小説『雨上がりの虹』 一章(ハル目線)

中野奏人

  1. プロローグA   /HAL
  2. プロローグB  /相原愁
  3. ―1― A
  4. ―2―  A
  5. ―2―  B
  6. ―3―
  7. ―4―
  8. ―5―
  9. ―6―
  10. ―7―
  11. ―8―
  12. ―9―
  13. ―10―
  14. ―11―
  15. ―12―
  16. ―13―
  17. ―14―

小説『雨上がりの虹』 一章 のハル視点です。

もう一人の登場人物である愁目線の同物語はこちらより読むことが出来ます。→ https://slib.net/72299

プロローグA   /HAL

プロローグA  /HAL

たりー、と思いながら、背中に大きな羽根の生えた青年は、今日告げられた本日の仕事内容を記したレジュメを見返した。

『相原愁。22歳。大学四年生。絞首自殺』と黒い文字で記されている。

同年代だ。というか、俺が今年24歳だから……と数え、自分より若い。

一期一会なんだからちゃちゃっと済ませちゃえばいいんだろうけど、

やってらんねぇな。サラリーマンあがったりだよ。そう、脳内で彼はぼやいてから、

その背中の大きな羽根を羽ばたかせて空を飛んでいく。

プロローグB  /相原愁

プロローグB  /相原愁

ある六月初頭、初夏の日。群青色とえんじ色が混じった夕暮れ空の中、溶け込むような小雨が降る夕方のことだった。

外では緩慢な小雨が降りしきるなか、青年は一人自室でパソコンの画面を見ていた。

その部屋は、一見、ものが多いようで何一つ有意なものがないような部屋だった。床には、これみよがしに床に散らばった書類。薄汚いベッド。無駄にバックライトが明るい大きなパソコンディスプレイ。

唯一使えそうな有益なもの、首吊り紐。

青年はパソコンの画面から目をそらし、宙に吊られたそれをぼうっとみあげた。

しばらく呆けていた頃合いだろうか、電話がかかってきた。

青年は電話をとった。

「あら、最近どうかしら、うまくいってる?」

青年は状況をすぐに飲み込んだ。 質疑応答の時間が開始したのだ。議題は『この青年の近況と進路について――』

青年はスマートフォンから流れる音声に対して生返事を返す。

どうやら声の主は女性のようだ。 母親ぐらいの年代だろうか、声のわりにやけにはしゃいだ喋り方をしている。

「すごいわ。やるじゃない、愁ちゃん」

愁ちゃん、というその妙にねっとりとした呼び方に、青年は画面のこちらで少し引き笑いをした。もちろん、電話の向こうには伝わるはずもない。

女性はさらに舞い上がったような喋り方で続ける。

「あら、もう、すごいじゃない!!どこの会社なの!」

「三友商事、大船商事、HK銀行だよ。どこも東証一部上場企業」

青年は、あらかじめリハーサルしていたかのように、大企業の名前をよどみなくすらすらと口にする。

「ほんと素晴らしいじゃない!さすが!私の息子ちゃんだわ…!」

「……だろ?」

そういって、青年は電話をぶつ切りにする。

―――本当に気付かないんだな。 気づかないんだろうな。

―――他人なんて、期待するだけ、無駄。

―――無駄か。

青年は自室の床に散らばる白い書類の束を見やった。封書に入っているもの、破かれてコピー用紙の白い肌を露呈しているもの、様々な状態の紙が、これ見よがしに床に散乱していた。

共通点は、すべて、その白地の上に、くっきりとした黒文字で例外なく次の魔法の文面が記載されていたことである。

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

そして極めつけは、最も日付が新しい、青年の前のディスプレイに表示された、メールの文面。

『件名:採用試験結果のお知らせ

 相原愁様

……相原愁様の、今後のより一層のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。』

―――……今後の活躍、ねえ。

いったいどこのステージだろうな、と、相原愁とよばれた青年は思った。

―――だって、俺は、これから。

そう自問して、それから青年は、窓の方を見上げた。 その先には太いロープが天井から吊られていた。

そして、相原愁とよばれた青年は、窓際の方へ行き、これが最後の抵抗だというように分厚い遮光カーテンを大きく開いた。 雨足はだいぶ緩んでいたようで、わずかだが、薄暗かった部屋が少し明るくなった。

これで、シルエット程度なら、うっすらと、外からも内部の様子が見えるようになるだろう。

こんなことして、まるで、誰かの目にとまりたいみたいだな、と愁はぼんやり思った。 そんなことはないはずだと頭では思いつつも、あえてカーテンを閉めなおすことはしなかった。

すこし青年がぼんやりしていると、外の雨足は強くなり、また、部屋が暗くなった。

おそらく、外からはもう部屋の中を見ることができなくなっただろう。

もう、なにかに、期待することなんて、疲れ……たな……。

―――ゼロが一になりかけてやはりゼロに戻った。

―――いいじゃないかそれで。

多分、最後に流れた意識はそんな風なものだったかと思う。

そして、青年はロープに手をかけた。

青年の身体がふっと上がる。

ゴングのように、大きな雷が鳴った。

青年の、時が、止まる。

―――

―1― A

さあ、世界観を説明しよう。

こんなのは小説としては悪手じゃないかって?そんなことはない、なぜならこの世界の延長とはちょっと違うファンタジックでメルヘンで非物質的な精神世界をベースにする物語だからだ。

何言ってるかちょっとわからないって?

つまりな、二重世界なんだ。なあなあ、ちょっとまあ騙されたと思って続きを読んでおくれよ。

降りしきる雨と雷雨が止んだその頃、背中に大きな羽の生えた青年はその部屋へやってきた。

青年は仕事先では「ハル(HAL)」と呼ばれている。本当は別のコードネームがあったような気がするが、あまり使用されることがないので自分で名乗っているこの名前以外はもう忘れた。まあ、くたばってしめえといいつづけていたら本当に構成の名前が二葉亭氏名になってしまった二葉亭氏名という先人もいるし、いいのではないか。

さて、このハルと自称している青年が本日「対象」となる一人暮らしの青年の部屋へやってくるのは、まあつまり、仕事のためである。

仕事仕事っていったい何なんだよ、という感じだが、まあ、急かすこと勿れ、つまり彼は、死したものの魂を天界へ司る『使者』なのだ。カッコイイ。みんな中学校の頃に授業中退屈しながら一度は妄想する奴だ。

少しばかり、はやまった気はしたが、今日の割り振られた「仕事」は、気の進まないものだったのでさっさと済ませてしまいたい案件だった。カッコつきじゃねえよちゃんと仕事だよ、とハルは思っているし、実際スーツを着ていないだけで、仕事の質的にはだいぶサラリーマンっぽい側面のある仕事だ。

死体が死後硬直して死体らしい死体になる前に「スマートに案件を済ます」、それは、彼の仕事的にはあまり褒められたようなことではなかったが、ハルはきっと上司にそのぐらいは大目に見てもらえるだろう、と、楽観的に捉えていた。

そういうわけで、ノートに記載された書類の所定時刻より少しはやめに、一対の大きな羽を持った青年ハルは、その大学生の部屋へ到着した。

ハルは所定の場所にたどり着くと、すぐには部屋に入らず、まずベランダにたって、窓の外から中の様子をうかがった。

部屋はほのかに薄暗いが、不思議なことに遮光カーテンは開いていたので外からも充分中の様子をうかがうことができた。

そこには窓のほうを向いてわかりやすく首をつった滑稽な死体があった。

いや、滑稽などとは言ってはいけない、本人はそれなりに生を全うしようとしたのだろうから。

いや、そんなわけないじゃないか。第一、病歴も何もない健康な22歳が何もないのに死ぬわけがない。じっさい、何もないままだと死なないからこそ、わざわざ「首をつって」死んだのだ。滑稽なものは滑稽だ。

ハルは、そう思うことにした。少なくとも俺にはとても共感できない。共感することがない。

共感は出来ないし、もちろん、同情もしてやる必要はない、とハルはそう思うことにした。

そして、彼は、はあ、と一言、物憂げな様子で小さくため息を漏らし、肩を落とした。

その後、気を入れ替え、姿勢を正し、窓をすり抜けて部屋の中へお邪魔することにした。

相手は死者といっても、ハルら「使者」は、魂そのものと邂逅する立場であるため、生前の意識を保ったそれらの亡骸の意思と、対話が出来ることが多い。もちろん、死者が亡くなった際、あまりの衝撃のあまり魂ごと臥している場合も多いが、この青年は明確な意思を持った自殺であるのだろうから、おそらく、意識はあるだろうなあ、とハルは彼を見上げながら思った。幸い、青年の顔は長い前髪に隠されて見えなかった。

彼になんと声をかけたらいいのか、一瞬考えたが、考え、立ち止まっても、仕事は勝手にすすんではくれないのだから、これ以上深入りするのはよしとしよう。

それにしても、なんとも同年代というのはやりにくいなあ……。感情移入しそうになる。

ハルは柄にもなく神妙な面持ちになって、右手を亡骸の方へ伸ばした。

かの若者の肢体は、まだ血の気がありそうに見えたが、汗の動きを除いて、青年の身体の動きは既に静止している。

ハルは、右手を亡骸の方へ伸ばした。

大学生なんだっけ。

顔はみないようにした。感情移入などしてしまってはたまらない。

魂を亡骸から引っ張り出そうと、その青白い首筋に手が触れさせようとした、その時、ハルは異変に気づいた。

ハルは愕然とした。

ハルの腕は青年の身体に触れることができなかった。

ハルはそのことに驚くとともに、心底安堵した。

生きている者とハルら生死の境界をまたぐ使者は関わることができない。

だからそう、

彼は――。

生きている。

――やったあ。

これで今日分は胸糞悪い仕事から解放される、と。

その時。

天井から吊られた若い肉塊から、青年自身の形をかたどった魂のようなものがぬるっと出てきた。

而して、青年だったものの魂は、ハルの存在に呼応してか、それとも、たまたまそういうタイミングだったからか、いずれにせよ、ハルの喜びをよそに、彼の腕へとずり落ちた。

―2―  A

ハルの予想と反して、先ほどハルの腕にずり落ちてきたその青年の魂は、意識を失った状態だった。
本来の身体から離れ、人ならざる世界を越境する使者であるハルが「触れられるようになって」しまった……ということは、まっとうに考えれば、ちゃんと「死んだ」ということである。ハルは頭ではそう認識した。

使者としてちゃんと仕事をまっとうする意味でなら、ちゃんと目の前でその魂はちゃんと肉体から離別できたのだから、それをちゃんとその瞬間に「死んだ」とみなし、すみやかに天空へかの魂を運送するのが、正しいあり方だろう。ハルはそう思ったが、それはそうとして、せっかくさっきまで生きていた彼がハルの目の前で不可逆の死に至ってしまうということは、ハルにとってはあまり考えたくないことであった。なるべく問題の解決は先送りにしたい、と願ってはいた。

なにせ――。
ハルは目の前の青年の身体を見上げる。

血の気がある、若い青年の肉塊だ。死んでいるようにはとても思えない。
それに、先ほどは気付かず、はやとちりしていたが、よくみれば肉体はかすかに胎動している。心臓も脈も動いている。

少なくとも相原愁という名の青年の身体は、いま、この瞬間は、生きている。

身体はまだ生きているのに、死んだ証であるはずの魂の一部に、彼岸の境界を越境する使者がじかに触れることができてしまう。
まれに、このような状態があるとは上司や先輩から聞いたことがあった。しかし、実際、そのような死と生者のタイムラグに遭遇するのは、ハルにとってはこれが初めてだった。

たとえ、今は生きている身体だったとしても、少し経てば動きを停止する肉体には違いがないのだから、使者は普通にこれを亡き者として扱うことを求められ、このような生死の重なり合いは通常は問題にならないのだという。

ハルも、自身の教育係であった直属の先輩からはそのように聞かされてはいた気がするが、いざ、自分でその現場を目にすると、とてもじゃないけど死人として彼を扱うなんてできそうになかった。

こんなほぼ生きているような状態で、彼岸の向こうまでハルが連れて行くなんて、まるで、俺が殺したみたいじゃないかと思った。
ましてや、青年の魂は最初ちゃんと身体と一体だったわけで、彼の魂を引きずり出してしまったのもハルがつついたせい、みたいじゃないか。
まるでハル自身が全ての元凶の極悪人であるかのようだ、と感じた。
気分が沈む。

ハルはそんなこと認めたくなかった。

とりあえず、問題を先送りにしたかったので、出てきてしまった青年の魂を、壁際のそう遠くないところによせて座らせて、これからどうするか、少し考えることにした。

彼は青年を座らせてから、部屋の中央へ向かい、首をつった青年の身体を見やった。大きな折りたたみ式可変バインダーを取り出し、その中のメモをパラパラめくりながら、適度な距離感で彼を目視しながら、特徴を把握することを心がける。そして、遺骸の状態や気付いた点をこと細やかにメモしていく。
顔は、見えない。
今回は本当は死んでいるわけではないので、遺骸という表記は適切ではないかもしれないが、まあ、問題は、ないだろう。


ーーー

それから数時間たったころだろうか。二十二歳の大学生の青年、相原愁の魂はその部屋の一角で目を覚ました。

―2―  B

ハルはゆっくりメモをとり続けていた。なぜなら、なるべくなら時間を稼ぎたかったからだ。この青年の意識が覚醒するまで判断を保留したかった。まずは、対話だ、対話さえ試みられれば彼を自殺から思いとどまらせることが出来る、とハルは思った。あいにく、初対面の人に心を開いてもらいやすくするための円滑なコミニュケーションには少し心得がある。

時間稼ぎの言い訳として、『思いのほか特筆すべきことが多かった』ということにしよう、と内容を水増しした。実際のところ、死体の損傷部位はほとんどなかったのだが、乾いた汗の痕跡を新たな皺のように扱ったり、ささくれ立った指先の皸(あかぎれ)についてまでわざわざ注記したり、ともかく、考えうるありとあらゆる時間つぶしの方法を考えた。

(後日段ではあるが、あとから冷静になって考えてみると、普段はまともに詳細なんて表記しないのだから、逆に上司に怪しまれやすくなってるかもしれない、と思い至ったが、後の祭りだったし、実際なんともなかったのだから多分これで正解だった。)

そうこうしているうちに、ハルの後ろから、むくりと何かが動く気配がした。
やった。ハルは思った。この相原青年の意識が覚醒したのだろう。ようやく対話を試みれる。

ハルは、手元のバインダーに書きかけの文字列を目で一度確認してから、この書類はきっと使うことがないだろうな、と自信に満ちたノリでうん、と頷いた。
そして、バインダーを静かに閉じた。パタンと小さな音がした。
ハルは振り向いた。

唖然として姿勢悪く座った青年と目があった。

思ったよりあどけなかった。彼が、相原愁君か。部屋や服装の雰囲気から、もっとくたびれた成人男性といった感じだと思っていたけれど、こうみると、子供のような 表情をしているな、とハルは少し意外に感じた。

そして、ハルは、用意していた笑顔で言った。

「はじめまして。でも、もう、さよならかな。気がついてよかった」



青年はぽかんと口を半開きにして、何も答えなかった。想定内だ。
「まあ、びっくりするよな」ハルは気さくに言った。「何せ君はラッキーだ」
相原愁くん、とやらは、なにか勘ぐっている様子だったがハルはとりわけ気には留めなかった。ハルは歩きながら続けた。
「君ホント運良かったなぁー。君の肉体はまだ全然生きててピンピンしている。やり直せるぜ」
目の前の青年は少し怪訝な目で、ぽかんとしたまま瞬きをした。
ハルは構わず持論を続けた。何せこういうプレゼンは自信がある。慣れてるからな。
ハルは喋り続けた。
「これなら魂を戻したらすぐ明日にでも日常生活を送れるぐらい回復できる。なんつーか、俺もこういう奇跡見たことないからびっくりしたし、すごい安心したわー。あ、書類には、「確認したところ生存を確認」とかそういう風に書いといたから。この文面、書いたことなかったからドキドキしちゃったわぁ♡てなわけで、手続き的には大丈夫ちゃんよ」
目の前の青年は憮然とした面持ちのまま何も答えなかった。

ハルは、彼の横に腰を落ち着け、親しげそうな特有の口調で話し始めた。
「書類によるとな、君の自殺理由って、『就職活動に失敗しつづけ、未来に絶望し、絞首自殺』ってあるんだ。そうなの?」
ハルは目を大きくして尋ねた。相原愁という青年はそれには答えなかった。無言のまま遠くのほうへ視線を逸らす。

「まあ、答えたくないのなら、それでいいけど……。それ以外に損傷はなし、っていろいろ不自然なんだよな」といって、ハルは自分の手元のバインダーをめくって、ぱらぱらと書類を眺めた。本来は「対象者」の個人プロファイルが事細かに記されるはずのこのファイルだが、直属の上司は忙しいんだかただ面倒なんだかであまり書き込んでおらず、有益な情報が書いてあることは少ない。ただでさえ、大したことが書いてないこのファイルの中で、とりわけ今回の相原愁くんの情報は薄かった。事前に、彼の人となりを知るのに役に立ちそうな情報なんて、正味一行ぐらい、といったところだ。

とりあえず、嫌われにくいテンプレ的な対応をすすめることにした。ハルは、申し訳なさそうな声を出して、様子を見るかのような台詞を彼は吐いた。

「君はつらかったんだろうけれど、死ぬまではないっていう感じ、っていうか、精神病とかでもなさそうだし、君全然やれそうなんだよね…?なんていうか、できることなら俺は死んでほしくないんだよねえ」

彼は目をそらした。
ハルは、目の前の彼って喋らない割にだいぶ目で語ろうとするから完全な無視でもないんだよなあ、と少し不思議に思っていた。その原因(わけ)をいくつか頭の中で考え始めた頃、彼が口を開いた。

「あなたは死んでほしくないでしょうね」
「何だ君喋れるじゃん」
ハルはすかさず言った。 つい、地が出て、少し早口めな喋りになってしまったかもしれない。
「そうそう、精神病の人特有のどんよりとした感じもないし、ぱっとみ君なら全然やれそうに見えるんだよね……。無理かな?」
相原愁は答えなかった。まあ、そういった反応は想定内だしあまり気にすることもないな、と、特に愁の塩反応を気にする様子もなくハルは続けた。

「なあなあ、何が嫌なのか?」
「……全部だよ」
相原愁は言った。

人間関係、将来のこと、自分の駄目さ具合、クズさ、もろもろ。俺がクズすぎて、誰からも必要とされない、誰からも」
「俺にはそういう風に見えないんだけど?」

ははあ、さてはこの青年、二十二歳という歳の割りに、中高生特有の思春期の自意識過剰になって人の目が気になりすぎてしまうアレを引きずっているというか、必要以上に自尊心が低すぎるな、とハルは思った。そんなことないよ、ということを示すべく、ハルは少し大げさに首をかしげた。

少しわざとらしさすら感じるぐらいにした。
「そりゃ、あんたが俺の本性知らないからだろ」
相原愁は吐き捨てた。 
「あんたは俺の何を知っている?」
「えっ」
そういわれればそうだな、と、ハルはパラパラと手元のバインダーをめくった。

「あんたの知ってるってそういうことなん?」
青年は呆れたような声で、少し嫌味っぽく言った。

あーあーあー、そういう意味じゃないのにな、これだからこういう自尊心が低そうなタイプは、(厄介なんだよな)、とハルは思いかけたが、流石にそれは失礼な感想すぎる、と思いなおして、ぐっとカッコの中の部分の言葉を飲み込んだ。そして表向きには、悪かった、とでもいいたげな風に、誠実そうなふりをする。

「あっすまん、そういう意味じゃ……」

「……」

青年は答えなかった。そしてハルのほうから視線を逸らした。「もう、お前の言うことには応答しない」というジェスチャーだとわかった。

ハルは流石に対応に困り、少しの白けた間があった。

ハルは、「ちょっと最初の対応、見誤ったな…」と思った。上司から天界(むこう)で渡されたレジュメには一行しか彼の情報がなかったから、彼の気質まであらかじめ把握することは叶わなかったが、おそらく、目の前の相原愁という青年は、ただの内向きな青年というよりは、むしろ察しがいいほうなんだろう。
一見、内向的なタイプの青年といっても、彼らの気質は人くくりに出来るものではないことをハルは知っていた。たとえば、この青年のような若くて内向的な重たい色の装いを好むタイプとしては、周りに興味がなく自分の世界が大事で外と関わろうとしないタイプがいる一方、逆に、周りの人を非常に良く見ていて細かなことに気がつき、「するべき」気遣いの種類がぱっと頭に浮かびすぎ……取捨選択をしていくうちに疲弊していく、周りの目を気にしすぎるタイプもいる、といったふうに、実に いろいろな気質の人がいる。

ハルはそのあたり、見誤ったのだと思った。

ハル自身がそうだから思うが、ポジティブな空気を醸成しながら、ただやさしく、お前を気遣っている『風』な空気を装って、やさしげな『風』な言葉を、親しげな『風』に、投げかけてくるやつ、こちらが『ふう』の圧倒的な存在感に気付いて、相手の言うこと為すことがすべてが造り物だとわかってしまったあとは、ただもう、うざい。
だからきっと、目の前の彼からも自分はそうみられているのだろうとハルは思った。
上司、あんたなんでも見渡せるんだろ、なら最初からレジュメに彼の気質とかそういう有用な情報を書いてあらかじめ教えといてくれよ。ほんと使えねえな。

頭の中で小言をつぶやいても現状はなにも変わらない。
すこしの時間、ハルは考えあぐねたが、やっぱ急にキャラかえるべきでもないよな、逆に不自然だもんな、と思い、しかし、それでも違和感のない範囲で多少のキャラチェンジを行うことで彼との対話を試みることにした。

ハルは、と気負ったように喉を鳴らして立ち上がった。
そして、一呼吸おいてから、静かに口を開く。
「確かにな」
少し間をおくのがポイントだ。(キャラを)切り替えた、ということが伝わるだろう。
「知らない、確かに俺、君のこと、なーんにも知らない」
喋り方はさっきのように明るく、たのしげな雰囲気を装いつつ、言った。
「そこで、なーんにもしらないからこそいうけど、君が誰からも必要とされてないなんてこと、嘘だと思うぞ」
「嘘じゃねえよ。何にも知らない奴が何を言うんだよ」
相原愁が割り入った。言葉の端橋から、少々、語気が粗いのがみてとれる。
あ、聞いてくれてるな、とハルは思った。この調子だ。
「そう、俺は何も知らない」
羽根野郎は妙に自信ありげな態度だった。彼は続ける。
「でも、君の生殺与奪権は、いまのところ俺が持ってる」
目の前の青年の表情筋が一瞬引き締まったのが見えた。よしこの調子だ。
ハルは言った。

「だからさ、確かめさせてくれ、俺に。君が本当に君が言うように、誰からも必要とされていないのかどうか」
ハルはさっきのように明るく、たのしげな雰囲気を装った喋り方で、言った。
「そこで、なーんにもしらないからこそいうけど、君が誰からも必要とされてないなんてこと、嘘だと思うぞ」
「嘘じゃねえよ。何にも知らない奴が何を言うんだよ」
間髪入れず、青年が言った。少々、語気が粗い。
それをうけて、「あ、聞いてくれてるな」と、ハルは思った。この調子だ。
「そう、俺は何も知らない」
ハルはわざとらしく言った。そして、ワンテンポ間を開けてから、
「でも、君の生殺与奪権は、いまのところ俺が持ってる」
と続けた。すると、目の前の青年の表情が一瞬引き締まったのが見えた。よしこの調子だ。
ハルは締めくくりに言う。
「だからさ、確かめさせてくれ、俺に。君が本当に君が言うように、誰からも必要とされていないのかどうかを」 
そういって、ハルはにやりとした。それは愁にとっては少し予想外の発言、といたふうだった。
「そんなの……どうやって……」
「時間を止めて、未来を見てみるのさ。君の死後の世界を今から一緒に見にいかないか?」
青年はその言葉を聞き慣れない音の響きと感じたらしい。ふっと、ハルのほうを見上げ、まじまじと眺めた。その視線は張る自身というよりいささか後ろのほうを見ているようだ。

そこで、ハルはこの青年に、世界の条理の一部を大盤振る舞いして教えてあげることにした。まあ、世界の上りだなんて大げさな言葉を使ったけれども、実のところ場所によってはあまりたいしたアイデアでもないというか、各地に偏在する多くの宗教の中で逸話や伝説、書物のなかで「そうなのではないか」と意味深に語られている程度には誰でも思いつくようなことだし、実際そうなのだから、無理に隠し立てする必要もないかなとハルは思った。この程度なら世界の成り立ちに影響するとかしないとか、そんなたいそうなレベルではないし。
そう思って、ハルは目の前の青年に、この世界の条理の一部を説明した。生きているうちにこんな世界の成り立ちにまつわる根幹的な事情を知ることが出来たなんて、神学者宗教学者や宇宙物理学者からしたら垂涎の事態に違いない。

具体的には、ハルは彼に「数日ぐらいなら時間を止め、愁の肉体をこの状態にとどめたまま、愁の死後の未来をみてくるに等しいようなことができるよ」みたいなことをざっくり言った。「見てくるに等しい」という言い回しは、目の前の青年にとってはそのままでは受け入れがたい表現だったらしく、ハルは少し怪訝な目つきで見られたのでもう少し丁寧な説明を試みることにした。

ある人の辿った人生とは、ある時点、ある時点で分岐した選択肢が一つ一つ決定された結果あらわれた一本の道筋であり、その周りには、「その人の人生たりえなかった」無数の選ばれなかった未来の残骸があるのだという。
彼が言うには、厳密に自分の進む未来を知ることは誰にもできないが、自分が将来「進んだかもしれない、あるいは、進まなかったかもしれない未来」を覗くことはできるのだという。無数の道筋自体はいつもそこに在るから、それがさほど遠くない、近い未来であれば、少々の道筋は覗くことはできるのだ、と。
この方法ならば、本来進むべき未来自体は傷つかないし、そのまま、いまこの時間まで戻ってこれるのだという。

そして、それはほぼほぼ、その人の未来を覗き見たと同義ととらえていいのじゃないか、と。
しかし、実際に、その人物がその人生の道筋の組み合わせを「どう選択したか」は、実際にその時が経過した後になってみないとわからないのだという。

目の前の青年は、いまいち飲み込めていないようだった。こんなのすっと飲み込めるのは神学者化アーティストぐらいのもんだろう。
愁はこんがらがってきているようだった。

「まあつまり、数日後ぐらいの未来ぐらいまでなら見れるぜ、ってことさ」
「数日……」
目の前の青年があっけにとられたように呟いた。ハルは続ける。
「数日分あればさ、葬式の時のご親戚とかさ、その後の大学の友人さんのぽっかりとした喪失感とかさ、そういうの、ひととおりみてみてさ。俺、仕事柄そういうのよく見るけど、……あれ見たら死ぬ気なくなるぜ、ホント」
ハルは親しみを込めた口調で静かに話した。ここばっかりは割りと素に近い率直な感情表現だったのだが、目の前の青年にどう映っていたかはわからない。
「全部お前の都合のいい妄想だな。俺のこと悲しむ奴なんていないから」
「それならそうでかまわない」 
ハルは言い切った。そこからも青年は、口先では多少否定をしていたのだけれど、ハルはあまり真に受け「実際見てみれば」と適度に受け流した。言葉上の意味合いがどうであれ、青年がちゃんと喋って返答しているからには、この一連の話のどこかにフックはあったんだろうなと思ったからだ。
そして最後に、ハルは、
「君だってせっかくなら死ぬ前に答え合わせしてから、心置きなく、死にたいだろ?」
と、多少厭味ったらしく言ってみた。我ながら強引な理屈だなとは思うが、筋は通したぞ。
目の前の意固地な青年、相原愁君はどうやら諦めてくれたらしい。少し口調が砕けてきた。
「ずりーぞ、その理屈」
「決まりだな」

ハルは軽く笑った。何て強引な奴だ、とでも思われてるだろう。勝手に思ってろ。
青年はやれやれといった調子で渋々立ち上がる動作をした。それを合図に、ハルはそれを待っていましたといわんばかりに、彼の肩をぐいと引き寄せる。

実はこの動作にはちょっとした意味がある。

使者の仕事を司るハルは、自身に許された多少の権限の範囲内であれば自在に時空を行き来できるのだが、ほんらい、死者の魂などはそうではない。しかし、ハルら使者がそれら魂の一部に触れることで、ハルらに時空の移動を許諾する『世界の条理』は、その触れられた対象者の魂もハルの身体と同じように誤認するらしいということが判っている。

つまり、ハルの身体が自在に時空を超えられるように、ハルが手を放しさえしなければ、掴んだ対象者の魂も同じく、ちょっとした空間移動や多少の過去や未来へ行き来できるようにをなるのだ。
ちなみに、このちょっとした時空間の移動のことをハルは勝手に時空跳躍(ディメンション・トランス)と呼んでいる。『中二』って呼ぶな。たぶん間違ってはいない。
だからハルは、うっかり手を外して彼の魂を時空の迷子にしないよう、愁の肩をぎっちり握った。意図的な少し強めのグリップだったが、ちょっと力を入れすぎた気がした、痛かったようなら申し訳ない。
ハルは脳内でそっと『監視者』に合図をした。次の瞬間、あたりが白い光に包まれた。――

―よし、時空跳躍(ディメンション・トランス)、開始―

※『監視者』世界の条理を司るもの、側の下位権限を司る役職の一部 のひとたち ざっくりいうと『上司』らへんの部類のひと たぶん人間だったことはない

―3―

青い空の中――。ハルと愁はある時空の空を浮遊していた。

見下ろす景色は東京都。遠くのビル群。まるでテーマパークのミニチュアの街並みを上から見下ろしているかのようだ。そして、時折混じる整備された公園。ビル群。ビル。

ビル群の景色は彼らの移動に応じて、徐々に変化していった。最初は高層ビルが多かったなか、時折整備された公園がビル群の中にぽつぽつと混じるようになった。

相原愁は呟いた。
「これが俺の死んだ後の世界……」

景色はどんどん変わっていく。その移り変わりの速さから、ハルらの飛翔速度の速さが物語られる。ビルの高さがどんどん低く平たんになって行き、壁面の色は都会的な黒から赤茶けた灰色に移り変わっていく。そして、整備されていない黄みがかった緑が増えていった。

ハルは少し飛翔のスピードが緩め、高度を下げた。通り沿いの歓楽街やあまり高くない雑居ビル群らが愁の目からも見渡せるようになっていく。
「何も変わらないな……何も」
と、愁は言った。
そんな彼をよそに、ハルは穏やかに、自身ありげに、静かに言う。
「変わるさ。賭けてもいい」

視界が開けて、ビルの高さが大分低くなった。
そして、ハルはまた一段と飛行速度を落とす。目的は一つの建物だ。徐々に高度も下がり、ビル群が大分近づいていく。 その一つの建築物の内に、ハルは愁を連れて入っていった。

―4―

その建物は病院だった。

ハルらは霊安室へ向かった。なんとなくだが勘で場所の見当がつく。悲しいかな、この職業についたこの二年間で、人間の遺体がある場所の見当がつくようになってしまった。そんな特技、べつだん身につけたくはなかったのだけれど。

そうこうしているうち二人は霊安室に入った。そして、ハルは愁を掴んで飛び上がり、天井近くの梁のようなものに腰をかけた。

霊安室には、若い遺体が安置されていた。相原愁くんの肉体だ。さっき部屋でみたそれそのものではあるが、それから一日弱ほど経過している。横たわる彼の肌は白く、瑪瑙のような硬質な印象を与えた。ハルの隣にいる「いきているほうの」その青年とはちょっと雰囲気が違う。そうそう、死ぬと、人間っていつも物体になるんだよな。率直に言えばハルはあまり誠実ではない感想を抱いた。死後硬直したそれをみると、いつも、不思議なものをみる気持ちになる。レーニンは蝋人形になり、旅の途中でシルクロードの一面の砂漠のなかに埋葬された稚児は風化を免れた人形のようなミイラになったが、今の目の前の、「愁だったはずの白い人形」の印象も、似たような感想を抱かせる。えっと、何でこんなこと考えてるんだっけ。

と、気を取り直して部屋と、そこにいる人たち様子を見渡す。そこにもあまり生の実感はなく、まるでミニチュアの部屋に配置した人形たちを上から眺めている気分だ。

つまりいうところの霊安室には、壮年の男性といくぶんか若く、美しい姿かたちの女性、そして白衣の若い医療従事者がいた。おおかた、愁の父親、母親と、看取った担当医といったところだろう。

ハルが横の愁をちらりと見ると、彼は―やはりよく知った人物なのだろう―眉をひそめて彼らを眺めていた。多分当たってると思う。

母親らしき女性は、ベッドの亡骸の前で嗚咽し、父親らしき男性は少し離れたところで若い医師を詰問していた。

ハルは、隣の愁に、彼らの様子を見るように促した。

「ほらみろ、ご両親もあんなに悲しんで」

「だから?」

愁の返答は冷たかった。ハルは若干気おされ気味に答える。

「だから近づいて行ってさ……」

「俺はいい」

「……」

「俺はいい、つってんだろ」

「……」

思いのほか愁の口調がきつい断定口調だったため、ハルはなんと返していいものか、少し返答に迷っていた。

それからも多少の勧誘は試みたものの、青年はどうしても下にいる彼らの会話の詳細を耳にしたくないようで、まったく譲るところがなかった。ハルは彼への説得は早々に諦めた。

そして、一人で様子を見にいくことにした。

ハルは、その大きな羽をはためかせて霊安室の床へ舞い降り、愁の父親たちのすぐ後ろに降り立った。

ここからだと、若い医者と愁の父親がもみ合っている様子が間近でよく見えるし、さらに、話している言葉も良く聞き取ることができる。

そして、ハルはそのときようやく気付いたのだ。彼らはもみ合っているというよりは、細身の医者が父親から一方的につかみかかられて詰問されていたのだということを。

医者はすごい剣幕で愁の父親から詰め寄られていた。半ばのけぞりながら肩をがっしりつかみかかられ、「息子を返せ!」と、理不尽な理由で怒鳴られていた。

「お父さん、お気持ちお察ししますが、おちついておちついて」と、まだ若い青年医師はあたりさわりのない言葉で父親をなだめようとしていた。彼は、まだ研修医ぐらいの若さであろうか。もうすこし、いっているのだろうか。ともかく、目の前の問題にどう対処するのがベストなのかがわからずに、ただ困惑し手間取っているようだった。責任をとります、と口先だけで約束するほど軽率ではなく、かといって、なあなあで受け流すほど逃げ腰でもなく、なんとか誠実な態度を維持しながらその場をやり過ごす最善策を模索しているのが、ハルにもよくわかった。つまり若いのだ。何でわかったのかといえば、ハルも同じくらい若いからだ。

あいにく上司には困らされている。

さておき。

ハルの理解を超えていたのはもう一人のほうだ。

愁の父親と称していた男性は、愁の亡骸のベッドの横で、金の話をしていた。

「息子にいくら投資したと思ってるんだ一千万だぞ一千万!それが今回のでパーだ一千万が」

ハルはちょっと驚いた。いや、割と結構驚いた。この仕事を始めてから、人の死に際に遭遇することは多々あれど、ハルがであうのは人の死体現場だけだったから、他人の家庭環境をこのような形で垣間見ることはあまりなかった。TVドラマのなかではよく見かける光景ではあったが、あれは過剰演出された世界なんだろうと思っていた。確かに周りにも家庭が辛いとこぼす友人はいたが、せいぜい学生時代の友達とカフェテリアで駄弁っていた時に噂に伝え聞く程度だったから、こういった話には全然リアリティを感じられなかった。

目の前の壮年男性の言い分は、「息子を育てるのにお金がかかった、しかし、何の芽も出す前に死んでしまってはその出費が無駄だった。無駄だ勿体ない金を返せ!」ということらしい。ハルには滑稽を通り越して、何を言っているのか良くわからなかった。リアリティがなかった。お金と人間が等価値だなんてアイデアはハルの発想を超えていた。そんなに金が惜しいならそもそも何で子供作ろうと思ったんだ……。

彼の声は大きく、もしかしたら天井付近から眺めている愁のほうへも聞こえてしまっているのかもしれない。その場合、対象の青年はどういった反応をするのだろう、とハルは思った。うちの父親じゃちょっと言いそうにないからちょっと想像もつかない。

ふと、ハルは愁のほうを見上げた。目が合った……様な気がしたけれど、よくわからない。愁はさっきと同じような何事もなかったかのような見透かした表情をしていた、と思う。よけい、よくわからない……。


さらに先ほどまで泣いていた女性――たぶん母親だろう、息子の年齢の割には若くて美しい――が、ふと思い出したように顔をあげてつぶやいた。
 「そうよ」

そして、青年の死体にすすり泣きながら抱き着いた。

「違うのよ、愁ちゃんは、お金なんかじゃないの。 だって、こんなにいい子で、真面目でいい大学に入ってくれたのに、なんで……」 

そこですか、おかーさーん。

ハルは思わず漫才のように突っ込みそうになった。そうでもしないと、こんな状況素直に飲み込めなんてしやしない。


ペットかよ。と、ハルは思った。この対象の青年=相原愁くんはこれを見てどう思っているんだろう?と、ふと上を見上げると、すべてを見透かしたように、病院のカーテンレールに腰かけた彼がハルの方を見下ろした。めずらしく、しっかり目が合った。そして、彼は、足を組みなおしながら口を開いた。

音は聞こえないが、「だから、いかないといった」と愁は言ったらしい。

ハルはもういちど、下に視線を戻し、目をぱちくりさせてから、首を回して、周りを見た。

男性の怒号が無機質な白い室内に響く。

「いったいいくらの損失だと」

「お、お父さん、ね、落ち着いてください……」

「うるさい!どうにかしろ!責任とれ」

「ぐすっ、愁ちゃああん…」

「お辛いでしょうけど……ねっ、ねっ…!」

ハルのすぐ近くでは、相原愁くんの父親であるはずの壮年の男性は声を荒げて何も落ち度のない青年医者を暴言で詰問し、その横で、そんな彼を咎めることもなく、相原愁の母親であろう女性はただ、ベッドの上の亡骸を抱いて泣いている。どう見てもおかしいのだが、互いに干渉したり注意するそぶりも見せないバラバラな人間たちの集まりを、ハルはどうとらえていいかわからなかった。これが家族というものなのだろうか。こういうケースはまだ見たことがなかったから、どのぐらい奇特なケースなのかがわからない。ハルは自分の仕事人としての未熟さを少し恥じた。

ハルはしばらく呆然とその様子を眺めていたが、一向に進展しないその様子になんとも言い難いものを感じ始めた。そして、ある時から観念して俯き、『こりゃどうしようもないな』と、かすかに首を横に振りながら半ば自嘲的に笑い、飽きれて愁のいるカーテンレールへ舞い戻った。

ハルが隣に座ったのを察した後、愁はあきれたように口を開く。

「ほらな、見栄ばかりだろ。あんた、まるでそんな親がいるだなんて。知らなかったみたいだな」

「……」

そういう反応だろうな、と愁は思った。思った通りだ。そして、愁はちょっと皮肉っぽくわざとらしく勿体つけてゆっくり喋った。

「というわけで、俺は死ぬべきだ」

「いや……な……? まだ決めつけるのは早いぜ……」

ハルは愁の肩にを置いた。優位に立つ人間の、余裕のある人間特有の仕草だ。しかし、実のところ無理があったのはわかっていた。ハルは明確に憔悴している。

「自分の葬式見てからでも同じこと言えるか?涙にむせぶ友達さん」

「よゆーだよ、第一……」

愁は寂しげに言い捨てた。

「どうせ、あいつら、こないし」

その表情は少し寂しそうだったが、しかしながら、同時にかすかな希望も有しているのをハルは察した。じっさい、ハルが愁の肩を掴んだ腕を軽く揺すろうとと、たやすく動かせるぐらい愁の魂は軽かった。

ということで、この事実から、愁の言葉はともかく、ハルは愁の同意を得たものと認識した。

ハルは、また「次の説得場所」へと愁を連れて向かうため、時空を超越をする用意をした。


白い光が、また満ちる―――
そして、白い光が、また満ちる―――。

―5―

時系列でいうところの翌日に時空跳躍をしたハルは、即座に、愁を連れてとある葬儀場のセレモニーホールに向かった。経験上、ハルが見てきた中では、今回のホールは若い青年を追悼する場所としては、そこそこ立派で広いほうなんじゃないかと思う。この歳でこんな方向性の鑑識眼を得たいとなんて思っていなかったし、妙な方向に経験を積んでしまった、とハルは思う。

白を基調とした、清潔感のある祭壇の下に、青年の安置されているあろう棺があり、周囲には色とりどりの花が飾られていた。もちろん、遺影もある。笑顔だけみると好青年のようだった。白い歯を見せたこの青年が、隣にいるむすっとした青年と同一人物とはなかなか思えない。Photoshopでもかけたのだろうか。若いころなのだろうか、むりくり着たようなスーツと、その襟から覗く真っ白なしわ一つないワイシャツがあまり似あっていない。

参列者はもう室内に入っている頃合だった。参列者の人数は数十人と、人望がなく自殺したとレジュメに記されているような青年の葬儀には似つかわしくない規模じゃないか、とハル思ったが、参列者の年齢層は愁の友人とはかけ離れているであろう、五~六十代の顔つきの人が多く、妙だとも思った。

そんな中、葬儀が始まった。
静かなクラシックがスピーカーから流れる中、喪主の愁の父親がマイクを手に取る。

「えー、みなさん、本日はお越しいただきどうもありがとうございます。えー、……息子は生まれながらにして、重い病に侵されていましたが、公にはそれを隠して、短い人生を一生懸命に生きてきました」

えっ。ハルは声にならない声で唸った。
ハルの動揺をよそに、喪主の声は続く。
「そんな息子は生まれてきたことを後悔していないと、死ぬ間際で私たちに感謝してくれて、そして私たちもそれを……」
淡々と…しているような、感動げな何かの演出を装っているような、もはや吐き気を催すようなその音の響きは、ハルから一抹の感情と結論を導き出した。
「あれ、嘘だよね」
ハルは、静かに愁に確認をした。
「ああ」
愁はうなずいた。
「そうだよ あいつら、いつもああさ。 自分たちを演出するツールとしてしか、俺のことを見てない」
「あ……」

ハルは困惑して言葉に詰まり、愁から視線をそらしてあさっての方向を見る。
手ごわいな、と、ハルは思った。

隣の愁は葬儀の様子を見下ろしているらしかった。やれやれといった風な仕草をしているものの、その目線は興味深げだ。誰か知り合いを探しているのだろうか。

そのような雑感を抱いてから、ふと、妙な話だ、とハルは思った。 普通、葬儀に来ている人は知り合いのはずだろう。しかし、下に集まっている人々の年齢層を見渡して、ハルは考える、この場

合は、もしかして……。横をちらりと見た。ああ、この青年は、知らない人間、すなわち、たとえばまるで大交差点を行きかう有象無象の通行人を建物の二階から見下ろしている時の眼をしていると思った。

ハルは再び前を向き、青年がみているものと同じ空間を見ようとする。そこには白髪交じりの壮年の黒服の男女の姿で満ちていた、ああ。間違いない。俺の推測は多分正しいのだろう。

そう思った矢先、その人の集団の中に、すらっとした、喪服に着られている茶髪の人影が数名現れた。ああ、若い。


「あれ、友達さんじゃないかな……?」
ハルの口をついて言葉が出た。

彼らは決して目立つ外見はしていない、ごく普通の若い青年たちだったが、かったが、ただ、若くて普通の青年ら、というだけで、この集団の中ではひときわ目立つ。
本来は、愁の葬儀に来る人がいるとしたら、こういった若者が多いはずなのだ。

愁は彼らの姿を認めると、みるみる目を見開いた。ハルの推測は正解であったようだった。よかった。友達いるじゃん。

ハルは愁がこの世界で一人出なかったことに安堵すると共に、愁への自殺を食い止める説得をするための足がかりをつかめたということに対してもほっとした。仕事人としては正しいが、一個人の人間として抱いた感情としては最低だ。

彼らは焼香台の前に立って、すすり泣きをしていた。そりゃ葬儀場なんて慣れちゃいないだろう、それを証明するかのように動作がぎこちない。焼香の手順が見事に間違っている。
そう、自然な感想を抱いてから、俺も彼らと歳変わらないんだけど。ギターのピックのもち手が間違っているとか、そういうノリで、焼香の作法の正誤を一瞬で見分けられるような人間にはなりたくはなかったな、とハルは自戒した。自戒しても意味ねーけど。

ハルは横の愁の様子をみた。彼は、驚いた後、すこし何か悪いことをしたかのように恥じているようだった。そうだ、自殺は悪いことだ、ようやく分かったか。その調子だ。

ハルは悪魔ごっこと脳内で自称して、愁の耳元で悪魔らしくささやいた。
「ほらな、来たじゃん。悲しんでんじゃん」
「どうせ、空気に流されているだけだろ」
ハルはにやっと笑った。
「そうかな……?」
愁はむすっとした。が、本心では彼らのことを気にかけている、そして、愁の死後の彼らの様子が気になるのだろうと思った。

ハルは、愁の心配を汲み、その、期待に応じようと思った。彼の見たいものを見せてみようと思い、試しに明日に行ってみようと提案した。今度はちゃんと普通の笑顔だ。

愁は目を合わせなかったが、かすかに頷いたような気はした。それを合図とすることにした。
ハルは愁の服を掴み、そして、また翌日の昼頃へ時空跳躍させた――。

―6―

昼だった。
昼だった。

ハルは愁を連れて、愁の通う都内の私立大学のキャンパスの一角に飛んだ。そして、一階のカフェテリアの端のほう、掲示板の前に着地する。

2限が終わったあたりだろうか。先ほどの若者三人が軽食をもって空いているテーブルについた。何か談笑しているようだが、といっても、他の集団に比べた、だいぶ落ち着いている。無理やり

笑おうとしているのか、笑い方は普段より大分ぎこちなかった。無理して笑っているのが部屋の端にいるハルたちから見ても十分伺い知れた。

ハルがみたところ、ところどころ聞こえる単語から察するに、彼らの話題は、先日の愁の話題とはとりわけ関係ない、日常の講義の話、とかそういうさわりのない話をしているようだった。つまり天気の話みたいなものである。

ハルは愁の方へ目をやった。彼は目線を合わせてくなかった。仕方なく、視線を前方に戻してカフェテリアの様子を眺める。

先日、愁くんのお通夜に顔を見せたのは、大学生の青年三人組だった。目の前の長テーブルの一端に居る彼らである。
外見的特長でいえば、ごく平均的な身長の茶髪に染めた今風の青年、小柄な眼鏡にポロシャツの青年、大柄なゆるいスウェットにサンダルの青年といったところか。
その中の眼鏡の青年がぎこちなく食べ物の包装に手を付けようとしていた所、同じゼミの女子たちが談笑しながら、カフェテリアへ入ってきた。彼女らも愁の知り合いなんだろうか?

そういった詳細についてはハルは何も知らなかった。何せ、相原愁の人格形成について、一行しか書いてないのだ、このレジュメ。こんな雑な所業が神の仕業とは到底思えない。ハルは上司のやっつけな仕事に呆れる。

女の子たちは、二人組みで、割とどちらも可愛かった。
彼女らは、カフェテリアの一角の松森らに気づくなり、「おはよー」と挨拶をしてから大きく手を振り、三人の近くへやってきた。そして、青年たちに一言声をかけ、男子学生の一人が頷くと、ちょうど空いていた隣の席についた。割といつものことなのだろう。

女の子たちは、愁が亡くなったことはしらなそうだった。女子の一人、茶髪のミディアムロングヘアを軽く巻いているほうの子が不思議そうに、「ゼミのグループ課題なのに、今日は相原君いないの?」と訊いていた。男子大学生たちは、返答に窮して気まずそうだった。特に、眼鏡の小柄な青年は、表情を隠そうともせず、困惑していた。
リーダー格なのだろうか、茶髪の青年が、笑顔で分け入って入る。
「あいつ、欝でさー」
「あららー」
「ま、ほら、あいつ就活、大変そうだったし?」
女子たちは愛想よくうなずいた。その様子をみて、ハルは、あまり愁には関心が無さそうだな、と思った。
女子たちが会話に参加することで、愁のゼミ仲間であろう他の男子学生たちの空気が少し軽くなった。よく言えば日常に戻った、悪く言えばいったん愁のことを意識から外した、というところだろうか。

先ほど間をとりもった茶髪の青年が、説明した。
「よりによって、大手の商社ばかり受けててさー」
「えー商社―? それはちょっと」
女の子は無邪気に無邪気に引き笑いをした。ああ、この女の子は本当に愁のことはどうでもいい対象なんだな、そういう子居るわ、とハルは思った。彼女は隣の青年との間合いが妙に近かった。
そのうち、対面しているもう一人のスウェットの青年が初めて口を開いた。
「だよなー、俺もそりゃ高望みだって言ったんだけどなー。だってあいつ暗いじゃん」
彼の口調はすこしスローペースで、落ち着いていた。ダウナーだったといってもいい。そして、そんなダウナーな彼から暗いと判を押された相原愁という青年の心中を、ハルは少々案じた。
「そーそ」
さらに、もう一人の女子も参戦した。いくぶんか髪が短めの彼女は、目の前の会話の内容にはたいして興味なさげに、ストローで紙コップの中の氷をかき混ぜながら、うんうん小さく頷いていた。

スウェット君を除いた男子側の二人が、「あいつこんな感じだよな、おどおどしてて」と肩をすくめ、その様子を再現しようとし、それをみて、茶髪の女子は 「わっかるー!」 女子は手を叩いて同意した。
まるで、程度の低いいじめのようだな、とハルは思った。
ハルの隣で、愁が落胆していくのが感じられた。

目の前の茶番劇は続く。
茶髪の青年が、
「お前ら、ひっでーな。鬱で休学中の人間に対してー」
と、笑いながらいうと、
「ひどくないですーぅ!」
と、可愛らしい語尾で茶髪の女子が音声を発する。そしてもう一人の女子がとどめの一撃を刺した。
「むしろ来なくなって良かったじゃない。お荷物が減ってさ?」
女子の感想はこれでもいいかもしれないが、ハルが気になったのは、昨日葬式に来ていた青年らの反応のほうである。
この、彼女の発言を聞いても、彼らは訂正もせず、「ひっでー」と笑いながら受け流していた。
そんなに目の前の空気が大事か、それとも、それぐらい、愁のことはほんとうは「どうでもよかった」のか。

女子の一人が、「本人の前では言えないくせに」と、冗談めかした声で小突くと、眼鏡の小柄な青年が「あっはは」と気の抜けた小さな笑いで肯定した。そして、つられたかのように茶髪も同調して嗤った。おとなしいスウェットでさえ肯定した。

ハルは、自分の隣にいる愁がこのやりとりを目の当たりにして、何を感じ、どう思ったのかを知るのが少し怖いとさえ思った。とても、愁の顔は見れなかった。

愁のゼミ仲間の笑い声と女子の良く響く高い声が混ざったまま、昼前の空気の中にこだまする。その後も何か話し続けていたようだが、昼休みになって、人が増えてきたカフェテリアの人混みのノイズにかき消されて聞き取りづらくなっていった。

ハルが唖然としてぼんやりとしていると、愁が急にくるりと後ろを向いて歩き出した。彼は踵を返し、カフェテリアの外へ向かおうとしていた。しかし、ハルには、今の彼にかけるべき言葉が見つからない。ましてや、彼を止められるほどの説得力のある言い訳なんて、なおさらだ。

そうこうしているうち、彼は、おそらく目論見通り、カフェテリアのある建物の外へ出、キャンパスの門を通り過ぎ、駅のほうへ向かっていった。

ハルは少しはなれたところから、無言で愁を追いかけた。

―7―

ハルが門を出たころには、愁の姿は既に見当たらなかった。いったい、彼はどこに向かったのだろう。青年の下宿から大学までは、だいぶ距離があるから、家に帰る、というわけではないと思った。普段は電車を使って通学していたはずだ。

ひとまず、ハルは空へ飛びあがり、俯瞰的視点から愁の姿を探した。愁の姿はすぐに見つかった。正門から外へ出て、川伝いに駅の方角へ向かっているようだった。

愁はだいぶ速足で歩いていく。


ハルは、低空飛行で彼の方へ向かった。そのまま後ろからひっそりと彼の様子を追いかけることは不可能ではなかったが、あまりそうする意味を見いだせなかったので、大きな羽音を隠しもせずバサッと大きな音を立てながら、彼の斜め後ろに並び立った。愁はハルの羽音には気づいているはずである。

しかし、愁は止まらない。

声をかけようにも、愁はぶつぶつと独り言をつぶやいている。

仕方ないので、ハルは愁の斜め後ろから歩いて彼についていくことにした。

そのうち、愁の歩くペースが少し落ち、独り言のボリュームが大きくなり、心なしか聞きやすくなったような気がした。

愁は言う。

「俺、妙に身体強いから、睡眠薬は吐いちゃって効かないんだよな……。しかも、今回も駄目だということは」

「だったら」とハルは割り込んだ。 

しかし、愁はハルの問いかけには答えない。会話を引き継がないで、独り言を続ける。

「次回の自殺方法としては、電車とか」 

「痛いよ……? 手足もげて、内臓飛び出て、ぐっちゃーーーって」

「独り言だよ」

愁が答えた。ようやくコミニュケーションをとる意思を示してくれた、骨が折れるぜ。ハルは思った。

ハルは、そんな内面は悟らせないように、あくまで親しげに言う。

「ははっ、それにしちゃずいぶんとでかい独り言だな」

愁は立ち止まって振り向いた。

「てか、なんで、ついてくるんだよ」

「仕事だからな」

「だったら、職務まっとうしてさっさと死なせてくれよ」

「やんねー」

「仕事だろ?」

「じゃあ、仕事じゃなくていいわ」

ハルは軽い調子を装って愁の受け答えを流した。

愁は、「なんだこいつ」というような不服げな表情をした。ハルは見えないふりをして、「だからさー」と、緊張感のない口調で引き続き説得を試みたが、それ以降は彼からは無視をされてしまった。まあいいんだけどさ。 

道なりにどんどん進んでいく愁の後ろを、ハルは一定の間隔をあけて付いていった。 

あるとき、道のわきに、大音量でラジオを流したままの車が止まっていた。愁はそれを一瞥するなり、たいして気にもかけない様子でその横を通り過ぎたが、ハルは曲が気になってしまった。おおかた、今週のニューチャートを紹介するFMラジオといったところだろうが、もしかしたら昔の楽曲やマイナーなインディー曲を発掘して紹介するマニアックなタイプのラジオなのかもしれない。音質が潰れていて、バージョンには確証は取れなかったが、その楽曲は、ハルが忘れるはずのない、よく見知ったあの曲だった。その楽曲は、今ちょうどボーカルのない間奏部分を演奏している。一応メロディらしきメロディが出てくるところまで確認したい、と、ついその場で待ち続けてしまうハルだったが、ふと、別の車のクラクションを耳にして目を覚ました。周りを見遣ると愁を見失ってしまったことに気づき、行く当てもないまま、あわてて飛び去った。とりあえず、上空から俯瞰的に眺めればおおむね見つけられるだろう、というのがモットーである。

結局メロディーの部分までは聴けず、この楽曲がどのバージョンなのかはよくわからなかった。

―8―

ハルは、本人が予測していたよりも長い間、青年の姿を見失っていた。ようやく見つけた頃には、さっきまで高かった陽が、今はだいぶ傾いていた。

たしかに、ハルは飛びあがって空から人の流れを俯瞰的に探すことが可能だったし、それだけではなく、さらに、世界を俯瞰的視点で見渡すための、いわゆる望遠レンズのような水晶玉といった便利グッズすら持ち物のラインナップとして揃えてはいた。しかし、どんな便利グッズであったとしても、結局のところ、それを判断して使うのは他でもないハル自身であるわけで、青年のいる場所のアタリがついていない以上、探索面ではあまり役に立ちはしなかった。

そもそも、世界を見通せる水晶玉といっても、人々のプライバシーに配慮するためか、ハルには高解像度で眺める権限がなかった。ハルが自分がいる場所以外に関して透視できるのは、人がいるかも?というのがうっすらわかる程度の情報しかない代物であったわけである。

迷子探しには神通力みたいな単機能グッズなんかより、GPSのほうがよっぽど役に立つ。と、ハルは脳内でぼやいた。

さておき、ハルが青年=相原愁を見つけたころ、青年は先ほどの位置からだいぶ南西の方、原宿の大通りのあたりまで来ていた。愁の自宅の学生マンションの方へ向かっているのだとハルはわかった。マジで歩いて帰るつもりなのか。その根性と頑固さを別の方向にいかせないのか。ハルは少々呆れた。

彼は街中にある庭園を横切っている途中だった。確か、東郷平八郎を記念した公園だったっけか。うろ覚えだが、ランドマーク的な施設や歴史にちなんだ建物は何度もみていると覚えてしまう。青年は、あまり周りの景観には関心がなさそうな様子で、いそいそと前に進んでいるところだった。

ハルは羽音を立てた。

――バサッ

そして、青年の後方斜め上空からふわりと降り立った。愁の後ろからとりあえず「ごめん」と声をかけたが、彼は振り向かない。
「あ、でもよかった、みつかって……」

ハルは遠慮がちな声で続けた。いったいいつまで茶番を続けるつもりなんだ俺は、とは少々思ったものの、まあ、「みつかって嬉しかった」というのは事実である。ほんとうは「みつかって助かった……」という感じではあるが。

青年が立ち止まって振り向く。

「俺が川底に沈むとでも思った?」

開口一番それかよ。構ってちゃんにもほどがあるな、……たしかに、現実社会でうまくやっていくのは大変そうだ、という無粋な感想がハルの脳内で一瞬よぎった。

まあ、ともあれ、ハル自身の身体は反射的に会話を続けている。

「あ……いや」

「あいにく俺は泳げる」

青年は庭園の内部にある池の方へ視線をやった。

「水に浸かったら理性がマヒして岸に向かってしまうだろうな」

「それって本当は死にたく……」

「――……」

青年はまた答えなかった。そして、口をつぐんだまま前へ進む。

「はぁ」と、ハルは彼の後方でわざとらしいため息をついてやった。やれやれ、と言った風に。その嫌みはちゃんと通じているんだろうか。だって俺と年齢あまり変わらないじゃん、その幼さは何だよ、とハルは呆れた。

「そんなに急いで帰らなくてもいいんじゃないかな?」

ハルは声をかけた。青年が不機嫌そうに呼応する。

「……なぜ?」

「だってその、君は戻ったら……その」

「するよ。 今度はもっと確実な方法で」

「だーから。 それはーあ」

ハルはオーバーリアクションをしてみた。

「あんたに何がわかる」

青年が言った。

「俺にはあんたと違って、何もない。俺がつまらない人間だから」

そんなことを力説されてもなあ……。と、ハルは思った。

「シューカツ、何社受けたと思う?」

その問いかけは、ハルにとっては困った質問だった。なぜなら、たぶん彼と俺は同年代なのだろうけれども、ハルは『就活をしてこなかった』からだ。就職活動をせずとも、その先の道は明確だったし、周りの同級生が進路とか就職で悩んだりスーツを着たりESを書いたり面接対策をしている間、ハルはひたすら自分の技能を邁進することだけを考えていた。当時の俺は俺なりにリスクをとって頑張っていたと思うので、自分だけを特別だとは決して考えたくはないが、とはいえ、今思い返せばハルは彼らを尻目に見ていた面も否定はできないかもしれない。

そんな春だったので、いま彼の前で下手なことを適当に言うと、本当の意味で、心の底から彼の神経を逆なでしてしまうだろうなと思った。今までのは、「ただのうざいキャラ」で許されるとこだろうけれども、これはちょっと許されない。

ハルが返答に迷っているのを見て、すかさず青年が言った。

「二十四社。全落ち」

「履歴書で君のことなんてわからないよ」

ハルは反射的に青年を肯定しようとした。功は奏さなかったらしい。青年は言った。

「……エントリーだけなら九十いった。面接はどこでも笑顔だった。でも落ちるんだよ、全部」

ああ、ミスをしたと、ハルは思った。

その後、青年は歩道を歩くのをやめ、唐突に車道に出た。いったい何が目的なのだろう。

「プライドなんてない。中小もいっぱい受けた。ていうか、ほとんど中小だ」

「それでも、どこからもいらないって……祈られた」

青年は交通量の多い道路の真ん中に立って、大きく手を広げた。まるで轢かれたいというようなジェスチャーのように感じた。数十メートル先から、トラックが青年の方へ向かってやってこようとしているのがハルには見えたが、青年は、その場所から大きく手を広げたまま動かない。

ハルは歩道からは出ずに、愁に向かって言った。距離があるので、必然的に叫んだようになる。

「まだまだこれからじゃないか。いい仕事が決まらなくたって! なにも死ぬことはない! この人たちだって、皆が皆あ!」

愁はハルのいる歩道の方へ振り向いて言った。

「俺にはそんな選択肢ないんだよ」

「でも、死ぬよりマシだろ!」

「正社員で就職しないと親が許さないから」

「……本当に親がか?」

ハルは少し皮肉っぽく言った。

愁の前方から来たトラックは、もう、愁の目の前まで到達していた。愁はそのまま立って、前方を向いたまま、いかにもここにいるぞという風に手を大きく広げながら、微動だにせず、トラックに「轢かれる」のを待っていた。もちろん、実際は、トラックの運転手にも、待ちゆく人々にも、誰の目にも見えやしない。

トラックが愁の身体を通過した。正確には、すり抜けた。思っていた通り、今の愁の身体と相手の大きな車両は、互いに干渉しあったり、影響を及ぼしあったりすることはなかった。愁の身体はそのままだった。彼は口を開いた。

「俺も、

かも、

しれないな」

トラックは完全に過ぎ去った。愁はきちんとトラックに「轢か」れた。――なんのことはない、愁の肉体はここになく、トラックの運転手もいかなる破片にも遭遇せず、両者は何もまじわらず日常に過ぎ去っていった。

ハルは、トラックが去っていくのを確認してから、愁のいる路上に出てきた。大きな車は、好きじゃない。

「やっすいプライドだなあ」

「あんたにとってはな」

愁は言った。

「あんたは、コミュ力もありそうだし、機転もきくし、どうせ彼女とか、誰かしらいるんだろ? でも、俺には何もない」

ハルは、愁の口調が少し強くなっている、と感じた。愁は続ける。

「俺にはあんたと違って、まともな人間関係が何もない。心の通う友人も、頼れる親族も。見たろ? この通り、俺には誰もいないんだ。誰からも必要とされてないんだ。だから、生きていても、いなくても、何ら変わりはないんだよ」

ハルは率直に聞き返した。

「必要とされないから、死ぬのか?」

「ああ。何が悪い」

「『何が悪い』って……。悪いよ」

「何が。別に誰も悲しまないんだから、いいだろ? 俺がいてもいなくても、変わらないわけだし」

「悪いさ」

ハルは一呼吸置いてから、

「自分に悪い」
と、続けた。

愁は意外そうな顔をした。

「自分? は死ぬから関係ねーだろ。どうせ消えるんだし。感覚も痛覚も記憶も消えた後なんて、どうとも思わねー」

「消えない」

ハルは静かに言った。そして、続けた。

「死ぬ……とは。 死んだら何処へ行くかといえば、……きらきらした、白い光の粒……それに、淡い対岸の灯り。……そして……」

そのときハルの脳裏に、一抹の閃光のようにある場面がよぎった。思い出したくもない、「あれ」に追われていたあのときの記憶の残滓。
ハルはそこで、何かを言いかけようとして、息をのみ、発言を打ち切った。

愁の声が聞こえた。

「なんだ。案外よさげじゃん。むしろ、早く行ってみたい」

その瞬間、ハルは目の前の青年の言葉に心無い悪意を感じた。こちらの心境など知らぬがゆえの無邪気な悪意だ、と。実際のところ、思い返してみれば、その発言がそういう意図だったかといえば、おそらく違うだろう。だが、ハルがそのことに気付いた時は遅かった。

手に鈍痛が走る。
平手打ちをしたのだ。

愁は、頬を抑えていた。 ハルを、きっ、と睨んだ。

ハルは、自分の手を見た。

「……すまない」

ハルは謝った。そこでやめておけば大事にはならなかったかもしれない。しかし、次の言葉が無意識のうちに口をついてでてきた。

「すまん、でも、本心だ」

目の前の青年が「はあ?なんだよ」と、憤ったのが見えた。

「なんで……なんで、よってたかって、俺のことをいたぶるんだ」

当然だ。向こうからしたら話していたら唐突に殴られたのだから。ハルは、愁をなだめるかのように何かを言おうとしたが、いまの彼の耳には穏やかな言葉はもう入らない。

彼は声を荒げて言った。

「生きるのが苦しいから、せめて、マシになりたいってだけなのに。死ぬのも駄目だというのなら、じゃあ、どうしたらいい?」

彼は、ハルに掴みかかった。

「あんた、俺を気遣うフリばっかしてるけど、本当は俺に苦しめと? 苦しみ続けろ、と? 俺は――」

「だって―――」

ハルは叫んだ。ああ、俺って不器用だな。

「勿体ないじゃん!!! 俺は……! 生きたかった!!」

「……やっぱり人間だったのか」

どことなく意気消沈した青年の声が聞こえてきた。

セミの声が空に鳴り響く。初夏の夕暮れ。都会の街の真ん中で、ハルら二人は、ただただ、ただただ、立っていた。

―9―

それから、数時間かそこらが経った頃合いだろうか。 
空の色は青みが増し、藍色の空に橙色の雲が混じるような時刻になっていた。
ハルら二人は、さっきと同じ場所にいた。既に、二人とも、大分落ち着いていた。
そんな中、ハルが俯いたまま「もっと人間でいたかった」と小さく言うと、愁は、そうだろうと思ってはいた、という風に肯定した。ハルは意外に思った。

愁は、不思議な顔をした。そして、彼は落ち着いた調子で言った。
「……多分、人生に未練があって、上手く死にきれなくて、こんな地縛霊みたいになってんのかな、とか、すごく思ったけどさ」
「すごい、図星だ」
ハルの素直な感想である。
「ちょっと意外だった。もっと自分のことで手一杯なのかと思ってた」
ハルは少し微笑んだ。
「手一杯だよ」
青年は、ふざけたような声で少々おどけたリアクションをした。そういうの、できるんだ、とハルは感心した。
「むしろあんたの方が余裕なさすぎだ。俺とお前は違う、そんな基本的なことすらわからないなんて」
そして青年はもともと行こうとしていた道を歩き出した。
「……またいくの?」と、ハルが顔をしかめて問いかけると、青年は、
「ああ、だってあんた、死なせてくれそうな気配ないし」
と、答えた。ハルは呆れたように息を吐く。
「そして、また首つるんだ」
「首はつらねえ」
愁が言った。ハルが聞きたかった答えの一つだった。ハルは、ようやく安堵した。
そして、愁は、そんなハルの心境に呼応するかのように、タイミングよく、口を開いた。
「あんたがまた来たら困るから。もっと確実な方法さがす」
「……」
これは、聞きたくなかった方の答えだ。

ハルは、しばらく返答できなかった。

目の前の青年は、そんなハルの様子を一瞥するなり、もともと行こうとしていた方向に向かって歩き出した。
彼は、早歩きで、ハルのところからどんどん遠ざかっていく。

さっきまでのハルの安堵は、一瞬にして、失望に変わった。先ほどの期待が大きかった分、愁が最後に言った一言は、本人の意図はどうであれ、ハルを失意の底に叩き落とすに足る発言だった。

ハルにとって、この急激な感情のジェットコースターのような変化は、だいぶこたえたらしい。視界から去りつつある青年に、相原愁に、心底失望した。

変化を期待した俺が馬鹿だった。ハルは、心の底からそう思った。どれだけ構ってちゃんなんだよ。

ハルは、息を吸う。

そして。
「そんなに死にたければ死なせてやるよ!」
今までとは違う大声で怒鳴った。

青年が立ち止まる。ハルは、青年の方へ走って行き、追い付くやいなや、白紙の書類を青年の前に突き付けた。
「この書類にサインしろ。そうすれば死ねる!」
「マジ……?」

青年は、急な変化に驚いて顔を上げ、戸惑ったような声で言った。

ハルは無言で頷く。

愁はすぐには書類を受け取ろうとしなかった。しかし、ハルの、頑なに書類を引っ込めようとしない様子に、観念したらしい。渋々、用紙を受け取った。
青年が書類にペンを走らせ始めたのを確認すると、ハルはくるりと振り向いて、道路の方へ向かっていった。横断歩道は渡らない。

だが、道路の向こう側の大型ビジュアルを見るぐらい勝手にさせてくれ。

向こうでは、音楽番組がやっている。

そうこうしているうち、ハルは、後ろの彼から、意外なことを訊かれた。
「あんた……本当に音楽好きなんだな」
「……」
ハルは答えなかった。大型ビジュアルがどんな番組を流していようと、俺がたまたま見た番組がどんな番組であろうと、そんなの俺らの勝手だろう、とハルは思った。そこに触れられるのは、不愉快だった。

後ろから、青年の声が続ける。
「さっきも立ち止まって聴いてた」
割り込むように、雑念を払うかのように、ハルは早口で言った。
「……死ぬのやめた?」
「やめない」

ハルは愁を無視した。

愁の声も、止まった。

その時、大型ビジュアルに映し出されるコンテンツが入れ替わった。
若手バンドCDの売上チャートのランキング画面がデカデカと大きなディスプレイに表示された。

新しいランキングがもう発表されていたか、とハルは思った。今週の上位はどこだろう。そういえば、以前話題になっていた俺が対バンやっていたあのバンドもちょうど最近メジャーデビューしたんだっけな、下の方に食い込んだのだろうか。
ひとのことばかりでなく、halcyonも…まあ、当然どこかに食い込んではいるんだろうけど、あんまり見たくはない気分だな、新曲、なんだっけか。俺の痕跡はどうせどこにもないだろうし。
と、思いながらハルが画面を見ていると、5番目だ、5番目の切り替えの後、驚くべき光景が目の前に現れた。

俺の知ってる、あの曲の、イントロそのままだった。
ボーカルが入った時、ハルは、はっと息を呑んだ。

ボーカルが、歌詞が、違う。
許せ……ない……。

「どうした?」
と、後ろから若い声が聞こえた。部外者なんかに心境を悟られたくないと思った。
「……君には関係ない」

そう言いながら、ハルは、そういえば仕事中だったという現実に引き戻された。
俺は、相原愁くん、というちょっとばかしナーバスで繊細な青年を説得してる最中である。だとすると、先ほどのいい方は、ちょっとばかし厳しすぎやしなかっただろうか。

ハルは、言い直した。
「……いや、冥土の土産ぐらいにはなる話かな」


大型ディスプレイの番組は六番目に発表された――つまり、一位だ――あの曲をずっと流していた。フルサイズ版を、流しきるつもりだろう。よりによって、こんな大きな画面で。あいつらも電気の使い方が贅沢になったものだ。
「昔ある所に、南川春樹くん 通称ハル、というバンドマンがいました」
たぶんハルはむしゃくしゃしていた。やけくそになっていたとも感じる。ハルは目の前の青年に、とあるバンドマンの身に起こった滑稽な事案の顛末について、ことこまかに教えてみることにした。

まあ、なんていうか、一時の気の迷い、みたいなやつである。

―10―

ハルは語った。

二年前の初夏、人間だった南川ハルキくんという一バンドマンの身に起こった一連の事象の顛末を。

その日、彼らはメジャーデビュー第一弾としてリリース予定の楽曲のレコーディングを行なっていた。まずまずのパフォーマンスをもって、無事、レコーディングを終えたバンドメンバーらは現地で解散をし、ハルは、そのうち長年の友人である一人のバンドメンバーを連れて、意気揚々とお茶の水の楽器街に向かった。設備投資の為という名目を建前に半ば趣味めいたハイエンド楽器の試奏を楽しんでから、バイトがあるその友人と現地で別れた彼はその日、交通事故にあった。
 こう見えても彼は普段は冷静なのである。しかし、その日は余りにも浮かれすぎていた。
ハルはバンドのギターボーカルで、バンドの8割の曲はハルが作詞作曲したものだった。そんな自分の曲が、本日のレコーディングを目途に、メジャーシーンにでる、そう思うと、普段はおちついてあまり感情を大っぴらにしないハルでも、それなりに気分が高揚してしまう。
思うに、多分、その日のハルは、いつもならしないような、ほんのしょうもない判断ミスをしたのだ。
渡ってはいけないときに、道路を、渡ろうとした。
当然の帰結である。

その時の記憶は曖昧だった。口笛を吹きながらよそ見して横断歩道を渡っていたら大きなトラックに遭遇したほかは、記憶らしい記憶は思いあたらないまま、ふと意識を失い、気づいたら彼は見知らぬ場所にいた。
真っ暗闇の世界だった。そして、暗闇の中、きらきら瞬く儚げな灯篭のような光。

ハルは息を呑んだ。ただただ茫然としていた。少し後、自分を取り戻してギターケースのストラップを握りなおそうとすると、あるはずのナイロンストラップの生地の感触が手に伝わらないことに気づいた。ふと見やるとギターケースを彼は持っていないことに気づいた。
「何が……」
しずかにあたりを見渡すと、暗闇の向こう、水平線がわずかに波打ち、その水平線の向こうの遠くから何かがやってくる気配があることに気づく。
息を呑んだ。舟だった。

水平線が、今度ははっきり水のように波打っていた。
舟の上には白い人……いや、『ひとのようなもの』だ――が載って、ゆったりと櫂を漕いで近づいてくる。

とうとうハルの目の前まで人影はやってきた。
遠近感が鈍ってよくわからなかったものの、目の前に近づいてくると、その人影は、とても大きいことがわかった。
あるところで舟は止まった。人影が中から降りてくる。目の前にやってきてなお、白くうすぼんやり光る人影のディテールははっきりしない。
舟から、少なく見積もって三メートルはある馬鹿でかい人影が、ハルの前に立った。
ハルは、驚きつつ、「あの、ここはどこですか」と懸命に会話を試みる、のどがどうにかこうにかしてしまっていて、かすれた声しかでない。
白い人影は口も開けずに言った。
「死ダ」
えっ…と声にならない声でハルが小さく言う。
「サア、オイデ」
と、無機質な声がこだまするようにハルの脳髄に鳴り響いた。
「えっ、死」
「大丈夫、こわくない」
「死んだ?」
「シンダ」
「ムコウ いたくない こわくない やさしい」
無機質な声がこだまするようにハルの脳髄に鳴り響く。
「明ルイ」
ハルは割り込むように、そして半ば懇願するように、どうにか、『一番重要なこと』を振り絞るように訊いた。
「音楽は?」
一呼吸間があった。
「ナイ」
断罪の瞬間だ。
「っ……」
ハルは俯いた。ハルにとって音楽はとても大事な、「人生を賭すにあたる」ものであった。
次の瞬間、ハルの身体は恐れや、人ならざる者への畏怖を忘れた。
ハルは白い人影の透明な腕を振り切った。
身体が本人が自覚するまでもなく動く。そして、走り出す。真っ暗闇の中を、影の前から必死に逃げ去る方向へ、遠く遠くへと全速力で走っていった。
ふりきってからというもの、白い影は微動だにせず追ってこなかった。でも、ハルは走る速度を緩めなかった。ここで走るものを辞めたら捕まえられてしまう予感がしたからだ。
予感は当たった、白い人影自身は追ってこないものの、その腕が急に伸び、飛ぶようなスピードでハルの後ろから追ってきた。
全速力でも、間に合わない。
もう、捕まえられてしまう。
ここまでか。とうっすら思ったその時、急に目の前の世界が変わった。
また、その際、白い腕が空を切る音が止んだ気がした。

真っ暗でひかりといえばちらちらする灯りしかなかった場所から、一歩踏み出すとそこはなじみの草原が広がり、景色がひらけた。空は青く、そして頭上には見慣れた赤い鳥居、そして前方には同じように赤い和風建築がみえた。
鳥の声などは聞こえないものの、見慣れた世界に束の間安堵し、ハルは静かに立ち止まった。そして後ろを振り向く。
もう白い人影は追ってこない。
どうやら、振り切ったらしい。
ハルは、安堵の息を漏らした。そして、前方の境内の大きな赤い建造物を見やった。
「……」
ハルは息を呑んだ。目の前の赤い自社風の建造物には無数の白い紙が貼りつけてあり、その中の一枚には黒い筆で何かが書いてあるようだった。彼は、恐る恐る近づいて、その一枚をめくった。それは日本語だった。
『地上への使者を求む』
読みやすい文字でそういう風に書いてあった。ハルは、その建物を見上げると、目をつぶってこくりと一回頷き、和風の赤い寺社風の建物内に入っていった。

―11―

中に入ると、ハルは、人ならざる者に会った。部屋の奥は暗く、はっきりは判別できなかったが、黒い影のようなものが奥の間に座っていた。まるで、机に向かっている事務員のように感じられた。
「彼」は、先ほどの白い大きな人影のようなものとは違い、ずっと、普通の人間に近い者だった。かたちがよくわからないことを除いては。
彼は日本語を流暢に話したし、意志の疎通もハルが今まで身につけた通りのスタイルで十二分に可能だった。ハルは、「彼」と、契約書のようなものも交わしさえした。ビジネス程度以上の感情があるのかどうかはわからなかったが、それは人間どうしでも同じだと思い直し、あまり気にしないことにした。
ともかくも、ハルは、「人ならざる存在」でも、「亡くなって肉体を離れた人の魂そのもの」でもない、少し変わった存在になった。そして、使者としての仕事を受け持つことによって、実質的に、死=川の向こうのどこかへ行くこと、を逃れることが出来たのだ。
永久に河の向こうへ渡らなくともいいし、音楽と共にあっていい。割り振られた「仕事」をきちんと遂行する限りでは。

―12―

そうして、ただの人間だった南川春樹ことハルは、天使風の羽が生えてそれらしい容姿になった。
とはいっても、彼自体に大きな羽根以外はとりわけ目立った変化はなかった。
仕事がいいわたされた。亡くなった死者の魂を例の「きらきらした草原地帯」につれてゆき、河の向こうへ連れていくという仕事。ハルはその先に何があるか知らない。
ハルが知っているのは、この仕事をやっているうち、つまりハルが使者として勤めを全うしているうちは、ハルはあの河の向こうへ渡ることを免除される、ということだ。
だからまあ、河の向こうに何があるかは知らないままでいいのだと思う、とハルは語った。
ハルはある日の仕事を語った。
仕事の頻度はおおむね一日一回、多くて一日二回だ。それ以外の自由時間は何をしていてもいい。
「暇が多くていいな……。と思うだろ?」
とはいえ、彼が相対するのは死者の魂だ。気を使うし、高齢で家族に見送られ安らかに大往生なんて、なかなか珍しいぐらいだ。横にある死体は往々にして、その…グロい。
「あいつわかっていやがる」と、ハルは言った。
「あいつって…?」愁は聞き返す。
「上司、にあたる人、かな、いや、人というのは適切な言い方ではないかもしれない。ともかく、人に指示を出す上役でさ」
「慣れないうちは、病院の一室で家族に見守られてしずかに眠る高齢の老人案件を任されて、そのうち慣れてきたら、若い人、事故死、急死、入水自殺…なんでもありだ、どんどんひどい有様の案件を任せてくるんだ。
ハルはいう。
「つまり、その人の死が、「安らかで幸せな眠り」だったのか、そうじゃないのか、上はきっちり優劣をつけているってことさ」
「それは……その……まずいことなのか?」
と、愁は不思議そうに訊ねた。
「まずかないけど。でも、人ならざる神みたいな存在がさ、一人一人の人間の人生のあり方とか、死にざまについて事細かに評定を下しているの、それ知ったらちょっとぞっとしないか? それも、大体の評価基準が人間の当り前に感じるそれ、と一致してるなんてさ」
ハルはぺらぺらしゃべりつつ、愁はこんな話によくついてくるなあ、と感心した。いい歳して、他人のいうことを素直に受け入れるもんだなあ。もしかしたら、他人のいうことを素直に全部信じ込みすぎるきらいがあるからこそ、彼は現世で少しうまくやっていけてないのかもしれないな、とも思った。
「それ、その仕事について、長いのか?」
「ああ、二年。だから最近酷い案件を任されるんだよ」
ハルは愚痴った。
さいきん任されたのは幼児の案件でさ。連続殺人犯の。一時期ニュースの新聞欄にも乗ったやつ、と添えた。
「個人的にキツかった」とハルは言った。血が出てる、女の子で。自分が殺されたことも死んだことも幼すぎてわからないんだよね。だから、俺が抱きかかえて空の上に連れていくと、ただただ飛べることが楽しそうだったな。何もわからないからさ。
まあ俺も実のところ河の向こうがどうなっているかはわからないんだけどさ、とハルは添えていった。
ハルが愁に「わかってみたいか?」と問いかけると、愁は少し戸惑った様子で返答に困っていた。これ以上の深入りは避けられそうだ、とハルは思った。お互いのために、きっとそのほうがいい。
ハルは、ついでに羽根の色とか、外見の容姿とかが精神のストレス状況を微細に反映して変形や変色するのだということを言った。
「例えば、この身体になって、精神が病んでくるとそれが連動して羽根が黒くなって、いわゆるB級映画の悪魔さながらの様相に変貌するんだよな」と、ハルはいった。愁は意外そうなような、上手く飲み込めてないような、なんともいえない反応をした。ハルがそのことから何を伝えたいのかがわからなかったのだろう。ハルはある意味予想通りだと思った。そして、愁の期待する「答え」には触れずに、
「否応がなしに感情が外に出てしまうというのは、まあ、考えようによってはコンディション管理がしやすいというメリットがあるともいえなくはないな」
と、ハルは笑って言った。
これで彼は、天使と悪魔の相関性について本当のことを知ることになる、生きている中では唯一の人間になるだろう、と思った。まあ、現世を織りなす世界の条理への、いたずらの一種みたいなものだ。

「そうやって……」ハルは話題を変えた。そうやってキツイ仕事に当たった後は、なるべく音楽と触れる所に向かうことにしているんだけど、というように、音楽の話に話題を戻した。
「それにしても都会はいいところだよな。どこ行っても音楽がありふれているからさあ。なごむわ」
ハルが言った。愁は少しぴんと来なかった。
「どこへ行っても……?」
「ああ」ハルは当たり前のように頷いた。
「ライブハウスや路上パフォーマンスでほぼ毎日どこかしらミュージシャンの渾身のパフォーマンスがあるし、ああいうのをちらっと眼にすると、ああ頑張って生きているんだなという気がするんだ」
ハルは続けた。
「だけどな、本当にきついときは、そういう生身の熱気ですらきつくなる。そういうときは、ラジオとか、ムービーとか、録音や映像で編集されたものを見にいくことが多い。良い時代だよな。録音媒体」
愁は相槌こそ打たなかったが、聞いてくれているのはわかった。
ハルは何ヶ所か観に行くスポットを決めているのだと言った。原宿、新宿、渋谷、そして秋葉原、北千住の電光掲示板の前。ルーチンのように慣れ親しんだ場所に、赴くのだという。
「そういうときって、なんか死にぞこないのゾンビみたいに感じるんだよな」
ハルは、言いながら、我ながら妙な表現だなと思った。少し笑える気がするからいいか。
「とくにさ」ハルはいった。「音楽のレコードランキングチャートのダイジェスト映像を定期的に流している大型ビジョンがあるんだけどさ。「俺の、だったバンドがそのチャートに初めてランクインしたのを見たときは、そりゃあ、嬉しかったね」
ハルは顔も上げずに言う。
愁が言った。
「よかったじゃないか、うまくいっているようで」
「うまく……は、いってるな……」
ハルは言った。
「俺が抜けた後のバンドは、どうやったかっていえば、他のメンバーはそのままで、俺がいた部分に専業ボーカルを迎え入れて穴埋め、再結成したんだ。今では人気出ててさ、常にオリコンチャート上位だぜ」
目の前の彼はあまり関係ないわけだし、あまり個人的な愚痴を愚痴らしく言いたくはなかった。だから少しお茶らけて言ったつもりだったが、ちゃんとそう伝わっているのだろうかと思った。あまり表情をみられたくないなと思った。
彼は、自分自身も打たれ弱い反面、他人の弱さにだって敏感だから――。
「よかったんじゃないのか」
「よかった……うん、俺だってそう思いたい」
ハルは小さく言った。
「俺以外の……一緒にやってたメンバーが活躍しているのを見るのは、そりゃ嬉しいさ。特に大輝」
愁はあいまいに小さく頷いた。
「あいつらは……いいんだけどさ」
あいつらじゃない。あいつらではない。あいつらではなく、俺とは面識もないような、もう一人。
大型ディスプレイの番組が一周したようだ。先ほど一度見たの音楽ランキングの映像に切り替わった。
「例の」「一位の」バンドの映像になった。
つい、ハルは画面の方に食いついてしまう。
「あのバンドがそれなのか?」と、愁の声が意識に割り込んだ。
ああ、とハルは頷いた。
Halcyon―アルキオ―の曲が開始する。
サビ部分あたりに差し掛かった時に、ハルは、「この歌詞どう思う?」 と愁に聞いてきた。我ながら意地悪な質問だ。愁は少し戸惑っていたが、「悪くはないんじゃないか」といい、「俺は音楽に詳しくないからわからないけど」と付け足した。
ああ、そうだよな。ハルは心のうちで呟いた。そして、短く、小さく息を吐いた。
愁は何も言わなかった。
そして、楽曲はクライマックスの部分、サビの一番印象的な部分に差し掛かった。
なんて酷いサビなんだ。ハルは思った。俺の知らない歌詞が、俺の口ずさんだメロディーの上に乗っている。最低だ。
「愛」「感謝」といった言葉がボーカルによって大きく高らかに叫ばれる。
「あのさ」ハルは、吐き捨てるように言った。
「俺は、あんな歌詞、書いてない」
ハルは俯いた。
「あんな、歌詞、俺のバンドが演るはずがない」
ハルは肩を震わせて言った。
今度の大型ディスプレイの番組プログラムは最初のものと少し異なっていたようで、二曲目に入った。曲調は、明るい。
―ああ、この曲も、知っている。
とハルは思った。しかし、知っているが、知らない。知らない部分がある。
歌詞が……、テーマが……、人生賛歌のような歌詞で、別物に塗り替えられている。
怒りが抑えられない。
「いいんだ、わかっている」
みっともないのは、分っている。分っているが、それでも怒りは体を震わせる。
感情を押し殺そうとするだけで精いっぱいだ。
「よくあることだ。プロデューサーが呼んできた新しいボーカルがメインで取り仕切るようになって、同じ名前をした全く別の音楽性のバンドになること。いいんだよ、それは」
噛み殺すような声だった。
「でも俺は許さねえ」
ハルは言った。
「あるときからかさ、あいつネタ切れ起こしたんだよ」
ハルは語った。楽曲のアイデアに詰まった新ボーカルは、自ら作曲するのを早々に放棄した。運よく他のアーティストからコラボという名の楽曲提供を受けることが出来る時もあったが、常時そうだとは限らない。所属レーベルのプロデューサーも表立って楽曲提供をするタイプではなかった。そのうち、彼はメジャーシーンにのらない様々な無名アーティストの……そして、生前のハルの楽曲を漁り、構成を、メロの一部を、ギターリフを「拝借」し、そこに、独自解釈による歌詞をつけて、自分のバンドの曲、としてリリースするようになった。
ハルの描いたウェットなバンドサウンドのうえに、陰りのない幸福な世界を歌った彼の歌は売れに売れた。
そう、売れに売れた。
「周りのメンバーはいたんだろ?」
愁が訊く。
「いたけど……」
ハルは思い返す。じつは、今のバンドは結成当初の形ではない。大学時代にサークルの仲間と組んだ初代アルキオのメンバーのうち、リードギターとドラマーは就職していて、もういない。今のメンバーのうちギターとドラムはメジャーデビューが視野に入ったころにプロ志向のメンツとして引き抜いてきた奴らで、ドライな付き合いだった。彼らには俺の目指した形を順守する義務はない、と思う。
俺は思うところあるけど、あれはあいつらの生き方だ。好きにすればいい。
責任は、問えない。
ベーシストは……あいつには、何も言えない。責められない。むしろ、あの男社会に残って、よく俺の意志を継ぐべく奮闘してくれているよな、と思う。つらいだろうに。向いていないだろうに。
ハルは、あらためて、他のメンバーは責めるに責められないと思った。
そんな春の様子を気遣ってか、ふうん、と愁は受け流し、大型ビジュアルの方を見た。スクリーンに映っている喧騒がサビに差し掛かってきた。元気な曲だ。明るい。
たしかに、誰も、責められないけれど。
ハルは吐き捨てた。
「俺の書いた曲はあんな曲じゃない」
強い口調だった。その間も、バンドサウンドに乗って聞きたくもないボーカルの声が流れてくる。
「俺の曲は、あんな、空っぽの、薄っぺらい曲じゃあなかった……!」
ハルは激昂した。今のハルには、その改変を防ぐ術がない。喧嘩をする権利がない。怒りを表明する権利がない。何をしたところで、相手には一切その怒りと憤りは届かない。
一切、届かない。
怒りで肩が打ち震えている。
愁は何も言わなかった。ただ無言でその様子を見ていた。
そのうち、彼はハルの方へ歩み寄った。そして、一言「行こう」と声をかけ、肩を掴んだ。そして、たしなめるようにハルを引きずってその場の大型ディスプレイから遠ざけた。
愁はハルを静かな公園へと引っぱっていった。

