すべてがとけるまで

 歩いて、歩いて、額に汗をかき、それを手で拭おうとしたが、拭えなかった。とうとう触れることすら叶わなくなったか。
 右手を見下ろす。足元の名も知らぬ雑草が透けて見えた。
 鬱蒼と生い茂る森の、ここはどのあたりなのだろう。中腹か、まだまだ先は長いのか。どちらにせよ、この森から出る気はなかった。

 ***

 いつの間にか、右手を目の前にかざしても向こう側の景色が見えるようになっていた。
 不格好で、ごつごつしていて、やや荒れていた、僕の右手。それが半透明なのだ。ある程度は見えるし、触覚もある。だが、輪郭が宙に溶け込んでいる。
 右手が透けているだけでも、生活には大きな支障があった。怪しまれないように包帯を巻いてみても、変ではある。だから、仕事はやめた。優には言わなかった。
 僕の手が透けていることは、優は知らない。一人暮らしだから、父も母も、このことを知らない。話して見せたところで、気味悪がられるのがオチだ。
 半透明なのは右手だけのようで、その他の部位は輪郭を保っている。けれど、いつ身体中が透け始めるか分からない。それを日々恐れていた。いつか僕は透明人間になってしまって、誰からもみとめられなくなる。
 そうなったら、どうしよう。ずっと先のことのようにも、もう目前のことのようにも思える。差し当たっては、優に会うときだけ右手に包帯を巻いた。
「右手の火傷って、いつ治る?」
「んー、もう痛みはないんだけど、見た目がかなり酷いから、もうしばらくはこのままかな」
「早く良くなるといいね」
 優には、右手に火傷をしたと伝えた。医療とは全く関係のない仕事をしていたから、詳しいことは訊いてこなかった。
 手をつなぐことは出来る。優のぬくもりを感じることも。この体温を手が感じ取ってくれなくなったとき、僕はどうしたらいいのだろう。
 仕事をやめてから、貯金を切り崩して細々と暮らしていた。日々の食事は、昼夕二回。洗濯は最小限に。アパートの家賃や光熱費のことがあるので実家に戻ろうかとも思案したが、そうすると優と離れなくてはならない。それは嫌だなあ。
 ぼんやり考えながら、アパートの一階に遊びに来る猫を撫でる。ふわふわの毛並みも、伝わってくる。透けている手を猫は怪しまない。
 どうして僕の手が透け始めたのか。たまに、答えの見つからない問いを探す。
 僕の存在を世界が欲しなくなったからだろうか。仕事も勉強も大して出来る方ではないし、英語だって喋れない。今どき珍しい四人兄弟の末子で、後継ぎだとかの問題もさして大きくはない。凡庸な人間だとしみじみ感じ入ってしまうほどだ。
「そりゃあ、世界も僕を必要としなくなるさ」
 口に出してみると、心の穴がまた一つぽこんと開いた。それで、何とはなしに気は楽になる。
 小さい頃からの癖だった。寂しかったり、悲しかったり、やる瀬ない思いを、誰もいないところで口に出してみる。すると、心がどこか欠けたり、穴が開いたりする代わり、諦めもつく。第一志望校に落ちたときも、自分のミスで会社に損害を出した時も、そうやって心を落ち着けていた。心を病むことはなかったけれど、いつしか、諦めが早くなっていった。
 開いた穴や欠け落ちた部分から風が吹くように、寒々しくなるときがある。優と付き合う前、そんな話をした。
「それ、分かるような気がする」
 すると優はそう言って、こう続けた。
「穴が開いたり、欠け落ちたりするとき、代わりに美しいものを見る。そうすれば、また心が満たされるような気がするから」
 僕も真似して、美しいものを見ようとした。けれど僕は美術にも疎かったし、小説も読まない。美しいと思うものが、これといってなかったのだ。
「僕は、つまらない人間だ」
 そのときも、半笑いでそう口にして、優の目の前で心を欠け落とした。
「そんなことない」
 しかし優は真剣な眼差しで、僕を叱るようにじっと見つめた。
 それが嬉しかったのだ。以来、優の目の前では独り言を言わないようになった。優といるときだけは、心が悲鳴を上げるようなことも起こらなかった。ただただ、あたたかな柔らかいものが、緩やかに心の穴と欠け落ちた部分を埋めていった。
 優といる時間は、自分は誰かから必要とされているか否か、なんてことは気にしなかった。それは手が透け始めてからも、同じだった。

