*星空文庫

神奈川沖浪裏

大弥次郎 作

知る人ぞ知る、葛飾北斎の代表作と云われる「富嶽三十六景(追加の10枚を加えると四十六枚)」を代表する名画である。
このタイトルを知らない人も、絵を見れば「あぁ、これか」と目に浮かぶはずだ。
だいたい北斎は有名な割に、正式なタイトルが知られていない。俗に「赤富士」といわれているのは「凱風快晴(がいふうかいせい)」右下に稲妻が描かれているのは「山下白雨(さんかはくう)」、そしてこの「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」が「富嶽三十六景」を代表する三枚である。前二枚には人物は描かれていない。「凱風快晴」は夏の早朝。朝日を浴びて真っ赤に染まった富士、午後には猛暑となり、木陰で休む行商人の汗が地面に滴り落ちて一瞬で地面に吸い込まれてしまう、そんな情景を思わせる。「山下白雨」は夕立である。柚野あたりか、雨具を持たない旅人が雨宿り先を求めて尻っぱしょりで駆けだす情景が目に見えるようだ。描かれていない人々の姿まで目に浮かんでくるのが名画の所以なのかもしれない。(※個人の感想ですww)
一方「神奈川沖浪裏」は逆に30人近い人物が描かれている。しかしながらその表情を窺い知ることはできない。まず目につくのは画面のほぼ左半分を占める大波。そしてまさに砕けんばかりの波頭の一つ一つは猛禽類の爪を思わせるように鋭く尖って下の三艘の小舟に襲いかからんとしている。飛沫が遠景の富士山に降る雪のようにも見える。右下は大小のうねりである。うねりを滑り降りる舟と、大波に向かっていく舟。さらに手前にもう一艘、新たなうねりに向かっている。しかし、この大波に対して三艘の小舟のひ弱さは何だ?吃水も深くない。外洋航行のための廻船というより、むしろ河川舟運に使われる平底船を思わせる。船首には積み荷、船尾にはそれぞれ八人の男たちが乗っている。帆も帆柱もないところをみると漕ぎ手なのであろう。また船頭の姿も見えない。八人のうちの一人がおそらくリーダーなのであろう。前のほうに二人ほど乗っている船があるが、これは漕ぎ手の交替要員なのか、絵を見ている限りではわからない。いずれにせよ貨物船にしても旅客船にしても中途半端である。同型の舟、三艘はたぶん船団を組んでいるのだろう。
しかしながらこの絵が有名になったのは、当然絵画的誇張やデフォルメがあるにしても人の心を動かす合理的な説明が可能だったからだろう。やはり、人の生活の真実を描いているのだ。
私たちがこの絵を理解しきれないのは現代の生活が当時とは乖離してしまっているからだろう。海はレジャーや旅行の場所でなく間違いなく生活の場だったのだ。

この絵から伝わってくるのは「板子一枚下は地獄」の言葉や男たちの意気、気合いである。荒海を承知で乗り出したのか、途中で天気が急変したのか、定かではない。しかし、彼らは乗り出してしまったのだ。何がどうあっても乗り越えるしかないのだ。
誤解を招きやすいのはタイトルの「神奈川沖」だ。いまでこそ「神奈川」は「神奈川県」だから、背景の富士と相俟って、相模湾あたりだと思ってしまう。が、この当時「神奈川」といえば「神奈川宿(広重も東海道五十三次神奈川宿として描いている)」あるいは神奈川宿の近くの「神奈川湊(みなと)」である。いずれも江戸湾から近い。富士が冠雪しているから冬である。この季節の江戸湾は台風並みの季節風が吹くという。

実はこの舟は房州館山や伊豆、相模の須賀湊あたりから江戸に向かって新鮮な魚を届ける「押送舟(おしょくりぶね)」と呼ばれる高速船なのだ。七丁櫓または八丁櫓で江戸まで百三十里を一晩で漕いだという。水押(舳ともいう)造りで外洋にも対応して湾内や運河を進むこともできる。ひ弱どころか最強の万能高速船だったのだ。文献によれば長さ14~5メートル幅1.5メートルほどのかなり大きな舟で武蔵、伊豆、相模、安房、上総で使われたとある。北斎自身も「千繪の海・房州銚子」で同様の押送舟を描いている。さて、伊豆、相模、安房、上総は海に面してるからわかるとして、武蔵というのは何だ?実はこの武蔵というのが武蔵の国神奈川宿・神奈川湊(現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近)なのだ。武蔵の地名は東京・埼玉・神奈川に散見されるから、元はこの一都二県(の一部)は一つの国だったのだ。

暮れの七つあたりにそれぞれの港を出航し気温の低い夜間を漕ぎ続け明け方近く漸く神奈川沖までたどり着いたのだ。この大波を乗り越えれば隅田川に入り永代橋あたりから運河をたどって日本橋の河岸はすぐだ。広重の日本橋雪中には、雪景色ではあるがこの情景が描かれている。100万都市江戸の胃袋を満たすには近海で獲れる魚だけでは間に合わなかったのだろう。季節は違うが江戸っ子の好む初鰹もこうやって運ばれてきたに違いない。

絵に戻る。驚くべきは波の表現である。
最近では波を高速度カメラで撮ると同じように見えることから、北斎は動体視力が優れていて、実際にこのように見えていたなどという珍説があったりもするが、北斎とて初めからこのような波を描いていたわけではない。
北斎44歳時の「神奈川沖本杢之図」では波も平板で波頭もふわふわの泡のようだが「神奈川沖浪裏」は72歳の時の作品だ。視力もそうだが動体視力も歳とともに衰えるので、そんなことはあり得ない。この波は長い時間をかけて完成されたものなのだ。
しかも北斎と似た波を創造した者もいる。ジャンルこそ違え同じようにダイナミックな波である。
その男とは、宮彫師「武志伊八郎信由(通称:波の伊八)」である。宮彫師は寺院などの欄間彫刻などを彫る。代表作の行元寺の「波に宝珠」などどちらがどちらに影響を与えたのか作品だけを見たらわからない。しかもこの二人はほぼ同時代人なのだ。通説では「伊八の波」が「北斎の波」影響を与えたといわれる。たしかに北斎が富嶽三十六景を発表する以前に伊八は亡くなってるのでそうなのであろう。しかしながら欄間彫刻はその地に行かなければ見られないのに対し北斎の作品は紙なので持ち運び可能だ。もしかしたら、北斎漫画の下描きなんかを伊八が見たかも、いや、そもそもこの二人に交流があったかも、などと妄想している。

『神奈川沖浪裏』

『神奈川沖浪裏』 大弥次郎 作

子供のころ、始めてみたこの絵はダイナミックな波にばかり目が行っていて、神奈川沖浪裏の名前も知らなかった。しかしよく見るとさまざまな疑問点が湧いてきて、いろいろ調べながら書いてみました。

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更新日
登録日 2018-11-08
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