―13―

そのあと、ハルは、愁によって代々木公園の一角、静かな池の区画に連れてこられた。
彼は今、ベンチに座腰かけている。空は、既に暗い。
愁は、ハルの視界に入らない、少し離れた池の前に座っていた。
ここにきてしばらくは、互いに無言だった。
ハルの呼吸音が大分小さくなった頃、ハルが口を開いた。
「……さっきは取り乱してごめんな」
落ち着いた声に戻っている。
「ん、いや。熱いなって」
愁はさっき見聞きしたことは、気にもしていないかのような調子で答えた。
「俺には、そういう熱くなれる対象ってないから」
愁は素直に感心しているかのようだった。
「俺、思うんだけどさ」
そういって、愁は立ち上がった。そして、池の方を向く。
彼は池の方へ向かって大きく叫んだ。
「何で世の中こんなにクソゲーなんだよ!夢も希望もあったハルは死んで。
クソの役にもたたねえ俺は生きられて!」
ハルは目を見開いてベンチの後ろ、愁の方へ振り向いた。
愁は大きく息を吸った。そして、大真面目に、池の方に向かって中空に語りかける。
「そいつは、ハルという」
「そいつに……!」
ハルは固唾を飲んで愁の様子を見ている。
「そいつに俺の人生を!俺のライフポイントを!」
愁が叫び続ける。
「……ああ、全部、全部だ! 全部やってくれ!」
愁は言いきった。そして、その場に愁はへたり込んだ。

―馬鹿野郎。ハルは心のうちで叫んだ。愁のいる池の方へダッシュで坂を下りていく。
ばたついた足音に気づいたのだろう。愁がちらりとハルの方を振り向いた。
ハルは、愁の横へ到着するなり、「お前の気持ち嬉しいわ、ありがとう」と手短に礼の言葉を言う。幸か不幸か、職業柄、歯の浮くような感謝の言葉はむしろ言い慣れている。
ハルは愁の横に立って、先ほどの愁と同じように、池の上の中空に向かって真似をして叫んだ。
「おーい! 聞こえるかーあ。 今もらったライフポイント、愁に全返ししてやってな!」
こだまが響く。ハルは叫ぶ。
「ついでに攻撃呪文「自分の人生を歩め!」発動な!」
トレーディングカードゲームの決まり文句だ。
「……ってなわけで、さっきのターンは無効」
ハルはおちゃらけた様子でと愁の方へ振り向いた。
愁は呆れたような眼をして、
「なんだそれ」
と言ったが、そういう彼の表情は嬉しそうだった。ハルは、お前が始めた茶番だぞなんて思いはしたが、そこには触れないでおく優しさは十分持ち合わせているつもりだと自負していた。
「どんな慈善事業ゲームだよ……」
「ははっ」
ハルは笑った。
愁は観念したかのような眼で池の向こうを見つめた。
「そんなに言うなら生きてやってもいいけどさ」
一呼吸おく。そして、ゆっくりと、
「でも、あんたみたいな奴は、向こうにはいないんだよなあ……」
と空を見上げてぼやいた。
ハルも隣に座って静かに同調した。
「……いない、かもしれないなあ」
「わかってんじゃん」
「だからまー 愁に生きて欲しいってのは、俺のエゴっちゃエゴかな」
「エゴ……」
愁は意外そうな目でハルを見た。
「だって、そうだろう? 愁は生き返ったらあの誰も協力してくれない無味乾燥な世界を一人はいつくばってしがみついて何とか生きていかなきゃならない。キツイよな。普通に考えて」
「……まぁ」
「だろ? そして、愁がきつい想いをした反面、俺は「人助けをした」って優越感と幸福感を得るわけだろ? まぁ、そっちのほうが、俺はすっきりするけどさ」
ハルはそこでいったん言葉を区切った。一呼吸、間をあける。そして、ハルは再び口を開いた。
「人助けだと思ってさ、人に親切をさせてあげた経験を味わわせてくれよ、俺に」
「なんだろ……最悪だな……悪魔かよ」
ふふっ、とハルは笑った。
「おうよ、だって死神なんだぜ?」
「そうだな……」
愁は呆れたように言った。わかってきたじゃあないか。
今ならもう大丈夫、とハルは思い、目の前の迷える子羊君に、魔法の文言を問いかけた。
「この死神にさ、一瞬だけ、人助けさせてくれないか」
「そこまでいうんなら、しょうがないなぁ……」
愁はわざとらしく、まんざらでもない様子で答えた。まるで、「だってお前、俺がどう答えてもそういう方向にもっていくつもりだったろ」とでも言うかのように。
ハルはふふっと笑った。
愁もつられて笑った。もちろん、ハルも。
「決まりだな」
ハルが静かに言った。
そして、ぐいと利き腕を差し出した。
「ん」
愁が、その上に手を重ねる。握手だ。
その表情と声は、あくまで不服げな様相だった。そこから本心を機械的に読み取ると失敗する。愁は、そういうやつなんだな。なるほど彼らしい。

ハルは、腕がしっかりつかまれたことを確認すると、飛翔の準備にかかった。大きな羽を空に向かって勢いよく羽ばたかせる。

「行こう」
ハルが一声かけた。

空に向かって翼を大きく一振りさせると、勢いの良い夜風の塊が服をはためかせた。タイミングを見計らって、ハルは跳躍する。
二人の身体が宙へ浮いた。
そのままハルは愁を連れてどんどん上層へ飛んでゆく。
行きと違い、愁が協力的なので、いつも一人で飛んでいる時の8割程の速度で飛ぶことが出来る。男二人分の重量感は感じないほど、快適な空の旅だ。上昇気流にだって乗って滑空できる。
対G対策が必要なエアスポーツのライセンスを持っているか、スカイダイビングのインストラクターでもない限り、生身の人間がこんなことを経験することはないだろうから、きっと、愁は目を回しているに違いない。
かなり上昇したころだろうか、愁が、「あっ」と小さな声を上げた。ハルが振り返って愁の方を見ると、愁のポケットからひらりと一枚の紙が舞い落ちている最中だった。
愁のポケットから舞い落ちた紙はくるくる、ひらひらと舞う。
「なんだあ」
ハルはたいしたことないような声で言った。
「真っ白じゃん。安心したあ」
それは、あの街の真ん中で、ハルが「そんなに死にたいならサインしろ」と言いながらバインダーから取り出した用紙だ。サインしてねえじゃん。
「うるさいな。いちいち口に出して言うなよ」
愁は言った。照れ隠しが下手だなあ。ハルは愁の意図など意に介さず、「ははっ」と流した。
「愁は本当に口に出すのが下手だな」
「わかったよわかったよ」
少し愁は間をおいた。そして、再び口を開いた。
「……じゃあ。……じゃあさ、俺、向こうで何したらいいかな……」
「……」
ハルは答えなかった。
妙に素直だな。何か、面白いこと、ないだろうかと、ハルはしばし考えあぐねた。
愁は思い違いをしたのか、
「なんだよ……やっぱり、自分で考えろって…」
と、自信なさげに言う。
あ、いいこと、思いついた。
ハルは、口を開いた。
「いや、そうだな……」
愁は神妙そうに聞いてくれている。この調子だ。
さあ、愁くん、もとい、実存している、生きているひとたちの現行の世界は、この行為によって、どう、反応してくれるのだろうか。どのように爪跡が残るのだろうか。
――俺は、たのしみだ。

二人は空をどんどん高く飛んでいく――。

―14―

窓から朝日が差し込む。
愁は目を開けた。そして、自分がうつぶせに倒れていることを発見した。
ここは、愁の部屋だ。何の変哲もないなじみに馴染んだ愁の部屋だ。

愁は起き上がって周りを見回す。
何一つ変わっていない。
一つだけ変わったものを見つけた。
拙い結びのハングマンズノットも以前と同じようにそこにかかっていた。しかしそれは、重みに耐えきれなかったのか少し緩んでいた。
おそらく、ずり落ちたのだろう。

何が?って、たぶん俺が。

何やってたんだろうなあ…と俺は自分にあきれる。いい夢を見た。まあ、それだけなんだけれど、この死にぞこない:野郎が、と笑って声に出してみる。あまりの阿呆くささに笑えた。
とはいえ、
奴は、「愁にぜひやって欲しいことがあるんだ」と言っていたが、まあ、まさかな……と思うものの、念のためにパソコンを起動した。

 インターネットにつながっていることを確認し、検索ブラウザを立ち上げる。
その検索窓に、愁はキーボードで打つ、「アルキオ バンド」 そして、検索窓の横のGOボタンを押し。

まあ、まさかな。
気休めだ。

「あった」
思わず口から言葉が漏れた。
そこには、昨日、「夢の中で」会話した青年と同じ容姿の――ただ、羽が生えていない――青年がギターをもって写真に映っていた。
インディーバンドのホームページだ。 ここ2年ほど、更新されていない。
『ハルが』先日言っていたように、ホームページの左の端を、下へスクロールする。
すると、下の方に、小さなプレーヤーが出てきた。
「小さな灯り.mp3」と表記されたその曲の再生ボタンを、愁は押した。

音楽が、そして見知った歌声が、パソコンの拙い音響のなかで精一杯叫ぶように流れ出てきた。

愁はしっかり聴いた。そして、立ち上がった。

「生きよう」

小説『雨上がりの虹』 一章(ハル目線)

小説『雨上がりの虹』 一章(ハル目線)

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  • 中編
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