やさしい風、吹いてるよ

 
 入学式のバタバタも、ようやく落ち着きそうだ。真新しい制服姿の私を早く見せたくて、あの日私は流れる汗も気に留めずに、百段坂(ひゃくだんざか)を通って帰っていた―――。

「ただいま、制服とってきたよ」 箱に入った包みを掲げていうと、
「よお、アヤネか。行ってきたぞ病院」 リビングテーブルに座るキトが振り向きもせずに言った。
 そういえばキトさん、検査結果を聞いてくるって言って、今朝来たんだっけ。 
「それで?」 
 検査するまでも無かった、お金の無駄遣いだった。そんなたぐいの答えを期待するには、少し、空気が重たく感じた。
「がんだってよ。すい臓の。余命六か月、ががーんだそうだ」
 えっ。 
「出た、キトちゃんの時代錯誤(さくご)のおやじギャグ」
「鳥肌ものだな」
 お母さんもお父さんも、いつもと同じ。何事もなかったかのような反応。
 どうして? いまキトさん、大変なこと口にしたんだよ。
「何が時代錯誤だ。お前らいつから世間に足並み揃えるようになった。オレたちが語り継がなきゃ、歴史から消えちまうんだぞ、くだらねえギャグはよ」
 消えちゃう。半年後に消えちゃうの? キトさん。
「なに突っ立ってんの。案山子(かかし)になっちゃった?」
 テーブルを囲む三人が不思議そうに私を見上げる。ヘンだよこんなの。
「着替えてきたらどうだ」
 お父さんが(しずか)かに言った。
「そうそう、制服できたんだよな。あのアヤネが女子高生かよ。大人のかいだん、フ~ムムゥ~♪ 十五年、あっという間さ」 なに歌ってるの。懐かしんでんのよ。 
 目の前の私にとっての 『もうひとりのお父さん』 が、やせ細って、苦しんで、半年後にはいなくなっちゃう。消えちゃうかもしれないんだよ。
「泣いてんのかアヤネ、お前が死ぬわけじゃあるまいし。オレの話はいいから初々(ういうい)しい制服姿、早く見せてみろ。ここで、着替えちまえ」
「いやらしい。いつから少女趣味になったのよ」
 リビングの床に落ちた、制服の包みを拾い上げながらお母さんは言った。
「バカ言うな。オレは純粋に、アヤネの成(おさ)した姿をだな、喜びたいだけだ」
「純粋ぃ? よく言うわよ、いやらしい目して。そんな目で文音(あやね)を見るなら、明日から出入り禁止にするからね」
「いつオレがそんな目でアヤネを、」
「いい加減にして!」
 ウチに怒鳴り声なんて似合わない。わかってる。でも、私がガンになっても、同じように笑ってるの? こういう時こそ、こんな時くらい大人らしく、難しい顔して。
「みんなで考えなくちゃいけないんじゃない? これからのこと。話し合うこといっぱい有るでしょ」
 キトさんは、お父さんとお母さんより十歳年上の四十八歳。両親を早くに交通事故で亡くし施設で育ち、身寄りはない。
 何を話し合えばいいのか、私には何も分からない。みんなで病気と向き合って、みんなの力を合わせれば、絶対に負けない。力を合わせなければ、勝てない。そんな思いが私のこころを揺れ動かしていた。
「オレがくたばっても、ちゃんとショージの会社に仕事まわすように(おどし)しとくから、心配すんな。それと、他にあったか。話しとかなきゃいけねえこと」 キトさんが首をひねって考える。
 両親はキトさんと同じ自営業。キトさんが工作機械を使って形にした金属に、色を塗って製品にするまでの工程を、キトさんから請け負って仕事をしている。だからキトさんが廃業すれば、これまでのように発注がくるという保証はない。キトさんはいっつもこう。他人の心配ばかりして、自分のことはどうでもいいの。
 もちろん仕事のことも大事だよ。でも、他に有る筈だよ、話し合わなければいけないこと。
「お買い物行くとさ、ヘンな顔されるのよねえ。―――なにこの臭い、クサッ。って目で見られるの。髪はべとべとでごわごわ。ブラシ通んないし。枕なんてシンナー臭がとれなくて、三か月毎に買い替えてるんだから。爪なんか、塗料でマニキュアしてるみたいでさ。そんな綺麗なものじゃないか。幼稚園生のネイリストに、爪の間までペンキ塗られてる感じだもん。ほら」
 お母さんは指を開いて、テーブルの上に両手をのせた。確かに、女性の手には見えない。男性労働者のような、硬く荒れた手だ。
「塗装屋の宿命、勲章だろ。名誉だと思えよ」
 キトさんが言った。キトさんはこと仕事には厳しいようだ。
「四十歳まであと二年。考えちゃうのよねえ。これからの人生とか、今までの生き方とかをさ。私の人生、 3/4 は、男で終わっちゃうのかなあ。なんてね」 
「何が言いてえんだよ、アカネ」
「ウチもたたむんだ。キトさん」
「店じまい。閉店することにしたの」
 お母さんとお父さんは、顔を見合わせて、笑みを浮かべた。すでに話し合っいてことが分かった。
「お前たちには文音がいるんだぞ。そんな大事なこと簡単に口に出す奴があるか。余計な世話焼くな。迷惑だ」
「迷惑? 何勘違いしてんのキトちゃん」
「ずっと考えてたんだ。これ以上、ヒロキさんを待たせるわけにはいかないってね」 
 ヒロキさんって……。
 ヒロキさんは、キトさんの幼馴染み。純喫茶 『セカンドハンド』 のマスターだ。背が高くて、少し風変りで、寡黙(かもく)。私の記憶ではそんな感じの人。でも今思うと、お店の雰囲気がそう印象づけていたのかもしれない。でも、どうしてマスターの名前が出てくるの 「待たせるって、なあに?」
「キトちゃんだって、同じ気持ちだよね」
 お母さんは答えずに、テーブルに身を乗り出して別のことを言った。何かを決めつける言い方だ。
「ヒロ、な」
「これからはヒロさんと一緒に、ほんとの夢の中で生きたいって話したの。ショーちゃんと」
「会社を持つことなんてただの希望。希望は叶えた。これからは本当の人生を歩きたいんだ。もちろん、打算なしのだ」
 三人だけの会話がつづく。
「夢は打算とは無縁。か」
 キトさんが言うと、ふたりは深くうなずいた。きっと若い時にいっぱい夢を語り合ったのだろう。でも、私には何が何だかわからない。
「夢で生きるには、叶えた希望を捨てる決断が、必要な時がある」
 お父さんの言葉に、キトさんがニヤっとした顔になる。それより、 「キトさんのこれからのこと、真剣に話そうよ」
「オレはいつでも真剣さ。ショージもアヤネもきっとそうだ。生けるもの死は避けられず。おやじやおふくろみてえに、二時間前までビンビンだった人間が呆気なく、」
「ぴんぴんでしょっ。んもう」
 呆れ顔でお母さんが言う。
「口挟むなよ途中でよお。なんだっけか? そうそう、ガキ残して呆気なく死ぬのも天命。それに比べたら、オレは予め告げられた天寿を全うできるんだ。めちゃくちゃ幸せ者だぞ。そう思わねえか」
「言われてみればそう、かも」
「だろ? だからオレは、半年後のゴールに向かって夢を見ながら命を刻む。やりてえ事やって死んでやる。ヒロと。お前らとな」
「何だかわくわく」 
 お母さんは女の子みたいにはしゃぐ。
「ムラムラするぜ」
「メ・ラ・メ・ラ。わざと言ってるでしょ」
「半年後にゃオレは仏様。至って真剣さ」
「決めつけないでっ。良いお医者さん探して入院してしっかり治療すれば、治るかもしれないじゃない。諦めるなんてヤダよ」
 こんな時に明るくいられるのが大人なの?
 私は大人が分からなくなってきた。肝心なことを話してくれない。話そうともしない。泣きたいわけでも無いのに 「どうして」 の涙が湧いてくる。
「入院したところでよ、大してやることは無えんだと。わざわざ病院を儲けさせてやる義理が有るわけでもねえし、無駄遣いしたくねえんだ。時間をな」
 時間を。何となくだけど、分かる気するよ。でも病気が治れば、
「じゃあ通院ね。一緒に行くから」
 春の陽をふくんだ風が、テーブルの向こうでカーテンを揺らし始めた。私には希望を運ぶ風に思えた。
「どんな病気かだけ知りたかったんだって。キトちゃん」
 お母さんの言葉は私の希望を、失望に変えた。
「その通り。だから麻薬なんか使わねえ」
「痛いって言うじゃない、痛み止め使わないと。私には無理。虫歯でも耐えられないから」
「虫歯より痛えのかよ」
「知らないわよ。でも虫歯だったら治療したり、鎮痛薬飲んだりするでしょ。痛いのヤダから。歯医者嫌いのキトちゃんに耐えられるとは思えないけど」
「虫歯の方がまだマシってことか」
「だって、頭痛とか歯痛で飲む痛み止めじゃ効かないから麻薬を使うんでしょ。医療用の。そう考えると、常軌を逸した痛みなんじゃないかな。きっと」
 キトさんが腕組みをして考える。初めてことの重大さに気づいた。そんな表情だ。
「わざわざ苦しむことなんか無いじゃない。病院行こ、入院して治そ」
 脳裏の中のキトさんが、苦しみに顔を歪め迫ってくる。
「アヤネはよ。高校生活を満喫することだけ考えてりゃいい。胸をデッカク膨らませてな」
 晴れ晴れした表情で言う 「話をすり替え、」
「でっかくは余計でしょ。中学生みたいなこと言わないでよ、いい歳して」
 口をはさんだお母さんの目は笑ってる。
「夢だ夢。夢をでっかく膨らませてだ。日本語ってのはややこしいな、ったく」
 慌てふためいてるのは私だけ。子供だからだろうか。
「アヤネ。オレはどんなに苦しくても、最期まで笑っててやる。だからもう泣くな」 言いながらキトさんは、お母さんが夕食後に弾くアコースティックギターに手を伸ばした。
「半年で死んじゃったら負けよ! 負けだからね!」
 他にもう、言うことばが見つからなかった。大人を説得することが出来ない自分の無力さが悔しい。
「夢の中に生きる者に、終わりも負けもないんだよ」
 お父さんの言葉が優しかった。キトさんは満足げな表情で、ギターを鳴らしてる。大人じゃない私は、泣くことしかできない。
 お母さんは、いつの間にかに開けた包みの中の制服を出して、広げていた。
「いいなあ。思い出すなあ。着ちゃおっかな」
「誰もいねえ時にしろよ」 
 ―――私の春は、あっという間に過ぎた。四季のひとつを失ったかのように。 



    始まりの夏

 
 学校は小さな山の上にある。
 小さいと言っても、もともとは、いくつかの丘が連なったような今の形とは違って、低いながらも広大な山だったはず。だって、道を挟んだ林の向こうには、去年まで通っていた中学校や陸上競技場があるし、お城に通じる曲がりくねった坂道の途中には、競輪場や女子高だってあるのだから。
 クラスメイトのほとんどが、山の東側にある 『百段坂』 を上ってやってくる。駅から最も最短で来られる―――地元に住む私でさえ通るのを避ける―――山の斜面の形を残した、急な石段の坂道だ。
「足太くなっちゃよ~」、「 地獄から生還!」
 教室に入るなり悲鳴をあげてたのも先月まで。連日夏日がつづくこの頃は、みんな校庭の隅の木陰でクルールダウンしてから更衣室に直行だから、ゆっくり話すこともできない。
 だから、「文音は近くていいよね」 とも、ゆっくりくればいいのにとも言われなくなった。聡美や奈保子は、一緒に話そって誘ってくれるけど、涼しい顔してみんなの前に行くのは気が引けるし、私にはこのくらいの距離感が丁度いいの。ごめんね。 
 ねえ里絵(りえ)武田(たけだ)先生の話、覚えてる? 
 私はいつものように、少し前かがみになって文庫本を開く里絵の背中に話しかける。心の中で。
 ここは他校に入れない者のためにある最後の(とりで)のような学校だ。二時間以上かけて通学してくる者も少なくない。だから、勉学に励めとも居眠りするなとも言うつもりはない。だがイジメだけは絶対に赦さん。親が何と言おうと即退学だ。三年間、肝に銘じておけ―――。
 嬉しかったな。
 きっとこのクラスにも、いじめられてた子や不登校だった子、いると思うの。私だって勉強が苦手なばかりに、悔しい思いしてきたんだよ。だから先生のお話しを聞いて、とっても安心したし、この学校に入って、ほんとうに良かったなって思った。里絵はどう? どう思った?
 聞こえるのは、黒板に数字や記号を書きつけるチョークのリズム。忙しそうだね。
 それに男子の寝息。朝練で疲れたのかな。
 それから、林を行き交う鳥たちの、よくとおる高い声。大きく、小さく、優しく元気な。
 それと、頁をめくる心地いい音。何読んでるの? 里絵。
 何だか私のために、時間がゆっくり流れてくれてるみたい。
 このままゆっくり。ゆっくり流れて―――私の声も聞こえるよ。
 あっ。
 鳥たちの声がぷつり。驚いたの? 私の声に。ごめんね。
 
 いいね。君たちは。自由に、どこにでも飛んでいけるんだから。
 スズメのつがいだろうか。ベランダの手摺で、楽しそうに跳ねまわっている。
 君たちも好きなの? 学校が。そう。うふふ。
 キトさん……はね、
 ん? キトさん?
 キトさんは、お父さんとお母さんが働いていた会社の、先輩だった人よ。同じ阪神タイガースファンで音楽が好きだったから、すぐに意気投合したんだって。二十年も、ずっとお友だちなの。
 って言うよりお兄さんのような存在で、私にとってはもうひとりのお父さん。だからキトさんは、(うち)族なのよ。
 でもね、小鳥さん。キトさん……病気なの。
 やっぱり私、キトさんのね、もうひとりのお父さんのそばに居たいの、ずっと。だから私ね。君たちとは、
 つんつん―――。
「?」
「静からだよ」
 入学して三か月。初めての 『メモ』。
 ありがとうの笑みを返して、手の中でピンク地の紙を開く。

 今朝百段坂を上ったところで、セミ、踏んじゃったよ~。ショックゥ。
 ゴメンね、セミくん (泣)。
 お弁当、いっしょに食べよーよ。ねっ。
   by 静かじゃない、静より


「暑っついねえ。元気?」
 ああ、静か。
「元気だよ。ちょっと夏バテ気味だけど」
「窓際は暑いよねえ。文音、肌白いから、日焼けしたら真っ赤になっちゃうんじゃない?」
 静は(ひざ)を曲げ、ひじを机について私を見上げる。
「もうヒリヒリ。そろそろクリーム塗らなくっちゃ」
「悩んでるみたい」 机の傷をなぞりながら、静が言う。
 唐突、だけど訊こうか訊くまいか、迷っていた様に見える。
「ううん、何もないよ。私って、いろんな事、考えちゃうタイプだから。そう見えちゃったのかもね。ごめんね」
「ほんとに?」
 このクラスの子は男子も女子も、人の気持ちに敏感な子が多い。知り合ってまだ三か月が過ぎたばかりだけど、そう感じているのは私だけではない筈だ。
「うん。本当だよ」
「いろんな事って、どんなこと考えるの?」
「そうねえ。例えば、あれとか」
 窓の下に見える 『競輪場』 に目をやる。選手がバイクの後ろにピタリとついて、練習しているところだ。
「リンクが全部見えるんだねえ。ここなら日焼けさえが我慢すれば、授業も楽しいかもなあ」 静は立ち上がって、窓枠にからだを寄せて言う。 「それで?」
「競輪の選手の太ももって、女の人の太ももくらいあるって言うでしょ。女性選手って、ミニは履かないのかなとか、いい日焼け対策の方法教えてくれないかな、とか」
「うふふ。他には?」
「そうねえ。雲に色がついてたら楽しいだろうなあ、とか。セミくんを踏まないように気をつけながら歩く、静を想像したりとか」
「想像力豊かなんだね。文音って」 静は嬉しそうだ。これでいいの? 心配してくれてるのに。
「好きなの。想像とか、妄想」
「ヤダ怖~い。面白いんだね、文音って。意外ぃ」
 こんな私もほんとうの私。だけど在りのままの私ではない。
「また手紙書いていい? ゆっくり話せないから」
「ごめんね。携帯もないし、家も反対でいろいろ気を遣わせちゃって」
「そうじゃないよ。手紙のやり取りしたかったの、ずっと。文音と」
 ごめん静。「手紙、書く私も。返事頂戴ね」
「わあ」
 両手を口にあてて喜ぶ姿は、中一の女の子みたいにあどけない。素直なんだね、静は。
「文音は、本好き?」
 私は里絵の背中に目線を向けた。
「読まないなあ、あんまり」 滅多に。
「じゃあ、お父さんかお母さんが読むんだ」
「どうして?」
 どうして本の話題が出るのだろう。文学少女になんて見られたこと、ないんだけど。
「だって文音のアヤの字って、文、って書くから」 
「ああ。最近忙しいみたいで余り読んでないみたいだけど、結構好きだったみたい。昔は」 スポーツ新聞以外に読んでるとこ見たことないよ、阪神贔屓(びいき)の。なんてとても言えない。
「ねえ文音。久島(くしま)さんって、かなり読書家よ。手作りだもん。ブックカーバー」 静は耳元顔を近づけて言った。
「そうなの」 私は無関心を装った。
 久島美子(よしこ)は私以上に目立たない存在で、彼女とだけは、挨拶を交わしたことも、目を合わせたこともない。もしかしたら話したことがある子なんて、いないかもしれない。
 だからと言って浮いた存在というわけではない。ただ、大人びた彼女に何を話して、どうやって関わればいいのか、分からないだけなんだと思う。
 一学期も、残すところ二週間余り。久島美子も、夏休みを待ち焦がれているのだろうか。みんなと同じように。
 夏休みなんて無いほうがいい。
 一年で終える私の高校生活を ―――私は、一生心に残るものにするんだから。
 でももうひとりの私が、私に言う ―――久島美子のようにしてれば、辛い思いしないよ。
 「どうかした? あ~んもう時間だよ。手紙書くね。次、英語だから」
 静は舌を出し、スキップを踏むように席へ戻る。
 人はひとりだって生きていける―――。
 キトさん、言ってたっけ。だけど、ひとりで成長していくのって難しくなあい? 大切なものに気づかないまま通り過ぎてしまったり、しない?


「商業科に 『ヨシコ』っていう子いるでしょ」
 入浴をすませた私に、ただいまも言わないでお母さんが訊く。週末はセカンドハンド・ストアのライヴで帰りが遅い。
 ヨシコ? 誰だろう。
「このくそ暑いのにパジャマなんて着てんのか。せっかく風呂入ってもまた汗だくになっちまうだろ。脱げ」
 ヒロキさんを加え四人でバンド活動を再開させた両親とキトさんは、以前にも増して行動を共にすることが多くなっていた。音楽をやることが、会社をたたんでまでやりたかった、夢らしい。
「病気になってから、スケベに磨きが掛かったようね。お帰りください。さっさと」
「お前がメシ食ってけって言うから来てやったんだぞ、わざわざ。お前こそ最近、やけにヒステリーじゃねえか。ショージに捨てられないようにせいぜい気を、」
「そ・れ・で、何?」
「そうそう。ヨシコって子、知らない? 背が高くて髪の長い、高校生に見えない大人っぽい子。苗字は、なんだっけ。キトちゃん覚えてない? あの子の苗字」
「クシマだよ。クシマヨシコ。スレンダーなのにFカップ級の胸が、」
「変態。そんなとこまでチェックしてんの?」
 どうして知ってるの、久島美子を。何を話したの? クラスの誰とも話そうとしないのに。 
「あれだけ目立ちゃ見るよ、ふつう。なあショージ」
「ん? ああ。まあ」
「嫌よぉ、ショーちゃんまで」
「オレだけ変態扱いすんな」
「そ・れ・でっ! どうかしたの。久島さんが」
「ファンなんだって 『セカンドハンド・ストア』 の」
 セカンドハンド・ストアは、昔からのファンと若者らの口コミで、再結成二か月にしてライブハウス一の人気だと言う。
 だけど私は、未だ四人の演奏を聴いたこともなければ、ヒロキさんのことさえ、ぼんやり記憶に残ってるだけ。なのに、久島美子は四人の夢の世界をその目で見、心動かされたのだ。その事が私の胸を、ひどく波打たせた。
「バンドのファンって言うより、アカネのファンって感じだなありゃ。ヴォーカルのオレの事なんか見ねえで、ずっとアカネに釘づけなんだからよ」
「そう? って言うかどこ見て歌ってんのよ」
「復活ライブ以来、毎回きてるな。あの()は」 スネアドラムを拭きながらお父さんは言った。お父さんは楽器や車だけでなく、自転車や傘や靴に至るまで、ものを大切に扱う。
「ショーちゃんまで……」
「クシマヨシコの出現で夫婦間に亀裂。家族崩壊か」
「ヘンなこと言うんじゃないわよ」
「は・な・しっ、したんでしょ。何を話したの久島さんと」
 どうしてウ(・)チ(・)はこうなの。
「話したよ。アカネが」
「キトちゃんったら照れちゃって口きけないの。いっつもそう。女の人の前に出ると意識しちゃって、顔まっ赤っかにしてコチコチなんだから」
「アカネの前じゃ赤くならねえのは、どうしてだろうな。女なのによ」
「なんですって!」
「いい加減にしてっ。いつもいつも」
 キトさんがいるといつもこう。話がどこかに行ってしまう。怒ってるわけじゃないし嫌なわけじゃないのだけれど、最近、以前のように、楽しいと思うことができない。
「ごめん。仲、良いの? ヨシコちゃんと」
 美子ちゃん? 何それ。
 話したことも、目が合ったことも無ければ、私の名前を知ってるのかさえわからないのだから、答えようがない。他の子もみんなそう思ってるはず。お母さんのほうが仲良しだよ。
「いい子よぉ、あの子。ギター教えてくださいって言われたの。小学生の子供が先生にお願いするみたいだった」
 意外だった。声さえ発したことのないあの人が自ら話しかけるなんて。
 クラスでいちばん大人に見える彼女が小学生みたい? おとなしくて読書好きな久島さんが、お母さんにギターを? 
 久島美子は、お母さん或いはお母さんが弾くギターに何を感じたのだろう。お母さんの何が、彼女の心を動かしたのだろうか。
「そっか。小学生みたいだったか。からだは大人なのに」
「また。ちょっと黙っててよ」
「教えるの? ギター」
「断った」 答えはわかっていた。
「どうして」 こだわるの。 
「本気だって言うから」
 幼い頃の映像が、ぼんやり浮かぶ。

   おかあさん。あたしも、ギターひくぅ。
   だ~め。遊んでるんじゃないんだから。
   おとうちゃん。タイコ、たたかせてちょうだい。
   あっちで遊んでなさい。

「なあアカネ。もうこだわんのやめろや。勇気ふり絞って話してたじゃんか。受け止めてやれよ。素直な気持ちをよ」
「んむ――。アドバイスくらいなら、してあげよっか」
 どうして私に言ってくれなかったの。その言葉、待ってたのに。
 久島美子への嫌悪感が芽生え始めるのを私は感じた。彼女には何の罪もないとわかっていながら。
「文音。その子に伝えてあげなさい。喜ぶぞ」
 お父さんが言った。
「気がすすまないか」
「そんな事ないけど。直接伝えてあげた方が喜ぶよ」
「文音から聞くから喜ぶんじゃない」
 そんな事ないよ。ぜったい。
「アヤネなあ。あれやこれや期待すっから、失望するんだぞ。期待なんて言葉、捨てちまえよ」
 だからキトさんは、病気を受け入れられたの? 
 なら私も……変わらないと。
 何かが動き出すような気がした。


   
    スターライトホテル
  

「頭、痛ったい。すっごーく臭っさーい」
 ダメッ。愚痴はだめ。禁止でしょ。
「おなか空いたぁ。腹減って死にそうだよお」
 ダメよ。弱音吐いちゃ。
「暑っちいなぁ。んもう」
 だからダメだってば。一から、ううん違う。ゼロから始めるって決めたのは誰? 心身ともに強くなって、やり直すって誓ったのはあなた、私じゃない。
 河合(かわい)澄香(すみか)が、成田空港で入国審査を済ませたのは、一昨日の昼。最後の食事は50時間前の機内食。石焼ビビンパ。 澄香は後悔していた。「完食しておけばよかった。体重なんか気にするから。口臭なんか気にするから」
 思い出すだけで(よだれ)たらたら。思い出したくもない。
 でも、あれって――石焼なんかじゃ無かった。そもそも飛行機の中で火なんか使えないでしょうよ。本物の石焼鍋なんか出てきたら火傷者多数。冗談じゃないわ。石焼フーでしょっ、ふう。フゥ。フ―ッ。ふぅ~疲れた。足の先から頭のてっぺんまで棒みたい。
 そもそも誰だっ。私のキャリーバッグ盗んだ悪党は。せっかくアリゾナまで行って格闘技プログラムをこなして、理想の技とパワーと精神力を身に着けて、無事帰国っていう時に。
 そんな状況で石焼ビビンバなんて、食えるわけないでしょっ。もう嫌。もうイヤッ。もう、ヤダっ!
 澄香のイライラ回路は断線寸前だ。
 シャワー浴びたのは……確か、70時間前。名前を名乗る事さえ躊躇したくなるほど臭うし(かゆ)いし、からだ中強力ガムテープを剥がした後みたいにベッタベタ。もうダメ、本当に。誰にも見られたくないほど見すぼらしくて、誰にも接近してほしくないほど臭いけど、もう孤独はいや。空腹と不潔と孤独さえどうにかなれば、他には何も要りません。
「誰かいない? いませんか」
 居たとしても好奇な目を向けられるだけ。わかってる。ここはアメリカではないのだから。
 でも誰か、誰か、誰か救って! ください。 『アイツ』 でさえなければ誰でもいいから。 「お願い!」 誰か。
 耐えられなくなった澄香は、一面田んぼの畦道に、崩れるように座り込む。こうしていれば、農作業車が通るかもしれない。一縷の望みも抱いて。
 ところで、どの辺りにいるの。
 千葉県の地理なんてぜんぜん分からない。成田は太平洋の方で、浦安は東京に近いはずで、あとは矢切の渡しに乗ったら松戸、だったっけ。その程度。もう一日と半日くらい歩いてるんだから、東京に入っていたとしてもおかしくはない。
 東京の地理なら千葉よりかは知ってる。オカリナみたいな形の東京で、はっきりココって言い当てられるのは、町田。それに八王子と隣の多摩もどうにか。新宿はなんとなく。その程度。
 はぁ。見栄を張らずにヒッチハイクしておけば良かった。
 わっ。やだ、夕立? 着替え無いのに。髪洗いたい。でもこの程度の降りじゃ無理、ショートにしておけば良かった。私ってどうしてこんなにも運が悪、
 ダメ! それ以上口に出したら。運は自分でつかむもの。与えられる運なんてないのよ。
 はーあ。男は得よね。スキンヘッドだって恰好つくし、臭ったって男臭いでと済んじゃゃうし、裸になって川に飛び込んでも文句言われないし。上半身だけなら。ホントにお得、男って。それより何より私が男だったら、大枚(はた)いてわざわざ渡米して、J・Wジムの最強格闘プログラムに二か月間も参加する必要もなかったわけだしこんな惨めな目に会うこともなかったわけよ。どうしてこんなに私は損ばかりして運が、ウッ。ウウンッ。
 でも、二か月前の私だったら、とっくにグロッキーだったはず。何はともあれ、こうして生きてること自体がラッキーなのかも。ジェイムスのおかげ。という事にしておいて、今は現実を見つめなければ。
 でもやっぱりこんな容姿じゃなあ。鏡を見るのさえ怖い。私に残された道は、神奈川ナンバーのトラックの荷台に乗り込むことくらいしかない。
 って違う。裸一貫、ゼロからやり直すって決めたんだっけ。神奈川に辿り着いたところで、私には帰る場所はないのだ。そうは言っても、ここでこうしていてもカエルやプンプン虫やドジョウは助けてはくれない。どうしたらいいの。どうすんの私。
 ―――試練だと思って鍛錬(たんれん)するんだスミカ。成長という花が咲くまでね。
 J・Wジムのオーナーであり指導者の元海兵隊鬼軍曹(ぐんそう)? ジェイムス・ウォルシュの,
胡散(うさん)くさい格言だか金言もここまで落ちた今は耳障りには感じない。そうよ。進むしかないの、試練だと思って。
 とにかく西。太陽が沈む方角。どうなるかは神奈川に着いてから考えなさい。私には足がある。歩こうとする意思がある。神奈川なんか富士山よりずっと手前。甲子園球場に比べたら近所。さあ立って、私。
 ―――辛いときの克服法、知りたくないかい? スミカ。
「はい。教えてください」
 いやいや、この話は思い出したくない。
 ―――(まな)されている時のことを想像するのさ。忘れてしまったのなら、ボクが思い出させてあげ、 「ハオッ!」
 人を気絶させったの初めて。驚きより呆然。死なせたかと思った。
 でもジェイムス。私、愛されたことなんて無いの。
 ―――ボクの指導は間違っていなかっただろ、スミカ。君は間違いなく最強レディ。 『DVヤロー』 がヨコヅナで無い限り君の勝利は確実。ボクが保証する。スーパーイージー (超楽勝) さ。
 強くなるしかなかった。奴を叩きのめすことの他に道はなかった。イカれたDVストーカー野郎から逃げまわる人生に終止符を打つため。私はJ・Wジムの格闘プログラムに賭けたていたのだ。人生を。
 感謝してるわ、ジェイムス。あなたのファイターとしての実力は疑わしいけど、指導者としては最高。だと思うことにする。
  ―――この曲知ってるかい? ♪ プゥ~、ププー ♪
 帰国前日。吹いてくれたわね、ハーモニカ。音楽に(うと)い私でも、心に響いたわ。
 ―――昔スコッツデールという町でよく演奏した曲さ。ベースの男が君と同じ日本人で、ロッキーと言ってね。ナイスガイだった。
 J・W。あなた懐かしそうに目を細めて、ロッキーなる日本人とのこと、話してくれたわね。一緒にアリゾナやニューメキシコをまわって、ギャラのすべてを、貧しい子供たちのために寄付していたこと。そんなジェイムスたちの支援活動に触発されて、多くの音楽仲間が活動に参加して、やがて町ぐるみで支援の輪が広がったことを。
 ―――ロッキーは日本で同じ活動をすると話してたんだ。そしていつか、また戻ってくるとね。だがそれっきりだ。日本で会ったら、ひと言こう伝えてくれないかい。ボクはコイツを吹きながら 「待ってる」 とね。 ♪ プゥ~ ♪ プププー
 いつやってたのよ格闘技。アフガニスタンの最前線で戦って、退役後つい四、五年前まで全米四十ウン州まわって実践指導してたって、ホームページに書いてあるの、あれ嘘だったの……言えなかったな。ロッキーさんとの支援活動は、真実だって思いたかったから。口に出したのは、別のこと。 「それならジェイムス……」
 ―――オ―マイグッドネス <なんてこった>! その手があったか。スミカ、ボクは日本に行く。予約の入ってる日本人練習生男を片づけたら、ボクはここをたたんで日本でロッキーを探すよ。コイツを吹きながら。 ♪ プ~
「日本でジムをやりながらロッキーさん探しすれば? あなたなら日本でも大成功間違いなしよ」
 あなた、センチメンタルな表情で首を振ったわ。
 ―――ボクを日本のクーリー(苦力)にさせる気かいスミカ。それにだ、流行ってしまって国に帰れなくなったら困るだろ。君が帰るなと言えば、考えるがね。
 大丈夫、考えさせないから。 「まあいいわ、好きにして」
 ―――スミカ。最高の二か月だったよ。忘れないで待っていてくれるね、ボクのことを。サンキュースミカ、嬉しいよ。最後にひとつだけお願いがあるんだ。ボクの相棒をブルースハープと呼んでやってくれないか。みんなそう呼ぶんだ、コイツをね。 ♪ ピュー ♪ プゥー
 あの時のジェイムスのハーモニカ。さすがに寂しそうだった。
 ありがと、ジェイムス。だいぶ気が紛れたわ。
 さあ、気を取り直して。どっちに行く?
 西はまっすぐ。でも真っ暗。星と月明かりしか頼れない。じゃあ右に曲がる? 方向音痴だからな。成田に戻っちゃったりして。
 休もうよ。眠ろう。もしかしたら永遠に目覚めないかもしれないけど。明日生きてたとしても、もう歩けない気がするし。
 明日目が覚めても、覚めなくても、どっちもラッキ―(幸運)。そうでしょ、ジェイムス。
 ―――ボクは期待するのをやめたら、人生がハッピ― <幸福> になったんだよスミカ。
 あなたの言う通り。にしてみるわ。今夜はスターライトホテルで一泊よ。贅沢でしょ。羨ましいでしょ。
 見上げてみて、ジェイムスも。星の光がとっても綺麗。月がとってもやさしいわ。
 グッドナイト、ジェイムス。おやすみなさい。私もう、逃げないわ。



    きっかけ


 静の住む町は、落花生の生産とお祭りで知られる町で通学には一時間と掛からないと言う。東京に出る時に通り過ぎるだけの、馴染みのない静の町は、私にとっては別世界。別世界からやってくる静は、何を思って、どんな気持ちで満員電車に揺られているのだろうか。
 静は、私のことを、友だちと思ってくれているに違いない。静とならずっと友だちでいられるような気がする。
 だけど……。
 ―――夏休み、遊びに行っていい?
 約束どおりに、帰り際に手紙を交換しながら静は言った。静から受け取った手紙の返事を、翌日に私が手渡す。その事にも静は、気に留める様子を見せない。
「私が行くよ」
 とっさに口をついた一言だったのに。目を輝かせて喜んでくれるなんて――。ごめんね静。
「ほら、せっかくの夏休みに学校にくるみたいなものでしょ。悪いから」
 ―――いいの。休みの日だから来たいんだあ。学生がいない駅とか渋滞のない百段坂とか、どんなかな、って思ってたの、ずっと。物静かな校舎とか校庭も見たいんだあ。
 私にとって何でもない風景に焦れる静の気持ちが、嬉しかった。電車の中で、そんな事を考えてたのね。中学時代にいじめを受けていた静は、学校が、大好きなんだね。
 私も、好きよ。
 クラスのみんなもこの学校とこの町、好きでいてほしいな。
 みかん山をのぼる軽トラックのエンジン音に気づいた文音は、白い校舎に背中を向け、我が家へと足を向ける。枝分かれした分岐点までくると、なま暖かな冷気が熱風の行方を(さえぎ)るのが分かった。
 このまま、真っすぐ帰っても、いつもと同じ道を辿っていつもと同じ場所に帰るだけ。斜め右の坂道を上れば、何か、見つかんないかな。
 右向け右! 
 白い坂の脇に広がる緑が、元気いっぱいに葉先を伸ばす。かすかに聞こえる葉擦れとわずかに感じる、命の息吹きと香り。
 海も良いけど山も良いものよ。
 ―――いわぁ。学校の裏山って、こんなに切り立ってたのね。風を受け止めてるみたい。
 そうよ、強い風は跳ね返すの。髪はくずれないしスカートでも安心なんだから。
 ―――わあ、もみじがこんなに。カエルくんのお手々みたい。秋は絶景ね。
 葉先の緑を少しづつ、赤い色に変えるんだよ。
 静ほら、こっちも見て。きれいでしょ。海は日によって色を変えるんだから。
 ―――羨ましいな、すぐ近くにこんな景色が有るなんてさ。あら、澄んだ湧き水。ハンカチ、湿らせちゃおっかな。
 湧き水? 気づかなかったわ。静に出会ってなかったら、知らず仕舞いだったかも。
 ―――耳、澄ましてみない?
 うん。
 ―――生まれたばかりの、命の産ごえだね。
 ほんとだあ。ピタピタ、ピチャピチャ、チョロチョロ、チョロロ。トゥルルルルゥ。可愛いね。
 ほら、青い三角屋根が見えるでしょ。あそこが私の家。
 ―――そうなんだあ。じゃあ、学校沿いの、あの坂道をのぼって来るのね。ねえ今度遊びに行ってもいいでしょ。
 うん……遊びに来て。
 見慣れた風景が、愛おしい。
 あれ? なんだろ。
 お父さんの車の後ろに、うす汚れたワゴン車がピタリと止まってる。路上に停めることを嫌うお父さんにしてはめずらしい。自然と早足になる。
 二台の車の脇をすり抜け息を整え、覗き込むようにして玄関を開ける。
「ただいま――」 
 物音のしない家の中に言う。話しかけるように。
 慌てているよう足音が近づいてくる。と、
「あっ」 久島さん。
 どうして家に?
「ききき、キトさんが、たた倒れてしまったの。くくく、車のなか、」
 最後まで聞かずに私はリビングへと急いだ。
「走らないのっ」
 私の足音と聞きつけたお母さんの声のする部屋に向かって、廊下をすべる。両親の部屋が遠くに感じる。
「キトさん!」
 開け放たれた部屋に飛び込もうとすると、
「やあ。久し振りだね」
 記憶のまんまのヒロキさんが、入口に立っていた。
「すっかり大きくなったね。覚えてるかい?」
「覚えてるよな。190もあるノッポは、この辺りじゃ、そうそうお目に、掛かれねえからよ」
 海側に向けた体をひねりながらキトさんは言った。無理やり作った笑顔も、色落ちした唇から発するこえも弱々しい。
「大丈夫なの?」
「なあに。ただの、睡眠不足。曲作りに熱中して、ついな。ふかふかのベッドで、アカネの匂い、嗅ぎながら眠ったから、もう大丈夫。ビンビンよ」
「ちょっと。美子ちゃんがいるのよ」
 お母さんが久島美子を見て言う。久島さんは心配そうに、キトさんを見つめるだけだった。
「オレの故郷じゃ、みんな、ビンビンだけどな」
「故郷ってどこ。ここでしょ。そんな事言えるんだからもう大丈夫ね。どーぞお引き取りくださいませ」
「マジでまだ、歩けねえんだ」
 話をするのも辛そうだ。
「ご心配なく。五人で引きずってくから」
「怒るなよ。悪かったって」
 明らかにいつものキトさんではない。お母さんも。
「しかし驚いたな」 
 場を取り成すようにヒロキさんが話し始めた。
「いきなり美子ちゃん、キャーッ! だもん。思わずブレーキ踏んだよ」
「いきなり男がもたれ掛かってきたら、誰でも声あげるさ」 
「頭ひっ叩いてやろうかと思ったよ私」
 冷静なお父さんの言い方とお母さんの明るいトーンが、家の空気を入れ替えた。だけど私は、まったく話が呑み込めない。
「手を出さなくて正解だよ(アカネ)ちゃん。もし殴ってキトが死んでたら、犯罪者だ」
「怖いこと言わないで、ヒロさん」
 そう言うことだったの。キトさんが気を失って、久島さんにもたれ掛かったのね。
「悪かったな、ヨシコ。覚えて、ねえんだ。オレ、ヘンなこと、しなかったか? ヘンなとこ、触らなかったか」
 久島さんが激しく首を振って否定する。
 小学生の女の子みたいよ―――。 お母さんが話してた、ヨシコちゃんに会えた気がした。
「さっ。病院だ、キトさん」
 お父さんの言葉に、キトさんがゆっくり顔を背ける。
照治(ショージ)たちに迷惑だろキト」
「子供みたい。駄々っ子」
 お母さんの言葉にも、何も言い返さない。
「何も入院させようなんて思っちゃいないよ。曲、完成させてほしいんだ」
「俺も聴きたいな、新曲」
 ヒロキさんの言葉はみんなの思いだ。ちらっと久島さんに顔を向けると、美子は私を見て、嬉しそうに笑った。聴きたいねって、言うように。
「仕方ねえな、」
 キトさんが激しく咳込み顔を歪ませる。たまらなくなった私はみんなの間をすり抜け、丸い背中に手を置いた。
「学芸会。忘れ、られねえんだ」
「学芸会?」
「文音の、歌がよ」
 私だけにしか聞こえないほどの声だ。
「歌って、くんねえか。文音」
 思いもよらぬ言葉に、私はキトさんの顔を覗き見た。その頬に、湧き水のように()んだ涙が流れていた。
「私歌なんて」
「美空ひばり以来の衝撃だ。そう言ってたのよ。キトちゃん」
「ハネケンのピアノのようだともな」
 お母さんもお父さんも、幼い子を見守るような目をしている。
「照治も茜ちゃんも、君に音楽を教えなかっただろ。どうしてだか、わかるかい?」
 ヒロキさんが横に立って言う。その目を見ずに私は首を振った。見つめられたら、泣き出しそうだった。
「文音ちゃんの花は、君自身が生んで育てなければ、咲かないからだよ」
「自分で生み育てた歌を聴きたかったのよ。お母さんもショーちゃんも」
「ほうれん草が、ひまわりの花を咲かせたら、おかしいだろ。そう言うこった」 
 キトさんの赤い目が笑った。
「上手く歌おうとしなくていいんだ」
「そう。あの頃と同じ気持ちのまま歌えばいいの」
 みんな大切に、自分の花を育ててるんだ。幼い気持ちのままで。花が咲くのを楽しみにしながら。
「美子、の方がいいよ。歌もイケるってみんな褒めてたじゃない」 名前で言われた美子が恥ずかしそうに笑った。私も。
「確かに、ヨシコの歌も、なかなかだ。だが 『セカンドハンド・ストア』 のヴォーカルは、任せられねえ」
「ひどいよキトさん。そういう言い方。私だって自信なんてないよ」
「そうじゃ、ねえって。ヨシコは、ルックスが先に、立つからだ」
 はあ? 今何って。
 ヒロキさんが長い腕を大げさにすくめるのを見て、スイッチが入った。
「じゃあなに? 何の特徴もない、どこにでも転がっていそうな平凡を絵に描いたような女の子だから、私が選ばれたわけ」
「変に、受け取るな。文音は文音の、個性を伸ばせば、いいんだ」
「誤魔化さないでよ。私、歌わな、」
「わわわ、わたし!」 美子が両手で腿をたたいて会話を遮る。
「わわたし、どどどもるでしょ。き、吃音(きつおん)なの。ひひ人が大勢いるともっと、ひひ酷いの。わわたしも、文音さんの歌がき聴きたい」
 美子がみんなと話そうとしない理由が、ようやくわかった。
 大人のような容姿。そして吃音―――。与えられたその個性を特別な目で見られ、いつか美子自身にとっても障りとなってしまったのだ。
 大丈夫だよ美子。私たちがいるから。これからはいっぱい話して、いっぱい笑うのよ。みんなで。
「美子ちゃんは今日で 『ボウヤ』 は卒業。これからはギタリスト。いいでしょ」 お父さんに腕を絡ませてお母さんが言う。
「気持ちの入ったギターだ。下働きにしておくのは惜しいだろキトさん」 お父さんが応える。
「ヒロがOKなら、決まりだ」
 腕組みするヒロキさんは深くうなずいて、
「入ってくれる? 美子ちゃん」
「は、はい。わたし、頑張ります」
 はにかんだ表情がいじらしい。私は美子に要らぬ期待をしてきたのかもしれない。偏った目を向けて、美子の人格を勝手につくりあげていたのかもしれない。
 私は今日、美子の一生懸命が大好きになった。
「言っとくが、オレは引退する気なんか、ねえぞ。これからセカンドハンド・ストアは、五人でやってく」
「それなら病院にいかなくっちゃ。行かないなら引退よ」
 キトさんが起き上がろうとするのを、お父さんとヒロキさんが支える。窓外の海に、五人の子供たちがいた。


   
    何にも無いから、愛


 む。んん?
「気がついたけぇ」
 えっ、なに?
「ここは」
野辺(のべ)だあ」
 !!
「のののの、野辺 !?」
 やや、やっぱり……死んだのね。私。やっぱり。
 野辺送りのお迎えにきたんでしょ。死神さん。
「いがったなあ、おんめえ(良かったね、お前さん)」
 死んだのに、良かった? これから行く世界って、そんなに良いところなの? 
 という事は私、天国行き? ですか。それとも、地獄行きじゃなくて、良かった。そう言う意味ですか。
「けどまずはメシさ食ってえ、風呂さ入れえ。そんで、ゆ~っくり休めば、いがっぺよ(休むと良いです)。んなっ」
 最後の晩餐と湯灌。ですね。あっそう。白装束の下、穿いていいんですか? パンツ。あとで訊けばいいか。
「わかりました」 従います。それと死神さま。 お化粧したいです。最期くらい、綺麗な顔で旅立ちたい。
「化粧は。持ってっぺかあ」
 さすがは死神さま。すべてお見通し。
「ありません。してくれんですか。(死)化粧」
「甘ったれんなあ。化粧くれえ自分でせろ」 
 にかにか顔の死神さまが私には神さまに見えた。そうですね、自分のことは自分でしなければ、行けませんものね。天国に。
「それから、私はどうすればいいのでしょう」  
「のど自慢見っぺ」
「はい?」
「きれえけぇ、のど自慢」
「見られるのですか。野辺でも」
「のど自慢は全国放送だっぺよ。おめえ、野辺のことさバカにしてんのけえ。せ~っかく皆して助けてやったのに、冷てえなあ。都会の人間は。がっかりだあ」
  死神さんはさも落胆した表情で言った。
 えっ。た・す・け・て、やった? 助かったのけ、私。ホントに本当けえ?
 いがったあ。ありがとなあ、死神さまよお。
「恩着せるわけではないども、残念だあ。野辺さバカにするなんてよぉ」
「色々あって私、混乱してたものですから……」
「んだなあ。人生いろいろだなぁ」
「ごめんなさい。本当に」
「気にすっことねえっ」

 ―――都会の人間は冷たい。
 都会の人間ではないけれど、お淑やかに食べたら、冷ややかな目を向けられるかも。普段どおり、ひとりで食事を摂るときのように。心がけなさい、私。
「牛みてえだな、おめえ」
 地のものをふんだんに使って作られた料理は、宴会や結婚式を思わせるほど豪勢で贅沢で、美味だった。知らず知らずのうちに、夢中になって箸をのばしていたようだ。あっちのおかずにこっちのめしに。
「いい食いっぷりだあ」 座卓を囲む親戚縁者と思しき人々の目が、私に注がれている。野辺は少子化問題とは無縁なようだ。一人暮らしをしてたワンルームの四倍はありそうな畳の部屋いっぱいに並べられた顔が、そろって私を凝視し笑っている。
「おめえさん。花子の臭いさすんな」
 花子さん?
 女は私を除いて五人。男の1/4。ひとりひとりに目を向ける。
「どの方でしょう」
「ブタさ~ん」 死神さんのひ孫らしき女の子が、お向かいの席で言う。
「モモちゃんのママよ」
「モモは臭わねえんだ。まだ赤ん坊だからな」
 腹さあ空っぽん時の風呂は危ねえぞお―――。分かっていた。それでもお風呂を先にしておけば、豚くさいなんて言われなくてすんだはず。食事を提供してくれた事への感謝も忘れて、そんな無礼な事を考えながらも、衰えを知らぬ私の胃袋は食を求め続けた。
 三日分のカロリーをしっかり摂取した私は、念願のお風呂を借りた。石鹸もシャンプーも、泡立つまでに四回。もう一二度洗いたかったけど、のぼせて力が入らなくなってきたから仕方なく退室。お風呂場で卒倒するわけにはいかないし、そもそも入浴は好まない。
 脱衣かごに入っていたのは男物のトランクスと、今やすっかり見かけなくなったランニングシャツに草色の長袖ポロシャツと、らくだの股引。ブラジャーは当然無し。小柄な死神さん一家の女性陣のものでは合わないのは食事の時に確認済み。「裸よりいがっぺ」 自分に言い聞かせる。
 リサイクルショップでもお見かけしないであろう重厚な旧型扇風機で時間をかけてクールダウンし、脱衣場を出る。隣のコインランドリーのような場所では、死神さんこと 『るか』 お婆ちゃんが乾燥機を回しているところだった。
「洗っといた。ずいぶんきれいになったけんど」 
 傍らには洗濯板。手洗いだ。四度のシャンプーでも物足りなかったのだから、相当な時間を費やしてくれたのだろうが、諦めたようだ。声は憔悴しきり腰押さえる姿が痛々しい。
「ごめんなさい」
「気にすっことねえ。たいへんな思い、したんだっぺ?」
 ぐすっ。もう何年も味わっていない思いやり。涙を止められなかった。モモちゃんと仲良しの、るかお婆ちゃんのひ孫の愛ちゃんが、腰のあたりに手をあてていた。
 居間に戻ると座卓の上の風景は一遍していた。都会のビル群のように乱立するビール瓶と、わざわざこの酒宴のために作ったであろう唐揚げや枝豆の類が所狭しと並べられている。
「小っちゃかったけ?」
 やあやあ言いながら、隣の座布団をたたいて小男が言う。目線は私の体に向けられている。着替えのことを言っているらしい。
 男性恐怖症。になりかけの私には、男の隣に坐すことに抵抗があったが、ここは素直に従うしかない。
「暑いので、丁度いいです。このくらいが」
「そりゃ、いがったあ」
 良くもない。 座るとやはり窮屈さは否めなかった。
 ふくらはぎがどうにか隠れる丈の股引と、トレーニングで急成長を遂げた腕橈骨筋が隠せないほど袖の短いぱつぱつの長袖ポロシャツ。自分でも目を見張るほど胸は隆起し苦しい。のだが、小男はもちろん誰の視線も感じない。ジェイムスみたいにあからさまに見られるのも嫌だけど、まったく気にも留めないのもどうなんだろう。そうそう、花子のお乳を見慣れてるからなのね。
「な~にもねえけど。いっぱい呑めえ」
 隣の小男さんは、国一(くにいち)(くにいち)と名乗った。浅黒い顔いろと胴間声。年齢は不詳。五十歳前後といったところだろうか。たぶん。
 国一さんが話しつづけてくれたお陰で、野辺やご家族のことが大分わかった。
 村と思い込んでいた野辺は町。太陽を追いかけてきたから、てっきり千葉県と思っていたが違った。方角がずれていたか、方向感覚を失っていたようだ。
 何より私を驚かせたのは、るかさん一族がクリスチャンであったことだ。
 でも、今までに味わったことのないるかさんの親切や、屈託のない笑みを絶やさないみなさん、安らぎを与えようとして止まない国一さんを見ていると、なにも驚くことではないのかもしれない。私は偏った先入観で 「この人たちはこういう人」 と決めつけていたのだ。決めつけるのはよくないこと。けれどここにいる人たちはみんな生まれた時から、ずっとあたたかな気持ちのまま育ったのだと思う。
「明日にでも服さ買いに行くべ」
「でも……」
「なあに、ここいらじゃ洒落た服なんて売ってねえ。心配すっことねぇ。何もな」
 みすぼらしい恰好で行き倒れで発見されたのだ。お金を持っていないと思うのは当然。だめ、ここに居ると。涙が溢れてきちゃう。
「プレゼントよ。モモちゃんのこと、可愛がってくれたから」
 愛ちゃんそれはね。モモが好きな臭いをさせてたからなの、私が。
 「ところで澄香さん。これからどうすんだぁ」
 私には帰る家がない。有ると言えば有るが、半ば駆け落ち同然で家を飛び出した時点で、親も兄弟もないものと心に決めたのだ。今更頼るつもりはない。
「聞こえねえけ?」 
 私は、成田空港から、死神さん一家に救われるまでの経緯と、今後立たされるであろう状況を、順を追って話した。
「一文無しで住むとこもね(ない)。気の毒だなそりゃ」
「日雇いの仕事もねえもんな」
「な~んにも無いとこだけど、ここに居りゃ食わせることくれえは出来っけど――」
 皆言葉を失い(うつむ)く。
 心配してくださるその気持ちだけで十分です。励みになります。
「心配すっことね」
 上座に坐した、るかさんと大差のない身の丈の長兄が立ち上がった。
「おじさん、牧師先生よ」 愛ちゃんが教えてくれる。
 嘘。牧師と会ったことなど無いから、本物がどんな感じかは分からない。だけどイメージとだいぶ違う。いやかけ離れていた。坊主刈りの長兄さんは、袈裟(けさ)を羽織れば徳の高い僧侶といった印象で、ってダメダメダメ! 偏った目で見たら。
「神奈川県にも、私たちと同じ教会員の兄姉(きょうだい)がいます。彼らのもとにあなたを送り届けましょう。あなたは、乳飲み子が母を信頼するが(ごと)く、迷わず、また疑わずに、彼らを信じていれば良いのです。彼らは、試みの渦中に在るあなたが、心から笑えるようになる日まで、決してあなたを見放したりしません」
 清んだその目を、私はじっと見つめていた。吸い込まれてしまいそうな、優しさと強さを宿した深い瞳だった。
 
「日傘、持ってけぇ」
 るかお婆ちゃんが真新しい日傘を、私の胸に押し付ける。地肌はもうボロボロで、再生不能と諦めかけてただけに嬉しかった。るかさんはきっと、少ない年金の中から捻出したお金を財布に入れて、杖をついてわざわざ買いに行ってくれたのだろう。善意を有難く受け取ることにした。 「ありがとう。るかさん」
「これもだあ」
 お婆ちゃんはおばあちゃんの巾着袋を、左の胸につよく押し付ける。チャリチャリ。
 小さな袋の中の小さなフリーザーバッグには、くすんだ濃い色の、1円、5円、10円玉が……小分けされていた。きっと買い物から帰って、痛む腰をさすりながら押入れを開け、少しづつ大切に貯めたのだろう。
「いただけません。これは」
「な~んにも出来ねえけど、こんな時のために取っておいたんだから」 今度は右の胸に。
「いつでも帰ってこお(帰っておいで)」
「はい必ず」 それ以上は言葉にならなかった。
 顔をしわくちゃにしながら、国一さんの車に乗り込む。愛ちゃんが大きく手を振りながら、動き出した車を懸命に追いかけてくる。るかお婆ちゃんが私の顔を覗き込むようにして手を振ってる。出会った時のように。
 窓を開けて、私は大きな円を描くように手を振りまわす。野辺に咲く色とりどりの花々が、瞳のなかで揺れていた。
 

   
    海辺の家。ありがとうの夏


「雰囲気、いいね」
 ヒロキさんのお店を見上げて静が口を開く。
『セカンドハンド』 は、家より更に海に近い、県道沿いの波の音が聞こえる場所にある。その昔宿場町として賑わった名残りがところどころに見て取れる道沿いには、二階建ての建物はセカンドハンドを含めて数件しかなく、軒を連ねた瓦屋根がまっすぐに伸びている。
「なんでだろう。初めてきたのに懐かしい気がする」
 この界わいには、電光掲示の類はもちろん、コンビニすらない。質素と懐古、風情という言葉の似合う場所で、城下町から離れていたことが返って幸いしたのだと、耳にしたことがある。
「私も来るたびに思うの。三年振りだけどね」
 両親に手を引かれ訪れた日が懐かしい。私は未だにヒロキさんの前に出るとなぜか緊張してしまう。両親がいない今は、尚更である。
 静の隣に立って同じように建物を見上げてみる。こんなにじっくりと見るのは初めてかもしれない。昔よりも小さくなった(うぐいす)色の建物の壁に這うつる草は、一層茂り、生命力を主張しているかのようだ。あれ?
「床屋さんだったんだ」 今の今まで気づかなかった。
「大発見ね」
 気づかなかったの? と言わない、私への気遣いが嬉しかった。
「入ろっか」
 そっと静は背中を押してくれた。
 ―――りん、りりん、りりりん。きぃい。
 くぐもった鈴の音と扉のきしむ音は、積み重ねた年月分のあたたかな音色。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
「暑かったねえ」
 寄せ合わせて横に長くしたテーブルから、めいめいの言葉届く。私たち二人だけだろうと決めつけていただけに意外であり面映(おもは)ゆい。と、奥まったカウンター脇の階段から、駆け下りてくる足音が響く。
「やあ」
 ヒロさんは私を認めると、目を丸くして笑った。 「夏休みも終わりだって言うのに、ようこそ。こんなところに」
「お知り合いかい?」 入口近くに座るおばあちゃんが私に訊いた。ぎこちない空気を入れ替えてくれるかのように。
「はい―――お兄さんのような人です。ヒロキさんは」
 どうしてヒロが兄ちゃんで、オレがもう一人の父ちゃんなんだ。同級生だぞオレたちは―――。キトさんの声が聞こえた気がして笑顔になれた。
「お姉ちゃんたちも登校拒否?」
 テーブルのいちばん奥の少年が、座ったまま体を伸ばして言った。日差しを受けたさらさらの髪がキラキラと輝いている。四、五年生くらいだろうか。
 静とふたり首を傾げると、
「無理して行くことないよ。人生長いんだからさ」
 真面目に言う少年の言葉に、年配の女性たちが声をあげて笑い出した。
善之(よしゆき)。学校は夏休みだ」
 向かいに座るおじいちゃんが言った。
「そっか。夏休みだったんだね」 善之くんは肩を落とした。
「善くんの言う通り。良いアドバイスね」
 おばあちゃんのフォローがやさしい。
「善坊のようなのが傍にいたら、登校拒否の子は笑顔になるな」
 ヒロキさんの言葉に大きくうなずくと、
「好きなとこ掛けなよ文音ちゃん。カウンターのほうが良いかな」 ヒロキさんは言って、前掛けを身に着け、念入りに手を洗い始めた。
「ぼくも」 善之くんは席を立ってカウンターの中に入った。
「偉いね」
 静が善之くんに向かって言う。思いを自然に伝えられる静が羨ましい。
「別に偉くないよ。ここで一日居させて貰ってるからね。手伝いくらいしないと」
「いい奴なんだ善坊は。僕が言わなくても、こうして進んでやろうとする。店のことはもちろん、表やトイ(おもちゃ)レの掃除までね」
「感心ねえ。やっぱり偉いよ、君は」
「ふつうだと思うけどな。普通じゃない、ヘンだって言われるけど」
 善之くんがさらっと言う。
「お婆ちゃんたちだって、吉行のお爺ちゃんだって言われるのよお。変な年寄りだって。ねえ」
「わしらはデイサービスをさぼって、来とる」
 おじいさんはばつが悪そうに言うけど、何だか嬉しくなる。
「コーヒーとお茶。どっちにする? お姉ちゃん」
「お茶?」
「喫茶店でお茶って、おかしいだろ。でもね、吉行さんが持ってきてくれるお茶は、静岡県産の最高級茶葉でね。美味いんだ」
「吉行のおじいちゃん、お茶をつくって販売する会社の会長さんなんだ。やみつきになるよ」 言いながら善之くんは、急須や湯呑の用意をし始めた。断る理由はない。
「ヒロさん。お嬢ちゃんたちにおにぎりも」
「変な店だろ。前にも増して」
 ヒロキさんって、こんなによく笑う人だっただろうか。お茶やおにぎりより私の関心は、ヒロキさんにいく。
「おばあちゃんたちさ、おにぎりの他にもサンドウィッチとかおかずの残りとかまで持ってきてくれるんだよ」
「味が染みた美味しいおかず、って言うもんだぞ。善坊」
「確かにそうだね」
「変な喫茶店ですね。セカンドハンドって」
 しみじみ言う静の言葉に、みな一斉に笑った。
「じゃあゆっくりしてって。これから授業だから」
 授業? 私たちはキョトンとする。
「いいよ~夏休みなんだから」
「駄・目・だ。世界には、」
「教育を受けたくても受けられない子供がたくさんいるんだぞ、でしょ。わかったよ」
 ヒロキさんらしい考え方のような気がする。ヒロキさんのこと、まだよく分からないから、気がしただけ。
「嬉しそうだね。善之くん」
 静が耳元で言う。不承不承といった言い方だけど、静の言うように確かに嬉しそうだ。
「半日は勉強なのよ。善くん。ヒロさんが英語で、わたしが理数系。白石さんが文系で国語と社会科。吉行のお爺ちゃんは、お茶のことや農作物のこと、雑学全般のなんでも博士。渡辺さんは漁港で食堂を経営してたお料理のプロ」
理数系の先生の岸さんが、ひとりひとり紹介するようにして言った。善之くんは思いやりのある熱心な先生方から、学校では経験できない勉強をしてるのだ。幸せね、善之くんは。
「私も早くここを知ってたら、勉強好きになってたかも」
 静が持ち前の明るさをいっぱいに表して言う。
「好きじゃないよ。勉強なんて」
「好きでも嫌いでも教わっておいで。アメリカで暮らしたいんだろ。ヒロさんと」
 ヒロキさんと、アメリカに?
「へえ。アメリカで暮らすのが夢なんだあ。素敵ね」
 静が感心したように言う。
「アメリカは自由の国だからね。ぼくみたいな失敗した人間だって、認めてくれるんだよ」
 アメリカのことを知っているような口ぶりだ。
「失敗だなんて。ちょっと立ち止まって、考えてるだけじゃない」
「慰めてくれなくていいんだ。ぼく、隠すつもりもごまかしながら生きるつもりもないから。ただね。ずっと失敗人間って言われ続けるのは、耐えられないと思うんだ。なりたくない人間に変身しなくちゃ認められないなんて、つまんないしね」
「真剣に考えてるんだね。すごいなあ」 静は羨望(せんぼう)の目を善之くんに向けて言った。
 不登校にまで追い込まれた時、これほど広い視野で考えることなど、出来るだろうか。きっと静も同じ事を考えていたんだと思う。私だったら、辛い出来事に押し潰されて泣き続けるだけの毎日を過ごしている気がする。
「日本人に生まれたからってね、日本にいなきゃいけない理由なんかないんだよ。お姉ちゃん」 言いながら善之くんはヒロキさんといっしょに、隅のテーブル席に座った。
 アメリカに行くことがヒロキさんの、夢なの?

 夏休み明けの教室はふわふわしてる。小中学校で幾度も経験してるのに、どうしてだろう。 「夏休みなんか無いほうがいい」 そう思ってたけど、短すぎも長すぎもしない濃い休みだったと今は思える。こんな穏やかな気持ちになれたのは、静やセカンドハンドのみなさん、ヒロキさんのあたたかさに出会えたおかげ。ありがとうの私の夏は、残暑と蝉の鳴き声とともにつづいてる。
「美子ね。お母さんに憧れてるみたいで、両親とヒロキさんのバンドでギター弾くことになったの」
「へえ。文音のご両親バンドやってるんだあ。格好いいね」
 あの時静は、美子のことには触れなかった。苗字で言わなかったからだろうか。
 ぎこちない空気を察したのか、ヒロキさんは善之くんに英文に訳すように言って、カウンターに戻ってきた。
「静ちゃんだったよね。君、学校楽しいだろ」
 決めつける言い方だった。
「楽しいことばかりなら良いんですけどね」
「そっか。楽しいんだ」
「え?」 私も、え? だった。楽しいことばかりじゃない。そうとしか聞こえなかったから。
「心の底から楽しいって思える方法、知ってる?」
 ヒロキさんはカウンターに肘をついて身を乗り出して言った。嬉しそうだった。首、傾げたね静。肩に耳がつくくらいに。
 静はからだを後ろに向けて、楽しそうに話をしてる。夏休みの思い出ばなしかな。
「Smile・Cоmmunicate・Satisfied」
 ヤダよ。私たちも英語の勉強?
「笑顔。それと」
「ええっと」
「伝える、満足するだよ。お姉ちゃん」
 小学五年生の男の子に助けられちゃったね、私たち。
「わかるかい?」
 そう言えば 、「キトさん、言ってました。最期まで笑顔。でいるんだって」
「そう。キトがね」
「でも辛い時に笑顔でなんていられません」
 私の思っていることを静が掬ってくれた。 
「それはそうだ。そんな苦しい時こそ、相手を笑顔にさせようとするんだよ。自分の思いはどこかに置いてさ」
 誰かを笑顔にさせる。
 なるほど。静は真剣だった。
「笑顔にさせるために君のすることは?」
「伝えるですか」
「そう伝える。笑顔を笑顔で伝える。お互いが自然に笑顔になる」
「お互いが笑顔になればお互いに満足」
 おじいちゃんやおばあちゃんたち、そうしてた気がする。
「でも伝わらないことって有ると思うんです」
「有るね。そんな時、どうしたら良いんだろう。困ったね」
 ヒロキさんは言って、私に笑顔を向けた。
「スマイル?」
「その通り」
 私たちが歓声をあげたらみんな嬉しそうに見てたね。
「なんか楽しい」
 楽しいことばかりなら良いって寂しそうに言ってたけど、今の静、楽しくて仕方ないって顔してるよ。やっぱり静は、静かじゃない方が似合うよ。うふ、ごめんね。
「それでもどうしても合わない人っているでしょ。そんな時は?」
「好奇心旺盛なんだね君は。そうだな、期待しないことかな。要するに自分の幸福を求めない。それだけのことさ。期待なんか捨てちゃって、笑顔から始めればいいんだよ」
 すっかり打ち解けた私たちは、ヒロキさんに何でも話してた。
「幸福、求めますよね。みんな」
 尚も静は訊く。
「そうかい?」
 俺は求めてないよ。そんな言い方だ。 
「ヒロキさんの夢って……」
 いちばん知りたいことを、私は口に出した。
「夢? キトがなんか言ってたのかい? 僕は、生きることじたいが夢だと思ってるんだけど」
「よくわかんない。ねえ」
 ふたりして口を尖らせられるほど私たちは打ち解けていた。
「俺にもよくわからない。だけど夢っていうのは、自分の利益とは無縁なものだと思ってる。つまり金儲けとは縁の無いものが夢。キトも照次も、茜ちゃんも、そう考えてる筈だよ」
 みんながヒロキさんを慕う理由がわかる気がした。静が友だちになってくれたからだよ。
「ところで君、観に来てくれるんだろ。ライヴ」
「ライヴ」
 ごめんね。友だちなのに何も話しなくて。
「文音、歌うんだ。お客さんの前で。すごいなあ」
「たまたま。成り行きなの。来てくれる?」
「もっちろん。文音と美子の晴れ舞台だもんね」
 
 二学期のスタートを告げるチャイムが鳴り響く。最後の、二学期になるのかな。
 一学期とは異なる思いでチャイムを聞く。
 一年間の高校生活で終わっても、友だちでいてくれる?
 静がニッコリ笑って手を振った。
 美子は微笑を浮かべて小首をかしげる。 ―――なあに?
 里絵のいない新学期が始まった。

   
    すくいたい。


 福間新次(ふくましんじ)は、シェルターと呼ばれるアパートの一室で、エアコンの斜め下の電波時計を見上げた。9時55分―――。 『NPO法人 すくい・たい』 代表理事にして相談員の長、藤山(ふじやま)のぶ代の出勤時間まで、あと3分50秒から4分だ。
 のぶ代の出勤時間は、9時58分50秒から9時59分の間。のぶ代の生活パターンと気分に合わせて進められる、NPO法人 すくい・たいのスケジュールに、福間はうんざりしていた。
 すくい・たいは、生活困窮者の自立支援活動を行う、特定非営利活動法人 (NPO) である。 日常生活を送ることが困難な状況にある路上生活者や高齢者、DV (家庭内暴力)被害者などに衣食住を提供し、生活保護の受給申請等々の相談支援を行い、自立へ導くことを目的としている。
「仕事慣れたぁ」 9時58分58秒。
 すくい・たい代表理事にして相談員の長、藤山のぶ代は、ドアを開けるなり言った。
「おはようござ、」
「し・ご・と・慣れましたか」 挨拶なんてどうでもいいから答えないさい。そんな口調だ。
「それなりに手応えは、」
「そ・れ・な・りぃ?」
「僕なりにやっていけそうという意味で」
 のぶ代は扇子を煽ぎながらまっすぐエアコンに向かい、リモコンを操作する。ピピッ。
「暑っついなー。エアコン買い替えようかしらぁ、業務用のハイパワーにでもぉ。でも誰かさんの働きが悪いからぁ今年の夏は辛抱我慢忍耐しないとぉ。ああヤダっ」 病的なを抑揚をつけて喋るのぶ代のおかげで、室温は2、3度上がっただろうか。まず自分、何より自分、マイペース。のぶ代の哲学だ。
「それなり僕なりじゃ、困るのよねー。自分で納得する前にさぁ、代表であるあ・た・しを、納得させる仕事、してみなさいよっ!」
 突然キレる。と言うよりキレっぱなし。慣れもしないし納得もできないが、これが長のぶ代の個性だと言い聞かせるしかない。
 かちかちかちかち、かちかちかち。手早くノートパソコンを操作しバッグにしまいブルゾンを羽織る。その間五秒。 「外まわり行ってき、」
「201、203号室。入居準備!」
『入居準備』 とは、ロフト付き1DK・バストイレ別・ベランダ有りのシェルターの室内外すべてを掃除し、すくい・たい事務所 (204)から生活必需品を運び込み、更に、減った在庫物品の購入・搬入・事務(とこ)理までのすべてを指す。総床面積は意外に広い。
「僕これから、」
()ってきたのよふたり。あ・た・しが」
 成果を主張するまでは我慢できる。だが 『獲ってきた』 は許せない。
「ボーッとしてないで行動でしょ。貢献しなさいよこんな時くらい」
 クールダウンを済ませたのぶ代は、エアコンから離れ、本来のルゥティーンである自分専用の、レギュラーコーヒーの準備に取り掛かる。そもそもエアコンをギンギンに利かせた車で通うぶ代に、クールダウンする必要など無いはず。
「返事無いな~。どうしたのかな~。する気ないのかな~。もしかして反抗かな~、たて突く気なのかな~。拾ってあげたのに恩を仇で返そうと、してるのかな~~。な~な~なあ。やるのっかな~辞めるのっかな~、ハッキ~リしなさいよっ!」
 すくい・たいは、希望を失いかけている人を救うために在るのではないのか。
 福間は憐みの目で藤山のぶ代を見つめた。
「あなたが入る? シェルター。 ウチ辞めて生活困窮者になって。その方が、よっぽど役に立つんだけど」
 何がすくい・たいだよ。弱い立場の人間を利用して自分が救われたいだけじゃないか。こんなとこ辞めて、
「ハッキリしなさいよ」
 辞めない。ぜったいに辞めてやらない。本気でやり直そう、本気で生きようとしてる人たちを救うためにここに決めたんだ。辞めるくらいならぶち壊してやる。粉々に。
「ちなみにだけどそっちのターゲット、捕獲できそうなの? 勝算は?」
 言葉が出ない。何をどう口にすればいいのかが分からない。何の為にあんた、NPOなんかつくったんだよ。
「年齢性別、略歴くらいは分かってるんでしょうね」
「四十八歳の男性で、」
「放っておきなさい」
福間の言葉を遮って言う。
「そりゃ、ねえだろ!」 眠らせていた良心を、眠らせてままにしてはおけなかった。
『んまっ!』 のぶ代の目がいっぱいに見開かれた。
「路上生活歴半年弱。自立意欲旺盛。初めて過ごす酷暑の路上生活で、心身ともに衰弱傾向にあって、」
「なら入院でしょうよ。ウチの範疇(はんちゅう)じゃないわ。この際だからはっきり言っておくけど、ホームレスになる人たちは結局のところ、自らの意思で路上で生きる選択をしたの。夏が暑いのはあたり前。承知のうえ。その選択が彼らの失敗だったわけだけど、まっ、ホームレスそれぞれに事情があるように、我々にも事情があるわけ。社会ってお互い様で成り立ってるのよ。要するに」
 お互いさま? レギュラーコーヒーの銘柄を選ぶのとは違うんだ。出かかった言葉を飲み込む。僕、いやオレはあんたになんか飲まれない。
「失敗しない人間なんていない。ミスしない人間なんていない。思うようにならなかったこと、代表にもあったでしょ」
「ないわよ」
 嘘つくな。あんたは小学校から高校大学まで、テストは全部100点満点か。99点以下は取ったこともないのか。
「どうするのよ。福間氏」
 この半年余りで、のぶ代の 『氏』 が、『敵』 を意味する言葉であることを、福間は理解していた。宣戦布告ですか、要するに。僕は戦う気なんてないし、認められようとなんて思わない。あなたには。
「僕は力になりたいんです。彼らの」
「ウチの力にもなってほしいものだわ」
「行きます」 福間はのぶ代に背を向け玄関に向かった。
「勝手にすれば。二人の入居、中止にすれば何にも問題ないし」
 のぶ代の愚弄にも、もう腹も立たない。湧き上がってくるのは悲壮感。のようなものだ。
「あら。泣いてるの?」
 揺れる波の先に、憐れんだ顔ののぶ代が漂っている。
 三十七歳。今すくい・たいを辞めれば、残された道は救われなければならない立場に立つか、死。どちらかだ。
 福間はギュッと唇を嚙みしめ、涙を押し留めることしかできなかった。
「あれをごらんなさい」
 のぶ代は西側の壁を指さす。金色の額に飾られているのは 『落ち穂拾い』 の絵だ。
「刈る人のあとについて行って、落ち穂を拾い集めさせてください。そうお願いして、働く人を描いた絵」
 それで僕に、絵の中の人のようになれと?
「自分の行いを省みてごらんなさい。そして誤りに気づいたら、悔い改めて、またやり直せばいいのよ。ねっ」
 のぶ代は手提げ金庫のロックを解除し、壁を見上げる福間の目の前に、部屋の鍵をぶたぶら掲げる 「分かった?」
 福間はおずおずと鍵に手を伸ばす。これでいいのか。良いわけない。
「忘れるわ。今日のことは」
 忘れてほしくないし忘れられそうにない。無言のままサンダルを履き替え、スリッパの向きを変え、顔を上げる。
 と、嬉しそうな笑顔が僕を見下ろしていた。僕が謝罪したものと勘違いしているようだ。
 僕は思った。そうして笑っていればいいのにと。勘違いでもいいから。時々でいいから。
   
 ふんっ。ふんっ。はっ。はあっ。
 シェルターの常備品の家具を部屋の隅に寄せ、澄香は朝からトレーニングに励んでいた。 野辺町で救ってくれた 『るか』 らのお陰で体力は回復した。だがJ・Wジム実習生最強と謳われた状態には程遠い。財産のほぼすべてをつぎ込み習得したアリゾナでの格闘プログラムの成果を、無駄にしたくはなかった。
 ふん。ふんっ。しゅっ。しゅっ。
 ―――どんな時でも隙を見せてはいけない。背中を見せてはいけないよスミカ。最前線では味方も敵。味方を信用して死んでいった兵士を、ボクは5万と見てきたからね。
 しゅっ、しゅしゅっ。
 あなたの指導は的確だったわ。でもとっくにお見通しよ。あなたの経歴詐称と嘘は。
 ふんっ、ふふんっ。実はジェイムス。私ね、戦争反対主義なの。だから争いごとは嫌い。
 はっ。はっ。しゅっ。しゅしゅっ。必要な戦い以外は。
『こん。こん。』
 ! 「ハァアイッ!」
 木製の何かが破壊される音。バッメシィ。
「どうしました!」 福間は断りなく扉を開け、室内に向かって叫んだ。
「あ、いえ、何でもありません」 どうしよ。ロフトに上る梯(はし)子(ご)、破壊しちゃった。
「は~い。いま行きま~す」
 澄香は手早く、梯子だった木片をベッドの下に隠し、サイドボードのガラスに向かって髪を整え、玄関に向かう。 「いらっしゃい」
「どうか、しましたか」
 福間は息を切らせた澄香の顔を窺う。
「ストレッチをちょっと。なまっちゃったから」
 この明朗な河合さんが無一文になり、行き倒れて死にかけてたなんて――。この人は、ここに来る人ではない。 
「あ。そう」
 澄香は回れ右して駆け出し、戻ってくる。
 「はい、これ」 新婚夫婦が弁当を受け渡す時のように、A4版の封筒を福間に渡す。
 はい、あなた。契約書とシェルター利用申込書。それに経歴等を記す身上調書よ。
「もう書いたんですか。休んでからで良かったのに」 澄香らしいと思う。
「済ませてからの方がいいんです。私の性格上」 じっくりトレーニングしたかったの。
「ところで、コーヒーは嫌い? いっしょにどうかな、と思って」
 100円ショップ仕様のトレイをほんの少し掲げてみせる。
「それで来てくださったんですね。いい香りぃ。実は気になってたんです」
 気になっていた。体脂肪が。るかさんの郷土料理の食べ過ぎとビールの飲みすぎで、たぷたぷのお腹が。
「砂糖とクリームは」
「ブラックで。甘いの苦手なので」 お砂糖は大盛二杯、クリームはたっぷり。なんて言えない。
「だと思った」
「どうぞお入りになって」 自分の家のように言う表情が明るい。
 河合さんなら、すぐに自立できるよ―――口にしたい言葉を福間は飲み込む。そのひと言がプレッシャーとなって、精神を病む者も少なくないからだ。
 野辺町のクリスチャン一族に救い出された澄香は、牧師にして長兄の運転する車で、神奈川県の急行電車の停まらないとある駅に送り届けられ福間に迎えられた。すくい・たいに救われた者が仮入居するここ 『シェルター』 は、場所はもちろんその存在自体がシークレット。極秘事項だからである。
 独り用の横長テーブルに斜めに向き合うと、
「綺麗に掃除してくれたんですね」 部屋を見まわしながら、澄香が話し出す。
「一応、がんばりました」
「九時に待ち合わせでしたから、大変だったでしょ。朝早くから」
「連絡が入ってから、すぐにやっちゃったんです。せっかちだから」
 牧師の長兄さんが、すくい・たい代表者と連絡を取れたのは昨夜十時過ぎ。教会員を介したせいか、なかなか当人へ連絡がつかなかった割には、二つ返事で承諾を得たわけだけど……「夜中にお掃除を?」
「深夜のパトロールで、慣れてるんです、夜は。それに新人だし」
 もしかして、やらされたとか。なかなか連絡のつかない代表さんに。
「河合さんさえ良ければ、これからの事、少し話しましょうか」
 私のことはいい。あなたのこれからを、「話しましょうか」
「ん? その腕」
 キックのトレーニングだけにしておけばよかった。血、出てる。って言うか流れてる。
「薬箱とってきます。その前に止血しないと。タオル、どこだっけ」
 男は血を恐れる。アイツもそうだった。
 殴り蹴り、日用品から生鮮食品に至るまであらゆるものを凶器にする臆病者。私が血を流すと、
 ―――ごめんよぼくが悪かったよ、赦してもうしないから絶対しないから、どうか赦、
「河合さん? どうか、した?」
 ―――ぼくが悪かった悪かったよぼくが。悪かったって言ってんだろこのバカ女! 役立たず! ゴミ女バカ女! ぼくのせいじゃないお前のせいだ! お前が悪い、
「お願いぶたないで!」 誰かの何かから逃れるように澄香は壁際に行き体を丸める。怯えているのは明らか。異常だ。
「河合さん」 福間が後方にしゃがみ、その肩に両手を添える。苦しめる何ものかから守ってやりたかった。
 明るく振舞っていただけなんだね。いいんだよ無理をしないで。焦らないで。
「離して!」
「落ち着いて。大丈夫だから。ねっ」
「イヤ~っ!」
「何してるの!」 からだを震わせる澄香と、その体を支えようとする福間の姿を目撃したのぶ代の叫び声が、室内に反響する。  
 大丈夫でない状況に立たされたのは僕の方だ。
「河合さんに何てことを」
 突進するかのように、のぶ代はふたりの間に割って入る。
「何されたの。何したのよあんた!」
 澄香の体を抱きながら福間を睨みつける。のぶ代の興奮は収まらない。
「弱い立場の女性を弄ぼうだなんて、最低! 出てって!」
「誤解です、僕はただ河合さ、」
「うるさいよ! 今すぐ出てって! 消えろっ!」
「何もやましい事なんか、」
「したっ見たっ抱きついたっ! ケダモノの目して襲い掛かってた! 帰れ、出てけえ!」
「そうではなくて、私……」
 力なく語り始めた澄香の言葉を封じるように、のぶ代はふたたびその胸に澄香を抱く。
 福間は無言のまま玄関に向かう。半年間似たような事の繰り返し。壊れそうだよ。もう。
「先生はっ。野辺の牧師先生」
 帰れと言っておきながら、のぶ代が訊く。
 「教会に挨拶してから帰ると」 責任を投げ捨てて辞めるわけにはいかない。彼女の為に。
「あたしがいればこんな事には……。ごめんね、赦して。あたしのせいだわ」
 そうだよあんたのせいだよ。もちろんのぶ代は、福間に言っているわけではない。
「やっぱり駄目。信仰のない人には無理」 とどめを刺す言い方に、福間は振り返った。
「弱い人間の希望を奪っておいて、何がすくい・たいですか。支援ですか。クリスチャンですか。そんなに牧師や仲間や役所から尊敬されたいのですか。あなた自身がキリスト教に泥を塗りキリスト教との縁を、遠ざけて断ち切っている事になぜ気づかないので、、」
「やめて!」 澄香はふたたび叫んで、
「ぶたないで殴らないで叩かないで。お願いですからやめてください何でもしますから従いますから赦してください。言うこと聞きますからやめてください赦してください。ぶたないで蹴らないで叩かないで殴らないでっ!」
「あなた!」 のぶ代は澄香を強く抱きしめ、乱れた黒髪に顔を埋めた。


 福間は、澄香の入居する201号室のドアの前で立ち止まった。互いに苦い思いをした後の昨日の今日だが、せめて澄香を勇気づけてからすくい・たいを去りたかった。
 コンコン―――。パタパタパタパタ。 「あ。」
「おはよう。入居初日だっていうのに、昨日は、」
「上がって話しません?」
 返事を待たずに澄香は部屋の奥へ踵を返す。支給された薄いブルーのワンピースを着た後ろ姿が、凛然とした大人に見える。
「食べません? ブレックファースト」
 二人分とは思えない朝食が、横長の狭いテーブルに置かれてある。筋量を増やし失ったパワーを取り戻すための、澄香の一食分のメニューだ。
「スクランブル (エッグ) にベーコン。ベイクドポテト。それと熟したトマトと野菜にカイワレにカニカマ。とっても濃いオレンジジュースもあるの。今出しますね」
 昨日の事など気にもしていない様子の、爽やかで明るい澄香の姿に、福間は安心する。
「電気調理器しか使えないでしょ。味は保証できませんけど」
 片手に持ったピッチャー大のマグカップにオレンジジュースを注ぎながら、澄香が言う。乾燥した秋風が新鮮で、話をするのが楽しそうだ。
「お化粧まだなの。あんまり見ないでね」
「うん」
 澄香の調子に合わせ、福間もくだけた返事をかえす。
「見ないでって言ってるのに」 
 すねて見せる澄香が齢よりも若く、きれいだ。
「こんなこと、言っていいのかな」
「なあに」
「昨日の涙のせいで、頬がつやつやしてる。僕のせい、だね」
「ふふ。誰のせいでもないわ。自然現象だもの」
 開け放たれた窓から入る風が、清らかで気持ちが良い。
「成田空港から野辺町で助けられるまでの四日間、歩きっぱなしだったの。川の水以外なにも口にしないで。あの時は必死だったから気づかなかったけど、自然が私を守ってくれて、生かしてくれたんだって、今になって分かったわ。木々が雨から私を守り、風が歩くのを手伝ってくれて、地熱が体を温め休ませてくれて、輝く星たちが言うの。―――よくがんばったね。今夜はもうおやすみなさい。また明日ねって。私は、ご褒美をたくさん抱いて眠るの。スターライトホテルで」
 澄香の幸せそうな笑みは、以前から知っている妹のようだ。
「尊い経験をしたんだね。宝にしないと」
「宝よ」
 少しムキになるところは、少しきかない妹。
 澄香は止まっていた箸(フォーク)を動かす。何気ない会話が楽しかった。
「あれから、のぶ代さんと話したの。これからの事とか私の過去の事とか。いろいろ」
 少し早口で話す澄香の気持ちを、福間は思った。終わったことなの。過去のことよ。そう聞こえた。 「そう」
「悩んでたみたい。すくい・たいの運営? とか現場のこととか、自分のやり方、在り方に」
 NPO法人には、助成金や寄付、会費などの収入があり、二か所のシェルター入居者から得られる名目上の家賃や管理費収入は、アパートを借り上げてシェルターとして使う小規模法人のすくい・たいにおいて、貴重な収入源となっている。
 空室を増やせば収入は減り、相談員の給与等の経費が運営を圧迫し、十分な支援活動が立ち行かなくなる。代表理事藤山のぶ代は、設立当初の、生活困窮者を救いたいという理念以上に、組織と従業員を守ることに心を傾けてしまったのかもしれない。
「のぶ代さんの立場、理解できるよ。でも誰のための相談員なのかを、」
「離れるんですって。現場を。のぶ代さん自身が誰よりも理解してたのよ。自分自身を」
 澄香は窓外に目をうつす。
 白に黒い地形のような模様が入った子猫が、斜向かいの民家から首を出し、道路を窺っている。日向を探しているのかもしれない。
「寒くない?」
 福間は言いながら立ち上がって窓を閉め、テーブルに戻る。
「福間さん。あなたにって」 
 ピンク色の封書を手にした白い腕が伸びる 「のぶ代さんから」
 広げるのが気が引けるほど硬い高価な便箋には、三枚にわたって、ペン字の手本のような文字が綴られていた。
「これからすべき事が、書かれてるね」 
 澄香は熱心に動く福間の目をじっと見つめる。
「生活保護の申請が終わってから、シェルターを出て、引っ越しするまでの段取り。注意事項。それに――」
 福間の目の動きが早くなり、三枚目に入ると、口元がかたく結ばれた。
「ふう」 ため息とともに、広げた便箋を向きを変えて澄香に渡す。
「ここ、読んでみて」

河合さんとお話して、私は確信しました。彼女のような方がすくい・たいに
   居れば、ご利用者本位の真の支援活動ができると。
   私は現場を離れます。私が去れば、すくい・たいは希望に向かって生き生きと
   歩める筈です。
   願わくば、福間さんとお二人、正義感溢れる誠実な者同士力を合わせて、
支援を必要とする方々の為に働いては頂けないでしょうか。
   すくい・たいを腐敗させた私が言うのは勝手ですが、何卒お願いを申し上げます。

                            すくい・たい事務長 藤山のぶ代

 
 いつの間にかに高くなった太陽が、テーブルの脇の食器に反射してまぶしい。
「気持ちよさそう」 屋根に上った子猫が、全身を伸ばしてまどろんでいる。
「だけど急だよね、昨日来たばっかりなのに」
「どうです? このお仕事」
「福祉事務所に勤めてる友だちに言われたんだ入る前に。真面目な奴には務まらない。やめておけって」
「それなのに、務まってる」
「真面目じゃないけど、いい加減でもない。未だに自信なんか持てない。でも決めたんだ。ここで働く決意をしたとき」
「何を?」
「壁にぶち当たったら、ぶち壊すんだって」
 ―――シュッ! 澄香が右ストレートを伸ばす。
「実戦経験なし。ぶち壊したくて、うずうずしてるの」
「ふう。心強いよ」
 福間は自分の拳を、目の前の拳に合わせる。小さいがごつごつして、秘めた力を感じた。
「キックの方が得意よ。気絶させたことだってあるんだから。US(かいへ)マリーン(いたい)の大男を」
 福間がゆっくりと両手を上げる。黒目勝ちの澄香の目に、迷いはなかった。



    伝えて。心の声


 二学期が始まって三四日も経つと、教室は、長い夏休みがなかったかのような空気に戻った。
 でも今日も、目の前にあるはずの里絵の背中がない。朝の賑やかな百段坂の列に、里絵の姿がないと思うと、たまらなく寂しい。夏休み明けから始めた、静と美子と三人でのお弁当の時間は楽しいけど、里絵のことが心から消えることはなかった。
「帰りにさあ、 『御幸浜(みゆきはま)』 行ってみない? もう人、多くないだろうし」
 お弁当を広げながら静が言う。話し出すのはいつも静だ。
「ゆゆ、夕日きれいよ。きききっと」
「潮の香りも気持ちいいだろうなあ。行こうよ、文音」
 御幸浜は、県西部に住む私たちにとって親しみ深い、心安らぐ場所。穏やかな海が、疲れた心を癒してくれる。山間の町に住む静にとっては、遠い憧れの世界なのかもしれない。
「どうかしたの? 文音」
「げげ元気、ないみたい。文音さん」
 二人が文音の顔を覗き込む。
「何もないよ、元気よ。違うの、里絵のこと、気になって……」
 私たちは里絵の机にからだを向けた。海風になびくカーテンが、ときどき机を覆い隠してる。
「もう一週間だもんね。どうしたんだろう」
「き、訊いてみよっか。たた武田先生に」
「三人で行こっか。ね、文音」
 
「窓際に立って校庭を見下ろしていた武田先生は、私たちの顔を見て驚いた顔をして、
「意外な顔ぶれだな」 そう言って、嬉しそうに笑った。
「お訊きしたいことが有ってきました。お昼休み中すみません」
 先頭に立って職員室に入り話し出した静が、からだを横にずらして、私に話をするように促す。尋ねたいことは幾つもある。でもどう話していいのか、整理がつかない。
―――上手く歌おうとしなくていい。
 お父さんの言葉が浮かぶ。そうよね。
「里絵に何かあったんですか」
 登校しない理由。いちばん知りたいことだ。
 武田先生のうちわを扇ぐ手が止めた。大切な何かを思慮しているのだ。
「唐沢 (里絵) は元気だ。お姉さんのところにいる。心配しなくても大丈夫だ」
 同い年のキトさんより若く見える先生の顔が、普段より硬く年齢を感じさせた。
「どこにいるんですか。里絵とお姉さんは」
「ああ」
 先生が口にした町は、美子の家のある町だった。
「学校にはいつから来られるんですか」
 矢継ぎ早に言えるのが、私たちの特権なんです。
「お姉さんがついているんだ。安心しろ」
 答えになってない。安心なんてできない。
「会って話がしたいんです」
 武田先生は、からだを私たちの正面に向けて、私たちひとりひとりの目を見てから口を開いた。
「唐沢は、自分が置かれている状況を理解した上で、もっとも正しいと思う道を進もうと頑張ってる。お前たちが心配する気持ちはよく分かる。俺としても生徒の悩みや不安を見て見ぬ振りをすることは出来ない。生徒四十四人、揃って卒業させる事が教師の務めだと考えてる。だがな、待つことが必要なときもあるだ。心配でもどかしくても、今は信じて待つ時なんだ。とにかくだ、お前たち三人が訪ねてきたことは俺から伝えておくから、あまり気にせんで、待ってろ。いいな」
 気にしないではいられないから来たのに。そうは思っても、里絵の状況も気持ちも分からない今は、先生の言う通りにするしれない。
 教室へ向かう長い廊下が、来た時よりも長く感じる。
「おお、お姉さんついてるから」 待ってようよ。美子の思いが伝わる。
「そうだよね。お姉さんが傍にいるんだから」 大丈夫だよ。
 静が自分に言い聞かせるように言い、
「御幸浜さ、四人で行かない? 里絵といっしょに」
 そうしよう。 夏のうちに行けるのか秋にになるのか、冬に行けるかは分からないけど、御幸浜は私たちをやさしく迎えてくれるから。
「今頃、本でも読んでるよ。きっと」
 本。「ああっ」
 文音が声をあげる。
「何よ、いきなり。驚かさないでえ」
「本借りてたの、すっかり忘れてた」
「まさか読んでないとか」
「そのまさか」
 別棟の上り階段の途中に笑い声が響く。四方の下級生たちが私たちを見てる。
「ちゃ、ちゃんと感想言えるように、よよ読まないと」
 息が整わないなかで言う、美子も嬉しそうだ。 
  
 見慣れない幌付のトラックが、門扉を塞ぐように停まっている。荷物だろか。
 文音は小ぢんまりした車体の前をまわって、ガレージから玄関に向かう。
「なにこれ」
 開け放たれた玄関扉の向こうは散々な有り様。色形とりどりの大きさの靴が、あっちを向きこっちに向き、裏返っているものまである。
 んもう恥ずかしい。トラック無かったら丸見えよ。
 ただいまを言う気も失せて、靴を揃え始める。と、
「やあ」
 顔を上げると、客間から顔だけを出しているヒロキさんと目が合った。家でヒロキさんを見たことなんて、無かったかも。
「文音かぁ。ただいまくらい言いなさい」 はあ??
 ピンクのTシャツにトレパン姿のお母さんは、それだけ言うとそそくさと部屋に戻って行く。
「靴くらい揃えてよ」 ぶつぶつぶつぶつ。
 ひとつ裏返しの白い靴に手を伸ばす。こんなに小さかったんだ、お母さんの足。何だかかわいく思えて、紺色のお父さんのスニーカーの隣に、ぴたと並べる。クスっ 「親子みたい」 
 広くなった玄関を上がり短い廊下を客間に向かう。 「あらぁ」
「お姉ちゃんお帰り」
 セカンドハンドの常連でヒロキさんの弟分? 善之くんだ。
「善坊にも頼んだんだ」
「大活躍よ。善之くん。ねえ」
 お母さんに肩を抱かれた善之くんは、恥ずかしそうに汗を拭った。ふたりと両親四人が、電動式のベッドを組み立てているのが分かった。
「すご~い。大変だったでしょ」 もうすぐ完成。大方、形になってる。
「このくらいの事、朝メ、じゃない。朝ごはん前よ。ねっ、ショーちゃん」
 お父さんの背中に抱き着いてお母さんが言うと、善之くんはその姿に目を丸くする。 「仲の良い夫婦ね、お宅は」 ご近所の人はそう言ってるらしいけど、娘の私はめちゃめちゃ恥ずかしい。「人前でべたべたしないで」 何回言ってもお構いなしなのだ。この夫婦は。
「もうすぐ完成よ。ファイトよ!」
 お母さんが善之くんを後ろから煽る。 完成はいいけど、これ、
「お母さんたちのベッド?」
「え……」
 楽しそうに作業してたお母さんの動きが止まる。
 ? ……どうしたの。
「なに言ってんの、この子ったら」
 お母さんの顔が真っ赤だ。
 やだっ。私ったら、とんでもないこと言っちゃった? 顔から火だよ。
「キトが使うんだ」 ヒロキさんが助け船を出してくれた。
 キトさんが?
「このサイズじゃ抱き合うどころか、重なり合わないと寝れないわよ。ねえショーちゃん」
 お父さんと善之くんは、黙々と作業を続けている。
「どうしてキトさんのベッドがここに?」
「一緒に暮らすのよ。これから」
「あとで迎えに行く。文音もどうだ」
 もうすぐ。あと十日余りで、余命の六か月を迎えようとしているキトさん。
 目の前のベッド。朝晩感じる秋風。現実が、入学前のあの日に引き戻そうとしているように感じる。これからなのだ。キトさんと私たちのガンとの戦いは。
 私やっぱり、キトさんの隣にいたい。
「入院は嫌。俺のとこに来るのはもったヤダ。あんな男じゃなかったんだけどな。ごめんね。文音ちゃんにまで迷惑かけて」
「ヒロさんが謝ることじゃないよ。文音も傍にいたいって言ってることだし」
「ぼく分かる気がするよ。そのキトさんっていう人の気持ち。迷惑は掛けたくないけど、そばに居たいんだよ。みんなのそばに。居てほしいんじゃなくってさ」
 善之くんの言う通りかもしれない。私も、そう。キトさんの傍にいたいのよ。
「覚えてるかい、文音ちゃん。―――Smile・Cоmmunicate・Satisfied」
「忘れません。心から楽しいって思える方法。笑顔・伝える・満足する」
「もうひとつ付け加えると、相手を喜ばせることが、出来ると思うんだ」
「もうひとつ」
「Cоurage」
 はい? 英語やめて。善之くんの前では特に。
「勇気だよ勇気」
「あら、凄いわねえ」 お母さんが感心する。
「発音もイイ感じ。ヒロさんが?」
「うん。先生に教わったんだ」
 作業が終わったようだ。言われたわけでもないのに、善之くんは後片付けを始める。
「勇気から始まるんだ。何もかも全て」
 ヒロキさんの目がまっすぐ私を見る。そう、私は臆病だったのだ。
「私。学校やめて、最後までキトさんを支えたいの。これから」
 いつかは言わなければいけない。そう思ってたことが、口を衝いて出ていた。
「何言い出すの。驚かさないでよ」
「ずっと考えてたの。入学前のあの日からずっと。後悔したくないのよ。命がけで病気と戦ってるキトさんのことを、私、命がけで支えたいの。私の、もうひとりのお父さんを」
「よく言ったね。文音ちゃん」
 ヒロキさんが褒めてくれた。嬉しかった。
「だ~め。ダメダメ。絶っ対に駄目だからねえ」
 歌うようにお母さんが言った。呆れ果てて。
「キトちゃんが喜ぶと思う? そんな事されて。喜ばないよ。喜ぶのはあんただけ。第一ね、文音は分かってない。間違ってる。キトちゃんが病気と戦ってると思ってること自体が大間違い」
「戦わなければ病気に勝てない。文音ちゃんは、そう思ってやしないかい? キトの心にはね、憎しみも敵も住んでいないんだ。だから、戦う相手なんていないんだよ。アイツには」
「そう。だからみんな、キトちゃんが好きなの」
 私がキトさんを慕うように、みんなも同じようにキトさんを慕っていた。私は当たり前のことに気づかされた。私は自分を満足させる事だけを考えていたのかもしれない。
「キトさんに話すことだ。思いの全てを。そしてキトさんの思いも、しっかりと受け止めようとすることだ」
 お父さんの言葉が重かった。


   
    誓い


「何でオレだけ粥ばっかなんだよ。毎日毎日よぉ」
「仕方ないじゃない。お医者さんに言われてるんだから」
「こんなネチャネチャなんかじゃ食欲わかねえよ。離乳食じゃねえか、これよ」
「文句言わないの。子どもみたい、貞茂ちゃん」
「名前で呼ぶなよ、名前でよお」
 また始まった、キトさんとお母さんの漫才。
 キトさんが我が家にきてひと月半。余命の半年を、二か月過ぎている。
 少し疲れた顔を見せる時もあるけど、キトさんはガン患者とは思えないほど、ふつうに見える。
「いい名前じゃない。ご両親に感謝しないと」
「アカネお前、わかって言ってんだろ。改名できるもんなら改名してえよオレは」
 キトさんのお父さんは、大のジャイアンツファンだったそうで、キトさんの名前は、誰もが知っている巨人軍の二人の選手の名前から一字づつとって(頂いて)つけた(つけられた)のだそうだが、阪神命のキトさんは、名前で呼ばれるのが嫌で嫌でしようがない様子だ。
「食べなきゃ大きくなれませんよ。貞茂ちゃん」
 同じ阪神ファンのお母さんは楽しんでるみたい。って言うより、カッとするのを抑えるために言ってるのかも。
「てめえ。オレのことを赤ん坊扱いすんならな、乳出せ。乳吸わせろ。オッパイ飲ませろ」
 ふつうに見えるけど、イライラしている姿も、よく目にするようになった気もする。スタジオ練習の時はなぜか、美子にあたる。冷たく感じるほど。
 ―――美子の音楽は今だけしか見てねえんだよ。音楽ってのは、過去を背負って未来に繋ぐ架け橋だ。自分を納得させるためにやるもんじゃねえぞ。
 ―――私に言わないでよ。ちゃんと美子ちゃんの顔見て話したらどうなの? 男らしくない。 
 でも、阪神の四位が確定してからの事だから、体調のせいではないかもしれない。じゃあどうしてだろう。一緒に暮らすと、思ってもみなかった一面が見えてきて、結構面倒くさい。
 スタジオのキトさんは病気だなんて思えないほど歌もギターもパワフル。家に籠ってなんかいないし、毎朝欠かさず外出するし、私が下校する夕方にいることの方が珍しいほど。せっかくみんなで組立てた電動式ベッドは 「病人にさせられたようでヤダ」 と言ってギターのベッドにして、自分は畳みの上に寝てるほど。
 いろいろ面倒だけど、キトさんが来てからの我が家は、以前にも増して明るくなったのは確かだ。
 キトさんには、私の気持ちは伝えた。ふたりだけで話すのなんて初めてで少し緊張したけど、キトさんは真剣に耳を傾けてくれた。
「オレはこのとおりビンビンだ。だから病気持ちだなんて余計なことは考えるな。お前は思いっきり、青春を満喫することだけ考えろ。以上」
 それだけだった。
「ママー。早くおっぱい。おなかちゅいたあ」
「はいはい。明日哺乳瓶と粉ミルクを買ってきますから、我慢して食べてくだちゃいね。いい歳してぐずってないで」
「くっそー。マジでたまにはよお、すき焼きとかレバニラとか豚の生姜焼きとか、精のつくもん食わせてくれよ。頼むよ」 キトさんが懇願すると、
「そうねえ……」
 お母さんはあごに手をあてて考え始めた。
「すき焼きにしよっか明日は。ショーちゃんに食べさせてないし。貞茂ちゃんも、無理して食べたくない物おなかに流し込むより、良いもんね」
「いい女だな、アカネは。このネチャネチャはもう勘弁だけど、乳は吸わせろよ」
「セクハラ発言するなら、ずっとお粥とねちゃねちゃ出すから。どうする? すき焼き? それとも、ずっとねちゃねちゃ?」
「わかったよ。気をつけるよ」
「気をつけるじゃだめ。するのしないの」
「ふつうに話してるつもりだから、気をつけるとしか言えねえんだよ」
 ―――トゥル、トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル
「あ。ショーちゃんからかな」
 お母さんは菜箸を振りながら、居間にある電話機に向かった。お父さんかもしれない。
 お父さんはキトさんが家にきてからすぐに、工場で夜勤のアルバイトを始めた。翌朝残業があるときは、予め夜のうちに電話がくることになっている。
「何だか悪いよな。オレのために働かせちまって」
「キトさんらしくないよ。そんな言い方」
 ふたりで会話してから、以前だったら話さなかったようなことを、お互い話すようになった。キトさんもきっと、そう思っているはず。
「キトさんが来てくれて嬉しいの。みんな」
 キトさんはスプーンをもって青汁みたいな色のどろどろのおかずを口に運ぶ。栄養は摂れても食欲などわく筈もない。そう思う。
「居心地いいなあ、ここは。幸せモンだよ、オレは」
 ―――代わるね。うん。
「美子ちゃんから」
 美子から? 電話なんて初めて。何だろ。
「りりり里絵さんと会った、すす少しだけ話したのっ」
 興奮した美子の声が耳に飛び込んできた。
「里絵とっ! どこで誰と? 一人だったの? 元気にしてた?」
「ああ、わわわわ、」
「ごめん、ごめんね」
 余りに突然のことに、つい詰問口調になって美子を動揺させてしまった。
「ごめんね美子。ゆっくり、ゆっくりで良いから。少しづつ、話してくれる?」
「はは、はい」
 美子の話では、お姉さんと一緒にショッピングセンターで買い物をしていた里絵を見かけ、美子の方から声を掛けたと言う。里絵は美子が声を掛けたことに驚いていたそうだ。
 口を挟まないように気をつかってから、
「変わりなかった? 元気そうに、してた?」
 いちばん知りたいことを、努めてゆっくりと尋ねた。
「お、おなか、膨らんでた。ちょちょっとだけ」
 言葉が出なかった。私と同じ高校一年生の女の子が妊娠だなんて。
 里絵は一学期にはすでに妊娠していて、私の目の前の席で、宿した命と一緒に授業を受けていたのだ。
 どんな気持ちでいたの? 赤ちゃんと一緒で幸せだった? 里絵は、赤ちゃんに、本を読み聞かせてたんだね。
 両親に打ち明けるの、勇気が必要だったね。怖かったよね。叱られりしなかった?
 ―――赤ちゃんと一緒だから、大丈夫よ。
嬉しそうに微笑する里絵の顔が浮かぶ。教室では、あまり見られなかったけど。
「他に、変わりなかった? 元気そうにしてた?」
 私は同じことを訊いた。
「わわ、わかりません。初めてだったから。お話しするの」
「謝れないで、美子」
「おおお、お姉さんに言われた。りり里絵の、はは話し相手になって。とと友だちでいてねって」
「うん」
「あああ、文音さんと静さん、しししし心配してるから、また、ああ会おうねって言った」
「そしたら?」
「ニッコリしてた。りり里絵さんもお姉さんも。でで、電話番号教えてもらったの。でででも落ち着いたら電話するから、もも、もう少し時間頂戴って。言ってたから……」
「待ってよう。楽しみに」
 電話を切ってからはじめて、自分の部屋にいることに気づいた。ベッドにからだを投げて、枕に顔を埋める。こうすれば涙がとまると思った。
 それにしても、
「暑いなあ。ほんとに十一月? スイカの季節じゃないの」 もう駄目。耐えらんない。
 姿見の前に立って、腫れぼったい自分を窺い見る。ヘンな顔、しないの。笑いなさい。
 ニッ。さん、はい、
 ♪ 上~がり目。下~がり目。
   ぐるっとまわって、ニャーオ♪
 ぷっ。
 お母さんが教えてくれた、涙を止めるおまじない。
「さ、行こうっと」 
 階段を下りる音は軽やかなポップ。自然に出る新曲のハミング。今の私のあかしね。
 
「どうかしたのか。ヨシコ」
「友だちのことで話してただけ」
「そっか」
 キトさんは体を伸ばして、お母さんのギターを手にとった。その腕は、セカンドハンドのお年寄りよりおじいさんだ。
「弾きこんでやれよ。泣かせんじゃないぞ」
 チューニングの音がなかなか合わない。それでも弦に耳を近づけて、納得するまでやろうとしてる。
「次のライブ。最後にするからよ。ショージには話してある」
「ちょっとキトちゃん。何よ突然」
「私と美子の初めてのライブよ。どうして」
 流動食とたくさんの薬のせいか、心なしか声も小さくなった気がする。私もキトさんと同じ、病気のせいにしたくないし、病気のせいだとは思いたくない。
「文音もヨシコも、もうステージに立っても何も問題ない」
 無理をして大きな声で喋ってるのだろう。声はフェイドアウトするように小さくなっていく。私が思っている以上に、辛いのかもしれない。
「ふたりとも、立派なミュージシャンだ。自信、もっていいぞ」
 音はまだ合わないし、ギターを傾けて構える姿が初心者のようで、キトさんらしくない。
「美子ちゃん、寂しいと思うよ」
 ―――どうして小手先で弾こうとする。丹精込めろ。音を生かせよ。
 なんで私に言うのよ。美子ちゃんの目見て話しなさいよ、意気地なし。
 ―――うるせえっ。
 一生懸命考えながら頑張ってるんだから、見守ってやんなよ。
 そうよ。努力してるのよ、美子。
 ―――努力も頑張るのも陰で個人的にやってくれ。バンドで演奏する時はすべてを音で表現しろ。互いの音と呼吸と空間を意識しようとしないで、何の意味がある。
 唇を結んで涙を堪えて、それでもがんばる美子の姿を思い出す。せっかくキトさんに認められて、これから夢に向かおうとしてるのに。
 でも……体のほうが大事。仕方ないのかな。
「見ろよこの手。震え、止まんねえんだ」
「ギターは美子ちゃんに任せて、歌だけ、」
「文音がいる。オレの居場所はねえ。お前らだけで十分だ、セカンドハンド・ストアは」
 キトさんが奏でるアコースティックギターは、深い山奥の中から聞こえてくるような、小さいけど命の呼吸や温度を感じさせる音がする。
「思うように動かなくたっていいじゃない。キトさんのギターがなかったら、セカンドハンド・ストアじゃないよ」
 キトさんは俯いてギターを鳴らすだけだ。
「ショーちゃんは。なんて言ってたの」
「まったく、流行り病にやられちまうなんて、ミーハー野郎みてえで恰好悪ぃな」
「ねえ。ショーちゃんはなんて、」
「何も言わなかった。泣いてくれたよ」
 お母さんは目頭を押さえて部屋を出て行った。キトさんはただギターを弾いている。黙ったまま二人きりでいるなんて、苦手だな。
「つながないよ。ご近所に迷惑になるから」
 お母さんはエレキギターを手にして戻ってきた。
「適当に合わせるから、好きに弾いて」
 言って、キトさんの座るソファの端に腰をおろした。
 ぷっ。
「何がおかしいの文音」
「だってお母さん」 ―――適当に作るから、食べたいもの言って。
「お料理の献立決めるときみたいだから」
 ふたりが笑った。部屋の中にやっと、ウチの風がそよぎ始めた。
「音楽も料理も似たようなもんだからな。素材と段取りとタイミングがすべて」
「明日からやってもらおっかな。お料理」
 ふたりの演奏が徐々に合ってきた。
「いい音だな。コイツが育った森の匂いがする」
「鳥の声も聞こえる。風や葉擦れの音も」
「まだまだイケるよ、キトちゃんのギター。これで引退だなんてしたら、怠け癖がつくよ」
 お母さんらしい励まし方だ。
「立てなくなってからでも遅くないって。止めるのなんかさ」
「ギター抱えたままくたばって、棺桶に入るのも悪くないかもな」
 キトさんの声はふたりのギターの音と同じように、部屋に響くようになった。
「ヨシコの、だっちゅーのFカップヴァージョン、まだ見てねえし」
「そんなに見たいなら私がやってあげよっか。Eカップヴァージョンでよろしければ」
「ふん。笑えねえって。嘘つき」
 手の動きが大きくなり、キトさんのハミングが加わる。
「次はバラード? もしかして、新曲?」
「まだ完成してねえけどな」
 コード進行を茜に任せ、キトはアルべジオを奏で始める。繊細な音づかいと抑揚は、空を自由にただよう、風に誘われているかのようだ。
「タイトルは?」
「誓い、にしようかと思ってる」
「楽しみ。キトさんがステージで歌ってるとこ、見てみたい」
「何言ってるのよ。あなたはステージの上にいるのよ。自覚足りないな、ボーカルだっていう自覚が」
「アヤネが歌うイメージで描いてるんだぞ。オレは」
「まあ大変。難しいわよこの曲」
「ビシビシやってやるよ。ムチ使ってよ」
 ?
「ばか」
 大丈夫よ私。キトさんの隣で歌えるなら。



    大切なあなたを思って


 里絵から電話がきたのは美子から話を聞いてから三日後。同じクラスの席が前後というだけで、取り分け仲良しという関係ではないだけにこんなに早く連絡がくるとは思ってもいなかった。きっと里絵自身、誰かに聞いて欲しかったに違いない。十六歳の女の子が抱えるには、余りにも問題が大きく課題が有りすぎる。私が里絵の立場に立たされていたとしたら、重圧に押しつぶされ、どうにかなってしまったかもしれない。
 いま誰かが手を差し伸べなかったら里絵とお腹の子はどうなるのだろう―――。美子と静も同じ気持ちでいる。私たちは里絵の手を取って、重荷をいっしょに負う決意をしたのだった。
 家を出された里絵は今、お姉さんのアパートでともに暮らしている。アパートは会社が借り上げた単身用の社宅だそうで、事情が事情なだけに、一時的な同居は許められたが早々の退室を求められていると言う。つまり里絵は、出産と同時に居場所がなくなってしまうことになるのだ。
「おなかの大きな十六歳のシングルマザーに部屋を貸す者などいない」 里絵は、どうしたらいいのか分からないといった口調で、そう嘆いていた。
 里絵の出産予定日は2月20日。三か月しかない。あれから二週間。高校生の私たちにだって何かができると信じてきたけど、無力さと 『相手』 への怒りがつのるだけで、里絵にかける励ましの言葉さえ、無責任に思えてくる。
「どうしたの怖い顔して。お箸すすんでないじゃない」
「スプーンだろ。なあアヤネ」
「スプーンでもお箸なの。いちいちチャチャ入れないでよ」
 お母さんとキトさんは相変わらず。
 顔を上げると、お父さんと目が合った。 「どうした」
「ん。ううん」
 毎日キトさんの通院に付き添ってから仕事に向かうお父さんに、心配は掛けたくなかった。
「出すもん出さねえと、すっきり、しねえぞ」
「やめてよ。食べられなくなっちゃうじゃないの」
「アカネのカレー、は天下一品。最高だよ」
「そういう問題じゃないわよ」
 キトさんはただお皿の中をかき回してるだけ。食欲がないのは明らかなのに、いつも場を和ませようとしてくれる。 
「大人って、生きもんはな。若者から、話し掛けられたり、頼られると、嬉しいもんなんだぞ。面倒なことでも、何でもな」 キトさんの肩が上下に動く。
辛いのに、心配させちゃってごめんね。
「里絵ちゃんのことでしょ」
「え。うん」
 気づいてたの、お母さん。
 高校生三人ではもう解決できない。信頼とは、信用して頼ることだ。武田先生そう言ってた。
「里絵がね」
 私は里絵が置かれている状況を、慎重に、順を追って話した。お母さんは開口一番、
「相手の親に責任取らせなよ。そうすればこっちの親も動かざるを得なくなる。孫が生まれれば親の考え方、変わるかもしれないよ」
「無理無理。高一の、妊娠してる子を、追い出す親も、責任を負おうともしない、野郎もその親も、頼っても無駄。期待するだけ、落胆する、だけだ。親になる、資格もねえ親なんか、頼ることぁ、ねえ」
 キトさんはテーブルにからだを預けて話した。
「大丈夫? 苦しいんでしょ? 横になったほうがいいよ」
「カレー、食い終わったらだ」
 言って、ふたたびカレー皿の中をかき混ぜ始めた。
「ショーちゃんは。どう思う?」
「母子ふたりで暮らすのは無理だ」
 美子と静と私の三人は、里絵が子供とふたりで生活していく事を前提に考えてきた。お父さんの言葉は私たちの希望を砕く言葉だったけど、私たちの足枷を取り除いてくれるひと言だった。
「そうだよね、現実的には。本来は親が、」
「いつ、生まれるんだ」
 キトさんがお母さんの話に割り込む。
「予定日は、二月二十日なの」
「連れて来い、ここに」
「簡単に言わないでよ。キトちゃんの家じゃないのよ」
「ここなら、子育て経験者の、アカネがいる。リエの勉強を、アヤネがみる。オレは、ヒロんとこ行く。あそこなら人生の、大先輩がうようよいて、安心だ。それに、ここと違って、エロDVD、見られる」
 精一杯の笑顔を張り付けたキトさんの表情は、擦りむいた膝を押さえて泣くのを我慢してる男の子だ。
 やさしい言葉を口にしたら泣き出しそうで、何も言えない。
「最後が切実なんでしょ、キトちゃんは」
「お前が、DVDプレーヤー、隠すのが、悪いんだ」
「茜がそばにいれば、精神的にも楽だろう。心の安定が何よりだ」
 お父さんの言う事を聞いていれば間違いない。けど、
「ショージの、言う通り。決まりだな」
「でもキトさん。辛そうだから心配」
 やっぱりそばにいたいよ。もうひとりのお父さんなんだから。
「心配すんな。オレは、ビンビンだよ」
「また言って。でも、なあ……」
「そんなに、出てってほしく、ないのか」
「そうじゃなくて」
 お母さんは下を向いて首を傾げ、何かを言うのを躊躇ってる様子だ。
「問題、有んのかよ。言えよ、お前らしくもねえ」
「赤ちゃん、ふたりになるから」
 お母さんは恥ずかしそうに、お父さんを見た。
 えっ。まさかお母さん。
「あん? もしかしてアカネ、お前もかよ」
「うん。四か月に入るとこ」
「通りで気配、ないと思ったぜ。夜」
 それでお父さん、夜勤の仕事を始めたのね。
 小っちゃい頃はよく、弟がほしいってねだったりしたな。でも十六になろうとしてる今、十五・六歳も年下の弟か妹が出来るなんて、複雑だけど、
「おめでとう。お母さん」 
 素直な気持ちよ。
「丁度良いじゃ、ないか。リエの乳、貰えて。出ねえもんなお前、乳、小っこいから」
「小さいは関係ないわよ」
 そっか。キトさんは私が生まれた時のこと知ってるのね。なんか恥ずかしい。
「まっ、そうね。里絵ちゃんさえうんって言えば、来て貰おっか。文音のためにもなるし。どう? ショーちゃん」
「さっそく電話してやるといい。準備もあるだろうしな」
「行かなきゃだめなの? キトさん」
「そんなに、離れたくねえか」
 それは、そうだけど。言えっていうの?
「ならオレと、結婚すっか」
「ばか。文音は十五歳よまだ。それに、」
「じゃあ、十六に、なってからだ」
 そんなに苦しそうな顔で言わないで。いつも嬉しそうなキトさんが、私は好きなんだから。嬉しそうに言って。
「変なこと言う人がいなくなって安心。親として」
「冗談に決まってんだろ」
「なあんだ。本気じゃなかったんだ。残念」
 キトさんの顔が日が昇るように明るくなった。
 そっか。私が暗い顔をしてたから、キトさん沈んじゃうのね。やっと分かったわ。
「十六になるまで、待ってろ」
「うん。楽しみにしてる」
「良かったね、キトちゃん。それまでに病気治さなきゃ」
「特典付きでも、構わないよな」
「考えてみる」
 キトさんは嬉しそうに笑って、とっくに冷めたカレーを口に運んだ。
「あらグチャグチャ、お粥みたいじゃない。取り替えてあげる」
「いいんだ、オレ猫舌だし。アカネの粥、美味いからさ」
 キトさんが子供みたいにカレーをほうばった。お母さんが、母親のような微笑を浮かべて見てた。


 <ニッポンに着きました。あなたは起きろ。ニッポンに着きました。あなたは起きろ。ニッポンに着きました。あなたは――>
 トイの最新型スマートフォンから、耳障りな英訳音声が流れる。
 ロスアンゼルス国際空港から成田までの九時間余りを、寝たふりをしてやり過ごしたジェイムス・ウォルシュは、肌触りの悪い毛布をはぎ取ってトイを睨みつけた。
「うるさい! 可愛い声のお姉ちゃんが日本語訛りの英語で喋ってるだろ。いい加減にしないとお前のそのブレーン(スマホ) (頭脳) 叩き壊すぞ。この、おもちゃヤロー!」
 <ぼくは安心しました。なぜなら、あなたは元気だからです。ぼくは安心しました。なぜなら、あなたは元気だからです。ぼくは安心しました。なぜなら、>
 J・Wジムのオーナーであり指導者のジェイムス・ウォルシュは、最強格闘プラグラム最後の練習生、 『トイ』 こと小山田富夫とともに、日本の地を踏んだ。親友の日本人ベーシスト 『ロッキー』 に会うためである。ロッキーがいなければ、ふたたび夢に向かって歩むことができない。そう考えた人生をかけた決断だった。
 ロッキー。君はいまどこにいるんだ。ぼくは運命を信じて 『ハコダーテ<函館>』 に向かう。待っていてくれロッキー。マイグレートフレンド。
 <あなたは、ぼくとコーヒーを一緒に飲んだらどうだ。あなたは、ぼくとコーヒーを一緒に飲んだらどうだ>
 別れの挨拶もせずに、ひとりコンコースを歩いていると、ジェイムスの背後でフルボリュームの機械音が聞こえてきた。チィッ、
「まだいたのか。君は東京、あっち。ボクとは行き先が違う。二週間よくがんばった (君なりに)。愛する女を守ってやれ。鍛錬を怠らずにな(スマホばかりいじくっていないで) 。そうすれば強くなれる(多少は)。バイバイ、ファイター・トイ」
「え、何て?」
 ロッキー。喜んでくれ。ようやく二週間のスマホとゼスチャーとパントマイム地獄から解放される。
 ボクは思い知らされたよ、ロッキー。日本人は君やスミカのような、ブラックキャニオンハイウェイのようにまっすぐな人間ばかりとは限らないってことを。スーパースティションマウンテンの坂道のような人間もいるってことをね。
 まあいい。終わったことだ。フィニッシュ。ジ・エンド。バイバイさ。
 取りあえず――スミカに電話すると、するとするか。いや。
 やめておこう。スマホはとうぶん、見るのも触るのもごめんだ。とにかくハコダーテ。ハコダーテを目指そう。
 着いたらまずはランチ。回らない寿司三人前、といったところか。それから市内観光としゃれ込んで夜景を満喫する。ディナーはアメリカ風の紛い物ではない、本物の和食で決まり。ラーメンをするする音をたてながら、すするとするか。
 温泉にも入らない手はない。もちろん、シャイ(てれや)ネイキッド(すっぱだか)の男女が入り乱れるという、混浴風呂さ。ボクの的は注目の的。トイの倍ではきかないスーパーキング。誰もが目を見張るに違いない。最高だぜ、クールジャパン!
 悪いがロッキー。君を捜すのはそれからだ。
 それにスミカ。もう少しだけ、待っていてくれるね。気絶させないように気をつけて、抱きしめてあげるから。
 <わたしは第一ターミナルに、あなたを送ることができます。わたしは第一ターミナルに、あなたを、>
「ん? 着いてくるなよ」
 <私はあなたのことを、とても心配しています。なぜなら、あなたは初めて日本に来たからです。私はあなたの持っている心配を、解決することができます。私はあなたのことを、とても心配、>
「NOサンキューだ! ボクには君とは違うブレーンがある。君はひとりでおもちゃ箱に帰るんだ。わかったかっ!」
 ぐすっ。ぐすぅ。
 え~ん、え~ん、うぇ~ん。
「おい。こんなところで泣くやつが有るか大の大人が」
 うぇ~ん。え~ん、おぇ~ん、
「泣くな。なぜ泣く」
 ずるっ。え~ん。んあんあんあ~ん、
「どうして泣くんだ」
「お願い。独りに、しないでぇっ!」
「喋れるのか。 English を」
「なに?」
「話せるじゃないか」
「うん話せるよ。何を喋ってるのかもだいたい分かる。でも英単語が苦手で意味が分からないんだ」
「なるほど。その場合 Verryという単語を、Littleの前に二つほど付けるのさ」
「Verry verry 分かったよ。James」
「初めから言えばよかったじゃないか。少しなら話せると。そんなに怒られるのが怖いのか」
「え?」
「怒られるのが怖いのかっ」
「ごめんよ。怒られるとぼく、涙が出てきちゃうの。怒った顔をされるだけで、涙が勝手に出てくるの」
「そんな理由で、スマホに喋らせていたのか。ボクはゼスチャーやパントマイムまでして、君に伝えようとしたんだぞ。必死になって」
「なに?」
「スマホに喋らせていたのは、怒られるのが怖かったからなのかと訊いているんだ。何度も何度も言わせ、」
「ひっく、ひっく、」
「怒ってない、怒ってるんじゃない。なあトイ。君は、」
「ぼくねっ。耳が悪くて、たくさん失敗して、たくさん人を困らせて、たくさん人に迷惑を掛けて、たくさんの人を怒らせてきたの。だから……なかなか、話せないよ。自分の欠点て」
「そんなに悪いのか。君の、その耳は」
 ジェイムスは、トイの右耳、左耳を覗き込む。
「見た目は普通でしょ」
「ああ。Sサイズで耳たぶが無いことを除けば、ふつうに見える。チキンナゲットに紛れ込んでいても何の違和感もない」
「でも左の耳はまったく聞こえなくて、右ははっきり聞き取れないの。話さえしなければ、誰も怒らせないですむでしょ。だから」
「だから、自分の弱さを克服するために、ボクのジムに来たのか」
「違うよ~。ハニーを守るために強くなりたいって、入会申込書に書いたじゃないか」
「ホワット?」 通じないのかあ、ぼくのEnglish。
 そうだったのか。帰国したら見てみるよ、申込書を。いつになるかは分からないが。
「とにかくだ。案内してもらおうか、トミー」
「トミー。ぼく?」
「君の名前はトミオだろ。そう書いてあったぞ、入会申込書に」 確か。
「うん書いたはず」
「案内してくれるかい」
「いいよ。分かりにくいからね。成田は」
「ハコダーテまで。いいね、トミー」
「イエス。もちろんさ。オブコースだよ」
 ロッキー。話してみなければ分からないものなんだな、人間って生き物は。伝え合わなければ分かり合えないものなんだな。ボクはいま気づいたよ。
 ジェイムスがトミーの肩に腕を回した。トミーはポケットにスマホをしまい、ジェイムスを見上げ、歩き出した。 「ゴー、トゥゲザー、ハコダーテエ!」



    空の下。まどい
 

 キトさんが突然姿を消し、セカンドハンド・ストアの再結成ライヴは中止になった。なのに沖田家は一日一日充実感で溢れている。キトさんがいなくなった悲しみを、里絵ともうすぐ生まれる赤ちゃんが、癒してくれているからだ。
「お母さーん。もう皆さん見える頃でしょ。あとは私、やりますからぁ」
「ごめ~ん。お願いねえ」
 お母さんと里絵のよく通る声が、階下の端と端で響く。
「さてと。私もそろそろ」 トットットットッ、ペタペタペタ、トントントン、トンッ。ん? うわあ、いい香り~。
 今日のお弁当は和ね。何だろ。楽しみ。
 階段を下りる私の足音を聞きつけて、お腹をかばいながら廊下に向かう里絵の姿が浮かぶ。気をつけて。
「はい文音。今日は、」
「ありがと、いつもいつも」
 隣町の伝統工芸品の、寄木細工を模した巾着袋から、お弁当の温もりがほのかに伝わる。
「悪いけど、いい?」
「お安い御用よ」 公民館の図書室に返却する児童書を受け取る。
 里絵曰く、胎教にというより自分のため。子ども向けの本って、あったかくて優しい教科書みたいでしょ。
 やさしいお母さんになるために。ひたむきな里絵らしい。
 そうよ。私たちみんな、本から始まったんだよね。里絵は私に本を貸してくれて、静は本のことから話が広がって、本を読む美子を気にしてたんだっけ。
「文音。朝ごはん食べなきゃ駄目だよ。明日からちゃんと」
「わかってる」 子供じゃないんだから。もうひとりのお母さんみたい。里絵って。
 クスッ。
「なあに」
「お母さんそっくりだから」
「朝からショッキングなこと言わないでよ。じゃあ行ってくるね」
 ん? 「あ~ん。もうお母さんったら」
「可愛いね。お母さんって」
「どこが。恥ずかしいよ。大人よ」
 お母さんのスリッパがあっちに向きこっちを向き、片方は裏返し。
「私が来て、忙しいから」
「それならいいけど。何回言っても直んないの。子供みたい」
 文音の物言いに、里絵はお腹を撫ぜながら笑ったが、
「大丈夫かな、お母さん」
 茜は今朝早く、検診結果を聞きに病院へ向かった。妊娠が判ってから働き始めた茜の体調はもちろんだが、照治を伴って向かったことが、里絵には気に掛かっていた。
「大丈夫よ、初産じゃないし、ストレスも感じない人だし。この通り、気も遣わない人だから心配しないで」 文音は端に寄せたスリッパに目を向けて、里絵の思いとは違うことを言った。
 茜はいまヒロキの店、セカンドハンドで働いている。キトの失踪前の小旅行で ―――心配したヒロキが同行していたこの時点では、失踪とまでは言い切れない ――― ヒロキ不在となったセカンドハンドと、そこに集う人々を守るために始めたのがきっかけであった。
「何年もいるようねって言われるって、喜んでたよ」
 里絵は、心配を振りほどくように言った。
「褒められたと思ってるんだから、お母さん」
「褒めて言ってるんだと思うよ。お母さんって、人を幸せにする人だもん。善之くんなんてさ、お母さんのこと、本当のお母さんみたいに慕ってるって言うし」
「子供同士みたいな感覚なのよ、きっと」
 里絵は下駄箱のうえの置時計を見る。 「大丈夫? 時間」
「あらヤダ、もうこんな時間」
「お母さんそっくり。可愛い」
「悪口?」
 ふふふ 「嬉しいくせに」
「は? 嬉しくないよ。里絵は、」 お母さんの子供じゃないから―――。文音は言葉を飲み込んだ。
 本当のお母さんだと、思ってるんだよね。ウチで一緒に住むようになってから一度だって 『文音の』 お母さん、って言ったこと無いもんね。里絵は。
「なあに? わたしが」
「里絵もさ、お母さんに似てると思うよ」
 わあ、 「ほんと!?」
 本当に嬉しいんだね。里絵が嬉しいのが、私は嬉しいよ。
「どういうトコが?」
「そうだなあ、(意志がかたくて真実で、愛に溢れてるとこ。なんて恥ずかしくて、)言えない。でも悪いとこはぜ~んぶ私が受け継いだから、安心して」
「うん。わかった」
「じゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 こんな場面、想像も出来なかったな。
 行っておいで。帰っていらっしゃい―――笑顔で。もうひとりのお母さんの心の声。明るくいようね。いつまでも。 

「思い出すなあ、ショーちゃんとの初デート。私、ドキドキだった」
 茜は助手席のシートに深くからだをうずめて、高速道路と海に揺れる漁火(いさりび)の、どちらともつかない空間をぼんやり眺めながら、口を開いた。
「ドライヴ連れて行ってって、何度お願いしてもなかなかOKしてくれなかったんだよ、ショーちゃん。いろんなこと考えて、眠れなかった。嫌われてるのかな、とか」
 海岸の際にあるパーキングエリアを通り過ぎると、上り坂が、山の穴に向かって伸びる。照次がギアーを下げてアクセルを踏み込むと、エンジンが応え回転数を上げて唸り出す。茜のか細い声を聞くのがたまらなかった。
 車は小さな山のトンネルを幾度か抜けて上り下りを繰り返すと、なだらかな長い直線道路に入った。
「♪ ねえ、ショーちゃん。こっち向いて」
 茜が照次の顔を覗き込むようにして歌う。
 照次はまっすぐ顔を前に向けたままで、まばたきもしない。
「♪ 恥ーずかしが、ら、ないで」
 照次は茜の手を探して、優しく手を置いた。
「♪ 向ーけないよ。運転してるから」
「ふふ」
 茜は嬉しくなって、照次の硬い腕に頭を寄せた。 「このまま、遠くまで行っちゃおっかあ」
「行くかたまには。どこがいい」
「んん……ずっとずっと遠くまで。車が壊れるまでずっと」
「壊れる前にガソリンを入れないと。下りるか」
 照次はウインカーを、硬い指でゆっくり押し上げ、ハンドルを数ミリ左に切る。車はインターチェンジの出口車線に、緩やかに向きを変えていく。
 茜は今日照次とともに、定期検診の結果を聞きに病院へ行った。胎児は順調に成長している。そう言われ喜んだのは束の間で、医師の意図する目的、本題の、前置きの言葉に過ぎなかった。
 生まれてくる子供の成長だけそ考えてた茜は、キトの余命を耳にした時以上の衝撃を受けた。
『死』 に向かう自分と 『死後』 の現実が浮かび上がると、
「赤ちゃんだけは助けて」
 無意識のうちに口にしていた。自分の言葉が遠くで聞こえ、
『今ここで天に召されても、叶えねばならない』 という思いで茜は満たされ、
「赤ちゃんだけは助けてください!」
 何度も繰り返し叫んでいた。
 セルフ給油をすませた照次はかじかむ手をこすりながら車に戻ると、
「シーズン中だったら、甲子園なんだけどな」 シートベルトをしめながら言って、エンジンをかけた。
「三人で行ったな。巨人戦三連戦」
 金属加工の会社に入社して二年目、二十年前の夏の終わりのことだ。
「キトさんは、試合以外、寝っぱなし。行き帰りの車の中でもホテルでも寝ていたんだ。せっかく行ったのに」
 車をゆっくりと動かし、国道に入る。二車線の道だが、歩行者信号が青で、車の通りも少ない。
「だから、三タコ。三連敗したのよ。優勝を逃したのも、キトちゃんのせい。木藤班長の」
 キトの名を出したのが良かったのか、茜はふつうの反応を見せた。だがいつものはずむような声色には程遠い。 
「木藤、班長か。懐かしい。いつから 『キト』 さんになったんだかな」
 分かっていることを照治は訊く。
「スタジオに初めて三人で入った時。昔からキトって呼ばれてるから、仕事を離れたらキトって呼べって」
 声に明るさが戻る。いつもの茜に近い。
「そうそう。それじゃあ、と思って 『キト』 って呼んだら、呼び捨てにするなって怒ったんだっけ。自分から言い出したくせに」 
 右手に山を見ながら西に車を走らせる。海よりの車線を選んでも、国道からは暗い海が見えない。
「確かにさ、ショックだけど。落ち込んでなんか、いられないんだよね」
 声に抑揚はないのは、茜自身に向けた言葉だからだ。
「頑張らなくて良いんだ」
「ううん。私がんばるよ。だって私ががんばらなきゃ、生まれてくるこの子。がんばらない子になっちゃうもん」
 そうだな。照治は何も言わずに、次の言葉を待つ。
「私が明るくしてれば、この子も明るく育ってくれる。そうだよね。そう思わない?」
「茜があたたかいから、文音もあたたかいんだ」
 照次の言葉を聞いて、茜は、心の中のしこりを吐き出そうと思う。
「髪の毛なくなっても、お肌がしわしわになってお婆さんみたいになっても、がりがりに痩せて、おっぱいがなくなっちゃって、私が私でなくなっちゃっても、そばに居させてくれる?」
「ばかな事、訊くなよ」
「死ぬまで傍に、置いてくれる?」
 茜が涙声になる。どうしても、確かめておきたかった。
「どんな茜になったって、茜は茜だ。俺が愛してるのは茜だけだ」
「ありがとう。ありがとう」
 声を上げて泣く茜の肩を、照次はゆっくり引き寄せた。
「みんな茜が大好きなんだぞ」
「うん」
「帰ろう。みんなのところに。なっ」
「うん。帰る。私笑顔で帰る」
 茜が両手をやさしくおなかに置く。照次は右に大きくゆっくりと、ハンドルを切った。


 そう言えば、アヤネ、北海道だとか言ってたよな。来年の修学旅行。
 キトはシティホテルの最上階の部屋に着くと、壁いっぱいの窓辺に歩み寄り、夜の景色に目をやる。
「夜景なんて、所詮ビルやマンションや夜間営業の店が、電気つけてるだけのことじゃないか」
 自分の言葉を思い出して苦笑する顔が、強化ガラスに映る。昔夢中になった漫画の、減量に苦しむボクサーの顔のように頬骨が浮き出ている。
 死ぬまで食い尽くそうってのか? 美味いのかよ、オレのからだは。
 いかんいかん。こんな事を考えるために函館に来たんじゃねえだろ。
 キトは男の顔に向かって、黄色い拳を伸ばす。
 こっちの雪はきれいだぞ、アヤネ。限りなく白。もこもこした雲みてえな白だ。
 アヤネ。函館山に登ってきた。オレの、約束の場所にな。北海道が浮かび上がってよ、地図と同じ形をしてやがった。
 ふ、当たり前か。だけどな、当たり前をどう感じるかが、大事なんだ。分かってるだろうけど、忘れんなよ。
 見てみろよ。あのノッポなビルの左側に、マンションがあるだろ。何が嬉しくて笑ってるんだろうな、あの家族。寒みいからよ、暖っため合ってるのかもしんねえな。ああやってさ。団欒って言うんだろ、ああいうのを。味わったことねえから分かんねえよ。オレには。
 なあアヤネ。四人で裏山にのぼって見てみろよ。ショージとアカネとリエでさ。お前たちが暮らす町でも、当たり前の暖ったかい風景に会えるからよ。なっ。
 大雪で北海道行きの空路が断たれたことを知ったキトとヒロキは、東北・北海道行きを諦め、東京郊外の日野で別れた。それからのキトは、ひとり羽田空港に向かって歩き、飛行機の運航再開を待って北海道に辿り着くことができた。ステージに立てなくなったキトは、ただ一つ残された最後の夢に向かって、踏み出したのである。
「なあ。お前え、ほんとにガンなのかよ」
 窓ガラスの男から返事はない。
「この通り、ビンビンだぜ。ガン患者だったら、小田原から山梨行ってそれから……埼玉? 千葉だったか? ええと、長、長、永、流、そう流れ山だ。流れ山行ってよ、それから……それから、火野行ってそんで、成田空港までなんか歩けねえだろ、ふつう」
 あ? 歩いたじゃねえかお前ってか。
「そりゃそうだわな。でもよ。ガン患者が、昼に味噌ラーメンに大森チャーシュートッピングして、夜は海戦丼食ってシシャモつまみに熱燗四升も、呑めると思うか。無理だろ絶対え」
 ん?
 お前は呑み食いしただろ。ふつうじゃねえから。
 確かにふつうじゃねえ。けどオレはガンじゃねえ。
「目なんかぜんぜん悪かねえんだ。遙か先に見えるあの家、あの家の黄色いリボンを後ろで結んだ小っちゃい女の子、はっきり見える。あり得ねえだろ。余命を四か月も過ぎたガン患者だったらゼッテエ見えねえだろ」
 受け入れろだあ?
「バカ言うな。外来の医者覚えてるだろ。あいつ、半分寝ながらガンだとか抜かしやがっただろ。誤診に間違いねえ。検査した時の技師の小僧。あいつ、おどおどしてたよな。検査ミスだ。看護婦の姉ちゃんなんかオレに見とれてメロメロだ。証拠、揃いすぎてるだろ。だから絶対に、診療ミスってやつだ。間違いねえ」
 往生際が悪いって?
「ふん。往生なんかしねえのに、勝手なこと抜かすな。まっ、オレは寛容だから医者を責めるつもりはねえ。お前からそう伝えてくれ。寝ぼけ医者とおどおど技師とメロメロ姉ちゃんによ」
 ・・・・・・・・・
 ふうぅ。
 疲れたよアカネ。背中が重ダルくてたまんねえ。
 よしっ。メシ食ってシャワー浴びて寝るとすっか。明日から忙しくなることだしな。
 せっかく北海道まで来たんだ、メシくらい奮発すっとするか。
 魚に、カニに、うにだよな、やっぱ北海道のこの時季は。それと北国の冬は油断ならねえから、体もあっためねえと。もちろん熱燗で。
 そうそう。アカネに電話入れねえと。 「食べてくるなら連絡してよ」 なんて、ツノ生やすからな、あいつ。
 えっと、
 ―――0、
 ん?
 ―――05、
 あれ。
 ―――04、02?
 違う。
 ふぅ~、悪いなアカネ。今日はお泊り。もう寝るわ。
 みんなに言っておいてくれ。おやすみって。
 じゃあ、切るぞ。
 おやすみ。



    サムライの子  


「トイ。いやトミー。君がついて来てくれてほんとうに良かったよ。いや、君と出会えて良かった。そう言った方が正しいかもしれない」
 小山田富夫こと元トイのトミーは、素直に喜んだ。 「ノープロブレム」
「君がいなければ、難解な形をした文字が解読できず仕舞いだった」
 ジェイムス・ウォルシュは、五稜郭公園の一角に建てられた碧血碑を、あごでしゃくった。
「ぼくの方こそ。ジェイムスと一緒じゃなかったら、一生ここに来なかったかもしれないもの。感謝するよ」
 トミーは言うと、雪一面の風景に目を向け、
「星みたいな形してるんだね」
「ゴリョーカクだからね。しかし驚いたよトミー。日本にも勇敢な戦士がいたとは。しかもラストサムライと言うじゃないか」
「そうなの。けっこういたみたいだよ歴史上のヒーロー。日本にも」
 そうなの? いたみたい? 聞き間違いだろうか。まるで他人事のような言い方じゃないか。
「ボクは日本人ヒーローを、三人知ってる」
「へえ、三人も知ってるの。すごいねえ。誰と誰と誰さ」
「NomoとIchiro、それにロッキーさ。彼らは勇敢な戦士。サムライの子孫。いやサムライだ」
「ふーん」
 む。無関心。君は、いやコイツは、関心のあることにだけ興味を持って生きているのではあるまいな。
 ―――ジェイムス。俺は肌が合わなかったんだ。日本という国とね。
 ふむ。もしかしたらロッキー。君の周囲には、こんな日本人ばかりが居たんじゃないのか。もしそうだとしたら、死にたくならなかったかい?
 それにしてもロッキー。寒いなハコダーテは。君はひと言も雪の話など、口に出した事はなかったじゃないか。この極寒の地で君は、泣き言ひとつ口にせずにクールな顔で生きていたんだろうな。さすがはロッキー。サムライだ。
「アメリカにもいたの勇敢な戦士」
 棒読みのような言い方に腸が煮えくり返る。
 だがロッキー。ボクも君に習ってクールに生きることにするよ。これからは。
「ああ。アメリカにも、このヒジカタと同じ目をした男を、ボクは何人も知ってる。昔のアメリカ人は、みな彼と同じ目をしていたものさ」
 クールになっただろ、ボクも。
「嘘っそだぁ~。ダメだよ嘘ついたら」
 コイツっ。どうしてボクが嘘を言わなければならない。嘘をつかなければならない理由などボクには何もないぞ。何一つもだ。
 トミーはジェイムスの手にした、函館観光パンフレットを覗き込んで言った。 「だってさ。この、きじかた、」
「ヒジ! ヒだよ “ヒ”!」
「ああ、ヒね。エルボーね。それならそうと――」
 シット! ボクはどうにかなりそうだし、どうにかしそうだぞロッキー。この異星人を。
「聞いてる? このひじかたさんの目、黒じゃないか。アメリカ人は青、自分だって青だろ。同じ目のわけないじゃん」
 ダメだロッキー。この全身の震えが何かわかるかい? 寒いから? とんでもない。コイツの首根っこをこの手でしめ上げてあの五稜郭タワーから……。
「人の話し聞かないんだね。ジェイムスって。嫌われるよ、そんなんじゃ」
 嫌われたって結構。ロッキー。君はよくまあこの国で生きてこられたな。ボクには無理。尊敬するよロッキー。
 ジェイムスは肩を落とした。ついでに、パイロットジャンパーのポケットに手を入れ、愛用のブルースハープを取り出し、口に運び目を閉じる。
♪ プュ~。ピュ~イ~ウー。プゥープププ、プ~、
「何を嘆いてる」
 ん? 嘆いてる?
 ジェイムスは、ゆっくりと声の方向に顔を上げる。
「真冬の北海道でブルースハープを聴けるとは思ってもみなかったよ。しかも、本物をな」
 猫背気味の痩せ顔男が言う。
「ボクもここで、本場の英語が聴けるとは思ってもいなかったさ」
「キトだ」 手を差し伸べる。
「ボクはジェイムス。冷たい手をしているんだな、君は」
「お前の手は温かくて心地いい。女だったら、抱きしめてるところだ」
 ジェイムスは手の平を上にして応える。だが悪い気持ちはしない。日本人に失望しかけていた今、ふたたびロッキーのような男に会えたことが嬉しかった。
「続けてくれ。次は、ハミングバード (ハチドリ) が、砂漠の片隅に咲く、髪飾りのような花の蜜を求めて飛んでいる、そんな曲を聞かせてくれないか」
 ジェイムスは肩をすくめ、ブルースハープを口運ぶ。
 ♪ プゥ―
 まったく違う音、そしてメロディが白銀の世界に舞う。
 透き通ったその音は、ホバリングする鮮やかな色のはちどりが、黄色い花弁に長い嘴を伸ばすさまを想像させ、ジェイムスが操る音の空間は、乾いた赤い土や岩石台地、背丈を優に超す緑のサボテンのある砂漠の風景、そして広すぎるアリゾナの空で、自由に遊ぶ風を表しているようだ。
「こんな感じでどうだい」
 演奏が終わるとジェイムスは満足した様子で言った。
「すごいね、すごいよ。上手いよ。ジェイムス」
 トミーが拍手をしながら言った。
「こんな感じでどうだいキト」
 トイ、君はすっこんでるんだ。
「ネイティヴ・アメリカン <愛する先住民> の歌さ」
「お前のブルースハープは人を生かす。いや、死者の魂までも蘇らせる」
 おいおい、なんてこった、ボクの心の叫びが読めるのか。君も。
 ――ジェイムスのブルースハープを聴くと、また生きてようって気持ちになる。きっと天国で耳にした先人たちも、そう思ってるはずだ。 
 ロッキー。君と同じことを言ったぞこの男は。キトは。
「ミュージシャンかい君は。ギタリスト、ではないだろうね」 ジェイムスはyesともnoともどっちとも取れる訊き方をした。
 長く細く、硬い指先のキトの手は、間違いなくギターを弾く者の手だ。もう狡い言い方はやめよう。 「君はギタリストだ。ね」
「本職はヴォーカルだがもう歌ってない。今はギターオンリー。ところでジェイムス。彼は君の友だちか。それともツアーコンダクター?」
 キト。答えにくいことを訊かないでくれ。コイツは、
「友だちではない。グレート・フレンドさ、ボクらは。なあトイ」
 あれ。トミーじゃないの? まっいいか。
「ぼくたち親友だよ」
「だと思ったよ」
 キトの言葉に、少なからずジェイムスは傷ついた。
「ねえキトさんって、函館の人?」
 ん? どこかで耳した言葉。確か、親父が歌っていた曲のタイトルだったような……。
「標準語話すんだね、函館の人って」
 ショルダーバッグを下げただけのこの姿を見れば、皆そう思うだろう。
「はこははこでも箱根だ。オレの故郷は」
「ええっ~!? 箱根なの~。な~んだ同じ神奈川県民じゃん。ぼく横浜に住んでるの。偶然だねえ。箱根ってさ」・・・・・・ 「箱根にはぼくも何回か」・・・・・・「やっぱり箱根と言ったら」・・・・・・嫌な予感がした。
 ―――『ハコ』の名前 が入る町にいるんだぁ、ロッキーさんが。ジェイムス、それって 『函館』 だよ。
「間違いないのか」
 ―――間違いないよ。絶対、函館だって。
「キト。ハコという言葉の入る地名は日本では、メジャーなのかい? アメリカで言うところの、 『ニュー』 ホニャララ。ニューメキシコ、ニューオリンズ、ニューハンプシャー、ニューヨークなどと言ったように」
ジェイムスは、ファイナルアンサーを尋ねる目つきでキトを見る。
「どうだかなあ。オレの知る限り、箱根、函館、箱崎。そんなもんだ」
「箱根ヶ崎っていうとこもあるよ」
 トイはジェイムスの胸中などお構いなしだ。
 トイのいう事はあてにはならない。だがボクは信じたい。だけどな……。
 いいじゃないかスミカ。信じることから始まり嘆くことで深まるのさ、人生ってやつはね。
「ハコがどうかしたか」
「いや。何でもない。ただの興味ってやつさ。それよりキト、今夜吞まないかい。しばらく喋っていなかったから自信を取り戻したいんだ。英語力を」
「残念だが、曲作りの続きがある。大丈夫、お前のEnglishはネイティヴ並み。自信を持て」
「これでお別れなんて寂しいよ。せっかく仲良しになれたのに」
 思ったことを口にするトイを見て、キトは思った。
 お前はその宝を大切に磨けばいいんだ。自分の宝物に気づくように、オレは祈ってる。
「いつか会える時がくる。時代はまわり必ず運命に出会う」
 何を喋っているのか自分でも分からないキトの言葉に、トイの肩は落ち口元が震えだす。
「寂しがり屋なんだトイは。友だちはボクだけでね」
「決めつけないでよ。自分だってそうだろ。分かるんだぼくには」
「ふん。ボクにはロッキーがいる。君とは違う」
 二人の会話を微笑ましく聞いていたキトは、
「曲が完成したら連絡する。携帯番号、教えてくれ」
「ボクはスマホ恐怖症でね。来日を機会に捨ててしまおうと思っているところなんだ」
「ぼくの教えてあげるよ。赤外線通信でさ」
 あれだけ弄りまわしておいてよく使う気になるもんだ。イカレテしまうぞ。君の頭もそのブレーンも。
 キトはショルダーバッグの外ポケットから手帳を取り出し、白紙のページを広げて言う
「これに書いてくれ」
「スマホ、ないの」
「体質に合わないだ。オレにとっては、タバコに勝る有害物体でしかない」
「それなら仕方ないね。書いてあげるからペン貸してよ。持ってないんだ。スマホがあるから」
「それじゃ、仕方ないな」 
 キトはシャーペンを取り出して、 「イギリスの騎馬隊が被る帽子のような方を。三、四回ノックするんだ」
 ふたりのやり取りを気にも留めず、キトだけをじっと観ていたジェイムスが口を開く。
「曲作りはほどほどにして、今夜は休んだ方がいい。しっかりと睡眠を取らなければ、アイデアは浮かばない」
 なぜこれだけ弱々しいのに、ギラギラ光った目をしているんだ。
 いや光ってるのとは違う。輝いているのでもない。死神と生死を奪い合い、戦っているような目だ。心に反して。
「休むんだキト。いいな」
「そうだな。そうするよ」
「どこのホテルに泊まってるのさキトさん。あぁんもうっ」
 シャーペンの芯が折れたことにトイが苛立つ。
「オレは今夜から、スターライトホテルだ」
「聞かない名前だね。どこにあるの? ぼくたちもそのホテルに泊ま、んもう。まただよ」 カチカチカチ。
「大切に使え。ゴミは撒き散らすな」
「分かってるんだけど。じゃあカチカチ、二回にするよ」
「やめるんだ。死にたいのか」
 ジェイムスはトイを無視してキトに鋭い目を向ける。
 何を考えているんだ君は。クールどころじゃないぞロッキー。この男はコールドだ。
「どうして? 二回で死ぬのさ」
「スターライトホテルで、君は死ぬ気じゃないのか」
 片方の口角をあげたまま、キトは答えない。
「答えてくれキト」
「幽霊ホテルなの? その、スターダスト、」
「星の光の下の天井も窓も壁もない、天然ホテルのことを言うんだ」
「ええ !? 野宿する気なのお。こんなに寒いのに、風邪引いちゃうよ」
「雪の日は暖かい。曲は二、三日あれば完成する。何ら問題ない」
 安心させるような口調で言い切り、空を見上げる。矢のように迫る白雪が、星はもちろん夜空を隠している。
「キト。君からの連絡がくるまでボクはハコダーテを離れない。毎晩ここで会おう。約束してくれ」
「お節介な奴だ。南部育ちだろ。まあいい、息抜きに来てやる。唇をしもやけでやられないように気をつけろよ」
 トイの書いた手帳を防寒着のポケットに押し込み、キトは背を向けて歩き出した。右の手を脇腹に添えて。苦痛で顔を歪めながら。


   
    風、吹いて


「こんなに早く来てるの。いつも」
 午前八時十分。福間新次は NPO すくい・たい事務所の扉を開けるなり言った。
「あ、お早うございます。来るも何もないわ。三部屋隣ですよ。私の住まい」
 福間が玄関に上がり、短い廊下を進んで部屋に入るのと入れ替わりに、澄香は廊下の途中のキッチンに立った。ショートにした髪から漂う香りが、福間には新鮮な朝を物語るひとつに感じた。
「それに早くもないわ。もう八時まわってるもの」
 この事務所で爽やかな声を聞けるなんて、先週まで想像すらできなかった。福間は嬉しさを抑えて、
「でもさ、深夜パトロールとかで遅くなった日の翌日くらい、ゆっくりしない?」
 澄香が居るのとは逆の、南側のベランダを見て言った。くだけた話し方をするようになった。澄香に合わせ口調で。
「福間さんがそうするなら、私もそうするわ」
 深夜パトロールは、路上で生活する生活困窮者に対して、シェルターへの入居と自立した生活を送るための相談支援を促す、すくい・たいの重要な活動のひとつだ。
 すくい・たいの支援活動は他にシェルターでの相談支援があるが、月曜から金曜の午前中二時間に限った上に、緊急時以外の電話を全面禁止としていた。この様なすくい・たい都合で決められたルールが、『相談員への負担厳禁』 という暗黙のルールを強いてきたのだ。
 このような入居者無視のルールを変えたのが、澄香だった。
 澄香が働くようになってからのすくい・たいは、月に二回の深夜パトロールが毎週一回に、シェルターでの相談支援が毎日八時間になり新たに電話相談が加わって、最も欠けていた、信頼関係が築かれるようになったのである。
 入居者の立場から見て 『同胞』 である澄香が、希望の風をシェルターに運んできたのだと福間は感じていた。相談員である澄香の入居が、いつでも話せるという安心感を与えるのと同時に、規律正しい生活を送るという自然な日常生活への意識を芽生えさせ、口数を増やし、もともと持っていた人間らしさ、明るさや感情を表すようになったのだ。
 ―――福間ちゃんよぉ。おれも人間なんだよな。
 あおの時の晴れやかな利用者の顔は、一生忘れないだろう。
「福間さんがそうするなら、私も、そうします」
 キッチンにいる澄香が、繰り返し同じことを言う。聞えてるはずだけど、
 「どうします? どっちでも良いですよ」
 コーヒーカップをテーブルにながら、違う言葉を選ぶ。
「え? ごめん。なんの話してたっけ」
「考え事してたのね。深夜パトロール翌日の出勤時間のこと。私は、どっちでもいいの。通常通りでも少し遅らせても」
「入居者のみんなに訊いてみよっか」
 適当に答えたつもりではないが、他に何も浮かばなかった。
「それ良いかも。でも気を遣うと思いますよ。思いやりのある人ばかりだから」
 ―――ゆっくりしなよ。気張ることないって。
 自然と、角部屋の入居者が浮かんだ。
「目に浮かぶよう。みなさんがどう答えるか」
 自分の言葉を聞いてくれる人がいなかったら、誰もふつうではいられないないよ。もう、大丈夫だね。河合さん。
「あ。ごめんなさい」
 澄香は立ち上がり体を斜めにして、携帯を覗く。
 澄香の瞳が横に下に動くと、
「まあ! ジェイムスからだわ」
 河合さんに外国人の知り合い? どういう関係なんだよ。
 福間は初めて、澄香を意識している自分に気づいた。
「オハヨーハニー。二か月ぶりだね。覚えているかい、ボクのことを」
「お早うって。夜中でしょ、そっちは」
「アー。ボクの腕時計は、水曜日の朝八時二十八分を指してる。外は明るく太陽がサンサンとまぶしいほどだ。これが夜中だとしたら日中はどうなってしまうのだろう。考えるだけでボクは恐ろ、」
「日本にいるのね」
 流暢な英語で話す澄香の横顔が、ハリウッドスターのように見える。
「アー。ボクは日本行きの飛行機に乗って、日本に到着した筈なんだが。アラスカではないかと疑いたくなるんだ、しょっちゅうね。だからここが日本である確率は、」
 面倒くさくなってきた。二か月間同じ屋根の下で暮らしていた時みたいに。
「、、、フィフティフィフティと言いたいところだけど、」
 ―――ハァ~イッ!
 うひぃっ。
 福間の目の上を澄香の長い足が弧を描き、シーリングライトが砕け散った。コナゴナゴナゴナ――。
「ごめんなさいっ。私ったら」
 唖然とする福間だったが、指で丸い輪をつくる。 『大丈夫続けて』
 大丈夫ではないけど、気にしないで。
「何かあったのかいスミカ。もしかして、DV男を葬り去ったとでも?」
「何でもない」 ことはないから、小さな声で。
「まさか、大男を一撃で気絶させたのではないだろうね。あの時のように」
「そんな事しない」
 あの時は、あなたがいきなりいやらしい顔してシャワールームに入って来たからよ。正当防衛だわ。
「ところでスミカ。大事な質問があって電話をしたんだ。訊いてくれるかい」
「はいどうぞ」
 ジェイムスは――「いい曲だろ。故郷を歌った歌さ」
 珍しく酒に呑まれてた、ヒロキの歌を思い出したのだ。
 その歌は固有名詞が連発する歌詞で、、、詰まったウンチを出す時のような踏ん張りと、熱いバスタブに飛び込んだ時に上げるようなロングトーンの繰り返しの、耳にしたことのないメロディだった。
 ロッキーは、 「マスターしろ」 そう言って何度も強制的に覚えさせようとしたが、異なる文化を思い知らされただけでボクには無理だった。だが歌詞はうろ覚えだが、頭の片隅に、ブツ切りに焼き付いている。
「オンセン・険しいヤマ・キャッスル(おしろ)(お城)。近くに海。カマボーコとエキデンが有名。それに町の名前の始めに 『ハコ』 がつく、日本の町と言えば」
「クイズ? 懸賞にでも応募するつもり?」
「クイズと言えば、そうも言えなくはない」
「倍率高いと思うわよ。日本人の半分は知ってると思う。東日本なら八割以上、神奈川県民なら100% 。最後のあれ、 『はこ』 っていうヒント。当ててくださいって言ってるのと同じよ」
「教えてくれないかいハニー。心の準備は出来てる。何も気をつかわないで」
「箱根よ」
「ウ。もう、ひとつだけ答えてくれないか。ハコダーテという可能性は? 有るとしたらどのくらいのカクリツだい。もちろん君自身の見解でかま、」
「函館の可能性? ある、」
 ! ロッキー。ボクはトイを信じてよか、
「としても1%以下。って言うか限りなくゼロ。あり得ない。応募するだけ損だと思う。その懸賞」
 ――「絶対函館だよ!」 。ボクは責めたりしないよ、トイ。君は悪くない。ボクが早くヒロキの歌を思い出していれば、こんな事にはならなかったわけさ。
「もしかしたらジェイムスあなた、箱根か、函館にいる」
「忘れてしまったのかいスミカ。ボクはさっき、アラスカだと疑いなくなると君に、」
「函館にいるのね。良いなあ。夜景見た? 何か美味しいもの食べた? 」
 スミカ。ボクはそれどころではない、
「海のものがお勧め。エゾバフンウニ。食べたいなあ」
「何だって? 日本人は馬の糞を食べるのか。こりゃ驚いた」
「そうよ。なかなか食べられないんだから。是非食べてみなさいよ」
 馬の糞なら、アリゾナにいやというほど有るからね。 「ああ。探してみるよ」
「これからの予定は? 札幌、旭川、小樽、網走、知床半島、北海道にはたくさん見るところがあるのよ。羨ましいなあ、北海道。良いなあ、函館」
「悪いがスミカ。ボクにとってロッキーのいないこの町は、北極と同じさ。ボクにはロッキーとの再会の他にも目的が、」
「ジェイムスはロッキーさんに会いにきたんですものね。早く箱根で会えると良いわね。祈ってるわ。じゃあ仕事中だから、」
「最後まで聞いてほしいな。スミカ」
「短めにお願いね。はいどうぞ」
 ロッキー、ボクはラッキーだったかもしれない。なぜならキトの故郷はハコーネ。そして親友の君も同じ……。
 ジェイムスの頭に、ビジネスホテルのベッドに横たわるキトの姿と、じっと椅子に座って寄り添うトイの姿が浮かんだ。
 ロッキー。ボクは、厳寒の北海道でキトをひとり置いていくわけにはいかない。なぜならロッキー。ボクは彼の弾くギターを聴いて、彼の『迷い』 を感じたんだ。キトは無理やり自分で自分を納得させようとしているだけ。ハコダーテこそが、自分の死に場所なのだとね。
 彼の本心は愛しい人の元へ帰ることだ。ボクにはわかる。君にも分かるはずだロッキー。本物が奏でる音楽、つまり最高のプロフェッショナルミュージシャンは、嘘っ八の虚無な音を出せないということをね。
「もしもし。切るわよ」
「ボクはキトをハコーネに帰す。君に会うのはそれからになる。分かってくれるね」
「今仕事中なの。夜にでもまた、」
 河合さん!? 君、外国人と夜に会って何を。
 福間が一歩澄香に近寄って、携帯から洩れるジェイムスとの会話を聞き取ろうとする
「I need your ××××」
 告白? 求愛?
 耳をそばだてる。
「Save」 = ライフセイバーのセイヴ。救う?
「His」 = 彼女。いや彼か。
「Life」 = 人生または命だったはず。
 
 
「いや~っ! やめてお願い! そんな事しないでっ。させないでえ!」
「河合さんっ、河合さん!」
「触らないで近寄らないで! 消えて消えて消えてっ!」
「河合さん!!」
 えっ。私……。
「また、現れたんでねアイツが」
 もう大丈夫だと思っていたのに。
 福間と澄香を乗せたワゴン車は羽田に向かう首都高を走っている。ジェイムスとキト。それにトイを空港に迎えに行くためだ。
 J・Wジムに行って、私は変わったの。(ほぼ) すべての財産を投げ打った代わりに、私は世界最強軍隊元鬼軍曹直伝の、最強格闘術を身に着けた。
 と思っていた。でも、自分善がりだったのかもしれない。私は妄想の中で、こんなにもアイツに怯えているのだもの。
「忘れさせてほしい」 誰かに。
 澄香は額に手をあてて俯く。
「河合さん。今なんて」
「もう、ひとりで生きていく自信、ないよ」
 心の言葉が口から漏れ出ていることに、澄香は気づかぬまま、窓ガラスに身をあずけ目を閉じる。春を思わせるやさしい陽のひかりに、澄香はまどろむ。
「河合さんを苦しめる奴はただじゃおかない。僕が解決する。安心して」
 福間の言葉は離陸する飛行機の轟音にかき消された。
 キトとジェイムスとトイの三人を乗せた飛行機が機体の向きを変え、着陸態勢に入った。



    VS


 大男・中肉中背・学童期様体型。
 羽田行きの機内は思いのほか空いていた。エコノミークラスを選ぶことに危惧していた三人だったが、最後列の五人掛けシートを占拠し(CAの配慮のおかげで)、気分よく空港に到着することが出来た。
 キトの体調は良い。空港到着後も 「自分で歩く」 と言い張ったが、ジェイムスとトイの説得に折れて、函館のリサイクルショップで手に入れた車いすに大人しく座っている。 
「吹きたくならないか。ブルースハープを」
「ボクはいま戸惑っている最中でね。すぐそこは海。なのになぜ、潮の香りがしないのだろうか。とね」
「こんなものだよ。この辺りの海は」
「北海道でなら、存分に味わえたのにな。悪かったジェイムス。トイ」

「ジェイムスぅ~!」
 目ざとくジェイムスの姿をみとめた澄香は、助手席のドアを勢いよく開けターミナル出口に向かって駆け出す。
 ジェイムス。あなた言ってたわよね 「天の神は人それぞれに役割を与えて、この世に送り出すのさ」 って。あなたの役割はその身長と体格、熊のような容姿。こんなに離れた場所からでも見つけられるもの―――神様に感謝しなさい。
 そんな事を考える余裕がある。いいえ、さっきまでの私は悪い夢の中にいただけ。大丈夫よ。あなたは。
「オウ! ダーリンハニー」 そんなにムキになって走ったりして。それほどまでにこのボクに、会いたかったのかい。
「トイ。キトを頼んでいいかい」 返事を待つことなくトイに車いすをあずけて、ジェイムスは走りだす。
「トイレ寄ってから行くね~。ぼくたち~」
 トイの声などジェイムスの耳には入らない。
「ハニー」
「ジェイムース!」
 距離が詰まる。澄香のほうからジェイムスに近づいているのが、ワゴン車の脇に立つ福間からも分かる。
 あんなに無邪気になって。彼が羨ましいよ。
「ジェイムスぅ。寂しかったの。いろいろ有ったの」
 J・Wジムに入門してからの激動の記憶が一気に蘇った澄香は、人目も憚らずジェイムスに抱きついた。
「ハニー。ボクに会えた喜びと、会えずにいた寂しさで、混乱しているんだね」
「くじけそうだった。壊れそうだったの私」
「君を帰してしまったボクのせいだ。もう離さないよ、スミカ。いや離れられないと言ったほうが正しいかもしれない。なぜか分かるかい? 愛は、真実かつ永遠だからさ。 そうボクらは愛し合う、」
「わ、分かった降ろして」
 なんかヘンだぞ、あのアメリカ人。
 福間は目を細めて、二人の抱擁する姿を眺める。
「最後まで聞いておくれよスミカ。なぜならボクらは愛し合う運命にある、いや愛し合うことが天命だからさ。神はふたたびボクらを結びつけた。別離を許されなかったのさ。神のみこころに逆らうのはもうやめて、ボクらは従うんだよ。つまり神は、愛し合う為にボクらをこの地に誕生させ、」
「離して」 気持ち悪いわよ、
「いやだ」
「長いよ。いくら何でも」 福間はワゴン車のオートロックボタンを押し、ふたりに向かって疾走する。
 11秒30 / 100m の自己ベストを叩きだしたのは今や昔。思うように足が回ってくれない。
「神の愛に背いたらいけないよスミカ。なぜなら神こそが愛だから」
「いい加減にして! あなた二か月前より、」
「情熱的だろ」
「気持ち悪くなっ、」
「いい加減にしろ! 離せよ!」
 あ。福間、新次さん。
「このままでいよう。永遠に」
「胸、苦しいの。気持ち悪いのよあな、」
「ボクは最高だよ。君の柔らかな、」
『ハァオッ!!』
 澄香のヒザをみまったジェイムスが、膝からくずれ落ちる。
「オ~ウ、ハ~オ、ハーウゥゥゥ、もう少し、右を、狙うんだよ、スミ、ァァアウゥゥ」
「気絶させたくなかったの。忙しいから」
「アー・ユー・オーライ?」
 背中を丸めてもがくジェイムスに福間が訊く。
「ノー・プロブレム 意識はある。でも、大丈夫ではない」
「今度変なことしたら承知しないわよ。分かった?」
「君にやられるなら本望さ。スミカ」
「永遠の眠りにつきたい? 今ここで」
「イエス。ノー・サンキュー」
 ジェイムスが片膝を立てたのを見て、福間が肩を貸す。
「サンキューボーイ。君がスミカの、DV野郎かい?」
「職場の先輩。新次福間さん。ジェントルマン <DVなんかする人じゃない> よ」
「だと思ったよ。よろしく。フクーマ」
「ところでウォルシュ氏。キトさんとお付き添いの方は?」
 澄香がターミナルを見渡しながら訊く。
「便所だ。ウォシュレットに夢中なんだろう」
「あの人たちじゃないか」
 福間が指さす方向に、車いすの二人組がいる。
「ああそうだ。こっちだ! カモン、トイ」
 ジェイムスは腹を押さえながら叫ぶ。目を見開いている澄香を、福間だけが気づいた。
「スッキリした顔じゃないかキト。シャワーでも浴びてきたのかい」
「ふん。お前もだジェイムス。気圧の変化のせいだろうか。青ざめて見える」
 どこまで運が悪いの私。目の前にいる、
 コイツは―――小山田富夫。
 私を苦しめ、傷つけ、痛めつけ、なじり人間扱いしなかった、元夫。最低最悪のDV男だ。
 < 言われなきゃ何も出来ないのか! 脳ナシ女! > < 許可なく喋るな! 食うな! 泣くな笑うな! > < 犬のエサ食わせる気か! バカ女! > < ほら脱げ! して欲しいんだろ! 脱がしてほしいのか、この淫乱女っ! >
 仕事を辞めたヤツは、、私を痛めつけることが仕事と言わんばかりに、朝から夜中まで暴言を吐き暴力を振るい、私の自由を奪った。
 私は、小山田と小山田の呪縛から逃げる道でなく、戦う道を選び人生を賭けた。ヤツを倒す為にほぼ全財産を投げ打って渡米し、J・Wジムで鍛錬を積み、最強格闘レディの称号を手に入れた。
 そう。私は、最強を証すことでしか、忌まわしい過去を清算できないのだ。コイツを倒すことでしか心の闇は晴れない。人生は動き始めないのだ。
「紹介しようか。キトだ。函館で出会った、気のいい最高のミュージシャンさ」
 腹をさすりながらジェイムスが言うと、キトは無言のまま手を挙げて答えた。
「彼はトイ。ニックネームはトミー。ボクのジム、最後の練習生。格闘技の達人だ」
「そして彼女が、」
「メス豚! 勝手に離婚届出して突然消えやがって、ご主人様の許可も得ずにどういうつもりだ!」
 トイが叫んだ。
「ホワット? 結婚してたのか君は。しかもスミカと。こりゃ驚いた」
「お、お前が河合さんを苦しめた、DV野郎かっ」
 福間がトイを睨みつける。
「DV? バカ言うな。この女がバカだから躾けたまでだ。自分の女房を躾けるのは当たり前だろ!」
 トイは車いすを持つ手を放して澄香に一歩、歩み寄る。
「トイ、君がスミカのDV男だったとはね。信じられないよボクは」
「この野郎、僕は許さんぞこのヤロー」
 福間は我慢できず、トイに掴みかかろうとする。と、
「いい」
 澄香が右腕一本で福間の行く手を遮る。
「手を出さないでっ。私の敵に」
「どどどどういう関係なんだよお前ら。不倫相手かこの男は。不倫したのか。やったのか、やったんだろ、やったに決まってる。赦さんぞぉ、 赦さないぞぉ、このメス豚女!」
 トイの怒りは最高潮だ。いつ澄香に突進してもおかしくない。
「やめるんだ。トイ。君は、」
「分かってるよジェイムス。女を守りたいと言ったから指導した、女を痛めつける為じゃない。そう言いたいんだろ」
「良いことを言うじゃないかトイ。君の言う通り。分かっているなら、尚更やめることだ」
「この女はぼくのものだ。もう絶対に逃がさないんだから」
「トイ、もう一度言っておく。やめておけ。なぜなら、君はスミカには勝てないからさ」
「ス、スミカに、勝てない?」
 トイが頭二つ分上のジェイムスに視線を移し、首を傾げる。
「ああ。J・Wジム史上最強の戦士、サムライレディと君は戦おうとしているんだよ。君に勝機はない。有るとしても0%。つまり君は、100%以上の確率で敗北する運命にあるんだよ」
「ぼぼぼくは、二週間もジムで練習したんだ。負けるわけないよっこんな女に」
「スミカは二か月。二メートルの大男を一撃で葬るキックは圧巻」
「ぼぼぼ、ぼくにだって出来、」
「物理的に無理。君には」
 ジェイムスが両手を上げ首を振る。
「出出出出出、出来るよ」
「ゴーホーム。トイ」
「出、出来るって」
「認めるんだトイ。負けを」
「出来るってばっ! 勝てるよっ!」
 ―――シュウッ!
『ビュウンッ!』
 澄香のハイキックがトイの頭上の遙かうえ、ジェイムスの頭をかすめて風を切った。
「ワォ」
「ひぃっ」
 二人から同時に悲鳴が上がる。ジェイムスは若干嬉しそうだ。
 澄香は半歩足を前に出し、とどめを刺す構えをとる。 「ゴートゥーヘル」
 地獄へ落ちな。おもちゃ野郎。
「スミカそれまでだ」
 ジェイムスがトイの前に立ち塞がる。
「どいて」
「ボクは君を、殺人鬼に育てた覚えはない」
 殺人鬼? 「ひいっ」
 私のキックは凶器。私のキックがまともに入ったら、コイツは死ぬ。こいつが死んだら、私は、、、殺・人・犯。
 <おびえてっぺよ。痛えぞお。やる方も、やられる方も>
 るかおばちゃん――。
「スミカ君は、トイが耳を患っていることを知っているのか」
 耳?
「トイは左耳がまったく聞こえない。右もどうにか聞き取れるか。その程度の聴力しかないんだ。知っていたのか。知らなかっただろうね。彼は嫌われる事を恐れて、誰にも話せずにいたのだから」
 そう、だったの。
 だからって、あんなにまで酷いことを、
「トイ。君はスミカに言うことはないのか」
「ごめん。ごめんよ、いっぱい辛い思いをさせてほんとうにごめんよ。ぼく生まれ変わってやり直すから。その為にジェイムスのジムに行ったんだもの。死んだつもりでやり直す、だからチャンスを、ちょうだい。もしダメならぼくを……殺して」
 コイツを倒すだけなら他に方法はあった筈だ。
 動機や目的が何であれ、ヤツを倒す力を身に着けるという希望を、私は叶えた。いいえ、希望以上の力を身に着けたのだ。いいえ、身につけてしまったと言った方が正しいかもしれない。
 だからもう……いいわ。赦せないけど。赦せはしないだろうけど。赦す気もないけど。
「オレの乗る車は、あれか」
 キトが澄香に向かって言う。
「え。あ、はい」
「もう、いいだろ。押してってくれ、トイ」
「うん」 
 トイが車いすの後ろに回ってハンドルをにぎる。
「キトさんのこと、しっかり見ててよジェイムス。And Toy」
 澄香は言って、福間につづいて歩き出した。滑走路を走る飛行機が機首をもたげ、飛び立とうとしている。

 

    刻まれし記憶


 澄香は、シェルターの201号の自室と、204号すくい・たい事務所の台所を行き来して作り終えた朝食を、衣装ケースに乗せて階段を下りる。一時入居したキトとジェイムスと三人で、食事をするためである。 
 羽田から箱根に向かう筈だった澄香ら一行だったが、横浜に入ってすぐにキトが車内で意識を失い、病院に急行せざるを得なくなってしまった。
 二日間入院しキトの病状は安定したが、ガンの進行の関与が疑われる記憶障害によって、認知が曖昧となったキトは、付き添いのジェイムスと共にシェルターへ一時入居することになったのであった。
 こん、ここん。
「開けて」
 ♪ プ~、ピィウープ~
「開けて。ジェイムス」
 ♪ プゥ~プ~ププー
 学習能力のない男。んもう。
 澄香は右足を伸ばし、横に長いドアノブをつま先で下げ手前に引く。
「やあ。オハヨウ、スミカ。待ってたんだ。今日のメニューは、Loveかい」
 何それ。面倒くさい男。
「これはキトさんと私の。食べたければ自分で持ってきなさい」
「ああ、そうするよ。スミカの部屋に、あるんだよね」 クククク。
 面倒くさくて気持ち悪い男。いいわ、もう。
「先に食べてて。取ってくるから」
 階段を駆け上がる澄香の足音が軽い。
 ♪ プゥ~。ププププ―。ピィープゥ~
「お待たせ。それで、どう? 具合」
屋根裏(ロフト)にいたせいかエアコンの風のせいか喉をやられたようだ。頭が痛むんだ」 あなたじゃないわよ。
「それは心配ね。食後に風邪薬飲みなさい。それでキトさんの具合は?」
「キトなら心配いらない。夜二時間おきに目を覚まして歌ってるよ。新曲かもしれない。こんな具合にね」
 ♪ アア~。ワハヒ、リューメイヨ、ミヘイル、ハへハンダドゥ~~~
「やめて。寝てる人がいるのよ」
「なにぃ。まだ寝てるやつがいるのか、呆れたもんだ。もう8時を過ぎてるじゃないか」
「寝てるじゃない。キトさん」
「おお忘れてたよ。でもスミカ。眠ったままでは食べられないだろ。キト、とびきり上等のブレックファースト <朝食> の時間だ。さあ起きれ」
 ジェイムスがキトのタオルケットをまくり上げる。
「寝かせておいてあげて。お願いだから」
「食べなければ元気が出ないぞキト。起きるんだ」 ♪ プププ、プ~!
「ここは楽器演奏禁止。もうやめて、ハーモニカ吹くの」
「スミカ。忘れてしまったのかい。コイツはハーモニカではなく、」
「聴かせてくれ。ブルースハープを」
 キトは言って、半身を起こそうとする。
「オハヨーキト。朝食を済ませてからでいいかな」
 ジェイムスがキトの背中を支えながら言う。
「ふうー。もちろんだ」
 ひと言口にするのも辛そうだ。
「はい、キトさん。美味しいわよ」
「ん? ああ」 誰がキト、だ。
 オレか。
 キトはどこを見ているかも分からない目を、澄香が手にしているトレイに向けた。
「美味そうじゃないかキト」
 すり潰したミキサー食と粥を目にしたキトの表情が、みるみる変かしていく。
「キ、トさん?」
「あ、ああ、あああか、」
「どうしたキト。好物を目にして驚いたのかい」
「あ、あ、ああ。かか、か。あかあかかか、ああかえ。ええ」
 キトに昨夜までのような呆けた様子はない。何かを思い出そうとしているのだ。
「それとも、君がつくった新曲かな」 ♪ ぷ~、ぷ、ぷ~ぷぷ、ぷぷぷー
 ジェイムスがキトのぶつ切りの言葉に合わせ、ヒーリングミュージックのような旋律を奏で始める。
 ♪ ぷーぅ、ぷぷ、ぷー
「禁止って言ったで、」
 続けさせてほしいな。ほら、もう少しでキトが、
 ♪ ぷぷー、ぷ~ぷ、ぷー
「ああ、え? ええ。ねねね。あ、かか、ねね」
 ♪ ぴゅうぃ、ぷゅー
「あ、かかか、あかか。あねねね」
 ぷぅー、ぷぷぴ、ぷ~♪
「あ。か。あ、かね。あかね。アカネ。茜か。茜か! アカネだ!」
「思い出したのね」
「コイツ(ブルースハープ)も喜んでるよ。役に立てたことをね」
「あ・か・ね、さんね。誰? 奥さん?」
「オレは結婚なんかしちゃいねえ。オレは女を幸せにしてやれる人間なんかじゃねえ。オレには親になる資格なんかねえ。オレは結婚して親になる資格がある人間だなんて思うほど正しくもなければ、バカでも恥知らずでも勘違い野郎でも、」
「わわ、分かった分かりました分かったから、落ち着いて。落ち着いてくだ、」
「アカネは嘘つき大ボラ吹きだ。どう見たってAカップ。なのにEだなんて平気な顔して言う大ウソつきだ。アカネはA、Aに決まってる。いやAもあやしいぞ、オレと同じ、いやオレのほうがあるかも――」
「それはひどいな」
「アカネはオレを赤ん坊扱いするんだ。だから言ってやった。乳出せ乳飲ませろって。そしたらアカネはこう言いやがった。粉ミルクと哺乳瓶買ってくるから我慢しろだなんて。アカネはオレをバカにしてるんだ赤ん坊扱いするんだ。はぁはぁ、」
「何だか楽しそう」 聞こえないように言うスミカは嬉しそうだ。
「はぁはぁはぁ。でもな。でも、いい奴、なんだ。アカネは」
 喋り疲れたキトは肩で息をするが、表情は明るい。
「疲れたか、キト。だがいい顔をしてるぞ。君は」
「楽しい暮らし、してたみたいねキトさん。さっ、少しでも食べて、アカネさんに元気な顔みせないと」
「粥は食わねえ。ねちゃねちゃもだ」
「嫌いなの?」
 食卓を整い始めた手を止めて、澄香は訊く。
「粥は好物だ。だがさんざん食わされて食い飽きた。ジェイムス。お前が食え。日本でしか食えない貴重な和食だ。こいつを食えば健康体になって女にモテる」
「スミカもそう思うかい」
「スリムになったらいい男よ」
 キトさんの好きにしてあげましょ。ジェイムスはスミカの思いに気づいた。
「ありがたく頂くとするか。ニッポン限定スペシャル和食料理を」

「それでキトさん。少しづつ思い出しているんだね」
 福間と澄香のふたりは市の福祉事務所に来ていた。未だ自分の名前さえ思い出せないキトを、すくい・たいとしてどう支援していくか。協議するためだ。
「少しづつと言うより、はっきり思い出すこともあれば、思い出したことをすぐに忘れたり、自分が誰かさえ分からないこともあったり。はぁー。キトさんのからだの中で何が起きてるのか見当もつかない。やっぱり入院するのが、いちばんいいのかも。キトさんにとって」
「函館で倒れた時も病院に行かなかったと言うんだから、説得しても聞かないだろうな。キトさん」 ふーぅ。
 シェルターでは、重篤な病いで記憶が曖昧なキトを澄香が専任で担当することになった。身元を証明するものを持たないキトを救うには、親族を探し出して帰すか、キト自身が記憶を取り戻すのを待つかしかない。ふたりはやり切れない思いで、ため息をつくばかりだ。
「痛まないのかな」
 ガン患者ということの他は何も話さないキトに、福間は尊敬にも似た感情を覚えるようになった。 
 どこまでが自らの意思で話をしないのか、どこまでが、記憶障害によって話せないのかは分からない。だがキトは嘘を言ってはおらず、語らないことが皆にとって最善だと思っている節がある。
 いつも明るく、自然体で人を喜ばせようとする姿に、福間は心打たれるのであった。
「あかねさんっていう方。きっと、キトさんに似た人だと思う。会ってみたいなぁ」
「昨日の話の人だね。キトさんに似てる人ならきっと、」 
「みんなに慕われる人ね」
「みんなに慕われてたんだろうな、キトさんも。会わせてあげたいよ、みんなに」
「待ってる筈だわ、キトさんのことを」
 箱根と音楽と 『あかね』 とガン―――。
 キトの手がかりをふたりは口に出せなかった。手がかりが乏しすぎるからだ。
「シェルターの環境、病気のキトさんには、決して良いとは言えな、」
「あっ。ごめんなさい」
 澄香が胸ポケットから携帯を取り出し、フリップを見、
「ジェイムスから」 体を斜めに向ける。
「ビッグニュースだハニー」
 興奮を隠さない短い言葉に緊張が走る。
「今、トイが詳しく話す」
「ちょ、ちょっと待っ」 トイに対する嫌悪は、簡単に消える筈もない。だがジェイムスは、いつものジェイムスではなかった。ビッグニュースであることは確かなようだ。
 ―――ジェイムスから話してよ。お願いだよ。
 ―――君が手に入れた情報だろ。君が話さないでどうする。
 ―――関係ないだろ。別にぼくは手柄にしようだなんて思ってないもの。お願いだからジェイムスから……。
 んもう。何やってんの二人して。子供みたいに。
 ―――やっぱり無理だよ。絶対に。
 ―――絶対という言葉は使わないと約束したはずだ。君は忘れてしまっ、
「いい加減にしなさいよ!」
 官舎の職員と来訪者の目が、澄香に注がれる。澄香はお構いなしだ。
「何があったのっ。男だろ、さっさと言え!」
 相手がトイであることを、福間は理解した。
「もしもしぼくだよ。キトさんの事だから我慢して聞いて。お願いだから」
 澄香は携帯に耳を傾ける。携帯ひとつ挟んで、福間の顔が隣にある。
「ホワット?」
 ―――分かりそうなんだよ、澄香。キトさんがどこに居たのかが。
 気安く呼ぶんじゃないわよ。
 澄香は携帯から耳を遠ざける。でも、キトさんの話し、でも……。
 ―――聞こえてる? 澄香。
  やっぱりダメ。
「ウエイト・アモーメント <お座り、待~て>」
 待ってアモーレ? 待ってて、愛する人!? まさかあいつと縁りを戻そうなんて。
 福間は澄香の携帯電話を奪って耳にあてる。
 ―――、急いでるんだよ澄香。一大事なん、
 声変わりしていない子供のような声が、不快だ。
「福間だ。僕が澄香さんの代わりに話を聞く」 すみか、さん?
 ―――お前、何なんだよぼくの澄香を澄香なんて呼びやがって。ただじゃおかないから。
「よ・う・け・んは何だ。僕らはこれから人と会う約束がある。手短に簡潔に願いたい」
 ―――くっそー。キトさんのことだから仕様がないけど、絶対に勝負しろよ。逃げるんじゃないぞ。分かったか。もし逃げたら、
「そーゆー君の態度が、澄香さんを苦しめて来たのが分からないのか君は。僕はさっき、手短にと言ったんだ。早く言え!」
 ―――覚えてろよ。とにかく、キトさんの詳細言うからよく聞け。キトさんはな、ハコはハコでも函館でも箱根町でもなくて箱根町の隣の小田原市の箱根という名前が入る箱根ホニャララという町で暮らしていたんだ。絶対間違いないよ!
「簡潔にと言っただろう。嫌がらせのつもりか君は」
 ―――ちゃんと聞いてないのが悪いんだろ。これ以上かんけつになんか言えないよ! もう一度言ってやるからよく聞いておけよ。もう一度だけだぞ。
 トイの話を簡潔に言えば、キトは以前、小田原市の箱根××という名の町で暮らしていたとう。
 ―――それでこれから、ボクは澄香と一緒に箱根ホニャララに行く。知り合いの人を探し出して、シェルターに連れてく。迎えに行くから待ってるように、お前から言っておけ、分かったか。
「今夜は深夜パトロール。会議後澄香さんにはゆっくり休んで貰う。だから澄香さんは行けない。行かせない。それより君の情報は、信ぴょう性があるのかい」
 ―――バカにするんじゃないよ! 何様のつもりだよお前。まあいい。悔しいだろうけど大有りも大有り。事実なんだから。
「もし間違っていたらどうする。 成果を得られなかったらどうする」
 トイが言葉に窮する。頭の中で、澄香を罵倒する自分の姿が浮かんだ。
 ボクは変わるんだ。変わりたいだ。変わらなきゃいけないんだ。
 ―――もし違ってたら。ぼ、ぼくは、澄香の前から、消える。

 トイの話によると――。
 何をするでもなくシェルターで過ごしていたジェイムスが、
「聴いてくれよキト。ボクとロッキーのお気に入りの曲を」
 そう言ってブルースハープを奏で始めた。
 すると、
「♪ ユーロスト、ユアカラー、When you Painted、ザ、タウン……」
 キトは目を閉じたまま、病人とは思えない完璧な発音と声量で、歌い出したのだと言う。
 その曲のタイトルは、 『Second Hand Store』
 キトの反応に <何かある> と感じたトイは、スマホを駆使することを十五分。検索に検索を重ねた結果、小田原市箱根ホニャララの、 『純喫茶セカンドハンド』 に行き着いたのだった。
―――絶対にキトさんに関係あるお店なんだ。間違いないんだよ。多分。
 福間の体に触れるかという距離で耳をそばだてていた澄香は、苛(いら)立ちを抑えきれなくなり、
「ストア、入ってないじゃないのよ」 携帯に向かって言った。
「だけど澄香」
「あんたはいっつもそう。自分は正しい、間違ってない。絶対に多分。何それ。そんなんだからみんなから嫌われるの。ちょっとは自分の思考言動行動を省みたらどうなのっ」
 ―――ぐすっ。
「泣くなよ。泣いてないで確かめるんだよ君が。結果を出して証明してみせろよ」
 福間の言葉はトイに対する蔑みではなかった。教育的叱咤と激励。福間はトイに奮起して欲しかったのだ。
「ぼく、泣いてないよ」
「なあトイ。間違ってたって責めやしない。だから一歩、踏み出すんだ」
 トイが持つスマホ画面に、大粒の涙が落ちた。



    その足を一歩


「帰ろっか。お家に」 
 里絵は、お腹の子に語りかけて校舎を出た。
 あなたがいるから大丈夫。あなたがいてくれるから。もうすぐ生まれる我が子が、どんな困難も乗り越えられる力を与えてくれている。胎児の成長の実感とともに、里絵はそう思うようになった。
「あ」
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、里絵は振り返って、今出てきたばかりの白い校舎を見た。 生徒たちの喧騒が校舎の窓ガラスを通り抜け、風にのって校庭に広がってゆく。
「お母さんはね、高校生なのよ。休み時間になるとね、お母さんのまわりを、クラスの子が走りまわるの。元気いっぱい」
 生徒と顔を合わせない時間に―――。
 武田先生の配慮は嬉しかった。 「でもやっぱり、淋しいな」
 お腹の子に聞かせないように、心の片隅で小さく言った。
「だめね、こんなお母さんじゃ」 
 校門まで来て、もう一度校舎を振り返る。ガラス窓のあちらこちらに冬の陽光が反射して眩しい。真冬だと言うのに、普通科の生徒がテラスに出てきて、何やら燥いでいる。商業科の校舎は、新しい校舎に隠れてここからは見えない。 「門を抜けて、少し坂をのぼると見えるの」
 敷地を出て左に折れ坂道を上がる。もしも雪が残っていたらと考えると、少し怖い。
「ほら、背の高い校舎のいちばん上に、男の子が立ってるでしょ。あそこが、お母さんがお勉強していた、教室よ」
 言いたいな、この子に。ここがお母さんの母校よって。
 ―――週に三日。午前中だけでも来られないか。なるべく早く。
 もう臨月だから、当分無理なの。来れないの。
 どうにかして……来ればよかったな、学校に。どうにも出来なかったけど。どうにかしないとなんて思う余裕、なかったから。 「あら」、ふふふ。
「ごめんね。愚痴なんか聞かせちゃって」
 我が子が怒って蹴ったのだと思い、里絵は優しくお腹を撫ぜる。 「励ましてくれたのね」  
 武田先生ね、がんばってくれてるんだよ。お母さんを二年生にさせようって。先生はね、クラスの子がみんな揃って、卒業してほしいと思ってるの。
 ―――仮にだ。仮に留年したとしても、学校は辞めるんじゃないぞ。いいな。
 お母さん学校を辞めたいだなんて思ったことないよ。何年掛かったとしてもお母さん 「卒業するからね」
 ―――赤ん坊は職員室で預かれるようにする。授乳もオムツ交換もできるようなスペースを作って、先生たちも交代で見るようにするんだ、保険の先生もきて貰ってな。だから出産後のことは心配するな。胸を張って通えるようにしてやるから、胸を張ってくればいい。
 やさしいね。一度もお母さんのことを、責めたり叱ったりしないのよ。お母さん、学校が好き。教室が好き。みんな大好きなの。
 みんなの笑い声、ひそひそ話す授業中の声、大っきな声も騒がしい声も大好き。
 窓から入る潮風の香り。遠くまで広がる景色。小鳥たちの歌、椅子を引く音。黒板につづるチョークの音も、お腹の鳴る音も、ふふふ。みんなぜ~んぶ、大好きなの。 
「みんな遅くなるんだって、今夜は。帰ってくるまで、いっぱいお母さんのお話し、聞いてね」
 小山の頂上までもうすぐだ。明るく囀る鳥の声が明るい。頂上から見える風景をお腹の子に見せてやりたくて、早足になっていた。うふふふ。茜の顔が浮かんだ。

 
 ―――ピンポンピンポンピンポンピンポンピポピポピポ、
 うるさいなあ、何度も何度も。
 病状の思わしくないキトの傍らで食事の介助をしていた澄香は、器を置き無言で立ち上がる。
「ゲリラ兵かもしれない。ボクが出よう。君には、遊撃戦の闘い方は伝授していないからね」
 元鬼軍曹ジェイムスが四肢を床につけて重い体を支えながら身を起こそうとする。
「気持ちだけで嬉しいわ。ありがと」
 澄香の足では、玄関扉を開けるまでに五歩あれば十分。突撃隊員の可能性など万が一にもないが、念のため足音を忍ばせて。
 やっぱり。
 覗き穴の向こうには、ベビーコーンに顔を載せたような男が。元夫小山田富夫、トイだ。尻つぼみの満面焦燥感いっぱいの顔で、腕を斜めに伸ばして呼び鈴を押しつづけている。私に襲いかかる時と同じ表情は、ジェイムスの気持ち悪さの比ではない。束の間、海兵隊鬼軍曹を呼ぶか迷う。私のイライラは噴火寸前のマグマの如くたぎっている。
 勝負? いや、こんな男相手に勝負も何も、
 ―――ピンポンピンポンピンポンピ、
「うるさいわよ! 病人がいるのわかってるくせに何度も何度も何よっ!」
 澄香の目は目ざとくトイのレバー(かんぞう) <肝臓> をとらえる。
 男の身動きを止めるにはアソコを狙うのが有効。だけど且つ黙らせるには、殺すか、気絶させるか、渾身の一発をレバーたたき込むかだ。ジェイムスで実証済みだから(殺すこと以外)間違いない。
「ご、ごめんよ澄香。連れてきたんだよ。茜さんとヒロキさんと文音ちゃん。言った通りだろ、やっぱりハコはハコでも箱根町じゃなくて、」
「遠いところをわざわざ。さ、どうぞお入りになって」 一瞬にして人格を変えられるのが、女の特権。覚えておきなさい。トイに意味深の目を向けて、澄香は三人を招き入れる。
 それにしても、コイツとどんな話をしたのだろうか。トイに着いてくる気になったことが、澄香には不可思議でならなかった。
「入ろうよ。狭いとこだけどさ」 まるで自分の家のように言って、トイは靴ひもをほどき先導する。
「ふつうのアパートなのね。シェルターとは言っても。コンクリート剝き出しの窓もない妖気なとこかと思った」 ―――この人が、あかねさんね。
 茜の横顔を見た澄香は、思い描いたような闊達な人だと思った。記憶が曖昧なキトが、真っ先に思い出したことが納得できる。
 トイのあとを、茜、ヒロキの順でつづき、文音は三人の靴を揃え、最後に自分の靴の向きを変えてから、
「おじゃまします」
 壁にへばりつくようにして微笑む澄香に言って、部屋に入って行った。
「ジェイムス、キトさん。こちら、」 トイが三人を紹介しようとすると、
オーマイガー(うそだろ)!」
 ジェイムスは立ち上がって叫んだ。
オーマイグッネス(しんじられない)オーマイワード(こりゃおどろいた)! 会いたかったぞロッキー!」
「どうしてここにいる」
「君に会、」
「キト! お前、連絡くらいしろよっ」 ヒロキはめずらしく声を荒げた。
 ロッキー。君は相変わらずクールだ。
「ロッキーの正体は、お前だったのか。確かにデカいがな、グレートダイヴァイド <ロッキー山脈> なみに。ただし縦に」
「ヒ・ロ・キさんだから、ロッキーじゃないの? ジェイムス」
 どうでも良いだろ、そんな小さな事は。 「両方さ」
「話を逸らすなよ。心配、かけやがって」
 ヒロキは声を詰まらせる。
「ああ」 キトは低い声を出すだけだ。
 ワンルームロフト付きの小部屋に八人いるからではないだろう、酸素が不足したと思えるほど、シェルターは息苦しい。
「不思議ぃ。調子よくなったぁ、キトさん」
 ひとり言を言うように澄香は言った。
 これで?
「きっとボクと、ププ~♪ コイツのせいさ」
「きっと違うわ。多少は有るかもしれないけど」
 肩を落とす文音の姿を見た澄香は近づいて囁く 「病院に行ったから、ちょっと疲れてるだけ」
 身元不明のキトではあったが、すくい・たいがキトの支援を決定したことで、市の福祉事務所は、生命の危険が危惧される緊急な状態にあると判断し、早々にキトの通院を許可し保護申請を受理した。医療用麻薬の使用を拒否してきたキトだったが、福間や澄香、ジェイムスの懸命な説得に折れて疼痛コントロールを受け入れ、現在苦痛の緩和をはかっている。
 だが痛みをコントロールしているとは言え、鎮痛薬の及ぼすキトの体への影響は、大きかった。
「お前らまで来たのか、わざわざ」
 茜と文音を見たキトの表情が和らぐ。
「今頃気づかないでよ。そうわざわざ来たの。暇だったし、トイくんがとっても心配してたから。仕方なくわざわざ」
「同じこと、何度も言うな」
 キトの身勝手な振舞いと、無事に会うことが叶った安心感で、茜はふだんの自分を失っていた。 「ふん」
「どうして、北海道になんか行ったの? 心配したんだよ。みんな」
 文音は今にも泣きだしそうだ。
「私は何とも思ってなかったけどね」
 茜はソッポを向いて、無関心を装う。
「何とも思わなくていい。騒ぐことねえんだ」
「勝手。相変わらず」
 いつもの茜と違うことに気づいたキトは、話題を変えることにした。
「生まれたのか。里絵は」
「秒読みってところ」
「お前も、順調そうじゃないか。予定日はいつだ」
 茜のからだを見回すようにして、キトは言った。
「知らない」
「キト。お前、まずは言うことがあるだろ。どれだけみんなが心配したか。どれほどみんなを心配させたか考えろよ」
 ヒロキの言葉に反応せずに、キトは目を閉じる。
 キトの失踪に付き合い 「日野で別れた」 と告げたヒロキだったが、突然キトが行方をくらましたのが事実で、ヒロキとキトだけが知る真実だ。
「おいキト」
 オレが函館で死んでいれば、すべて時間が解決した。
 キトはその事ばかりを繰り返し考えていた。
「悪かった」
 キトの弱さを見た悔しさに、文音は唇を噛む。
「美子は、来てないのか」
 慰めれば文音がどうなるか分かっていたキトは、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。
「どうして美子ちゃんの名前が出てくんのよ。ショーちゃんが先でしょ」
 茜がキッとする。
「美子も会いたがってるよ」
「そんなこと言わなくていいの。臨月の里絵ちゃんが待ってるのに心配して来て損したよ。帰るわよ文音」
「ううっ」
 歯を食いしばって起き上がろうとするキトを助けようと、ヒロキとジェイムスが近寄る。
「大丈夫」
 きっぱりと言って、もう一度キトは挑む。
「ふう」
 起き上がり肩で大きく息をするキトの姿が、痛々しい。ジェイムスは両手を広げ大きく首を振る。そのオーヴァーアクションがジェイムスの思いを表している。そう文音は思った。
「あいつ、一生懸命だろ。どんな時でも一生懸命なんだ。話をする時も、人の話を聞くときも、ギターを練習してる時も、景色を見る時も。いつもな」
 窓側に顔を向け、キトはつづける。
「吃音でよ。小さい頃から、辛い思いしてきた筈なんだ。でもあいつはひとりでも、孤独に押しつぶされはしなかった。辛くても、自分のなかで生きてる自分を捨てないで、懸命に生きる道を探してきたんだ、オレには分かる。吃音が、美子をそうさせたのだとしたら、美子は、宝物を与えられたことになる。そう思わないか。オレは美子に会って初めて、神は存在するんじゃないかって、思えるようになったよ」 ふうぅ。
 キトが長い息を吐く。
「神さまから与えられた宝物か。そうだね」
 美子自身が、神から遣わされた使者なのかもしれない。茜はそんな気がした。 
「キトさんだって一生懸命だと思う、美子と同じだよ」
 ジェイムスはひとりロフトにのぼる梯子の下に行き、壁に寄り掛かりブルースハープを奏で始めた。
 何を話しているのか、ジェイムスには分からない。だが目の前の会話に、人を思いやる愛を感じて、選んだ曲だ。
「懐かしいな、ジェイムス。 『峠の我が家』 か。ストリートから見る夕日が、山の向こうに沈み始めると、決まってこの曲を演奏したっけ」
 ヒロキがキトの隣に腰を下ろすのに、皆が倣う。
「痛むか。キト」
「ん? 楽になったよ。ジェイムスのメロディのお陰でな」
「お薬」 澄香が腰を浮かせるのを腕をのばして、キトは止めた。
「いいんだ。痛みを抑えるのと引き換えに、自分を失うのはもうこりごり。オレはオレのままで居てえんだ。これからはよ」
 自分が誰かさえ分からなくなれば、他人が誰なのかも分からなくなる。キトはそう考えた。
「キトちゃん」
 茜はまっすぐにキトの目を見て言った。甘えたようなその声に応え、キトは茜の目を見、そして思う。
 ―――木藤主任。すみません。寸法を間違えてしまって、ネジが入らないんです。
 見せてみろ。ああこれな。こんな板っぱちにどんだけ穴開けろっつうんだよな。しかも何種類もよ。こんな嫌がらせされたらオレでもミスる。気にしねえで、もいっぺんやってみな。
 ―――ほんとうにごめんなさい。主任さん。
 あの時と同じじゃねえか。
「どうしたアカネ」
「私、仲間になった。キトちゃんの」
「仲間?」
 ブルースハープが、峠の我が家から 『セカンドハンドストア』 に変わった。ヒロキは壁際にいるジェイムスに振り返って、やんわり口角を上げた。
 仲間って?
 文音も聞き耳を立てる。
「私もガン。乳がん」
 茜は自分の左の胸に目をやり、キトを見た。凍りついた室内に、明るいメロデイが流れる。
「でも落ち込んでなんかいないよ私。もうひとり子どもが出来たんだって、思うようにしたから。キトちゃんには分かんないだろうけどね」
 穏やかに話す茜に、キトは安心する。
「子どもは。どうすんだ」
「もちろん産むよ。もうすぐ二十七週。あと三月(みつき)。会うのが待ち遠しいわ」
 お腹の子の存在が、ガン宣告を受けた茜を支えたのだ。
「病院は。治療してんのか、ちゃんと」
「してるよ。キトちゃんみたいにひねくれてないもん、私は。お医者さんの言うことはちゃんと聞いて、抗がん剤治療もやってる。あと一回で終わるの」
「そっか」
 息を吐きながら言い、キトはふたたび横になった。
「小っこくてもなるんだな。乳がん」
「小さいは余計。男の人だってなるんだから」
 窓外にいるかのような暗い空気に包まれた室内が、朝日が昇るように明るくなる。
「膵臓なんてどこに有んのかも分かんねえ臓器よりか、乳がんのほうがまだ良かったよ」
「ショックなんだよ、女にとっては」
「そっか? オレはチンチンのガンだったら良かったと思うけどな」
 目の合った茜と澄香が呆れる。
「俺は勘弁だな。理科の実験か調理実習の材料みたいに扱われるのは」
「それが良いんだろ。ただし、若くて綺麗な女医がいる病院に限るけどな」
「麗しき女性がいる前で何の議論してんのヒロさんまで。呆れるでしょ文音。男って、こういう生き物なの。覚えておきなさい。ショーちゃんは違うけどね」
「照治だって同じだよ。決まってんだろ」
「違うに決まってるでしょ。キトちゃんみたいな永遠の中学生と一緒にしないで」
「幸せなやつだよ、お前は」
「ええ幸せよ」
 何を言っても無駄。キトはしっぽを巻くしかない。 「ところで。どうしましょうか。これから」
 茜が運んだ明るさを壊さないように、澄香は言った。
 課題や問題は山積している。だが茜らがそばに居れば必ず解決の道を辿る。そんな確信が澄香にはあった。
「キトちゃんはどうしたいの」
 キトの好き勝手を非難していた茜だが、やはり本人の意思は知っておきたい。
「ごめんなさい気がつかなくて。遅くなっちゃったけど、お茶淹れますね」
 澄香が立ち上がる。考える時間を与えたかった。
「いいよ茶は。帰っから」
 買い物にでも行くような口ぶりでキトは言う。
「ちょっとぉ、これから?」
 茜が慌て、文音は戸惑う。
 どんな町に住んでいたのだろうか―――澄香のなかに、城下に咲く、桜の風景が浮かぶ。白に桃色が入ったやさしい色の花びらを、大切そうに手にのせる女の子。時間を忘れて、のんびりと枝を見上げながら歩く人々。誰もが笑みを浮かべている。
「里絵が待ってんだろ、さっさと帰るぞ。澄香にトイ、世話になった。フクマにもよろしく伝えてくれ。悪いがヒロッキー、世話になるぞ」
 病気が完治したのかと思うほどの早口で、キトは言った。
「誰だよソイツは。そもそも俺が好んで、ロッキーなんて呼ばせるわけないだろ」
 真顔で言ってヒロキが立ち上がる。
「犯人はジェイムス、お前だな」
「南部の人間なら、自然とそう呼ぶようになるさ。ところでロッキー。ボクはどうなるんだい? まさか、空港まで送るからアメリカに帰れ、などとは言わないだろうね」
 澄香が茜と文音に顔を寄せて、三人の会話を通訳している。
「お前はブルースハープを吹く。セカンドハンド・ストアで。オレたちとだ」
「ワオ!」
 え、何?
「ジェイムスがハーモニカを吹くの、セカンドハンド・ストアで。そうだよね澄香ちゃん」  
 茜がふたりに言う。
「その通りです」 澄香は両方の手の平を上に向け、笑って答えた。
「キトさん、も?」
「お・れ・た・ち、って言ったよ。キトちゃん」
「やったあっ!」 文音が跳びあがって喜ぶ。
 だけど、「大丈夫なの? また無理して、」
「無理したらポックリ逝っちまうってか。未来のことなんか誰にもわかりゃしねえんよ。そんな心配してちゃ何にもできねえぞ。なあ」
 同意を求めて茜を目を見る。キトは突然の事故で両親を奪われていた。そのことを言っているのだと、茜にはわかった。
「そうよ」
 茜は短く答えた。
「ただし一曲だ。一曲だけのライヴ」
「完成したんだな」 ヒロキは確かめるように訊いた。
 キトが大きくうなずく。待ち、焦がれた瞬間だ。
「誓い―――約束の歌だ。オレは、この一曲に懸けてえんだ」
 キトが命を賭して書き上げた曲だ。ヒロキはキトの肩を抱いて応えた。 「俺もだ」
「キト。君は真のブレイヴマン <勇者>、サムライだ」
「オレは平凡なドリーマーさ」
 キトの覚悟の言葉だった。
 涙を隠そうと、茜が部屋の隅にあるキト愛用のボストンバッグを手に取ると、澄香はめざとく、荷物をまとめ始めた。
「母ちゃんに無理させんなよ」
「うん」
 バッグを受け取って肩にかけると、文音は先に立って玄関に向かった。
「ぼくの肩につかまるといいよ。急だからさ」
 玄関で待ち受けていたトイが、キトに向かって言う。
「大丈夫か」
「狭いから丁度いいでしょ。ぼくみたいな小ぶりな方が」
 キトはトイの肩に手を置くと、ふたりは階段に向かった。冬の夜空に瞬く星が、星座をつくっていた。



    夕凪の子


「夕陽でも見てから行かないか」 言い出したのは、キトだった。 
 茜からの電話に答えて、文音と里絵母子を連れてセカンドハンドにやってきた照治は、扉を開けて先に入るように促す。建物のすぐ裏の桜に目をやると、つぼみがいちだんと膨らんだことに気づいた。 
「あら」
 店内は人であふれ、出窓にコーヒーを置いて談笑する者までいるほどだ。
 純喫茶セカンドハンドは、NPO法人 すくい・たい小田原支部に二階の一室を貸し出して、営業するようになっていた。
 とは言え、支部の責任者を任された茜が二階へ上がろうとしない。セカンドハンドは、すくい・たいとの縁でつながった茜を慕う人たちで、繁盛店さながらに賑わうようになっていた。
「ご覧の通りさ」
カウンターの中のヒロキが苦笑して言うと、隣に立つジェイムスが高い声で、
「ママとベイビーに席を譲ってやってくれないか」 グラスを拭きながら店内に言った。
 ジェイムスの英語に応えて同時に立ち上がった澄香と美子の視線が合い、ふたりは微笑を浮かべる。
「美女はココロも美しい」
 ジェイムスが嬉しそうに日本語で言う。
「誰に教わったの?」
 澄香はチラとヒロキを見る。
「仕事熱心なロッキーが教えてくれると思うかい?」
 ジェイムスがいちばん奥に新たに設けたデスクに視線を送る。
「電話をかけている美女さ」
 妊娠末期に入り、早流産が危惧される茜だが、本人は乳がんであることなどまったく気にする風も見せずに、仕事に没頭している。
 茜さんにお願いして、ほんとうに良かったわ。でも無理はしないでくださいね―――。
 茜の人柄に魅かれた澄香と福間は、茜をすくい・たいに招へいしようと懇願した。茜なら必ず、生活に困窮し疲弊した人々を救える確信があった。だが、自宅から二時間近く掛かる通勤がネックとなり一度は断念した。それでも諦め切れなかったふたりは、小田原に支部をつくり、茜を勧誘し支部長を任せたのだった。
 ―――はい。はい。それではまた。
 受話器を置くより早く、茜はお腹をかばいながらデスクとテーブルの間を縫って、扉の前に立つ照治のもとに急ぐ。~「ショーちゃ~ん」
 ―――んもう。お母さんったら。
「来てくれたのね、ショーちゃん」
茜は照治に抱きついて、左頬、右頬、唇に、口の形の音をたてながらキスをする。
「会いたかったぁ」 もう一度。
 美子が頬に手をあて目を見張り、常連客はポカンと口を開け、白石が慌てて善之の目を塞ぐ。時間が止まったような店内で笑みを浮かべているのは、ヒロキと里絵のふたりくらいだ。
「アメリカでもすっかり見かけなくなったよ。こんなに熱いシーンは」
 ジェイムスは言って、ふたたび手を動かす。
 ―――また始まった。家の中だけにしてって言ってるのに。
「寂しかったでしょ。私も寂しかったぁ」
 ―――寂しいわけないじゃない。朝さんざんベタベタしてたんだから。
 え~ん、え~ん、うぇ~ん。 「なあに信夫(のぶお)、おむつ? おっぱい?」
  泣き出した信夫を里絵があやす。
「文音が怖い顔してるからよ。ほらほら泣かないの。大丈夫、大丈夫よ」
 はあ? 自分が悪いんでしょ、こんなとこまで来てベタベタするから。
「お茶飲んでからにするか」
 照治が文音と里絵に訊く。
「時間ないよ。御幸浜寄ってからだから」 茜が照治に寄り添ったまま言う。
「私は大丈夫。文音は?」
「私も。いい」
 文音は緊張で寝つけぬほどだった。
「じゃ行こっか。トイく~ん。戸締りと火の始末。それと、」
「転送電話に切り替えてシェルターに顔を出してから、行きますから~」
 明るいトイの声が二階から届く。トイは、すくい・たい本部の福間や澄香の指導を受けながら、相談員見習として働き始めていた。福間の誘いを受けて。
「それと。キトちゃんに降りてくるように言って」
「はーい」
 茜は澄香の耳元でささやく。 「変わったよね。トイくん」
「はあ」
 茜さんのおかげです―――。澄香には言えなかった。
「行こっか。先輩」
 茜が里絵の肩に手を置いて言った。
「ぼくも行くからね。がんばって、あかねおばちゃん」
 善之が奥のテーブルで立ち上がって手を振る。
「おねえ、さんでしょっ」
 茜が言い、美子が先に立って扉を開けた。


「重いなお前」
 御幸浜の男性的な色粒の砂を踏みしめながら、ヒロキは背中のキトに言った。
 軽くなっちまって。そう言いたいだろ、ヒロ。
「ガンが成長したからだろ。オレの腹ん中の子供がよ」
 凪いだ海を輝かせている春陽が、浜辺にいる者を無口にさせる。波の音の他には、キトとヒロキの会話が聞こえるだけだ。
「懐かしいな」
 別のことを口にして、ヒロキは昔見た映像に向かって、歩き出す。 「覚えてるか。真夏の体育の授業」
 お前も、同じことを思い出してたのか。 「ああ。あん時もオレをおぶったのは、ヒロだった」
「ベタついた体が気持ち悪かった」
「ふん。お互い様だ」
「海に飛び込んだんだ。みんなで」
「ヒロが駆け出したからだ。お前のせいで先公に引っ叩かれた。整列させられてよ」
「俺のせいでか」
「ああ。だが誰も文句は言わなかった。最高に気持ち良かったからな、真夏の海が。おい、濡れちまうぞ」
 せまる波を見て、キトが言う。
「いいさ。たまには」
「ヒロ。下ろしてくれ」
「濡れるぞ」
 何も答えないキトを、ゆっくり背中から下ろす。
 二人は肩を並べて、いつの間にかに現れた、漁船に目を向けた。
 海の上を糸で引かれ、滑っているように見える。
 二人の姿を見守っていた、文音が口を開く。
「寒くなあい? 信ちゃん」
 傾く太陽が、蝋燭の火のように、色を変えていくのがわかった。
「風、無いから」
 短く、里絵が答える。
「どど、どこ見てるの? 信ちゃん」
「あなたたちと一緒。遠く、近く」
 お腹の子に、波音を聞かせていた茜が、静かに言った。
 キトとヒロキの足を濡らす波は、誰かに静かに語りかけているよう。―――そう、里絵とお母さんみたいなんだ。波の音って。
「どう? 日本の海は」
「やさしく感じるよ。スミカ」
 感慨にふけるその姿は、いつものジェイムスではない。でもあなた、ジェイムスだものね。
「あなたの気持ちが、やさしいからよ」
「だとしたら、みんなのお陰だ」
 ジェイムスは左から右に視線を送り、澄香を見て微笑みかける。
「どこかで聞いたことのある歌みたい。波の音って」 歌に聞えるのね。里絵には。
 音楽は生まれるもの。生まれてしまうもの。風や雲や川と同じーーー。この海や波も、そうなのね。お父さん。
「文音の歌そっくりだ」
 照治が言う。
「ほんと。そっくりね」
 照治を見上げて茜が言った。
 私たちの町の向こうに、陽がまどろむように沈んでゆく。
 私たちを照らすために。


 
    インディゴの空に白


「じゃあ、行くね。がんばって」
 そっと静は言い、楽屋を後にした。文音はその声が、耳に張らぬほど緊張していた。
 デビューライヴ、だからかもしれない。キトさん一緒に歌う、最後のステージになるからかもしれない。色んなことが有りすぎたからかもしれない。そばにいてくれた、みんなへの感謝の思いからかもしれない。
 憂いの気持ちがありがとうに変わると、涙がこみ上げてきた。泣いてる時じゃないでしょって言い聞かせても、抑えられない。どうしたらいいの。
 キトさんはジェイムスさんとヒロキさんの三人で、笑いながら英語で談笑している。
 お母さんは大きく膨らんだお腹をかばうことなく美子とともにギターを弾き、最終チェックに余念がない。
 お父さんだけが普段と変わらない表情で、スネアドラムの裏面を手でたたいてチューニングをしている。
 私だけ、透明人間みたいだ。
「どうしたのアヤーネ。キンチョーしてるか?」
 ジェイムスが覚えかけの日本語で話し掛ける。
「ううん。ただ色んなこと、思い出しちゃって」
「激動の一年だったからね。文音ちゃんにとって」
 ベースを抱えたままのヒロキが、労わるように言う。
「何事も経験さ。人生は経験の積み重ね。どれだけ身と心を費やしたかだ」
 キトは言うと、アコースティックギターを持ったままパイプ椅子を引きずって、文音の正面に座る。
「経験したもんね。この一年」
 みんな分かってるよ。文音はそうヒロキに言われた気がした。 
「余命半年のオレが一年以上も生きてるしよ」
「キトちゃん失踪しちゃうしねっ」
 離れたところから茜は言って、近づいていく。
「里絵は赤ん坊産んで、もうすぐ学校にも行けるようになる事だし」
「ウチの家族、三人も増えちゃうし」
「そうそう、孫ができたくせに子ども産もうとしてる乳がん持ちのバアさんもいるしよ」
「バアさん? どこよ。誰のこと言ってんのっ」
「こっちの話、だっちゅうの。でもまっ、ほんとに色々有ったよ。ヨシコはオレに憧れてメンバーになって、アヤネとは親友になったしよ」
「わわわ、わたし……」
 輪の端にきていた美子が困って口籠ると、楽屋が笑い声で包まれた。
「いいい良い、でで出会いの年だったと思うの」
 美子の言葉がすべてだ。みんなが頷いた。
「ボクらのキズナは、永遠さ」
「お前上達したな、日本語と人間性がよ。ジェイムスの言う通り。オレたちの思いは誰にも断ち切れやしねえ」
 輪の中にいる文音も同じ気持ちだ。だが、自分だけが、輪の外にいるような感覚のままだ。
 こんな気持ちのままでは、最後まで歌いきれないかもしれない。いや、声を出すことさえ出来ないかもしれない。
「泣くなよ文音」
 チューニングを終えた照治がやってくると、輪が解けて、ひとりひとりが本番のステージに備え始めた。
「ステージを下りるまでは絶対に泣くな。俺たちがステージに立つ理由を思い出せ」
 俺たち――。そう、キトさんもヒロキさんもお父さんもお母さんもジェイムスもみんな、泣いている子どもたちを救いたいという、思いを実現させるためにふたたびステージを目指したのだ。私もセカンドハンド・ストアのメンバー。泣いてる子どもたちに涙を届けてどうするの。
 でも、
「今だったらいい? お父さん」
 今は泣きたかった。ありがとうの涙を、流したかった。
「しようがないな」
 照治は文音の腕をとって、胸に引き寄せる。
 こらえていた涙が自然と頬をつたい、お父さんの懐かしいにおいが、私を笑顔にした。
「ああっ。ショーちゃんが他の女抱いてるぅ」
 茜がふたりを指さして言う。
「お前なあ」 お父さんの声が明るい。
「もうすぐ二人目が生まれるってのに堂々と浮気か。アカネ、オレの胸貸してやる。思い存分泣け」
「やだ」
「ショージのことは諦めて新しい人生を、」
「ショーちゃんは私のもの。私はショーちゃんだけのものなんだからぁ」
 四人のやりとりをヒロキはジェイムスに耳打ちすると、客席まで届くかという笑い声が楽屋に響いた。
「宿題は好きか。父さんは大嫌いだった。だから自分に宿題を出したりはしない」
「うん」
「ありのままでいい。こうしなければなどと考えて自分を追い詰めなくていい。シンプルに心の言葉を音にして届ける。その気持ちだけで、いいんじゃないか」
「うん」
 そう。キトさんが命がけで描き上げた 『誓い』 は、セカンドハンド・ストアみんなの、心の言葉なのね。ようやく気づいたわ、私。


 生まれたばかりの地球は、こんな色をしていたのかもしれない。
 ステージライトはインディゴ。濃い青が空のよう。白く並んだ顔は雲。地上にいる私は、インディゴの空に浮かぶ白に向かって歌うのだ。
 いちばん前、真正面座る静が、遠慮がちに手を振ってる。 「元気出して」 って言うように。ごめんね、手を振り返すわけにはいかないの。ありがとう、伝えるから、聴いて。
 静の右には、信ちゃんをあやす里絵。 「もうすぐ歌うのよ。あなたのお姉さんが」 そう話しかけているみたい。
 その隣でからだを伸ばすトイさんは、親友の雄姿を心に焼きつけたい、そんな気持ちでジェイムスを見てる。
 静の左は澄香さん。福間さんの耳元でひそひそと何かを話してる。何を喋ってるんだろ。お母さんとキトさんのからだの事、心配してるのかな?
 セカンドハンドの常連さんが、後ろの席に並んでる。善之くん、来てくれたのね。社会の先生の白石さんも、算数が得意な岸さんも、お料理のプロの渡辺さんも、なんでも博士の吉行のおじいちゃんも。みんなで。私たちのために。わざわざ。
 クラスメイトの顔も見える。知らない人の顔もたくさんある。きっと昔からの、セカンドハンド・ストアのファンに違いない。キトさんの、セカンドハンド・ストアの一曲だけのステージの為に、来てくれたのだ。
 チューニングの音を背に、マイクスタンドに手をかけて目をつぶる。まだ夢の中にいるよう。あっ。
 ―――ぼくたちにも、わたしたちにも、聴かせて。
 肌色の違う男の子と女の子が、恥ずかしそうな、だけどキラキラした目を向けて私に言う。 「どうぞ。あなたたちに届けたいから、私たちはいるのよ」
 子供たちが駆け寄ってきて、私のまわりに円になって座る。頬には涙の跡が。でもみんな笑顔が輝いてる。
「OK」 お母さんがチューニングが終わった事を告げる合図を送る。
 目を開ける。サンライズカラーのスポットライトがステージ中央に集まる。私は髪をひるがえし、ドラマーに向かってうなずく。十二の瞳が暗赤色に光る。


    ♯ 誓い

 ―――1、
 スティックのカウントは、高木から落ちたクルミの実が、乾いた木肌に弾ける音。
 ―――2、3、
 さあ歌うわよ。
 ―――four
 心臓音のようなベースドラムと岸壁を打つ波のように広がるシンバル。その音に合わせ、命を宿した楽器が 『誓い』 を奏で始める。4小節目の終わり地球上の生き物の思いを代弁するスネアドラムが宙に浮いていた私を地上へと導く。左右から届く二本のテレキャスターは風の流れと光とのオーケストラ。ブルースハープは自然を飛び交う鳥たちのコーラス。
 12小節のイントロが世界を描き、胎児が聞くベースギターが、安らぎの舞台へ私を誘う。

   
    信じてる 夢をいつか手にしてみせると 
    信じてる あの日の誓いを忘れはしない

    待ち続けていた日々 虚しさのなか
    思うだけで 何も手に出来なかった
    どこへ向かって走ってゆけばいいのか
    わからない
    あまりにも遠すぎる道のり

    ああ 若い夢をみているだけなんだと
    ねえどうして?
    大人にならなければいけないの

    でも、信じてる 夢をいつか手にしてみせると
    信じてる まっすぐに歩きつづける自分を


    過ぎ去った思い出と 自分をなぐさめて
    ルーズな時の流れに 身をまかせる人
    もう若くはないんだと 言われつづける日々のなか
    ステージの胸の高鳴りが
    ぼくを君の夢へと導く

    ああ 生きているんだと
    感じるたびに
    涙が溢れてくるのはなぜだ

 無理だよお父さん。泣くななんて言われても。
 大らかなシンバルの音でお父さんが答える。 「嬉し涙なら別だ」
 んもう。始めから言って。
 私が笑顔になるのと同時に、
 美子が手を差し伸べる子どもたちの声を届ける。ぼくたちは笑ってはいけないの? いつになったら笑えるの? 笑顔になれるまでぼく、生きていられるのかな。
 お母さんのギターソロが子どもたちを慰める。いっしょに歌いましょ。約束の歌を。いっしょに歌いましょ。あなたの歌だから。いっしょに歌いましょ。私たち、見えるでしょ。いっしょに歌いましょ。いっしょに居たいから。
 お父さんが手を差し伸べる 「ぼくが涙をぬぐうから」 キトさんが言う 「涙が止まるまで」
 ヒロキさんとジェイムスが目いっぱいに腕をのばす。「ここにいるよ。ぼくらが」
 私も。

    信じてる 夢をいつか手にしてみせると
    信じてる あの日の誓いを忘れはしない

    信じてる 夢をいつか手にしてみせると
    信じてる まっすぐに歩きつづける自分を
    信じてる


 鳴り止まぬ拍手のなかで、ひときわ大きく手を打ち鳴らす、静が泣いてる。
 ありがとう。そばにいてくれて。



    やさしい風、吹いてるよ


 ―――キン、コーン。キンコーン
「!……はぁ~、あっ」
「ん、んう~ん、くぅーっ」
 からだを反らして、伸びをする子。
 片手だけいっぱいに伸ばして、変身のポーズをとる子。
 寝ぼけまなこをこすってる子。まだ夢の中の子。
 授業の終わりを告げるチャイムと同時に広がる風景。朝から汗をかきかき百段坂を上って、疲れちゃったのかな。
 大好き。この風景が。この学校が。クラスのみんなのことが。あと二年、仲良くしようね。みんな揃って、卒業しようね。
「また歌ってたよ」
「え?」
「焼きついてるんだよきっと。あの日のライヴが」
「ああ」
 里絵が前に向き直る。
 何だか不思議。お母さん里絵がここにいるなんて。でも、いちばん似合ってるよ。学生服姿。
「行こっか」 静と聡美と奈保子の三人が、そばに来て言う。
「うん。ありがと」
 休み時間ごとに、女子が順番に里絵に付き添って信夫の様子を見に行く。里絵の登校が決まったゴールデンウイーク前に、みんなで話し合って決めたことだ。
 武田先生が言っていた通りに、里絵は信夫を連れて再び学校に来られるようになった。先生がいちばん、生徒が学年途中で辞めていく辛さを、味わってきたのよね。
「お前ら職員室、行くのかよ」
「そうよ。信ちゃんに会いにね」
 文句あんの。聡美の顔がそう言っていた。
「俺らも付き合うよ。クラスメイトとして協力しなきゃって思うし、未来のパパとして色々勉強しとかなきゃいけねえし。男も子育て参加する時代だろ」 ふだん考えてもいないような言葉を次々と。しどろもどろじゃないの、説得力ないわよ。
「だ~め。男子は入室禁止。決めたでしょ、みんなで」
「臨機応変って言葉、知ってるか」
「あんたこそ意味わかって喋ってんの? どうせアレでしょ。おっぱいあげるとこ見たいんでしょ。いやらしい」
「残念でした。授乳の時間じゃないの。それにもう離乳食中心だし」
「おむつ見に行くだけよ」
 里絵だけが涼しい顔だ。大人みたい。
「な~んだ。つまんねえの」
 さもがっかりもしてなさそうに男子が言う。始めから行く気なんてないのだ。
 でも里絵のことを気遣って、こうして話しかけてくる。このクラスのこと、好きなんだね。みんな。
「可愛らしいのよねえ。信ちゃんって。うふふ」
「な~んだ聡美。お前、チンポコ見るのが楽しみで行ってんのか」
「はあ?」
「研一のも可愛いぞ。信夫と変わんねもんな。しかもまだ、」
「うるせーよ! 俺のたくましいの見たらお前ぜってえ自信失くす、」
「う・る・さ・い! 下品な話しないでっ」
「ホント男子ってばか。行こ」
 ふふふふ。高校生ね。私たちって。
「昼休みによ、連れて来いよなぁー」 里絵がコックリうなずいて、教室を出ていく。
 里絵の横顔は、みんなより少しだけ大人に見える少女。私たち、大人になろうとしてるのね。ひとりひとり、それぞれのペースで。
 
 ♪ フムムムルルルゥ~
「すっかり、夏ねぇ」
 文音は教科書を机の脇に寄せて、窓外に目を向けた。
 そうだよ、夏だよ―――。
 窓の外の生きものたちが、そう答えてくれたようで、嬉しくなる。
 あ。木の葉色、元気な緑に変わった。見て、美子。
 ―――信ちゃんのほっぺみたい。つやつやしてるね。
 あ、蝉くんの声。ねえ静、先週より大きくなった気がしない? ああ、本読んでるんだ。
 ―――聞いてるよぉ。セミくんの話でしょ。今年は絶対に踏みませ~ん。
 蝉くんってさ、五年も六年も土の中にいるんでしょ。そんなに長く暗い所でじっとしてるのに、地上で生きられるのは、たったの一、二週間。かわいそうだね。
 ―――でもさ。五年間も、土の中のお母さんに抱っこしてもらえて、幸せかもよ。
 なるほどねえ。お母さんの胸の中にいるのね。外の世界ではさ、いいっぱい素敵な経験して、恋もしてほしいな。もしかしたらその為に一生懸命鳴いてるんじゃない? そう思わない? きっとそうだ、
「沖田ぁ。キョロキョロキョロキョロ、どこ見てんださっきから」 あちゃぁ。
 クスッ。
「何よ」
 声をひそめて文音が言う。
「ううん。お母さんみたいだなあって」
「ひどいっ。私がお母さんみたいにだなんて、」
「こ~ら。聞いてるのか。こっちを見てろ。黒板を」
 ?
 先生違う。言ってることが。
「勉強しろとは言わないって言いました」
「何ぃ?」
「居眠りするなとも言わない。いじめだけは絶対に赦さない。そう先生は言ったんです」
「だからってな、」
「私、誰もいじめていません。イジメする子なんて、このクラスにはいません」
 言っちゃった。
 パチ、パチ。
 パチ、パチ、パチパチパチパチパチパチ――――――そうよ。そうだよ。ウチのクラスに、イジメなんかないよ。
「分かった。分かったから静かにしろ」
 パチパチ、パチ、パチ。
 拍手が止むと、武田先生はゆっくりとうなずいて、ひとりひとりの顔を見まわした。四十四人、全員揃って卒業させてやりたい―――少し鋭くて、あたたかな先生の目は、一年前と少しも変わっていない。 
「俺は、約束を守る人間が好きだ。約束は、守らないとな」
 先生は笑顔になって、黒板に向き直って、
「だけどな、鼻歌は勘弁してくれよ」
 チョークを動かいなっがら言った。
 笑い顔が私に向けられる。
 え。私だ。
 里絵が一生懸命勉強してるって言うのに何してんの、私。ねえスズメくん。
 ―――ピピッ、チッチッチッ、チュン
 スズメくん。君も学校が好きなのね、。
 ―――ピピィ、ピピピッ
 お友だち、どこ行ったの? ごはん探しかな。それとも、冒険?
 ・・・・・・・・・
 ねえスズメくん。お母さん、今日はトイさんといっしょに病院に行ってるの。それから、お仕事なんだって。
 ううん、違うの。お母さんじゃなくて、トイさんのお耳を診てもらいに行ったのよ。
 トイさんね、お耳に手をおいて、一生懸命、私のお歌を聴いてくれたの。嬉しかったなあ。
 お母さんの事は心配しなくても平気。お腹のあかちゃんが、励ましてるから。お仕事も家事も音楽も病気のことも、ぜ~んぶがんばるんだって、張り切ってるわ、お母さんったら。いつもの様に、ド・タ・バ・タしながらね。うふふ。
 お父さんは相変わらず。夜遅くまで、みんなの為に一生懸命働いてくれてるの。いっぱいいっぱい汗をかいて。
  ―――ピピッ、チュン。
 そうね。帰ってきたらお肩たたき、しないとね。 ―――チッ。ピピッ。ピピピピ
 あらぁ。どこに行ってたの? お友だちをひとりにして。ふふふふ。可愛いね、あなたたちって。
 はあ~、
 何してるんだろうなあ、みんな。もう、落ち着いた頃かな――。
 きっとキトさん、好き嫌い言ってるのよ。お味噌汁が食べたい。お刺身はないのか。今日はラーメンだ。たまにはお粥食べさせろって。
 でも大丈夫ね。心配しなくても。ヒロキさんとジェイムスが、一緒なんだから。ねっ。大丈夫よね。


「んじゃ、行くとすっか」
「キトちゃんのことお願いね、ヒロさん。ジェイムス」
「お前いつからオレの母ちゃんになったんだ。それよりチケットくれよ。乗れねえじゃねえかよ」
「何よ偉そうに。私はお母ちゃんでも女房でもないの。はい航空券」
「おお悪、」
 ・・・・・・・・・
「んだよ。エコノミーじゃんかよ、これよお」
「あったり前でしょ。ビジネスクラスなんて買えるわけないじゃないの。ビジネスで行くわけじゃあるまいし」
「プレゼントって言ったらファーストかビジネスだろ、ふつうよお。お年玉に10円やるようなもんだぞ」
「文句言うな」
「エコノミークラス症候群で死んじまうよ。アメリカに着く前によ。よお」
「大丈夫。こうやって、立ったままゆっくり踵(かかと)を上げ下げすれば血流が良くなって、」
「そういう問題じゃねえだろ」
「しもやけにもいいんだから」
「アリゾナでしもやけになる奴なんか誰もいねえよ。ふざけんなよなあ」
 面白いのよあの二人。いっつもこうなんだから。
「じゃあ返して。折角プレゼントしてあげたのに何よ」
「ああ返すよ。せっかくの夢への旅立ちなんだ、自腹切るよ。ジェイムス。ビジネス三枚頼む。いくらだ」
「ア~ム。××××ダラー、くらいかな」
「アカネー」
「あげない。私のプレゼントじゃ死んじゃうんでしょ。殺したくないもん。キトちゃんのこと」
「あああ、茜さん……」
 美子がね、お母さんに 『お願い』 っていう目をしたの。
「仕方ないなあ。美子ちゃんの頼みなら」
 みんな美子には弱いの。すぐに素直になるんだから。
 え、美子? ほら。
 真ん中の列のいちばん後ろに、色が白くて髪の長い子がいるでしょ。あの子が美子。久島美子ちゃん。
 ?――― なあに、文音さん。
 ううん。何でもないの。いまスズメくんとお話してるところ。うふふふ。
「スミカも来ないかい。フクマと一緒に」
「私、やることがあるから」
 澄香さんはね。命を助けてくれた野辺町っていうところで、暮らしたいんだって。やさしい人たちと一緒に、困っている人を助けたいんだって。私といっしょ、同じよ。
「スミカ、トイに伝えてくれないか。同じ空の下、君を応援してると」
「え、うん」
「変わったわよ。トイくん。ひとりの人として見てあげようよ。ねっ」
 澄香さんの顔には、―――私も変わらなきゃ。そう書いてあるように見えたわ。
 私もね、変わったなあって思ってたの。困っている人たちの為に一生懸命働くトイさんを見ていて。今ではもう、すっかり頼りっぱなしなの。お母さんのことを。
「ヨシコ。卒業したら来るんだぞ」
「はは、はい。か、からだ、大事にしてください。キトさん」
「文音に里絵。お前たちもだ。信夫連れて来いよ」
「待っててね。ぜったい絶対に待っててね」
 不安な顔、してからかなあ。
「もちろんだ。お前たちがくるまで、オレは絶対に死なねえ。必ず生きててやる」
 私の目をまっすぐ見て言ってくれたの。約束してくれたの。
「ショージ。分かってるな。お前が涙を止めるんだ。世界中の子どもたちの命を救うのはお前だぞ」
「俺はその為に生まれてきたんだ。待っててくれ」
 お父さん、三人とぎゅっと握手してたわ。
「アカネ。大事にしろよ」
「私だけ、ついでみたい」
「ついでのわけねえだろ。ビジネスクラス買ってやっから、赤ん坊見せに来いよ。絶対来いよ」
 キトさんの目。真剣だった。
「そりゃ行くわよ。ショーちゃんが行くんだから。それよりちゃんとお薬、飲むのよ」
「口うるせえバアさんだな」
「婆さんって言うな」
「バアさんだろ。信夫の」
「そうよ信ちゃんのね。でもキトちゃんのお婆さんなんかじゃ、ないわよ」
「誰のバアさんもなにも、お前がバアさんであることには、」
「ききききキトさんっ、茜さんっ」
 美子がプクゥっとほっぺをふくらませて、ふたりを止めたの。
 ちょっと気まずい雰囲気を変えたの、誰だと思う?
 そう。ヒロキさん。それとジェイムスって言うアメリカの人。
「茜ちゃん。頼むな、善坊のこと」
「ボクからもいいかい。アメリカは君を愛するだろう。そう伝えてくれないか、ヨシーボに」
 お母さん、
 ジェイムスがよろしく言ってたよ―――って伝えたんだって。理解出来るわけないよって言って。うふふふふ。
 それはそうと善之くんね。いっぱいいっぱい泣いたんだって。
 それはそうよ。いちばん信頼してる大大大好きなヒロキさんと離れ離れになっちゃうんだから。小学生の善之くんにとっては、大事件よ。
「まかせて。みんなでバシバシ鍛えて優しい男に育てて、連れてくから」
 今頃、善之くん。勉強してるのかな。お外の掃除かな。それとも、岸さんや白石さんたちにお茶を入れてるあげてるとこかな。
 ねえ、スズメくん。帰りに寄ってみない? セカンドハンドに。ねっ。ふふ。
「キトさん」
「どうした文音」
「………」
「今生の分かれってわけじゃねえんだ。オレがいなくなっても、めそめそするんじゃ、」
「何か、忘れてない?」
「忘れもん?」
「手荷物はデイパックだけだろ」
「パスポートはあるし、財布もある。薬もちゃんと、」
「そうじゃなくって」
 気づいてくれなかったのキトさん。でも、私からは絶対に、言いたくなかったんだぁ。
「言い忘れてること、ない?」
「文音に、オレが?」
「じゃあいい。また会う時までに、思い出してくれれば」
「気持ち悪りいな。何だか」
 そう言って搭乗口に向かったわ。でもやっぱり、どうしても思い出してほしくて、
「キトさ~ん。私十六になったのよぉ!」
 ヒント出しちゃった。
 そしたらキトさんが振り返って 「ああ」って嬉しそうに笑ってね、
「約束は守る、アメリカでなっ!」
 おっきな声で言ってくれたの。みんな見てたなあ、キトさんと私を。交互に。
 約束ってね、ふふふ。プロポーズのことなの。だってキトさんから言い出したのよ。この学校に入る前に。
「ありがとう、キトさ~ん!」
「歌いこんどけよ。分かってるな」
 もちろん。
 ライヴで私、誓いっていう曲を歌ったでしょ。でももう一曲。どうしても歌いたかった曲があったの。バンドのお名前と同じ、 『Second Hand Store』 っていう曲を。
 ―――とにかく風は吹いてる。
 あっ、分かった。
 キトさんやヒロキさん、みんなの心の中には、この曲が流れているのね。だからくじけないで、自分でいられるんでしょ。だからみんな、あったかくて優しいのね。
 私、楽しみにしてる。アメリカでこの曲を歌うの。
 
 When you got forever……
 フム、ムムムムム~♪ フム、ムムムゥムー♪ 
 ルル、ルルルゥルー♪
(ア・ヤ・ネ)
 Anyway the wind blow ♪
(文音ってば)
 Anyway the wind blow ♪
 Anyway the wind blo~w!
 ララ、ラララララ~♪ ララ、ラララ、
「文っ」
「沖田あー」
「……はい?」
「寝てるやつの迷惑だぞー」
 教室が笑いで包まれた。
 寝てる子が目を覚ました。
 窓辺のスズメが飛んでって、こっちを向いた。
「なあに?」
 やさしい風、吹いてるよ。

             
                         了                                                                    

    


 

やさしい風、吹いてるよ

やさしい風、吹いてるよ

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-10-02

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