こんぺいとうの夜に
彼の部屋の天井には、満天の星空があるらしい。
講義終わりに告げられたとき、とうとうあの安普請の屋根が吹き飛んだのだろうかと疑った。それほど、突拍子もない話だったから。しかし、どうも話が違うらしい。
「とにかく、すっごいんだ。こう、ぱぁって」
要約するとこうだ。
新月の晩のことだった。何とは無しに眠れずに天井を見つめていた。目は暗闇に慣れ、渦巻く木目がくっきりと見えていた。住み始めた当初は何だかの奇怪な模様に見えるだなんだで怯えていた木目。けれどそんな印象はとっくになくなり、今はただの渦巻きである。その木目が次第に薄れてゆき、辺りは暗く、暗く、静かに闇に溶けていった。眠りに落ちるのだな、と思ったそうだ。
けれど、そうではなかった。ある瞬間、寒くはないのに風が吹き抜けるみたいな感覚を覚えた。目を見開くと、そこは星月夜。数え切れないほどの星、天の川、はっきりと見て取れる星座。今にもひと粒ふた粒、落ちてきそうだったと言う。
上京して以来の星降る夜だった、と頬をうっすら上気させて語るその目は、彼の故郷の、星の里を見つめているようであった。
「それで、その無料プラネタリウムの話を、絢斗はなんで私に聞かせたの」
「信じてくれそうなの、絢子しかいないから」
それもそうだろうな。内心私は頷いた。
名前の漢字が一字同じだから、という理由で話しかけてきた彼は、喧しい友人ばかりを周りに侍らせている。侍らせているというか、周囲のペット的存在になっている。知らぬは本人ばかりなり。
彼がそんな、荒唐無稽なことを言いだしたところで、誰も信じはしない。信用がないわけではないが、話が非現実的すぎるのだ。
対して、なぜ私なら信じると彼は思ったのか。それは、周囲から浮いているからだろうな、とあたりをつけた。
どこにいても、地面から数センチ浮いているような感覚があり、話していても、水の膜が張られたように言葉はぼやけて聞こえない。本当に浮いているはずがないし、言葉はきちんと届いている。ただそんな感覚なのだ。
でも、彼の言葉は膜を突き破り、私の耳に届く。ぼやけない、透き通った言葉が。
私は彼を特別視しているが、彼はそうではない。今回の件に関してはやや特別視しているかもしれないが、たまたま話が合うから話しかけたとか、そんなところだろう。
まあそれはいい。その星空をどうしたいのだろうか。見当はついている。
「とにかく一回、うちに来てもらえる? 出来れば夜がいいけど、寮の門限は……」
「十時閉門、七時開門。七時以降に戻れば平気」
たぶんこれは、まぐわいの相手を求めているだけなのだろう。
絢斗の部屋は皆の溜まり場だ。もし本当に星空が見えるのだとしたら、誰も見ていないはずがない。
詰めが甘い。甘いと思いつつ、それに乗っかる私は何なのだろう。
四限が終わった後、適当な酒とつまみを買って絢斗の部屋に向かった。
天井はごく一般的な木目のままだ。星空に変わる気配など、微塵もない。
彼はそわそわと落ち着きがない。目の前に獲物がいる獣とはこんな感じなのだろうか、と緑の生えない大地を夢想する。いや、獣は泰然としているものではなかったか。
「絢子、何考えてんの」
「サバンナのこと」
「ふーん」
彼は買ってきたビールの缶を開けた。ぷしゅ、と小気味良い音の直後に、喉が鳴る。味わって飲んでいるのか、ただ喉越しを楽しんでいるのか。
私は弱い缶チューハイを開けた。一緒に買ってきたプリングルスのサワークリーム味は、甘みのある炭酸によく合った。
「絢子はさ、好きな人いるの?」
「いない」
「……あっそう」
つまらなそうにそっぽを向く。急に話を持ちかけられても、上手い返しなど思いつかないのだからやめてほしい。
「それよりさ、無料プラネタリウム、何時くらいからなの」
彼は、その呼び方、風情がないなぁと苦笑いを浮かべた。
「この間は真夜中だったけど、電気消してみたら違うかも。消していい?」
ほんの少しの、胸騒ぎ。手を出されると確信して部屋に来たのだから、わかりきっていることなのに、胸は僅かにざわめきを起こしている。凪いでいた海に、波が訪れるように。
「いいよ」
頷くと、灯されていた部屋の明かりは、一瞬にして消える。窓の外の電灯が白々と部屋の中を照らす。
「カーテン閉めなきゃ。こんなに明るいと見えないからな」
遮光性の高いカーテンなのか、引かれるとすぐ、部屋の中は深い闇に閉ざされる。
「真っ暗」
「そりゃな」
視覚が奪われると、聴覚が敏感になる。さっきから聞こえていた喉越しの音が、ひときわ大きく聞こえる。それを聞かれるのは何となく恥ずかしくて、私は舌で転がすように酒を飲んだ。
次第に目が慣れてくる。彼の表情もわかるようになり、じっと見つめてみた。
端正な顔立ちではない。甘いマスクでもない。けれど、吸い寄せられるような何かを持っている。だからあんなに友人がいるのだろう。
私は。
私は、彼を特別視している。好きなのか、どうかはよくわからない。そんな早急に判断を下していいものではないだろうし。
でも、手を出されてもいいと思った。それは。それは?
ふと、目の前が暗くなる。覆い被さられたのだろうか。顔を持ち上げるも、暗くてよくわからない。目は暗闇に慣れたはずなのに。
あぁ、違う。寒くはないのに、風が吹き抜ける。生温くもないし、ましてや刺すような鋭さもない。何かの訪れを示す、風。私は天井へ顔を向けて、そっと目を開いた。
「――本当だ」
きんと冷えた晩に見上げた夜空と同じものが、そこには広がっている。
違うのは、寒さを感じないこと、屋内であること、隣に彼が、絢斗がいること。
「嘘、ついていなかっただろ」
彼はきっと笑ったのだろう。星空に釘付けになっている私には、見えない。
彼の友人たちがこの星空を見ていない理由もわかった。いつも彼らは明るい部屋で飲み明かしているからだ。なんてもったいない。もったいない、とは思ったが、愉悦が沸き起こってくるのもまた事実だ。
見上げながら、訥々と話をした。
私の実家からも星がよく見えること。星座は知らないけれど、星を見るのは好きだったこと。なんとなく、人と馴染めないこと。絢斗とだと、うまく話せること。この星空を二人で見られてよかった、ということは話さないでおいた。
「絢子は馴染めないって言っているけどさ」
「うん」
「周りのみんなは、あまりそうは思っていない。みんなのことをよく見ているから、困ったときは絢子に頼みたいって、言ってるよ」
思わず、彼の方を向いた。星空を見上げていて、横顔しか見えなかったが、嘘はついていないようだった。
「今日はこの星空と、そのこと言いたかったんだ」
別段悩んでいたわけでもないから。そう口にしようとして、突っかかる。鼻腔が、つんと痛くなった。まるで冷えた空気を勢いよく吸い込んだときのように。
すんでのところで溢れるものは押し留めた。あらぬ妄想をしていた自分の情けなさと、彼の優しさに、今にも零れてしまいそうだ。
ぽつんと、空から何かが降ってきた。
「ん、なんだこれ」
見ると、金色の、先の丸いとげとげが付いた球体だった。これはおそらく。
「こんぺいとうだ」
先に彼が答えを言う。その一言を皮切りに、空から無数のこんぺいとうが降り始めた。
「いて、いてててて! なんだ?!」
思わず顔を両腕で覆う。大量のこんぺいとうが降りしきる中、両腕の隙間から空を見上げた。
空が、白み始めていた。
星が降り、空は白み、朝が訪れる。
もうこの光景を眺めることはないのだろう。彼の部屋の星空はただの天井へと戻り、この大量のこんぺいとうはしばらく私たちのおやつとなる。
それでいい。それでいい。二人だけの秘密と共通点ができたなら、それもまたいい。
いつか、この晩のことを思い出して、懐かしくなる日が来るのだろう。そのとき、隣には誰がいるのだろうか。
「なあ」
腕を引かれる。そちらに目をやると、いつになく真剣な彼の顔があった。
「……やっぱり、なんでもない」
「あっそう」
こんぺいとうは止み、朝焼けが、空から降り注ぐ。そろそろ寮に戻る準備をしてもいい頃だ。今日の講義の準備をしなくては。
けれど、そんな気、まるきり起きなかった。このまま彼の部屋で眠っていきたいと、そういう気分にしかならなかった。
こんぺいとうの夜に