天国に一番遠い場所

行楽地、例えば海やスキー場。自然と人工が一体となった地では、仄かな死が香る。

海で泳ぎ疲れて、眠りにつくまでのほんの僅かな時間、この場所にいる人たちも、いつかはこうやって眠りにつくみたいに静かに生涯を終えるのだろうと夢想したり、スキー場の片隅で雪遊びをしながら、コースから外れたここでもし倒れてしまったら、誰にも気付かれずに凍え死んでしまうのだろうと、雪のせいではない、薄ら寒いものが背筋を伝って行ったりする。
仄かな死の香りは、決して嫌なものではない。
私は生きている自覚が薄いのか、常にぼんやりと生を揺蕩っている。シェイクスピアよろしく生きるか死ぬか、なんて重大な決断を自身に迫ったことはないし、その間を彷徨った経験もない。身近な知り合いが死んだことも、まだない。
だから生まれて初めて山に登り、頂上から下界を見た折、ここから落ちたら死ぬのだろうと足が竦んだのだが、その竦み、足元から上ってくる恐怖が、今私は生きていると強く感じさせた。
そう、仄かな死の香りは、生を喚起させる。行楽を楽しむこと自体が生きていることの象徴のようにも思えるが、私はそれだけでは物足りない。
微かで甘やかな香り。そう言うと死にたがりのように勘違いされる。そうではないのだ。
運動も何もしないから、生きていることを強く感じたりなどしない。くらげのように、生まれたからただ生を揺蕩っている存在に近しい私が唯一、ここに在るとわかるのが、行楽地でのあの香りなのだ。

「ね、楽しい?」
ローファーと靴下を脱ぎ捨てて砂浜の手前に置き、二人で押し寄せる波を蹴飛ばしてみたり、引き波を、流されてゆく砂の儚さで体感したり、そんなことをして遊んでいた。由佳の髪には、来る途中の桜並木から零れるように舞い散った花弁が一つ、しつこくついていた。
「うん、楽しいよ」
新学期早々の授業を受けずに、学校から遠く離れた海にやってきて、私たちは何をしているのだろう。
「私ね、前はここに住んでいたの」
由佳が慣れたように改札をすいすい潜り抜け、私はそれを見失わないように追いかけた。そうやって乗り継いだ電車の先には、海があった。
へぇ、と相槌を打ち、話の先を待ったのだが、由佳は一向に話し出そうとしない。さっきまでと同じように、波を蹴飛ばしたり、シーグラスを探したりしている。話の続きがあるわけではないのか。私も由佳を真似て、シーグラスを探した。
由佳は小学校が一緒だった、ただそれだけの知り合いだった。何年だったかは忘れたが、途中で転校したため、印象も薄い。有名な中高一貫校に進学した、と噂では聞いていたのだが、高校二年生の春、つまり今なのだが、急に私の通う高校へ転校してきた。由佳を知っているのは、私だけだった。
両親の転勤でこちらに越してきたと、笑顔で皆に話していたが、それだけであの超進学校を辞めるはずがない。まあ、何かがあったのだろう。
けれど私は波風を立てたくなる性分ではない。むしろ何事も起こらず、平穏にのんびり過ごしていた方が良い。というより、そうであってほしい。だから詮索はするつもりもないし、何か知ったとしてクラスや学年中、ひいては学校中に喧伝するつもりはさらさらない。そんなことより、この穏やかな春の海を眺めている方がずっとずっと、幸せだ。
しかしながら、由佳はおそらく、私がそういうことをするのではないかと疑っている。いや、恐れている、と言った方が適切か。
無理もない。小学校の数年間一緒で、大して仲が良くもなかった人の性格などわかるはずないのだから。
その口止めのために昼休み、呼び出され、手を引かれるがままに学校を出、今現在海にいるのは、なんとも不思議な気分だった。無断早退、先生にこっぴどく叱られるのだろうな。でもそんなことを忘れられるほど、春の海は心地よかった。
「言わないでほしいの、このこと」
このこと、が海へ来たことではなく、あの学校に通っていたことだというのはすぐに察しがついた。
「うん、言わないよ」
それだけ答えて、また海を見る。水平線に、ヨットがはっきりと見えては霞み、その繰り返しを眺めていた。
すると手に、何かが触れた。視線を下げると、由佳の手があった。私の手を、握ったようだった。
それから、さっき楽しいかと問うたように、「ね、」と小首を傾げて、こう言った。
「このまま、海に入っちゃおうか」
あまりにも軽い口調だったため、冗談にしか聞こえなかった。けれどそれが冗談ではないことには、すぐに気がついた。由佳の手に、ひどく力がこもっていたから。
「――由佳?」
「わたしの取り柄はね、頭がいいことなの」
頭がいいことは、あの学校に進学したことからもわかる。それだけが取り柄だと、由佳は続けて言った。
「でも、井の中の蛙だね。あの学校でついていけなかった。それではっきり証明されちゃったんだ。私の頭は空っぽで、取り柄なんて何にもないって」
私はその告白をぼんやり聞いていた。確固たる自信が打ち崩される瞬間など、私にはまだ訪れていなかった。そもそも、何に対しても確固たる自信やら、信念やら、そんなものがなくただ茫漠と生きてきた。生きてきた、ということにも確証が持てていないのだから、由佳がある意味羨ましいようにも感じた。
「私に生きている価値なんてないの。だから」
このまま、海に入っちゃおうか。
だめだよ。そう言って手を解こうとした。しかし、由佳の手は私の手を離さない。道連れにしようとしているのかもしれない。
そこで私ははっきりと、今まで感じていた仄かな香りなどとは比にならない、死を感じた。
由佳は死を選ぼうとしている? たった一度の挫折だけで?
そう頭に浮かんだが、たった一度、だなんて口にしたら絞め殺されるのではないかというほど、由佳の目は真っ直ぐに私を見据えていた。それほど大きな挫折だったのだ。死を止める権利など、私にはないのかもしれない。
怖い。そう思った。
心臓の鼓動が身体中に響く。そんなに心臓が打ったら破裂してしまいそうだ。口の中が乾き、舌が張り付いてうまくものも言えなかった。
由佳は一歩、海の中へ足を踏み入れる。腕を強く引かれ、私も蹴躓くように一歩海へと入った。くるぶし程度しか濡らしていなかった波が、脛のあたりまで来る。途端、足元で砂の解ける感触が生々しく、私を海の底へと誘おうとしていた。
由佳がもう一歩、足を進める。スカートの裾が少し濡れた。
だめだよ、戻ろうよ。口にしようにも、張り付いた舌はうまく動かせやしない。
春の海は、まだ冷たい。身震いして、横目で由佳を見た。由佳も震えている。寒さか、恐れか、悲しみか、悦びか。唇の血色は失われていた。
ふいに、足の力が抜けた。かくんと膝が折れ、海の中に身体が沈む。握られたままだった手が、離れた。
海中から見る太陽はただの丸い光源で、手を伸ばせば掴めそうだった。泡沫はその光源に向かって消えていく。由佳も、そんな風に消えてしまいたいと願っているのかもしれない。
けれど私たちはあぶくではない。
足が容易につく浅瀬だったが、立ち上がるのはやや大変だった。制服は濡れそぼって、髪の先から海水が滴った。
暫し呼吸を整えようとぜえはあ喉を言わせていると、由佳が心配そうにこちらを覗き込んできた。
「大丈夫だよ」
笑ってみせれば、安心したように息をついた。先ほどまでの死への執着は、驚きですっかり消え失せたように見える。
今だ。由佳の手首を掴み、浅瀬の方へと勢いよく引っ張った。由佳は簡単に尻餅をつき、ちょうどそのとき波がやってきたので、制服がびしょびしょになる。
呆気にとられた顔をしている由佳の髪が頬に張り付いて、海藻のようだった。髪についていた桜の花弁はいつの間にかどこかへと行ってしまっている。それがやけに面白く、私は声を上げて笑った。
すると、だ。由佳も遠慮がちに笑い始めたのだ。その笑い声はだんだんと大きくなっていって、二人でしばらく笑い転げた。
「もう、やだ、私の制服まで」
「どこかで服買おう、安いの」
「そうだね」
けらけら笑いが止んだころ、由佳は立ち上がって砂浜の方へと歩き出す。私もそれについていく。
死の香りは、強くも、仄かにも、香らなくなっていた。
けれど私は生きていると、今までになく強く、強く感じた。

天国に一番遠い場所

少し自分に重なる部分のある登場人物たちだったので、書いていて楽しかったです。

天国に一番遠い場所

小学生以来会っていなかった由佳が、高校二年生の春に転校してきた。何かがあったように思えるが、くらげの私は気にならない。けれど由佳は、そうではないようだ。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-19

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