小説『雨上がりの虹』 一章(愁視点)

小説『雨上がりの虹』 一章 の愁視点です。

もう一人の登場人物であるハル目線の同物語はこちらより読むことが出来ます。→ https://slib.net/80743

プロローグ

ある六月初頭、初夏の日。群青色とえんじ色が混じった夕暮れ空の中、溶け込むような小雨が降る夕方のことだった。

外では緩慢な小雨が降りしきるなか、青年は一人自室でパソコンの画面を見ていた。

その部屋は、一見、ものが多いようで何一つ有意なものがないような部屋だった。床には、これみよがしに床に散らばった書類。薄汚いベッド。無駄にバックライトが明るい大きなパソコンディスプレイ。

唯一使えそうな有益なもの、首吊り紐。

青年はパソコンの画面から目をそらし、宙に吊られたそれをぼうっとみあげた。

しばらく呆けていた頃合いだろうか、電話がかかってきた。

青年は電話をとった。

「あら、最近どうかしら、うまくいってる?」

青年は状況をすぐに飲み込んだ。 質疑応答の時間が開始したのだ。議題は『この青年の近況と進路について――』

青年はスマートフォンから流れる音声に対して生返事を返す。

どうやら声の主は女性のようだ。 母親ぐらいの年代だろうか、声のわりにやけにはしゃいだ喋り方をしている。

「すごいわ。やるじゃない、愁ちゃん」

愁ちゃん、というその妙にねっとりとした呼び方に、青年は画面のこちらで少し引き笑いをした。もちろん、電話の向こうには伝わるはずもない。

女性はさらに舞い上がったような喋り方で続ける。

「あら、もう、すごいじゃない!!どこの会社なの!」

「三友商事、大船商事、HK銀行だよ。どこも東証一部上場企業」

青年は、あらかじめリハーサルしていたかのように、大企業の名前をよどみなくすらすらと口にする。

「ほんと素晴らしいじゃない!さすが!私の息子ちゃんだわ…!」

「……だろ?」

そういって、青年は電話をぶつ切りにする。

―――本当に気付かないんだな。 気づかないんだろうな。

―――他人なんて、期待するだけ、無駄。

―――無駄か。

青年は自室の床に散らばる白い書類の束を見やった。封書に入っているもの、破かれてコピー用紙の白い肌を露呈しているもの、様々な状態の紙が、これ見よがしに床に散乱していた。

共通点は、すべて、その白地の上に、くっきりとした黒文字で例外なく次の魔法の文面が記載されていたことである。

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

『お祈り申し上げます』

そして極めつけは、最も日付が新しい、青年の前のディスプレイに表示された、メールの文面。

『件名:採用試験結果のお知らせ

 相原愁様

……相原愁様の、今後のより一層のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。』

―――……今後の活躍、ねえ。

いったいどこのステージだろうな、と、相原愁とよばれた青年は思った。

―――だって、俺は、これから。

そう自問して、それから青年は、窓の方を見上げた。 その先には太いロープが天井から吊られていた。

そして、相原愁とよばれた青年は、窓際の方へ行き、これが最後の抵抗だというように分厚い遮光カーテンを大きく開いた。 雨足はだいぶ緩んでいたようで、わずかだが、薄暗かった部屋が少し明るくなった。

これで、シルエット程度なら、うっすらと、外からも内部の様子が見えるようになるだろう。

こんなことして、まるで、誰かの目にとまりたいみたいだな、と愁はぼんやり思った。 そんなことはないはずだと頭では思いつつも、あえてカーテンを閉めなおすことはしなかった。

すこし青年がぼんやりしていると、外の雨足は強くなり、また、部屋が暗くなった。

おそらく、外からはもう部屋の中を見ることができなくなっただろう。

もう、なにかに、期待することなんて、疲れ……たな……。

―――ゼロが一になりかけてやはりゼロに戻った。

―――いいじゃないかそれで。

多分、最後に流れた意識はそんな風なものだったかと思う。

そして、青年はロープに手をかけた。

青年の身体がふっと上がる。

ゴングのように、大きな雷が鳴った。

青年の、時が、止まる。

-1-

その少し後のことである。

降りしきる小雨と気まぐれな遠くの雷が少し収まってきた頃合いに、背中に大きな羽の生えた青年が該当の部屋へとやってきた。

その青年は、こざっぱりとしたカジュアルな服装の青年であった。少し洒落た都会の街ならどこでも見かけそうなごく一般的な若者だったが、ただ一点だけ、大天使のような一対の大きく立派な翼を有している点がごく普通の若者とは大きく異なっていた。

彼は、その大きな羽をはためかせ、マンションの前を少し滑空すると、該当の部屋のベランダにふっと降り立った。そして、中を覗き、部屋の中で首を吊った大学生の様子を一瞥した。 そして、彼は、はあ、と一言、物憂げな様子で小さくため息を漏らし、肩を落とした。 しかし、その後、すぐに、気を入れ替えたかのように姿勢を正し、窓をすり抜けて部屋の中へ入ってきた。

大きな羽根を持った青年は、部屋の中へ入ってくるや否や、天井から首吊られている若い死体を間近で見上げた。

その首を吊られている若者の肢体は、まだ血の気がありそうに見えたが、青年の身体の動きは一部の汗の動きを除いて、既に静止している。

羽根の生えた青年は真摯な表情をして、右手を亡骸の方へ伸ばした。

その青白い首筋に手が触れたとき――いや、正確には触れるはずだという位置にまで手が達した時、青年は愕然とした表情をした。

彼は青年の身体に触れることができなかった。 そして、そのことによって、若者はまだ生きているのだとその時彼は気づいた。

彼は驚くとともに心底安堵した。 これで今日分は胸糞悪い仕事から解放される、と。

その時。

羽根の生えた青年が呆気にとられて、頭上の若者の様子を眺めていると、天井から吊られた若い肉塊から、青年自身の形をかたどった魂のようなものがぬるっと出てきた。

青年は必死に「彼」をその所有していた肉塊まで押し戻そうとしたが、もはや抵抗もむなしく、「それ」は青年の頭上にずり落ちた。

-2-

愁は目を覚ました。

彼は部屋の一角に背をもたれかけさせられて座らされていた。さっきまで降りしきっていた雨は既に止んでいる。

彼は薄目を開けて周囲を見回した。身の回りは何の変哲もない自分の部屋、書類が散らばっている汚い床、ゴミ袋、そして、視界の片隅に入る大きな白い羽根。

……羽?

そう不思議に思って彼が顔を上げると、目の前に見知らぬ男の後ろ姿が目に入った。部屋には見知らぬ男がいた。ここは紛れもなく自分の部屋であるし、自分だけの居城である。

その見知らぬ男は、部屋の真ん中に立ち、彼の手元にある書類と、その向こうの窓の方を交互に見あげながら時折ペンを走らせていた。

愁はすぐに状況を理解した。

目の前の見知らぬ男は背中に大きな翼が生えていた。そしてその先端が、先ほどの白い羽根と同じものになっていた。

また、遠くを見遣ると、その見知らぬ男の向こうに、どう見ても自分のものとみえるやる気のない地味な服装の男が見えた。 まぎれもなく相原愁のそれだな、と愁は感じた。 

あれが自分の死に姿か。 冴えないな、と愁は内心苦笑いした。もちろん、生きていても十分冴えないけれど。

要するに、天使が死んだ俺の魂を迎えに来た、ってことだよな。と愁は思った。

愁は羽の生えた青年の後ろ姿を一瞥した。数多ある伝承って本当だったんだな、と妙に感心したが、思ったより天使が神々しくないな、という妙に新鮮な感想を抱いた。愁の目には、目の前の背を向けている男は、神話に出てくるような神々しい天使ではなく、天使役をやらされているただの若い男、キャッチ、といった印象にしか見えなかった。

そう愁が感じたのは、彼の様相が、あまりにもその辺にいる人間らしすぎたからだ。平均的な成人男性の上背にカジュアルなシャツにチノパン、アッシュに染めた髪を癖っ毛に似合わせているさまは、普段、愁が大学のキャンパスで見かけている周りの先輩・後輩達の姿と大差なかった。 

しばらく愁がぼんやり見ていると、その「天使」役であろう男は、そのうちペンを走らせる手を止め、手元の書類とにらめっこしてから、何やら、うんこれでいいと自分で納得したように首を縦に振った。そして、すぐさま勢いよく手元のバインダーをぱたん閉じた。

その時、男はようやく愁の気配に気づいたらしい。

彼は、はっとしたかのように振り向いた。愁と目が合う。彼は一瞬、非常に驚いた顔をしたが、しかし、次の瞬間には、社交的で穏やかな笑顔になった。

「はじめまして。でも、もう、さよならかな。気がついてよかった」

羽根のある男は言った。愁は目をそらしたりはしなかったものの、とっさには挨拶にかえす言葉が思いつかず、これといった情報は何も答えなかった。

「まあ、びっくりするよな」天使役であろう男は気さくに笑いながら愁の方へ近づいてきた。

彼は歩きながら続けた。

「何せ君はラッキーだ」

愁はその後の文面を予想した。『もう大丈夫』、『安らかに逝ける』、『安心していい』、諸々。

天使のような羽根をもった男は口を開いた。

「君ホント運良かったなぁー。君の肉体はまだ全然生きててピンピンしている。やり直せるぜ」

愁は表情を変えずに瞬きをした。

羽根の生えた男はつづけた。

「これなら魂戻したらすぐ明日にでも日常生活を送れるぐらい回復できる。なんつーか、俺もこういう奇跡見たことないからびっくりしたし、すごい安心したわー。あ、書類には、「確認したところ生存を確認」とかそういう風に書いといたから。この文面、書いたことなかったからドキドキしちゃったわぁ♡てなわけで、手続き的には大丈夫ちゃんよ」

愁は内心動揺した。予想が大幅に外れたこと、また、生き返って味気ない日常を繰り返さなければならないこと。これではいったい何のために自殺したのだろうか。無表情なままだから、おそらく悟られていない、そう信じたい。

出会った相手が悪かった、と愁は思った。彼に対して悪い人ではなさそうだという印象は抱いたが、それとこれとは別だった。 彼は一度決めたら意地でも愁を殺そうとはしない、というタイプにみうけられた。

もしそうだとすると――。愁は状況を鑑みた。首を吊って意識を失ってそのまま死ねるかと思ったら、どうやら自殺には失敗したらしい、という状況を、うっすらとだが把握した。

だとすると、もう天使役ですらない、ただの羽の生えただけの青年が愁の横に座った。

愁は、これは刑事もののドラマならカツ丼が出てきて穏やかながら強固な説得をされる流れに相当するのだろうな、と予想した。

予想は当たった。

羽根の生えた若い刑事の粛々たるプレゼンが始まった。

彼は愁の横に腰を落ち着け、親しげそうな特有の口調で話し始めた。

「書類によるとな、君の自殺理由って、『就職活動に失敗しつづけ、未来に絶望し、絞首自殺』ってあるんだ。そうなの?」

彼は愁の顔をまじまじと見てから訊いてくる。愁はそれには答えずに無言のまま視線を逸らした。

「まあ、答えたくないのなら、それでいいけど……。それ以外に損傷はなし、っていろいろ不自然なんだよな」といって、男は自分の手元のバインダーをめくりぱらぱらと書類を眺める。

愁は、引き続き無言のまま答えなかった。もぞもぞと足を動かし、体制だけ胡坐に変えた。

「君はつらかったんだろうけれど、死ぬまではないっていう感じ、っていうか、精神病とかでもなさそうだし、君全然やれそうなんだよね…?なんていうか、できることなら俺は死んでほしくないんだよねえ」

申し訳なさそうな声を出して、様子を見るかのような台詞を彼は吐いた。愁は目をそらし、すぐには答えなかった。少し間をあけてから、愁は渋々口を開いた。

「あなたは死んでほしくないでしょうね」

なるべく皮肉っぽく、嫌な奴風に見せるかのようにしゃべってみた。実際はどう映ったのだろう。

「何だ君喋れるじゃん」羽根の生えた若手刑事はすこし嬉しそうに言った。

「そうそう、精神病の人特有のどんよりとした感じもないし、ぱっとみ君なら全然やれそうに見えるんだよね……。無理かな?」

愁は答えなかった。まあ、そういった反応は想定内だ、といった風な口調で、特に愁の塩反応を気にする様子もなく男は続ける。

「なあなあ、何が嫌なのか?」

「……全部だよ」

愁は言った。

「人間関係、将来のこと、自分の駄目さ具合、クズさ、もろもろ。俺がクズすぎて、誰からも必要とされない、誰からも」

「俺にはそういう風に見えないんだけど?」

羽根野郎は心底わからないといった風に首を傾げた。それって誇大妄想が過ぎるのでは、お前は自分で思っているより何の変哲もないごく普通の青年だ、ちょっと自意識過剰では、と逆にたしなめられているような気がした。

「そりゃ、あんたが俺の本性知らないからだろ」

愁は吐き捨てた。 

「あんたは俺の何を知っている?」

羽根男は「えっ」と慌てて、パラパラと手元のバインダーをめくった。

「あんたの知ってるってそういうことなん?」

愁は呆れたような声で、少々過剰な皮肉を言った。 意識して嫌な奴を装った。

羽根男はさらに慌てた。

「あっすまん、そういう意味じゃ……」

「……」

愁は視線を逸らして無視をした。死んでもどうでもいいぐらい嫌な奴に映っているといいな。

少しの白けた間があったのち、羽根野郎が、げふん、と気負った音を喉から鳴らして立ち上ががった。

「確かにな」

奴は口を開いた。

「知らない、確かに俺、君のこと、なーんにも知らない」

わかってんじゃん。開き直ったか。認めたうえで今度はどう説得するつもりなんだろうと、愁は思った。

「そこでだ」羽根野郎はつづけた。

「なーんにもしらないからこそいうけど、君が誰からも必要とされてないなんてこと、嘘だと思うぞ」

「嘘じゃねえよ。何にも知らない奴が何を言うんだよ」

「そう、俺は何も知らない」

羽根野郎は妙に自信ありげな態度だった。彼は続ける。

「でも、君の生殺与奪権は、いまのところ俺が持ってる」

愁は、内心、一瞬ひるんだ。もちろん態度では平静を装ったが、顔に出ていないと信じたい。

彼は締めくくりとして、妙なことを言った。

「だからさ、確かめさせてくれ、俺に。君が本当に君が言うように、誰からも必要とされていないのかどうかを」 

そういって、奴はにやりとした。それは愁にとっては少し予想外の発言だった。

「そんなの……どうやって……」

「時間を止めて、未来を見てみるのさ。君の死後の世界を今から一緒に見にいかないか?」

聞き慣れない音の響きの言葉に、つい、愁は男の顔を見上げ、肩のほうをまじまじと見た。その向こうの背中から生えた大きな羽根が見えた。たしかにできそうだと思った。

 彼のいうにはこうだ。奴は数日ぐらいなら時間を止められるのだという。いや、正確には「止めたということにできる」のだ、と。

ある人の辿った人生とは、ある時点、ある時点で分岐した選択肢が一つ一つ決定された結果あらわれた一本の道筋であり、その周りには、「その人の人生たりえなかった」無数の選ばれなかった未来の残骸があるのだという。

彼が言うには、厳密に自分の進む未来を知ることは誰にもできないが、自分が将来「進んだかもしれない、あるいは、進まなかったかもしれない未来」を覗くことはできるのだという。無数の道筋自体はいつもそこに在るから、それがさほど遠くない、近い未来であれば、少々の道筋は覗くことはできるのだ、と。

この方法ならば、本来進むべき未来自体は傷つかないし、そのまま、いまこの時間まで戻ってこれるのだという。

そして、それはほぼほぼ、その人の未来を覗き見たと同義ととらえていいのじゃないか、と。

しかし、じっさいに、その人物がその人生の道筋の組み合わせを「どう選択したか」は、実際にその時が経過した後になってみないとわからないのだという。

愁はこんがらがってきた。

「まあつまり、数日後ぐらいの未来ぐらいまでなら見れるぜ、ってことさ」

彼は言った。

「数日……」

愁は呟いた。 数日で何がわかるというのだろう。

「数日分あればさ、葬式の時のご親戚とかさ、その後の大学の友人さんのぽっかりとした喪失感とかさ、そういうの、ひととおりみてみてさ。俺、仕事柄そういうのよく見るけど、……あれ見たら死ぬ気なくなるぜ、ホント」

青年は、愁の目線に合わせて親しみを込めた口調で静かに話した。愁は、何もわかってない癖に、と一言いいたくなったが黙っていた。実のところ、青年の言い草自体はいっさい共感できなかったが、「自分の死後の世界を覗いてみる」という提案自体は魅力的に思えていた。しかし、愁は、そのことを極力悟られないようにつとめていた。

「全部お前の都合のいい妄想だな。俺のこと悲しむ奴なんていないから」

「それならそうでかまわない」 

羽根野郎は妙に強気だった。実際見てみれば答えはわかる、と愁の否定には取り合わなかった。しまいには、彼は、こう言った。

「君だってせっかくなら死ぬ前に答え合わせしてから、心置きなく、死にたいだろ?」

愁は思った。何て強引な奴だ、と。

そして、愁は折れた。

「ずりーぞ、その理屈」

羽根野郎は、間髪入れず「決まりだな」と、笑って言った。何て強引な奴だ。

愁が渋々立ち上がろうとするやいなや、羽根野郎がそれを待っていましたといわんばかりに、すかさず愁の肩をぐいと引き寄せた。思っていたよりずっと力強かった。

そして、次の瞬間、あたりが白い光に包まれた。――

――そして、彼らはそのまま時空を超えた。

-3-

次に愁の視界の白い靄が晴れたとき、愁は天使風の男に腕を引っ張られ、青い空の中に浮かんでいた。

眼前を見下ろすと、東京のビル群がミニチュアのように視界に広がっていた。ビル群の景色は彼らの移動に応じて、徐々に変化していった。最初は高層ビルが多かったなか、時折整備された公園がビル群の中にぽつぽつと混じるようになった。都心から移動しているのだろうか。

「これが俺の死んだ後の世界……」

愁は呟いた。

景色はどんどん変わっていく。その移り変わりの速さから、二人の飛翔速度の速さがうかがい知れた。ミニチュアのビルの高さがどんどん低く平たんになって行き、壁面の色は都会的な黒から赤茶けた灰色に移り変わっていく。整備されていない緑地の黄みがかった緑も増えていった。

「何も変わらないな……何も」

飛翔のスピードが少々遅くなり、高度が低くなった。通り沿いの歓楽街やあまり高くない雑居ビル群が良く見渡せるようになった。

「変わるさ。 賭けてもいい」

羽根の男は言った。

立ち並ぶビルの高さがまた一段二段と低くなった頃、彼はまた一段階、飛行速度を落とした。徐々に高度も下がり、ビルが大分近づいていく。

その一つの中に、羽根の男は愁を連れて向かってゆく。

-4-

そこは病院だった。

二人は霊安室に入った。上から様子を見下ろせるように、天井の梁近くのでっぱりに腰をかける。

愁は上から見下ろした。霊安室に横たわる見慣れた死体があった。俺ってああ見えるんだ、と愁は思った。自分で思っているより肌は白く、瑪瑙のような硬質な印象を与え、自分で思っていたよりすらっとしていた。

霊安室には、愁の父親、母親と白衣の若い医療関係者がいた。愁の母親は愁の亡骸の前で嗚咽し、愁の父親は少し離れたところで若い医者を詰問していた。

羽根野郎は指さして言った。

「ほらみろ、ご両親もあんなに悲しんで」

「だから?」

こいつ何もわかってないな、と愁は思った。

「だから近づいて行ってさ……」

「俺はいい」

「……」

「俺はいい、つってんだろ」

「えっ……」

行くわけないだろ、と愁は思った。

天使野郎は、愁のかたくなな態度に説得は早々に諦めたようで、その大きな羽をはためかせて霊安室の床へ舞い降りた。

愁はあきれた。なんというか、想像通りだと愁は思った。

天使野郎には新鮮に見えているのだろう。

愁が見下ろすと、天使野郎は父親たちのすぐ後ろに立っていた。あの距離なら、会話の内容も聞こえているに違いない、と愁は思った。

愁は上から眺め、会話の内容と天使予想が見聞きしたやり取りを予想した。多分だいたい当たっていると思う。

まず、天使野郎は病院の一人で下に降り、若い医者と壮年の男性がもみ合っている様子が間近でよく見える位置に立った。そして、彼はようやく気付いたようだ。もみ合っているというよりは、細身の医者が一方的につかみかかられて詰問されていたことを。
 医者はすごい剣幕で愁の父親から詰め寄られていた。半ばのけぞりながら壮年の男性に肩をがっしりつかみかかられ、「息子を返せ!」と、理不尽な理由で怒鳴られていたのは遠くから見ても気の毒なぐらいだ。

「お父さん、お気持ちお察ししますが、おちついておちついて」と、まだ若い青年医師はあたりさわりのない言葉で父親をなだめようとしていた。彼は、まだ研修医ぐらいの若さであろうか。おそらく責任をとることもなあなあで受け流すことにもなれておらず、優しくなだめようとするが、火に油を注ぐばかりだ。

愁は天使野郎の方を見た。彼は表情を隠すこともなく驚いていた。特に、父親が金の話を口にするたびに、わかりやすく困惑していた。

「息子にいくら投資したと思ってるんだ一千万だぞ一千万!それが今回のでパーだ一千万が」

父親の声は大きいので天井近くから眺めている愁のもとへもはっきり聞こえた。父親の言い分のあまりのばかばかしさに愁は苦笑する。人の命の話をしているはずなのに、彼は仕事の癖か、いや、仕事が人生のすべてになってしまっていたからか、お金という尺度に落として無意識に理解しようとしている、俺の存在を。だいたい一千万って高いのか。人が数年遊んで暮らせる金額ではあるけれどそれだけじゃないか、と。

非常にリーズナブルな金額に息子を換金してしまった滑稽な愁の父親の言動と行動に対して、天使野郎はたいそう驚いているようだった。愁は思った、彼はこの仕事をしているはずなのに、こういう状況を見たことがないのか。もしそうだとすると、魂をどうこうとか時間をどうこうとかいっぱしの神様側の仕事人の振りをしているけれども、そもそもそういった歴自体も浅いんだろうな、とちょっと想像した。そして、だとすると、その前は――。

「そうよ」

その時、先ほどまで愁の亡骸の前で静かに泣いていた愁の母親が、ふと思い出したように顔を上げてつぶやいた。

そして、愁の死体に抱き着きながら泣く。 

「違うのよ、

愁ちゃんは、お金なんかじゃないの。だって、こんなにいい子で、真面目でいい大学に入ってくれたのに、なんで……」

愁は天使野郎の方をちらりと見た。彼は、またとても驚いていた。そして、さすがに呆れたのか、皮肉っぽい笑顔を浮かべてから、静かに首を横に振り、息を吐いてから、はた、と上を見上げた。愁と目が合った。

愁は病院のカーテンレールの上で足を組みなおしながら、

「だから、行かないといった」

と皮肉っぽく言った。わざと、口を大きく開けてゆっくり喋ったので、天使野郎にも伝わったことだろう。

天使野郎は目をぱちくりさせてから、首を回して、周りを見た。

「いったいいくらの損失だと」

「お、お父さん、ね、落ち着いてください……」

「うるさい!どうにかしろ!責任とれ」

「ぐすっ、愁ちゃああん…」

「お辛いでしょうけど……ねっ、ねっ…!」

唖然としている天使野郎の横で、相変わらず、愁の父親は声を荒げて何も落ち度のない青年医者を暴言で詰問し、その横で、そんな父親を態度を咎めることもなく、愁の母親は一人、自分の世界にこもって愁の抜け殻に向かって泣いている。

天使野郎はしばらく呆然とその様子を見ていたが、ある時から観念したのか、うつむき、首を横にしずかに振ってから、だめだこれは、という風に中空へはばたき、愁のいるカーテンレールへ舞い戻った。

愁はあきれたように口を開く。

「ほらな、見栄ばかりだろ。あんた、まるでそんな親がいるだなんて。知らなかったみたいだな」

「……」

そういう反応だろうな、と愁は思った。思った通りだ。そして、愁はちょっと皮肉っぽくわざとらしく勿体つけてゆっくり喋った。

「というわけで、俺は死ぬべきだ」

「いや……な……? まだ決めつけるのは早いぜ……」

天使野郎は愁の横で肩に手を置いた。余裕のある風を装っていたが、明確に焦りを隠せていなかった。

「自分の葬式見てからでも同じこと言えるか?涙にむせぶ友達さん」

「よゆーだよ、第一……」

愁は吐き捨てた。

「どうせ、あいつら、こないし」

 天使野郎は強引に愁を連れて飛んだ。

白い光がまた満ちる―――。

-5-

その翌日、なのだと彼は言った。

羽根野郎に連れてこられてやってきたのは、とある葬儀場のセレモニーホールだった。白を基調とした祭壇の下に安置された白い棺、周りに飾られている色とりどりの花。そして見たくもない誰かの顔写真。これほど、貼りつけた笑顔の似合わないやつも珍しいと思う。

 参列者は数十人、案外多い。とはいえ、年代層はほとんど親父やお袋と同年代の顔ぶれであり、遠い親族を覗けばここにいる大多数は顔すら見たことのない他人である。会社の人や遠い親戚を集めてきたというところだろう。

スピーカーから流れるクラシックに合わせて、クソジジイがマイクを手に取る。

「えー、みなさん、本日はお越しいただきどうもありがとうございます」「息子は生まれながらにして、重い病に侵されていましたが、公にはそれを隠して、短い人生を一生懸命に生きてきました」

大げさにありもしないことをさもあったかのように語る壮年男性。演説のスキルだけで口以外何もできないのに、地元の企業でそれなりの立場にのしあがっただけのことはある、と愁は妙に感心した。父親はしゃあしゃあと続ける。

「そんな息子は生まれてきたことを後悔していないと、死ぬ間際で私たちに感謝してくれて、そして私たちもそれを……」

「あれ、嘘だよね」

横の天使野郎が、父親の様子に引きつつ、愁に確認をする。 ああ、と愁はうなずいた。

「そうだよ あいつら、いつもああさ。 自分たちを演出するツールとしてしか、俺のことを見てない」

「あ……」

羽根野郎は困惑して言葉に詰まっていた。 気まずそうに目線をそらすなら最初からそんなことしなきゃいいのに、と愁は思った。 昨日の霊安室のやりとりをみた時点で葬式だってこうなるって結果はわかってただろ。

 愁はそう思いつつも、念のため、一応、葬式の様子を眺めることにした。 とはいっても客は愁の知らない壮年の男女が大半を占めていた。 親の知人などを関係者として水増ししたのだろう。 親戚以外では、愁の良く見知った顔はなかった。

そう思った矢先、毎週顔を合わせる見知った顔ぶれが目に入った。

「あれ、友達さんじゃないかな……?」

 横の天使野郎がきく。

客席から立ち上がったのは、愁の大学の語学ゼミの同級生だ。 週二回の語学のゼミが同じというだけで、共同発表の準備をしたり、ノートの貸し借りをする程度の間柄なので、通夜に駆けつけてくれたことに愁は少し驚いた。

 彼らは焼香台の前に立って、すすり泣きをしていた。 こういうところに来るのはきっと初めてなんだろう。 動作がぎこちない。 普段、能天気そうな彼らからは少し意外な姿だった。 そう思ってから、愁は自分自身についても思い返した。

俺だって周りに自殺者なんていなかったな……。悪いことしてしまったのかな……。

「ほらな、来たじゃん。悲しんでんじゃん」

うるさいな天使野郎。

「どうせ、空気に流されているだけだろ」

「そうかな……?」

天使野郎は少し笑顔を取り戻しておどけたように言う。

「試しに明日へいってみよう」

そういって奴はまた愁の服をひっつかみ、そして、時空がまた飛んだ――。

-6-

昼だった。

愁たちが次に目にした光景は、大学のキャンパスの見慣れたカフェテリアの風景だった。愁ら二人は部屋の隅の掲示板の前に着地する。

2限が終わったあたりだろうか。先ほどのゼミ仲間三人が軽食をもって空いているテーブルについた。何か談笑しているようだが、いつもより大分静かな様子だった。無理やり笑おうとしているのか、笑い方は普段より大分ぎこちなかった。無理して笑っているのが部屋の端にいる愁たちから見ても十分伺い知れた。

天使野郎は、愁の方をちらりと見た。 

ほらな?と、彼はは言いたげだったが、愁はその瞬間の彼が視界には入らなかったように装った。ばれてるかもしれないが、別に、それ自体は構わない。

眼鏡の金沢がぎこちなく食べ物の包装に手を付けようとしていた所、同じゼミの女子たちが談笑しながら、カフェテリアへ入ってきた。彼女らも語学ゼミのクラスが一緒で、ゼミ仲間の松森らはたまに彼女らとゼミ後に談笑していることがある。可愛いが俺自身はあまり関わりはなく、直接言葉を交わしたことはほとんどなかった。

彼女らは、カフェテリアの一角の松森らに気づくなり、「おはよー」と挨拶をしてから大きく手を振り、三人の近くへやってきて、一言声をかけるなり、ちょうど空いていた、彼らのテーブルの隣の席についた。 もちろん、あいつらは断らない。

女の子の一人が不思議そうに言った。

「ゼミの課題? 今日は相原君いないのねー」

「愁……?」

金沢は気まずそうな顔をした。

茶髪の松森が分け入って入る。

「あいつ、欝でさー」

「あららー」

「ま、ほら、あいつ就活、大変そうだったし?」

女子たちは口々にうんうんうなずいているが、お前ら俺の何を知ってるんだ?と、心なしか愁は思った。

女子が可愛いすぎるからか、そんな可愛すぎる女子たちの明るいノリに合わせたいが為か、わからないけれども、ちょっとゼミ仲間の空気が変になってきた。おちゃらけたように、松森が言う。

「よりによって、大手の商社ばかり受けててさー」

「えー商社―? それはちょっと」

少し毒のある語句を口にしながら、引き笑いをする女子。

「だよなー、俺もそりゃ高望みだって言ったんだけどなー。だってあいつ暗いじゃん」

口数少なめな片桐まで女子のテンションに合わせ始めてきた。まさか、あいつまで。同類だと思ってたのに。

「そーそ」

女子はストローで紙コップの中の氷をかき混ぜながらたいして興味なさげに言う。

そして、松森と金沢らは息を合わせて肩をすくめるジェスチャーをした。

「あいつこんな感じだよな、きょどっておどおどしててさ。 ハイ、ハイって……」

「わっかるー!」 女子は手を叩いて同意した。俺ってそういう風に見えてるのか、と、少々愁は落胆した。

松森が笑って言う。

「お前ら、ひっでーな。鬱で休学中の人間に対してー」

「ひどくないですーぅ!」

ロングヘアの女子が媚びる。そしてもう一人の女子がとどめの一撃を刺した。

「むしろ来なくなって良かったじゃない。お荷物が減ってさ?」

すごい言い草だな、と愁は思った。それを聞いても、松森らは笑いながら「ひっでー」と茶化す程度で、否定らしい否定もしない。

隣の天使野郎をちらりと見やると、今回も、漫画にでも描いたようなわかりやすく驚いた表情をしていた。

女子のひとりが、「本人の前では言えないくせに」と、冗談めかした声で小突くと、金沢らが「あっはは」と気の抜けた小さな笑いで肯定した。つられて松森も嗤った。おとなしい片桐でさえ肯定した。

同級生たちとの笑い声と女子の良く響く高い声が混ざる。その後も何か話し続けていたようだが、昼休みになって、人が増えてきたカフェテリアの人混みのノイズにかき消されて聞き取りづらくなっていった。

もう勝手にやってろよ、と愁は心の中で毒づいた。ほんのわずかでも期待した自分が馬鹿らしく思えた。彼らを眺めているのすら、辛くなった。

愁は、くるりと踵を返してカフェテリアの外へ向かった。外へ通ずる出口へ向かう愁に対して、一連の流れを同じく隣でみていた羽野郎は何かを言いかけ、愁を呼び止めようとした。しかし、上手い言葉がみつからなかったようで、なんと言おうか考えあぐねていた。 いうなよ。

天使野郎にだけは少々の後ろめたさはあったものの、愁は無視をして、振り向かずに出口へ向かった。自分の住むアパートの方へと、歩いてでも帰ってやると、愁は思った。 少々自棄(やけ)になっていたかもしれない。 ともかく、大学(ここ)からはなれたかった。

-7-

相原愁は大学の外に出た。羽根野郎は相変わらず追い付いて来ない。

愁は道なりに歩きながら、彼が周囲にいないことを確認した。試しに、今度はどんな手を使ってでも死んでやるといった、ちょっとセンセーショナルな自戒を声に出して呟いてみたが、駆けつけてくる誰かはいない。当り前だ、そんなことを一瞬でも考えた自分が本気で馬鹿みたいだ、と思った。
羽根野郎は後ろから走ってきたりはしない。

それでも愁が懲りずに歩いていると、

――バサッ。

上の方から大きな羽音がした。同時に巨大な鳥の影のようなものが愁の周りに現れたが、もちろん、それは鳥ではない。羽根野郎(あいつ)だ。 
 彼は空から舞い降りてきると、愁の斜め後ろへ並び、愁と同じペースに合わせて歩き出した。  

愁は振り向くことも、止まることもせず、彼のことは極力無視を装い、努めて気づかなかったふりをすることをした。 歩くスピードだけは、少しだけ、緩めた。

愁は、無視した風を装って独り言を続けた。

「俺、妙に身体強いから、睡眠薬は吐いちゃって効かないんだよな……。しかも、今回も駄目だということは」

「だったら」と不服げに割り込むやつがいた。 奴だ。 

愁は会話を引き継がないで、独り言を続ける。

「次回の自殺方法としては、電車とか」 

「痛いよ……? 手足もげて、内臓飛び出て、ぐっちゃーーーって」

羽根野郎はもちろん割り込んでくる。 奴のジェスチャーはでかい。

さすがに聞こえていないふりを続けるのも妙な気がしたので、愁は嫌気がさしたようにしぶしぶ言った。

「独り言だよ」

「ははっ、それにしちゃずいぶんとでかい独り言だな」

天使野郎は気にもとめない。愁は立ち止まって振り向いた。

「てか、なんで、ついてくるんだよ」

「仕事だからな」

「だったら、職務まっとうしてさっさと死なせてくれよ」

「やんねー」

「仕事だろ?」

「じゃあ、仕事じゃなくていいわ」

天使野郎は軽い調子で愁の受け答えを流す。何なんだこいつ、と愁は思った。「だからさー」と、緊張感のない口調で天使野郎は引き続き説得を試みていたが、愁は、それ以降は無視をすることにした。 

愁は道なりにどんどん進んでいく。 

道中、大音量でラジオを流す車が止まっていた。愁はその車のことは、一瞥するなり、たいして気にも留めずその横を通り過ぎたが、後ろの天使野郎は違った。彼は、車の横へ来るなり、磁石に引き寄せられるかのようにそのカーオーディオの前から動かなくなった。愁は振り向かなかったものの、後ろで彼が足を止めた気配自体は察したが、構わない、と無視して進んでいった。どうせ、またすぐに追っかけてくるだろうという明確な期待があった。

音楽を背にしながら、愁は思った。どことなく懐かしい響きのヒットソングだなあ、と。そういえば、最近の音楽に興味がなくなってもう久しい。

愁がそう思った頃、大分後ろの方からクラクションの音がしたような気がした。その車かどうかはわからない。

-8-

羽根野郎はしばらく愁には追い付いて来なかった。愁は構わず自宅のある方角に向かって徒歩で進んだ。それなりの距離であることは知っていたものの、普段は電車で通っているからあまり距離感の実感がわかなかったのだが、やはり東京を横断するとなるとだいぶかかる。

とはいえ、いまいち身体的実感のない身であったため、とりわけ疲労のようなものは蓄積しなかった。ただただ変わる景色。 時折目に入る屋外地図で位置を確認する。方向音痴でなくて良かった。

数時間ほどたったころだろうか、俺は街中の小規模などこかの庭園を横切っている途中だった。コンクリートで舗装された歩きやすい緑園。少し向こうにみえるのは池。ここで、少し道を踏み外して、そちらの池の中にずぶずぶと溺れるように歩み進んでいったらどうだろうかという空想がふと脳裏をよぎったが、どうにもならないだろうなと思った。例え生身の肉体のみだったとしても、その浅瀬の浅さに、おぼれることすらできずに、きっとただ惨めなさまで、誰かが俺という不審者の第一発見者になるだけだろうと思いなおした。

そんな、滑稽な皮肉めいた空想を巡らせ始めていたころ、

――バサッ

と、聞き慣れた大きな羽音が聞こえた。振り向くまでもなく、羽根野郎が来たんだなと愁は確信した。 

案の定後ろから、聞き慣れた声がする。

「ごめん……」

悪いことはしていないのに取り繕うように謝り、それも、本心であるかのように本当に悪びれてそうに上手く発音するのが、妙に、気に障るな、と愁は思った。
「あ、でもよかった、みつかって……」

声の主は続ける。本当に「みつかってよかった」と思っていそうな感情豊かな声が、また一段と癪に障る。お前に俺の何がわかるっていうんだ。愁は立ち止まって振り向く。

「俺が川底に沈むとでも思った?」

「あ……いや」

「あいにく俺は泳げる」

愁は水の方を見た。浅い池だ。

「水に浸かったら理性がマヒして岸に向かってしまうだろうな」

「それって本当は死にたく……」

「――……」

もう答える必要はないと思い、愁は口をつぐんだ。前へ進む。

「はぁ」と、天使野郎が愁の後ろでわざとらしいため息をつくのが聞こえる。やれやれ、そのあとに続くフレーズは村上春樹か。

「そんなに急いで帰らなくてもいいんじゃないかな?」

羽根野郎が言った。 愁は、彼のこの気を使ったような、そして表面をなぞるだけのような言い回しが気に食わなかった。まるで腫れ物に触るような扱いだと感じた。

「……なぜ?」

「だってその、君は戻ったら……その」

「するよ。 今度はもっと確実な方法で」

羽根野郎は大声を上げる。

「だーから。 それはーあ」

「あんたに何がわかる」

愁は言った。愁にしては力強い物言いで、その場にいる相手に向かってはっきりと、言った。

「俺にはあんたと違って、何もない。俺がつまらない人間だから」

あいつは何も返さない。ただ聞いてる。

「シューカツ、何社受けたと思う?」

「……」

羽根野郎はこちらを見る。口を開いて何かを言おうとしているようだけれど、何と答えたらいいかわからないといった様子で、具体的な言葉は聞こえない。
  すかさず愁は言う。

「二十四社。全落ち」

「履歴書で君のことなんてわからないよ」

羽根野郎がしゃあしゃあと言った。その現実味のない言い方に、愁は、きっと就活したことないんだろうなあと感じた。 履歴書の枚数だと思うなんて。愁は言った。

「……エントリーだけなら90いった。面接はどこでも笑顔だった。でも落ちるんだよ、全部」

羽根野郎は絶句した。

愁は歩道から車道に出た。羽根野郎は追ってこない。

「プライドなんてない。中小もいっぱい受けた。ていうか、ほとんど中小だ」

「それでも、どこからもいらないって……祈られた」

愁は交通量の多い道路の真ん中に立って、大きく手を広げた。今のこの身体では轢かれないのはわかっていたが、轢かれるふりをした。数十メートル先から、トラックがこちらに向かってやってくるのが見えた愁は動かない。

羽根野郎の大声が後ろの歩道から愁に向かって叫んだ。

「まだまだこれからじゃないか。いい仕事が決まらなくたって! なにも死ぬことはない! この人たちだって、皆が皆あ!」

愁は歩道の方を振り向いて言った。

「俺にはそんな選択肢ないんだよ」

「でも、死ぬよりマシだろ!」

「正社員で就職しないと親が許さないから」

「……本当に親がか?」

羽根野郎は少し皮肉っぽい、あきれたような顔をして言った。

愁の前方から来たトラックは、もう、愁の目の前まで到達していた。愁はそのまま立って、トラックが通り過ぎるのを待った。トラックを凝視し、いかにもここにいるぞという風に手を大きく広げながら。もちろん、トラックの運転手にも、待ちゆく人々にも、誰の目にも見えはしないが。

トラックが愁の身体を通過した。正確には、すり抜けた。思っていた通り、今の愁の身体と相手の大きな車両は、互いに干渉しあったり、影響を及ぼしあったりすることはなかった。愁の身体はそのままだった。だけれども、遠くの歩道にいる羽根野郎には、心なしか何か喋った音声が聞こえづらくなっているかもしれない、という気はした。愁は口を開いた。

「俺も、

かも、

しれないな」

トラックは完全に過ぎ去った。愁はきちんとトラックに「轢か」れた。――なんのことはない、愁の肉体はここになく、トラックの運転手もいかなる破片にも遭遇せず、両者は何もまじわらず日常に過ぎ去っていった。
 トラックが去っていくのを確認してから、羽根野郎は愁のいる路上に、こそこそと出てきた。

「やっすいプライドだなあ」

「あんたにとってはな」

愁は言った。

「あんたは、コミュ力もありそうだし、機転もきくし、どうせ彼女とか、誰かしらいるんだろ?」

天使野郎は答えない。愁は続ける。

「でも、俺には何もない」

一番主張したかったことだ。愁は静かに続ける。

「俺にはあんたと違って、まともな人間関係が何もない。心の通う友人も、頼れる親族も。見たろ? この通り、俺には誰もいないんだ。誰からも必要とされてないんだ。だから、生きていても、いなくても、何ら変わりはないんだよ」

天使野郎が納得がいかないという風に問う。

「必要とされないから、死ぬのか?」

「ああ。何が悪い」

「『何が悪い』って……。悪いよ」

「何が。別に誰も悲しまないんだから、いいだろ? 俺がいてもいなくても、変わらないわけだし」

「悪いさ」天使野郎は一呼吸置いた。

「自分に悪い」

愁は意外に思った。

「自分? は死ぬから関係ねーだろ。どうせ消えるんだし。感覚も痛覚も記憶も消えた後なんて、どうとも思わねー」

「消えない」

愁の言葉を冷めた声が断ち切った。そして、声の主は静かに続けた。

「死ぬとは―――」

彼は、一呼吸おいてから、静かに言った。目はうつろで、どこかここでない遠くを見ている。

「死んだら何処へ行くかといえば、……きらきらした、白い光の粒……それに、淡い対岸の灯り。……そして……」

何かを言いかけようとして、彼は別のことに気づいたのか「ハッ……」と息をのみ、そこで発言を打ち切った。

愁は、思ったより普通だなと思った。 想像していた以上に、典型的な死後の世界風だというか。

愁は率直な感想を述べた。

「なんだ。案外よさげじゃん。むしろ、早く行ってみたい」

その瞬間、愁の目に何かが映った、かと思うと突如、パァンという音が耳元で鳴り響いた感じがした。

愁は何が起きたか一瞬わからなかった。ただただ、頬の痛みを感じた。

ワンテンポ遅れて、愁は自分の身に、今、何が起こったかを把握した。

羽根野郎が平手打ちしたのだ。

愁は、さっき平手打ちされた頬を抑えた。

羽根野郎の方としては完全に無意識の行動だったらしい。愁が頬の痛みに気づき、片手で頬を抑えた愁にきっと睨まれてから、彼はようやく自分が何をしたのか気づいたらしい。彼は自分の手を見て、息を呑んだ。そして、神妙な表情をした。

「……すまない」そういって彼は謝ったが、一言、言葉は付け足した。

「スマン、でも、本心だ」

と。

愁はその態度に腹が煮えくり返った。

「はあ?何だよ?」

「なんで……なんで、よってたかって、俺のことをいたぶるんだ」

羽根野郎は、愁をなだめるかのように何かを言おうとしたが、いまの愁の耳には穏やかな言葉はもう入らない。

愁は声を荒げて言った。

「生きるのが苦しいから、せめて、マシになりたいってだけなのに。死ぬのも駄目だというのなら、じゃあ、どうしたらいい?」

愁はさらにまくしたて、天使野郎に掴みかかる。

「あんた、俺を気遣うフリばっかしてるけど、本当は俺に苦しめと? 苦しみ続けろ、と? 俺は――」

「だって―――」

羽根野郎は、愁の勢いに屈せず、分け入った。
「勿体ないじゃん!!」
そして、彼は言い放った。

「俺は……! 生きたかった!!」

やっぱりな、と愁は思った。こいつ天使じゃねえ。

知ってた。

「……やっぱり人間だったのか」

そうだよな――。愁は呆然としていた。

セミの声が空に鳴り響く。初夏の夕暮れ。青年二人は、都会の街の真ん中で、呆然としてつっ立っていた。

-9-

数時間かそこらが経った頃合いだろうか。 

空の色は青みが増し、藍色の空に橙色の雲が混じるような時刻になっていた。

愁たち二人は、さっきと同じ場所にいた。クールダウンに、だいぶ時間を要していた。
 天使野郎、もとい「なぜか羽の生えた元人間野郎」は、蚊の泣くような声で俯いてつぶやいた。

「もっと人間でいたかった」

「……」

愁は、素直に言うなあと思った。そして、肯定した。
「そうなんだろうと思っていた」

「え……?」
奴は本心から意外だといった風に顔を上げてきょとんとする。憎めないな、と愁は思った。

愁は説明した。こんなもんだろうという、自分の解釈だ。たぶん当たっている。

「……多分、人生に未練があって、上手く死にきれなくて、こんな地縛霊みたいになってんのかな、とか、すごく思ったけどさ」

「すごい、図星だ」
――ほらな。

「ちょっと意外だった。もっと自分のことで手一杯なのかと思ってた」

奴は少し微笑む。お前の言いなりにはならねえぞ、と冗談めかして示すために愁は少々肩をすくめオーバーに示して言った。

「手一杯だよ」

一呼吸おいて続ける。

「むしろあんたの方が余裕なさすぎだ。俺とお前は違う、そんな基本的なことすらわからないなんて」

そして愁はもともと行こうとしていた道を歩き出す。天使野郎が怪訝そうな顔で尋ねる。

「……またいくの?」

「ああ、だってあんた、死なせてくれそうな気配ないし」

「そして、また首つるんだ」

「首はつらねえ」

愁がそういうと、天使野郎が小さく息を呑んだ。少しうれしそうな表情をした。

お前の言いなりにはならねえぞ、と愁は思った。
「あんたがまた来たら困るから。もっと確実な方法さがす」

愁は静かに言った。このぐらい牽制しておいたら十分だろう、と。
しばらく返答はなかった。

愁は天使野郎の顔はみていなかったが、とはいえ、単に諦めただけだろうと思った。そして、なおもかくさず、懲りもせず、また追ってくるのだろうと信じて疑わなかった。

その時、後ろから息を吸う音がした。

そして。

聞き慣れた声が聞こえた。

「そんなに死にたければ死なせてやるよ! この書類にサインしろ。そうすれば死ねる」

今までとは違う大声だった。

愁は戸惑った。

「マジ……?」

愁は急な変化に驚いて顔を上げ、奴を見やると、奴は険しい顔をして頷いた。

奴は頑なに書類を引っ込めようとしない。その頑なな態度に、愁は諦めて渋々書類を受け取った。

奴は書類を渡すと、くるりと振り向いて、音楽番組を流す大型ビジュアルのほうを見ている。
愁は、サインをしているふりをすることにした。そうしていれば、どこかのタイミングで諦めて引き下がってくれるに違いない。そんなわけないか。

