いっかげつ、との関係性について

子どもの頃は「なんだか意地悪に聞こえる言葉の響き」というものに敏感でした。特に「1ヶ月」というものは実感を持って、最悪な言葉だと思いながら過ごしていたなぁと急に思い出しました。

「いっかげつ」という言葉が子ども頃嫌いでした。

銀色に鈍く光った柵のようで
わたしは「いっかげつ」の檻に閉じ込められて「いっかげつ」の中で過ごすのです。

自分の家でぬいぐるみを抱いて眠ったり、お絵描きをして遊んだり、母親や祖母にくっついて過ごすことを許してくれませんでした。

「いっかげつ」の檻の中でひたすら、嫌な気持ちを覚えていくのでした。

思えば子ども頃は「さんすう」や「こくご」より「ふかい」や「こわい」を覚える機会が多かったようで、当時のわたしは「ゆとり教育」というものの外で苦しみもだえていたのかもしれませんね。

「いっかげつ」に纏わる絶望はみんなで植えたベコニアにも浮かび上がります。

重たい鉢植えを抱えて移植ベラで土を入れた曇り空の下、どんな地獄にも勝る地獄であったと記憶しています。
大きく張り出された学級目標、時間割、掃除当番の時の雑巾掛け、給食の時間のスープ係、全てがわたしの心を壊していくようでした。
ランドセル、体育着といった「いっかげつ」の詰問に血を吐くような思いで答えていました。

大人になってゆくに従い、「いっかげつ」とは「1ヶ月」というままにこちらの顔を見ることも、私を閉じ込めたりすることも、一々問答することもなく、テンポよく過ぎていくようになりました。

小学校6年間の異様なまでの意地悪さはもはやありませんでした。

20歳を過ぎたあたりで、恐ろしい速度で過ぎてゆく「1ヶ月」を見かけました。
あの速度は優しさであると思うのです。
「いっかげつ」の檻に閉じ込められた私は6年間七顛八倒しながらも抜け出すことに成功し、晴天の下を自分の足で歩くことを許されています。

時間の流れが早いことを嘆く声を聞くたびに、恐ろしく長く冷たく流れる時間を知ってる私は、早く過ぎ去ることの方がどれほどの救いであるかを教えてあげたくなります。
歳をとることを私は救いであると思っています。永遠に感じられる時間の残酷さを知っているからです。
丸くなって早くなってくれた「1ヶ月」を思えば、今年が終わることを怖がる必要はないと感じずにはいられません。

いっかげつ、との関係性について

いっかげつ、との関係性について

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-24

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