満で済ませたい。「安い」「うまい」「おなかいっぱい」が、ランチの満足度に直結する。一つ目の「安い」を諦めずに一〇〇〇円未満に済ませるなら、もう一つの九〇〇円のランチか。
 だけど、それじゃあ「名物」のシチューが食べられないじゃない。
 ぐぬぬ。
「吉田も同じのでいいよな?」
「待って、同じのって、茅場は何を頼むの?」
「シチューランチ。一択だろ」
 彼ははっきりと言い切った。シチューランチの一択。ならば、わたしも、シチューランチにしよう。何日間か、夜のビールを我慢すればいいだけだもの。
 それにしても、ここはなんだか。
「OL、多いね」
「吉田だってOLっちゃあ、OLだろ」
 そうなのだけど、なんとなく毛色の違いを感じる。いつかにカフェランチで感じた「キラキラOL」の洗礼のようだ。わたしのような「ラーメン定食ごはん大盛でおなかいっぱいにしたい」というガッツリ系女子とは、住む世界が違う生き物ばかり。
「だけど、ほらあの人も、あの人も、なんかわたしとは違うタイプのOLじゃない」
「おい、吉田、指さすなよ。いつも俺に言ってるくせに」
 わたしとしたことが、あんまりにも居心地が悪くて、他のお客さんを指さししてしまった。失礼しました。
 OLの多さに落ち着かず、店内をぐるぐると見回す。天井が高くて、ロフト空間が見える。時々、ちらっと人が覗いていた。店内の張り紙によれば、あの空間は二十名から貸し切りが利用ができるらしい。ランチがこんなに高価なお店の貸し切りとは、一体何を行うのだろうか。誕生日パーティ、とかかな。
 そういえば、茅場の誕生日がいつなのか知らない。こんなに何年もコンビで仕事をしてきて、わたし茅場について知っていることって、食べ物の好き嫌いと、好きな異性のタイプくらいかも。
 それは茅場も同じだろうか。茅場はわたしの好き嫌いと、好きな俳優くらいしか知らないだろうか。どれくらい、わたしは自分のことを話していたのかわからないけれど、ほとんど食べ物の話しかしていない、と思う。それと、申し訳程度に、仕事の話。
 せっかく長らくコンビを組んでいるのだから、もう少しお互いのことを知ってもいいんじゃないかしら。こんなに一緒にいる時間があるのに、何も知らないなんて、少し寂しい気がする。別に、茅場のことなんて、なんとも思っていないけれど。
「茅場、お前の誕生日は……」
 と、聞きかけたところで注文していた定食が来た。
 並べられたものを見て「さすが千八百円……」と頷く。
 例のシチュー、ハンバーグ、鶏のグリル焼き、ポテトサラダ、それとごはん。シチューにパンを浸して食べるのがオススメらしいのに、ごはんをセレクトしたわたし。ブレていないでしょ?
 真っ先にシチューを食べたい気持ちを押し殺して、先に鶏のグリル焼きに手を付けた。楽しみは後に取っておくタイプ。
 鶏にかかったマスタードソースは甘めで、マスタードの独特の香りが爽やか。鼻に抜ける味わいが心地よい。小さく頷く。
 ポテトサラダの味付けはくどくなくて、さっぱりと食べられる。がっつりめのハンバーグとのバランスが取れた組み合わせは◎
 現状で、シチューがなくても充分に美味しい定食が完成している。これだけで白ごはんが進むけれど、食べきるわけにはいかない。
 お待ちかねの、シチューに手を付ける。スプーンですくうと、どろっとしているが、真っ茶色というわけではなく、やや白みがかって見える。濃厚過ぎて、スプーンですくうとずっしりとした重ささえも感じる。
 ここまで、大本命を待ちに待っていた気持ちが抑えきれず、大口を開けた。たったの一口で口の中を満たす濃厚なシチューの味。感じるのは牛の旨味と甘み。野菜を感じる舌ざわり。これを、これだけで食べるなんてもったいない。
 周りのOLもやっているかどうかなんて、関係ない。わたしは、人の目も気にせず、白いごはんにシチューをぶっかけた。白いキャンバスを染める茶色いシチュー。スプーンで一緒にすくって頬張る。
 これこれ。全ての旨味が調和する瞬間。シチューを煮込んだ時間は嘘をつかない。凝縮された旨味が、ごはんの甘みと混ざり合い、濁流となってわたしの味覚を刺激した。これぞ、まさに。

「マリアージュ」
 
 わたしは声を大にして、何度だって言う。「白いごはんは万能の食べ物だ」と。それは、隣にいる茅場とも共通の認識であり、彼も抑えきれない感情をごはんの上にぶちまけていた。周りのOLやカップルが、シチューをパンにちょんちょんつけて「美味しいね」なんて言い合っている中、わたしと茅場は無言でシチューをごはんにかけて胃袋へ流し込んでいく。
 わたしは茅場のことはほとんど知らないし、彼だってわたしのことを全然知らないはず。それでも、こうやって同じ感覚でおひるごはんを楽しめる仲間というのは、とっても貴重な存在。相手のことを知ろう知ろうとしなくても、いつの間にか知っていくだろうし、知らなくても馴染んでいくものです。
 それと、もう一つ。わたしが茅場について知っていることと言えば、大盛にしたくせに食べきれない、ということ。今日も、お残しをされた茅場の定食はわたしの胃袋の中。

