感想「参考にしたいくつかの作品のこと」

全て、以前、ピアプロに投稿した文章です。
一部、修正等を加え、こちらでも投稿することにしました。

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「安部公房の『燃えつきた地図』と、
チャールズ・ディケンズの『エドウィン・ドルードの
謎』のこと。」


(1)~安部公房「燃えつきた地図」~
   行方不明の夫の調査を依頼された主人公の探偵は、
   調査をしていくにつれ、次第に手掛かりを失い、
   最後には自分も探偵を辞める、
   というストーリーです。

   文庫本(新潮文庫)裏表紙の解説にもあるように、
   読者を強烈な不安へと導きます。

   犯罪、悪。
   これはこれで進化するもの。
   より完全性、秘密性を深める。
   利害や怨恨とは別の目的のための悪。
   悪そのものの快楽を得るため?
   悪から生じる性的快楽を得るため?

   燃えつきた地図について。
   様々な性的ニュアンスのエピソードがある。
   失踪した根室の妻とその弟(組長)の
   近親相姦的親しさのこと。
   弟(組長)は不法売春をしていること。
   弟(組長)は自分の趣味と実益を兼ねた
   男色ビジネスをしていること。
   根室の部下田代君の女性ヌード写真の趣味のこと。
   労務者の暴動シーンの短い悪魔的儀式の文章のこと。
   図書館で探偵が女子学生を車に誘う話のこと。
   探偵の同僚が依頼者の女性を自殺に追い込み、
   精神に変調をきたして病院に戻ること(この同僚は、
   窒息するくらいに息を止めるという奇行をとる。
   これは田代君の首吊り自殺への伏線だろうか?)。

   また、探偵が被害に遭う二回目の暴力シーンについて。
   2回目の暴力シーンの描写は1ページにも満たない。
   何らかの面白さは、無い。
   早朝、
   探偵が根室を知る人がいるかどうか調査するため、
   珈琲店つばきに入ったとたん、
   先客は「新しい客」か「新しい同業者」か
   何も確かめず、
   一言も声をかけず、
   ほとんど一瞬のうちに、
   探偵を襲い、
   叩きのめし、
   店の外に連れだし、
   外の車に荒々しく放り込む。
   誘拐馴れしてるのか?
   誰もそれを止めない。
   相当の玄人じみた手口。
   探偵は相手の顔すら確認不可。
   普通の人間では絶対に不可能な敏捷な暴力。
   つばきに居たのは、ただの運転手では
   ないことの可能性を示す作者の描写である。
   主義や言葉、既成の裏社会の組織には
   落ち着くことのできない人間の群れか?

   作者はこれらのエピソードで何を伝えようとしたのか?
   性的快楽を得るため、残虐な方法で
   男が男を殺すことの可能性?
   海外でも日本でも、現実にはこのような殺人は
   発生している。

   文芸作品では、チャールズ・ディケンズの
   「エドウィン・ドルードの謎」の登場人物ジャスパーが、
   そのような極めて奇怪で醜悪な人物に
   当たるかもしれない。


(2)~チャールズ・ディケンズ「エドウィンドルードの謎」~
   ジャスパーの奇怪さについて。

   この小説は作者の死により未完に終わる。
   エドウィン・ドルードの謎の失踪事件は未解決である。
   しかし作者の創作ノートや友人等の証言から、
   犯人をジャスパーとする研究者は多い。
   この小説は作者の自由な視点から
   登場人物が描かれている。
   もしも作者が犯人をジャスパーとしていたのなら、
   そのジャスパーの描かれ方は実に奇怪である。

   例えば、不慮の事故や病気から子供を失ったときと、
   過失もしくは故意に子供を死なせたときとでは、
   親の悲しみと苦しみは異なる。
   後の例の場合、親には罪の意識が生じる。
   ジャスパーの場合、
   愛する甥のエドゥインを自ら殺しておきながら、
   かってのエドウィンとの楽しかった日々は
   もう決して来ないことを心から悲しみ、
   しかしエドゥインに対する罪の意識が無いのである。
   ジャスパーには他者への哀れみや
   罪の意識が欠如している。

