冬とひとりの街角に

上松煌 作

『なぜこんなに悲しいのか
わたしにはわけがわからない
遠い昔の語り草
こころからいつも離れない』
 ハイネの詩がどうしていつもより心にしみるのだろう?
いつもの道を通って、いつもの白いマンション。
気分によって選ぶエレベータと階段。
3階の部屋から、ちょっとだけ見える空が、どうしてこんなに懐かしい?
 少しだけ陽のあたる窓辺に置いた、ダイヤモンド・カクタスのとがったつぼみ。
かにサボテンっていう古い昔の呼び名が好き。
忘れ去られたものや捨てられたものに心が動くのは?
いつもより寂しくていつもより泣きたいのは、わたしが今日で20歳(はたち)だから?
 使い慣れたカップにいつもどおりのエスプレッソ。
壁の複製画。
立ちのぼるやわらかな螺旋とバロックのスプーンが今夜はなぜか重い。
ひとりだから?
ひとりだよね。
今もこれからも?
いつまでもずっと?
わたしにはわからない。
 バイト先は街角の小さな古本屋さん。
高齢で体の不自由な店主さんにかわって、本の管理やお客様の応対はわたし。
でも、膝の猫さんにはいつもかなわない。
そっと首をかしげてにゃ~ん。
それだけでみんなに幸せな笑顔が広がる魔法。
脚立を使って天井近い本を取ったり、ときどき風を通したり、埃を払う本の香り。
長い知らない時の流れがそっとよみがえる。
お給料は安いけど、わたしはこの仕事が好き。
大学の近代的で膨大な図書館は異世界だけど、ちっちゃなここはなじみの居場所。

    ◇ ◇ ◇

 隣りの花屋さんで買う小さい花束。
たまにおまけしてくれてリッチな花が入る。
人に見せたくて友達を呼ぶ。
「彼、まだいないのぉ?も~。女友達とお花見てなんぼのものよ」
いつもの親しい会話。
「いらないもん。ユッキみたいに続かないんじゃ、いないほうがマシ」
「あ~、それ言う?」
おみやげはいつもあんまり甘くないケーキ。
「これ、新作。カシスがいいでしょ?」
「うん、ユッキはケーキ選び上手いね」
たくさんの笑いと秘密の打ち明け話を残して、友達は彼のもとに帰っていく。
ガランとした黄昏にひとり。
 子供の時から夢は豊富にあった気がする。
画家に学校の先生に小説家、あとは天文なんかの研究職。
夢があるだけで、夢を追うだけで辛くなってしまうのはなぜ?
いまはもう、なりたいものは何もない。
あ、猫さんがいいかな。
静かに膝の上にいて、まわりに安心と癒しを投げかける。
神様の仕事をしてみたいのは、わたしがただの人間だから?
 急に空が曇って、強い風に歩道のほこりが巻いてくる。
ぱらぱらと小雨が店頭の本たちを濡らして、わたしを急がせる。
ビニールかけの前にざっとかけるハタキ。
「いまごろの雨はね、時雨(しぐれ)っていうんだよ。ま、冬の象徴だね。旅人と我が名呼ばれん初時雨って、だぁれだ?」
店主さんのいつもの蘊蓄。
「芭蕉、松尾芭蕉」
すぐに答えると、
「なぁんだ。知ってたかい」
がっかりした声に、もうちょっと考えるふりしたほうがよかったかな?
 雨に追われるように、お客さんがひとり。
奥の棚の古い専門書を抜いてレジに持ってくる。
わぁ、汚れてるのに八千円もするの、この本。
思わず顔を見てしまう。
目が合って、お互いにちょっととぎまぎ。
わたしくらいだから、学生かな?
背の高い、しなやかな体が本を抱えてひらりと出て行った。
目で追ってしまうのはなぜだろう?
少し明るさを増したような空。
雨ももうすぐ止むのかも。