   ◇

「ここは俺が払う」
 茅場は会計で、わたしが財布を出すのを制止した。二人分の三六〇〇円をまとめて払ってくれるらしい。
「なによ、今日はずいぶん太っ腹じゃない」
「だって、お前、今日が誕生日だろ」
 何年もコンビとして一緒に京都エリアを開拓してきた、いわば「戦友」である彼からの一言に思わず……。
 思わず、笑いが止まらなくなってしまった。
「わたしの誕生日、今日じゃないんだけど!」

「スパイスカレー」――京都市上京区

「おひるごはん、どうする?」
 と、いつもなら聞くところだけれど、今日は聞かずにこのお店に入っていた。
 二条駅から千本通を北に十分ほど歩いただろうか。いつもならどうってことない距離を歩いたけれど、今日はいつもより足がしんどい。いつもならぺったんこなパンプスを履くわたしが、珍しくヒールの高い靴を履いていたからだ。向かいに座って、冬だと言うのに汗をかいている同僚の茅場からは「もしかして、今日は仕事終わりにデートか?」とバカにされたが、わたしにはデートに誘ってくれるような王子様なんていない。周囲にいる男性と言えば、目の前に座るこの男と、実家からわたしの家に転がり込んで陶芸修行をする弟くらい。
 わたしがハイヒールなんかを履いているのは、その後者のせい。高身長な弟が、あまりにもわたしの低身長を笑うものだから、むきになってハイヒールをネットで購入した。俗にいう「ポチった」というやつだ。見せつけるようにして履いて家を出たのだが、会社に着く前にはかかとに靴擦れが起きていた。
 目の前の大男は冷水をおかわりして、新たな汗を生み出していた。食べる前から汗を噴くなんて、食べ始めたら一体どうなることやら。
 茅場とわたしは、大阪にあるスポーツ向けのサプリメントを販売する会社で営業の仕事をしている。わたしたち二人の担当エリアは京都市の北半分(京都駅より北側全部だから、面積は半分以上かも)。昨年までは京都市全部だったけれど、取引先の急増に伴い南北に二分割された。おひるごはんに美味しいものを食べることを楽しみに足しげく営業まわりをした結果、業績が上がったので結果オーライ。
 そんなこんなでわたしたち二人はほとんど毎日、昼食をともにしている。年間二四〇日くらいは一緒に食べている計算だ。その辺のカップルよりも多いんじゃないかな、嬉しくないけど。
 それにしても茅場の背後にある絵は何なんだ。カラフルな……ゾウ?
「なんだ、吉田。俺のことまじまじ見て、俺に惚れたか」
「寝言は死んでから言って。あんたの後ろの絵が気になるの」
 彼はぐいと上を向くようにして、背後の壁を見上げた。ガタイのわりに小さな喉仏が、きゅっと上がった。
「ゾウやな。カレー屋やし」
「そんな安直な」
 なんて言ってみたけれど、理由はそれくらいしか思いつかないし、わたしもそういうことだと思っていた。
 ここの店に入った理由は、店の外まで強烈なスパイスの香りが漏れ出していたことと、わたしの足が限界だったこと。
 店内に辛い空気が漂い始めた。目に、鼻に、喉に沁みる。本格的なスパイスカレーが空気にまで滲んでいる。店の本気を感じているのだ。粘膜にカラシがへばりついたようだ。
「おい、吉田、見て見ろよ。あの人も目に沁みてるみたいだぜ」
「指ささないの。こんなに空気が辛いのに、茅場は平気なの?」
 他人に指をさす癖がある彼は、どうやら粘膜が鈍感らしい。これだけの辛い空気の中でもケロっとしている。
 それからほどなくして出てきたカレーは、茅場の背後に描かれた絵画のようにカラフルだ。
 カレーの茶、サフランライスの黄は当たり前のカレーの色。散らされた香草の緑、レッドオニオンの紫、刻みネギの萌葱色、白ゴマの金、ピクルスの赤、卵黄のオレンジ。
 まず一口。カレーをすする。見た目よりもさらっとしたカレーは数多のスパイスの刺激の中に、どこか懐かしい、優しさがあった。
「うお、うめえ、うめえ」
 そういう味覚の繊細さを持たない茅場は、語彙力を失いながら飲むようにカレーを平らげていく。
 わたしは、冷静に美味しさの分析をした。この優しい甘さのような奥深さは、和食に通ずる。きっと出汁の風味だ。
 自分が持っていたカレーに対するイメージがぶっ壊された。本格的なスパイスカレーを今まで何度も食べてきたつもりなのに、こんなに衝撃を受けることなんてなかったのだ。 カレーと出汁の組み合わせは、カレーうどんの定番。だけれど、これだけの強烈なスパイスたちと出汁がこんなに合うなんて。こんなに共存できるなんて。種を越えた共存。この皿の中は、世界平和が実現されている。
 香草を、ピクルスを、野菜やタマゴを少しずつ混ぜていく。混ぜて一口食べるたびに、衝撃を重ねていく。スパイスの刺激に出汁のまろやかさ、ピクルスの酸味と香草の独特な苦み、ゴマの香ばしさ、玉子のコク……。
 これぞ、まさに。

「マリアージュ」

 カレーの七変化。わたしはそれを満足いくまで味わった。美味しいものは、混じり合うことで一〇〇パーセント以上の力を発揮する。ここのカレーは、二四〇パーセントくらいのパワーでわたしを満足させてくれた。
 そして、ここのお店に来る次のお目当てもできた。「本日のカレー三種がけ」を食べること。種の違うものどうしが交じり合って、そして生まれるハッピー。

   ◇

「なあ、吉田」
 スパイスで汗だくになった茅場が、落ち着きのない口調になる。そんなに辛かったかな。
「なに?」
「たまには、夕飯も二人で食べないか?」
 タイミング悪すぎ。わたしには断る理由があるっていうのに。
「ごめん、今日は足が痛いから却下」

「味噌カツ定食」――京都市左京区

「おひるごはん、どうする?」
 わたしは隣を歩きながら小難しい顔をする同僚の茅場に問いかけた。彼は、ロングコートの襟周りを大げさなくらいボリューミーなマフラーで固め、顔が半分埋もれている。暑がりで汗っかきな彼は、二月の寒空だというのに額に汗を滲ませ、息も上がっていた。そんなに暑いなら、脱げばいいのに。
 わたしと彼は大阪にある企業で営業の仕事をしている。スポーツ向けのサプリメントが主力商品で、主な営業先はスポーツ用品店やアウトドアショップだが、大手ドラッグストアチェーンでも取り扱ってもらっている。最近じゃ、サプリメント以外にも、エナジードリンクなんかも売り出し始めたものだから、営業部も忙しさで賑わっている。こんなに忙しいのに、京都市の北半分の担当がわたしたち二人だけって、ちょっとブラックよね。
 彼も難しい顔をしているけれど、わたしだってちょっと悩んでいることがある。
「なに、食うか……」
 京都市左京区の吉田といわれる界隈。わたしと茅場は二人、途方に暮れてしまった。今日のおひるごはん、何を選んだらいいのかわからなくなってしまったのだ!
 いつもなら、彼の鼻を頼りに、奇跡的に店を発見してきた。(これを茅場センサーと呼びます)
 しかし、この吉田界隈では彼のセンサーが混線を起こす。
 そばに西日本の最高学府がそびえるこのエリアでは、学生向けの飲食店が数多あるのだ。それらが、こっちこっちとわたしたちを手招きする。手ぐすねを引いて、門戸を開け放って待っている。
 だから、おひるごはんを決められずにいた。住宅街にひっそりと佇むにぼしのラーメンも、鳥皮バターライスも、たまに行く大学食堂も、人の名前みたいなチキン屋さんも、みんな魅力的なのだ。
「なあ、吉田は吉田で何食べたい?」
 言うと思った。
 この茅場って男は、吉田エリアに来るといつもやたらとわたしの名前を呼んで紛らわしい喋りをする。何が言いたいのかよくわからなくなる。それを不服だと伝えれば、
「吉田って苗字、変えればええやん」
 と言うのだ。
 生憎、わたしには苗字が変わる予定がないもので。
 などと、憎たらしいやり取りをしているところで、たまたま一つの飲食店が気になった。今出川通から半地下に降りたところで扉を開いており、その向こうから聞こえた『美味しい』を茅場がキャッチしたのだ。(これを茅場アンテナと呼びます)
「これ以上悩んでも長引くだけだし、ここに賭けるのは?」
「吉田の言う通りやな、入ろか」
 わたしたち二人の気持ちが変わらないうちに、という想いで階段を下った。
 店内には多くの学生客がいて、スーツ姿のわたしたちはちょっと浮いている気がする。大学生は今頃、春休みの期間のはずだというのにこの店には賑わいがある。三〇歳を超えたわたしたちからすれば、なんともキラキラとした子たちだった。
 唯一、空いていた二人掛けの席に着く。机の上にはなぜか、某有名立体パズルがあった。一面たりとも揃っていない。大きな窓の向こうは、コンクリートの外壁が見え、窓とその外壁の間には、恐竜のフィギュアが並んでおり、メダカの入った水鉢があり、世界観は混とんとしている。
 レジ前に貼られたあらゆるサークルやアルバイトのチラシ等、気になることはたくさんあるけれど、まずは空腹を満たしたい。店選びに時間がかかったので、お腹はぺこぺこりんなのだ。
 メニュー表に目を通す。定食屋と謳っているだけある。サバの味噌煮やら、バッファローチキンやら、てりたまハンバーグやら、角煮やら、とにかくメニューが多かった。
 これまた選ぶのに時間がかかりそうだ。本音を言えば、それぞれを少しずつつつきたいところだけれど、定食屋さんではそうはいかない。どれか一つに決めなければならない。
「茅場はどうせ、唐揚げ定食でしょ」
「いや、今日は俺は違うやつにしようかと」
「ユーリンチー定食」
 それって、結局……
「唐揚げじゃん!」
「いや、でもな、おろしポン酢の唐揚げと悩んでんねんて」
「結局、唐揚げじゃん!」
 ま、しょうがないよね。茅場の好きなもの第一位が唐揚げなのだもの。
 それに、茅場が唐揚げ系を選んでくれれば、わたしの悩みは解決する。
「わたしは味噌カツ定食のご飯大盛」
「ごはん大盛って、たぶんアレだぜ」
「指ささないの」
 と𠮟りつけつつも、指先を目で追ってしまう。なるほど、あのくらいなら、どんと来い。
 注文後、運ばれてきた定食を見て、胃が疼いた。胃液が分泌されているのか、刺激が腹部にあった。
 大きいお茶碗にマンガのようにごはんが盛られ、お味噌汁、サラダ、煮物、酢の物、そしてメインが並ぶ。一汁三菜のバランスがとれた定食だ。
 トンカツは肉厚で、熱気のある脂っこい湯気が立ち上る。揚げ物の香りが鼻孔を直撃した。しっかりかかった味噌ダレの甘い香りも、空腹には刺激的だ。ごはんがいくらあっても足りない予感。
 サラダにはキュウリが入っているので、茅場の小鉢からキュウリだけをもらってあげる。お味噌汁には茄子が入っているので、わたしのお椀から彼のもとへ、じゃぶんと沈めた。
 サラダにはドレッシングがかかっていない。フロアの中央にあるセルフサービスコーナーへサラダ鉢を持っていくと、いくつかのドレッシングが並ぶ。どれも容器に種類と、小さな文字で「自家製」と書かれていた。そんな中、強い存在感を放つ「しょうがドレッシング」
 どのドレッシングよりも大きな、強い文字で「自家製」と書きなぐられていた。
 さぞかし自信がおありのようで。ならば、わたしはこのドレスをサラダにまとわせようではないか。相性はいかがかな。
 着座したら、まずはお味噌汁。茄子の香り、居るなあ。遠くに、居るなあ。だけど、お味噌汁は美味しいです。
 さて、さっそく例のドレッシングを頂いてみますか。
 鼻から抜けるしょうがのさっぱりとした香り。特有の刺激。しっかりとしょうがを感じる醤油ベースのドレッシング。このドレッシングのためだけに、サラダをおかわりしたい気持ちにさせられた。あのボトルごと持って帰りたいけれど、生憎わたしは全く自炊をしない。生野菜を自宅で食べることはほとんどないので、使いどころは少なそうだ。
 アッと言う間にサラダだけ食べきってしまった。
 ようやく、大本命に手を付ける。
 前述の通り、肉厚なカツ。肉厚、というか、分厚い、という言葉の方がニュアンスが正確だろうか。
 そんな分厚さを感じさせないくらい、柔らかな食感。意外にも軽やかな衣。良い肉を使っているのかと思ったけれど、リーズナブルプライスなので、料理人の腕のなせる業かもしれない。
 そして、何よりもタレ。特有の濃い甘さ。赤味噌の芳醇さ。重いタレと軽い衣が混ざり合う。白米がみるみるうちに減っていく。全てが一つになっていく。
 これぞ、まさに。

「マリアージュ」

 無心で食べ進む。時々、茅場のユーリンチーをつまみ食いする。箸が止まることなく、ケンケン、パーのリズムで味噌カツとユーリンチーで白米を掻き込んだ。
 リーズナブルな価格でお腹いっぱい食べられるのは、学生街のいいところ。学生時代に戻りたいような気持ちにさせられながら、店をあとにした。次は、おろしポン酢の唐揚げ定食にしようかしら。
 それにしても、茅場には言いたいことがある。
「あんたさあ、暑いならマフラー取れば?」
「うるせえ、バレンタインにもらったものをどう使おうとも、俺の勝手やろ」
 まあ、喜んでくれているみたいだから、それでいいんだけれど。

   ◇

 次にこの店を訪れた際には、すでに閉業していた。扉には、店主がアメリカへ渡るという旨の張り紙がなされていた。
 海外に渡る、ということはどんなことだろうか。縁のない土地で過ごす。それは、そこが安全で、安心できる場所だからなせることで、それは世界が平和だから。
 この平和が長く続いて、バカみたいな同僚が隣にいてくれて、美味しいものが食べられる日常が終わりませんように。

「ニンニク入れますか」――京都市左京区

「おひるごはん、どうする?」
 今日も同僚の茅場とふたりで、担当エリアの営業周りをしている。スポーツ向けエナジーゼリーやサプリメントを販売するわたしたちは、新商品の試食品を携えて一乗寺界隈までやってきた。
 一乗寺と言えば、京都随一のラーメン激戦区。営業まわりで何度か足を運んだことがあったが、お昼時はどの店も行列ができていて並ぶ気になれなかった。
 それが、今日は違う。一つ前の取引先で談笑し、昼食時を逃した結果、どこの店も大した列になっていない。
「せっかくやし、一乗寺のラーメン食って会社戻るか」
「何言ってるの。修学院のアウトドアショップさんが一軒残ってるでしょ」
「ああ、そか、あの比叡山の麓の、登山口のところ」
「そうそう。さっさとおひるごはん決めちゃおう」
 それから、わたしたちは幾多ものラーメン店を通り過ぎた。どこも美味しそうなにおいを垂れ流していて、ひとつに決め切れずにいたのだ。
 わたしたちの方は、誰かさんが冬なのに汗を垂れ流していた。ラーメン店通りを歩き続けて、彼の汗は増える一方だ。
 とある交差点で信号待ちをしていると、交差点を曲がってすぐのところに青い看板が見えた。
 理由や根拠はなかったけれど、そこの青い看板がとても気になったのだ。
「茅場、そこにしよう」
「おれはどこでもいい。吉田がいいならそれで」
「はい、決まり。行こう」
 わたしたちは、信号が青になっても渡らずに交差点から路地へ入った。
 青い看板には、なんだかとても壮大な言葉が書いてあった。これは、ラーメン店の名前なのか、店主からのメッセージなのか。
「看板に従って、店内で大声で夢を語ったらラーメン無料とかならないかな」
「なるわけないでしょ。ほら、食券買うよ」
 券売機に並ぶメニューを見る。ラーメン、大ラーメン、豚ラーメン、豚W。
 豚Wとは?
「おれ、腹減ったし、大の豚ラーメンにするわ」
「きみね、前科がいくつあるか知ってるの?」
 彼はわたしの忠告を聞かずに豚ラーメンの大を買った。
 カロン、という軽やかな音とともにプラッチック製の食券が吐き出される。わたしは初めてなので、様子見。白い食券の、普通のラーメンを選んだ。
 ここのお店は不思議だ。
 お箸、お水、れんげ、お手拭きの全てがセルフサービス。入り口のそばに全て置いてあるので、まとめて持って、案内されたカウンター席に着いた。食券はカウンターに乗せるシステムらしい。
「おれ、朝寝坊して食べてないから、めっちゃ腹減ってるわ」
「お腹空いている時ほど、案外食べられないもんだよ。胃がびっくりしちゃうから」
「いや、今日のおれは食える。ここ最近で一番腹が減っている」
「きみの最近って、二十四時間とかその程度でしょ」
 横並びで喋っていた茅場の目が、ぐっと細められた。緩やかに口が開かれ、だらしない顔をする。
「なあ、吉田。あれ、あれ」
「指ささないで」
 わたしは彼の視線をたどってみる。
 わたしの視界に飛び込んできたのは、新幹線から見る伊吹山のような野菜の山だった。いや、あれは富士川を通過する時の富士山だ。どんぶりの深さと同じくらいの山が、どんぶりの上に鎮座ましましている。
「え、ちょっと、ここ、超大盛系のお店なんじゃないの?」
「大ラーメンって、そういうこと? おれ、やらかしちまった?」
 たぶん、きみはやらかしたよ。
 わたしは普通のラーメンを頼んで良かったと安堵した。
――にんにく入れますか?
 突然、茅場が大将に声をかけられた。にんにくのアリ、ナシを選ばせてくれるお店らしい。
「え、あ、はい。にんにくアリで」
 それを聞いて、わたしは彼に小さな声で耳打ちする。
「この後も営業あるんだよ、大丈夫なの?」
「コンビニで匂い消すやつ買うから大丈夫」
 取引先の担当者さんに悪い印象を与えないかと心配になっているところで、わたしも大将から声をかけられた。
――そちらは、にんにく入れますか?
「わたしは、にんにく抜きで」
 ほどなくして、茅場の豚ラーメン大が提供された。
 わたしも茅場も、「あれ?」と顔を見合わせた。
 巨大などんぶり。ごろごろと積まれたチャーシューは四つ、全部合わせると、両手の拳よりも大きい。
 だけれど、あの野菜マウンテンはずいぶんと小ぶりだった。例えるなら、大文字山くらい。
「これは、本当に大ラーメンなのかな」
「これが大ラーメンだ、間違いない、おれは安心している」
 すぐにわたしのラーメンも提供された。わたしの方は、チャーシューが二つ、合わせると男性の拳くらいはありそうだ。野菜マウンテンは、やはり大文字山程度だった。
「ほら、吉田のラーメンは俺のより小さい」
 小さいけれど、圧倒的な重さを感じる。
 これは噂に聞いた、黄色い看板のがっつり系ラーメンの系譜なんじゃないだろうか。生半可な気持ちでは食べきれない可能性がある。
「茅場、今日は助けないから。じゃあ、またあとで」
 こころして食わねば、やられてしまうかもしれない。わたしは覚悟を決めて、一口目をすすった。
 太目な麺にジャンキーな豚の香りがあるスープが良く絡む。濃厚なスープだけれど、しょっぱさは無くて、むしろほのかな甘みがある。
 麺はとにかく太い。わたしの小指ほど、は言い過ぎかもしれないけれど、そう形容したいくらい太い。この麺がまたいい。小麦感が強くて、ワシワシと食べ応えがある。満腹中枢を滅多打ちに刺激する。
 初体験だけれど、これはクセになる。
 野菜そのものには味はないけれど、スープに沈めてから食べると、さらに甘みが増すようだ。野菜そのものの甘さを感じられる。スープのガツンとした濃さを野菜がいくらかマイルドに中和してくれる。
 暴力的な大きさのチャーシューも頬張る。しっかりと煮込まれたチャーシューにもほのかに甘さがある。こちらは、豚の脂の甘さだ。肉はほろほろとほぐれる。ほぐれてからはしっかりと噛み応えがある。噛めば噛むほど、肉の味が滲む。
 麺、野菜、スープ、チャーシュー。それぞれがまったく別々の仕事をしているように見えるけれど、どれも欠くことができない。アベンジャーズのような個性の塊たちが、一つのどんぶりの中で結束をしているのだ。
 これも一つの「マリアージュ」かもしれない。
 わたしの目測では、折り返しを迎えた。
 ここで初めて、隣の茅場を見る。
 彼は、すでに苦しそうな顔で、ちびちびと野菜を拾っていた。本隊はスープの水面下なので状況はわからないけれど、かなりの苦戦を強いられているのは見て分かる。
 仕方がない。今日も援護射撃だ。
「ほら、肉、寄こしなさい」
「すまない、吉田。これ、めっちゃ多いわ」
「またあんたは前科を重ねたことを忘れないでね」
 わたしは彼のどんぶりに残された二つのチャーシューをわたしのどんぶりに輸送した。
 最後にチャーシューを残すと、きっと苦しくなる。ここは先に食べてしまおう。
 そう思い、彼から受け取ったチャーシューをかじって驚いた。
「何これ、美味しい」
「何言ってんの、同じやろ」
「違う」
 何が違うのか。
 にんにくだ。
 彼がトッピングしたにんにくとスープ、チャーシューの組み合わせ。これが本当の。

「マリアージュ」

 わたしは、唇を脂でテカテカさせながら呟いた。
 そして、茅場へ向けて告げる。
「前言撤回。わたしは積極的支援活動を行うことを宣言する」
 わたしは、まずは自分の戦地で後半戦を戦い抜いた。限りなく満腹に近づいた胃袋で、彼への援護射撃を開始する。
 茅場のどんぶりを引き寄せて、箸で戦況を確認。思っていたよりも減っていた。これなら勝利は近い。
 彼のにんにくトッピングのおかげで、箸が進んだ。わたしの食べていたものより、圧倒的にジャンキーさが増している。強烈なにんにくのにおいがあるのに、食欲が掻き立てられる。一度、満腹に限りなく近づいた胃袋も、茅場のもとで難民となったラーメンを受け入れていく。
 かなり苦しいはずなのに、その苦しさが心地よくなってきた。
 そうして、ようやく彼の分も完食した。はしたなくならない程度に、スーツのパンツをずらして、胃袋を開放した。ブラウスの裾を押し込み、下着や肌が露出しないようにする。
「吉田、お見事」
「お見事じゃない。きみはもう大盛禁止」
「いや、おれは諦めない」
「この一杯でさえ諦めてるやん」
 かなり苦しくて、彼へのツッコミもやっとのこと。慣れないカンサイベン。もちろん、動けずにいた。
 ちょうど別のお客さんと大将のやり取りが聞こえた。
――にんにく入れますか?
――にんにくマシ、脂マシ、野菜はマシマシで。
 そうして提供されたラーメンは、あの「富士山級」のものだった。
「茅場があの注文方法を知らなくて良かったよ」
「おれも同じこと思った」
「はい、あとちょっとだし、自分で食べて」
「サンキュー、吉田。ところで、お前のその細い身体で、大量のラーメンはどこへ消えるわけ?」
「そうね、最終的には下水処理場かしら」
「俺、まだ食ってんねんけど」
 そうして、なんとか完食したわたしたちは、お腹の重苦しさと不思議な充足感で店をあとにした。こんなに苦しい思いをしたというのに、なぜかまた食べたくなっている。中毒性、という言葉が合いそうな食べ物だった。
 次はお休みの日に、思う存分にんにくのラーメンを味わいに来よう。足手まといになる茅場は誘わずに。
 また一歩、わたしは「自炊」や「手作り弁当」から遠ざかった。七八〇円でこんなに満足感が得られるなら、安いもの。これだから外食はやめられない。

   ◇

 結局、わたしたちはコンビニで買った口臭用の消臭剤を買ったものの、匂いが気になって口をあまり開かずもぞもぞぼそぼそと取引先で新商品の案内をした。
 帰り道、茅場が取引先でもないのにもぞもぞぼそぼそと、
「お前、小さい声でマリアージュって言ってるのな。文字で読んでやっとわかったよ」
「読んでって、どういうこと?」
「読んでるで、おひるごはんの小説」
 どうやらわたしの作品が、茅場に読まれてしまったそうです。

「タマゴサンドウィッチ」――京都市中京区

「おひるごはん、どうする?」
 寺町通りの商店街を御池通りから下がりながら、隣に並んで歩く同僚の茅場に問うてみた。彼は、度のあっていない眼鏡越しに目を細めながら、飲食店を品定めする。次の休みに眼鏡を買う、と先週宣言していたのに、週明けに掛けて来たのはいつもの眼鏡。曰く「新しい眼鏡は似合わない気がして、恥ずかしい」とのこと。「自分で選んだんだろ」と言えば「店員さんに薦められて」と言い、「視えないよりマシだろ」と言えば「慣れてないから気持ち悪くなる」と言い訳ばかりで、スマートではない。もっとスマートなビジネスマンになろうよ。
 スマートじゃない相棒とわたしは、大阪に本社を構える会社で営業の仕事をしている。自社のスポーツ向けサプリメントを、スポーツ用品店やドラッグストアに広めているのだ。今日は御池通り沿いの地下にあるフィットネスジムへ売り込んで来て、一仕事終えたところ。このまま帰社しても良いのだけれど、ちょっと早いおひるごはんと洒落込みたい。
 こういう商店街を歩くたびに、思い出す店がある。出張先で出会ったお弁当屋さん。ミックスフライ弁当がボリューミーでリーズナブルだったけれど、出会ったその日に閉店してしまった。もしかしたら、今頃ヴィーガンカフェでもやっているかもしれない。そんなわけないか。
 そんな素敵なお弁当屋さんは、残念ながら寺町通りには無い。あの景色と重ねてみるも、胃袋を刺激するあの匂いは流れてこない。流れているのは、雑貨屋から漏れ出した香木の香り。香木なんて食べられない。
 このまま歩いて新京極まで行けば、ローストビーフ丼屋さんもあるし、そこで良いよねと提案しようと思ったら、いつもと違う光景に気が付いた。それには、茅場も気が付いているらしい。こういうところは、いつもシンクロする。
「珍しく列になっていないし、今のうちに入っちゃわない?」
「奇遇やな、ちょうど熱々の珈琲でも飲みながら、タマゴサンドウィッチを食べたいと思ったところ」
 仕事の時には発揮されない連帯感を持って、店内に踏み込んだ。
 店内は、珈琲の香ばしい香りで満たされていた。香ばしさの中には、ほのかな甘さがある。ビターなチョコレートのようだ。
「なんだか、マダムが多いな。ほら、あっちも」
「指ささないでってば」
 わたしは彼の指をへし折るようにして下ろさせた。これくらいしないと、彼はまた繰り返す。このやり取りを、毎日の恒例にしてはならないのです。
 この店に入るのは二回目。かつてあの有名歌謡スターも気に入って来店していたとか、かの有名作家の作品に登場するとかで行列ができるようになり、遠のいてしまっていたのだ。
 ここへ来たら、茅場が前述したようにタマゴサンドウィッチを食べるのだ。
 列になっていないとはいえ、やや混雑している。注文したもののまだ時間がかかりそうだ。
 マダム以外にも、わたしと同じくらいの女性二人組の姿もあるし、スキンヘッドで色のついた眼鏡の男性もコーヒーを嗜んでいるし、カメラ談義をする大学生くらいのカップルもいる。スキンヘッドさん以外は卓上に料理や飲み物が並んでいないし、けっこう待つかも。
「吉田って、休みの日は何食べてんの?」
「わたしは自炊しないし、用事がなければ昼間から呑んでる」
「おっさんみたいやな」
「レディに向かって、その言い方は酷いと思うよ」
「じゃあ、自分で自分をどう分析する?」
「おっさんだと思う」
「結局それかよ」
 仕事の日はおひるごはんが至福で、休みの日はパジャマのまま呑むジントニックが至福。茅場はお酒が飲めないからわからないでしょうね。わたしは特に趣味もないから、給料もボーナスも、ほとんどが飲食に消えていっている。おのずとエンゲル係数は高くなるけれど、これってエンゲル係数の欠陥よね。
「そういう茅場はさ、休みの日って何してるの?」
 わたしの問いかけに彼は、つう、っと目を逸らした。人に言いにくいような趣味でもあるのかしら。法に触れるようなものでなければいいけれど。
「何よ、人に言えないようなこと、してるんじゃないでしょうね」
「してねえよ」
「じゃあ、言ってごらんよ」
 身長一八〇センチを超えるラグビー選手みたいなガタイの茅場が、なんだかもじもじしている。そんな柄じゃないでしょ。
 わたしがつま先で彼のつま先を突いて促すと、ようやく口を開いた。
「猫カフェ」
「え?」
「何回も言わせんなや」
「だって、今、猫カフェって言わなかった?」
「だから、何度も言わせるな言うてるやろ」
 彼の口から出てくると思わなかった単語に、動揺した。だって、見た目とのギャップがありすぎる。度が合ってない眼鏡で睨んでいるような目つきの人が、猫カフェで一体、どんな顔をしているというの。
「ちなみに、どこの?」
「西陣」
「あんた、どこ住んでるんだっけ」
「守口」
「守口からわざわざ京都の西陣まで? けいはんと市バスで?」
「せやねん」
 その熱量に脱帽せざるを得なかった。するすると力が抜けて、椅子から滑り落ちていく身体を、足で抑えた。踏みしめるのに茅場の足を踏んでいるみたいだけれど、何も言ってこない。
 休みの日に趣味のために精力的に動く種類の人は、なんとなく熱量にアテられる気がして苦手だった。まさか目の前の相棒がそういう種族だったなんて思いもしなかった。同じ部署で働いていても、相棒じゃなかったら関わることなんてなかっただろうな。
 永遠に交わることのない平行線だったはずのわたしたちを繋いだのは、たまたま担当エリアが同じ相棒になったことで、そこから親しくなったのは食の趣味が近かったこと。それだけ。それだけのことが、今はわたしの生活の大部分を占めてしまっている。
「でな、吉田、今度の日曜にでも……」
「あ、ほら、わたしたちの来たっぽいよ」
 わたしはウェイターを指さしかけてなんとか堪えた。人に言うからには、わたしも辞めなければならないのです。
 目の前に置かれたサンドウィッチ。湯気が立ち上る。厚く焼かれた卵を挟んだパンがでっぷりと膨れる。これこれ。
「なあ、吉田、日曜にさ」
「ほら、熱いうちに食べちゃおうよ」
「お、おう。せやな」
 わたしたちはそれ以上の会話を辞めて、それに向かい合う。本気で食べることは、食べ物と作ってくれた人への敬意だ。
 一口かじれば、卵のふわふわな焼き加減に声が漏れる。
「うんめぇ」
「ちょっと、食べながら口開けないでよ」
 相変わらず、食べると語彙力が幼児レベルになる茅場を叱る。わたしはあんたのオカンか。
 ふわふわな卵と、奥からほんのりカラシの香りが鼻を抜ける。辛くないけれど香りが心地よい、この塩梅はなかなか成せない。
 これぞ、まさに。