 透明人間になる前に言い残しておきたいことはあるか。
 ある朝目覚めて一番に、そんな言葉が頭に浮かんでいた。言いたいことなど特にはない。けれど知りたいことならいくつかある。
 アパートの一階に遊びに来る猫。あの猫の毛色はサバトラなのかキジトラなのか。しょうもないことを知りたがるな、と一人苦笑する。素人には見分けが難しいのだ。
 それから、長兄。十歳違っていて、最近はめっきり会わなくなった。長兄には娘が一人いる。背丈はどのくらいになっただろう。
 次兄とそのまた次兄は、今でも少しはやり取りしている。二人とも結婚はしたけど、子供はいない。たまに、飲みに行ったりもする。
 透明人間になる前に、長兄に会いたい。
 思い立ち、連絡を取って、次の日曜に遊びに行くことになった。娘は六歳になったそうだ。
 お土産は何が良いだろうか。右手が透けて以来、一番心が躍っている。子供のことに詳しい優に相談して、一緒に買いに行くこととなった。
「今はこの女の子戦隊ものが流行ってる。これ、好きだって言ってた?」
「軽く訊いたら、もう小学生だからそういうのは卒業したって」
「そうか、じゃあどうしよう」
 二人して考えあぐね、大型の玩具店を歩き回る。優は子供の頃の記憶が茫漠としていて、ほとんど覚えていないそうだ。
 子供用の化粧品売り場が目に留まる。そこには小さくて色とりどりの小瓶が、色ごとに並べられていた。
「優の妹とか、友達とか、ちっちゃい頃マニキュア貰って喜んでた?」
「喜んでた気がする」
 マニキュアにも何種類かあった。その中でも一番色が多くて嫌な臭いのしない、水で落とせる安全なセットを選んだ。
「きっと喜ぶ」
 優も僕もにこにこしながら、喫茶店で長兄の子どもの想像話で盛り上がった。長兄の娘がどんな子だったか話す日の約束もした。

 日曜はなかなかやってこなくて、ひどく焦れた。やっと来た日は寝ざめがいつも以上に良くて、遠足前の小学生のようだと笑ってしまった。
 電車に揺られて小一時間。お土産のマニキュアセットを持って、家のチャイムを押す。久しぶりに会った長兄は、少し老けて見えた。
「右手、どうしたんだ」
「ああ、ちょっと火傷をした」
 それ以上は深く掘り下げず、お大事に、とだけ言って家に上げてくれた。
 マニキュアセットを娘のはなちゃんに渡すと、跳びはねて喜んだ。欲しかったのを我慢していたそうだ。はなちゃんは一二〇センチになった、と満面の笑みで報告した。それが小学一年生にしては高いのか低いのか、分からなかったが、嬉しそうにしているので良しとした。
 長兄の妻とは結婚式で会って以来、顔を合わせていなかった。久しぶりに見た彼女は、やはり少し老けていた。
 はなちゃんと一緒に縄跳びをした。はなちゃんは些細なことでもきゃいきゃい笑って、こちらもつられて笑顔になってしまう、素敵な子だった。
 いろいろなことを話して聞かせてくれた。学校のこととか、友達のこととか、今やっているテレビアニメのこととか。どれも心の底から楽しそうに話すので、この子は僕のように心に穴を開けたり欠けさせたりするような生活を送らないよう、いつの間にか親のように願っていた。
 長兄は妻のことを「お母さん」、反対に長兄の妻は「お父さん」と呼び合っていた。二人が老けたと感じたのは、たくさん笑って、その笑い皺が目元と口元に刻み込まれたからだ。ひどく、羨ましい光景だった。
 僕と優はそうなり得ない。告白された時には覚悟をしていたから、そう感じてしまうのは優への裏切りのような気がして、後ろめたかった。
 僕の右手が透けてからは、家庭を築くことすらもすっかり諦めていた。僕は仕事を辞めているし、こんな大きな隠し事をして一緒に暮らすのは、不可能に等しい。
「薫は結婚しないのか」
 長兄に問われて、しないよ。と答えた。穴は開かなかったし、欠けもしなかったが、じくじくと痛んだ。

「夕ご飯、食べてく? 食べてくよね?」
 遊び疲れて眠っていたはなちゃんは、起きるや否やそう訊いてきた。はなちゃんのお母さんの方に目をやる。
「ぜひ食べていって。グラタン作るから」
 そう微笑まれては断る理由も見つからない。甘えさせてもらうことにした。
 夕飯の支度を手伝うと申し出たが、断られてしまったため、はなちゃんと遊ぶ。
「わたしね、大人になったらネイリストになりたいな」
 先ほどあげたマニキュアのセットを大事そうに抱えながら、はなちゃんは目を輝かせそう言った。子供のなりたい職業は年々変化していると聞いていたが、こんなにおしゃれな職業を挙げるとは。
「でもね、看護師さんにもなりたいの。そうしたら、かおるお兄ちゃんのけがを早く治せるから」
 きっとこの右手は治らないよ。そう言おうとする口を、きつく結んだ。
 今言おうとしたことは、前々から感じていたことだ。口にしてしまえば、また心に穴が開いて少し楽になったのかもしれない。けれど僕の心の安らぎなんかより、はなちゃんの優しさを尊重したかった。
 しかし尊重した結果、事実となることが決まったかのように、右手が心に重くのしかかる。ありがとう、と礼を言ってから口数の少なくなった僕を、はなちゃんは不安げに見上げていた。
 夕飯が出来たと呼ばれ、手を洗い食卓につくと、グラタンからじゅうじゅうとチーズの焦げる音がして、そのおいしそうな香りが立ち上ってきた。
 頂きます、と手を合わせようと、膝に置いていた両手を持ち上げる。その際、右手がグラタン皿に軽く触れてしまった。
 あつい、と小さく声を漏らした。隣に座っていたはなちゃんだけが耳にしたようで、だいじょうぶ? と問うてきた。
 ああ、大丈夫。ありがとう。全然熱くなかったよ。
 茫然とそう答えて、グラタンを頬張る。熱々のホワイトソースで、小さな火傷をした。本来ならば、舌の先に感じている痛みを指先にも感じるはずなのだ。それが、一切ない。
 僕の右手は、とうとう痛覚を失ってしまったようだ。

 食べ終わって早々、長兄の家を出た。外は暗く、雨が降り始めていた。
 電車に揺られながら、こう考える。自分の心を尊重していたら、痛覚を失わずに済んだろうか。
 おそらく、そのこと同士は何の関係もない。ただ、時間の問題だったのだろう。右手が透け始めて、最後には全身が消えてゆく。その最中の出来事であって、はなちゃんは何も悪くない。
 吊革には右手でぶら下がっている。掴んではいるようだし、揺れたとき身体を支えることもできる。触れることはまだできるのだ。しかし、真暗で雨粒のついた窓に右手で触れてみても、感じるはずの冷気を感じ取らなくなっていた。
 これじゃあ、優のぬくもりも感じられないな。
 奥歯を食いしばって、悲鳴を上げそうになるのを堪えた。
 仕方ない。まだ左手の感覚は残っているのだし。そう言い聞かせても、二度と優を感じられなくなってしまったかのように、震えは止まらなかった。
 たまたま、今日だけだ。霧雨の中を走ってアパートに帰り、シャワーも浴びず布団に潜りこんだ。
 だが翌朝、晴れ渡った空の元で伸びをして、太陽に両手をかざしても、温かさを感じるのは左手だけだった。ほどけた包帯から覗く透明な指から陽光が透け、きらきらと輝いていた。
 僕はもう、宙に溶けて消えてしまうのだろう。
 やってきた猫に触れる。感触が、もう何もなかった。ぬくもりも、ふわふわの毛並みも。
 リュックに必要最低限の食料と財布だけを詰め込んで、駅で一番遠くまでの切符を買った。そうして行き着いた駅には、大きな森があった。特に手入れもされていないような、雑木林と言った方が適切かもしれないそこは、僕の終焉にぴったりな気がした。
 森に足を踏み入れる。柔らかな腐葉土は昨晩の雨で湿って、良い匂いがした。
 ただひたすらに、歩いた。何も考えずに足を進めた。途中石に蹴躓いて両手をついたが、ひりついたのは案の定左手だけだ。右手は、何ともない。
 
 ***

 とうとう触れることすら叶わなくなって、やはり森へ来たのは正解だった。こんな状態じゃ、優を驚かせてしまうだろう。
 家を出る前、最後にスマートフォンを眺めていたとき、いくつかメッセージが入っていた。多くは宣伝。一つは長兄から、昨日はありがとう、また来てほしい。といった主旨のもの。もう一つは、優からだった。お兄さんの娘さん、どうだった?
 また行きたい。今度話すよ。叶いもしない約束をした。ごめん、と心の中で謝りながら。
「叶いもしない約束をして、ごめんなさい」
 いつもの通り、心は軽くなるかな。そう踏んで口にしたのだが、これっぽっちも軽くならなかった。穴が増えるばかりだった。
 また、歩を進める。その間、思いついたことを口に出していた。心が軽くなるよう祈りながら。
「誰も心配なんてしやしない」
「僕は消えても問題ない」
「さよならだけが人生だ」
「僕はどうなるんだろう」
「このまま消えるか飢え死にだ」
「どちらでもいいさ、脳も消えるなら」
 しかし軽くなりはしない。目の奥が徐々に熱くなる。
 心配してくれる人たちがいる。寂しがり、嘆き悲しんでくれる人たちがいる。消えても問題ないわけがない。長兄も、下の兄たちも、両親も、優も、きっとそうだ。
「優」
 その名を口にした時、心の穴や欠けたところから一度に血が滴るように痛んだ。
 家から出て何時間たっただろうか、日が陰り始めている。戻るなら今だ、とも考えたが、でたらめに道を歩いてきたのでもう帰る方角が分からない。 それに、今の今まで手が透けてしまっていることを隠しておいて、今更右手の感覚がもうないと告白しても、優はきっとなんでもっと早くに言わなかった、と嘆くだろう。
 それに、僕の全身が透けてなくなるまで、優の心が耐えられる可能性は?
 優は強い。僕の消失から逃げまいとするだろう。だからこそ、途中で気が狂いそうになる。もし優がもっと弱かったのなら、僕は告白していたかもしれない。
 けれど、付き合うにあたって大きな困難があること。それでも一緒にいたいと願って、告白してくれたこと。
 僕はそれを、優の強く気高い精神を、何よりも美しく思い、何よりも愛していた。
「優」
 もう一度、名を呼ぶ。それを繰り返す。
 優、優、優、ゆう。
「優しい」と書いて「ゆう」と読むその名前は、あの人にぴったりだ。今さらそんなこと、伝える術も何もないけれど。
 涙が頬を伝う。拭おうと右手をつい運んでしまうが、当然拭えない。
 ふと、何かに誘われるように前を向いた。深紅の花が、群生していた。
「――美しい」
 空いた穴、欠けた心が塞がっていくように、痛みが引いていく。優が前に言っていたことが、ようやくわかった気がした。よろめきながら歩み寄り、花に触れる。
 不思議なことに、優の手に触れたときのようなぬくもりを、右手に感じた。

すべてがとけるまで

THE PINBALLSの「花いづる森」という曲を聴いて思いついた話です。ぜひそちらの曲も聴いてみてください。

すべてがとけるまで

僕の右手が透けて見えるようになってしまった。会社を辞めて、猫を撫でる日々。恋人の優にはまだ何も言っていない。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted