*星空文庫

シトリのいた里

ちぃひろ 作

瞬間指先に鋭い熱を感じ、シトリは親指の腹を割いてしまったことに気づいた。よく斬れるようにと丁寧に研いだ短刀だ。切れ味鋭く、指に刻まれた一直線から血が溢れ出てきた。
シトリは自分の行いに苛立ちを感じながらも、血の付いた短刀の上に手入れに用いた布を被せて立ち上がった。そして荷物棚のところまで行き、革紐と汚れのない布切れを取り、それからその布で傷口を覆い、革紐の片方を噛みながら、手際良く指の付け根を紐で縛った。手当てを終えるともとの場所に戻り短刀から丁寧に血を拭き取った。
「おう。シトリ、どうかしたか」後ろから濁声がした。
「いいや、なんでもないよ。ちょっと足を伸ばしに立ち上がっただけさ」
たかが指を切ったくらいで、誰かを煩わせるのは御免だった。これくらいの処置なら自分一人で充分できる。親指は確かにひりひり痛んでいたし、血もまだ完全に止まった訳ではなかったが、誰かに痛みを訴えたところで、何かが変わる訳でもない。
それに、どうせあと数日で、これくらいの傷はどうってことのないものになる。この里に国府の軍勢が押し寄せるまで、良くてあと二、三日といったところだろう。勝算があるようには思えなかったが、それでも戦が起こる前に少しでもできることをしておきたかった。
楼の中では、来るべき時に備え着々と準備が進んでいた。
シトリたちの里には五つの砦がある。シトリたちが今いる楼は、里で一番東に位置する砦に併設されている。里で最も大きな砦であり、外に続く路が広いので大軍での進軍にはもってこいの場所ではあった。しかしこちらからも見通しが良く、敵兵を矢で狙い撃ちするのに都合の良い高さがあったので、この砦から攻められることはないだろうというのが、この里に住む大方の者の見方だった。
それはこの楼に集められた顔ぶれを見ても明らかだった。今夜の自警の番として当てられた者は、これだけ立派な楼であるのに、たった十五人しかおらず、その十五人も大半が六十を過ぎた者たちだった。
確かに前代自警団団長、熊狩りの頭目、弓の名手、……いずれも歳をとっているからといって侮れない猛者たちばかりではあったが、そうはいっても、ここでは女であるシトリも重要な戦力の一つであることは、間違いなかった。

不意に楼の端の足下から、老婆が顔を覗かせた。楼は梯子を登って上がってこなければならない。歳も歳なのに梯子というのは辛いのであろう。元々皺の多い顔ではあるが、いつもより一層険しく見える。それでも楼に上りきると、愉快そうに声を張り上げた。
「ほいさ、来たよ。あたしの交代は誰かね」
「ああ、ジエネだな。おいジエネ、代わりがきたぞ」二代前の自警団団長、事実上の今日のこの楼の頭であるスシムがジエネを呼んだ。
壁に沿って作られた弾薬棚の整理をしていたジエネはその場で振り返った。
「あらま、また婆さんかい。今日の番は爺さん婆さんばかりだね。あたしも次が来るまで、もう少し残ろうかい」ジエネが苦笑して言った。
「いや、いいさ。とっとと帰って休んで、次の番に備えろ」スシムは悟す声で言った。
「でもねえ……」
シトリはその様子を武器棚の脇に立って眺めていたが、ジエネが渋るのを見て、声を張り上げた。
「この調子じゃあ、今日もここは大丈夫さ。あんたは明日も西門で番だってさっき言ってたろう。休んどかなきゃ、いざという時に戦えないよ」シトリの言葉に、楼の者たちから賛同の声があがった。
ジエネがシトリを見た。
「姐がそう言うなら、甘えてさせてもらおうかね」笑って言った。
ジエネはシトリの三つ歳下だが、仲の良い友人の一人であった。シトリはこの谷里に帰ってきてから、山に生えている薬草について彼女に色々と教えてあげた。薬草は街で売れば金になった。
「そういや、西門が敵の本命って言うじゃないか。こんな時だ。どこが安全ってわけじゃないが、気をつけなよ」シトリは言った。
ジエネは逞しかった。
「安心してよ。明日は旦那も西門の番なんだ。旦那の尻蹴飛ばしてでも、敵さんを追い返してみせるさ」
一同どっと笑った。シトリもつられて笑ったが、旦那という言葉を聞いた瞬間、腹に変な力が入ったことに、気づかないわけにはいられなかった。

シトリは今まで一度も夫を持ったことがなかった。いや、正確に言うと、恋などという類の甘酸っぱい思い出は一つも持っていなかった。
シトリは十二の時に、街の薬問屋に奉公に出された。当時里に疫病みが流行り、シトリの家でも次兄と三つになったばかりの弟が死に、母も倒れてしまった。シトリは里から逃がされる形で奉公に出たのだ。
疫病みが収まるまでの間、父は春祭りの時でさえ、シトリが里帰りすることを許さなかった。母が亡くなったことも、長兄が倒れ、亡くなったことも里からの便りで知った。
三年ほどして疫病みが収まったころには、シトリはすっかり街の生活に馴染んでいて、もう村のことなんて心から消えていた。里帰りすらしない年もあった。
だから、シトリは里の年頃の娘が何を考え何を思い暮らしているのか知らずに育った。当然、恋などということは、知識としては知っていても、そのあれこれにつきまとう感情に関しては全く理解していなかったのだ。
薬問屋での使用人としての生活は、恋とはまったくもって無縁のものだった。使用人とは、家に仕える者のことだ。家に入り、家事、仕事の手伝いなどをこなす。シトリが奉公に出た当時、家には八人の使用人がいたが、当然、家庭を持っているものなどいなかった。
それが当たり前だと思っていた。奉公先の主人やその家族は優しかったし、仕事も面白かったので、その生活に不満などなかった。先輩たちがそうしてきたように、自分もこの一家の為に一生を捧げるのだと思っていた。
街火事で一家が焼け出されていなければ、実際そうしていたはずだった。
火事が起こったのはシトリが薬問屋に勤めて十六年目の冬だった。
隣町で起こったぼやが、冬の冷たい風に煽られ、やがて大きな火となり、あれよあれよという間に薬の棚のならんだ大きな倉も、シトリたちが暮らす屋敷も、全て焼き払ってしまった。
主人の素早い判断で、僅かな金品といくつかの書物だけは持ち出すことができたが、これもまた主人の判断で全ての荷造りが終わらぬうちに、屋敷から追い出された。一家に関わる者に死人はなかったが、当然、今までと同じ生活ができるはずがなかった。
里に帰すことができるシトリは真っ先に暇を出された。
十六年の歳月は長かった。シトリはもう里の者ではなくなっていた。
確かに里はシトリを拒まなかった。けれども、シトリは自分が里の人間だとは思えなかった。里での暮らしと街での暮らしはあまりにも違ったのだ。
同じ歳頃の娘は既に皆、嫁入りし、子をもうけ、育てていた。五つ違いの妹も、もう三人の子どもの母であった。
恋だのなんだのと縁遠かったシトリにとって、これは驚きだった。勿論、村の習慣は知ってはいたし、わかってはいたはずなのだけれども、街において婚姻とは家同士の結びつきであって、それが必要な者がするものであり、シトリは自分が新たな家族を持つという考えを持っていなかった。
だからシトリは父のいる家に戻り住んだ。家を出ない娘を父は心配しただろうが、どの道、シトリの歳で夫を見つけることは難しかった。
シトリが里に帰ってきてからもう七年の月日が経っている。人生において、街で過ごした時間より里で過ごした時間の方が既に長い。父が亡くなってからも、もう三年が経った。
今シトリは本当に一人だった。
今更夫を探そうにも、同じ年代でまだ残っているのは、デ・テウムと呼ばれる者ばかりだ。
ーいや、充分私もデ・テウム〈訳有り〉かーシトリは心の中でそう呟き親指を強く握りしめた。

ジエネは手を振り、明るく家へ帰っていった。
交代で来たウルシ婆さんが、いやに丁寧にジエネを見送るので、シトリはそれを怪しく思いウルシの様子を伺っていた。
「よし」彼女はジエネが立ち去るのを見届けてから、おもむろに懐から酒瓶を取り出した。
「何の真似だい」シトリの声に一斉に皆が振り返る。
ウルシ婆がにんまり笑って、酒瓶を掲げてみせた。
「お、一杯やるか」あちこちで歓声がった。
皆仕事の手を止め、続々と楼の中央に集まってゆく。こっそりと棚の裏に隠し置いていた酒瓶を持ち出して来る者もいた。
「おい。何やってんだい」シトリが叫んでもそ知らぬ顔で、櫓にいる見張りを残してあっという間に十三人が庵を囲んで座り込んでしまった。
「おい、シトリ。そんなところで何突っ立ってんだ。降りてきなよ」爺婆が武器棚の前に突っ立っているシトリに手招きした。
「何やってんだは、こっちの台詞だよ。なんだって、こんな時に酒盛りなんだい」
「こんなときだからだろ。酒なんて生きている間にあと何回呑めるか、知らねえぞ?」熊狩りの頭目ファルが指で酒を仰ぐ振りをしてみせた。
「だからって、もし今攻めて来られたら、どうするつもりなんだい」
「今日は攻めて来ねえよ。今日集められた面を見てみろよ。爺婆ばかりじゃねえか。自警団の団長衆は、いつ、あやつらが来るのか知っているのさ。なあ、そうだろ、スシム」ファルはスシムを横目で見遣って言った。九代目自警団団長のスシムは老人とは思えない太い腕を組みながら、顔をわざとらしくしかめてみせた。
「そりゃ、知ってたって言えやしないな。戦がいつ始まってもいいように、常に気を張ってんのが自警団だ」
「いの一番に呑もうとしているやつがよく言うよ。やっぱり知ってるんだろ。あんたの孫娘がチカル(山賊の若頭)の子を孕んだって専らの噂じゃねえか。野山を駆け回ってるチカルなら、それくらいの情報は持ってそうなもんだからな」ウルシ婆がなんとも意地の悪い顔をしながら言った。
「あいつらがいつ攻め込んでくるかは知らんが、俺は自警団に自警団の仕事をさせたいだけさ。おいよ。これが、この騒いで呑むというのが、自警団の本来の姿ってもんだろ」スシムはファルの器に酒を注ぎながら言った。
「あんたら老い先短い爺さん婆さんはそれでいいかもしれないが、こちとらまだ先が残ってるのよ。私は働かせてもらうよ」シトリは言った。
「へいへい。殊勝なこって」背を向けたシトリに、誰かが言った声が聞こえた。

この里の自警団がいよいよ自警団らしくなってきたのは、国府による里攻めの話が持ち上がったここ二、三年の話で、それまでは自警団とは名ばかりの里の者の交流の場であった。
起源こそ山賊から里を守るために立ち上げられた自警団であったが、トチ〈贈り物〉をするようになった近年では、山賊も余程のことがないと里を襲ってくることはなかった。
それでも自警団がなくならなかったのは、里の者にとって自警団がなくてはならない存在だったからである。
ある程度の歳になると里の者は男も女もこぞって自警団に入った。自警団に入ると、夜警に当たることがある。それが重要なのだ。大きな砦だと七、八人くらいが集まって、一晩中起きて番を行う。番をすると言っても、何かが起こるわけではないので、実際には一晩中呑み明かすことになるのだ。夜警を名目に家の者に咎められず、呑み明かせる機会があることを団員は喜んだ。
ただし、いつ誰がどこの夜警に当たるかは当代団長と存命の先代団長だけで決める。
そして誰がどこに当たっているかは、当てられた本人以外には里長くらいにしか知らされない。同じ日に誰が当番なのかは、行ってみないとわからない。団長らが時期や組み合わせを考えて人を選ぶのだ。
この非常時においてもこの決まりはそのままだった。今日この楼に誰を寄せるか決めたのは、九代目団長のスシムと十代目、十一代目なのだ。
このような集め方をすると、必要な時に必要な人員で話し合うことができる。
敢えて老齢の知恵者ばかり集めることもできるし、若者ばかり集めて愚痴を吐かせることもある。かと思えば、若手と実力のある者を一緒にして説教することもある。
里の大事なことが語らわれることもある。熊狩りの人選なんかはまさに大きな話だ。誰を熊狩りに行かせるか、そして誰に何の仕事をさせるか、予め上層部で話し合い根回ししておくのだ。嫉みを生みやすいこういう行事は、なるべくそういうことが起こらないように、裏で粗方決めておく方が良い。
自警団は非公式な話し合いの場として昔から重要な役割を果たしてきた。
ただ、やはり若者が一番気になるのは北の砦の番だ。北の砦は非常に小さく、要所というわけでもないので、大抵一晩で二人しか配置されない。
団長らは年頃の男女二人を敢えてそこに配置することがある。楼の中で結ばれて夫婦となった者も少なくない。だから、北の番に指名された若い男が意気揚々と夜警に出かけ楼を上ってみると、そこにいたのが自分の叔父で一晩中下らない武勇伝に付き合わなければならなかった、などといった類の笑い話はそこら中に転がっていた。
シトリも何度も北の番に当たっている。しかし、だからといってそこで何かが起こるような期待はなかった。例え男と同じ番になっても、老齢の者に教えを乞うか、好奇心旺盛な若者に街にいた頃の話をして聞かせるかのどちらかだった。
けれども、襲来の話が上がってから、夜を寂しく感じるようになったのも事実だった。父のいなくなった家は一人で住むには少し広い。孤独な床で眠ろうとするとなんだか情けない気持ちになって、どうしようもなくなる。
本当は戦が不安なだけだ。それは、自分でもよくわかっている。
結局、誰といようとも死ぬときは死ぬし、そういうものだとも理解している。
けれども、誰かが自分を抱きしめてくれさえすれば、この苦しさも少しは何かが変わるんじゃないかと思ったりもした。そして、そんなことを少しでも考えてしまう自分が惨めだった。
シトリは別に里で嫌われているわけではない。その自覚はあった。けれども、己を一番に愛する者がいないのも事実だと知っていた。
さっき切った親指が熱を持って痛む。もし夫がいたら、私はこの痛みを彼に伝えただろうか。それが無駄な行為であると知りながら、そうしたのだろうか。
せめて、言ってみようか、あの老人たちに。ふとそんなことを考えている自分に気がついて、馬鹿らしくなった。
馬鹿らしくなったついでに、戦の方も馬鹿らしくなった。どうせ勝ち目のない戦いだ。親指がどれだけ痛かろうが、これから訪れる痛みの前では、大したものではない。
シトリは街で暮らしいていた。だからこの里山を切り開いて街道を築くことがどれほど多くの人の願いであるかを知っていた。国府が引き下がるはずがない。そして、本気になった国府相手に我々如きが勝てるはずがない。
しかしまた同時にシトリは里の者の譲れない感情も理解できた。山の泉には神がおり、そこを埋め立てるなどということはあってはならないことだ。
これが負け戦だということがわからないほど里人は愚鈍ではない。それでも、挑まないわけにはいかなかった。
里の者が山に忠誠を誓い貫くなら、シトリもまたそれに従おうと思った。
最期に一杯やりたい老人たちの気持ちが不意に胸に迫って感じられた。
ー寧ろ輪に入らぬが野暮なのかもしれないーシトリは仕事の手を止め腰を上げて、炉の周りを囲む老人の一群に加わった。

「お、やっとこっちへ来たか。ここに座れよ」渋みのある声で熊狩りの頭目ファルが自身が軽く脇に寄り空いた所を叩いた。
「まあね、今更悪足掻きしても無駄だと思ったのさ。それに、何かあったら見張りのガンが叫んでくれるだろ」
「ああ。そうだ。だから、気兼ねせず呑め」元自警団団長スシムがシトリに酒を並々注いだ椀を差し出した。
シトリは手でそれを遮った。可能性は低くとも万が一の時に戦力ではありたかった。
「あんたらは呑みな。もし、今敵さんが来たら、私が一人で塞き止めてやるよ。これで、俸禄は全部私のもんだ」
シトリの言葉にどっと温かい野次が飛んだ。みんなの下がった目尻が優しかった。
なんと温かい里なのだろう。一度は里を捨てた自分を迎え入れてくれた。だから自分はこうして生きていくことができている。これは紛れもない事実だった。
戻ってきたシトリが里での生活に困らないよう、畑のことから狩のことまでなんでも面倒を見てくれたのは里人だ。里の一員だと暗に伝えるために、熊狩りにまで連れ出してくれた。里がシトリをこれまで生かしてくれた。
皆で炉を囲むのも最後かと思うと急に切なさが襲って来て、余計に里を愛しく思った。
口には出さずとも、皆同じ気分なのだろう。懐かしい話が次々と飛び出してきて、宴会は長く続いた。

「おーい。シトリ、これで月七つだ。おまえさん、今日の番はもう終わりだぞ」空き瓶が増え始めた頃、見張りのガンが櫓から降りてきて言った。ガンは宴会の痕跡に気付くと軽く舌打ちし、小さく「俺も誘えよ」と毒づいた。
「あれ、もう交代かい。でも、まだ代わりが来ていないよ。どうせ直ぐに来るだろうから、それまでは待つよ」
「どうせ直ぐ来るなら待たなくていいさ。さっさと帰んな」熊狩りの頭ファルがシトリの背中をとんと押した。
「いいさ別に……」そう言った瞬間に、すっと場が冷えたのを感じた。皆がこちらを見ている。年老いた者ばかりであるのに、その気迫に思わず後ずさってしまった。
「ちょっと待って。何だい。何なんだい、その目は」シトリはそう言いながら、今更ながら自分で気がついた。気がついて愕然とした。
「そうか……。本当は今日ここで戦が始まるって言うんだね」
楼の中は静まり返った。誰も否定しないことが、それが事実だと告げていた。
もっと早くにおかしいと思うべきだった。いくら明後日の西門が本命だったとしても、敵と本気で戦うのであれば、この楼の人員配置は普通じゃない。もしもを考えるのであれば脆すぎる。
私たち里人はスシムら団長衆にしてやられたのだ。
シトリがスシムを睨むとスシムは薄ら笑いを浮かべて言った。
「勝てもしない戦の前線に、若い奴を送り込んで何になる?」
「十代目も十一代目もさぞ、戦いたがったろう」シトリは静かに言った。
「十一代目はまだ明後日が決戦だと思っている。そう俺が吹き込んだ。戦で後に引けないのは、老いぼれどもも若い奴も同じさ。それなら、少しでも若いやつが戦わずにすむよう、多くが生き残れるよう、配陣するのが、隠居ジジイの俺の役目だ」九代目は黒い髭を弄びながらシトリを笑った。
シトリは周りの大人たちの落ち着いたところに、このことに全く気がついていなかったのは自分だけだったと痛感した。はっきりと知らされていたにしろ、いないにしろ、ここにいる老兵たちは、少なくとも楼に来た時には腹を括っていたのだろう。
「おい、ガン。敵さんが来るまであとどれくらいだ」スシムが尋ねた。
「さっき歩兵部隊が山に向かって行進を始めたところだ。あと月三つほどで、こちらに着くだろう」ガンが答えた。
「そうか。なあ。じゃあ、シトリ。よく聞けよ」スシムがシトリの手首を掴んだ。シトリは振り払おうとしたがスシムの太く熱い指に握られた腕はびくともしなかった。
「いいか。お前は今すぐ家に帰れ。家に帰ったら、お前の小屋の裏を見ろ。荷造りを済ませた馬を止めてある。チカル(山賊の若頭)が俺の孫娘のために用意した馬だ。だが、あいつは俺の言うことを聞くようなやつじゃないし、どうせ、今はもう動けるような身じゃない。だから、な。お前がやるべきことはわかったな」
「なんだい。私に逃げろって言うのかい」シトリは唸った。
「そうだ」スシムが言った。
「そんな馬鹿な話があるか。私は戦える。役に立つ。私も里のために戦うよ」
語気鋭くそう言い放ったシトリに返ってきた言葉は、優しくなかった。
「今更何を言うんだい。あんたは、里の人間じゃないだろ」
声のした方を振り返ると、ウルシ婆さんが冷ややかな顔をして突っ立っていた。
シトリは急に身体に力が入らなくなるのを感じた。スシムに突き放され、震える足で炉から後ずさった。
誰もが自分を睨んでいる。それはシトリこの場に残ることを許さぬ目だった。その刺すような目から逃れようとするうちに楼の端へと追いやられた。
老師たちの目が、梯子を降りるように言っていた。
シトリは二度三度口を開けて何か言おうとした。しかし直ぐには声にならなかった。やがて、なんとか絞り出して震える声で言った。
「私はまた捨てられるんだね」
誰も何も答えてくれなかった。シトリは一瞬、皆のその目に憐れみと同情を見た。しかし、誰もシトリを引き止めてはくれなかった。
シトリは闇へと続く梯子を降りた。そして未だ力の戻らぬ足で、家に向かって歩き始めた。
今すぐ楼に戻って一緒に戦いたかった。もし、あの時誰かが「お前は里の者だ」と一言言ってくれれば、何も思い残すことなく死ねたのに。みんなと一緒に死にたかったのに。
わかっている。みんなが私を思って逃がそうとしてくれていることくらい。
けれども、それでは寂しさは消えないじゃないか。この胸に空いた大きな穴は、どうしたら埋まる? 誰が助けてくれる?
家族なら助けてるのか。
シトリは帰路の道すがら、この里唯一の肉親である妹の家の前を通りかかった時に、その小屋の戸を開けようとした。あんたたちと一緒に戦わせてくれと言おうと思った。
けれども戸の前で耳にした、家の中から漏れ聞こえる妹とその旦那のまぐわう声で、それを辞めた。
子どもたちは少しでも安全なところへと里の一箇所に集められた。家にいるのは二人だけのはずであった。二人きりになった家の中で命の最後の灯火を懸命に燃やそうとしているのだろうか。
そのうち、里で今一つになっている二人は妹たちだけではないということに気がついた。薄い木板が貼られただけの小屋の隙間から、漏れて聞こえるいくつもの声があった。
この後に及んで生にしがみつくことに意味があるかは知らない。新たな生が、この里の希望だとでもいうのだろうか。けれども、あそこで繋がっている者たちが、そんなことまで考えているとは到底思えない。
もし、このわけのわからぬ恐ろしさから逃れるため、抱いて抱かれているのならば、それなら一体私はどうすればいいのだ。
抱かれて死ぬあいつらと、一人生かされ続ける私と、一体どちらが孤独だって言うんだ。
誰か私を抱いてくれよ。
そんなことを思っているのに、頭の隅で、何をどうすればよいかわかっている自分が嫌だった。
家に着くとまずは小屋の裏手へ回った。そこには確かに荷造りを終えた馬一頭が待っていた。荷紐に紙切れが挟み込まれていて、ありがたくも荷の中身が細かく記されていた。
シトリは不安そうに足元を掘り起こす馬のその背を二、三度叩いて落ち着かせながら、紙切れを眺めて考えた。
そうして、直ぐに小屋の中に入って足りない物を揃えた。時間はほとんどかからなかった。家にあるありったけの金と、使えそうな書物と、かつての薬問屋の旦那からの封書を掴み、背嚢の中に詰め込んだだけだった。
すぐに外に出て裏手に回り、鐙に足をかけるとシトリは一気に馬に飛び乗った。馬の乗り方は街にいた頃に覚えた。馬の扱いなら慣れている。
そして、飛び乗ってから、馬に据え付けられていた弓矢を確認した。弓はこの里で覚えた。しばらく生きて行くための小さな獣ならシトリ一人でも充分狩れる。
ああ、確かに私は誰よりも上手く逃げられるだろう。一人になったって生きていける。連れて逃げなければならない家族もいない。この身一つ守る力があればよい。この身一つなら、なんとでもなる。
一人で生きていけるから、一人になった。
だが、嘆いたって仕方がない。生きねばならない。
馬の腹を足で蹴ると、馬はしっかりとした足取りで真っ暗な裏山に向かって歩み出した。

『シトリのいた里』

『シトリのいた里』 ちぃひろ 作

シトリはいい歳になっても夫も持たず、一人、自身の生まれた里で暮らしていた。しかし、シトリの住む里は、間も無く国府の軍勢によって攻め滅ぼされるはずだった。シトリは、訪れるかもしれない死を前に、孤独と寂しさに苛まれていた。 ジェンダーのような語りにくいものこそ、ファンタジーにしてみれば、描きやすくなるのではないかと考え、書き始めた作品です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2018-06-10
Copyrighted

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