楽しいをすぎたころ

楽しいをすぎたころ

 小説を書いていて楽しいと思っていた時期があった。まだ書き始めの頃で、思いつくまま書きまくっていた。自分の書くキャラクターが愛おしくて、こんなエピソードは面白いのではないかとわくわくしながらパソコンのキーを打った。
 いつまでも書いていられたあのころ。あれから数年経つ。今はといえば、書きたい内容も変わって自分が年をとったことを思う。経験が増えたともいえる。狭かった視野が広がり、一歩引いて見られるようにもなった。
 あのとき書けたものが今は筆が進まない。キャラクターとの距離もひらいてしまったようだ。妄想がわいてくる喜びを昔ほどには感じない。
 よけいな雑念もまざってくる。これは面白いのだろうか。疑う自分がいる。昔であれば、これは面白い! でもそうかしら? やはり自分でこんなに面白いのだからそうに違いない! という自信と不安と恥のごちゃまぜであり、心地よい高揚感に満たされていた。
 今はそれを感じられない。書かねばと思えば思うほど苦しく、書けないことに焦りと苛立ちがつのる。では、書きたくなるまで書かなければいいとなれば、本当にまったく書かない。それはそれで不安が増す一方だ。いつしか書けない書かない自分を責めている。
 つまり、書きたいものがないのだ。書く喜びから書かずにはいられないという気持ちもない。突き動かされる衝動の嵐もなければ微風もない、凪のように静かだ。これは逆に心中穏やかともいえる。
 それでも自分は何かを書きたいのか。
 答えは、そうだ。
 書きたい。
 何を書いていいのか分からなくても、何かを書きたい。書きたいという気持ちだけは残っている。
 それでは、なぜ書きたいのか。
 それしか残っていないからだ。自分にできることの中で、これしかないと思えるもの。書くことを捨てられない。捨てたとき、きっと自分の中は空っぽである。その想いだけは、どんなに弱々しくても熾火のように残っている。
 だから書く。書くしかないのだ。
 書く気が起きないという言い訳を理由にしない。書きたい気持ちが湧かないならば、書かざるをえない状況をつくる。書く習慣をつけて、それを続ける。自分にできる方法を考えて行動に移し、何度失敗してもまた別の方法を考える。書く習慣が身につくまで続ける。
 それでも駄目だった時は、それまでのこと。自分は思っていたほど、書くことに執着がなかったと諦めるしかない。
 どうしても諦められなかったならば、その想いこそ本物であろう。
 楽しいも苦しいもどこかに置いて、書くことに集中したい。たんたんと書いて、書き続けていきたい。
 楽しいをすぎた今だから、そう思えるようになった。

楽しいをすぎたころ

2019年頃に書いた自分の思いです。備忘録として投稿しました。

楽しいをすぎたころ

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-05

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