落日にて

当たり前が私を苛む


 あなたっておかしい人だね、と指を差されたかった。



 幼く純粋な人差し指は男に向けられている。男は見えていないようにのらりくらりと躱し、私に頭を垂れて斜め後ろを歩いていた。夕陽が背中を焼いている。熱がる素振りも見せず、草臥れたコートを前側に引っ張っては鼻先を掻いていた。

「申し訳ございません、教祖様。私がこうも至らないせいでご迷惑をお掛けして……」
「そんなことはありませんよ」

 サイトウは警官二名によって職務質問を受けていた。たまたま仕事帰りに買い出しをして、毎日通る公園に差し掛かったところ、彼が尋問を受けている場面に立ち会うことになる。私の友人です、と答えると彼らはあっさりと立ち退いたが、私が通らなければどうなっていたことか。いつものことなんですけど、と彼は付け足し、猫背を更に丸めて後を着いてきた。申し訳ないからと買い出しの荷物を半分ほど抱えて。
 ――通報があったんですよ。早い時間から公園に何時間も居座って、子どもたちが遊ぶさまをじっと見つめているものだから、お母さん方が怯えていて。しかも……言い方は悪いですけど、身なりが、ねえ。え、働いてる? いやでもねぇ……。――
 初老で分厚い眼鏡を掛けた警官がしきりに眼鏡を上げていた。ずり下がるなら調整すればいいのに。小さい目がますますごま粒ほどにしか見えなくて、憐憫すら感じた。私の店の手伝いもしてくださいますよ、と名刺を差し出したら、受け取りもせずへこへこと頭を下げて立ち去ったのは忘れない。サイトウも頭を下げる癖があった。警官とサイトウの違いは疑うか、疑わないかでしかない。彼は赤の他人である自分が心配になるくらいに素直で、疑うことを知らない子どもだった。

「これは何に使うんですか。お店の食材でしょうか」
「いえ、店のは朝一に届けられるんですよ。これは夕食です」
「教祖様はカフェの店長もされて、施設の調理も手伝われて、とてもすごいですねぇ」
「私が上である以上、手は抜けませんから」

 アスファルトにのっぺりと影が張り付いていく。重い夕陽を背負って、彼の背はどんどん丸くなる。時々荷物を抱え直しては歩く。影は自分たちの倍以上にも伸びていて、歩けばひたひたと着いていく。自分より長い影が着いてくるのだから心配しなくていいはずなのだが、ふと彼が後ろにいるか気になって振り向く。すると彼はあ、あっ、と口篭るものだから、ついおかしくて笑ってしまった。
 サイトウには戸籍がない。彼が言うには推定五百年は生きているらしい。ついこの前までは別の苗字で、そのうち別の名前になって生きることになるのだろう。彼にとっての名前なんて金を得るためだけに必要な材料でしかないのかもしれない。私たちは意味を込められ名付けられ、識別するために名を呼ばれるが、それすら与えられない彼。

「教祖様、私は怪しまれても仕方ないかもしれないですね」
「さっきのことですか?」
「ええ。みんな、怖いんでしょう。安心したいから、みんな誰かを悪い人だと決め付けたくて、そうして安全の圏内に生きていると思い込みたいんだと思いますよ」

 鼻先まで掛かる長い前髪、ぼさぼさなのに浮いた脂で束になる頭髪、毛玉だらけのタートルネックのセーターに、ほつれたジーンズとスニーカー、よれよれのトレンチコート。はたから見たら不衛生そうな生き様が伺える。家がないかもしれない。家がないなら食べるものもないかもしれない。となれば人を襲って盗みを働くかもしれない。そうでなくとも殺人が多い世の中だから、何かしらの欲求のために後ろから刺してくるかもしれない。(殺人事件は年々減っているらしいが)母親たちが通報したということは子どもが攫われるかもしれないだとか、子どもに手を出して疚しいことをされるかもしれないだとか、滅多に起こらぬ厄災に敏感になっていた。
 職務質問をされたことがない人間は、つまり私は何をしたと思う。一年に数人は人を殺めている。殺めるだなんて人聞きの悪いことは言いたくないが、人々が腹を空かせて食事をするように、私とて食事に重きを置く人間であるので、人を屠って、血抜きして、丁寧に解体して美味しくいただく。法律と道徳だらけのこの世界で殺人と食肉が禁止されているだけのことで、何処かの人々が踏み入れぬ密林の奥じゃあ食人は当然の行為だ。
 当たり前の範疇が違うだけで彼は疑われるし、私は異常というレッテルを自らに課さねばならない。いや、彼が羨ましいのかもしれない。私はおかしいだとか変だとか、言われて育てられなかったから。誰もおかしいと指差してくれないし、私が喰らう彼ですらおかしいと言ってくれなかった。

『そういう時代も環境も、ありますから』

 子どもみたいに疑いもしないで否定してくれたら良かったのに。私は人が知らないことを知っている。教祖と崇められても神様になれない私。私は人のままでしかないし、でもいつか、人ですらないと罵られる日が来るだろう。
 今のうちに否定して、鬼だとあなたが言ってくれ。人だとか鬼だとかなんでも良くて、何になれなくても、ならなくても良かった。なんでもないあなたを羨んで、時々憎たらしくなる。自由すぎるのだ。
 もいでももいでも、生えてくる翅なら、私が代わってやりたいとすら。

「私も炊事のお手伝いできたらいいのですが。如何せん野菜を生のままで齧ったり、釜で茹でるくらいしか覚えられずにここまできました」
「あなたは掃除をしてくださるでしょう。施設は男性が少ないですし、力仕事なんかは助かると女性の方々は仰いますよ」
「私は役に、立てていますか」
「ええ」

 それは、とても。
 腹が空いた。夕食は五割に留めておきたい。ストックはあと五キロ。人はでかいくせに可食部が少なくて困る。今日は一際夕陽が赤くて、肌がサシの入った肉色に見えてしまう。歩く肉、思考する肉、そして食べられる肉。サイトウも、小路を行き交う通行人も等しく食材でしかなかった。彼が抱えた袋の中の野菜と何ら変わりのない、食べ物でしかない。
 今日の夕食。おからハンバーグとポテトサラダ、ピクルスにレンズ豆のスープ、十六穀米のご飯。私はすね肉を半日煮込んだものを齧りたい。本当はヴィーガンに興味もない。ただ餌がほしい。みんな純粋だ、子どもみたいだ。悪い大人に騙されて、可哀想とすら思えなくなった。食べるのは当たり前のことじゃないか。私の当たり前は揺らぎはしない。影みたいに形を曲げないし、薄くなったり濃くなったりもしない。総じてフラットに、欲は胃袋に住まう。

「お金は人を不幸にしますが、ない不幸よりある不幸の方がましな気がします」
「そうかもしれませんね。世知辛い話ではありますけど」
「だから明日も働けたらと思いますし、少しでもあなた様にご恩をお返しできたらとも、思います」

 彼の明日は誰よりも目映いことだろう。明日なんていつでも美しいもの。思い描く明日はいつでも都合の良いもの。きっと明日は、が、どうせ明日も、に変化した時、人は教団へと訪れる。良質な死に『憧れ』て、最良に、最善に生きて努めるのだ。ご苦労さま。あなたたちの努力が私を今日も生かして、殺してくれない。
 あなたたちは少なくとも私より幸せで報われている。

「教祖様、教祖様。私はとても幸せです」
「それは良かった。そのための私ですから」
「でも私、いつになったら死ねるのでしょうね」

 きっと明日は死ねる未来。彼の未来は毎日赤く塗り潰されている。きっと明日も、死ねぬ今日。私ですらあなたの夢を叶えてやれやしない。
 どうせ明日も変わらぬ日常。



 私もあなたみたいに、おかしい人がいるって、指を差されてみたかった。

落日にて

落日にて

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-03-04

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