*星空文庫

A市の穴

遠藤健人 作

 「電車、止まってるね」と先に気付いたのはK子だったが、僕も何かいつもと様子が違うということを駅の改札に近づきながら薄々感じてはいた。駅周辺にはそれなりに人出があったが、なぜか改札内へ入ろうとする者の姿は見られず、普段は蟻のように機敏に動き回っているであろうビジネスマン風の男たちも、普段からせいぜい動物園のキリンとかカバとかと同程度の緩慢な動きしか見せていないであろうその他の人々も、みな電光掲示板と携帯電話を見比べたりなどしつつ右往左往していた。
 「人身事故だって。どうする?」とK子が訊く。
 「いいよ、どこ行くってあてがあったわけでもないし、適当にこの辺ぶらぶらしようよ」
 「うーん、そうだね、この辺だって逆に悪くないよね」切り替えの早いK子はもと来た道へと踵を返し、聞こえるかどうかという小さな声でつぶやいた。「穴にでも飛び込めばよかったのにね」
 穴というのは、ここA市の中心部に開いている底なしの巨大な穴のことである。直径五十メートルはあるそれはいつの間にかそこにあって、A市といえば穴だし穴といえばA市なのであり、この町は穴を観光の目玉として祭り上げることで財政の安定化に成功している。逆に言えばA市は穴以外に何もないと知っている僕らは電車で隣町にでも遊びに行こうとしていたわけだが、結局のところ僕はK子といられればどこでもよく、彼女の方もそうである、と思いたい。
 僕らは観光客向けの商店をいくつか冷やかして回ったが、地元民としては普段こうした店に入ることは稀だったから新鮮ではあった。「買ってこっか、逆に」と言ってK子が手にしたのは「銘菓 穴」である。これは小麦粉にバター、砂糖、卵などを加えた生地をA市の穴の形を模したリング状にして油で揚げたもので、その味はと言えば天にも昇るというか穴にも落ちるというか、要するにただのドーナツなのだが、それを観光客たちはどっさり買い込んではどこかへ去っていくのである。
 僕たち二人は昼食代わりのそれを公園のベンチに座って食べることにした。その公園はほとんど地元民にしか知られていない高台にあり、穴の様子がよく見渡せた。穴の周囲には見物客がわらわらと集まっており、電車がちょっと止まったからといって目に見えて観光客の数が減っていたりはしなかった。みな一様に穴の中をのぞき込んだり写真を撮ったりしている。穴の中は真っ暗というより真っ黒で、いくら目を凝らしても底が見えない。
 「穴に飛び込めばいいってのは冷たすぎるよ」何の脈絡もなく僕はK子に言った。
 K子の方は「いつまで信じてた? 穴に落ちたら永久に底に着かないで生きたまま落ち続けるとか、カップルで手をつないで飛び込めば天国で幸せに暮らせるとかそういう…伝説?」と僕の言葉はまるで聞いてないし、話すことよりも「穴」を食べるのに夢中である。
 「信じたことない」と僕は言ったが、カップル云々の方は置いといて、生きたまま落ち続けるというのは根拠はないけれどさもありなんとは思っていて、それは死ぬことの比じゃないくらい相当つらいだろう。
 「ねえ、じゃあ、消えてしまいたいと思うことってある?」
 「うーん」僕は少し考えるふりをする。「ないよ。K子のいるこの世界から消えたいなんて思うはずないじゃないか」
 「そういう白々しいこと平気で言うよね。こないだS美が、S美ってあたしの友達で隣のクラスなんだけど、急にいなくなっちゃって、穴に飛び込んじゃったのかなあって。最近ちょっと受験勉強で根を詰めすぎてたみたいな感じはあったんだけど、別にそれが原因ともかぎんないんだけど」
 「ふーん」僕はどれくらいの関心度で聞いていればいいのかわからなかった。S美の顔はぼんやりとさえ浮かんでこなかった。級友が突然消え去るというのも特に珍しいというほどの話でもなかった。
 「K子はあるの? 消えてしまいたいとか思うことって」と僕は訊いた。
 「これさあ、なんでそんなに人気あんだろうね。ただのドーナツじゃん?」二個目の「穴」の穴をのぞき込みながらK子は言った。
 「その飾らなさが逆にいいんじゃないの?」
 「うーん、逆にね」
 「うん、そう、逆に」
 逆に、はこの日の僕らの流行語みたいな合言葉みたいなものになっていて、こういう楽しい気持ちは二人で穴に飛び込まなくたって永遠に続くのだと僕は思っている。
 A市の穴の周囲にはフェンスなどは何もなくただむき出しの穴がそこにある。その方が安全だというのが大方の市民の見解である。なぜなら、柵があると人はそれを乗り越えたくなるものだからである。

『A市の穴』

『A市の穴』 遠藤健人 作

A市といえば穴だし、穴といえばA市なのである。1,849字。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-06-13
CC BY

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