    ◇ ◇ ◇

 空の手紙が舞う夜は、かるい妄想で遊んでみる。
スープは焦がしオニオン。
かぼちゃのようにゴロンとした黒パンはロシアのサイカ。
トマトとニンジン、ブロッコリーとベビーコーンの温サラダ。
登山用のストーブでわざわざ温める、具だくさんのクラブビスク。 
並べるのはアルミのコッフェル。
同じ素材のスプーンとフォーク。
そばにはコールマンのランタン。
壁の写真は群青と白の冬山。
いつもより白い街の明かり。
エアコンはわざと消しても、ダウンのフードで暑いくらい。
 ひとりなのにひとりじゃないみたいな時間。
幻のハーケンとカラビナ。
ザイルのすれる音。
見えない隣りのテントに仲間の気配。
紙コップで飲むチープなコーヒーが終わるころには、雪山は元の部屋に戻っていく。
 ひとりぼっちはちっとも寂しくないのに、不安になるのはなぜ?
ひとり遊びは楽しいのに、人恋しくなるのはどうしてだろう?
そっと窓を開けるとしーんとくぐもる湿った音。
街はもう、銀(しろがね)の衾(ふすま)の丘辺そのまま。
明日の電車は動くのだろうか。
 しょりしょりとちょっと水っぽい音は、東京の特徴。
みんな、足元に気をつけながらの出勤。 
店主さんのいれてくれたお茶でのんびり休憩。
降りやまない今日は、このまま開店休業かも。
交通の混乱を伝えるニュースを聞きながら、猫さんはストーブのいい位置で伸びてる。
そこにいるだけでこんなにも微笑ましいのは、なめらかで優しいラインのせい?
わたしもこんなきれいで柔らかな体を持てたら、もっと軽ろく生きられるの?
さらさらと空からの手紙がガラスに触れる。
ドアを閉めてあるだけで、いつもの街が遠くかすむ。
うとうとと夢見るように時間だけが過ぎて。
 「この店も終いかな。ばあさんが、もう、やめたらって。十分働いてきたから」
店主さんのつぶやきが氷の風のように心を過ぎる。
黙ってうなづきながら、目はうつろに本をさまよう。
そう、わたしの大切なここはわたしのものではなく、店主さんのもの。
人生を十分頑張ってきた店主さんの居場所。
灰色の空からさらに灰色に、降るのはちぎれて重い心だ。

    ◇ ◇ ◇
 
 「閉店しようか?電車が止まっちまってもいけないから」
わたしの帰り道を気遣う言葉。
心が空っぽのまま立ち上がり、シャッターを一枚下ろしてため息をつく。
後ろに誰かの気配。
「もう、終わりですか?」
「いえ、どうぞ」
とっさに返事して目が合う。
あ、あの人…。
ひらめくしなやかな体がなぜか心に残っていて…。
 「ヘソクリが入っていたって?古い昔の百円札だね。10枚あるな」
店主さんの笑い声。
「銀行に行って取り替えてもらいな。うちに返さなくていいんだ」
「いいんですか?」
その人は手をひっこめたまま、もじもじしてる。
「じゃあ、没収。あんた、お昼まだだろ?」
店主さんはにんまり。
「これにおれが千円足すだろ。香里ちゃんも悪いけど千円出してよ。そこの江戸前から寿司取っちまおう」
その人は大笑いで大賛成。
わたしも笑って、さっそく注文。
3人と1匹がお得セットを囲む。
「東京の今頃はね、だいたい2~3℃だね。乾燥してるともっと気温が高くても降る」
店主さんのいつもの蘊蓄。
なごやかに聞いている、その人の横顔がなぜかうれしい。
部屋の暖かさに店のガラスが白く曇って、空を舞う白さが灰色を深くする。
「あっ、もう、行かなきゃ」
柱の時計の針に、びくんと立ち上がる。
「ごめんなさい。お礼に明日また来ます」
急いで言って傘を広げ、暗くなりはじめた外にひらりと出て行った。
「明日も来るってさ。このぶんじゃ晴れるな」
店主さんの笑顔になんだか見透かされている気がする。
急いで目をそらして外の様子を見るフリ。
小止みになった空に、街の明かりが夕焼けみたいに茜色に映えていた。
明日はきっと、あの人がやって来る。

冬とひとりの街角に

冬とひとりの街角に

はたちになった女子大生のひとりの日常。彼ができるまでの静かで情緒的な物語です。 また、オニャニョコが出ちった。クスッ。だけど、おれ、やっぱり「幻夢現無(げむげむ)」みたいな人殺しの話を書きたいワ・

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-09-24

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