   ジャスパーは、
   「自分は犯人ではない、犯人を必ず見つける」と
   振舞うが、その時のジャスパーの心理が
   実に不可解である。
   嘘をついているのではない、
   演技ではない、
   偽善ではない、
   自分に対して「犯人ではない」と
   暗示をかけているのではない、
   自分の犯行のみ記憶が欠如しているのではない、
   多重人格者なのではない。
   「自分は犯人ではない、犯人を必ず見つける」と
   振舞うが、その時のジャスパーの心理が
   実に不可解なのである。
   ジャスパーの心理をこのように
   不可解なものにする外的要因として、
   ある研究者は2つ挙げている。
   ひとつはジャスパーがアヘンを
   使用していることである。
   もうひとつはジャスパーと殺人組織サグ団員との
   関連性である。

   ジャスパーは邪悪な性的嗜好の持ち主である。
   エドゥイン失踪後、その婚約者であるローザに対し、
   ジャスパーは自分の恋心を打ち明けるが、
   その言葉と表情が実に邪悪でエゴの塊なのである。

   ジャスパーを極めて奇怪で醜悪な人間とする以上の三点。
   ・他者への哀れみや罪の意識の欠如。
   ・邪悪なエゴむき出しの性的嗜好。
   ・自分のしていないことをしたと信じる、
    もしくは自分のしたことをしていないと信じる、
    その心理作用。
   安部公房の「燃えつきた地図」においても、
   この3点が描かれていると思う。

   
(3)エドウィン・ドルードの謎と燃えつきた地図の類似点。

   安部公房の「燃えつきた地図」においても、
   この3点が描かれていると思う。
   しかしジャスパーのように、
   ある一人の登場人物を通して直接的に
   描かれているのでない。
   複数の登場人物を通して間接的に描かれている。
   物語そのものという人間社会の縮図を通して、
   寓意として、
   間接的に描かれている。

   「邪悪なエゴむき出しの性的嗜好」に関して、
   「燃えつきた地図」ではどう描かれているのかは、
   上記に書いた様々な性的ニュアンスのエピソードの通りである。

   「他者への哀れみや罪の意識の欠如」に関して、
   「燃えつきた地図」では根室夫人の言動によって、
   それとなく暗示されていると思う。
   失踪した根室を探すための手がかりや情報を、
   探偵は根室夫人に何回か求めるのだが、
   その時々の根室夫人の様子は、
   例えばビールを飲みながらどことなく焦点が定まらない
   会話をするという風に、
   無責任な印象を与えることが多い。
   極めて身近な存在である弟の突然の死に関しては、
   その葬式の時に悲しみの表情や涙を見せることもない。
   探偵が根室夫人の部屋を伺う時は、
   その様子が「レモン色のカーテン」と合わせて描かれる事が多い。
   例えば新潮文庫P40には、「そのレモン色のカーテンは、、、、、
   闇の侵入をふせぎ、、、、、ぼくを、冷笑しているようだ。
   、、、、、彼女を裏切るのも、おまえなのさ、、、、、」という
   描写がある。
   この「レモン色のカーテン」は、
   梶井基次郎の短編小説「檸檬」の主人公の檸檬を利用した悪戯(?)と
   主人公の心情を参考にすれば、
   人間の破壊衝動を暗示しているのかもしれない。、
   その破壊衝動は罪の意識の欠如に一役買っているのかもしれない。
   
   「自分のしていないことをしたと信じる、
   もしくは自分のしたことをしていないと信じる、
   その心理作用」に関して、「燃えつきた地図」では、
   田代君の言動により描かれていると思う。
   田代君は探偵と知り合ってから、
   失踪者根室に関する嘘の情報を嘘と知りながら提供し、
   二日後には自殺(首吊り自殺)するのである。
   田代君は他者を殺したりはしないが、自分を殺す。
   このような田代君には、嘘を真実にしたいという、
   幼稚な激しい衝動があるようである。
   このような狂気の言動をとる田代君とジャスパーには、
   性格的に関連があると思う。

   その他の類似点に関して。

   ジャスパーをエドウィン殺害の犯人だとする場合、
   多くの研究者はその殺害方法を、
   「エドゥインドルードの謎」の挿絵画家ルーク・ファイルズの
   回想を根拠として、絞殺であるとしている。
   「燃えつきた地図」の田代君の自殺方法は、首吊り自殺である。

   「エドウィン・ドルードの謎」において、
   エドウィンの失踪事件が描かれているのは、
   クリスマスイブの寒い時期である。
   「燃えつきた地図」において、
   探偵が行方不明者根室を探すのは、
   2月半ばの真冬の厳寒期である。

   「エドウィン・ドルードの謎」において、
   その舞台となる町はクロイスタラムというが、
   作者はその町を「しゃがれ声の大聖堂の鐘の音や、
   しゃがれ声のからすの鳴き声が響く、過ぎ去った昔の町」としている。
   「燃えつきた地図」において、
   その舞台となる場所は、自殺者田代君の勤めている会社、
   弟(組長)にゆすられるF町のM燃料店、等のように、
   都市の発展から取り残されていく場所が多い。

   これら2つの物語は共に「失踪」を扱っている。
   事件は未解決である。


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「R・L・スティーブンスンの『自殺クラブ』のこと。」


 ロバート・ルイス・スティーブンスンの「新アラビア夜話」を
読みました。この作品は、「自殺クラブ」と「ラージャのダイヤモンド」の
2編から成り立っています。それぞれは主人公の異なる短編小説から
構成されています。「新アラビア夜話」の原書には、先程の2編の他に、
4つの物語が含まれていますが、その4つの物語は「新アラビア夜話」とは
別個の作品であるとの事です。

 この「新アラビア夜話」は1882年に、スティーブンスンの友人の
W・E・ヘンリーが編集している雑誌「ロンドン誌」に掲載されました。
しかし雑誌の発行部数が少ないため、世間の目を引くことが無く、
出版後は5年ほど、廃刊した雑誌の中に埋もれていたとの事です。
また「新アラビア夜話」のように荒唐無稽な物語は、作者の名誉を損なうと、
作品の出版には反対があったという話が残っています。

 しかし後になって、ラフカディオ・ハーンやH・ジェームス達は
この作品に好意的な理解ある評をし、1959年にサンデータイムズ紙が
選定した長・短編探偵小説ベスト99の中に入っています。

 どの作者のどの文章で読んだのか、自分は忘れてしまいましたが、
「犯罪を扱った小説には、主人公が2通り考えられる」という内容の文章を
読んだ記憶があります。一つは事件の主人公で、もう一つは物語の主人公です。
 事件の主人公と言うのは、事件の加害者あるいは被害者の事です。
事件による被害者の苦しみと復讐をテーマにしたストーリーや、
犯罪を起こした動機や過程をテーマにしたストーリーが考えられます。
 物語の主人公と言うのは、事件の真相を突き止める刑事や探偵の事です。

 「新アラビア夜話」、特に「自殺クラブ」についてですが、
これは上記の2通りの主人公のいずれにも依らない、別のスタイルの
主人公を扱った物語と言えるかもしれません。
 「自殺クラブ」は次の3編から成り立っています。
「クリーム・パイを持った若い男の話」「医者とサラトーガ・トランクの話」
「二輪馬車の冒険」の3編です。
 最初の「クリーム・パイを持った若い男の話」では、フロリゼル王子が
自殺クラブの存在とその悪行を知り、その会長を捕らえ、会長を処罰するために、
ジェラルディーン大佐と他に2名を会長につけて大陸へ旅立たさせます。
次の「医者とサラトーガ・トランクの話」では、会長を処罰するはずだった
フロリゼル王子の従者2名が、反対に会長に殺されます。
最後の「二輪馬車の冒険」では、フロリゼル王子が直接、会長と決闘をし、
勝利を収めます。
 このように「自殺クラブ」の3編はそれぞれ連続性があり、
大きなストーリーとしてはまとまっているのですが、刑事役に相当する
フロリゼル王子や犯罪者である会長の側から物語が描かれているのではないため、
個々の出来事の経緯の詳細等はあまり分かりません。
フロリゼル王子と会長の決闘の模様さえ、描かれていません。
 「自殺クラブ」の3編は、会長の悪行や会長を討つために追うフロリゼル王子の
出来事に、ほとんど偶然に巻き添えになった善良な第三者の側から、ストーリーが
進められ描かれています。

 作者が何故、このような視点から物語を構成して描いたのか、
自分には分かりません。しかし「自殺クラブ」が描かれた当時のイギリスの社会事情、
特に犯罪の状況等を調べ考慮したうえで、「自殺クラブ」の主人公と視点に関することを
調べる事は、興味あるテーマだと思います
(例えば、全くの想像ですが、1882年頃のイギリスには、
常識では説明のつかない理不尽な、しかもどことなく危険性が感じられる出来事に
遭遇する人間が、比較的多数いたのかもしれません)。

 今回、「自殺クラブ」の構成を参考にして、どことなく不思議な、
あるいは非常識で腹立たしい出来事が起こる、そんな物語のプロットを考えています。
全体は三部構成のプロットにしようと思います。


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「森鴎外の『山椒大夫』と、グリム童話の『めっけ鳥』のこと。」


1)
森鷗外の「山椒大夫」とグリム童話の「めっけ鳥」を読む。 
共に、「失踪、監禁、脱出」の物語構成を
読み取ることが可能かもしれない。 
小説の作者や民話の語り手が、「失踪、監禁、脱出」という  
言葉を念頭に置いていたのかどうか、自分には分からない。
  
2)
森鷗外の「山椒大夫」について。  
物語は、全体が14の部分からなる。 
1から5が、「失踪」に至る経緯である。 
6から9が、「監禁」された生活の様子である。 
安寿と厨子王には、小萩という『仲の良い友達』ができる。 
10から12が、「脱出」の様子である。 
2つの大きな出来事がある。 
一つは、『沼』での安寿の入水である。 
もう一つは、厨子王は『寺院』に身を守られた事である。 
13から14は、物語の結末である。

3)
グリム童話の「めっけ鳥」について。 
「失踪」に関する文章では、森の番人が幼い子供を見つけ、 
家に連れて帰り、その子を「めっけ鳥」と名前をつけた事が
描かれている。
「監禁」に関する文章では、番人の子供のレンちゃんと 
めっけ鳥が『仲の良い友達』になったこと、 
番人の家の料理人である老婆が 
釜のお湯でめっけ鳥をぐらぐら煮ようと企んでいる事が
描かれている。 
「脱出」に関する文章では、追って来る老婆の下男から逃れるため、 
レンちゃんの不思議な力で3回の変身(?)をしたことが描かれている。 
一回目は、バラの幹と花に変身する。 
二回目は、『教会』とその中のシャンデリアに変身する。 
三回目は、『池』とそこに浮かぶ鴨に変身する。

4)
脱出に成功するため、あるいは救われるための鍵として、 
『寺院』『教会』『沼』『池』というものが描かれている。


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「夏目漱石の『明暗』のこと。」


Bがどのような人間なのかを知るための参考になればと思い、
ミクは夏目漱石の『明暗』を読む。その登場人物の小林において、
作者は、盲目的で完全な悪の造形を描こうと試みた可能性があると、
ミクは考える(85章86章の小林の台詞)。

小林はお延に津田の過去を暴露するような素振りを見せる、
お延は精一杯尽くす夫の津田から
充分に愛されていないと感じ苦しむ、
お延は過去の津田と清子の関係を何も知らない、
また現在の津田はかっての
婚約者(?、134章)の清子に未練がある、
津田は吉川夫人の説得(もしくは策略?)により
未練を精算するため清子の療養先の温泉に行く、
津田とお延の破局の可能性が高まる、
もしも破局をむかえると津田は社会的地位も信用も
全てを失う可能性がある、
『明暗』と同じ作者による小説『それから』の主人公の
代助のように、、、。

小林は、津田が全てを失う事を予見して
(118章の小林の台詞が参考になる)
津田の全てをお延に暴くような振る舞いをする。
小林の暴露の動機は不明、
小林はかって津田とお延から何かの被害を受けた事も無い。
85章と86章には小林が人に嫌がらせをする原因とも目的とも思われる
奇妙な理屈が述べられているが、
ただの空論であると言えなくもない。

それでは上記のような不道徳な言動をとる小林は
どのような人間であるのか?
彼は自分を、社会的にも経済的にも極めて虐げられた人間だと
思い込んでいるようである。
34章では、「僕(小林)は下等社界に同情している、
しかし君(津田)はこういう人を見くびっている」と言う。
35章では、小林はドストエフスキーの小説を取り上げ貧しい人の
至純至精の感情の話をして涙を流す。
36章では、小林は津田に、未来の無い東京を去り
未来の可能性のある朝鮮へ行く事を話す。
82章では、小林はお延に、「僕には妻も親も友人も世の中も、
何も無い」と話す。

しかし小林は、津田のいうところでは、
正則の教育を受けていないとは言え、
知性も教養も備えた人間である。
そして小林は、藤井(津田の叔父)の雑誌編集の
仕事をしており(36章)、
お金(小林の妹)は藤井家の下女をしている。
小林が言うところの下等社界の人間ではなく、
上流社会寄りの環境にいる人間である。

ミクは、85章と86章の小林の奇妙な理屈と合わせて推測すると、
彼はある観念を盲信する性格の人間であり、
そのために津田やお延に対して
「擦れっ枯らし」な言動を行ってしまう、
そのような人間ではないかと、推測した。

さて、『明暗』がBを知るための参考になったのかと言えば、
参考にはならなかった。小林とBとでは、
その出来事があまりにも異なる。
しかしミクは、究極の悪というものは、
最初から犯罪として現れものではなく、
初めは思想や倫理の方面から
現れるのではないのだろうかと推測する、
また倫理を乱すことにより人間や組織を破滅に導くことも
可能であるのではないかと推測する
(例え、取り締まる事は不可能でも、
究極の悪の最初の現れに関して、
警察は十分に理解していると、ミクは考える)。

【ミクはBを知るための参考になればと思い、
「明暗」を読んだのであるが、
自分の読み方は(上手く言い表せないが)日常的な
底の浅い読み方だと思っている。
例えば、以下の事柄を調べながら読むことが
望ましいのではないかと考えている。

キリスト教の神は天と地の創造主であり、
天は神の被造物であるのだが、
この事と比べた場合、小林の言う「天」とは
どのようなものであるのか?
小林はドストエフスキーの話をして、津田の眼前で
ぽたぽたと涙を流すが、そのような小林の、
キリスト教やその神に関する理解はどれ程のものであるのか?
「嫌がらせをしても責任を負わない」と言う内容の言葉を
小林はお延に言うが(86章)、
それは「過ちや悪を行っても、罪を認めないし
良心の呵責も無い」という
意味なのか(もしもそうならば、全く救いようの無い
極めて恐ろしい言葉である)?
津田との送別会で、小林は津田から受け取った餞別の金を、
不道徳的とさえ言える失礼な言動を津田にとった後で
貧しい画家に与えるのだが、そのような小林の言動は
(物質的な救いのためには)不道徳な手段や非合法な手段による活動も
許されるという小林の思想の表れなのか?
小林はドストエフスキーに言及して涙を流し、
そのドストエフスキーは非合法な社会主義運動(?)を
企んだ一員として逮捕され流刑の地へ送られた経験を持つが、
「明暗」を執筆していた当時の日本において、
非合法な社会主義運動(?)は行われていたのかどうか?
「明暗」を執筆していた当時の日本において、
非合法な社会主義運動(?)が行われていたのならば、
作者の夏目漱石はその運動をどのような心境で見ていたのであるか?
その心境を推し測ることは、作者の晩年の思想
「則天去私」への理解につながるのか?

以上の事柄を考慮して「明暗」を読むことは、
ミクの能力や時間的都合を遥かに越えることなので、
ミクはいったん本を閉じる。】


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感想「参考にしたいくつかの作品のこと」