陽光

光の名を受けた、陰気そうな青年。そんな奴が僕の家を明るくできるとは、到底思えなかった。

誰しも、忘れてしまうことはある。

 例えば今日の約束。納期が迫っている絵を仕上げていたら、約束の時間から大幅に遅れて、待ち合わせ場所のとある美大の講師室に着いた。旧友はこう言った。「賀来(かく)も歳をとったな」。
 すまん、と頭を下げた時、梅の花弁が床へと舞った。
 忘れてしまうことは往々にしてあるから、お互い様だと赦してもらった。現に彼も始終忘れごとをしている。人間の記憶は曖昧だ。
 けれど忘れてはならないことがあるのが現実で、忘れたくないことがあるのも、事実だ。
 小さな卓には助手らしき男が淹れたコーヒーが置かれている。小さな闇は、光をも吸い込む穴のようであった。
 助手はコーヒーを淹れた後も、僕たちの話を聞くかのように、ぼんやりと突っ立っている。背が高く、それなりに整った顔立ちをしているが、髪が伸び放題なせいで小汚く見える。それを阿久津は、あっちへ行けと手のひらで示した。我に帰ったとばかりに体を震わせ、助手は僕たちから見えないところに引き下がった。
「それで、用件なんだが」
 助手へ向けていた顔を戻すと、彼はにやにやと軽薄めいた笑いを浮かべている。これは、何かを企んでいる時の顔だ。
「妙な宗教にでも嵌まったか? 金のかかる頼みならお断りだ。僕は阿久津みたいに収入が安定していないからね」
「いや、金はかからない。むしろ、プラスの面が大きい」
「また特別講師かい? 大人数を相手にするのは向いてない」
「いやいや、違うね。そもそもこの大学は、あまり関係ないんだ」
 とすると、なぜここに呼んだのだ。
「阿久津、お前は何を企んでいる」
「企んでるなんて、そんな人聞きの悪いことじゃない。依頼だよ」
 依頼。大学の教材に使う何かを描いてくれとか、そんなところか。だとしたらあの嫌な笑みは何なのだ。
「おい、君」
 すると阿久津が助手を呼んだ。あの小汚い男が、どうしたというのだ。
 やってきた助手は、緊張でやや強張った顔つきをしているようだ。前髪の下に隠れた目で、真意のほどは掴めない。
「依頼って言うのは、こいつのことでね」
「なんだ? 助手を弟子にしろとか、そんなトンチキなことを言うんじゃなかろうな」
 すると、阿久津の表情が明るくなる。これは、
「その通り。こいつを、弟子にしてくれないか」
 迂闊にも、的を射てしまった時の顔だ。
 もっとも、こいつは助手じゃないんだがね。衝撃で遠のきそうな意識の中、聞こえてきたのはどうでもいいような事実だった。

 助手だと思っていた男は、三浦陽介です、と名乗った。陰気そうな見た目に合わない名だ。
「いやぁ、三浦も大変でな。成績はいいんだが、まあ、とある事情でここを今年度いっぱいでやめなくてはならなくなってね」
「今年度いっぱいって、あとひと月もないじゃないか」
 思わず、壁にかかっているカレンダーを見やる。簡素なりにも、今は三月だと声高に主張していた。
 そういえば、我が家のカレンダーはまだ昨年のままだ。それに気づいて替える者もいなかったから、仕方ないと言えば仕方ないし、だらしがないと言えばだらしがない。
「こいつは一人暮らしをしていたから、料理洗濯掃除はできるはずだ。お前のその乱れた生活も、幾分マシになるだろうよ」
「だからと言ってだな、」
「もちろん、タダでとは言わないさ。なぁ三浦?」
 三浦は返事をし、なにやら美術紙を開いて、一枚の絵を僕へ見せる。
 そこには、光が溢れていた。
 陽光を存分に浴びるべく生まれてきた幼子の、あどけない笑み。ありふれた構図ではあるが、それらとは一線を画している、光の描写。雑誌の小さな印刷であるにもかかわらず、溢れてくる多幸感には眼を見張るものがあった。
 脇には小さく、三浦陽介、と印字がされている。これがあの青年の手から生み出されたとは、想像もつかなかった。
「大賞ではないが、まあいいところまで行ったんだ。賞金もそう少ない額ではない。そこからと、アルバイトをして得た給料と。それを生活費として賀来の元へ納める。それでどうだ?」
 この青年は、只者ではないように思える。たった一枚の絵で判断するのは早計かもしれないが、阿久津のように入れ込むのもわからないことではない。
 それに、我が家は無駄に広い。寒々しく感じるくらいに。そこへ住まわせるのは難しい話でもないのだ。
 懸念があるとすれば、見られたくない絵が数点あること。それも、僕のアトリエへ隠し置けばいいだろう。
「乗った」
「そう言ってくれると思ったよ」
 阿久津は満足げに頷いた。それから、これで賀来の家も明るくなるな、と付け加える。
 光の名を受けた、陰気そうな青年。そんな奴が僕の家を明るくできるとは、到底思えなかった。適当に返事をして、いつ頃我が家に引っ越すか、毎月 幾らを納めるか、などの相談をし、その日は別れた。
 家のドアを開けると真暗で、出迎える者は居ない。それを寂しくないと思えるほどには、この状況に慣れきっていた。
 青年の引っ越しは、三月の下旬。それまでに例の絵をアトリエに仕舞わなくては。あれを見られたら、堪ったものじゃない。かといって、仕舞うのを忘れないかと問われると自信がない。それで、早々にその絵を全て引き上げた。
 それから、どの部屋に住まわせるかを考え、玄関から一番近く、狭い部屋をあてがうことにする。意地の悪い話ではない。単に、僕のアトリエと寝室から一番離れていて、誰かが住んでいた痕跡のない部屋だったからだ。
 彼が来る前に一度いつものハウスキーパーを呼んで掃除をしてもらおうか。いや、あの青年は、掃除もできると言っていた。ならば、引っ越してきた際に自分で掃除をしてもらおう。
 ベッドはどうしよう。今までは万年床だと話していたが、この家は隙間風がひどい。布団で寝られて風邪を引かれても困る。
僕の寝室には二台のベッドが並んでいる。そのうちの片方を、使わせてやるのはどうだろう。置いておくのも無駄ではあるし、何より僕の部屋が広くなる。しかし。
 ――そのくらい、買ってやるか。
 今なら安いベッドなど、多くの家具屋が出している。それを買ってやることにした。
 貸す気に、なれなかったのだ。

 桜の蕾は、はち切れんばかりに膨らんでおり、いくつかは弾けている。そんな中引っ越してきた青年は、相変わらずの長い髪を一つに束ねていた。
「これから、お世話になります」
 何もお渡しするものがなくて申し訳ありません、と詫びる。美大にいられなくなったということは十中八九、金銭面での問題だろう。そんな人物に何かを寄越せと言うのは酷な話だ。
「気にすることはないさ。ええと……」
「三浦です」
「すまないね、三浦くん。君は働きながら、絵の勉強をすると良い。参考書なんかはいつでも貸してやるから」
「ありがとうございます」
 表情は読み取りにくいものの、心の底から嬉しそうにしている雰囲気が、言葉の端々から伝わってくる。案外、分かりやすい男なのかもしれない。
 トイレはあちらで、風呂場はあそこ。キッチンとリビングルームはここ。と案内していると、三浦くんはふと目線をあらぬ方向へ投げた。
 そこは、電話台の上だった。前のめりに倒した写真立てに、手を伸ばす。
「写真立て、倒れてますよ」
 起こそうとしたところを、手首をつかんで止める。反射的な行動だった。三浦くんはこちらを怪訝そうに見下ろす。
「あ、ああ、いいんだそれは。そのままにしておいてくれ」
 彼はそのまま何も言わず、手を引っ込めた。
「君は料理ができるんだろう? 得意料理はあるかい」
「え、っと、材料があれば、何でもできます」
「そうか、じゃあビーフストロガノフは? 僕は洋食が好きでね」
 困惑したような彼に、質問を浴びせる。矢継ぎ早に捲し立てていないと、自分が保てないような気がした。
 金を渡し、これで何か旨いものを作ってくれ、と頼み、外へ追い出した。そういえばこの辺りの地理など知らないはずだ。しかし、彼はスマートフォンを辛うじて持っていた。それで検索すれば、辺りのスーパーなどすぐに見つかるだろう。大丈夫だ。
 玄関のドアに凭れ掛かり、息をついた。いつの間にか荒くなっていた呼吸は、徐々に平生へと戻った。
 見られたくないものはまだあった。吐息が、まだ残っている。それを覚られないようにしようと決めたにもかかわらず、さっそく見つけられてしまった。
 これ以上、見られるわけにはいかない。
 見つけられてしまった暁には、彼を追い出すか、口封じに金を積むか。そんなことまで、僕は考えていた。
 しかしながら、阿久津がそのことについて、彼に全く話していないはずがないのだ。三浦くんは、多少なりともこのことを知っているだろう。だから、僕も向き合う必要がある。
 
 僕には妻がいた。
 もう何年も前の、ちょうど今頃。桜の花が終わる頃に、妻は病気で旅立った。
 発見が遅すぎた為に、手の打ちようがなかった。僕がもっと妻の様子を気にかけていたらよかったのだ。絵なんか描いてばかりいないで、もっと傍に居てやればよかった。病室でそう懺悔するように吐き出すと、妻は微笑んでそんなこと言わないで、と諫めた。
「私はあなたの絵が好きだったんですもの。幸せな生涯でしたわ」
 ではせめて、今からでも何かしてやれることはないか。僕のエゴだろうと分かっていながらも、訊かずにはいられなかった。
 妻はそうね、としばし悩んで、こう言った。
「たまに、私の絵を描いてちょうだい。あなたは忘れっぽいから、描かないと私のことなんて忘れてしまうわ」
 そんなことはない。君を忘れることなどない。そう繰り返しても、人の記憶は儚いのよ、と微笑むばかりで取り合ってくれなかった。
「仕事の合間でいいの。暇になったときに、私の絵を。傑作が出来たら、見せてね」
 記憶に残っているのは、その会話だけだ。そして、別れの挨拶をろくに言えないまま、いくなとしか言えないまま、妻は一人で逝ってしまった。
 葬儀には阿久津も参列した。僕が慟哭する様も、彼は見ていた。そして、今に至るまで何かと気にかけてくれているのも、分かっているつもりだ。塞ぎ込みがちな僕を特別講師として呼んだり、教材として使う手本の絵を描いてくれと頼んだり、気を紛らわせようとしてくれていることには、感謝している。しかしながら、傷は癒えないし後悔も消えることはない。その上で彼は、一種の療法として三浦くんを寄越したのだろう。
 また、無駄な気を遣わせてしまった。いい加減に立ち直らねばとは思うが、そう簡単に元通りになれるはずがない。
そして、今の今まで、傑作は出来ていない。

 三浦くんが帰ってきた頃には、落ち着いていることができた。
 彼は僕が思いつきで口にしたビーフストロガノフを夕飯に振る舞ってくれた。スプーンでつつくとほろりと崩れる肉は、口の中で蕩けるように、身体中に染みわたっていった。
「ごちそうさま。とてもおいしかったよ」
「好きなものを作るので、何でも仰ってください」
 彼の口元は弧を描く。笑ったようだった。
「それから、お持ちだったら貸してほしい本があるのですが」
「うん、どんな本だい」
「人物の描き方の基礎の本、です。もしお持ちでなかったら、賀来さんの描いた肖像画を近くで見せてもらえませんか。いや、出来ればそちらの方が……」
 肖像画。聞いて、顔が強張ったのが分かった。僕は風景画を圧倒的に描いているし、画商からの評価や、画集の売れ行きからいってもそちらの方が、人気が高い。
 それでいて、なぜ僕に肖像画を見せてくれなんて頼むのか。
「阿久津か」
 声色が険を帯びたのが、一瞬にして分かった。三浦くんもそれを感じ取ったようで、歯を食いしばって次の句を待っている。
「悪いが、それだったら他の画家を当たってくれ。ああ、本ならある。書斎の本棚の、一番下の一番奥に仕舞ってあるから、勝手に取りなさい」
 つっけんどんにそれだけ言って、僕はリビングから離れた。少し経って、食器を洗い忘れたことを思い出し、リビングをそっと覗くと、三浦くんが明らかに落胆した様子で全ての食器を洗ってくれていた。
 申し訳ない、と感じたが、ここで取り繕うのもなんだかおかしい気がして、そのままアトリエへ籠った。落ち着いてなどいなかったのだ。
 イーゼルに乗せたままのスケッチブックを見やる。そこには、一人の女性が描かれている。見知らぬ女性のようだった。耐え切れず、ページを閉じた。
 妻の言う通り、人の記憶は儚かった。ここに描かれているのは妻だ。妻の、はずだった。
 妻を描いたのは、四十九日が終わった頃だった。少しは心の整理がついたから、妻の頼みを聞こうと、ある種の余裕があった。
 しかし、描き始めてみると何かが違う。妻はこんな顔じゃなかったと思いながらも、描き進めていく。それでも完成した頃には、写真を見ていなかったにしては上出来ではないだろうか、と満足していた。
 一息つこうとリビングへ向かう。そして、電話台の上に置かれた写真立てを見て、愕然とした。
 描かれた妻は、明らかに写真で見る妻とは異なる人物だった。
 僕は、今までモデルを置かずにイメージだけで肖像画を描くこともあった。そしてその出来栄えは、風景画には及ばないものの、想像をそのまま表現できていると自負していた。
 僕の腕前が落ちた。そういうわけではないと瞬時に覚る。僕がイメージしていた妻は、記憶していた妻は、写真に残る柔らかな微笑みを湛えた妻ではなかった。
 写真の中の妻が、こう言う。
「ほらね、あなたは忘れっぽいでしょう」
 その視線に耐え切れなくなって、妻の写真を伏せた。アルバムも見ないようにした。
 妻は、忘れゆくことを責める人物ではない。そう知っている。けれど、それを寂しがっていた。だから自分の肖像画を描いてくれ、なんて頼んだのだ。
 だのに僕は期待に沿えず、たったの四十九日で妻を忘れかけている。
 それからも、何度も妻の絵を描いた。描けば描くほど、月日が経てば経つほど、妻ではなくなっていく。一度は無性に腹を立て、ぐしゃぐしゃに丸めてアトリエの外へ放り投げた。そして、泣いた。
 その時に聞こえてきた声は、同じことを優しく、繰り返し諭すようだった。
「あなたは忘れっぽいから」
 そうだな。僕は忘れっぽかったよ。君の顔すらもおぼろげで、まともに描けやしない。
 絵を描くことは嫌にならなかった。妻を描くことすらも苦ではなかった。しかし、どんどん本物の妻からかけ離れていく。このことを、妻は望んでいただろうか。
 それならば描くのをやめてしまえばいい。そうすれば、こんなにもどかしく胸が痛くなる思いも、しなくて済む。
 けれど、絵に縋るしか僕には手立てがなかった。他にこの苦しみを少しでも和らげる方法を知らなかった。
 妻の絵は増えてゆく。増えてゆく一方で、僕の中の妻の記憶は減ってゆく。

「昨日は悪かった。探していた本は見つかったかい」
 三浦くんがアルバイトに出かける前に朝食を二人で摂る。トーストに半熟の目玉焼きを乗っけて、塩を振りかけて食べるのは彼の憧れだったようで、嬉々として頬張っていた。
 その際に、昨日のことを謝った。触れられたくないところに触れられたのは事実だが、三浦くんに悪気があったわけではなかろう。
「はい、見つかりました」
「本を参考にするのもいいが、とにかくデッサンをすることが一番の近道だ。人を描きたいなら、骨格や筋肉の付き方、血管とかを意識しながら描くといい。アルバイトをしながらだと大変だろうが、頑張るんだよ」
 三浦くんは勢いよくお礼の言葉を述べ、頭を下げた。僕のやり方が完璧な正解と決まっているわけは当然ないが、間違いでもないだろう。
「行ってきます」
 彼がアルバイトに行く際、そう挨拶をして出ていった。声には活力と喜びが多く乗せられている。久方ぶりに、誰かがこの家から出ていくのを見送った。
 そういえば、僕は彼の素性をあまり知らない。帰ってきたら色々訊いてみよう。
 アトリエに籠る。イーゼルからスケッチブックを退けて、カンバスを代わりに置いた。
 そうして描き始めたのは、夕暮れ時の河岸。遠くのビル群へ沈む太陽の光が水面に反射する様を描きたく、この構図にした。
 昼飯を摂るのも忘れて描いていたようだ。トイレに行こうと廊下に出ると、太陽は傾いて西日が窓から差し込んでいた。
 アトリエに戻り、描いた絵を俯瞰する。もう少し手を加える必要があると判断し、取りかかった。もっと光に溢れた絵にしたい。
 僕は三浦くんのあの絵から影響を受けていた。阿久津の言う通り、悪いことばかりではなかったな、と独りごつ。そして最後、川岸に父子を立たせる。完成ではないが、大まかな全体図はできた。
すると、玄関のドアが開く、軋んだ音がした。
「ただいま戻りました」
 三浦くんだ。スーパーのビニール袋が立てる音も聞こえる。今日の夕飯は何を作ってくれるのだろうか。

 彼がいる生活にも慣れたある日、見てほしいものがあると頼まれ、彼の部屋に邪魔した。
 用意されていたものは、一枚の絵。男性の肖像画だった。どことなく三浦くんに似ている。そう口にすると彼の表情は見るからに華やぎ、そう描けていたら成功です。と満足げだ。
「父を描いたんです」
「なるほどな。この絵を、どうするんだい?」
「実家に帰るときに、持っていきます。直接、渡したくて」
 なぜ今描いたのだろうかと疑問ではあったものの、描きたいものを描きたい時に描けるのはアマチュアの時だけだ。三浦くんの実力ならば早晩どこかから声がかかるだろう。
「お父さんも喜ばれるだろうよ」
「だといいですけど」
 少し困ったように、三浦くんは笑った。
 きっと家にこの絵を持ち帰って、父親と会話を交わすのだろう。
 これが俺か? 似てないよ、俺はもっとハンサムだ。
 そんな冗談を言いつつも、三浦くんの父親の表情は緩みきっている。幾つになっても、自分の息子からのプレゼントは嬉しいものだろう。
 僕と妻の間には、子供がいなかった。いたとしたら三浦くんくらいの年だったろうか。こんな息子がいる父親は、さぞ幸せで仕事にも精が出ることだろう。
 そういえば三浦くんは、おそらく金銭面の理由で大学をやめている。親御さんはきっと悔しい思いをしているはずだ。だがこの絵を見せることで、これだけのものを描けるのだから、と安心させられる。そんなことまで考えて描いたのかもしれない。
「三浦くんは孝行息子だな」
「……そうだとは、到底思えませんが」
 やや濁った言葉尻に引っかかるものがあるが、孝行息子と言われて、はいそうですなんて肯定する者もそういない。そう思えば、この反応も妥当なものか。
 いつの間にか、三浦くんの笑顔は消えていた。
「僕は、孝行息子なんかじゃないです」
 嫌に頭にこびりついて離れなかった。夜、眠れずにベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、その言葉を反芻していた。
 このままでは無為な時間を過ごしてしまう。それならば、と起き上がってアトリエのドアを開いた。妻の絵を、また描いてみよう。三浦くんが来てからは描いていない。もしかしたら、何かが変わっているかもしれない。スケッチブックをイーゼルに立てかけ、筆をとった。
 けれど、何も変わっていなかった。妻の面影はあやふやで、こんな顔ではなかった、こんな表情をする女性ではなかった、そう分かりながらも筆は進んでゆき、止まらない。
 出来上がった絵は、妻の言う傑作とは程遠かった。美しい女性。ただそれだけだった。こんなのは妻ではない。変化など、何も起こらなかったのだ。
 スケッチブックからその絵を破り取り、いつかしたようにくしゃくしゃに丸め、アトリエの外へ抛り、痛みを堪えるようにしばらくじっとしていた。
 アトリエから出ると、空が白み始めていた。寝室へ戻り、ベッドの中で身体を丸め、眠った。
 起きてリビングに行くと、三浦くんが朝飯を作って待っていた。今日のアルバイトは昼過ぎからのようだ。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 壁にかけてある時計を見ると、もう昼と言っていい時間を指していた。普段と同じくらいは寝たが、それでも腹が何とはなしに重たい。作ってもらった朝飯を、残してしまった。
「体調がよくないのですか?」
 三浦くんは僕を案じてくれる。その優しさに、目を細めた。
「絵を描いていたら朝になってしまってね。それで身体が重いんだ」
 すると三浦くんは合点がいったとばかりにああ、と相槌めいたものを打ち、どこからか一枚のしわくちゃな絵を取り出した。
 その絵は。
「これ、アトリエの前にありました。描き損じですか?」
「……そうだ」
「これが奥様の絵なんですね。阿久津先生からお話は伺っていました」
「そうか。なら」
 そっとしておいてくれ。そう口にする前に、三浦くんは続けた。
「美しい方だったのですね」
 彼の口調は馬鹿にしているものではない。憐れんでいるものでもない。そう分かってはいた。しかし。
 テーブルを拳で力いっぱい叩く。食器が音を立て、残った朝飯が零れた。三浦はびくりと背筋を伸ばし、怯えたようにこちらを凝視する。
「君に何が分かるというのだ」
 怒りは抑えられなかった。妻の何を知っていて、その見た目を評価している。僕の何を知っていて、その絵を評価している。
 描いて、描いて、描き続けて、未だに傑作とやらは出来ていない。そんなこと、画家をやっているのならば当たり前だ。しかしながら、自分の描きたいものからゆっくりと、しかし確実に離れてゆく恐怖を、彼はまだ知らない。それが実在した人物、愛した人物であったら尚更であることも、彼は知らない。
 三浦は静かに謝罪の言葉を口にして、席を立ち片付けを始めた。
 とてもじゃないが、こんな空気の部屋には居られなかった。アトリエに引き上げ、新しく依頼された絵を描き始めた。
 しばらくすると、玄関のドアが開く軋んだ音がした。三浦がアルバイトに行ったのだろう。
 行ってきますは、聞こえなかった。

 阿久津と約束をし、喫茶店で待ち合わせた。
「で、話ってのはなんなんだ」
「三浦を引き取ってもらいたい」
 阿久津は目を見張り、それまた急だな、と驚いてみせた。
「あんなに気に入っていた風なのに」
「僕の見られたくない絵を見て、しかも評価したからね」
「……喜代子さんの絵のことか」
 阿久津はため息をついた。
「それで? なんて言ったんだお前は」
「『君に何が分かるというのだ』。そうだろう、この苦しみをあいつは分かるはずがない」
「賀来、お前、何も聞いていなかったのか?」
 声が、いつになくきついものとなっている。これは、何かまずいことをしでかした時の阿久津だ。
「ああ。何も聞いていないな。あいつも、身の上を話さなかったから」
 目の前の彼が、何かを大声で言おうと息を吸った。馬鹿野郎とでも言われるのだろう。しかし、息はそのままため息となる。
「まあ、仕方ないよな。自分から話す気にもなれないだろう」
「何の話だ?」
「三浦の退学理由。お前、知らないよな」
「知らないな。金銭面の問題だろうとは思っていたが……」
 すると阿久津はテーブルに肘をつき、手を組んでその上に顎を置いた。
「親御さんが、亡くなったんだ」
 今度はこちらが目を見開く番だった。そんな様子、一切窺わせていない。彼は陰気そうではあるものの、常に朗らかな雰囲気を漂わせていた。
 それは、僕に気を遣っていたのだろう。妻を亡くして塞ぎ込んでいる人の元へ行く時、自分も塞ぎ込んで行くわけにはいかない。ましてや弟子という立場である以上、それは殊更に赦されない。
「ほら、帰った帰った。ちゃんと謝るんだぞ」
「――三浦くんの好きなものって、何だ」
「紅茶。特にトワイニングのレディ・グレイ」
 それは、妻が好んで飲んでいたものと同じ銘柄だった。
 青い箱のそれを帰りしな、スーパーで手に入れた。茶菓子も要るだろうと、近くの洋菓子屋でスコーンを二つと、季節のコンフィチュールを買って帰った。
「……ただいま」
「――おかえりなさいませ」
 恐る恐る発した挨拶には、同じような言葉が返ってきた。三浦くんの出迎えはぎこちないもので、つい小さく噴き出してしまう。張り詰めていた空気が、やや和らいだ。
「君の好きな紅茶と、スコーンを買ってきたんだ。おやつの時間にしないか」
「はい、準備します」
 口元を緩めて紅茶箱と、スコーンとコンフィチュールの入った袋を受け取る。そうして、いそいそとリビングの方へ向かっていった。
「阿久津先生から、聞かれたんですね」
 レディ・グレイの華やかな香りは、そこへ注いだミルクで甘く漂う。スコーンにさくらんぼのコンフィチュールをたっぷりと乗せ、頬張る姿は子供のようだった。その姿と釣り合わない、落ち着いた声色。
「ああ。君には、すまないことをした」
「そんな。話さなかった僕が悪いのですから」
 三浦くんは薄く微笑む。そして、僕に促されるがまま、自分の身の上を語り始めた。

 僕は父子家庭で育ちました。母は幼い頃にどこかへ行ってしまったそうで、詳しいことは知りません。
 父だけの子育てに、周囲は好き勝手言いました。僕が可哀想だの、母親がいないと歪んで育つだの。ですが、僕は母がいなくて悲しい思いはしたものの、父に恨み言を吐いたりなどはしませんでした。吐こうという気すら起きませんでした。
 それは、父の背中を見ていたからです。ひたすら仕事に取り組み、僕の行きたい道を歩ませてやろうという強い気持ちが、幼心に見て取れたからです。
 小学生の時、初めて描いた絵が、とある大会の賞に選ばれました。大賞でした。
 父はいたく歓び、とても立派な額縁を買って、狭い部屋の一番良いところに飾ってくれました。そしてこう言いました。「好きならば、もっと描きなさい」。
 僕はひたすらに絵を描きました。楽しかったし、好きだったし、何より父が歓ぶ顔を見たかったからです。その後も賞をいくつか取りました。その度に、父はもっと描きなさい、と言いました。
 僕が美大に行きたいと言った時、父は少し迷いました。美大の学費は四大の学費より高いですから。それでも、好きな道を歩けと、入学を赦してくれました。
 父は学費を稼ぐために今まで以上に働きました。その結果、職場で倒れ、亡くなりました。死に目には会えませんでした。
 僕が最後に父に会ったのは、賀来さんに見せたあの賞の絵を父に見せようと帰省した時です。あれを見て父は、僕の子供の頃を思い出した、と言いました。「降り注ぐ陽光を浴びるために生まれた子供だと思ったんだ。生まれた時、病室で」。
 父の死に、僕は立ち会えませんでした。葬式でも、慌ただしくて父の死に顔すらもあまり見ていません。――僕も、父の顔を忘れそうだと感じました。
「正直な話、僕は自分を赦せていません。絵を描くのも苦痛です。ですが、父が築き上げてくれた今の土台を壊したくない。その一心で、描き続けます。これからも」
 三浦くんは結びに、そう言って鼻を啜った。
 親御さんが亡くなったのは君のせいじゃない。
 言うのは簡単だ。だが、そう言ったところで三浦くんの心の枷が外れるはずもない。それは僕もよく分かっているつもりだ。
「君のお父さんの絵、あったな。あれはどうして描いたんだい?」
「忘れたくなかったんです、父を。でも、……賀来さんもご存知の通り、本人そっくりには描けませんでした」
 知っている。よく知っている。人の記憶は曖昧だ。視覚に関する記憶は、とみに。僕はそれと向き合えないでいる。そう、三浦くんに告げた。彼は頷き、でも、それでもいいと思っています。と言った。
「どうしてだ。君は恐ろしくないのか? 自分の記憶が徐々に薄れていくのが、顕著に現れるのは」
「恐ろしくはないです。僕の想いや今までの積み重ねが記憶の中の父の容貌を変化させても、それは自然のことですから」
「自然のこととは言ってもな、僕は恐ろしい。恐ろしくてならないよ」
「ですが」
 言い差して、口を噤む。今度は決して怒らないから、教えてくれないか。そう懇願すると、三浦くんはゆっくりと口を開いた。
「賀来さんは、奥様を美しく描かれました。怒られるのを承知で言いますが、僕は一度、写真立てを起こしたことがあります。奥様は確かに綺麗な方でしたが、絵ほどの方ではありませんでした。でも、美しく描くということは、それだけ奥様との思い出が美しいものだったから、ではありませんか。僕はそう考えます」
 気づけば僕は、三浦くんの手を取り額に掲げて、強く握っていた。
 賀来さん、と戸惑いを隠せない声で三浦くんは呼ぶ。しかし、その手を放すことは出来なかった。
 痛みが、徐々に癒されてゆく。頑なになっていた心が、解されて柔らかくなってゆく。妻を忘れゆくことは悪いことではない。仕方のないことだから。忘れゆくことを嘆くより、今までの記憶を慈しみ、たまに取り出して丁寧に見てゆく方が、良い。ずっと良い。
「ありがとう、三浦くん。ありがとうな」

 アトリエを片付けようと、今まで描いた妻の絵を全て出し、描いた順に並べてみた。三浦くんは隣でその様子を覗っている。
「……しかし」
 妻は、どんどん美しくなっている。アルバムも引っ張り出して見比べてみると、どうやら妻と出会った頃に近づいていっているようだった。やはり想像は思い出に左右されるものなのだな、と三浦くんの言葉を噛みしめた。
「この絵を綺麗に纏めたら、また妻を描こうと思うよ」
「それが良いです。きっと奥様にお見せしたい絵になりますよ」
「そうだな。ああそうだ、夕飯を作る前に、一つ頼みごとをしてもいいかな」
「はい、なんでしょうか?」
「僕の部屋に、妻の位牌がある。そこで、挨拶していってくれ。こんな弟子を取ったと、見せてやりたいんだ」
 三浦くんは声を弾ませ快諾した。そうして、アトリエから出ていった。
 僕はアトリエにひとり残り、妻の絵を見つめた。
「ほらね、あなたは大事なことを忘れていたでしょう」
 ああそうだ。妻もきっと、分かっていたのだ。記憶は徐々に薄れゆき、描かれる自分の容貌も変化してゆくことを。
 それでも、妻は構わなかった。もしかしたら美化されるのを楽しみにしていたかもしれない。だから、僕に絵を描いてなんて頼んだのだ。思い出は美しくなってゆく。それだからこそ、良いのだと。
 リビングへ向かうと、三浦くんが既に夕飯の支度を始めていた。その傍らで、電話台の上にある写真立てを、そっと起こした。
 妻は色褪せることなく、柔らかな微笑みを湛えている。
 夏の匂いがした。

陽光

書いていてとても楽しかったです。今出せる精一杯がこれです。受け止めてくださった方の胸に少しでも残るものがあったなら、幸いです。

陽光

画家の賀来は、友人で美大教授の阿久津に頼まれ、三浦陽介と名乗る陰気そうな青年を弟子にすることになる。だが、賀来にはとある隠し事があった。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-02-08

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