妻にもう一度、恋をした。

妻にもう一度、恋をした。

妻にもう一度、恋をした。

 息子のテルは、中学生のおにいさんおねえさんたちと一緒に水風船で遊んでいる。冬が迫っているというのに、子供は元気だ。
 テルも来年から小学生になる。知らぬ間に大人びてきた顔つきと、たまに飛び出す大人顔負けの発言に、成長の早さと吸収力のすさまじさを感じて驚くばかりだった。
 私と妻は、テルが見えるベンチで腰を下ろして眺めていた。
 正確には、妻ではない。「元妻」だ。
 離婚してからどれほどが経っただろうか。頭の中で、自分たちの歴史をたどってみる。テルの入園式に私は出席していない。その日の夜に彼女から届いたメールで、息子の晴れ姿を見た。
 それより前の記憶をたどると、私の帰宅時にバタバタと玄関へ駆けてくるテルの姿が思い出された。きっと、離婚したのはその頃だろう。
 父親がいなくたって子供は成長する。しかし、その間の母親の苦労は計り知れない。そう思うと、時々、強い罪悪感に苛まれることだってある。
「ねえ、聞いてる?」
 遠い記憶を眺めていた私に、妻が急かすように聞く。
「聞いていたよ」
「じゃあ、わたし今、何て言った?」
 左耳から入って右耳へ出て行く言葉を捕まえて、右耳から脳内へ引きずり込む。
「再婚。するんだろ」
「聞いてるなら、相槌くらいしてよ」
 妻が再婚する。
 その言葉から、何も想像ができなかったし、言葉もなかった。
 妻が自分以外の人物と生活している姿なんて、わからなかった。妻が、自分のいないところでどんな顔をして、どんなふうに喋るのか知らなかった。
「テルのことなんだけれど。どうする、どれくらいの頻度で会うとか、そういうの」
「そうだなあ、俺はできるだけ多くテルに会いたいけど、それは再婚相手の人の考えも知ってからにしたい」
 彼女は、「ふうん」と言いながら左手で髪をかき上げる。
 今日はどうしてだか、彼女の左手が目につく。彼女の手は、こんなだっただろうかと、前回会った時や三人で暮らしていた頃、さらに前の記憶を思い返す。
 付き合いたての頃は白くて華奢だった手も、次第に親の手になっていった。自分の親の手がそうだったように、子供を包み込む優しさと厳しさをもった「親の手」――。
 そうだ、彼女の左手の薬指に指輪がない。指輪がないことが、嫌って程に目立っている。
 私たちは、離婚後も結婚指輪を身に着けていた。前回、こうして会った時も、彼女は指輪をはめていた。
 彼女のお腹にテルが宿ったのは、結婚よりも前だった。当時、まだ十代だった彼女と、大学を卒業して社会に出たばかりの私との間に彼の命が宿り、その日のうちに結婚を決めた。
 まだどちらの両親とも会ったこともなかった状況での強行だったが、それぞれの両親も特に咎めたり、怒ったりはしなかった。両家そろって、「子は親と同じ道をたどる」と笑っていたほどだった。
 産婦人科で我が子の心音を初めて聞いたその足で、河原町の高島屋へ行き、そろいの指輪を購入した。給料三か月分、なんて高いものは買えなかった。恥ずかしいくらい安価な指輪を二人で選んだ。あの時の、妻が「二人で同じものをつけられたらそれでいいよ」と笑う顔がありありと思い出される。
 両家に連絡をして、戸籍に関する書類を取り寄せる。婚姻届けを両家に郵送で回してもらって、証人の署名をして頂いた。毎日ポストを覗き、届いたその日に下京区役所へ提出した。
 区役所の窓口で記念撮影をしてもらい、職員に見守られながら指輪を交換した。
 そして、十月十日を大幅に超えてテルは生まれた。
 離婚後にふと二人で話したことだが、私たちにとっての結婚指輪は、結婚の証という位置づけではない。テルが宿った時に身に着けたものだから、いわばテルという息子の証。
 彼そのもの。
 だから、私たちは離婚後も指輪を外さなかった。指輪の裏面には、結婚記念日と、無理言ってあとから刻印してもらったテルの誕生日が刻まれている。
 その指輪を、彼女はもう、していない。
 先月会った時は確かにそこにあった指輪が、今ではそこからなくなっている。
 アクセサリーが苦手で、利き手に指輪がある生活に慣れなかった私が今でも指輪をはめている。滑稽に思えてきた。
 そよぐ風に、彼女が髪をおさえる。やはり、左手だった。見れば見るほど、指輪のない違和感が迫るし、自分の左手に対して複雑な心境になる。
 私は彼女の手が好きだった。手だけに恋したわけではない。おおらかな性格だって、私に向けられた優しさだって、笑顔だって、怒った顔だって、寝顔だって、寝起きもノーメイクも、彼女の料理も、柔らかな身体も、落ち着いた声も、全てが好きだった。その中でも、とりわけ、彼女の手が好きだったのだ。
 初めて彼女の手を握ったのは、交際が始まる前。友人に誘われた食事会の帰りのタクシー。まだ高校を卒業して社会人になったばかりの彼女と、大学生の私。彼女の方からだった。随分と大人びて見えた。それなのに、彼女の手は子供のように柔らかくて、温かかった。
 初めてのデート。緊張して手に汗をかいていたのは私の方だったのに、「わたし、手汗がすごくてごめんなさい」と彼女は恥ずかしそうに笑っていた。彼女が手を放そうとしても、私は離さなかった。
 初めてのセックス。彼女の手が私の身体に触れる。優しさと安心感。尽き果てる瞬間は、彼女の手を握っていた。果てた後、二人で手を握って寝ころびながら話すのが好きだった。行為の最中なんかより、事後の時間の方が、気持ちが満たされていくような実感があった。
 就職活動で思い悩んでいた時。彼女は私を抱き寄せて、撫でてくれた。大丈夫だよってささやきながら、一晩中、私の吐露する不安を聞いてくれていた。年下の妻が大人に見えて、自分がひどく子供に見えた。私の心が折れずに今の会社に入れたのは、彼女の支えがあったからこそだと思う。
 出産の直前。陣痛で声をあげる妻の手を握っていたかったけれど、ずっとテニスボールを股に押し当てていた。時々、妻が私の手を握る。そうなるとテニスボールを押す力が弱くなる。妻は「もっと強く押して」と叫んだ。
 出産の立ち合い。分娩台に乗った瞬間にテルがするすると出てきてしまった。妻はいきむ間もなかった。生まれたばかりの我が子を見るよりも先に、妻の手を握って私は泣いていた。
 三人での生活。ベビーベッドを使わず、息子を真ん中に挟んで川の字になって寝ていた。テルが寝たのを確認して、テル越しに手を握り合っていた。父親と母親という関係から、一組の恋する男女に戻れる気がして好きだった。
 私は左利き、彼女は右利き。おのずと、立ち位置が決まる。いつも繋がれるのは、私の右手と彼女の左手。
 ああ、そうか。今日は座る位置がいつもと逆なのか。
 かつて、一度だけいつもと逆に並んでみたことがあった。あの時は、こまめに手を離さなきゃならないという理由ですぐに定位置に戻った。
 彼女の左手が、今日はとても遠く見えた。
「てるちー、そろそろ帰ろうか」
 妻は立ち上がって息子の手を取った。かつて私が愛した彼女の左手は、息子の小さな右手を包み込んだ。
 私も立ち上がり、二人のところへ歩み寄る。後ろ手を組み、無意味に左手の指輪をもてあそびながら。
 なんとなく、妻がよその奥様という感じに見える。自分には届かない存在。出会った頃から歳を重ねて、魅力的な女性になった妻を愛おしく思える。
 息子の手を握るその左手で、他のものなんて触らないでほしい。他の男の手を握って、微笑まないでほしい。その手で他の男を抱き寄せて、励まさないでほしい。息子の手と、息子の証である指輪と、私の手だけしか知らないままでいてほしい。

 嗚呼。私は、一生叶わぬ恋をしてしまった。

妻にもう一度、恋をした。

妻にもう一度、恋をした。

「元妻」の左手は、遠い。 離婚した妻と私は、離婚後も結婚指輪を外さなかった。 しかし、久しぶりに会った妻の左手薬指から、指輪が消えていた。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-06-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted