アンダーグラウンドサマーデイズ

初めて君に会った日を、私は一生忘れないと思う。
 透き通るように青かった夏空。舞う行方不明者のチラシ。君の泣きそうな顔。誰かの名前。
 掴まれた腕から伝う君の手の温度は熱く、燃えているみたいだった。
 あの夏。君と過ごした夢のような夏。神様が悪ふざけで作ったような、あの酷い八月。十六歳の私は、たしかに恋をしていた。


「正木?」
「うん。朱莉ちゃん、たしか中学、同じだったよね」
「中学だけじゃなくて、小学校も同じだけどね。でも、どうしたの?」
「ちょっと色々あって」
「告られたの?」
 朱莉ちゃんは半笑いで聞いてくる。同じ部活の人たちは、私が慌てはじめると、ちらっとこちらを見てきた。
「分かってるって。そんな驚かなくてもいいじゃん」
「あはは……」
 誰かが黄色のスプレー缶を振る。モザイクアート用の爪楊枝が染まっていく。部室には強いシンナーと、染みついた油絵具の臭いが充満していた。
「なんか悪いやつじゃないけど、変なやつのイメージ」
「そうなんだ」
「顔は良い」
「ふーん」
「でも、変なやつ」
 天井に取り付けられた扇風機がゆっくりと空気をかき混ぜる。会話はそれ以上続かず、また部室内は一部の子の笑い声だけ残して、静まり返った。
「正木 薫」
 ふと、下駄箱に入っていた小さい手紙に書かれた細くて綺麗な字を思い出した。絵を描き始めようと、もう一度、机に視線を戻したら、耳元を蠅の羽音がかすめていった。


 朱莉ちゃんの号令を合図に部活は終わる。バタバタとみんなが準備をし終わるのを、私はじっと待つ。今日は水曜日。鍵当番の日だ。みんなの鞄についている何かのアニメのキャラクターのキーホルダーが、ぶつかり合って、騒がしい音が響かせる。
 部室を出ると、湿気を含んだ嫌な暑さがまとわりついた。空は少しだけ雲が広がっている。小説とかで見るみたいな夏はきっと存在しない。流れる汗がうっとうしい。暑さだけが強調されて伝わる。早く職員室に行きたい。熱を振り払おうとして、腕を大きく動かすと、その拍子に鍵は手を離れ、たいぶ遠くまで飛んでいってしまった。渡り廊下の大きな窓から差し込んだ光が、鍵と、ほこりと、そして、廊下の向こうに立っている人を照らした。
「江端さん?」
 私に気づくと、問いかける。前の日曜日とは違って制服姿だから、なんだか全く知らない人に見えた。
「正木君……?」
「良かった、合ってた! ポニーテールだったことしか覚えてなかったから、どうなるかと思ったよ」
 正木君は困ったように笑う。黒いリュックを背負った彼は青色のロゴが入った保冷バックを右手に持っていた。私を日陰のほうへ手招くと、「みかんとソーダ、どっちが好き?」って変な質問をしてきた。
「え、みかんとソーダ?」
「うん。ほら、早く、早く」
「えー。じゃあソーダ」
「了解!」
 私の返事を聞いたら、保冷バックからソーダ味のアイスを取り出す。
「はい。これ、この前のお詫び」
「わー、ありがとう!」
 この暑さの中でのアイスのプレゼントはすごく嬉しい。手渡されたアイスの袋越しに冷気が伝わり、私の右手だけがほんの少し涼しくなった。正木君もみかんのアイスを握っていた。鮮やかな橙色を見て、やっぱりみかんにしても良かったかも、とちょっと思った。
「もう体調は大丈夫?」
「平気だよ。軽い熱中症だったらしくて、昨日までは病院通いだったけど」
「やっぱり熱中症だったんだ。顔、真っ青だったもん」
「まじで? あー、でも、水分補給なしだったからな……」
「あんな炎天下だったのに飲んでなかったの? そりゃなるよー」
 暑さで僅かに溶け始めたアイスをかじると、人工甘味料の雫が滴る。素敵な味がした。
「ほんとにありがとう。江端さんが救急車呼んでくれなかったら、まじで死んでたかも。命の恩人」
「そんなに言わなくても良いよ。まあ、倒れこんできたのはびっくりしたけど、あのままほっとくわけにいかない感じだったし。当然のことしただけだから」
 日曜日のことを思い出す。青白い顔色に反して、夏の気温を全部吸い込んだように正木君の体は熱を持っていた。駅前の広場の地面にはカラフルなチラシが散らばり、模様を作る。慣れない都会での買い物のあと、予想もしていなかった、「病人の介抱」というアクシデントに見舞われた私は、結局、帰りの電車を三時間も遅らせるはめになった。もっと驚いたのは、その「病人」が私と同じ学校に通う同級生だったことだ。病院で彼のお母さんからお礼を言われたときに判明した新事実。そんなこんなで今に至る。
「……あのチラシに載ってた子って正木君の友だち?」
 気になっていたことを聞いたら、彼の笑顔は少し曇った。言葉を探しているみたいだ。ゆったりと彼の黒目は動き、困った私は部室の鍵を弄る。
「……幼馴染。小三の時に誘拐されて、そっからずっと手がかりなくて」
 何か知らない? と問いかけ、正木君は一枚、紙を私にくれた。ピンクのTシャツに短パン。高い位置の二つ結び。写真の彼女はどこにでもいそうな子だったけど、どこでも見たことがない子だった。
「ごめん、知らないや」
「だよね」
 変なこと聞いてごめんって呟くように答える。溶けてしまっていたアイスの残りを、彼は一口で食べて、立ち上がった。
「俺、もう時間だから行くよ。今日は来てくれてありがとう」
 ニッと歯を見せて、笑って、正木君は行ってしまう。
 その時、どうして私はアイスを急いで口に押し込んだのかは分からない。伝ったアイスの残骸で私の右手はべたついていた。だから、左腕を伸ばした。白い、彼の制服が汚れてしまわないように。
「また、チラシ、配りに行くの?」
 振り返った正木君の眼はちょっとだけ白目が大きくなった。戸惑った後に頷く。
「私も手伝ったら、邪魔かな」
 遠くで聞こえる蝉の声と、彼の返事が、遅い夏が始まる合図だったんだと思う。


 次の日の部活は久々に早退した。朱莉ちゃんは理由を聞いてきたけど、なんだか恥ずかしくて、病院って嘘をついた。
 校門の前で正木君は立っていて、私を見つけると笑って手を振る。私も振りかえす。小走りで近づいたら、お疲れ、と声をかけてくれた。
「日曜日の駅だよね」
「うん」
 そうして二人で歩き始める。日差しが強くて、目をしっかりと開けれない。正木君も同じみたいで怒っているように眉間にしわを寄せていた。少し、それを見て笑う。正木君も私の話を聞いて、眉間にしわを寄せたままの変な笑顔を浮かべた。
 正木君はすごく背が高いわけじゃないけど、私と意外に歩幅の差がある。彼の足下の濃い影を追うように、目に刺さる空の眩しさから逃れるように私は下を向いていた。たわいもない会話が続いていく。クラスの話。ちょっと前の二期考査の話。部活のこと。友達のこと。私は文系選択で正木君は理系選択だから、普段の生活も違うし、そもそも初対面に近い。でも、ずっと前からの友達のように話していた。
道路脇の野草は見たこともない朱色の実を下げていた。昨日の夜に降った雨が乾いていないせいで、アスファルトの匂いが薄く漂っている。空はやたらめったら青い。いつもの通学路。駅までの長い距離は、歩みの差を埋めようとするうちに消えていった。

「探しています! 情報提供、お願いしまーす!」
 正木君の声が広場に響く。駅前を通るたくさんの人たちにチラシを渡していく。街の中でポケットティッシュを配っているのとは違って、大概の人は受け取ってくれた。
「女の子を探しています! 八年前に誘拐されました! 情報提供、お願いします!」
 すごく大きな声だった。また倒れてしまってもおかしくないぐらいに。私はなんとなく蝉を連想してしまった。広場の木にとまった蝉たちは、命を削りながら鳴いている。力に溢れているのに、なぜか儚い、夏の風景。その中に彼もまた、溶け込んでいた。
「探しています! お願いします!」
 手伝う、と言ったのに、何の役にも立てないのは嫌だった。正木君に負けないように私も声を張り上げる。
 暑くて、目が回りそうだった。そのせいでだんだんチラシを渡すのも作業のようになってくる。相手の顔もろくに見ないで渡す。そんな中、突然、声をかけられる。
「暑いのに、偉いね」
 顔を上げると、六十歳ぐらいの女の人が微笑んでいた。
「あっ、はい……」
「あの子のお友達?」
「そうです。一応」
 日傘を差し、薄く化粧をしている。若作りではないおしゃれな感じで、素敵だなあ、と思った。
「いつも、彼、頑張ってるものね。きっと見つかるよ。あなたも、無理しないようにね」
 親指をぐっと立て、応援してるわ、と言われた。そして、人ごみに消えていった。その指に塗られた淡い色のマニキュアが目に焼き付いている。暑さとは別に、私の心にはじわりと温かさが広がっていった。


 電車にはあまり人がいない。普通電車だから当たり前かもしれないけど。隣の車両から小学生ぐらいの子たちがやってきて、笑いながら、また違う車両に向かっていった。隣に座る正木君は聞こえないほどの小さな声で、元気だなあ、と呟く。
古い写真のようなセピア色の夕日が車窓から差し込み、私たちを包んでいた。日焼け止めを塗っていなかったらしい正木君の肌は赤らんでいる。私も頬の辺りが熱を帯び、微かな痛みを感じている。
正木君はじっと余ったチラシを見つめていた。彼の瞳から何を考えているのかは分からなかった。
「正木君?」
「うわっ、なに、どうしたの」
 急に声をかけてしまったせいで目を丸くして叫ぶ。その顔が面白くって笑うと、げんこつを作って頭を小突いてきた。
「江端さんも初めて駅で会ったとき、大概な顔してたからなー」
「わ、酷い! 正木君、女子にそんなこと言うんだ」
 負けじと握り拳で対抗する。くだらない時間がしばらく続いた。
「ていうか、別に俺のこと、呼び捨てで良いよ。なんか、君、なんてつけられるとむずがゆい感じするし……」
 彼はヘラヘラ笑いながら言ったけど、私はちょっとだけ困ってしまった。
「ごめんね。変なの分かってるんだけど、私、呼び捨てできないんだ」
 人から呼び捨てされるのは平気なんだけど、と付け足す。昔から色んな子に言われてきた。でも、どんなに仲の良い子でも呼び捨てにできない。小さい頃、親に呼び捨ては乱暴だからやめなさいって言われていたから、染みついてしまったんだ、と思っている。
 正木君はさっきと同じぐらい目を大きく見開いた後、ふいに大きな声で笑い始めた。ほとんど人がいない車内に笑い声が響く。変な顔をされたことはあるけど、こんな反応は初めてで戸惑ってると、彼は謝りながら話した。
「ごめん、ごめん。前に似たようなこと、言われたことあったから……」
 そんなにおもしろいのか、目をこすってまでいる。しばらくしたら落ち着いて、私の前に持っていたチラシを見せた。
「はるちゃんって俺はこの子のこと、呼んでた。はるちゃんは俺のこと、薫ちゃんって呼ぶんだよ。女の子みたいで恥ずかしいって言ったら、ほぼ同じこと言われて、三年生までずっと薫ちゃん呼び」
 ゴシック体で大きく書かれた「清水遙香」という名前。正木君はそれを愛おしそうになでる。
「なんか、懐かしくなったんだ」
 うつむいた彼の顔に影ができた。前にも見た寂しげな笑みを浮かべている。
「……大丈夫。きっとまた会えるよ」
「うん。ありがとう」
 金属がこすれ合う音がして、電車が停止した。駅名を見ると彼は立ち上がり、こっちを振り返る。
「じゃあ、また今度。巧海」
「ま、たね! 薫君!」
 突然呼ばれた名前に驚き、うわずった声で返事をしたら、薫君はまた笑い、夕焼けの中に消えていった。車内は白いワンピースを着た女の子と私だけになる。頬の熱さは日焼けのせいだけではないのかもしれない、と思った。


 それからの二週間は本当に楽しい時間だった。
 部活は早めに早退して、薫君に会いに行く。長い時間話しているのに全然話題は無くならなかった。冗談を言い合って、買い食いをして、寄り道をして。もちろんチラシ配りも頑張った。薫君はいつも倒れそうになるまで声を張るから、不安になってしまう。でも、かっこいいとも思った。そこまで人のために自分を犠牲にできる彼を、私は尊敬した。きっと私にはできない。
「すごくない。俺にできることをやってるだけだから」
 一度、すごいねって言ったら、そうやって返された。終戦記念日が近いせいで、駅の広場にはデモ隊のおばあちゃんたちがたくさんいた。薫君は少し考えて、口を開く。ぽつりぽつりと、はるちゃんのことを教えてくれた。
 優しいけれど、ちょっと気弱だったこと。
 アイスをよく買って、公園で食べたこと。
 その公園で、皆でかくれんぼをしたこと。
 他の子たちが、終わりだよ、と叫んだのに、はるちゃんだけが出てこなかったこと。
 背の高い男の人がはるちゃんと二人で歩いて行くのを、街の人が見ていたこと。
 異常気象でひどく暑い日だったこと。
「あの日、何もできなかった償いなんだよ。俺にとっては」
 無表情で言う。彼を助けたい、と確信めいた思いが心に生まれていた。せめてこの夏の間だけでも彼のそばで支えてあげたい。償いだ、と言った薫君の顔がいつまでも忘れられなかった。

「巧海ちゃんさ、最近、忙しいの?」
 部室の端から朱莉ちゃんが問いかける。色鉛筆を動かす手を止め、顔を上げるけれど、真剣な表情でキャンパスに描き込んでいる彼女とは目が合わない。
「病院とかでここ二週間、早退ばっかじゃん」
 シンナーの臭い。右腕に止まった蠅を叩き潰そうとする。でも、失敗に終わった。
「うん。ちょっと色々あって」
「正木でしょ」
 声を上げそうになったのをこらえると、喉からは不自然な空気が漏れ出た。油絵の具を使っている子たちの笑い声が静かに聞こえる。現実なのか、そうではないのか分からない男の子の話をしている。
「駅で見た子いるんだ。なに、結局付き合ってるの?」
「……違うよ」
 返事をすると、朱莉ちゃんは席を立ち、私の方に来た。描きかけの私の絵を見て、再び口を開く。
「あんまりこんなこと言いたくないんだけど、巧海ちゃん、ちょっとペース遅いよ。今日も早退でしょ。文化祭、間に合う?」
「間に合わせるよ、大丈夫」
「うん、そうじゃないと困るから頑張ってね。色鉛筆は丁寧にやればすごく良い作品が作れるから」
「分かった。ごめんね、迷惑かけちゃって」
「ああ、それは良いんだけど」
 朱莉ちゃんはちょっと笑った後、難しい顔して、大きくため息をついた。
「正木のことだけど。あいつ、正直、ヤバい奴だから関わるのやめた方が良いよ」
 一呼吸する間、私は何も考えてなかった。何を言おうとしているのか、自分でも本当に分かっていなかった。


「よく知らないくせに薫君のこと悪く言わないでよ!」


 静かだった。朱莉ちゃんは呆然と口を開き、他の部員も私のことをじっと見ていた。息ができなくて、音が聞こえなくて、苦しくなった。朱莉ちゃんが大きく息を吸い込む。何か言われる。何か起こる。怖い。
 気がつくと荷物を持って走り出していた。怖くてしょうがなかった。でも、それ以上に頑張ってる薫君のことを、あんな風話した朱莉ちゃんを許せなかった。いつも通り校門で待っている薫君を見たら、やっと息が上手くできるようになる。
「今日、早いね」
「そういう気分だったから」
 それ以上は聞いてはこなかった。でも、なんとなく何かあったことは察してくれたようで、アイスを買いにいこうか、と言った。
 学校前の坂道を下って、すぐのコンビニに向かう。草刈りをずっとしていないせいで道はすごく通りにくかった。私の肩ぐらいまである草が体に触れ、すごくかゆい。道路に何かの死骸がへばりついている。そっちに気をとられて、まだ死んで時間が経っていない様子の蛙を踏みそうになった。

「お、高田じゃん」
 コンビニ前で座り込んでいた男の子に薫君は声をかける。高田と呼ばれた男の子は鬱陶しそうに顔を上げ、正木か、と呟いた。
「お前と会えるなんてレアだな。補習?」
「そうだけど、脱走してきた」
「留年しても知らないからな」
「別にそれでも良いよ」
 用がそれだけならあっちに行け、と言わんばかりに睨んで目を逸らす。隣に座る小柄な女の子は彼を小突いた。二人でひそひそと会話をして、笑った。巻いた包帯の隙間からわずかに見えた彼女の腕は、赤茶色の細い傷跡が無数に走っていた。
「あの二人、ずっと不登校なんだよ」
 女の子がハーゲンダッツを食べていたから、私も買ってみたけど失敗だった。舌の上に乗ったチョコレートの味は濃厚過ぎて煩わしい。
 さっきの二人はアイスを買っている間に帰っていた。入れ替わるように店先でたむろする。
「友達なの?」
「微妙。俺はそう思ってるけど、高田はそうじゃなさそうだからなあ。一応、不登校仲間」
「……薫君、不登校だったんだ」
「うん。ずっと休んでビラ配りしてた」
 朱莉ちゃんが薫君のことを変な奴、と言っていたのは、多分、これが理由なんだろう。だとしたら、余計に許せない。朱莉ちゃんの方こそやばい奴だ。
「色々言われてむかついたときもあった。絶対死んでるのに受け入れられないから、あんなことしてる、とか、逃げてるだけだ、とか。若干、図星だったからもっとむかついた。まあ、もう気にしてないけど」
 アイスの棒を口にくわえながら薫君は、リュックから小さい袋を取り出した。雑貨店の包装みたいだった。
「あげる」
「えっ?」
 戸惑ってもたつく手で渡された袋を開けると、ピンク色の飾りが付いたゴムが出てきた。太陽の光を反射して、半透明の球体が輝いている。
「巧海、いつもポニーテールしてるから、似合うと思って」
「そんな」
 もらえない、と続けようとした。でも、薫君がそれを遮った。
「朱莉に何か言われたんだろ」
 急に心臓が暴れ始める。俺も久々に会ったら影で言われた、と話す。
「ごめん、俺のせいだ。それで落ち込んでたんだよな」
「違う。違うよ……」
 もらったゴムを強く握りしめて、震えを押さえようとした。持っていたスプーンがその拍子に落ちた。
「本当は夏休み終わるときにあげようと思ってたんだ」
 私の手を握る。睫毛が長くて、真っ黒な髪で、綺麗な顔立ちの薫君。全然意識をしていなかったけど、彼の手はごつごつとした男の子の手だった。
「もう少しだけ、俺のわがままに、逃避に付き合ってほしい」
 黒目がちで切れ長の目が、私のことを映している。少し恥ずかしくて目を逸らしそうになったけれど、それを堪えて私もじっと見つめ返した。
「……嫌だ」
 私は言った。薫君は間を空けて、そうだよな、と返す。
「夏の間だけじゃ嫌だよ。これからも、はるちゃんが見つかるまで、私、付き合う。二人で頑張ろう。逃げることなんて悪いことじゃない。とことん逃げるとこまで逃げてやろうよ」
 薫君の買ったアイスの棒には、茶色の文字で「あたり」と書いてあった。


 次の日、私は初めて部活を無断欠席した。
薫君は部活に行かなくて良いの、と聞いた。
 薫君の自転車で二人乗りをした。
 空は青かった。大きな入道雲が立ち上っていた。しばらくしたら雨が降ってきた。チラシが何枚か駄目になってしまった。
 幸せだった。

 次の日、私は初めて寝坊をした。
 部活に行こうと思った。
 当然、部活は始まっていた。
 私は緊張していた。
 お守りみたいにもらったゴムをつけていた。

「江端さん、今日も来ないの?」
「来ないでしょ。ていうか、もうやめるんじゃない? 全然、なじめてなかったじゃん」
「やっぱそうだよね。絵も下手だったし。アニメとか漫画とかの知識も皆無だったし」
「あれだよね。運動は出来ないけど、文化部、どこ入れば良いのか分からなくて、しかたなく来た感じあったよね」
「分かる! こっちは真面目にやってるのに、ああいうのホント腹立つ」
「あんなんだったら正直、来ないでほしい。運動部にも、ほら、バレー部の彩花先輩みたいに絵、上手い人いっぱいいるのにさー。なんでそういう人じゃなくて、ああいうのが来るんだろ」
「本当に好きな人だけ来てほしいよね。ただでさえ美術部って陰キャラ扱いされるのに余計印象悪くなるよ」
「しかもさ、江端さん、話しかけても何言ってんのか分かんないとき、あったじゃん。よく、朱莉話してたよね、偉いよ」
「そうそう。皆が言いたかったこと、言ってくれてありがとね、朱莉。あんなに遅れてるのに早退とかどうかしてる」
「まあ、これでも部長だしね。正木のこと話したときは、さすがにうわーって思ったけど。正木、ホントにヤバい奴だから。昔、誘拐された同級生の幼なじみでさ、ちょっとでもその子のこと触れると暴れ出すんだよ。完全、病んでる、あいつ。中学もほとんど来なかったし」
「一昨日みたいにいきなり叫ぶようじゃ、江端さんも大概、病んでるでしょ。類は友を呼ぶって言うし、良かったんじゃない? とにかくお疲れさま、朱莉」
「ありがとう。皆で文化祭の展示に向けて頑張ろうね!」

 ふらふらと部室前を立ち去る。破裂音が延々と続いているような音量で蝉は鳴いている。どうしようもなく腕が痒くてかきむしったら、皮がむけて、絵の具みたいな赤い血が滲んできた。自然と声が出そうになるから、唇を血が出るほど強く噛む。空は水色で、その色を隠そうとする白くて淡い雲が流れていた。
 校門に行くと薫君がいた。背筋が真っ直ぐと伸びた、いつも通りの、心の闇の気配すら感じない、彼がいた。
 私の姿を見つけると息をのんで、走り寄ってきた。巧海、と小さく、私を呼ぶ。そして、私を抱きしめた。
 ああ、私、なんて簡単な人間なんだろう。全部、自業自得なのに。分かってるのに。薫君の体温に安心してしまっている。馬鹿な奴、救いようがない奴! 死んでしまえば良い!
 
私は薫君のことが好きだ。
 
いつのまにか、子どもみたいに、大声を上げて、泣いていた。


 電車が来るまであと十分。プラットホームは意外と人が多く、皆に泣いた痕を見られているようで恥ずかしかった。この駅で乗り換えれば、いつもの駅まであと少しだ。
「死んじゃいたい」
 薫君は学校からずっと手を握っていてくれていた。
「運動も、出来なくて、勉強も、得意じゃない。小心者で、いっつも他人任せ。周りに、合わせる努力、もしない。変わろうとしてやったことはすべて空回りする。全部、自分のせいだって、分かってる」
 たどたどしい私の話を彼は黙って聞いていた。
「私、どこで間違えたんだろう。色んな人から、この世で、起こることは、起こるべくして、起きている、嫌なことも、その人に、必要な試練だから起こるって言われた。でも、こんなに、過酷な試練が必要なほど、私って駄目な、人間なの、かな」
 涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえる。やっぱり泣くのは恥ずかしい。
「神様は悪ふざけで私を作ったとしか思えない」
 深呼吸して、呼吸を整えた。特急電車が近づいてくる音がする。通過電車だ。金属音と雑踏のざわめき。そして、悲鳴。
 場違いに響いた、その金切り声にはっとし、辺りを見渡す。薫君もいぶかしげな表情で顔を上げる。
 私たちと同い年ぐらいの女の子が、線路の上に立っていた。
 もう間に合わない。衝突の瞬間、私は目を固くつぶる。甲高い女の人の声が耳に突き刺さる。耳障りな急停車の音。
 それ以外、何も聞こえない。本当は違う。何も見えないように、何も聞こえないように、うずくまっていただけだった。
「良いよって言うまで、目、開けたら駄目だ」
 薫君が言い、私の手をひいた。スマホのシャッター音や電話の音。いらだった声、興奮した声。人の熱気。暗い視界のなか、彼の手だけが頼りだった。涙は止まっている。息は相変わらず上手く出来ない。
「良いよ」
 目を開けると改札前だった。響くアナウンスが無機質に遅延を知らせる。ICカードをかざして、駅を出た。
「今日はもう行くのはやめとこう」
 薫君がそう言うので、私たちは日陰に設置されたベンチに座って、復旧を待つことにした。この駅でチラシを配ろうと思ったけれど、政府批判・戦争反対の声を上げた人たちが大勢で、チラシを配っていたのでやめた。少し青みがかった日陰の中はほんの少しだけ涼しい。「怒りの母の会」と書かれた黄色の旗が、植えられた木の葉を彩っていた。
「……あれ見ても、まだ死にたい?」
 薫君は私が首を横に振ったのを見ると、少し笑った。死体こそ見なかったけど、強烈な恐怖を感じた。好奇心と軽蔑の目をした人たちに見下ろされるのはどんな気持ちだろう。彼女はどうして死んでしまったのだろう。もうそんなことは分からないから、考えてもしょうがないのだけど。
「簡単に死ぬとは言えるけど、やっぱり死は恐ろしいものでなきゃいけないはずなんだ」
 木々の隙間から差し込んだ光が薫君の顔をまばらに照らす。穏やかな笑顔の中に、微かに別の何かを感じた。
 会話はなく、しばらくお互いに黙り込んでいた。デモに参加する女の人の声と、時折吹く風のざわめきだけが聞こえてくる。救急車とパトカーがそのうちやって来て、駅はまた騒がしくなってきていた。
「……あのさ」
「……なあに」
「俺さ、朱莉のこと、すごい嫌いなんだ」
 あまりに唐突で理解が追いつかなかった。多分、かなり馬鹿そうな顔をしながら薫君を見つめたが、彼はそんなことお構いなしで話を続ける。
「いっつも俺に文句言ってくるんだよ。このビラ配りのことも、いつまでも過去にとらわれてちゃ遙香ちゃん、天国に行けないとかほざきやがって。失礼だよな、まだ死んだなんて決まった話じゃないのに。ドラマとかで見た歯が浮きそうな台詞が言いたいだけなんだよ、あいつ。自分に酔ってる感じが伝わってくるから、朱莉の目は本当に気持悪い」
 私は進むほどに際立つ話の唐突さと、薫君がらしくない少し乱暴な口調で喋ることに困惑してしまって、何も言えずに目を動かしていた。
「一回、それにキレて暴れたら異常者呼ばわりだよ。人それぞれ悲しみの許容量は違うはずなのに、自分の物差しで相手を測って、考え方を押しつけてくるような奴らで世の中は溢れてる」
 薫君は急に私の頭に手を置き、乱暴に撫でてきた。逃げようとしたらニヤニヤして、余計に強くしてきたから髪型が崩れてしまった。
「ずっとそうだ、昔から。皆、自分が正しいって思いながら生きてて、その身勝手な誰かの正義のせいで皆、傷ついてる。
 最近、気づいたんだ。何が正しくて何が悪いかなんて、自分が決めることじゃない。正義なんて他人が決める評価でしかない。見る人によって違う不安定なものだ。だから、それにいちいち傷ついて、死んでしまうなんて、本当に馬鹿らしいって俺は思う」
 崩れてはみ出した私の長い髪を彼は直そうとしたけど、元通りにはならなかった。私がゴムをつけていることに気づくと、ありがとう、と囁いた。
「俺、巧海が死んだら悲しいよ。そんなこと、考えたくないよ」
 言ってから照れくさくなったのか、薫君の顔はちょっとずつ赤くなっていった。私は我慢できなくなって、泣きながら吹き出す。前、電車でしたみたいにふざけた喧嘩ごっこが始まって、二人で笑いあった。心がずいぶんと軽くなっていた。薫君と出会えて良かった、と心の底から感じた。

「あっ、あなたたち……」
 聞き覚えのある声がして、同時に振り向く。そこにはいつかの素敵な老婦人が立っていた。以前とは違う日傘を差し、上品な空気を漂わせている。
「まだこの子、探しているよね?」
「はい」
 老婦人が鞄から取り出したいつものチラシ。さっきまでと打って変わって真剣な声で薫君が答える。心臓が異常に早く、そして力強く動く。
「実は、私の知り合いがこの子とそっくりな子を知っているって言っていて」
 薫君が大きく息を吸う。目を見開く。立ち上がる。信じられない、という気持ちを物語っていた。
「……本当ですか……?」
 老婦人は確かに頷く。私も薫君も、再びその口が開かれるときを固唾をのんで待つ。
「アパートの大家をしていられる方なのだけど、二週間ぐらい前まで大柄な男の人と一緒に一部屋を借りていたみたい。引っ越した先は分からないそうなんだけど……」
 薫君の体が震え始める。切れ長の瞳からはゆっくりと涙が流れた。喜びをかみしめるように呟く。
「……はるちゃんが生きてる……」
 言い終わると彼はベンチにへたり込んだ。笑い泣きながら何度もその言葉を繰り返した。
 失礼な話だけれども、私は列車に飛び込んだ彼女に少し感謝してしまった。同時に少しだけ彼女を恨んでしまった。
夏が終わる。私と薫君の関係も終わる。
初めて会った日曜日みたいな空の眩しさが、青色が、瞳に突き刺さるようだった。


 踏切が開くと、住宅街への道が現れる。夕日は沈み、街は紫色の影に覆われた。長く電車に揺られていた脳は未だに乗ったままなのだ、と錯覚し、覚めきっていない夢のように不快な浮遊感を感じ続けている。自転車に轢かれたのか、斑模様の蛙が腹から何かを出したまま死んでいた。
「久しぶり」
 待ち合わせの時間にはまだ時間があったけれど、警報機の横に薫君は立っていた。綺麗だった黒髪は乱れ、出来た濃いクマが彼の整った顔立ちに凄みを与えている。
 挨拶以上に会話は続かず、二人で歩き始める。垂らした手を彼は半ば強引に握り、私をどこかへと連れて行く。彼の爪はがたがたに歪み、所々血が滲んでいる。もう一方の手も同じようになってるんだろう。
一週間。彼を壊してしまうのには、十分過ぎる時間だったのかもしれない。

「……今日、はるちゃんと会ってきたよ」
 たどり着いた公園のブランコに乗り、ぼんやりと薫君は言った。
 清水遙香さんの事件は新聞にも掲載され、ニュースにも取り上げられた。
小児性愛者による犯行。八年にも及ぶ監禁生活。彼女は夏の暑さのせいで、かなり腐乱が進んだ状態で山奥から発見された。犯人とみられる男は発見される三日前、車に轢かれて死んでいた。大方、自殺だろう、と朝のニュースで見た。
「あの頃と全然変わってなかったんだ」
 評論家はアニメーション・漫画の影響を指摘し、若者の凶暴化を危惧した。インタビューの映像には驚いている同級生が映っていた。薫君は映っていなかった。
「あの、写、真と、そっくり、の格好で、髪も二つ結びのままで、足、が……足が、足が、ちっ、ちっちゃくて」
 ワイドショーで犯人の異常性が紹介されていた。
昔、中国には纏足という風習があった。女性の足は小さければ小さいほど美しい。その考えのもと、幼少期から足に布を巻き、成長を止めた。足は歪に変形し、歩行も困難になる。
犯人は必死だった。遙香さんの成長を止めようと試みた痕が、彼女の体には無残に残っていた。
 薫君の歯は大きく音を立てて鳴り、呼吸は荒く、右手は頭をかきむしった。私は彼を抱きしめた。彼が私にしてくれたように、強く。痛かった。恐ろしいほどの力を加えられる体が、今にも悲しみではり裂けそうな心が。
「……良いよ。もう大丈夫だよ……」
 薫君は泣いていなかった。黒い瞳と心だけはいつまでも遙香さんを見つめている。夜に染まる街の中、暑さと蝉の鳴き声が煩わしく昼間の存在を私たちに訴えていた。
「……巧海」
「なあに」
 触れる体は熱く、心臓の鼓動までも感じ取れた。私の鼓動と薫君の鼓動が重なる。
「好きなんだ、巧海のことが」
 彼は私の体から離れ、ブランコが軋む。優しく、穏やかにほほえむ彼は、やつれていても変わらず美しかった。壊れ物を扱うような手つきで私の頬をなぞり、口を開く。
「愛してる。どうしようもなく愛してるんだ」
 私の体が心臓は絶えず高鳴っている。死んでいまいそうだった。本当に嬉しかった。でも、私の瞳からは感動とは違う涙が流れていく。心は冷たく、現実に溶け出している。
「……違うでしょう……?」
 涙は止まってくれない。血液の熱さにも似た雫は、嫌でも初めて会った日の彼の手を連想させる。
「どうしてポニーテールだったことしか覚えてないって言ったのに、初めて会ったときの私の表情を知っていたの?」
 大概な顔してたからな。
 そう言って、赤く日焼けした顔で笑った。
「どうして私にピンクのゴムをくれたの?」
 今までのお礼に。
 チラシの写真の色。日の光で輝いていたピンクの飾り。
 一夏の想い。抱いていた疑念。涙と共にこぼれ落ちてゆく言葉は終止符だった。この恋を生かし続けるために、彼の隣に居続けるために、私が知らないふりをしていた記憶を告白するための言葉だ。
「……どうして」
 喉に絡まる想いを全て吐き出すように、嗚咽するように、声を発した。

「あの日、私のことを、はるちゃんって呼んだの……?」

透き通るように青かった夏空。舞う行方不明者のチラシ。彼の泣きそうな顔。私は、そのとき、確かに聞いた。

「待って、はるちゃん」と。

 薫君の顔に浮かんでいた笑顔は消える。何の感情も感じられない瞳は虚ろに泳ぎ、最後に私のことを捉えた。
「…………俺の秘密を、話すよ」
 彼は言う。ひどく冷たい声色で。

 はるちゃんが行方不明にになったあの日、俺たちはこの公園でかくれんぼをしていた。はるちゃんはかくれんぼが得意だった。いつも、俺に目をつむらせ、手を引いて、どこかに連れて行く。目を開けてもどこなのかは分からない。終わりだって鬼が叫び、立ち上がると、初めてどこにいたのか分かった。
 あの日は木が生い茂る薄暗い場所だった。割れたテレビが近くにあったはずだ。遠くから、もういいかいって鬼が叫んで、俺は、もういいよって返した。どうせ今日も見つかりっこないって二人でしばらく話して、笑っていた。息をひそめると、蝉の声しか聞こえなくなった。
「君たち、何をしているの?」
 急に後ろから聞こえて、飛び上がった。木の陰にすごく背の高い男がにこにこ笑って立っていた。
「静かに! 聞こえちゃうから。かくれんぼしてるんだよ」
 俺が返事をすると、ごめんよって謝りながら、俺たちの隣にしゃがみ込んだ。
「こんなところに隠れてるならきっと誰にも見つけられないだろうねえ」
 遙香はかくれんぼ得意だから、いつも誰も見つけられないよってはるちゃんが自慢げに言った。
「そうか、遙香ちゃんはかくれんぼが得意なのか。でも、いっつも誰にも見つけられないのも退屈じゃないのかい?」
 はるちゃんは少し考えて、実はちょっと思ってたって話した。俺はそんなこと、全然気づいてなかったから驚いた。
「だよね。じゃあ、どうだい、お兄さんと一緒に遊ぼうよ。ちょうどお兄さんも退屈だったんだ」
 はるちゃんは目を輝かせて、何度も頷いた。俺はあいつを怪しいと思ってた。毎年、安全教室なんかで見たビデオに出ていた不審者みたいだからやめろってこっそり言ったのに、はるちゃんは聞いてくれなかった。普段の気弱で用心深いはるちゃんからは想像できなかった。こんなに優しい人がそんなわけないって言った。俺ははるちゃんの手を握って、引き留めた。
「そっちの僕はどうする?」
「俺、行かない。はるちゃん、もう行こうよ」
「あれ、帰っちゃうの? 暑いし、アイスでも食べようよ」
 はるちゃんは俺の手を振り払った。それで、薫ちゃんなんか知らないって舌を出した。腹が立って、じゃあ勝手にしろよって俺は叫んだ。
「ああ、喧嘩はダメだよ。良いんだね、僕はアイス食べに行かなくて」
「良いよ! さっさとどっか行けよ!」
「そうかい。じゃあ、遙香ちゃんはこの先にお兄さんの車があるから乗ってなさい」
 はるちゃんは笑って、林の向こうへと歩いて行った。あの男はしゃがんだまま、俺に話しかけた。
「なあ、僕。ここであったことは誰にも言っちゃダメだからね」
「なんでだよ」
「なんにもないよ。でも、言っちゃダメだからね。言ったらお兄さんは頭が良いからすぐに分かるからね。言ったら君と君の家族と遙香ちゃんを殺すからね」
 そこまで聞いて、俺は叫ぼうとした。はるちゃん、逃げろって。でも、その瞬間、俺の首にあいつは素早く手をかけて、少しだけ力を加えた。
「……殺すからな」
 足ががくがく震えて、涙が出そうだった。何度も何度も頷いた。殺されると思ったから。それでもあいつは力を緩めず、段々と俺の首を締め上げた。もうだめだと思ったら、はるちゃんが、車の場所が分からないって言いながら帰ってきた。あいつはすぐに俺の首から手を離し、はるちゃんのほうを向いた。俺は咳き込んだ。はるちゃんは、やっぱり薫ちゃん、行かないのって心配そうに聞いた。
「怖いから行かないってさ」
 あいつはへらへら笑っていた。俺は、はるちゃんを見つめた。行っちゃだめだ、気づいてくれって必死に念じながら。でも、はるちゃんはあいつの言葉を聞くと笑い始めた。
「薫ちゃんのいくじなし」って。
 二人は奥に消えていき、戻ってこなかった。すぐに、終わりだよって誰かが叫んだから、俺は走り出した。今まで隠れていたのは公園の裏の違法投棄が絶えない空き地だった。
 皆が俺にはるちゃんと一緒じゃなかったのかって聞いてきた。本当は言いたくてしょうがなかった。でも、首を絞められた感覚が蘇ってきて、今日はバラバラに隠れた、何も知らないって答えた。警察の人にも、はるちゃんのお母さんにも。罪悪感に耐え切れなくなって泣きだしたら、大人たちは、大丈夫、心配しないで、すぐに見つかるよって慰めてくれた。わめいている蝉の鳴き声が全部、「おまえのせいだ」って言ってるみたいに聞こえた。

「……初めて、駅で君を見たとき、はるちゃんに見えたんだ」
 俯く。苦しげに、絞り出すように、声を出す。
「はるちゃんが大きくなったら、君みたいになると思った」
 薫君は私の手を握る。爪が食い込んで痛かった。
「好きだよ。優しくて、でも、ちょっと気弱で、呼び捨てができない君のことが。愛してるんだよ。……だから」
 薫君は笑っていた。足りない酸素を補うように。許しを請うように。愛する者を見つめるように。殺意を孕んだように。無理に口角を上げた歪な笑顔から、彼の本当の姿が見て取れた。
「だから……もう一度、俺のこと……薫ちゃんって呼んでくれよ……」


「……薫…………君」


 彼の手は別の生き物のように私の首をとらえ、動きを封じた。力はこもっていない。ただ、触れているだけ。憎悪に燃え、見開かれた両目は光を宿していない。
「……どうして! どうして言ってくれないんだよ!」
「薫君は私を好きなんじゃない。遙香さんのことが好きなだけ。許してもらいたいだけなんだよ」
「違う!」
「違わないよ」
 これ以上言葉を続けて、彼に殺されてしまっても良かった。首にかけられた手に、僅かに力が入る。それに応えるように、もう一度、彼の背中に手をまわし、抱きしめる。
「私も、薫君のことが大好きだよ」
 力が更に込められる。苦しくて、辛くて、彼が愛おしくて、顔は涙でぐしゃぐしゃになる。
「でも……私、そんな半端な愛なら要らない」
 薫君は一瞬、凍り付いた。すぐに駄々をこねる子どものような表情になり、何かを言おうとして口を開くけれど、その声が漏れることはない。
 ごめんなさい。本当にごめんなさい。私がこんなことを言う資格がないことぐらい分かってる。でも、大好きな君が苦しむのなら。私のせいで狂ってしまうくらいなら。……私のことを、見ていないのなら。
「もう、終わりに、しよう。……全部」
 首から手が離れる。もたれかかるように体を預けてきて、その手を私の背中にまわした。肩の辺りが温かく、濡れていく。薫君は静かに、声も上げず、泣いていた。
「……夏休みが明けたら、私たち、他人同士に戻ろう。きっと……ううん、絶対にそのほうが良い。……お互いのためにも。私、今年の夏休みは泣けてくるぐらい、楽しかった……」
 分かった、と消え入りそうな声の返事が耳元で聞こえた。そして、愛してる、と囁かれた。
「……ありがとう」
 愛してる、という言葉はわざと伝えなかった。


 街は眠っているみたいだった。青色の空気が私たちを包んでいる。降り注ぐように何万もの蛙の鳴き声が聞こえていた。誰とも会わなかった。私たち、二人だけだった。
 黙って、並んで歩いた。相変わらず歩幅に差があって、少し早足になった。薫君はそのことに気づき、少しゆっくり歩いてくれた。履いていた靴に石が入ってしまって、痛かった。
 電車の時間までまだちょっとあって、警報機の下でぼんやりと立っていた。お互い気づいていたから。この踏切を渡ったら、終わりになってしまうと。私の心は楽しかった夏休みの記憶でいっぱいになる。本当は終わらせたくなかった。ずっと一緒にいたかった。夏が終わっても。季節が巡っても。遙香さんが見つかっても。誰の代わりでもない、「江端巧海」という存在として。
 警報機が点滅し始める。それが合図だ。夢から引きずり出された気分がした。閉じる遮断機の合間を抜けて、私は街を出る。カンカンと鳴り響く警笛と止まない蛙の声がひどく耳障りだった。
 ふいに手を掴まれる。振り返りたかったけれど、私はその手を強く払いのけた。通過する特急電車の光がすぐそこまで迫っていた。藍色の闇を切り裂き、鋭い黄色のライトが私を照らす。

「さよなら」

 私はそのとき、今まで聞いたことがない音を聞いた。
 遅れて、生暖かい風が吹く。電車は騒がしく、急停車した。
 振り返ると、暗闇の中、どんよりと重たい液体が地面に垂れ流れていることに気づく。車輪になんだかよく分からないものが絡みついていた。足下に薫君がいた。ずいぶんと小さくなってしまっている。
「……どうして……?」
 蛙が潰れて死んでいたのを見たとき、飛び出した臓器は意外と人間のものと似ていて、驚いたことを思い出す。八月の空気は重く、私の体を縛るようにまとわりついていた。
「意気地なし……!」
 あんなに後悔してたのに、どうしてまた逃げてしまったの? こんな世界で、私は今さらどうやって生きていけば良い?
 震える足は体を支えきれなくなって、私は座り込んだ。枯れたと思った涙がまた頬を伝う。ぽたりと落ちた水滴は、薫君の顔中に流れる鈍い赤色と混ざり合う。
「薫君の意気地なし!」
 私はそうやって大声で叫ぶことしかできなかった。薫君は穏やかに、眠っているみたいに瞼を固く閉じている。やっと解放されたのかもしれない。わずかに浮かぶ微笑み。彼は幸せそうだった。


 初めて君に会った日を、私は一生忘れないと思う。
 君の声も、笑顔も、体温も、心も。
 愚かな私の心臓を貫いた君は、きっと私以上の愚か者だった。神様みたいに見えた君もただの寂しい人間だった。
 途切れた君の時間が、封じ込めた私の愛の定義が、成り立つことは二度とない。
 君のことが大好きだった。君と過ごした悪夢のような夏のことも。悪ふざけみたいな人生の片隅。笑いあった幸せな思い出。十六歳の私は、たしかに恋をしていた。そうやって信じていたかった。

アンダーグラウンドサマーデイズ

アンダーグラウンドサマーデイズ

道中地獄行き #1 「恋する二人の言い訳ばかり」 *軽度の残酷表現を含みます。 偶然出会った同級生。彼は8年前に行方不明になった幼馴染を探していた。幼馴染を探す手伝いをするうちに芽生えた恋。最低な人生の片隅の記憶。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-06-27

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