愁は書類の上でペンを動かしながら落ち着いた表情で言う。

「あんた……本当に音楽好きなんだな」

「……」

奴は後ろを向いたまま答えない。

「さっきも立ち止まって聴いてた」

「……死ぬのやめた?」

「やめない」

愁は書類にペンを走らせた。インクは出さない。あくまでも、ふり、だ。

天使野郎も無視を続ける。

大型ビジュアルに映し出されるコンテンツが入れ替わった。

どうやら新規バンドのランキングのようだ。
こころなしか、天使野郎が真剣に見入ったような気がした。奴はこういうのに興味があるのか。

愁が様子を見ていると、何番目かの切り替えの後、天使野郎が息を呑んだのが聞こえた。

その意外な様子に、愁は顔を上げて様子を見る。

「どうした?」

「……君には関係ない」

いつになく冷たい響きだった。お前は仲間ではない、というような。
思い直したのか、天使野郎は言い直した。
「……いや、冥土の土産ぐらいにはなる話かな」

彼は静かに言った。

「昔ある所に、南川春樹くん 通称ハル、というバンドマンがいました」

大型ディスプレイの番組は相変わらずさっきと同じ曲を流している。

-10-

ハル、と名乗る天使野郎は語った。

その日はメジャーデビュー第一弾、リリースしたファースト楽曲のレコーディングを終えた日だった。

メジャーデビューのレコーディングを追え、意気揚々と帰り道を歩いていたその日、彼は交通事故にあった。

ハルは浮かれていた。ハルはバンドのギターボーカルで、バンドの8割の曲はハルが作詞作曲したものだった。そんな自分の曲が、今日をめどに、メジャーシーンにでる、そう思うと、普段はおちついてあまり感情を大っぴらにしないハルでも、それなりにその日はうかれていた。

その時の記憶は曖昧だった。口笛を吹きながらよそ見して横断歩道を渡っていたら大きなトラックに遭遇したほかは、記憶らしい記憶は思いあたらないまま、ふと意識を失い、気づいたら彼は見知らぬ場所にいた。

真っ暗闇の世界だった。そして、暗闇の中、きらきら瞬く儚げな灯篭のような光。

ハルは息を呑んだ。ただただ茫然としていた。少し後、自分を取り戻してギターケースのストラップを握りなおそうとすると、あるはずのナイロンストラップの生地の感触が手に伝わらないことに気づいた。ふと見やるとギターケースを彼は持っていないことに気づいた。

「何が……」

しずかにあたりを見渡すと、暗闇の向こう、水平線がわずかに波打ち、その水平線の向こうの遠くから何かがやってくる気配があることに気づく。

息を呑んだ。舟だった。

水平線が、今度ははっきり水のように波打っていた。

舟の上には白い人……いや、『ひとのようなもの』だ――が載って、ゆったりと櫂を漕いで近づいてくる。

とうとうハルの目の前まで人影はやってきた。

遠近感が鈍ってよくわからなかったものの、目の前に近づいてくると、その人影は、とても大きいことがわかった。

あるところで舟は止まった。人影が中から降りてくる。目の前にやってきてなお、白くうすぼんやり光る人影のディテールははっきりしない。

舟から、少なく見積もって三メートルはある馬鹿でかい人影が、ハルの前に立った。

ハルは、驚きつつ、「あの、ここはどこですか」と懸命に会話を試みる、のどがどうにかこうにかしてしまっていて、かすれた声しかでない。

白い人影は口も開けずに言った。

「死ダ」

えっ…と声にならない声でハルが小さく言う。

「サア、オイデ」

と、無機質な声がこだまするようにハルの脳髄に鳴り響いた。

「えっ、死」

「大丈夫、こわくない」

「死んだ?」

「シンダ」

「ムコウ いたくない こわくない やさしい」

無機質な声がこだまするようにハルの脳髄に鳴り響く。

「明ルイ」

ハルは割り込むように、そして半ば懇願するように、どうにか、『一番重要なこと』を振り絞るように訊いた。

「音楽は?」

一呼吸間があった。

「ナイ」

断罪の瞬間だ。

「っ……」

ハルは俯いた。ハルにとって音楽はとても大事な、「人生を賭すにあたる」ものであった。

次の瞬間、ハルの身体は恐れや、人ならざる者への畏怖を忘れた。

ハルは白い人影の透明な腕を振り切った。

身体が本人が自覚するまでもなく動く。そして、走り出す。真っ暗闇の中を、影の前から必死に逃げ去る方向へ、遠く遠くへと全速力で走っていった。

ふりきってからというもの、白い影は微動だにせず追ってこなかった。でも、ハルは走る速度を緩めなかった。ここで走るものを辞めたら捕まえられてしまう予感がしたからだ。

予感は当たった、白い人影自身は追ってこないものの、その腕が急に伸び、飛ぶようなスピードでハルの後ろから追ってきた。

全速力でも、間に合わない。

もう、捕まえられてしまう。

ここまでか。とうっすら思ったその時、急に目の前の世界が変わった。

また、その際、白い腕が空を切る音が止んだ気がした。

真っ暗でひかりといえばちらちらする灯りしかなかった場所から、一歩踏み出すとそこはなじみの草原が広がり、景色がひらけた。空は青く、そして頭上には見慣れた赤い鳥居、そして前方には同じように赤い和風建築がみえた。

鳥の声などは聞こえないものの、見慣れた世界に束の間安堵し、ハルは静かに立ち止まった。そして後ろを振り向く。

もう白い人影は追ってこない。

どうやら、振り切ったらしい。

ハルは、安堵の息を漏らした。そして、前方の境内の大きな赤い建造物を見やった。

「……」

ハルは息を呑んだ。目の前の赤い自社風の建造物には無数の白い紙が貼りつけてあり、その中の一枚には黒い筆で何かが書いてあるようだった。彼は、恐る恐る近づいて、その一枚をめくった。それは日本語だった。

『地上への使者を求む』

読みやすい文字でそういう風に書いてあった。ハルは、その建物を見上げると、目をつぶってこくりと一回頷き、和風の赤い寺社風の建物内に入っていった。

-11-

中に入ると、ハルは、人ならざる者に会った。部屋の奥は暗く、はっきりは判別できなかったが、黒い影のようなものが奥の間に座っていた。まるで、机に向かっている事務員のように感じられた。

「彼」は、先ほどの白い大きな人影のようなものとは違い、ずっと、普通の人間に近い者だった。かたちがよくわからないことを除いては。

彼は日本語を流暢に話したし、意志の疎通もハルが今まで身につけた通りのスタイルで十二分に可能だった。ハルは、「彼」と、契約書のようなものも交わしさえした。ビジネス程度以上の感情があるのかどうかはわからなかったが、それは人間どうしでも同じだと思い直し、あまり気にしないことにした。

ともかくも、ハルは、「人ならざる存在」でも、「亡くなって肉体を離れた人の魂そのもの」でもない、少し変わった存在になった。そして、使者としての仕事を受け持つことによって、実質的に、死=川の向こうのどこかへ行くこと、を逃れることが出来たのだ。

永久に河の向こうへ渡らなくともいいし、音楽と共にあっていい。割り振られた「仕事」をきちんと遂行する限りでは。

-12-

そうして、ただの人間だった南川春樹ことハルは、天使風の羽が生えてそれらしい容姿になった。

とはいっても、彼自体に大きな羽根以外はとりわけ目立った変化はなかった。

仕事がいいわたされた。亡くなった死者の魂を例の「きらきらした草原地帯」につれてゆき、河の向こうへ連れていくという仕事。ハルはその先に何があるか知らない。

ハルが知っているのは、この仕事をやっているうち、つまりハルが使者として勤めを全うしているうちは、ハルはあの河の向こうへ渡ることを免除される、ということだ。

だからまあ、河の向こうに何があるかは知らないままでいいのだと思う、とハルは語った。

ハルはある日の仕事を語った。

仕事の頻度はおおむね一日一回、多くて一日二回だ。それ以外の自由時間は何をしていてもいい。

「暇が多くていいな……。と思うだろ?」

とはいえ、彼が相対するのは死者の魂だ。気を使うし、高齢で家族に見送られ安らかに大往生なんて、なかなか珍しいぐらいだ。横にある死体は往々にして、その…グロい。

「あいつわかっていやがる」と、ハルは言った。

「あいつって…?」愁は聞き返す。

「上司、にあたる人、かな、いや、人というのは適切な言い方ではないかもしれない。ともかく、人に指示を出す上役でさ」

「慣れないうちは、病院の一室で家族に見守られてしずかに眠る高齢の老人案件を任されて、そのうち慣れてきたら、若い人、事故死、急死、入水自殺…なんでもありだ、どんどんひどい有様の案件を任せてくるんだ。

ハルはいう。

「つまり、その人の死が、「安らかで幸せな眠り」だったのか、そうじゃないのか、上はきっちり優劣をつけているってことさ」

愁はハルが何を言おうとしているのかがはっきりくみ取れず、ちょっとぼんやりとした表情をした。

「それは……その……まずいことなのか?」

「まずかないけど。でも、人ならざる神みたいな存在がさ、一人一人の人間の人生のあり方とか、死にざまについて事細かに評定を下しているの、それ知ったらちょっとぞっとしないか? それも、大体の評価基準が人間の当り前に感じるそれ、と一致してるなんてさ」

ハルはペラペラしゃべる。

えっ、上司って神なの? と愁は口を開きかけて、ふと、ハルの背中の羽が視界に入り、それはそうか……と言葉を飲み込んだ。これ以上の深入りはよしておこう。互いのためにならなそうだ。

「それ、その仕事について、長いのか?」

「ああ、二年。だから最近酷い案件を任されるんだよ」

ハルは愚痴った。

さいきん任されたのは幼児の案件でさ。連続殺人犯の。一時期ニュースの新聞欄にも乗ったやつ、と添えた。

個人的にキツかった。とハルは言った。血が出てる、女の子で。自分が殺されたことも死んだことも幼すぎてわからないんだよね。だから、俺が抱きかかえて空の上に連れていくと、ただただ飛べることが楽しそうだったな。何もわからないからさ。

まあ俺も実のところ河の向こうがどうなっているかはわからないんだけどさ、とハルは添えていった。

愁はわかってみたいか? とハルに問いかけられて、愁は少し戸惑った。そういわれると、俺も同じく深入りせず知らないままでまだいいのかな、という気になった。

あと、この身体になって、精神が病んでくるとそれが連動して羽根が黒くなるのだと、ハルはいった。否応がなしに感情が外に出てしまうというのは、まあ、考えようによってはコンディション管理がしやすいというメリットがあるともいえなくはないな、とハルは笑った。

ハルはそうやってキツイ仕事に当たった後は、なるべく音楽と触れる所に向かうことにしているといった。

都会はいいところさ。どこ行っても音楽がありふれているからな。

ライブハウスや路上パフォーマンスでほぼ毎日どこかしらミュージシャンの渾身のパフォーマンスがあるし、ああいうのをちらっと眼にすると、ああ頑張って生きているんだなという気がするんだ。

だけどな、本当にきついときは、そういう生身の熱気ですらきつくなる。そういうときは、ラジオとか、ムービーとか、録音や映像で編集されたものを見にいくことが多い。

良い時代だよな。録音媒体。

ハルは何ヶ所か観に行くスポットを決めているという。原宿、新宿、渋谷、そして秋葉原、北千住の電光掲示板の前。ルーチンのように慣れ親しんだ場所に、ふらふらと死にぞこないのゾンビのような足で赴くのだという。

そうやって正気を保っている、ハルはそういわなかったが愁はそういうことなんだろうなと思った。

「とくにさ」ハルはいった。「音楽のレコードランキングチャートのダイジェスト映像を定期的に流している大型ビジョンがあるんだけどさ。「俺の、だったバンドがそのチャートに初めてランクインしたのを見たときは、そりゃあ、嬉しかったね」

ハルは顔も上げずに言う。愁は、目の前の人波と十字路、その向こうからも十分聴こえる大型ビジュアルの喧騒をふと意識した。その場所はここなのだろうか。

「よかったじゃないか」愁は言った。「うまくいっているようで」

「うまく……は、いってるな……」

苦虫を噛み潰したような声だった。ハルは言った。

「俺が抜けた後のバンドは、どうやったかっていえば、他のメンバーはそのままで、俺がいた部分に専業ボーカルを迎え入れて穴埋め、再結成したんだ。今では人気出ててさ、常にオリコンチャート上位だぜ」

ハルは嬉しそうな語尾をもった言葉遣いで、そしてちっとも嬉しくないんだろうなという声で言った。後ろを向いていて、愁からは表情が見えない。

「よかったんじゃないのか」

「よかった……うん、俺だってそう思いたい」

静かな声だった。落ち着いている、というよりは、その中に小さな炎をともしていて、それを外の風圧にさらさまいと、小さなケージにかくまっている感じ。

「俺以外の……一緒にやってたメンバーが活躍しているのを見るのは、そりゃ嬉しいさ。特に大輝」

愁はハルが言った名前が誰を指すのかはわからなかったが、特に伝えたいわけではないのだろうと思ってあいまいに小さくうなずいておいた。

「あいつらは……いいんだけどさ」

だとすると新入りボーカルのことだろう、と愁は予想した。

大型ディスプレイのプランが一通り終わったのか、先ほどの音楽ランキングの映像に切り替わる。

先ほどハルが反応したバンドの映像になった。

ハルはじっと画面の方をみている。

愁はきいた、「あのバンドがそれなのか?」

ああ、とハルはうなずいた。

ハルが結成したというバンドの曲が開始した。サビ部分だ。

意外なことに、「この歌詞どう思う?」 とハルが聞いてきた。愁は少し戸惑ったが、悪くはないんじゃないか……俺は音楽に詳しくないからわからないけど、と付け足しておいた。実のところ、歌詞はよく聞き取れなかったし、聞き取れた部分も恋だの愛だのと歌う平凡なラブソングだな……という印象しか得られなかった。ただそれを今のハルにいっていいのかがよくわからなかった。

短く、そして小さく息を吐いた。愁が訊いたハルの反応はそれだけだ。

そして、楽曲はクライマックスの部分、サビの一番印象的な部分に差し掛かった。

人は頑張ったら幸せになれるとかたぶんそんな感じの歌だったような気がする。

「愛」「感謝」といった言葉がボーカルによって大きく高らかに叫ばれる。そしてこの部分は愁にもはっきり何を言っているかが聞き取れて印象的だった。愁の対極にある人の考え方だと思った。

「あのさ」ハルは、吐き捨てるように言った。

「俺は、あんな歌詞、書いてない」

そして、ハルは俯いた。

その姿は、愁には聴きたくない、でも聴かなければならない。という風に見えた。

「あんな、歌詞、俺のバンドが演るはずがない」

肩が震えていた。曲は二曲目に入る。今度も明るい曲調だ。

世界賛歌のようだ、と愁は感じた。そういう、明るく、そしてまた今度も迷いのないまっすぐな明るい愛を歌う曲だ、と感じた。正直俺はきらいじゃないな、と愁は感じた。もちろん今の自分にはふさわしくはないけれど。

しかしハルの方は打ち震えている。だが落ち着こうとしているのも愁にはわかった。

「いいんだ、わかっている」

低く、限りなく抑えたトーンの、感情を押し殺そうとした声で、ハルはつづけた。

「よくあることだ。プロデューサーが呼んできた新しいボーカルがメインで取り仕切るようになって、同じ名前をした全く別の音楽性のバンドになること。いいんだよ、それは」

噛み殺すような声だった。

「でも俺は許さねえ」

ハルは言った。

「あるときからかさ、あいつネタ切れ起こしたんだよ」

楽曲のアイデアに詰まった新ボーカルは、自ら作曲するのを放棄したのだという。そして、彼は、メジャーシーンにのらない様々な無名アーティストの…そして、生前のハルの楽曲を漁り、構成を、メロを、ギターリフを「拝借」し、そこに、独自解釈による歌詞をつけて、自分のバンドの曲、としてリリースした。

ハル書いたものは、変な話、あるいみ、「間違ってない」わけで。

それは売れに売れた。

「周りのメンバーはいたんだろ?」

愁は訊いた。

「いたけど……」ハルは責めたくはない様子だった。

ふうん、と愁は受け流すと、大型ビジュアルの方へ視線を遣った。スクリーンに映っている喧騒がサビに差し掛かってきた。元気な曲だ。明るい。

「俺の書いた曲はあんな曲じゃない」

ハルが吐き捨てた。強い口調だった。その間も、バラードに載せて、ただただまっとうな人生賛歌が流れてくる。

「俺の曲は、あんな、空っぽの、薄っぺらい曲じゃあなかった……!」

ハルは激昂した。今のハルには、その改変を防ぐ術がない。喧嘩をする権利がない。怒りを表明する権利がない。何をしたところで、相手には一切その怒りと憤りは届かない。

肩が打ち震えている。

愁は少し感心した。この状況で、憤りや怒りを感情を持ち続けられるハルに。そして、自分だったら諦めてしまうだろうな、と思うだろうと想像した。

愁は、このままハルをここにおいておいてもいいことがないと判断した。ここの交差点は原宿だから、確か近くに代々木公園があったはずだ。愁はハルに、一言「行こう」と声をかけ、肩をぐいとひっぱり、彼を静かな公園へと引きずっていった。

-13-

愁はハルを代々木公園の一角、しずかな池の区画に連れてきて、ベンチに座らせた。

大分落ち着いたが一人にさせておこうと、愁自身はハルの視界に入らない、少し離れたところに身を落ち着けた。

そのまま離れたところでぼんやりと休んで、しばらくたった。呼吸音が大分落ち着いてきたようだ。

ベンチの方から声が聞こえた。

「……さっきは取り乱してごめんな」

「ん、いや」愁は答えた。「熱いなって」

コミニュケーションが取れようがとれまいが、叫んだところで誰にも相手にされず声も届かない、そして状況は変わるはずがない、そういったことをすべてわかっているのに、それでも、感情を失わず、激昂し、おのれの主張をし続ける熱量のあるハルのエネルギーはすごいな、と愁は思った。

「俺には、そういう熱くなれる対象ってないから」

ハル自身からするとみっともないとかそういう感じなんだろうけれども、愁からすると少し羨ましさすらあるように思えた。そんな風にまっすぐに自分を主張できる様に、すこし、憧れる。

「俺、思うんだけどさ」

そういって、愁は立ち上がった。そして、池の方を向く。

叫んだ。

「何で世の中こんなにクソゲーなんだよ!夢も希望もあったハルは死んで。

クソの役にもたたねえ俺は生きられて!」

思いのほかの大声に、愁は自分でも少し驚いた。俺もやればできるのかも、と少しだけ思った。

ハルの反応はわからない。

でも、愁は続ける。

大きく息を吸った。そして、少し演技がかったようにふざけた調子の声で、そして、大真面目に、池の方に向かって中空に語りかける。

「そいつは、ハルという」

「そいつに……!」

ハルの反応が見えたような、みえなかったような気がした。どちらでも構わない。

「そいつに俺の人生を!俺のライフポイントを!」

何やってるんだろうな俺は、と愁は思った。池の向こうに神もゲームマスターも居やしないのに。

それでも続ける。叫び続ける。ゲームだから。ゲームだと、思って。

「……ああ、全部、全部だ! 全部やってくれ!」

愁は言いきった。池の向こう、そして、いや、どこかにいるだろう誰かさんに伝わったのかと思いつつ、あまりどこかの誰かさんには伝わりすぎてほしくないなとも思いつつ、その場に愁はへたり込んだ。

誰かが走ってくる足音がした。

ハルだ。奴は、愁の横へ来るなり、お前の気持ち嬉しい、ありがとうと手短に礼の言葉を述べた。声はいつものあかるい声に戻っていた。

ハルは愁の横に立って、先ほどの愁と同じように、池の上の中空に向かって真似をして叫ぶ。

「おーい! 聞こえるかーあ。 今もらったライフポイント、愁に全返ししてやってな!」

こだまが響く。もちろん何の反応もない。

「ついでに攻撃呪文「自分の人生を歩め!」発動な!」

ハルがゲームらしいセリフで締めくくった。

「てなわけで、さっきのターンは無効」

と愁の方へ向いていった。

愁は嬉しかった。もちろん嬉しかったが、顔には出さず、少しいやそうな顔で、「なんだそれ」と言った。愁はまるで「ばかばかしい茶番につき合わされて呆れた」かのようなふりをする。その茶番を始めたのは自分なのに。

「どんな慈善事業ゲームだよ……」

「ははっ」

もちろん、というか、ハルはそんな愁の態度などお見通しというように意に介さない。

愁は言った。

「そんなに言うなら生きてやってもいいけどさ」

一呼吸おいた。そして、ゆっくりと、つづけた。

「でも、あんたみたいな奴は、向こうにはいないんだよなあ……」

本心だ。ハルは今度も笑ってやり過ごすのだろうか、と思ったが、まあそれでもかまわない。

意外なことに、ハルは愁の言い分に同意した。

「……いない、かもしれないなあ」

「わかってんじゃん」

「だからまー 愁に生きて欲しいってのは、俺のエゴっちゃエゴかな」

「エゴ……」

その言い回しをハルからされることは意外だった。

「だって、そうだろう? 愁は生き返ったらあの誰も協力してくれない無味乾燥な世界を一人はいつくばってしがみついて何とか生きていかなきゃならない。キツイよな。普通に考えて」

「……まぁ」

「だろ? そして、愁がきつい想いをした反面、俺は「人助けをした」って優越感と幸福感を得るわけだろ? まぁ、そっちのほうが、俺はすっきりするけどさ」

ハルはそこでいったん言葉を区切った。一呼吸、間があった。そして、ハルが再び口を開いた。

「人助けだと思ってさ、人に親切をさせてあげた経験を味わわせてくれよ、俺に」

「なんだろ……最悪だな……悪魔かよ」

ふふっ、とハルは笑った。

「おうよ、だって死神なんだぜ?」

「そうだな……」なんか中二病な言葉が大真面目にポンポン出てくるやり取りが、急にばかばかしくなってきた。たぶんハルの方もそうなんだろう。奴は言った。

「この死神にさ、一瞬だけ、人助けさせてくれないか」

「そこまでいうんなら、しょうがないなぁ……」

わざとらしいまんざらでもない感を付け足して、愁はそう答えた。

だってお前、俺がどう答えてもそういう方向にもっていくつもりだったろ。

ハルはふふっと笑った。

ばかばかしいほどの冗長なやり取りだ。愁は笑ってしまった。ああ、もちろん、ハルもだ。

そうして、ハルが静かに言った。

「決まりだな」

そういって、ハルはぐいと利き腕を差し出した。

「ん」

そういって、愁は奴の腕をぐっとつかんだ。

握手だ。

ハルは、腕がしっかりつかまれたことを確認すると、その大天使のように大きな羽を勢いよく羽ばたかせた。

宗教とかそういうのよくわからないけど、愁は荘厳な気がした。

「行こう」

ハルが一声かけた。体が宙に浮く。

大きな翼が一振り空を仰いだ。勢いの良い風の塊が服をはためかせる。

行きと違って、今回は勢いよく空へ上昇し、上昇気流に乗って滑空した。まさに飛んでいる感じそのものだった。

生身でジェット機にのるとこんな感じなのだろうか、あるいは、単身でパラグライダーを操縦するとこんな感じなのだろうか、愁には見当もつかなかったが、爽快な気分だった。

飛行機で飛ぶような勢いで飛んでいく。かなり上昇したころだろうか、愁のポケットからひらりと一枚の紙が舞い落ちた。

愁は、あっ、しまった、みつかった、と思った。

愁のポケットから舞い落ちた紙はくるくる、ひらひらと舞う。

ハルもふりかえってその紙を見た。

「なんだあ」

「真っ白じゃん。安心したあ」

街の真ん中でそんなに死にたいならサインしろ、と言われたの時の紙だ。

「うるさいな。いちいち口に出して言うなよ」

愁は言った。ちゃんと照れ隠しができていたのだろうか、自分ではわからない。

ハルは意に介さず、「ははっ」と流した。

「愁は本当に口に出すのが下手だな」

その口ぶりは暖かい。

「わかったよわかったよ」

こいつ、扱いに慣れてやがる。一呼吸おいてテンションをもどしてから愁は口を開いた。

「……じゃあ。……じゃあさ、俺、向こうで何したらいいかな……」

ハルはすぐには答えなかった。愁は少し驚いて、掴んでいた腕を少しだけ放しそうになった。

「なんだよ……やっぱり、自分で考えろって…」

愁は少し自信がなくなった。こいつやっぱり最後までご都合主義か。

そう思った矢先、ハルが口を開いた。

「いや、そうだな……」

それは愁にとって思いがけない発案だった。

二人は空をどんどん高く飛んでいく――。

-14-

窓から朝日が差し込む。

愁は目を開けた。そして、自分がうつぶせに倒れていることを発見した。

ここは、愁の部屋だ。何の変哲もないなじみに馴染んだ愁の部屋だ。

愁は起き上がって周りを見回す。

何一つ変わっていない。

一つだけ変わったものを見つけた。
拙い結びのハングマンズノットも以前と同じようにそこにかかっていた。しかしそれは、重みに耐えきれなかったのか少し緩んでいた。

おそらく、ずり落ちたのだろう。

何が?って、たぶん俺が。

何やってたんだろうなあ…と俺は自分にあきれる。いい夢を見た。まあ、それだけなんだけれど、この死にぞこない野郎が、と笑って声に出してみる。あまりの阿呆くささに笑えた。

とはいえ、

奴は、「愁にぜひやって欲しいことがあるんだ」と言っていたが、まあ、まさかな……と思うものの、念のためにパソコンを起動した。


 インターネットにつながっていることを確認し、検索ブラウザを立ち上げる。
その検索窓に、愁はキーボードで打つ、「アルキオ バンド」 そして、検索窓の横のGOボタンを押し。

まあ、まさかな。

気休めだ。

「あった」

思わず口から言葉が漏れた。

そこには、昨日、「夢の中で」会話した青年と同じ容姿の――ただ、羽が生えていない――青年がギターをもって写真に映っていた。

インディーバンドのホームページだ。 ここ2年ほど、更新されていない。

『ハルが』先日言っていたように、ホームページの左の端を、下へスクロールする。

すると、下の方に、小さなプレーヤーが出てきた。
「小さな灯り.mp3」と表記されたその曲の再生ボタンを、愁は押した。

音楽が、そして見知った歌声が、パソコンの拙い音響のなかで精一杯叫ぶように流れ出てきた。

愁はしっかり聴いた。そして、立ち上がった。

「生きよう」

『雨上がりの虹』 二話 -プロローグ-

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2章

雨上がりの虹 2話 プロローグ


世界のはざま、と、そこは呼ばれている。

地球の成層圏の上空であり、空の上、太陽はなく、つねに一定の環境光が降り注ぎ、明るく暖かく寂しく、そして大河の手前。

生きているものが住むとも死んでいるものが住むともつかないその世界で、コードネームをハルと名乗る使者は仕事をしていた。

ハルの仕事の役目は、人間の死者の魂を地上から、三途の川の手前まで連れてゆくことであり、それは、言い換えれば、その途中にある広大な世界である「世界のはざま」の存在を元生者に悟られないようにするものといってもいい。本日分の仕事を終えたハルはふうっと、一息ついて振り向いた。

見覚えのない少女が、世界のはざま、の地面を駆けている。

女学生の今風の制服を着ており、羽は生えていない。ハルの同業者ではないようだ。

彼女のうしろからは、今度はハルの見覚えのある、ふわふわとした辛うじて人型をとどめている風船のような構造物が見えた。

かつてのハルを追ってきた存在そのものであり、そして、今は仕事の終焉を告げる良き同僚である。

ハルは、その少女をちらと見やり、かつての自分と重ね合わせて感じた。このままでは、この若かりし、自覚なき元死者はおそらくは、「かげ」の細胞内に包摂され、そして、自覚もないままに未練を残したまま、この河を渡ってゆくのだろう。

それでいいのだ、と、ハルは思った。思うことにした。

かげと少女は方向を変えた。ハルの方へ向かってくる。

何も遮るもののない世界で、おそらくハルは少女の視界に入ったことを察した。

少女は一目散にこちらに助けを求めて走ってくる。スカートがなびく。健康的な太もも。滴る汗。なびくセミロングの髪。とても健康的な姿にみえた。

本当に死者なのか。何かの手違いではないのか。ハルは思った。

そして。

ハルは少女を拾い上げた。大きな羽が重たく空を舞う。

――かくして、ハルに仕事の後輩ができたのであった。

小説『雨上がりの虹』 一章(愁視点)

本作『雨上がりの虹』の主人公のうちの一人、相原愁のUTAU向け合成音声ライブラリを無料で配布しております。 もしご興味があれば覗いてみてくださるとうれしいです。
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アニメ『雨上がりの虹』HP
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  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. プロローグ
  2. -1-
  3. -2-
  4. -3-
  5. -4-
  6. -5-
  7. -6-
  8. -7-
  9. -8-
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  12. -11-
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  16. 『雨上がりの虹』 二話 -プロローグ-