再会

すぎもとつかさ

再会

碧が初めての旅先はロンドン。
同級生の緑が、留学へ行く時に、「絶対だからね」と遊びに来ることを強制的に約束をさせ、卒業旅行でその約束を果たす、旅行記的な小説です。

 「一人旅ですか」
 隣に座る男性が声をかけてきたのは、年明けに買って、飛行機に乗るまで手を付けていなかった文庫本の百五十七頁を読んでいるときだった。
 「はい、そうです」とこたえ、小説に栞を挟みながら隣の男性に目を移した。それと同時に本の中で繰り広げられる一六世紀イングランドの世界から、低い安定したノイズに包まれた機内に意識が戻る。
 ロンドンへ行く。そう決めたのは一年半前の夏だ。同級生の緑が、留学のためにロンドンへ旅立つ日、見送りに行った空港で言われた『絶対だからね』の言葉が耳に残っている。きっと、その言葉がなければ、旅行資金を貯めるためにバイトしようとも思わなかったし、卒業旅行の行き先をロンドンへも決めなかったと思う。そもそも、卒業旅行すらしなかっただろう。その時は、漠然としていたことだったけれど、大学入学も決まり、航空券を買える程度の貯金もできたところで、改めて緑の言葉が脳裏を過った。
 「ちょっと遅めだけれど、卒業旅行か何か?」
 気さくに話しかけてくるその男性は、四十歳近くに見えるものの、流行りの派手なデニムにデザイナーズブランドであろうジャケットを身にまとっていていた。
 「一応、卒業旅行ですね」
 「じゃぁ、四月からは社会人?」
 「いえ、大学生になります」
 「へー、結構大人っぽいから、もう大学卒業なのかと思ったよ。高校の卒業で海外なんてリッチだなぁ」
 「だいぶ節約してるんです。このチケットも格安のものを探して。お仕事ですか?」
 「いや、こっちも遊び。確かにこんな後ろの席だもんね。同じく格安航空券だけどさ。イギリスはロンドンだけ?それとも、その先もあるの?」
 「ロンドンだけです。友達がロンドンに住んでいて、友達と会う以外は何も予定を決めていないんですけど…」
 「何も予定の無い旅っていいよね。なんかあれもこれもなんて詰込んじゃうと、十分に楽しめない感じがする。僕も日常じゃなくて誰も知る人が居ない場所でのんびりしたいって感じだし。まぁ、逃避行って他人には言うんだけどさ」
年度末で社会人は忙しくしている時期だと思うが、こんな時に休みをとれるんだろうか。ふとそんなことを思い「のんびりってどのくらい行かれるんですか」と聞くと、「三泊五日」と、ちっとものんびりとは思えない答えに、“逃避行”といった言葉の意味を感じた。


 一年前の夏。
 八月に入ってすぐの頃、緑から送られてきたメールに“ロンドンへ留学する”と書かれていた。緑は小学校の同級生だ。とは言っても、六年の一学期だけ同じクラスだっただけで、学校では特に親しくしていた訳ではない。
 六年になって転校してきた緑は、イギリス人と日本人のハーフの母と、日本人の父の間に生まれ、それまでずっとロンドンで生活していた帰国子女だった。顔立ちは日本人に近いが目が青く、日本語もあまり上手ではなかったこともあって、転校してきてすぐにいじめられ、九月からはブリティッシュスクールへと転校していった。
 そんな緑と仲良くなったのは、学校ではもう会うことのなくなった八月。その当時流行っていた映画を一緒に観に行った事が切掛けだった。
 「見送りに行くよ」そう言った僕の言葉を緑は半ば信じていないようだったが、出発日とフライトの時間は教えてくれた。

 夏休み最後の月曜日。窓から差し込んだ光が、五年前の景色と重なった。「今日は緑ちゃんのお見送りだっけ?気を付けて行ってらっしゃい。緑ちゃんにもよろしく伝えておいて」と、慌ただしく会社に向かう母を見送って、シャワーを浴びた。
 「あの日もこんなだったな」
 シリアルとコーヒーという朝食を準備したテーブルで、初めて緑と一緒に出掛けた日の朝を思い出した。左手で空港までの経路を検索する。東側の窓から差し込む強い日差しで見難い携帯の画面に表示された出発時刻を確認した。

 夏休みも終わりに近づいたとは言え、普段よりも混雑している出発ロビーを見渡して、こんなところで探すなんて無理だなぁと、携帯に手をやった。今、どこにいる?そうメールを送ろうとした時に、チェックインカウンターから出てきた緑の姿を偶然見つけた。「緑」と人ごみの音に掻き消されないように大きな声で呼んだ。
その声に立ち止まって、きょろきょろとあたりを見回す緑に駆け寄って肩をたたいた。五年前に映画を観に行ったあの日の朝、駅前の交差点で緑の肩をたたいたシーンに似ていると思った。ただ、あの日の緑は呼ばれている声すら耳に入っていない様子だったけれど。
 「緑」
 「碧。本当に来てくれたんだぁ。びっくり」
 「うん。暫く会えなくなるし。ちょうど暇だったし」
 「しかし、良く見つけたねぇ、この人ごみで」
 辺りを見回しながら、本当に関心したように緑は言った。
 「たまたま。メール送ろうとして、顔あげたらちょうどそこに居たって感じ」
 ほら、と携帯の画面を緑に見せた。“今、どこにいる?”と書かれた画面を見てほんとだと笑った。
 「ねぇ、立ち話も何だし、ちょっとそこでお茶しない?」と、出発ロビーの上階にあるカフェを指さした。
 「時間、大丈夫?」
 「うん。手荷物検査も今日はそんなに混んでないみたいだし、まだ時間あるから」
 そう言って歩き出した。
 「もしかして普段はもっと混雑してるとか?」
 「お盆の時とかは大変。それに比べたらものすごく空いてるって感じかな」
 一つ上の階にあるカフェの前で、「ここね、よく来るのよ」そう言って中に入った。緑は飛行機が飛び立つところを一人見ている自分の姿を、何気に気に入っていた。
 少し混雑した店内を見渡し、ウエイターに二人と言うと、窓際のカウンター席に通された。
 「ねぇ、何飲む?私はカフェラテ」
 「あれ、緑、コーヒー飲めるようになったんだ」
 「甘くないとだめだけどね」
 「俺はブレンドかな」
 「碧はいつもコーヒーよね」
 ウエイターに、アイスカフェラテとホットコーヒーを注文すると、緑が「この暑いのにホットなの?」と、少し驚いたように言った。
 「俺、ホットの方が好きなんだよ。さすがに外に居たらアイスを頼んだと思うけど、ここ結構涼しいし」
 「まぁ、私が飲むわけじゃないからいいんだけどさ。でも、本当にありがとう。見送りに来てくれて。うちの両親なんて、朝普通に食事して玄関先で『いってらっしゃい』で終わりよ。まぁ、年に二回はロンドンへ一人で行ってたから、特別な事じゃないのかもしれないけど、今回は一応留学なのにね」
 「そっかぁ、慣れてるわけだ。俺なんか、ここに来るの初めてだから、どこに何があるかなんてわからないし。ってか緑は、留学っていうけど、留学とか思ってないだろ」
 「そうね。私が留学をしたのは、小学六年の一学期だけかもしれないわね。今回もイギリスに帰るって言った方がしっくりくるのかも。住まいも寮に入るとかアパートを借りるわけじゃなくて、祖父母の家から学校に通うしね」
滑走路から飛び立つ飛行機を眺めながら少し他人事のように緑は言った。そして、碧を見て「ねぇ、ロンドンに遊びに来てよ。私、案内するからさ」
 「簡単に言うなよ。俺、そもそも旅行とかって学校の遠足とか修学旅行位しか行ったことないんだぜ」
 「大丈夫よ、碧くん言葉も問題ないし、飛行機に乗れば、ひと眠りしてる間に着いちゃうわよ。そうだ、卒業旅行なんてどうかしら」
 「まぁ、考えておくよ」
 「絶対だからね」
 そう言うと、緑は時計に目を向けた。
 「そろそろ行く?」
 「うん」
 手荷物検査場へ向かう階段を降りる時、二人の間に静寂の時間が流れた。
 さようならの前の一言を、緑が切り出した。「こんなに空いてるなんて珍しい。いつもは、あの辺まで並んでるのに」緑が指を指すあたりまで、パーテーションで仕切られている。
 「良かったな。混んでなくて」
 「良かった。混んでなくて」
 緑は碧の“良かった”が、私のものとは違うもので、それに気が付かない碧の横顔すら見れなかった。私は見送られるのに慣れていない。五年前のあの日から、私はあの交差点の角で、碧の背中を見送ってきた。
 日本から離れることに未練を感じるとすれば、それは碧と会えなくなることだ。そんな碧の視線は、背中を押されるというよりも、後ろ髪をひく。
 「じゃぁね」手をあげて、背中を向ける。「元気でな」碧の言葉に頷いて、少し早足になった。
 碧は、緑が手荷物検査場へ消えると、軽く深呼吸をしてその場を立ち去った。



 碧は隣の男性が、少し派手な格好から、どんな仕事をしているのか気になって尋ねてみた。
 「玩具メーカーで人事をやってる」
 少し意外な答えだった。アパレル業界や、音楽業界とかで働いているかもしれないと想像したからだ。
 「そうだなぁ、採用面接したり、労務管理したりって感じ」
 「なんか意外です」
 「あー。よく言われるよ。派手だから。スーツの自分と、私服の自分と、別人だと思われることもある」
 「採用面接って、大変ですか?」
 「大変というか、難しいというか。みんなハウツー本を読んでそこそこの答えをするんだけど、本当に欲しいって思う子は、そんなに多くないね。でも、採用しない訳にはいかないから、人数は揃えなきゃいけないんだけどさ」
 「本当に欲しいって、どんな人ですか?」
 「去年、採用面接した子。ハウツー本に書かれたような答えとかしなくて、ちゃんと、『うちの会社に入りたい』って思いが伝わってくる子がいたんだよね。その子は、他所にとられたくないと思って、すぐに内定だしたよ」と、その人のことを少し話してくれた。
 「うちの会社ね。冬が始まる前位に内定者を集めて内定式をやるんだ。その時、『入社までに叶えたい夢』を書いてもらうことにしてる。玩具メーカーだから、皆に夢を売るような仕事だからね。それで、それを回収した後で、『今、入社までに叶えたい夢を書いてもらいました。皆さんには、是非その夢を叶えてから入社していただきたい』って伝える。それで、本当に叶えてくる人は半分くらいかなぁ。やっぱり、欲しいって思ったその子は、社員研修の時『ちゃんと叶えました』って言ってたよ」
 「どんな夢だったんですか?」
 「『スコッチウイスキーの蒸留所を見てみたい』って夢」
 「じゃぁ、本当に見に行ってから入社したんですね」
 「春休みに一人で。うちらと同じように格安チケットで廻ったらしいよ。その時重宝したのが、これだって聞いて、買ってきたんだけどね」と、地球の歩き方ポケットを鞄から出した。「それ、俺も同じです」というと、地図も外れるし便利そうだよねと、しばらくはガイドブックのページを捲って、これからの予定をあれやこれやと話していた。
 「ねぇ、腹減らない?」
 「腹、減りますよね。だって、日本時間だと、夜七時ですよ」そう返すと、ブリティッシュエアウェイズって、ミールとミールの間隔が長いから、カップラーメンもらえるらしいと教えてくれた。
 「そうなんですか?」
 「ネットにそんなこと書いてあった。ほら、あそこ。あの人見て思い出した」男性の視線を追うと、カップラーメンを持った人がパントリーから歩いてくる。
 男性が、キャビンアテンダントに声を掛けた。その人は日本語ができないようで、男性も英語でカップラーメンが欲しいと告げると、「パントリーへ行って勝手に持ってきて」と、愛想もなく言われ、顔を見合わせてお互い頷くとパントリーへ向かった。



 半年ほど前の月曜日、カフェアルコバレーノに訪れた碧に留守番を頼み、買い物に出かけていた美幸は、「あら、いい香りね」と、店の扉を開けるなり言った。
 アルコバレーノは、碧の母の友達である美幸が切り盛りをするカフェで、碧が小学生の頃から、毎週月曜日は特別なことがない限りここで夕食を摂っている。小学高学年にもなれば、親がいなくとも一人で食事など済ませることもできるが、碧もこの場所を気に入っていて、高校三年になる今でもその当時と変わらずに通っていた。
 「あ、美幸さん、お帰りなさい。勝手に使っちゃってごめんなさい。でも、そろそろ帰る頃かなと思って」
 ドリップ用に注ぎ口が細くなっているケトルを傾け、コーヒーの泡から目を離さずに言った。
 「いいのよ、好きに使って」
 「美幸さんも飲むかなって思って二人前淹れたから飲んでよ」
 「あら、うれしいわね。頂くわ」
 美幸が常に使っているカップと、特別に置かせてもらっている自分用のカップに淹れたてのコーヒーを注いで、美幸に渡した。
 「どお?」
 「これなら、すぐにでもバイトしてもらえるわね」
 「よかった」
 「でも、どうしたの急に」
 「相談なんだけど・・・」
 「ひょっとしてバイトしたいの?」
 「そう。受験も終わったし、春休みに卒業旅行へ行くお金を貯めたくて」
 「いいわよ。碧君がバイトしてくれたらお客さんも喜ぶわ」
 「そんなことは無いと思うけど」
 「それはあなたが、気が付かないだけよ」
 碧の淹れたコーヒーを飲みながら、美幸は少し嬉しそうだった。二口程口に運んだ時、入り口のベルが鳴った。
 ドアを開けるなり「ちょっと早いんだけど、大丈夫かしら」と、スーツに身を固め、薄手のコートを羽織った明子が入ってきた。大学生の頃、このアルコバレーノでアルバイトをしていた明子は、アルバイトを辞めた後も、ここに通っている。明子は碧が小学生の頃からのある意味“常連仲間”で、出会ってかれこれ十年近い。
 「あら、あっこ。こんな早くにどうしたの?」
 「今日ね、外回りでさ。少し早いんだけど直帰できそうだったから。それに、今日なら碧君が来るかと思ってね。ところで碧くん、ここでバイト始めたの?」カウンターの内側に立っている碧に向かって言った。
 「いや、まだ。でも、やらせてくれるって」
 「碧くんがバイトに入ると、お客さん喜ぶね。というより美幸さんが一番喜ぶのかな」
 「あたしも今、同じこと言ったのよ」
 「もう、二人ともからかって」
 「からかってなんかないわよ。あ、そうそう。碧くん、大学合格おめでとう。ちゃんとしたプレゼントは卒業式が終わった頃にでも準備するけど、ほんの気持ち」
 「すみません。なんか悪いなぁ」
 「いいのよ、リア充じゃないアラサー女子なんて、こんな事くらいしか楽しみないんだから。しかし、流石よね。推薦で早々に志望校の入学決めちゃうんだから」
 「運が良かっただけですって。ねぇ、開けていい?」
 「是非」
 包みを開けると、洒落たペンケースだった。
 「あっこさん、ありがとう」
 「碧君の、結構年期入ってたから、いいかなぁと思って」
 「大事に使います」
 「もらえる物は何でももらっておくといいわよ。あっこは結構稼いでるみたいだし」
 「美幸さんったら。そんなことは無いのよ。でも、入った時はすぐにでも辞めようなんて思っていたのに、いい加減“お局”の仲間入りよ」
 「で、明子は?何か飲むの?」
 「そりゃぁ、決まってるじゃない。飲まなきゃやってられないわよ」
 「いつものでいいのかしら」
 「そうね。いつものがいいわ。大きい方ね」
 「わかってるわよ」


 到着の一時間前に配られたミールを食べ終わると、窓の下にはイギリスの街並みが広がっていた。初めて観る街並みではあるが、なぜか懐かしさを感じながら見下ろしていた。
 着陸した瞬間、少しの緊張が胸に広がった。それが着陸の衝撃のせいなのか、ロンドンについたという現実感からなのかはわからない。ただ、飛行機が駐機場に着く頃には緊張は楽しみへと変わっていた。
 駐機場について、ブリッジが飛行機へと近づいてくると、乗客は一斉に立ち上がってトランクから荷物を取り出し、通路に並び始めた。最後尾に座っていた碧は、隣の男性と共にのんびりと座っていた。
 最後に飛行機を降り、イミグレーションへ向かう通路の途中、団体客が何やら添乗員から説明を受けていた。ここから乗り継いで別の都市へ向かうらしい。その姿を見て、団体行動が苦手な碧は、初めてでも一人でこうして来てよかったと思った。
 通路の所々にかけられているモニターに表示された為替レートを見て、「両替のレートが悪い」そう、隣にいた男性が言った。
 「日本で換えてこなかったんですか」
 「いや、ある程度は換えてきたんだけど、友達が『現地の方がレートが良い』と言っていて。信じなくてよかった」と胸をなでおろしていた。
 イミグレーションの入国審査官は愛想なく質問を繰り返す。何の目的できたのか、何日間居るのか、何所に泊まるのか、ロンドンでは何を見るのか、一人旅なのか、友達はUKにいるのか、家族はUKにいるのか、帰りのチケットを見せて、と。
 碧は一つ一つに英語で答えて、あっさりとパスポートにスタンプをもらった。
 飛行機を出るのが遅かったせいか、それ以外でそれほど時間を要した訳ではないが、スーツケースはすでにコンベアから降ろされていた。
 税関を抜けると、隣に座っていた男性が、「中心部までは何で行くか決めたの?」と聞いてきた。
 「そうですね、節約したいし、地下鉄で行こうと思ってます」
 「少し時間はかかるけど安いもんね」
 「どうやって行かれるんですか?」
 「ヒースローエクスプレスかなぁ。ホテルに少し早く着きたいし。あ、俺は一本吸ってから行くから。いずれまたどこかで」と言って、喫煙所に向かって歩いて行った。


 二月に入り、卒業旅行の日程は決まったのかと美幸が碧に聞いた。
 「行先は最初から決まってるんだけど、いつにしようか迷っているうちに、一月も終わっちゃって。ちょっと前に、慌ててホテルとか探して、三月の終わり位に予約が取れたからそこで行こうかなぁと」
 「どこに行く予定なの?」
 「ロンドンに」
 「あら、いいじゃない。楽しめるわよきっと。素敵な街だから」
 「美幸さんは『何しに?』とか『どうして?』って聞かないの?」
 「そう聞いても仕方ないじゃない。きっと行きたいと思って決めたんだと思うし」
 「でも、行くって言うと、だいたいそう聞かれるからさ」
 「まぁ、普通はそんなもんじゃない?」
 「何度かここにも連れてきたことある緑、覚えてる?その緑が今ロンドンに住んでいて、その緑に会う予定ではいるけど、他は特に決めてなくて。先月、本屋でイングランドとスコットランドの女王を描いたノンフィクションを買ったから、それを読んだりするのも良いかなって」
 「緑ちゃん?覚えてるわよ。明るくていい子よね。初めて会った時、感じが、あっこに似てるなって思ったの。顔じゃなくて雰囲気がね。あらそう。あの子今ロンドンに居るの?」
 「留学してるんだ。もともと、生まれ育ちもロンドンだし」
 「そう言えば、そんな事言ってたわね。思い出したわ。いい旅になりそうだわね」
 「そう思う?皆には勿体無いとか言われるけど」
 「ツアーで観光名所を巡るっていうのもそれはそれで良いのかもしれないけれど、気に入った場所でゆっくりとかできなかったりするでしょ。それに、その瞬間に食べたいものを食べられなかったりとか。碧君は特に語学も問題ないから、誰かに連れて行ってもらわなければ、どこかに行けないという事もないと思うし、公園やカフェで本を読んで、それがイングランドやスコットランドに纏わる本であるのなら、そこに描かれた場所にふらっと行ってみるのも良いと思うわよ。お友達にも会うんだし、ちょっと生活するみたいな感じで楽しめるんじゃないかしら。それに、若いんだもの。今回で終わりじゃないでしょうし」
 「なんかその生活する感じっていいなぁ。美幸さんは?行った事あるの?」
 「あたしは、若い頃に何度かね。ロンドンはとても好きな街よ。その影響でこの店の家具もイングランド製が多いし、車もあれよ」と、店の前に停めてある年代物のミニを顎でさした。
 「それにしても、行先がロンドンじゃぁ、ここのバイト代だけじゃ足りないんじゃないの?」
 「正直、半分はもらったお金なんだ」
 「あら。博子から?」
 碧は首を横に振って、「先月、春休みにロンドンに行きたいって、ママに言ったんだ。だけど、お金が少し足りないって。その時『ちょっと考えさせて』って。その何日後だったかなぁ、『あなたのパパからよ』って、飛行機のチケット代にも余るお金をくれたんだ」
 「まぁ、そうなの?その時、お父様の事は何か聞いたりしなかったの?その後、会ったりとか」
 「いきなりびっくりしたよ。今まで生きているとか死んでいるとか、そもそも『父親』っていう存在すら無いかのように育ってきたからさ。そりゃぁ、常識的に考えて自分にも父親が居るんだって思うけれど、それを口にしないって事は、聞かない方が幸せなんじゃないかなって思っていたし、なんかその延長というか、聞く必要ないかなぁって。でも、何かのきっかけで会う時がきたら、会わないこともないとは思うけどね。ただ、生まれてから一度も会ったことないから、戸惑いもあったり、うまく話しができるかもわからない。そんな時、いろいろ事前に知っているより、『お父さん、今は何をなさっているんですか』とも、わざとらしくなく聞けるし、それにその方がリアルに驚けたり、自然なリアクションになるんじゃないかなって。ただ、感情的には、今更『パパから』って、卒業祝いか進学祝いかわからないけれど、お金をもらってもとは思うよ。『ありがとう』の言葉も、直接伝える事も無いんだからさ。でも、それが無かったら航空券買うのが精一杯で実際に行ったとしても、食事にすら事欠く状態だろうと思えば、感謝はしてるよ」
 「そう、やっぱり何の心配もいらなかったわね」
 「何が?」
 「こっちの話よ」
あの頃の蒼汰と今の碧は同じくらいの歳なのに、しっかりしてるわね。それに引きかえ蒼汰はあまりにも子供だったわ。なんの苦労もなく育って、予想もしない事を知ったとはいえ。そう言えば、蒼汰は四月から日本勤務になるって、メールがきてたんだったわ。
「そうそう、餞別」
「いいよ、そんな」
「気持ちよ。緑さんにもよろしく伝えてちょうだい。日本に来ることがあったら、ぜひまた顔を出してって」
「じゃぁ、遠慮なく」


 碧は地下鉄のへ向かった。
 緑へメールをしたのは、ロンドンへ来る一週間前だ。出発する日と滞在日数を連絡すると、その日は迎えに行けないと返事があった。迎えに来てくれることを期待していたわけでもなく、そんな気を使わないでいいと返すと、宿泊先を教えてくれと言われた。ホテルの名と住所を教えると、空港から宿泊先のあるベイズウォーターまでの経路がいくつか書かれていた。
 速い経路、安い経路と丁寧に書かれていたメールの最後に、本当は迎えに行ければ良いんだけど、と結ばれていた。
 碧は、緑からのメールにあった安い経路に書かれた通り、ピカデリーラインからディストリクトラインへ乗換えてベイズウォーターへ向かう経路を選んだ。
 アールズコートまで、車窓に広がる景色が心地よかった。芝生の緑とレンガの色が調和し、所々に見える葉の落ちた木々が、当然の事だが、テレビや映画で観るヨーロッパの景色そのものだった。トンネルではないまでも、街とは一段下を走る部分の壁もレンガで出来ている。そのレンガに書かれた落書きも洒落たアートのように感じた。しかし、ロンドンの地下鉄は丸ノ内線や銀座線のようにレールとレールの間にある送電線から電気を取って走っていると聞いたが、それこそ落書きのために軌道内に入るのは自殺行為ではないかと思った。
 そろそろベイズウォーターだと思って降りる心づもりで準備をしていると、車内アナウンスでは通過するという。事態をつかめないまま不思議に思っていると、電車は駅であろう場所でスピードを落としたもののベイズウォーターを通過してしまった。反対側のホームは電気がついていたが、碧が降りたいと思うホームは閉鎖され照明も消されていて、そこにホームがあるかさえも分からない。碧は仕方なく隣のパディントンまで行く事にした。

 パディントンの改札を出ると、雲が空を覆い風が冷たかった。三月も末だったが、街を歩く人たちはまだダウンを着こみ、春物のコートに身を包んだ碧は街の景色からは外れていた。
 地下鉄で一駅戻ろうか。ふと、そう思いながらも、地図を見ればそれほど遠くもなさそうだ。改札も出てしまっているし、碧はベイズウオーターのホテルまで歩いてみることにした。
 方向音痴ではないという自信はあるものの、東京とは違う街を歩く多少の不安から、駅近くの売店でコーヒーを買い、そのついでにベイズウオーターへの行き方を店員に尋ねてみる。「この道をまっすぐ」という素っ気ない返事と、地図で確認した方角が同じで、国が変わろうとも、方向感覚は失わないものだと感じた。コーヒーを飲み終えてから、住宅街を歩くこと十五分。商店街へと移り変わった道の途中にベイズウオーター駅の入口を見つけた。駅前で、バウチャーと一緒にプリントしてきた地図を確認して、そこから五分とかからないホテルにも難なくたどり着いた。
 ホテルの外見は、予約をしたときにインターネットで写真を見てはいたけれど、古い集合住宅を改造してホテルにしているようなところで、日本の古い公団住宅のように入口がいくつか並んでいる。それぞれの入口が、アパートやホテルの入口になっていた。日本のビジネスホテルのように建物全体がそれなのかと思っていた予想を屑替えされた。碧が予約をしたホテルは建物に四つある入口の手前から三つ目だった。
 入口まで掛かるドライエリアの上を通る階段を数段上って扉を開けた。入ってすぐのロビー左側にカウンターがあり、右手にはラウンジがあった。ラウンジといえば聞こえがよいが、ソファーとテレビの置かれたリビングルームのような部屋だ。
 碧は、浅黒い肌の主人らしき不愛想な男性が立つカウンターで、プリントをしてきたバウチャーを見せ、予約していることを告げた。
 バウチャーを見ながら、パソコンで何やら操作したあと、早口で、「あなたが予約した通り、建物の裏庭側の部屋でシャワーとトイレは共同になります。部屋は三〇一号室、こっちの鍵が部屋の鍵。こっちの鍵が玄関の鍵。遅く帰ったときはこの鍵で玄関を開けて入って。それと、最終日のチェックアウトは十時半、朝食は七時四五分~九時十五分、グランドフロアの食堂だから」と言って、鍵をカウンターに置いた。碧は、主人の説明にただうなずいて鍵を受け取った。
 観光客でも英語がわかるという前提で話をするんだと思った。フロントのカウンターに、以前何かで見たことのあるガネーシャのカレンダーがあった。インド系の人が経営しているのかな。そうか、インドってイギリスの植民地だったことがあるんだっけ。今も英連邦の一つだっけなぁ。よく覚えてないけど。
 碧がカレンダーに気をとられていると、「部屋は、そこの奥に階段とエレベーターがあるから、三階まで行って」と主人がフロアの奥にある扉を指した。
礼を言って部屋に向かう。エレベーターの表示を見て、ここ一階だったんだ。確かに入口のところで数段上がったけど。ってことは、部屋まであと二つ上がるだけだし、壊れそうな古いこのエレベーターに閉じ込められるのもなんだからと階段を上った。
 部屋はとても狭く、トイレどころかバスタブやシャワーは無い。テレビすら置かれていない部屋に、B&B(Bed & Bleak Fast)って名前の通りなんだと思った。でも、ホテルなんて寝に帰るだけだしな。と、あまり多くはないが、キャリーバッグから荷物を出して、クローゼットやドレッサーにそれぞれ仕舞った。


 翌朝目覚めた時にぼんやり見えた時計の針が五時を指していた。まだ明けない夜を窓の外に広がる景色が、いつもとは違う朝を思い出せる。部屋に目を戻すと、夕べ、物凄い睡魔に襲われながら、「今寝ちゃダメだ」と、駅近くのコンビニでミールディール(サンドイッチと飲み物、デザートのお買い得なセット)を買ってきて、食べ散らかしたままのサンドイッチが、ドレッサーの上に散らかったままだ。
 確か朝食は七時四五分からって言ってたから、まだ二時間ちょっとあるな。まずはこれを片付けてシャワーでも浴びてくるか。
 半階降りたところにあるシャワールームの高い窓から、日の光が差し込み始める。
 蛇口をいくらひねってもシャワーハンドルから生み出される飛沫は少し温く圧の低いものだった。勢いよく肌に打ち付ける熱いシャワーが好きな碧は少し物足りなさを感じた。いつもとは違うすっきりした目覚めにならない気がした。
 シャワーから出て、買ってからあまりページを開くことがなかったガイドブックのページを捲ってみる。飛行機の中で隣り合わせた人と、美術館の話をしたことを思い出す。そうだな。大英博物館とテートモダンへは、今日行く事にしよう。そこへ行くためのルートにある観光地を気が向いたら見てみるのもいいかもな。一人呟きながら、大まかなルートを決めた。
 特に何をすることも無いのだから、ただここに居ても暇なだけだし、食堂が開いたらすぐに行って、八時半にはホテルを出ようと思った。でも、オフピークの時間は九時半からだし、それまでは地下鉄に乗るのもなんだなぁ。そうだ、緑へメールしなきゃ。

 緑へメールを送ると、時間を置かずに電話が鳴った。
 「なによぉ。すぐ連絡くれればよかったのに」
 「いやー、ホテルに着いたらすごい眠気に襲われてさぁ」
 「それで寝たの?」
 「いや、時差ぼけしたくないから頑張って九時くらいまでは目を開けてたよ。」
 「なら良かった。ところで、今日の夜は空いてる?」
 「うん、特に予定があって来ている訳でもないしね」
 「じゃぁ、夕飯一緒に食べよう。紹介したい人もいるのよ。そうね、午後八時にエロスの前でいいかしら」
 「いいよ」
 「エロスは、ピカデリーサーカスにあって、駅を出ればすぐにわかるわ」
 「うん、わかった」
 「ロンドンを案内するとか言っておいて、今日も夜まで会えなくて申し訳ないんだけど・・・」
 「気にしなくていいよ」
 「ありがとう。じゃぁ、あとでね」


 碧は九時になるとホテルを出た。夕べ降っていたのであろう雨も上がり、道路は乾き始めていた。空を覆う雲の流れが速く、ところどころに晴れ間ものぞく。地下鉄のオフピークまでの一時間をハイドパークで過ごそうと思った。
 ホテルからハイドパークまで十分とかからない。ベイズウォーターロードを渡り、ハイドパークに足を踏み入れると、まるで映画でも観ているかのようだった。
 ジョギングをする人。通勤だろうか、足早に歩く人。犬を散歩させている人。碧は、公園の一番外側の道を東へ向かって歩き、ロング・ウォーターの西側を南に降りた。確か、この先にカフェがあるみたいだから、そこで本を読めばいいだろう。
 ロング・ウォーターで羽を休める水鳥を眺め、寒いながらも朝の散歩の心地よさを感じる。
 「ほらあそこ見てごらん、頭のおかしな人がいるよ」
 不意に老人が声をかけてきた。その老人が指を指す方を見ると、湖岸から湖に向かって伸びる桟橋を太った老人が水着一枚で歩いていた。
 「あの人、ここで泳ぐんだよ」
 「ほんとに?この寒い中?」
 そう言っていると、その老人は湖に飛び込んだ。
 湖岸は、砂浜ではないが、波の出るプールのプールサイドのようにコンクリート張りになっていて、着替えのできる施設らしき場所の前にはシャワーも設置されていた。夏であればともかく、真冬のこの時期によくもまぁと目を丸くして、「見ているこっちが寒くなりますね。僕は心臓麻痺で浮かんで来た彼を助ける羽目にならない事を祈ります」と声をかけてきた老人に言った。
 老人は声を出さずに笑いながら、彼に目を向けて「頭がおかしいんだよ」と言ってその場を立ち去った。その先に歩いていた若いカップルも、泳いでいる老人に気が付き、彼氏の方が湖に向かって歩きだした。そして左手を水につけるとすぐに手を振りながら水を切って、こっちを向いて「すごい冷たいよ。変な人だね」といった。
 この寒空の下、湖で泳ぐ人ほどではないかもしれないが、スプリングコートで歩く自分も、周りから見れば、少し変わった人と思われているのだろうか。
 何分経っただろう。ひと泳ぎ終えた老人が、湖に入る前とは違って、速足でタオルの置いてあるところに向かった。それを見届けた碧は湖の端にあるカフェへ足早に向かった。

 カフェで日本から持ってきた本を読み、ロンドン塔に興味がわいた。
 そっかぁ、エリザベスはロンドン塔に幽閉されていたことがあるのかぁ。そうだ、明日あたりにロンドン塔に行ってみるかなぁ。
 さてと。今日は美術館。
 頭の中で独り言を言って、マグカップに残ったコーヒーを飲み干し、席を立った。

 大英博物館の入り口で、大きな寄付金を入れる箱を後目にエントランスへ向かう。入って左のクロークにコートを預けた。
 「一日じゃ全部回れないって」
 飛行機の中で隣に座った男性との会話が耳の奥で再生される。
 いくつかのブースを回り、昼食に立ち寄ったミュージアムカフェで、エントランスで手にした館内案内を見ながら、次はどこを回ろうかと考える。
 ミイラ。そうだ、ミイラのコレクションが多いって聞いたことある。エジプトのコーナーを観るとして、確かに全部回っていたら、今日はテートに行けないなぁ。碧は最後のコーヒーを飲み干して、席を立った。
 一日では観て回れないという大英博物館を、約半日で後にして、テートモダンへ向かった。
テートモダンへの移動は、ダブルデッカーを使った。ベタではあるが、ロンドンの象徴ともいえるものの一つだ。セントポール大聖堂の裏手でバスを降りて、ミレニアムブリッジを渡る。テートモダンの建物は元々バンクサイド発電所だったところ。一九八一年にはその役割を終えていた。機械搬出などで一部取り壊しの始まった建物だったが、展示・収蔵スペースが不足していたテート・ギャラリーがそこに目をつけて一九九四年にその建物を改造して再利用することが発表された。二〇〇〇年の五月、ミレニアムを祝う新施設としてオープンした美術館だ。
 元々発電所であったため、大きな吹き抜けのあるホールが特徴的で、その空間を利用した展示なども行われている。碧はテートモダンの各フロアをめぐり、まだ無名の作家が描いた作品などに足をとめた。「そうだポストカード」そう思い立って、ミュージアムショップで気に入った作品の描かれたポストカードを数枚購入した。閉館の時間までテートモダンの中で過ごすと、待ち合わせの午後八時迄の時間を、デパートやCDショップをぶらついたり、カフェに入って本を読んだりして待った。


 「碧」
 声の方を振り向くと少し離れたところから手を振る緑が居た。その横には長身で同い年くらいの男性が立っていた。
 「ひさしぶり」
 「ねぇ、そんな薄手のコートで寒くないの?」
 「寒いよ。ロンドンがこんなに寒いなんて思いもしなかった。東京と同じくらいなんじゃないかと思ってこの格好で来たんだけど」
 「東京より緯度が高いからね。しかも今年はいつもの年より寒いのよ。特にここ数日はね。来る前にちゃんと連絡くれればその辺だって教えられたのに」と冗談めかした顔で笑った。
 緑の隣で所在なしげに立っていた男が、「ハジメマシテ、ワタシハ、ブラッド、デス」と片言の日本語で会話に入ってきた。
 それを聞いて緑は慌てて英語で「あ、ごめんごめん。ブラッドよ。この子が話してた碧」と、お互いに紹介をした。
 碧が英語で「はじめまして」とあいさつをすると、「碧は英語が得意なの。だから無理に日本語使わなくていいわよ。肝心なこと言わなくてごめんね」とブラッドに言うと、ほっとしたような顔をした。
 「こんなところで立ち話も何だし、早くどこか入ろう。寒いしさ。碧は何を食べたい?」
 「なんでもいいよ。まぁ、せっかくなら土地のものが食べたいけど」
 「こっちに来てから何を食べたの?」
 「ハンバーガーとピザ」
 「なによ、イギリスのもの何も食べてないのね」
 「泊まってるのがB&Bなんだけど、朝食がパッサパサのパンと、苦いコーヒーだけでさぁ。コンチネンタルブレックファストとは言わないけど、もう少しまともなものが食べられるかと思ったんだけど」
 「ベイズウォーターでしょ?一泊いくらなの?」
 「三〇ポンド」
 「安い。それじゃぁ無理よ。みんな何かほかのものとか持ち込んでない?」
 「言われてみれば」
 「ねぇ、こんな寒いところで、立ち話を続けるつもり?」
 「あぁ、ごめんごめん。取り敢えず、パブでいいかなぁ。ねぇ、この間カレッジの皆と行ったところなんてどうかしら」
 「いいねぇ」

 宵の口のパブは、仕事帰りのビジネスマンなどで混雑していた。小さなカフェテーブルを何人もの人で囲み、楽しそうに話しながらビールを口に運ぶ。
 「碧は何飲む?私は、ギネスからいくかな」
 「そんな堂々と」
 「あら、イングランドじゃ十八歳から飲酒ができるのよ」
 「そうなの?」
 隣でブラッドがうなずき、「僕もギネスにするけど、碧はどうする?」
 「俺もみんなと同じで」
 「あら、碧。大丈夫なの?」
 「なんだよ、馬鹿にして。俺だって、飲んだこと無いわけじゃないんだぜ」
 「冗談よ。ねぇ、食べ物も適当にお願い」
 「オッケー。席、みつけといてよ」
 「行こう」
 比較的カウンター近くの窓際に空いているテーブルを見つけ、そこに向かった。
 「ブラッドはね、幼馴染なの。家が近くて、小学校まで一緒だったのよ。日本から帰ってきてカレッジに入ったら、偶然にもまた一緒。なんだかね」
 そういいながら、緑は手前の席に手をかけた。自然と碧は奥の席に促される。
 「でも、そういう幼馴染っていうか、友達がいるのはうらやましいな。俺、一応全部公立の学校に行ったけど、ずっと一緒なんて友達いないよ」
 「碧はさぁ」言いかけたところで、ブラッドがビールを手にテーブルへ来た。
 「あ、キャッシュ・オン・デリバーだよね。いくら?」
 「碧、ロンドンではね、割り勘ってないの。買いに行った人がみんなの分を払うのよ。で、順番に買いに行けば、結局割り勘と同じでしょ?」
 「へー。合理的というか、大勢だとたくさん飲む羽目になるというか」
 「その辺は臨機応変というか」
 「碧、コート着ていて暑くない?」
 コートを脱いで、軽くたたんで膝の上に置こうとすると、「この上に置けばいいよ」と、ブラッドが脱いだ自分のコートを足元に投げた。そんな行動に衝撃を覚えていると「私のもいい?」と言って緑がコートを投げた。
 「碧も乗せちゃいなよ」
 「あぁ、うん」と、控えめにコートをその上に置いた。
 「改めて、再会と初めましての乾杯」緑が言うと、三人はグラスを合わせた。
 「そうそう、忘れないうちに」
 碧はそう言うとバッグから小さな二つの包みを出した。
 「大した物じゃないんだけど」
 「日本人ぽいわね。開けていい?」
 「是非」
 「あ、埴輪屋のお菓子。ブラッド、これ凄く美味しいのよ。私が住んでたところの近くにあるフランス料理もやってる洋菓子店のもの。ありがとう碧」

 「ブラッドはね、結構日本好きなのよ」
 「日本の文化にすごく興味があるんだ。カレッジに入ってから、日本語の勉強も始めたし、卒業までには、一度は日本に行きたいって思ってる」
 「文化って、京都とかの古いやつ?」
 「それも興味あるけど、音楽とかアニメとか最近のものの方が、興味深いかなぁ」
 「どんな音楽聴くの?」
 「ちょっと有名じゃないんだけど」と言ってから、ブラッドは碧の好きなロックバンドの名を言った。
 「えっ、俺もそのバンドすごい好きなんだけど」
 「碧が好きって、あのギターレスのピアノバンド?あれブラッドも好きなの?」
 「ロンドンで彼らの名前を聞くとは思わなかったなぁ。なんかスゲーうれしい」
 碧とブラッドが少し興奮気味に音楽の話をはじめると、「じゃあ次は私が買ってくる。みんな何飲む?」と、緑は次のビールを買いに席を立った。
 緑がビールを持ってくるのと同時に、サンデーローストとフィッシュアンドチップスもテーブルに並んだ。
 「二人はなんか気が合うんじゃないかと思ったから紹介したんだけど、やっぱり私の見立ては間違ってなかったわね」
 「まぁ、俺ら緑の友達だし、友達の友達ならそこそこ合うと思うけど」
 「なんかそれを超えてる。だって、二人はさっき会ったばかりなのに、もう私が蚊帳の外じゃない」
 待ち合わせだろうか。時間が経つにつれ、小さなカフェテーブルを囲む人数も増えてくる。碧達の座った隣のテーブルにも、待ち合わせに遅れたと思われる女性が新たに加わった。
 彼女が椅子を持ってきたので、碧は置いてあったコートを少し移動すると、彼女は礼を言った後、気さくに話し掛けてきた。
 「貴方のこのピアスとても素敵ね」碧のしているフェザーを模したシルバーのピアスを見て言った。
 「ありがとう」
 「どこで買ったの?」
 「日本で」
 「あら。遠いのね。観光で行ったの?」
 「今、観光旅行中で、日本に住んでます」
 「みんなと普通に話しているから、ロンドンに住んでいるのかと思ったわ。英語もとても上手だし。でも、残念。そのピアス、本当に素敵なんだもの」
 そんな会話を交わし、彼女は彼女の友達との輪に加わった。
 「碧、明日以降のスケジュールは?」
 緑が聞いた。
 「特に決めてないけど、そうそう、ロンドン塔は行ってみようと思ってる。今、エリザベス一世とメアリースチュアートの本を読んでて、エリザベスが幽閉されていたことがあるって書いてあったから、ちょっと行ってみたいなって」
 「ブラッドは?」 
 「俺は特に用はないけど」
 「じゃぁ明日、碧を案内してあげてよ。私は書かなきゃいけないレポートがあって・・・、また夜ご飯は一緒にできると思う」
 「俺、別に一人でも平気だけど・・・」
 「いいじゃない折角なんだし。本当は私も行きたいんだけど」
 「じゃぁ、明日、俺がベイズウォーターのホテルに迎えに行くよ」
 「そんな悪いなぁ」
 「気にしなくていいよ。俺が日本に行ったら碧に案内してもらうし。通訳という大役もあるしね。まぁ、いつになるかはわからないけど」

 しばらくパブで飲んだ後、ピカデリーサーカスの駅で三人は別れた。碧の後姿を見送りながら緑は声にならない言葉で、離れていく碧の背中に話しかけた。「私ね、碧にアルコバレーノに連れて行ってもらってから、一度だけ家族と行ったことがあるのよ。でも、その時の客層って碧くんに連れて行ってもらう時とは全然違ってたわ。週末ってこともあるのかもしれないけれど、少なくとも、若い女の子ばかりが集う店って感じではなかったの。お店の雰囲気に合った大人の人が多かったわ。碧は本当に鈍感なのか気が付いていないふりをしているだけなのかわからないけれど、周りのお客様にはいつもまったく興味がなさそうだった。でも、それは小学生の時も同じだったわね。周りのざわめきは、碧の耳には届いていないように過ごしていた。同じ学年の多くの女子が碧を狙っていたのに。
私、あの日の夏から、こうして碧の背中を見送るのが好き。はじめは少年の背中だった。でも高校に入る頃には男の背中に変っていた。そんな背中を、あの交差点の角で、いつも見送ってきたんだから。
 碧の背中をずっと追い続けている緑に、「何考えてるの?」と、ブラッドが声をかけた。緑は、はっとして「何も。さぁ、私たちも行こう。寒くて凍えちゃう」と胡麻化した。



 三年前
 中学を卒業したあとの春休み。久しぶりに碧と一緒に映画を観に出かけた。イギリス文学を映画化したもので、大々的に宣伝もされていなければ、シネコンなどでは上映されておらず、東京では渋谷のミニシアター一か所だけでしか上映されていなかった。
 碧に見たい映画があると言われ、特に内容も聞かず話題になっている映画のどれかだろうと予定を合わせたが、それらとは全く縁がないような映画にびっくりした。
 「この映画なら一人で観てもいいような・・・」
 映画を観終わって、緑が言った。
 「まぁ、そうなんだけどさぁ。せっかくだし、久しぶりに会えたら良いかなって。ねぇ、この小説って、緑持ってる?」
 「確か二年前に読んだわ。家にあるかなぁ」
 「日本語?英語?」
 「英語。現地のものよ。夏休みにロンドンへ帰った時に買ったんだもの」
 「それ、貸して」
 「いいわよ。帰りに家よって」
 今日はあの角で見送ることはないのか。ちょっと残念。
 「なかなか洋書って手に入らないというか、しかも高いしさ。ちょうどいい時間だし、一緒に飯食って帰ろうぜ」
 「あ、うん」
 「今日、月曜日だから、俺、いつも行ってる店にいきたいんだよね」
 「いつか話してたお店?」
 「そう。俺、月曜日は特別何かない限りはずっとそこで夕飯食ってるんだよ」
 最寄りの駅を降りると、桜の花びらが風に飛ばされ、足元の吹き溜まりはピンクから茶のグラデーションをつけた花びらが行き場もなく渦巻いていた。
 「日本に来てずっとこの街に住んでいるのに、南口ってあんまり来た事がないのよ」
 「へー。まぁ、用がなきゃ来ないよな。俺もアルコバレーノくらいしか南口に用がないし」
 住んでいながら、あまり歩いたことのない商店街を抜け、住宅街に入ると一軒だけ懐かしい雰囲気を出している店があった。
 「なんか、懐かしいイメージ。ちょっと日本ぽくない店ね」
 「店の名前も『アルコバレーノ』ってイタリア語だし、建物もヨーロッパ風というか。美幸さんの趣味なんだ」
 「うん。すごくいい感じ」
 碧は自宅の玄関扉を開けるように、そして「ただいま」とでも言うように扉を開けて入っていった。そんな碧の後ろから敷居をまたぐ。中学生や高校生には敷居が少し高いと思えるような雰囲気だ。でもそんなことなど碧は全く気にしていない様子だった。
 「あら碧君。ちょっと遅かったから今日は来ないのかなって思っていたところよ」
 「映画、観に行ってたんだ」
 お店のご主人と思しき人と話をしている碧の肩越しから、ちょっとしたざわつきと一緒に、ものすごい視線を感じた。
 「美幸さん、緑。小学校の時のクラスメート」
 「初めまして。竹田緑です」
 「初めまして。美幸です。ゆっくりしていってね。ねぇ、碧君テーブル席は空いてないのよカウンターでいいかしら」
 「もちろん。俺、いつもカウンターだから、その方が落ち着くし。しかし相変わらず繁盛してるね」
 カウンター席に並んで座ると、さっき感じた視線が背中に痛かった。私、場違いな場所に来たかな。いや、場違いと言うよりは、この痛い視線の原因は隣にいる碧のせいだ。そのせいで店の中の雰囲気を楽しむこともできない。
 「ねぇ、いつもこんな感じなの?」
 「何が?」
 「お店の・・・」
 「あぁ、前はもう少し落ち着いて食事できたんだけど、最近はなんかお客さん増えて、結構落ち着かない感じなんだよね」
 「緑は何か嫌いな食べ物ある?」
 「特にないけど」
 「美幸さん、おまかせ二つね」
 正直、いいお店だと思うけれど、今の私はとても居心地が悪い。視線の主たちと、もし同じ学校とかだったら、また何を言われるかわからない。相変わらず碧はそんなこと気にもしないように楽しそうにしている。
 「どうかした?」
 「どうもしてないよ」
 なるべく自然に言ったつもりだけど、きっと気が付かれたな。碧は、女子の視線とかにはもの凄く鈍感なのに、結構、人に対する観察力とか凄いもんな。
 「碧、いらっしゃい」
 「彩斗さん、こんばんは」
 「彼女?」
 「彼女とかじゃないけど、友達の緑、小学校の時のクラスメート」
 「はじめまして、緑です」
 「はじめまして、彩斗です」
 挨拶を交わしているだけなのに、視線の強さが半端ない。そうかぁ。この彩斗さんも長身でイケメンだし、碧と二人揃えば、腐女子の妄想力が爆発する。恐らく、碧派と彩斗派がいて、ジャニーズのファンじゃないけど、同担は友達になれないとか、そんな感じかもな。芸能人だと二・五次元的感覚だけど、店員であれば明らかに距離が近くなる。しかし、振り返ることすら怖くてできない強い視線のせいで、運ばれてきた食事の味すらわからないわ。
 「あれ、碧のカップは違うのね」
 「そう、俺専用のマグ。去年の誕生日に彩斗さんがプレゼントしてくれて。だから、特別に置かせてもらってるんだ」
 「へー。なんか、碧の家みたいね」
 「緑さんはどちらにお住まいなの?」
 美幸がひと段落ついたらしく、カウンターに立ち話しかけてきた。
 「北口の、ほんとここからすぐ近くです。でも、こんな素敵なお店があったなんて、まったく知らなくて。雰囲気がすごく懐かしい感じで、とても気に入りました」
 「緑は帰国子女で、ロンドン生まれなんだ。小学校で同じクラスとは言っても、小六の一学期だけだったんだけどさ」
 「私が転校したからね」
 「じゃぁ、また戻っていらしたとか?」
 「転校って言っても、ブリティッシュスクールに通うようになったので、その時は引っ越してないんです」
 「そう。ロンドンは私も若いころ何度か行った事あるわ。一時期は、まぁほんの一年くらいだけど住んでいたこともあるの」
 「そうなんですか?それでかもしれないですね、懐かしい感じがするの」
 「そう言ってもらえると嬉しいわ。良かったらいつでも寄ってね」
 「はい。是非来させていただきます」
 そうは言ったものの、碧が毎週月曜日来ているのであれば、その日は外した方が無難だ。あと、その日に彩斗さんも居ない日がいいかな。緑はそんなことを思った。



 ホテルのラウンジとは言い難いリビングルームのような場所で碧はブラッドを待った。
 「おはよう」
 片手には余分にダウンのコートを抱えてブラッドが立っていた。
 「おはよう。碧、昨日寒そうだったから。俺ので悪いんだけど」
 「えっ、ありがとう。今日、どこかで買おうかとちょっと迷ってたんだ。ちょっと、まってて。これ、部屋に置いてくるよ」
 薄手のコートを抱えて部屋に急いだ。
 「ちょと大き目だけど、あったかい」
 「よかった。いらないって言われたらどうしようかと思ったけど。ところで、朝食は?」
 「うん」あたりを見渡して、二人以外誰もいない事を確認すると、「パッサパサのパンはもう食べたくなくて、苦いコーヒーだけ我慢して飲んだよ」
 「そっかぁ。じゃぁ、ロンドン塔行く前に軽く何か食べて行こうよ。俺も、朝食まだなんだ」
 「いいね」
 「ちょっと、方角違うんだけど、リトルベニスにお気に入りのカフェがあるんだ」
 「リトルベニスって?」
 「パディントンの近くに運河があって、そこがイタリアのベニスに似てるからって、そういう名前になったらしいんだけど、俺はイタリアも行ったことがないからわからないけど、全く別物らしい」
 「へー。俺、一昨日パディントンで降りたんだけど、全然気が付かなかった」
 「ベイズウォーターで降りなかったの?」
 「工事中で通過するって」
 「そっかぁ。ベイズウォーターってまだやってたんだなぁ。多分、日本だったら数か月で終わるような工事なんだろうけど、一年とかやってるんだよね。まぁ、リトルベニスはパディントンからベイズウォーターまでの道沿いではないから」
 ホテルを出て、大通りを真直ぐに北へと向かう。陸橋を渡り高速の高架下を通り抜け、少し歩いたところに、そのリトルベニスはあった。
 「このブックカフェ。俺のお気に入り」
 「いい感じ。もう少し季節が良ければ水辺だし、外の方が気持ちよさそう」
 「まさに、その通り」
 「俺、ベイクドビーンズ オン トーストかな」
 「豪華な、リトルベニスブレックファストじゃなくていいの?」
 「それだと、たぶん食べきれないな」
 「コーヒーも飲む?」
 「うん」
 係留され続けているであろうボートに乗り込み、運河を眺めながらの朝食。トーストもコーヒーも、ホテルの“パッサパサ”のパンや苦いコーヒーよりよっぽどいい。
 ふと、「ちょっと生活するみたいな旅」と言った美幸の言葉を思い出した。
 「ロンドンって、なんかいいね。なんかいろいろ丁度良い」
 「え?何が丁度いいの」
 「うーん、何て言うか、サイズ感。街のサイズとか・・・そう、地下鉄の大きさも東京の地下鉄みたいだし、建物の大きさとか、人との距離感とか。まだ何日も居ないのに、そんなこと言えないのかもしれないけど、なんとなくそう感じる」
 「俺はこの街しか知らないから何とも言えないけど、もし東京に行ったらそう感じる?」
 「それは、わかんないよ。ブラッドの感覚でどう思うか。少なくても、自分はそう感じたってこと」
 「ふーん」
 「エリザベス女王とメアリー女王の本を読んでるって言ってたけど、歴史好きなの?」
 「特別興味があった訳じゃないんだけどね、先月、本屋をぶらついていた時見つけたんだ」



 一週間前、カレッジのカフェテリアで、緑とランチをしている時、緑の携帯が震えた。
 「碧・・・、なんだろう」
携帯を見つめ、メッセージを読んでいた緑の顔がどんどん緩んでいく。まるでタイミングを見計らったように、朝からの雨が止んで、雲の隙間から差し込んだ光が緑を一層輝かせて見せた。
 「何、何?なんかいい事あった?」
 「いつも話している碧がね、ロンドンに来るのよ」
 緑は嬉しそうに話した。
 「勝手に私が約束させたの。卒業旅行で絶対にロンドンに来てって。しかも来週よ。ちょっと急って言うか、決まったらすぐに教えてくれればいいじゃないね。やだぁ、あたし、その日迎えに行けない・・・」
 スケジュールを管理しているアプリを立ち上げて、残念そうに言った。
 「でも、その約束を果たしてくれるなんて、いい人なんだね」
 「そうね。いい人。とってもいい人よ」
 そう話す緑の横顔に、きっと恋をしているんだなと感じた。ちょっと変ってるところもあるけどね、と緑は付け加えた。
 「空港からホテルまでの経路を教えてあげたら助かるんじゃない?」
 「そうね、そうするわ」
 「たぶんね、ブラッドとは気が合うんじゃないかと思うのよ。だから、絶対紹介するから、来週のスケジュール開けておいてね」
 「強引だな」
 「いいじゃない。どうせいつも暇なんだから」



 緑が半ば強引に引き合わせてくれた事に感謝をしている。
 昨夜のパブでの時間、こうしてカフェで話している時間、なぜか暖かな風に包まれるような感覚を憶える。そしてそんな空気にふと時間を忘れそうになる。ロンドンを案内しなければいけないのに。ブラッドはロンドン塔に行くことを忘れているかのように話をしている碧を見つめた。
 「そろそろ行こうか」
 「そうそう、五ポンドくらいだったよね」
 「いいよ。そんなの。言ったろ?割り勘ないんだ」
 そう言って笑うと、「じゃぁ、お昼は俺が出すから」と言って、二人は席を立った。

 パディントンから地下鉄に乗り、ロンドン塔に向かった。
 タワーヒルの駅を降りると、近くにロンドン・ウォールが見えた。
 「何?あの壁みたいな」
 「二世紀位にローマ人がブリテン島に来た時、この辺にロンディニウムっていう居留地を建設して、その周辺に作られた防御壁。ちなみにロンディニウムがロンドンの語源ね」
 「へぇ。ここからロンドンが始まったって感じだね」
 「さ、行こう」
 ロンドン塔のチケット売り場で碧は料金表を見て驚いたように言った。
 「入場料結構高いんだね。大英博物館もテートモダンもタダだったからそう感じるのかもしれないけど」
 「国じゃなくて王室が所有している場所だからね」
 少し高くなりはじめた日差しと、頬をなでる風が、昨日のものとは変わって心地よくすら感じた。昨日の曇り空とは違って、透き通るような青空からの日差しがそう感じさせるのだが、なんとなくブラッドから借りたダウンジャケットの気持ちが身体を温めているのだろうとも思う。
ゲートをくぐるとすぐに、ヨーマン・ウォーダーズがいて、人だかりになっていた。
 「ヨーマン・ウォーダーズはビーフィーターと呼ばれていて、その名前の由来は諸説あるみたいなんだけれど、お給料もよくて、肉をよく食べることができたからという説もあるみたいだよ」
 「へー。確かお酒であったよね?」
 「有名なロンドンドライジンのブランドだね」
 「じゃぁ、今晩はジンを飲んでみようかなぁ」
 「いいねぇ。今から夜が楽しみだ。写真、撮る?」
 碧を気遣いブラッドが言う。
 「写真かぁ。考えてなかったなぁ」
 「スマホ貸して」
 碧からスマホを受け取ると、ヨーマン・ウォーダーズに声をかけ、碧を隣に立たせてシャッターを押した。
 「碧は、あまり写真撮らないの?」
 「まぁ、そうだけど、なんで?」
 「あまりにもぎこちないからさ。立ち姿とか笑顔とか」
 そう言って、撮ったばかりの写真をスマホ画面に広げて碧に見せた。
 「それはブラッドの腕が悪いんだよ」
 「えっ、俺のせい?」
 笑いながら、歩みを進める。ヨーマン・ウォーダーズの横にはそれから何人目だろうか、いかにも外国人観光客と思しき人が経っていた。
 右手の土産物店を通り過ぎたテムズ川に面した壁にアーチ状の鉄格子が入った門があった。
 「このゲートは、トレイターズ・ゲートと言って、身分の高い人が幽閉されるときにこのゲートから連れてこられたんだ。当時はテムズ川の水もここまで来ていて、船で入ってきたらしい。エリザベスも、メアリー・テューダーの刺し向けで幽閉されたとき、ここから入ってきたんだって」
 「あ、その場面は読んだ。そっかぁ。ここからエリザベスが入ってきたんだなぁ」
 城壁の近くにカラスを見つけたブラッドが思い出したように碧に尋ねる。
 「ねぇ、ここって、カラスが多いと思わない?」
 「言われてみれば確かに」
 「ここでは、カラスを飼ってるんだよ」
 「そうなの?態々?」
 「そう。伝説というか、これも諸説あるんだけど、昔、アーサー王が魔法でカラスに変えられてしまって、カラスを殺すことはアーサー王に反逆することになるという話と、チャールズ二世が城壁にいるカラスが邪魔だと、駆除しようとしたところ、占い師に、カラスがいないと、ロンドン塔もなくなり、王国も滅びてしまうと言われたかららしい」
 「そんな伝説でも、今も守られているってすごいね」
 「その時々で変わるみたいだけど、六、七羽買われていて、遠くへ行かないように羽も切られているらしい。でも、たまに脱走することもあるんだって。それに名前もついてるらしいよ」
 「結構かわいがられてるなぁ。しかし、ブラッド。ロンドン塔や歴史について結構詳しいんだね」
 「まぁ、昨夜ちょっと調べたんだ。せっかく案内人の役を仰せつかっても、案内できなきゃ意味ないだろ?」
 ウォークフィールド・タワー、ブラッディー・タワーとその中に展示されている、中世で拷問に使われていた道具などを見て回ったあと、処刑場跡についた。芝生がきれいなその場所が、かつて処刑場であったとは思えないほど、心地よかった。
 「ここが処刑場所だったなんて」
 「最後は、第二次世界大戦の時、一九四一年スパイ容疑で捕らえられていたドイツ兵だよ」
 「最近って訳ではないかもだけど、歴史的には結構最近の事なんだね」
 処刑場跡に銘板に刻まれた、ヘンリー八世の元妃たちの名前を碧は興味深く眺めた。そこにはアン・ブーリンの名もあり、確か不貞の濡れ衣を着せられて処刑されるにも関わらず、エリザベスに、「あなたの父親は素晴らしい人」と言っていたのを思い出す。
 銘板に見入っている碧にブラッドが話しかける。
 「処刑には二つのタイプがあって、一つは民衆の前で晒し物にして処刑するもの。もう一つは極秘裏に処刑を済ませてしまうもの。この場所は後者の時に簡易的な処刑台を設置して処刑をした場所なんだって」そう言うと、ご飯はどこで食べたいか尋ねた。
 「まだ、全部観れていないんだよね」と言う碧に、ミュージアムカフェで食べて、その後残りを観ようと提案をした。
 カフェの中が、外の明るさに対して、極端に薄暗く感じる。以前、目の色が青いと光を強く感じると聞いたことがある。だから西洋人はサングラスをかけるし、部屋も間接照明が多いと。ただ、今日は眩しい日差しが降り注いでいて、白い建物からの反射光もあるか更にそう感じるのかもな。
 木製のテーブルや、調度品がアルコバレーノにあるものに似ているようにも思えた。
 確か、美幸さんが言ってたな。イギリス好きで家具もそういったものを集めたって。
 カウンターに飾られた食材から、好きなものをチョイスするシステムは大英博物館と変わらなかった。
 「昨日も思ったんだけど、どこも量が多いよね」
 「そうかなぁ。碧がそう感じるんなら、そうかもね。俺には普通だけど」
 「このポークソテーでいいかなぁ」
 碧がポークソテーの下に厚みが一センチ以上もありそうなマッシュポテトが敷かれたものを注文した。その付け合わせにはフライドポテトと、グリンピースが添えられた。
 「パンはいらないの?」
 「これだけで充分」
 テーブルについて、「イギリス人って芋好きなの?」と碧が聞いた。
 「まぁ、イギリスの気候に合っていて栽培しやすかったことと、安くて栄養価が高いから労働者階級に求められたとか言われているけどね。でも、理屈とかじゃなくても美味しいから」
 「イギリス人にも味覚ってあったのか」
 「失礼だなぁ。世界では確かに不味いと言われているみたいだけどさ」
 「ローストビーフ、フィッシュアンドチップス、コンチネンタルブレックファストが代表料理って。以前、日本の友人に『イギリスで飢え死にしたくなければ中華料理かインド料理を食べろ』と言われたことがあってね」
 「あとは、アフタヌーンティーかな。でも、昔に比べて結構良くなってると思うよ。イースト・ロンドン、まさにこの辺だけど、新しくお洒落な店もたくさんできてて何処も美味しいって」
 「まぁ、俺は今のところ不味いとか思ってないけどね。量が多くて、芋ばっかりとは思うけどさ」
 ブラッドが「緑が『夕飯何が良いか』って」と、携帯を見ながら言った。
 「今、昼飯食ったばかりで、あまり考えられないなぁ」
 「シーフードとか大丈夫?」
 「俺、好き嫌いないから」
 「ソーホーに美味しいシーフードレストランがあるんだけど、そこにしようか?その後、クラブとか行っても良いし。緑とは一九時くらいに待ち合わせよう」
 「そこはイースト・ロンドンじゃないんだ」
 「クラブに近くて、美味しいのがそこなんだよ」
 ブラッドが緑へ返信するのを待って、席を立った。
 「じゃぁ、次はジュエルハウスで世界一のダイヤモンドを見て、その後ホワイトタワーかな」
 「任せるよ」

 ジュエルハウスの入り口は、巨大な金庫の扉だった。まるでアニメにでも出てきそうな巨大な扉に感心して中に入る。
 「すごく奇麗だなって思うけど、ただの炭素の塊というか・・・」
 「それを言っちゃぁ・・・、まぁ、希少価値だから」
 長居をすることなく、最後にホワイトタワーへ向かった。ホワイトタワーが日本の城で言うところの天守閣。中には鎧などが飾られている。その一つに日本の甲冑もあった。
 全身を覆う鎧の中には、股間部分の不自然な膨らみがあるものもあった。男性の象徴である男性器の大きさへの拘りを感じる。王たるもの家臣よりその象徴が小さいというのは、権威に対するプライドを傷つけるものであったのであろう。
 順路に従い階を重ねると、壁際に穴の開いた狭い空間があった。
 「ここ、昔のトイレなんだ」
 「もしかして垂れ流し?」
 「そう。だから、外からこの場所を見ると、糞尿で汚れた筋が見えるよ。こんな感じだから、当然臭いもひどくて、数か月に一回、『空気替え』と言って、城を転々としていたんだって」
 「確かに、ハイヒールって街にあふれる糞尿を踏まないためにフランスで開発されたって聞いたことがある」
 「中世の日本とは偉い違いだと思うよ」
 「一見、華やいだ感じなのに」
 「さて、一通り見て回ったし、外に出て足でも休めない?」
 「そうしよう」
 「まだ、日は高いけど、ビール飲みに行かない?」
 「いいよ。お勧めのパブでも近くにあるの?」
 「パブではないけど、ブルワリーに行きたいなって」
 ロンドン塔を出ると、「近くにタワーブリッジもあるけど、行く?橋の中も観光できるけど…」とブラッドは碧に聞いた。
 「とりあえず、外から観れたからそれだけでいいかな」
 近くに見えるタワーブリッジを眺めながら、何となく、ロンドン橋とタワーブリッジを混同してしまうのは、子供の頃の遊び『ロンドン橋落ちる』のせいだと感じる。「ロンドンへ行く」と友達に言ったとき、「本当にロンドン橋があるのか見てきて」と言われたことを思い出した。

 「ちょっと距離あるけど」と言われ、ブルワリーに足を向ける。距離があると言われた割には、話しながらのそれは、さほど遠いとは感じなかった。
 ブルワリーのビールはタップでも飲むことができるが、缶でも売られていた。それぞれ一パイントのビールを手に、音楽など最近ロンドンで流行っているもの、東京で流行っているものなどの話をした。
 「ストリーミングとか好き?」
 「俺、定額で聴き放題とかより、ちゃんとCDでもデータでも良いから買いたいんだよね。まぁ、お手軽さはストリーミングの方があるけどさ」
 「俺も。ストリーミングだとWi-Fiが無い場所とかではデータ量結構使って嫌だし、ダウンロードしておけば良いんだけど、だったら買った方が…って思う」
 「東京ってWi-Fi事情どうなの?」
 「カフェとかフリーWi-Fiが入っているところも結構あるけど、感覚としてロンドンより充実していないと思う。でも、充実していても歩きながら聴いたりするときは、フリーWi-Fiって訳にいかないじゃん?」
 「そうなんだよね」
 話に花が咲き、時間を忘れてしまう。ブラッドは碧を見ながら思った。碧もそういう楽しい時間を過ごしてくれていたら嬉しい。
 「やば、待ち合わせに遅れる」ブラッドはスマホ画面を見て、慌てて言った。
 「えっ、もうそんな時間?」
 そう言うと、グラスに残ったビールを飲み干して、二人はブルワリーを出た。

 すっかり日も暮れて、昼間のように風の冷たさを心地よいと感じられない中、路地裏にあるシーフードレストランに向かった。席の予約もできていると言い、そこで緑と待ち合わせという事だ。「この寒いのに外で待ち合わせるのは嫌でしょ?」とブラッドが笑った。
 レストランには先に緑が来ていた。
 「待った?」
 「私もさっき来たばかり。だからまだ何も頼んでいないの」
 「面倒だし、コースにする?」
 「そうだね、じゃぁ、飲み物は?俺は白ワインだけど、碧は?」
 「みんなと一緒でいいよ」
 「好きなの飲みなよ。合わせることないのに。でも、碧が白ワインで良いなら、ボトルで頼んだ方がいいかも」
 少し薄暗い店内で、各テーブルに蝋燭が置いてある。どこの国でもお洒落な演出というのは似たようなところがあるなと感じる。
 「予定通りロンドン塔?」
 「うん。ブラッドがすごく詳しく説明してくれて、すごく楽しかったよ」
 「一夜漬け」
 「いや、一夜漬けできるような話ではなかった気がする」
 「そうね、ブラッドは徳川家康とかそのちょっと前の戦国時代が好きだから、ちょうど今、碧が読んでるエリザベス一世の頃と時代が被るのよ。私はさっぱりだけど」
 「ウィリアム・アダムス、日本では三浦按針という名で、日本に初めて行ったイングランド人だと言われている。その人を通じて、当時世界一だった大砲、カルバリン砲を徳川が輸入することができて、大阪夏の陣で淀殿を脅かし、勝利を得たって。結構交易も盛んだったから、アダムスの出身の村では今でも“侍祭り”が行われているんだ」
 「なんか意外というか、俺、歴史って結構苦手で、まったく知らなかったよ。日本人なのに」
 一日の出来事を緑に報告するかのように話をした。食事を終えるころ、「明日の予定は?私、明日は大丈夫だから、よかったらビーチへ行かない?」
 「この寒いのにビーチ?」
 「ブライトン?」
 「そう。遊園地もあるしビーチと言っても別に泳ぎに行くわけじゃないから」
 「泳ぐと言えば、初日、変なおじさんがハイドパークの湖で寒中水泳してたよ」
 「たまにいるのよね。頭おかしい人が。どこでもいっしょよ」
 「じゃぁ、明日はブライトンに決定。電車で一時間ちょっとよ。すぐだから」
 「ビクトリアの駅に集合?」
 「そうね、そうしましょう。私がチケット予約しておくね」
 「まだ、時間大丈夫?」
 「私は大丈夫よ」
 「俺も、別に予定何てない旅行だから」
 「じゃぁ、そこのクラブ行こうよ」
 ロンドンで一番クールだというゲイクラブへブラッドが誘った。何でも流行の最先端はゲイカルチャーにあると言いながら笑った。

 クロークにコートや荷物を預けて中に入ると、流行りの音楽にあわせて、踊る人やそれを見る人たち、ボックスシートで酒を楽しむ人たちと、思い思いの時間を過ごしている。ダンスエリアは、一段下がっていて、いわゆるお立ち台のような場所にポールもある。そこでポールダンスを披露している女性もいた。ダンスエリアの周りには、二辺にはボックスシートがあり、一辺にはバーカウンターがある。バーカウンターのあるエリアからダンスフロアを見る碧と緑に、「踊らないの?」とブラッドが言った。
 「うん、なんか見てる方が楽しい」
 「私も」
 「そっ、じゃぁ、みんな何飲む?碧は、ドライジン?」
 「そうだね。折角だから」
 グラスを片手に話をしていると、その前のアルコールと合わさって、光の渦に乗ってくる大き目の音が、酔いと連動してくる。
 一時間程の時を過ごして、階段を上って外に出ると、滞在中ずっと使っていていいと言われたブラッドのダウンコートをとてもありがたく思うほど、冷たい夜風が頬を刺した。その刺激が、酔い冷ましには丁度よい。
 近くの駅へ向かい、そこで前日と同じように皆と別れた。

 ブライトンかぁ。初めて聞く街の名前だな。
 碧はホテルに戻るとインターネットで調べ始めた。
 第二次世界大戦の時、ドーバー海峡を渡ってくる敵に備えビーチには多くの地雷が埋められていたという。それを取り除くのに相当時間を要したらしい。
 ロンドン塔でも第二次世界大戦の時に最後の処刑がされたと聞いた。生まれる相当前のことであるのに、まだ身近にたくさん溢れている負の遺産。日本でも八月の広島、長崎の原爆だけでなく、三月には東京大空襲のことがニュースになる。
 恐らく、個人の記憶ではなく、人類の記憶から消し去ってはいけない凄惨な事実がそこにはあったのだろう。
 碧は、次に旅をすることが許されるのなら少しそういった戦跡をめぐってみるのも良いかもしれないと思った。


 約束の時間の一時間前にビクトリア駅に着いた碧は、構内にあるカフェで朝食を済ませた。ホテルのパンは一日で挫折して、コーヒーは二日で挫折した。確かに『飢え死にしたくなければ』という友達の言葉も強ち嘘でもない。ただ、それ以外の食事では特に殊更不味いなどという事もなく中華とインド料理に頼る必要は感じない。
 待ち合わせの十分前に店をでようと思っていたが、丁度その時に携帯が震えた。

 「まずはベタだけど、ロイヤル・パビリオンかしら」列車を降りた時、緑がブラッドに声をかけた。
 「そうだね。その後、ピアに行って、レーンズって流れでいいんじゃないかな」
 「碧、今日はまず、ロイヤル・パビリオンって言って、十八世紀にジョージ四世が建てさせた別荘。インド様式の外観がとても素敵な建物。それとピアは19世紀の建設当初はただの桟橋だったらしいんだけれど、そこの上がアミューズメントスポットとなった場所。レーンズは路地裏の商店街みたいなものね」
緑が碧に簡単な説明をした。
 「時間の問題もあるから、すべてをのんびり楽しむって訳にもいかないし、絶対ここは行きたいって場所があれば、言ってくれればそこを優先するけど」
 「その、路地裏みたいなところは行ってみたいな。というか、明日帰るから美幸さんへのお土産も考えたいし」
 「丁度良いかも。アンティークショップとかもあるから」
 「じゃぁ、とりあえずロイヤル・パビリオンは外から眺める程度にして、街を歩こうか」
 三人でいろんなお店を素見しながら歩いた。土産物を決められずにいる碧に、「その人の好きなものって、その人自身が買っちゃうから、プレゼントなら必要だけど自分じゃ買わないようなものや、消え物が無難だよ」とブラッドが碧に言った。
 「そうかぁ。あんまり人に贈り物とかしないからなぁ」
 「あら、手土産持ってきてくれたじゃない」
 「それとこれとは…」
 「美味しい紅茶とかでいいんじゃない?それはさておき、どうせ決まらないんだから、そろそろお昼にしない?」
 「そうだね。その辺の喫茶店でも入ろうか」
 その後も尽きない会話を楽しみながら、結局ピアへは行かず、海だけを眺めて帰りの電車に乗った。
皆、歩き疲れたのか、ビクトリアまでの車内は三人とも軽い寝息を立てていた。ビクトリア駅の近くで夕飯を軽く済ませた。
 「明日、帰国だね」
 「本当に二人とも、ありがとう。おかげで楽しい旅行になったよ」
 「本当に帰っちゃうの?」
 ブラッドは名残惜しそうに言う。
 「私、夏には一度日本に行くの。そろそろ国籍も考えなきゃいけないし、それを含めて両親と話をするためにひと月位行くから、その時また会いましょ」
 「そうだね、そうそう。ダウン、返さないと」
 「明日の朝、ホテルに取りに行くよ」
 「そんな悪いじゃん」
 「気にしないで」
 そう言って、それぞれの乗る地下鉄へと向かった。
 翌朝、シャワーから戻ると、部屋の前にブラッドが立っていた。
 「ごめん、なんか待たせた?」
 「いや、ノックしても出ないから、まだ寝てるかなと思たけど、ついさっき来たばかり」
 「どうぞ」鍵を開けて部屋に招き入れる。「ごめん、先に髪だけ乾かしちゃうからその辺、座ってて」と言った。
 ブラッドは腰にタオルを巻いたまま、裸の碧の背中から目が離せない。ドレッサー越しに視線がばれてしまわないように、時折目をそらしながら、碧が髪を乾かすのを待った。
 髪を乾かし終えて、少年のような笑顔を向けた碧に、ブラッドの押さえていたものが崩れ落ちていく。駄目だと思いながらもクロゼットに向かう碧の背中から腕を回してしまった。
 「な、なに?」
 ブラッドは戸惑う碧よりも強い力で抱きしめて。右の首筋に顔を埋めた。
 「好きだ」
 囁いた声が碧の動きを止めた。それと同時に二人の時間だけが止まったかのように静寂が訪れた。ただ、ブラッドの身体だけが、その底から湧き出てくる熱い思いをとめられずにいた。
 「ごめん、俺、そこまでブラッドを…まだよくわかんないよ」
 「告白って難しいな」
 碧から腕を解いて「もっとスマートに出来たらって思ったんだけど、今日で碧とお別れだし…」と、言い訳がましくブラッドがうつむく。
 「いや、まだお別れじゃないよ」
 「緑が日本へ行って、しばらくはどんどん落ち込んでいくばかりで、ほんと心配していたんだけど、碧に出会ってからいつもの緑に戻っていったし、それからは事ある毎に碧の話ばかり聞かされてた。そうか、緑は碧が好きなんだなって思った。でも、それで、何となく気も楽になった部分もあった。碧とこうして会うまではね。俺たちは幼馴染。っていうか、俺と緑の間には友情以上のものは芽生えない。それを、緑も気が付いて。だから、俺を碧に紹介したと思う」
 「別にゲイとかじゃなくても紹介したと思うけど」
 「まぁ、そうかもね。でも、緑が好きになるのがゲイばかりってどう思う」
 少し笑ってブラッドが言った。
 「言っとくけど、俺カムアウトとかしてないし、そもそもゲイかどうか…」
 「すぐわかる。俺、碧を一目見てすぐにそうだってわかった」
 「日本にはいつ来る?」
 「うちは緑の家みたいに金持ちじゃないからな。貯めないと無理だから。でも、夏…遅くとも冬にはいきたい」
 「じゃぁ、約束な」
 「行ったら、碧の部屋に泊めてくれる?」
 「構わないよ。ベッド狭いけど」
 「そろそろ行かないと、授業が…ダウン、東京で返してよ」
 「わかった」
 「早く服着ないと風邪ひくぜ」
 「ブラッドのせいだろ」
 「じゃぁ、また」
 そう言うと、ブラッドは振り返らずに部屋を出た。


 授業が終わり、カレッジのテラスで緑とブラッドはいつもと変わらずタンブラーを傾けながらふと空を見る。どこへ向かうのかわからない旅客機が目に留まる。
 「フライトの時間だね」
 「そうね。もしかしたらあの飛行機に乗ってるかも」
 そう言いながら、緑は胸が締め付けられるような気持ちをぬぐえない。
 「かもね」
 「楽しい時間って、あっという間ね」
 「そうだね」
 「好きなんでしょ?碧のこと」
 「そうね。叶わないけどね…ブラッドは?うまく言えた?」
 「何を」
 「いいのよ遠慮しなくて。わかっているから」
 「東京か」
 「半日飛行機に乗っていたら、寝てる間に着いちゃうわよ」


 緑とブラッドのお陰で、楽しい時間を過ごすことができた。短い時間だったし、あまり多くの場所を観ることもなかった。とはいえ美幸さんの言う“生活するような旅”にも遠かった気もする。ただ、いろいろと案内してもらえたこともあって、持ってきた本もすべて読み切ることができなかった。
 飛行機が飛び立ち、読み切ることのできなかった本を開いてみる。
 メアリーとエリザベスがウエストミンスター寺院に葬られていることを知った。生きている時に実際会う事のなかった二人が同じ部屋にいる。場所は左右対極に離れた場所だそうだが、行ってみたかった。
 次があるよなきっと。いや、きっとじゃなく、必ず行こう。そう心でつぶやくと、最初のページへ栞を挟んで、本をバッグに仕舞った。



 十三時間の時を超えて到着ロビーに出た。行きと違って、読書を終えてからは、隣の人と話をすることもなく大半の時間を寝て過ごした。
 少し混雑したロビーに何事かと思う。何かの世界大会で優勝した日本チームが帰国をするらしい。騒めきの中にそんな言葉を聞いた。あまり興味もなく、リムジンのチケット窓口へ向かう。
 みんな何処からその選手団が出てくるのか知っているのか、知らずとも人だかりに群がっているだけなのか。そんなことを思いながら振り返ると、人込みの奥に蒼汰に似た人が通ったように思った。
 碧は半信半疑で、リムジンのチケットを買う事すらそっちのけで、人込みを掻き分けるようにその姿を追った。
 蒼汰兄ちゃん。ふと、七年前の面影が蘇る。
 影を見失わないよう、必死に流れに逆らう自分を、周りの人にとって迷惑であろうとか思えずに進んだ。
 バッグが肩からずれて、直している間、ほんの少し目を離しただけなのに、見失ってしまった。進んでいった行ったであろう方向に向かいながら懐かしい背中を探した。
 再び見つけた背中は、既に改札を抜けていた。
 まさか、そんな偶然ないよな。心でつぶやきながら、何をムキに幻のような背中を追っていたんだろうと、リムジンのチケット売り場へと踵を返した。



 同じ日に、しかも同じくらいの時間に帰国したなんてね。
 美幸は携帯に送られた二通のメールを見てくすっと笑った。
 「美幸さん。なんか良い知らせ?」
 「大したことじゃないわ」
 「なんか嫌らしい」
 美幸に誘われて期間限定で開かれているマルシェに来ていた明子は言った。
 「そういえば、今日だっけ?碧君帰ってくるの」
 「そう。それで、今空港に着いたってメールよ」
 「本当にそれだけ?」
 「覚えているかしら蒼汰ってうちでバイトしてたでしょ?もう七、八年前になるかしら」
 「ちょうど私が就活の時期だったわよね。覚えてるわ。一緒にライブに行ったり、遊園地行ったりしたんだもの。もしかして・・・」
 「そう、ちょうど同じ時間くらいにアメリカから帰国したってメールが入ったの。偶然のことだけれど、運命的なものって言うかそんな風にも思ってしまうわね。ちょっと疲れたわ。ちょうどいい時間だし、どこかでお昼にでもしましょう」




参考文献
 華麗なる二人の女王
 LONDON WALK イギリス英語とロンドンの歴史・文化を一緒に学ぶ

再会

初めて書いた小説の主人公、碧を軸に何か書きたいと思い書いた作品です。
四色の虹を読んでいただいた方が、どんな感想をお持ちになるかわからないですが、碧が蒼汰と再会をするまでの間を埋めたいなと思いました。

再会

処女作『四色の虹』続編となる作品。 初めての一人旅の旅先を豚丼に決めて、同級生の緑とその幼馴染ブラッドと過ごす旅行記的小説。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-12-02

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