穴を覗く
大学生の冴は、ある朝思い立ち、ピアスを開ける。
変わっていない。何も。
朝起きて、何も変わっていない自分が煩わしくなり、ピアスを開けようと思い立つ。きんきんに冷えた、朝。
髪を切ろうという気にならず、ピアスを開けようという気になるのはなぜだろう。美容皮膚科なるところに予約を取り、その日のうちに行った。耳朶に黒点を一つ打ち、そこに穴を開けてもらう。ごくごく一般的な位置に、ピアスホールが出来た。
六週間はそのままにしておけとのこと。化膿止めを二日飲み、塗り薬を無くなるまで塗り続けろとも言われた。意外とピアスも煩わしい。煩わしいもの同士、仲よくしよう。仲よくできないものもあるけれど。
帰り道はスキップでもしたい気持ちになるのかと思いきや、そんなことはなかった。ただ、行きつけの古着屋に行って、まーさんに見せようという気持ちになった。
「あれ、さえちゃん。右にピアス開けたんだ」
まーさんは首を傾げ、長い前髪を掻き分ける。
彼は私の名の漢字を知らない。だから、父母のように「冴」ではなく「さえちゃん」と呼ぶ。丸みを帯びた、私の名。
私は彼の名の漢字を知っている。正しいに、英雄のゆうの字で、正雄。彼は古臭い名前であまり好きじゃないから、周りには「まーさん」と呼ばせているらしい。
「うん。左耳も開いてるよ」
長い髪をかけ、開いたばかりで少し熱を持ったようなそこを晒す。ちょうど他のお客さんが出て行って店のドアが開き、冷ややかな風が火照りを鎮めた。
「じゃあ、セカンドピアスはこういうのがいいんじゃない?」
まーさんは店の隅に置いてあるピアスをいくつか持ってきた。大人びた小ぶりのデザインのそれらは、私には勿体ない。
「綺麗だけど、大人っぽ過ぎるかも」
「気に入らなかったの」
「そうじゃないけど」
「じゃあ、これから似合うようになればいい。これはお祝い。トクベツね」
特別。その響きに、私は浮足立つ。
「ありがとう」
「店長には内緒ね」
それだけ貰って帰るのも何だったので、大人っぽい黒のブラウスを一着買って、急ぎ足で帰った。
「冴、ピアス開けたの」
帰るなり、母はそう言って顔を綻ばせた。
良いわねえ、お母さんは「親が与えてくれた身体に傷をつけるのか」なんて言われて開けさせてもらえなかったのよ。大時代的よねえ。
母が生きた時代はまあ、そういう時代だろう。祖母の言い分も分からないではないが、自分の身体は自分のものだ。
「大学には、ピアスなんてつけている子はいるの」
「わからない、最近のイヤリングとピアス、見分けがつかなくて」
「それなのに、何でまた開けたの」
問われて、答えに窮する。何となくだよ、とはぐらかし、自室へ戻った。最後に言われたのは「冴は変わってるわねえ」。
母は妙な偏見を持つ。トーダイには品行方正な女の子しかいない、とか。だからピアスなんて開けている子はいない、とか。
息を吐く。人の耳朶なんてまじまじと見ないから、そんなの知りようがない。開けている子もいるだろうし、開けていない子もいるだろう。そんなの、どの大学も同じことだろうに、なぜ母は特別視するのか。世間も、そういう目で見るのだろうか。
ただでさえ嫌なのに、社会に出るのがますます嫌になる。
ピアスを開けてから一週間ほどが経つ。幸い化膿はしなかったし、ピアスホールの育ち具合も順調だ。
あの古着屋で買ったブラウスを着たので、大学帰りに寄ることに決めた。唯一持っている大人っぽいスカートを合わせたら、案外似合うので、まーさんに自慢しに行くのだ。
上機嫌でそれこそスキップでもしそうになる。店のドアから中を確認すると、まーさんがレジスターを打ちながら、客の女の子と何やら楽し気に話をしていた。そのままドアを開ける。
「初来店ってことで、特別に」
そう言って、まーさんは表示された金額から五百円引いた額を提示していた。女の子は、えーいいんですかー、なんて可愛らしくお礼を言っている。
見てよかったのだろうか、今の場面は。
分からず硬直していると、女の子は私の脇をすり抜け店の外へと出ていった。私でも名の分かる、甘い香水の匂いが漂った。
「今の、店長には内緒ね」
声をかけられ、我に返る。まーさんはレジスターにズボンのポケットから取り出した五百円玉を入れた。
私は、少しばかりホッとしている。
「まーさん、特別って言っておいてバラ撒きだよ」
私だけが特別じゃなかったことで、こんなにも安堵するとは。
そんなに怯えて何になる。馬鹿馬鹿しいが、刷り込まれた恐怖心は簡単に抜けてはくれない。積み重ねは良くも悪くも強固なものだ。
まーさんは頭を掻き、歯切れの悪い言葉をいくつか並べる。長い前髪が揺れて、切れ長の瞳が僅かに覗いた。
「でもね」
その瞳が、私を捉えた。柔和だが、決して揺らぐことの無い意志を内在させているようだった。
「品物を丸々あげたのは、さえちゃんだけだよ」
身体が強張り、腹の奥がひゅっと冷えていくのを感じた。
ああ、結局私は特別なのか。どこへ行っても、特別から逃れることは出来ないのか。
「私のこと、好きなの」
かすれ声で、そんなことを訊いた。
「まあね」
こんなときに限って、誰も店に入って来ない。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られるが、足は竦んでしまって動きそうにない。
「じゃあ、抱けるの」
肯定も否定も怖かった。しかしどこかで、頷いてくれないか願っていた。
恐る恐る、まーさんの顔を見上げる。虚を突かれたと言わんばかりの表情で、こちらをまじまじと見た。
「……訊きたいことは、山ほどあるんだけど」
彼はまた頭を掻き、店の奥の方へと行く。
「ちょっとおいで」
私の足は勝手に動き出し、バックヤードの入口に立った。
まーさんは店のドアに鍵を掛け、「CLOSE」の札を下げてからバックヤードに入った。それに続く。
彼は煙草に火をつけて、煙を吐いた。
椅子に座るよう促され、言われるがままに腰かける。木製の古ぼけた椅子で、重心を動かすとぐらぐら動く。
温かい紅茶を紙カップで差し出される。茶葉の味はあまりしなかった。
「さえちゃんはさ」
ゆっくりと切り出したまーさんの声はいつもより硬く、いけないことを訊いてしまったのだと今更自責の念が湧いてくる。
「特別扱い、されたいの」
絞り出すように、違う、と言う。
「逆。特別扱いが嫌い」
すると拍子抜けしたようで、あれま、なんて間抜けな感嘆を漏らした。
「だったらなんで、抱けるかなんて訊いたの」
私は少し考える。自分でもよく分かっていなかった。
おそらく。おそらくだが、まーさんは遊び人の雰囲気を醸しているというか、私は彼に対してやや軽薄な印象を持っている。どこの大学にもいるような、女に不自由ないようでいて、虎視眈々と機会を狙っている男のような印象を。
そんな人に抱けると言われれば、抱かれれば、私もこの人にとってのその他大勢になれる気がした。一回抱かれて満足されて、それでおしまい。それからはその他大勢、のような。
そして特別でも何でもない、普通の女になれる気がした。
しかしそんな失礼なことを本人に言えやしない。なので、母をはぐらかした時のように、何となく、と答えた。
まーさんは顎に手をやり、俯く。考え込む仕草。しばらくしてからゆるりと顔を持ち上げ、何か嫌なこと、あったでしょ、と訊かれた。
「何もない」
「嘘つき」
糾弾するような声色ではなかった。でも、柔らかな中にも有無を言わさぬ意思が聞き取れた。あの瞳と同じように。
この人には敵わない。
「……私、小さい頃から学校でも塾でも特別扱いされていて、それが嫌だった」
「何で特別扱いされていたの」
「頭が良かったから。どこでも一位で、嫌だった」
教員から贔屓されている、なんて言われるのは当たり前だった。妬み嫉みからの嫌がらせも、少なくなかった。期待は大きく、その重圧に押しつぶされそうになった。
大学に入って、それは止んだ。周りも同じような人たちばかりだったし、そんな中で一位を取れとは誰も言わなかった。自由だと、嬉しかった。
しかし社会に出たらまた特別扱いされる。イロモノを見る目で観察される。それを思うと、何もかも放り出して逃げたくなる。
吐き出してしまうと、ただの嫌味にしか聞こえない。謝って、出て行こうか。椅子から立ち上がりかけると、まーさんは口を開く。難しいことは分かんないけど。
「今さえちゃんは、大学でフツー。それならいいじゃん。今を見なよ。先のことはわかんないでしょ」
「でも、分かりきっているから」
「分かりきってないよ。だから将来を心配しているんだ」
確かにどんな目で見られるかは分からない。しかし、羨望、嫉妬、足を引っ張ろうとする人がいること、それくらいは、過去の経験から分かる。分かってしまう。だから、怖い。
まーさんは、そうだなあ、とまた頭を掻いた。困ると頭を掻くのはどうやら癖のようだ。
「でもね、俺からしたら、さえちゃんはフツーの女の子。女子大生。可愛いって思うし、抱いてみたいとも思う。それは他の女の子にも抱く感情。フツーの感情」
「でも、どこかしら普通じゃないから惹かれるんでしょ」
「それはその通り。人ってみんな違うじゃん。その違いに惹かれるんだよ。つまりね」
まーさんは煙草を吸う。そして大きく息を吐く。
「みーんな、フツーじゃない。みんなトクベツ」
「でも私は、大きく逸脱していた」
「そうかもね。だけど例えば、みんながみんな頭良かったら、頭が良いって考えは消える代わりに、他のところに注目されちゃうよ。ピアスが開いているとか」
思わず両耳を手で覆う。その様子に、まーさんはまなじりを下げる。
「大丈夫、大丈夫。さえちゃんはいい子だから」
子供をあやすみたい。なんだか目が熱くなってきたみたいで、瞬きの回数を増やした。
「トクベツ扱いされるのが怖いなら、みんな何かしらトクベツを抱えて生きている、って考えてごらん。ギターがうまいとか、料理が上手とか、おてだま十個もできるとか。ギターがうまかったら、サークルとかで妬まれるかもしれないし、反対に崇められるかもしれない。料理が上手だったら、お姑さんに嫌味を言われるかもしれないし、もしかしたら教えて頂戴って言われるかもしれない。おてだま十個できたら……そうだな……」
また頭を掻きだした。つい噴き出してしまうと、やっと笑ったと、まーさんも笑う。
「トクベツって、長所にも短所にもなりうるって、さえちゃんが一番知ってるはずだよ。俺も顔が良いって妬まれるから、こうしてるし」
そう言って、まーさんは長い前髪を上げた。確かに、整った顔立ちをしている。
「まーさんの顔、ちゃんと見たの初めてかも」
「良い顔してるでしょ。俺は好きだよ、自分の顔」
まーさんもきっと、苦労をしたのだろう。嫌な思いをたくさんさせられたり、自分の顔が嫌になったり。そうして、成長して自分の顔を好きと言えるまでになったのだ。
対して私は、小さい頃から何も変わっていない。頭でっかちで、意固地になる。
「私も変わりたかったなあ」
「変わる努力はしたの」
「……ピアスを開けた」
たまたま煙草を吸いこんでいたまーさんは、勢いよくその煙を噴き出した。ひゃひゃひゃ、あー愉快だ、そんなことを言いながら笑い続ける。
「見た目を変えるだけで中身も変わったら、俺は今すぐ七三分けにするね」
「真面目になりたいの」
「うん」
「なんで。そのままで十分素敵なのに」
まーさんは目を瞠る。それから目を細める。その一連の動作が、あまりにも切なかった。何かを諦める時のような。
「そうだなあ。両親に好かれたいからかな」
言い終わると、上げていた前髪を下ろす。そうして表情は分からなくなってしまった。
「さ、帰った帰った」
「抱かないの」
「抱かない抱かない。お客さんに手出したってバレたら、首飛んじゃうからね」
そう考えると、客も、店員も、ある種の特別なのか。
「まーさん」
「なーに」
口元が弧を描く。きっと目元も、美しい曲線なのだろう。
この心優しい店員と、なぜだかもう会えないような気がして、胸が締め付けられるように痛む。
「ありがとう」
弧はさらに大きくなり、口元に皺が寄る。
「またね」
それからしばらくして、まーさんは辞めてしまった。店長は「故郷に帰るんだって」と言っていたが、どうなのだろう。
まーさんのご両親に、会ってみたい気がした。まーさんは真面目じゃないかもしれないけれど、とても優しい、素敵な人です。そう伝えたかった。しかしながらその術はない。
もうしばらくして、ファーストピアスを外して、まーさんから貰ったピアスを付けてみた。くすんだ金色の、不思議な形をした小さなピアス。今の自分には似合わない。
いつかまた会うまでに、似合うようになっていよう。そう決める。
まーさんのいない店の前を通り過ぎた。いつも通りに、営業している。歩きながら、ふと頭上を見ると、桜の蕾が柔らかそうに膨らんでいた。
冬は終わりを告げ、生命が芽吹く春が来る。
穴を覗く
ピアスを開けたとき、特に気合を入れずに開けたことを思い出して書きました。