赤い風船とカルーセル

赤い風船とカルーセル

風船が浮かばなくても気にしなくなってから何年経つだろうか。

学校からの帰り道に手頃な石を蹴り転がしてたのに鉄網に落ちた時の喪失感は居酒屋で思ったよりもお金使ってしまった時に似ているとも思うが、最近正直それすら感じなくなってしまっている。朝起きて同じものを食べる。別に意識の高い理由-何か体に変化があった時に原因を追えるようにするためとか-ではない。たまには別のものが食べたいなぁと言う気持ちがなくなってしまっているのだ。その同じ朝ごはんを食べて布団に潜り込むまで何も記憶がなかったことは一度や二度ではない。いや度々起こる。繰り返しているだけ。ぐるぐると同じところを回っている。

メリーゴーランドよりもカルーセルの方が好きだ。差はわからない。きっと英語とフランス語のようなものか。とにかくカルーセルの方が好きだ。メリーゴーランドのメリーとゴーとランドが何か苦手だ。メリーと聞くと華やかすぎる。キラキラしている。そりゃキラキラするんだろうがキラキラしていても心の底から「メリー!」ってなる義理はない。ゴーとか言われるのもいやだ。ゴーと言われて後退している人を見たことがない。ゴーと言われたら必ず前進しないといけないのだ。きっと。勝手なもんだ。馬が当たり前のように同じ斜め左前方向を向き、当たり前のように反時計回りにゴーする。他が動き始めたら同じ速度で同じ間隔でよしと言うまで動き続ける。そんな息苦しさがゴーという響きにはある。ランドに至ってはなんだ。なんでもランドをつけると楽園みたいになってしまう。本当はroundなんだろうがそんな問題ではない。メリーでゴーするランドにしか聞こえない以上、僕はメリーゴーランドという呼び方を好きになることが出来ない。その点カルーセルはいい。押し付けがましくない。意味が分からないのもいい。カルーセル。おしまい。この潔さ。カルーセル。カルーセル。何回でも呟きたい日本語だ。

人生で初めて彼女が出来たのは高校1年生の時だった。だったということだ。クラスでも目立たない僕と髪を染めて先生や先輩から目をつけられている彼女とが彼氏彼女の関係になるなんて今考えてみたらどうかしていたと思うかもしれない。しかしその時の二人にとってはこれだけが正解であり至って普通に付き合っていた。詩織-あえて名前で呼ぶことにする-と付き合うようになって女友達が確実に増えた。増えたというよりもそもそも詩織と付き合うまで女友達というものがいなかった。なんなら男友達も出来た。出来たというよりも友達と呼べる人もそこそこいないなか、なんだか分からないけどなんとなく昼食中に同じところに机を並べてニヤニヤしないといけなくなってしまった。不思議なもんだ。僕は何も変わってないのに詩織と付き合っただけで周りの人間は僕のことをクラスでのカーストが確実に人並みに昇格していた。まるで一口も飲んでないのに勝手に誰かに水を注がれたコップのようで自覚のない心地よい立ち位置というのはここまで居心地の悪いものなのかと思った。

ローズナードのくるりんはそろそろ一番高いところに到達しようとしていた。高いところが得意ではない僕も3回も乗ればそこまで具合が悪くなることもなくなっていた。子供たちが遊んでいる申し訳程度の遊園地も本当に申し訳ないほど小さくなっていた。しかしながらもう米粒くらいになっている子どもにとっては十分に遊園地なのだろう。「観覧車とメリーゴーランドって似てるよね」詩織は突然話しかけてきた。「どちらも乗ってるだけだしそれ自体は何が楽しいのか分からない」楽しさの分からないものに僕は具合を悪くしながら付き合っていたのかと少しだけ戸惑った。「くるりんも観覧車じゃなくてメリーゴーランドだったらよかったのにね」詩織は言った。「それだったらそんなに高いところに怯える必要もなかったのに」「メリーゴーランドじゃ面白くないよ。景色もほとんど変わらないし」「景色なんか変わらなくていいんだよ。結局どうして乗るかよりも誰といつ乗るかんじゃないかなって思う」ここまで会話をしたところで僕が照れてしまって途切れてしまった。恥ずかしさを隠すために外を見ていた。もうそろそろ仮にこのカゴが付け根から外れて落下しても死なない高さまで戻ってきたんじゃないだろうか。いや、まだ十分に死ぬか。時間差で襲ってきた高さへの恐怖が背筋や腰回りに充満した。

デートのあと詩織に一つの提案をしてみた。詩織と付き合うようになってから手に入れたもので自分がもともと持っていなかったものを全て捨ててみたいと言ってみた。なんとなく出来た女友達もよく分からないニヤニヤした顔をしながら足を組んで食べる昼食の時間も息苦しくてしょうがなかったからだ。メリーゴーランドを自分達だけ途中で飛び降りたくなったのかもしれない。高校の時の男なんてみんなこのくらいのよく分からない選択をするものだ。するものだと信じたい。詩織は理由も聞かないで受け入れてくれた。それほど僕のことが好きだったのかどうかは今となっては分からない。少しずつ詩織の周りからは人が少くなってきた。気がつけば学校に一緒に行って、一緒に帰るまで話しかけるのは先生だけになっていた。むしろ先生たちは詩織が髪を黒く染め真面目に授業を受けている姿を喜んでいたのかもしれない。毎日毎日同じ生活をしていた。怖さを克服するために乗っていた観覧車と何も変わらなかったのかもしれない。

あの時と一緒だ。詩織と別れた後も僕の生活は何年経っても変わらなかった。ローズナードはいよてつ高島屋というなんだか大人の事情の詰まった名前になり、とてもじゃないがあれだけ何回も乗っていたくるりんにも一人で乗る気にもならない。変わらないのは別れた後もこの申し訳程度の遊園地のベンチに座って時間を潰しているということだ。もちろん前のように詩織もいないし、あの時詩織に一緒に途中下車しようと言った人生のメリーゴーランドに何周したかも分からなくなっている。

詩織だ。

いや、詩織に似ている女の子だった。電車の乗り物に乗っている彼女の右手には大切に風船の紐を握っていた。電車に乗っている時くらい親にでも預けていればいいと思うんだ。ただ風船が浮いているだけなのにクマだのウサギだのの着ぐるみに渡されるだけであんなに嬉しいのはきっと15年前もそうだったんだろうと思う。僕にとって詩織は遊園地でもらった風船なのかもしれない。手放したくなくて損をして結果として魔法が溶けたら浮かばなくなってしまう。もちろんその前にどこか遠くに飛んで行ってしまったわけだが、浮かんでいる風船って子どもにとっては魔法なんだろうなと思う。

女の子の泣く声で現実に引き戻された。風船は彼女の手を離れ今まさにくるりんの一番高いところと同じ高さまで漂っていた。あの時、くるりんの一番高いところで風船が横切ったことに詩織と二人でテンションが上がった時のことを思い出した。下の方で米粒のような少女が泣いていたかもしれないが、あの時だけ確かに僕は高所恐怖症を克服していた。あの赤い風船が見えなくなるまで。
それはそうと僕はやっぱりメリーゴーランドという響きはどうも息苦しくカルーセルという呼び方の方が好きだし、高いところも苦手だし、赤い風船はみるのも嫌だ。

赤い風船とカルーセル

赤い風船とカルーセル

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-20

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