「いつもの、あれ、言うんか。マリアージュ」

 あろうことか、わたしの至福は目の前にいる男に邪魔をされてしまった。ほんとにスマートじゃない。サイテーな男だと思う。
「言わない。勝手に言う非紳士的な野郎がいるから言わないもん」
「ごめんって、堪忍してや」
「ぜっっったい、イヤ」
「ここは俺が出すから」
 その言葉に揺らいだわたしがもっと嫌だ。
 誰かのせいで台無しになったけれど、ここのタマゴサンドウィッチは本当に絶品だと思う。卵の焼き加減、食パンの持つ甘み、バターとカラシの香り。このバランスはここでしか食べられない。行列ができるのも納得できる。
 これとセットで、食後の珈琲も絶品。苦過ぎない。けれど、嫌な酸味は一つもなくて。食後の余韻を味わい尽くすにはベストなブレンド。
 どうせまた行列ができる。再びここへ来れるのは随分と先になるだろうから、こころから味わい尽くした。
 お店が繁盛するのは良いこと。お店が長く愛されるということは、お店からすれば幸せなことだ。だけれど、なかなか来れなくなってしまうのは、ちょっと寂しいな。

   ◇

「ほんでな、吉田、さっきの続きやねんけど。日曜日に猫カフェでも行かへんか、一緒に」
「今日のわたしが許すわけないでしょ、バーカ」
 ほんっとに、スマートじゃない男ね、茅場は。

おひるごはん、どうする?

おひるごはん、どうする?

おひるごはんを食べるだけの作品。 毎日食べる、おひるごはん。何を食べるか、とっても悩むもの。 今日のおひるごはんに悩んだら、読んでください。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-06-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 「唐揚げ定食」――京都市中京区
  2. 「餃子の定食」――京都市下京区
  3. 「オムカレー」――京都市上京区
  4. 「唐揚げ定食こってり大盛り」――京都市中京区
  5. 「インディアン」――京都市中京区
  6. 「シチュー」――京都市中京区
  7. 「スパイスカレー」――京都市上京区
  8. 「味噌カツ定食」――京都市左京区
  9. 「ニンニク入れますか」――京都市左京区
  10. 「タマゴサンドウィッチ」――京都市中京区