私、見えるの

 知り合いが珍しい職業だと世間話のネタに不自由しないというが、緑の場合それは友人の真美子で、仕事は霊能者だった。
 霊能者にも色々あるらしいが、真美子はいわゆる「見える人」である。
 たとえば緑と二人で食事をしていて、話が緑の亡くなった祖父の事などに及ぶと、真美子はふいに「ね、今、あなたのおじいちゃまが来てるわよ」などと言い出すのだ。緑も慣れたもので「そうなの?どんな格好してる?」と聞き返す。
「帽子をかぶって、長袖のシャツにポケットのいっぱいついたベストを着てるわ」
「ああ、それ、釣りに行く時の服だ。おじいちゃん、鮎釣りが好きだったのよね」
「少しえらの張ったお顔ね。がっしりした体格で」
 不思議といえば不思議なのだけれど、真美子の言うことは当たっているように聞こえる。釣りのことだけでなく、柔道家だった祖父は年をとっても筋肉質だった。まあ、えらが張った顔、というのは緑自身がそうなのだから、これはちょっとした連想かもしれない。
「おじいちゃん、何か言いたそう?」
「特にはなさそうね。ただ、緑ちゃんが思い出してくれたのが嬉しかったみたいよ」

 初めて知り合った頃、真美子は派遣で経理の仕事をしていた。その派遣先で緑の友人と仲良くなり、ワイン好きという共通点から何度か緑も一緒に食事をするうち、意気投合したのだ。
 大手生保に勤める緑はバツイチで子供がおらず、真美子は独身。ともに三十代で、彼氏よりも女友達の方が日々の生活を豊かにするという境地にたどり着いていたので、毎週のようにワインのおいしい店で長話を楽しみ、たまに温泉旅行に出かける仲になった。
 せっかちな緑にとって、打てば響くような真美子の反応の良さは好ましかった。気さくな性格である上に、笑いと怒りのツボが似ているので、何を話しても「わかる!」という展開になって、二、三時間などあっという間だった。

 そうした行き来が続いて半年ほどたったその夜も、緑は小さなビストロのカウンターで、後輩のミスを尻ぬぐいさせられた怒りをぶちまけていた。真美子は「そりゃきついわ」だとか、「うん、若い子ってそういう事言うよね」などと絶妙な合いの手を入れていたが、そのうちだんだんと、言葉数が少なくなってきた。
 もしかすると手洗いに立ちたいのだろうか、と気を回した緑が言葉を切り、グラスのワインに口をつけたところで、真美子は「あのね、変な事を言うかもしれないけど」と、改まった口調になった。
「緑ちゃんの知り合いに、背の高い女の人っている?」
「背の高い女の人?」
「髪はセミロングだけど、後ろでまとめて額を出してる。眉がきりっとしてて、一重で切れ長の目をしてるの。白いシャツにマニッシュなパンツがよく似合ってるのよね」
 真美子はまるで写真でも見ているかのように、その女性の容姿を説明した。最初は漠然としていた顔かたちが、話を聞くうち徐々に緑の頭の中で像を結び始め、やがてある人物の姿と重なった。
「それって、野間さんじゃない?真美ちゃんどうして彼女のこと知ってるの?」
「知らないわ。でも来てるのよ」
「は?来てるって、だって」
 緑は慌てて狭い店の中を見回した。そしてはたと思い出す。彼女がここに来るはずないのだ。
「彼女が緑ちゃんとどういう関係か知らないけど、何か言いたい事があるのよ。もし彼女とお話ししたいんだったら、お手伝いできるわ」
「ごめん、ちょっと混乱してきちゃった。真美ちゃんも野間さんを知ってるという事じゃないのよね?」
「知らないわ。でも私にはその、野間さんが見えるの。いま、緑ちゃんの右側に立ってる」
 恐る恐る、といった動きで、緑は首をめぐらせ自分の右側を見た。カウンターの一番奥、目に入るのは少し毛羽立ったクリーム色の壁紙だけだ。
「ねえ、真美ちゃん私のことからかってる?」
 困惑、としかいいようのない感情が湧き上がり、緑はあえて笑顔を封じたまま問いかけた。
「そうじゃないのよ。気を悪くしたならごめんなさい。私ね、見えちゃうの。どうしても見えちゃうのよ」
「見えるって、もしかして、幽霊とか」
 自分で言っておきながら、緑は「幽霊」という言葉を耳にした途端に背筋が寒くなった。
「幽霊じゃなくて、霊的なものって言った方が合ってると思うわ」と、真美子は訂正したが、緑は「いや、一緒でしょうよ。霊って言ったらあの世のもんでしょ」と食い下がる。
「霊っていう言い方が誤解を招くのよね。要するにスピリチュアル、魂っていうか、肉体を持たない精神的な存在のことなんだけど。そういうものが見えるの」
「でも、真美ちゃん今までそんな話したことないじゃない」
「だって人にするような話じゃないもの。私にしか見えないんだから。でもね、その女の人、野間さん、だっけ、彼女がすごくはっきり緑ちゃんのそばに見えるから、メッセージは伝えた方がいいと思って」
「メッセージ」
 そう繰り返してから、緑は少し考え込んだ。

 野間さんは緑が新卒で入社した時に、一から仕事を教えてくれた先輩だ。五つほど年上で、厳しいところもあったが面倒見がよくて、仕事以外にも人づきあいやおいしい店の選び方など、色々な事を教わった。そして緑が中堅社員になった頃、野間さんは外資系企業に転職した。
 日本の会社と違って、まとまった休みがとれていいわよ、と楽しそうだったけれど、その休暇を利用して行ったフィリピンで、ダイビング中の事故で亡くなってしまった。
 なんでもしばらく遺体が見つからなかったとかで、事故は知っていたが葬儀には行けずじまいで、緑の中で彼女は「どこかに行っていて、そのうち帰って来る人」のような存在になっていた。

「私の仕事のやり方ってさあ、全部その、野間さんスタイルなのよね。彼女から全部教わったし。だから新人教えるのも、野間さんどうだったっけって、思い出しながらやってる」
 聞かれもしないのに、緑は野間さんとのあれこれを真美子に語っていた。彼女に話す、というよりは自分でアルバムを見返しているといった方が近いかもしれない。
「あれよね、私は判ってなかったけど、野間さんもきっと色々と私の尻ぬぐいしたんだよね。この馬鹿があ、とか思いながら」
「それはないんじゃない?緑ちゃん優秀だから」
「いや絶対あるよ。私とにかく急いで済ませて穴が多いっていう、雑なタイプだもん。ね、それで、野間さんまだいる?」
「いるけど、さっきほどはっきりは見えない。緑ちゃんが気づいてくれたから、安心したのかな」
「そう?だったらいいけど、私こんど絶対、野間さんのお墓参りに行ってくる。霊とかほとんど信じてないけど、これはさすがにね。でも真美ちゃん、本当にそういうの見えてるの?ずっと前から?」
「うん。小さい頃から何となく感じてはいたのよ。どうして私には見えたり聞こえたりするものが、他の人には判らないんだろうって。でも二年ほど前に、テレビで霊能者の人が話してるのを聞いて、あ、この人も私と同じだって、そう思ったの」
「それって、もしかして赤目さん?」
 真美子がテレビで見たのは赤目綾羽という霊能者に違いない。深夜枠の人気番組に「霊界のご意見番」という肩書でレギュラー出演していて、彼女に「霊視」されたアイドルや若手俳優が号泣するコーナーは番組の目玉になっている。
「そうよ。でね、赤目さんって講座開いてるのよ」
「何?霊能者養成?私みたいな霊感ゼロでも見えるようになるの?」
「それはちょっと難しいかもね。もともと霊感の強い人に、その力をうまくコントロールして、他の人の力になるためのトレーニングをするための講座だから」
「で?受講した後は?」
「人によるけど、たいていはカウンセラーになるわね」
「要するに、赤目さんみたいに、前世とか守護霊の話をするってこと?」
「そうねえ、クライアントの魂をより良い状態にするお手伝いって言った方がいいかな」
「私、真美ちゃんがそういうの目指してるとは夢にも思わなかった」
「目指してるっていうか、もうカウンセラーにはなってるのよ」
 緑の予想をはるかに超えて、真美子はすでに派遣の仕事を週三に減らし、あとの四日をスピリチュアルカウンセラーとして活動しているのだった。そのスタイルは占いとそう変わらない。一対一でクライアントと向き合い、相手の相談事に答えるというもので、一回のセッションは五十分に設定してあるという。遠方で面談ができない場合は、電話でも大丈夫らしい。
「でもさ、お客さんってどうやって増やしてくの?」
「口コミがけっこう多いわね。やりとりはメール限定だけど、あとはホームページ作って、そこから予約もできるようにしてあるわ。まあ、そういったノウハウも講座で教えてくれるんだけど。あと、ちょっと難しいお客さんの見分け方とかね」
 聞けば聞くほど「はーあ」だの「へーえ」だのいう溜息しか出てこないが、真美子はスピリチュアルカウンセラーを生活の柱にするつもりらしく、こちらでの収入が多くなったら派遣の仕事は辞めるつもりだと言った。
 そんなにうまく行くものだろうか。
 正直言って楽じゃないだろう。緑はそう思っていたのだが、真美子はその後三年ほどのうちに、ほとんど順風満帆の勢いでキャリアを築いていった。
 現在はスピリチュアルカウンセラー専業で、セッションは予約待ちが出るほどの盛況ぶり。時にはクライアントが交通費とホテル代も負担するという形で地方出張まで行っている。
 
 そのような変化はあったものの、二人のつきあいは続いていた。真美子の都合で、会える時間が少し変則的になったが、月に一、二度食事をして、たまに短い旅行をする。以前と異なる点といえば、真美子の関わる「霊的な」世界の話題が解禁となったぐらいだろうか。
 緑がクレームのやたらと多い取引先のことで愚痴っていると、真美子は「あ、今、緑ちゃんの後ろにそこの担当さんが来てる。彼は人を困らせて気を引きたいという潜在願望があるのよ」と解説してみせたり、ふらりと入って外れだった店で「ここ、川をせきとめて造成した土地だから気脈が切れてる。商売には最悪の場所よね」と、小声で審判を下したりする。
 そういう言葉を聞くたびに、緑は「そうなんだ」と頷きながらも、全面的に信じているというわけでもなく、まあそういう見方もあるのかな、程度に受け止めていた。人によっては「そんな根拠のない事で人からお金をとるなんて」、という反応になるのかもしれないが、占いの発展形のようなものだし、緑にとってはとにかく「興味深い」としか言いようがない。
 ただ、緑本人はわざわざ真美子に霊視してもらいたいとは考えていなかった。これは離婚経験のためかもしれないが、世の中、なるようにしかならない、という一種の開き直りが彼女のスタンスだった。
 真美子にとっても緑が「霊界」に対して保っている距離感は心地よいらしく、それが却って彼女の口を軽くしているところがあった。
 少し前に、緑の職場で研修会の講師として、最近注目を浴びているメイクアップアーティストのFという女性を招いた事があった。緑は当日のアテンドを担当した一人だが、テレビや雑誌での柔らかな印象とはうらはらに、実際に会ってみたFはかなり気難しい人物だった。
 準備しておくミネラルウォーターの銘柄が指定と違ったからといって、講演の開始時間を遅らせてでも取り替えさせ、しかもそれに口をつけないままで帰っていったのだ。
「まあ、こっちの手落ちだから、何も言えた立場じゃないんだけどさあ、ちょっと嫌な感じじゃない」
 例によって緑が愚痴っていると、真美子は「そうねえ」と何度もうなずいてくれたが、ややあって「私ね、そのFって人について相談うけた事があるのよ」と言った。
「相談?Fさん本人から?」
「じゃなくて、彼女のご主人のお姉さんから。Fさんの束縛がきつすぎて、ご主人がもう何年も実家側と連絡とれない状態になってるらしいの。私、クライアント本人以外に関する相談では、写真を見せてもらう事にしてるのね。そうしたら、あのFさんだったからびっくりしちゃった。でも義理の家族と疎遠だから写真もなくて、雑誌の切り抜きだったわよ」
 真美子の言葉をうけ、緑は今更のように「マスコミのイメージなんて判らないものよね。でもまあ、競争の激しい世界だし、それくらいの性格でないと生き残れないのかな」と納得していた。
「夫婦関係でいえば、Fさんが男でご主人が女っていうか、もう完全にFさんが主導権を握ってるんだけど、それはFさんの前世に関係があってね」
「ぜ、前世?今の人生の、その前の話?」
「うん。彼女は清朝の貴族の娘で、皇帝の兄弟と結婚するはずだったんだけど、父親が西太后の機嫌を損ねたせいで、すっごくつまんない小役人に嫁がされたのよね。その時の恨みがまだ残ってる」
 真美子は「犬の祖先って狼なのよ」と説明するような口調で、Fの前世について語った。もちろん文献資料をあたったわけではなく、彼女が「霊視」したものである。それでも何となく、彼女の言葉には独特の説得力がそなわっていて、緑は「言われてみれば清朝の貴族、わかる気がするわ」と頷いていた。
 もちろん真美子がクライアントについて話すのは例外的なことで、それも緑を信頼のおける友人と見越してのオフレコ発言だ。しかし緑にとってこれはもう立派なスクープネタである。
 真美子のために若干のフェイクを加えながらも、別の親しい友人に話して聞かせたし、当然のことながら「ああやっぱり、Fってキツそうな目をしてるもの。言葉だけ天然ぶっても無理よねえ」などと盛り上がるのだった。
 そして友人のうちの幾人かは「ねえ、その人紹介してくれる?」と真美子の新しいクライアントになっていった。

 もう結婚する気なんてさらさらないし、自分と真美子はこの先も同じような感じで友達付き合いを続けてゆくのだろう。緑は漠然とそう思っていたし、真美子の方も「私、引退したら緑ちゃんのお隣に引っ越しちゃおうかな」などと言うことがあるので、双方の考えは大体において一致しているようだった。
 もちろん老後の蓄えという点では、雇われの緑よりも「自営業」の真美子の方がずっと多いだろう。霊能者専業になってからというもの、食事に行く店でも温泉宿でも、真美子が選ぶのはかなり水準の高いところで、値段もそれ相応だ。
 その理由は単に収入が増えたから、というだけではなく、様々なトラブルを抱えたクライアントと関わることで心身に溜まる、澱のようなものを取り去るためでもあるらしい。
 日常とはかけ離れた空間で一息つくそんなひと時、緑の心にふと浮かぶのは、自分にもこの贅沢を享受できる収入があってよかったという安堵だった。
 豊かな人間関係を保つには、それなりの出費が必要だ。貧すれば鈍する、という言葉は好きではないが、やはりそこには目をそらすことのできない現実がある。彼女の友人の中には、夫の転職をきっかけに収入が半減し、それとともに疎遠になった者もいれば、食事会の予算を聞いて「うち、賞与出なくなったから、ちょっとパスするわ」と連絡してくる者もいる。
 だから緑はいつも、自分は真美子と同じ世界の住人だと勘違いしないように自戒していたし、今回も子供が私立中学に進学したので緊縮財政だという友人と出かけた週末の一泊旅行には、設備の古い温泉旅館でも不満はなかった。
大広間でのせわしない夕食だとか、冷めた天ぷらだとか、落ち葉の浮かんだ露天風呂だとか、そういうものは想定の範囲内だった。大切なのは気の置けない友人との、終電を心配せずに語らえる時間なのだから。
 しかしせっかくの機会だというのに、その日、緑の体調は思わしくなかった。
 家を出て、集合場所である越後湯沢に向かう新幹線の車中から、左の下腹に鈍痛があった。かといってお腹を下すわけではなく、友人と合流して、積もる話に花を咲かせていると、その痛みは意識の外へと遠ざかる。
 まあ一泊ぐらいなら我慢できなくはない。
 そう考えて緑は、友人にも痛みのことは告げずに布団に入った。明かりを消してからもしばらくは、義理の家族の金銭感覚についていけない、などという愚痴が続いていたが、やはり子育てをしながらフルタイムという友人の方が疲れていたのか、先に寝入ってしまった。
 自分も寝ようと目を閉じた緑だが、その途端に忘れていた鈍痛がじわじわと押し寄せてきた。心なしか昼間よりも痛みが強くなっているように感じたが、だからといって我慢できないほどではない。
 結局、明け方にうつらうつらしただけで、後はほとんど一睡もできないまま、緑は朝を迎えた。さすがに友人も、温泉でリフレッシュしたはずなのにげっそりしている彼女の顔を見て心配してくれたが、「枕が合わなかったみたい」とごまかし、急用が入ったと嘘をついて予定を切り上げ帰京した。
 
 帰宅してソファで横になったとたん、たまっていた眠気が押し寄せ、真美子から電話が入るまでこんこんと眠っていた。時計を見ると夜の八時過ぎだ。
「緑ちゃん、いま大丈夫?」
 真美子はホテルのロビーかどこかにいるらしく、背後のざわめきと音楽が聞こえてくる。
「あさっての夕食なんだけど、お店の人から、予約を三十分遅らせてもらえませんかって連絡があったのよ。それでも構わないかしら」
「あ、うん。遅れる分には大丈夫」
 そう答えながら、緑は身体を起こしていた。変な体勢で寝ていたせいか、下腹どころかあちこち痛む。
「どうしたの?寝起きみたいな声出しちゃって」
「いや、本当に寝起きなのよ」
 リモコンで部屋の明かりをつけ、手帳で約束の時間と店を確かめながら、緑は「なんかずっとお腹が痛くて」と、顔をしかめていた。
「今はおさまってるんだけど、これまで感じたことのない、変な痛さなのよ」
「じゃあちょっと見てあげるね」
 事もなげにそう言うと、真美子は電話の向こうでしばらく沈黙した。
 そういえば、彼女は初対面の相手でも「あの人、肺にちょっと影があるわね」だとか、「彼は腰にトラブル抱えてるわよ」だとか、身体の不調を指摘する。もしかして自分も何か問題有りなのだろうかと、不安が雨雲のように湧き上がってくる。
 冷たくなった緑はスマホを握り直したが、真美子の口調はふだん通りで「大丈夫よ。ちょっと肝臓が疲れてるだけ。まあ、明後日はワインは我慢した方がいいかもね」と言った。
 そうか、肝臓が疲れてるだけなんだ。
 真美子の言葉はまるで鎮痛剤のように緑の身体に沁み入った。別に悪い病気じゃないんだ、と思うと気持ちが軽くなり、食事と入浴をすませてから再びゆっくりと、こんどはベッドで朝まで眠った。

 そして月曜日、いつも通り出勤した緑だったが、通勤電車に揺られている間に、あの鈍痛が再び襲ってきた。とりあえず職場に着いたら、事情を話して横にならせてもらおう。そう思って耐えている間にも痛みは徐々に増してゆき、駅の階段を上る一歩ごとに、足の付け根から頭の先へと痛みが突き抜けた。
 これはもう普通じゃない。
 やっとの思いで職場にたどり着いたものの、タイムカードを打つ前にへたりこみ、そのまま救急搬送される事になった。
 診断結果は卵巣腫瘍に起因する卵管の捻転。つまり卵管のねじれが痛みの原因だったということで、放置すれば卵巣が壊死して危険な状態だったらしい。
「よくここまで我慢できましたね」
 主治医となった三十ぐらいの女医は、顔には出さないものの「呆れた」というトーンを声ににじませていた。そんな事を言われても、我慢できてしまったものは仕方ない。結局そのまま手術となって、腫瘍ごと左の卵巣を摘出する羽目になった。
 二つある卵巣の片方を取っても支障はないし、それよりも腫瘍が問題だ、という話だったが、検査によると腫瘍は良性で、退院後はすぐに普段通りの生活に戻って大丈夫だと言われた。
 思いがけない入院生活はそう悪くなかった。仕事は先月から産休明けの後輩が復帰したところだったから、人数的には何とかなるはずだった。
 ただ、とにかく退屈な上に、四人部屋の他の三人は終日ベッドの周囲にカーテンを引いていて、会話どころか、どんな人なのかも定かでない
 ややこしいので同僚の見舞いは断っていたが、忙しい合間を縫って来てくれる友人は有難かったし、真美子もその一人だった。ちょうどセッションにキャンセルが出たから、と急に訪れた彼女は、裏ルートでしか買えないというレアもののチョコレートを持ってきてくれた。
「緑ちゃん、本当に大事にならずに済んでよかったわよね」
 病室を抜け出し、自販機の置かれた談話室で薄いコーヒーを飲みながら、二人はチョコレートをつまんだ。
「でも、救急車呼ばせて、けっこうな騒ぎだったのよ。月曜の朝にいきなりってのもあれだし。退院したらお詫びにお菓子でも配るつもりなんだけど、このチョコ、手に入らないかな。配る相手は十五人ほど」
「どうかしら。クライアントさんの伝手で買ってるから、そんなに多くは無理かもしれないけど、聞いてみるわ」
「そう?だったら有り難い。うちの同僚ってけっこう口が肥えてて、半端なもんだと却って逆効果だったりするから」
「わかった。今晩きいてみて、どうだったか連絡するわ」
「真美ちゃんってすごい人脈持ってるからさ、こういう時は本当に頼りになるのよね」
 少しぬるくなったブラックコーヒーを飲み、この上なく繊細な味わいのチョコレートを舌の上でゆっくりと溶かす。とにかく白米メインの病院食にうんざりしていた味覚が、はじけるように喜んでいる。
「ねえ、緑ちゃんが退院したらお祝いに行こうよ。私、来週の日曜なら空いてるから。久しぶりにお寿司なんかどう?」
「いいねえ、なんかもう、イカのにぎりだけで泣いちゃうかもよ。あとねえ、タイ料理とか、焼き肉とか、メリハリのある奴もいいかな。病院食はとにかくぼんやりした味付けで駄目だわ」
 退院祝いの候補地をあれこれ探しながらも、二人はある話題をずっと避けていた。あの日、体調が悪いと言った緑に「肝臓が疲れている」と自分の見立てを告げた真美子。
 本来の病気は卵巣にあったわけで、血液検査の結果によると緑の肝臓はいたって健康。つまり、真美子の診断は外れたことになる。
 でもまあ、あれは電話を通してだったから。
 最後に残ったチョコレートを遠慮なく口に含んで、緑は自分に言い聞かせた。真美子は医者ではないし、彼女が「誤診」したところで私は何の迷惑を被ってもいない。そして彼女が私の友達である事に変わりはないのだから。
 ふと顔を上げると、廊下を足早に歩いて来る主治医の姿が目に入った。緑が会釈すると、彼女もにこやかに笑顔を返してくれる。それを見ていた真美子が小声で告げた。
「あの先生、前の病院で一度メンタルやられてる。激務だったからね」
「そうなんだ」と緑は頷く。主治医の姿はもう見えず、廊下からは夕食を告げるチャイムの音が流れてきた。
 

私、見えるの

私、見えるの

緑の友人は「見える人」。その仕事は霊能者。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted