フェチ満足会
私は、振られてしまったのだ。喪失感はある。けれど、好きだった確証だけが、存在しないのだ。
目を閉じて。口も閉じて。それが彼への、最後のお願いになりそうだった。
外灯のせいで真暗とは言えない薄闇の中、言われるがままに目も口も閉じた彼は、強張った頬、緩く閉じられた口元、柔らかな癖毛、青年と少年の間で揺らいでいた。その薄い唇へ、軽く口づけをした。私も口づけの流儀が分かっていなかったため、鼻と鼻とが軽くぶつかる。胸の高揚も何もなかった。
「じゃあ、ありがとう。おやすみ」
路地から抜け出せば、それなりの量の車が行き交う大通りがあって、そこに立った私は、今の時刻が詳細に思い出せなかった。時計を見ると夜中の二時をとうに回っていた。終電はとっくに無くなっている。タクシーで帰ることを思うと、その出費の大きさに嘆息し、はたまたこの情けない顔を誰にも見られなくて済むことを思うと、安堵でほっと息を吐いた。それらは二つとも、薄く白く濁り、晩秋の夜闇に立ち上った。
家のある方面に流れてゆくタクシーを捕まえ、○○市まで、と運転手に告げる。運転手は言葉少なにかしこまりましたとだけ口にして、後は黙り込んだ。
走行音と、ときどき遠くから聞こえるサイレンやらクラクションやらに、車内は満たされる。ここでなら泣けるかもしれない。そう信じようとした。信じることしか、私にはできない。
好きかもしれない。そればかりを信じ貫いて、今まで過ごしてきた。食事に誘ったり、縁日に行ってみたり、いろいろした。けれどどのデート(と、呼んでいいのかすらも危うい)でも、胸の高鳴りだとか、締め付けられる感覚だとか、そういったものは覚えなかった。せいぜい感じるのは、待ち合わせ場所へ向かう駅の階段を上っている最中の、昂揚。それすら、彼に会ってしまうとたちまち、泡となり弾けて消える。手を繋いでみても、心臓は変わらず脈を打つ。
私は本当にこの人が好きなんだろうか。ずっとずっと、疑問に思いながら、好きなんだよね、と周りの友人には騒ぎ立てるように話して聞かせた。
でも、やはり違ったのかもしれない。タクシーの中でも私は、淡々と、携帯端末に保存していた彼の写真を消すことに専念していた。
振られたよ。と以前付き合っていた男にメッセージを送った。「男目線のアドバイスが欲しい云々」で、彼のことは相談していたのだ。私は、奴にも振られている。他に好きな人ができた、と。だから嫉妬させようという気は、これほどもなかったし、相手も嫉妬する要素がなくて困るであろう。ただ少し、また同じ苦しみを味わうことになったと、一度苦しみを与えてきた奴に当て擦りのようなことをしたかったのかもしれない。
すると「じゃあ飲みに行こう」とメッセージが返ってきた。これには少々驚いた。奴には彼女がいる。怒られはしないのだろうかとはらはらしながら、約束の場所へ向かった。
なんだか、はらはらもしたけれど、わくわくもした。久しぶりに酒を飲めることもあったし、奴は恋人だった、という事実よりも先に、友人である、という事実をぽこんと頭にぶつけられるように思い出したのだ。男友達と飲む酒は、なかなかにうまいらしい。
それまで、好きな人がいる状態で男の人と二人で飲みに行ったりはしなかった。まずお誘いがなかったし、そこを見られたりでもしたら、などの不安、それから、貞操観念の強い私、に酔っていた。思い返すともったいないし、のたうち回りたい。
その友人である奴は、約束の店の前で携帯端末を弄っていた。こちらに気づくと眉を上げ「久しぶり」と顔をくしゃくしゃにした。
「彼女には、怒られないの」
開口一番そう訊くと、奴はビールを吹き出しそうになりながら、「怒られないよ」そう言った。
「お互い飲みたい相手もいるし。そういうところは自由でいいよな、って」
へえ、心配しないんだ。私だったらする。絶対にする。だって自分に自信がないから。
自分に自信がないから、行動するしかない。私の恋愛はそれが根底にある。待っていても誰も来てはくれないし、だとしたら自分から動いて好きな人に近づくしかないじゃないか。そこまではいい。友人にも称賛される。しかしながら、どこまで近づいても私は安心しない。自分に自信がないから。この程度じゃ私の魅力を分かってもらえない。この程度じゃ、よく言う引き際効果を狙って引いても、ただ疎遠になるだけだ。そんな風にして、大体の場合押し過ぎて、図々しくなって、好きな人からは「妹みたい」と言われて終わるのだ。
そこを改めないとねえ、なんて塩キャベツを齧りながら奴と二人で酒を進める。
ハイボール、杏酒、アセロラ酒、白桃酒、次から次へと頼んでは飲み、を繰り返しているうちに、目の前に居る男がこんなことを言い始めた。
「俺さ、薄いタイツで踏まれてみたいんだよね」
ふむ。性癖の暴露会か。
「二十五デニールくらいかな、写真見せるよ」
「あーこのくらい、このくらい」
その二十五デニールのタイツに包まれたおみ足の爪先で、優しく、踏まれたいのだという。気持ちは分からないでもない。綺麗な足に踏まれることは、男性にとっては庇護すべき女性に加虐されているといった倒錯感を覚えて興奮するのだろう。
「私はね、学ランの上着のボタンを全部開けて、その中に包まりたい。できることならワイシャツのボタンを外して、胸をなぞりたい」
奴はげらげら笑った。お前も相当だな、と。
それから、思案顔になる。その隙に私はカシスオレンジを注文し、卓の上に置いてある冷えたポテトフライを、ガーリックマヨソースに絡めて食べた。
私は本当に彼が好きだったのだろうかと、振られてから何度も繰り返した問いを、更に繰り返す。ただ彼氏が欲しかっただけだった? それならばあんなに、選り好みしない。
彼はチェロがすこぶる巧かった。大学での勉強も、親に出してもらっているお金だから、とそれなりに真面目に受けていた。そんないい男の子を好きになっている時点で、誰でもよかった説は消える。
そういえば。キャパが足りないからと、付き合うのを拒まれてしまったことが胸に引っかかる。
私は、月に一度会えれば満足だったし、メッセージのやり取りもしなくてよかった。時々特別に会えて、口づけ、抱擁、あわよくば、同衾。それさえできれば、いいと思っていた。
でも彼は、付き合うならきちんと向き合わないと失礼だ、と言った。別にいいよ、そんなこと。何度言っても、首を縦には振らなかった。
この話を奴にしたところ、何となく上の空だ。ねえちゃんと聞いてよ、言いかけたところで、遮られた。
「お互いのフェチ、満足させるつもりはない?」
どういうことだ。フェチ、……さっきの性癖の話か。それを、満足させる?
「俺は学ランを着る。で、さっき言ったことをやってもいい。本番は無しな」
本番無しなのか。それならいいかもしれない。
「私は二十五デニールのタイツで踏めばいいのね」
酔いが回ってきた。呑み込みが早くなる。面白くなってきた。私を振った男を踏みつけてもいいとなると、気分爽快かもしれない。
そう考えたことを後になって思い返すと、私はまだ、過去の恋人からも縛られていたのだな、と呆れてしまった。
日付もとんとん拍子に決まり、それまでの間、やつが命名するところの「フェチ満足会」の下準備に追われていた。
主に脚のケア。タイツを穿くとはいえ、どうせなら綺麗な足で踏まれたいのだろう。相手も、私に若干の筋肉趣味があることを知っており、より一層サークルでの活動に励んでいる。
下準備に追われる最中、これは奴の彼女的には赦せる行為なのだろうか、とふと考えた。速攻、赦されない、との判断が下る。止めるべきだろうか。いやしかし、彼女はこういった趣味は歯牙にもかけないといった風だったとも聞いた。本番はしないのだし。だが。
悶々考えても月日は流れる。とうとう、決断できないまま流される形で「フェチ満足会」は開かれる運びとなった。
夜十時ごろ、とある街のレンタルスペースに酒と小道具を持って集まった。私は元より奴の性癖を存じ上げているので、脚の良く見えるショートパンツを履いてきた。ちなみにタイツは八十デニールである。
まずは二人して買ってきた缶チューハイを呷る。一缶丸々飲み干すと、頭がふわふわする感覚に包まれ始めた。これなら、正常な判断が下せないので、よい。
シャワールームに入り、顔と足を清めた後二十五デニールのタイツを履く。もう今の時期は外で二十五デニールのタイツを履くなど、自死を選んでいるようなものなのだ。
足元が暖かい状態でシャワールームから出ると、奴は既に学ランへと着替えていた。
「先、どっちがやろうか」
少し考えて、私からやる、と小さく手を挙げた。特に理由がない場合、先にやってしまうほうが楽なことは多い。
じゃあ、這いつくばって。命令すると、奴は恍惚とした表情で床へ口づけをするほどに身体を平らにした。
痛くされるのは嫌だと言っていた。それなら、と、とても柔らかなマットレスにそっと足を踏み入れるように、爪先を奴の背中へ置いた。
徐々に力を強めていって、捻りを加えると、奴の口から熱い吐息が漏れる。踏みつけたまましゃがみ込み、耳元に口を寄せる。
「こんなことされて興奮してるの?」
当惑の問いかけではなく、確認の問いかけであった。どう見ても、奴は興奮している。返事はせず、呻くように息を吐いた。
蹴とばすようにして、仰向けになるよう指示する。瞳は熱っぽい。
股ぐらの布地は押し上げられるようになっている。もう、痛いほどに興奮しているのだとわかると、私も熱が上がる心地だった。
「じゃあ、交代して」
奴の口が、もっと、と動く。想像していた以上にマゾヒストの気が強いらしい。でも、私だって我慢しているのだ。学ランを前に、本番以外は何をしてもいいというこの好条件下にあっても、何も出来ていない。
奴は、しぶしぶと身体を起き上がらせ、おいで、と手招きをした。
まずは、抱きすくめられる。懐かしい過去の恋人の匂いがしたが、特に何も感じなかった。漸く、奴からは解放されたのだろうと安心し、身体を任せた。
ややあって、物足りなくなる。身じろぎをして、学ランのボタンを一つずつ、外してゆく。真っ白なワイシャツが露わになると、その下に透けて見える奴の筋肉が、逞しかった。そこへ頬を寄せる。化粧は落としてあるから、思う存分頬擦りができる。
良い。獣じみた汗の臭いと、奴の体臭、長いこと仕舞われていたであろう学ランのほこりっぽい臭い、それらが混じり合った、匂い。
思わず息を漏らす。満足するには、ワイシャツのボタンをはだけさせて、胸に手を這わせなくては。
手を伸ばしかけると、動きが止まる。奴が手首をつかんで制したのだ。
「触んないで。触られたら、我慢できなくなる」
あまりにも切ない声で、首を擡げて奴の顔を見た。必死で堪える表情だった。
そうだ。奴には彼女がいる。それなのに、最初は本番無しでと言っていたのに、我慢できなくなるなんて。約束が違うと怒り狂ってもいいはずだけど、そんなことは出来なかった。
私も、それをどこかで求めていた。襲われるようにして、噛みつくようにして、交尾をすれば、あの彼のことを忘れられるのではないだろうかと。
そんなことをしたって何にもなりはしない。ただ、私の初めての行為は浮気だったと、身体に烙印を押されるばかりである。
それに、おそらく、交尾をしたってあの彼の代わりを奴に求めるばかりであろう。代わりになんて、なりやしないのに。
「ごめん。こんなこと、持ち掛けなけりゃよかった」
お互いが想い人の代わりに交尾をするなんて、空しいにも程がある。奴はそう言った。
ああ、やはり私はあの彼のことが好きだったのだろう。
そのとき、確証に近い思いが胸に降って湧いた。
好きだったから、口づけに期待をしすぎていたのだ。何か世界が変わるとでも思い込んでいたのだろう。けれどそんなはずはない。指と指とを触れ合わせても、何も変わらないのと一緒のことだ。何度も口づけを夢想し、神格化し、期待とは少し違ったからといって全てをなかったことのようにふるまう。子供のやることだ。
でも。彼と一度だけ手を繋いだことがある。そのときに胸に満ちてきたものは、とめどないほどの安心感だった。この人には何でも話せそう。そう思えるほどの。
手と手が触れるだけで痺れるような思いをすることもあれば、そうでないこともある。今回の恋は、そうでなかったのだ。
不意に視界が濁り、かと思うと透き通る。泣いているのだと気づくのに幾らか時間がかかった。
「ありがとう」
奴にはそう告げた。気づかせてくれてありがとう。心の枷を抜いてくれてありがとう。と。
あの彼から、しばらくして連絡があった。友達でいようと諭されたあの晩は寒かったから、風邪を引かなかったか、という内容だった。
今更過ぎやしないだろうか。風邪を引いていたとしても完治していそうだ。
でも、その心遣いが何よりも嬉しく、しかしそれ以上の感情は何も起こらなかった。
フェチ満足会
キスまでしかしていないピュアともいえる恋愛と、お互いの性癖を満足させるためだけの、ある種行きずりの関係の対比が出来ていたなら……と思います。