短編小説「言葉泥棒シリーズ」あ、い、をください。

言葉に形があったなら、こんなことが起こったりして。

「行ってらっしゃい、あなた。いよいよね。」

「そうだね。きってきます。」

「私は今日、同窓会があって遅くなるけど、帰ってきたら楽しみにしてるわ。愛してる。」

「かきしてる。」

私は、妻に心からの気持ちを伝え、職場へ向かった。今日は仕事どころではない。なんせ、彼女にやっと愛を伝えることができる日だ。この日のために、どれほどお金を貯めたことだろうか。私は定時が過ぎると共に、職場を出て急いで店に向かった。

「すきません、これとこれをくださき。」

「お客様、ちょうど良かった。実はこれが最後の'あ'と'い'です。存分にお楽しみください」

「あ、、あ、ありがとうござい、、います!」

初めて発音するその音は、少し難しく感じたが、この感覚はすぐになれることも知っていた。

私の親が子供だった頃は、まだ皆言葉を上手く話せていたらしい。しかしある一時を境に、国は表現を禁止し、メディアを禁止し、それでも抑えられなかった最終手段として、庶民から言葉を奪うことにしたのだ。それに伴い、文字一つ一つに税金もかけられたことで、この国の人間は、大きく分けると言葉を捨てたもの、私の妻のように親が裕福で全ての言葉を話せるもの、そして私のように日々仕事でお金をためては、唯一言葉を買うことのできる5月8日を待って徐々に言葉を増やしていくものの、3パターンになった。

家に帰ると、妻は私のためにご飯を作り置きしてくれていた。

「あたたかいなぁ、あーうまい、あいのあじだ」

私は慣れない'あ'と'い'をこれでもかと多用し、妻の帰りを待った。しかし終電でも、妻は帰ってこなかった。ようやく帰ってきたのは朝の4時。
私は既に床に就いてしまっていた。朝、目が覚めると同時に私は妻に

「あいしてる!」

を目覚まし代わりに使った。しかし妻は少し申し訳なさそうに、おはようと挨拶を返してきただけだった。

「どうしたんだ。ほらきいてくれ、あいしてる。いえるようになったんだ。」

妻は私の目をじっと見つめ、大粒の涙を流した。

「まさかきみ、ことばどろぼうにあったのか?!'あ'と'い'をとられたのか?!」

「'あ'、'い'。言えるわ。違うのよ。」

「なんだ、いえるじゃないか。びっくりしたな。ほら、あいしてる。いってくれよ。ぼくはまだ、かんじはかえないけど、いえるんだぜ。」

「'あ'、'い'は言えるのよ。でも、愛してるが言えないの。」

「なんだよそれ、なにもうばわれてないんだろ?!いえるじゃないか!」

「違うの、私は昨日、昔付き合っていた彼氏と過ちを犯して、それで、、心を奪われてしまったの。あなたへの愛が、なくなってしまったの、、」

やっとの思いで手に入れた'あ''い'と共に、とんでもないもの失った私の気持ちは動転し、気がつくと目の前に飾ってあった花瓶で思いきり、彼女の頭を殴っていた。彼女は鈍い音と共に地面に倒れ、しばらくすると完全に動かなくなってしまった。怒りと恐怖で、私は言葉にならない叫びと共に家を飛び出し、気がつくと踏切の中へ飛び込んでいた。あれだけ言葉がないことを悔やみ、努力を続けてきた私だったが、最後の瞬間の感情は、言葉程度で語れるものではなかった。

短編小説「言葉泥棒シリーズ」あ、い、をください。

短編小説「言葉泥棒シリーズ」あ、い、をください。

形も、感覚も、著作権もない言葉。 それがもし形あるものだったら、世の中はどんな風になるのだろう。 そんなもしもの世界を、短編にしてみました。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted