管理された白い翅

白役

全てが完全に管理された空間で、彼女は生きていた。白い肌、白い髪と、白い翅。
やはり白い毛の生えた翅は、彼女の調子に合わせて力なく動いていた。
彼女はそれほど活発とは言えなかった。
眠っている時などは、そのまま死んだとしても誰にも気づかれないだろうと思えるぐらい、
静かな性格をしていた。
彼女はひとりで生きていくことが出来なかった。それは彼女も分かっていた。
そしてそれは、僕はわかってはいなかった。

彼女の友達になるように言われた時は、素直に嬉しかったことを覚えている。
いつもは透明なガラス越しで、遠くから眺めることしかできなかったのだから。
風貌は、おそらくは綺麗っていうのはこういうことなのだろうと納得するぐらい、
不自然なぐらいに整い、そして綺麗な見た目をしていた。だから憧れていた。
僕も男であり、そして綺麗な人と一緒になりたいって思うのは当然なことだった。

単なる幸運だった。歳が同じらしく、そしてたまたまその施設にいて、
たまたま、おとなしく過ごしていただけだった。遠くから見ていたのもバレていたらしい。
彼女の方から、あの子はだぁれ? と質問されたと聞いている。

「寂しがり屋だからな、彼女は」

施設の、僕の父親代わりの男のヒトに連れられ、廊下を歩く。
両面がガラス張りで、遠くに彼女がやはり白い椅子に座っているのが見える。
廊下は彼女のいる場所を取り囲むように作られており、
二重三重の扉をくぐってようやく彼女の部屋に到着するような、
面倒で厳重なつくりをしていた。

「お前は物語が好きだろう? あまり本を読まない彼女に、物語を聞かせてやってくれ」

それが僕の役割らしかった。

「作り話でも良いの?」

尋ねる。そのヒトは歩いていた足を止め僕へと振り向き、膝を曲げて顔を近づける。
優しい顔をしていた。僕はこのヒトを尊敬している。
優しくて、しかし厳しくて、とても頼りになる人。本当の父親のように思っている。

「話が作るのが好きだったな、お前は」

あまり肉のついていない手のひらが、僕の頭を撫でた。
とても筋肉質とは言えず、おそらくは痩せていると形容するのが正しいだろう。
背もそれほど高くはない。子どもである僕が、少し背伸びをすれば頭に手が届く。
声もそこまで低くはない。まだ潤いのある声をしていた。

「お前なりの方法で彼女を楽しませてやってくれたならば、それで良いさ」

そう言われたのが、ひどく嬉しかった。だから張り切ってしまった。

-----

彼女の部屋に通される。どうやら特殊な構造のガラスらしく、
彼女の部屋から外を見ることはできなかった。
それはただの白く冷たい壁であり、とてもではないが透明なガラスであるとは思えない。
少しの違和感を覚えたが、彼女の姿を間近に見て、疑問はどこかに行ってしまった。
かわいい、と形容するには少し違う。美しい、ともまた違う。
やはり綺麗と形容するのが、もっとも正しいのだろう。近くで見れば、なおさらだった。
ゆっくりとした動きで顔を上げ、僕を見る。
無表情は顔に凍て付くように、さも面白くなさげに彼女は僕を見る。
白い翅はいつものように、ゆっくりと動いている。
遠くでは彼女の瞳の色を見ることはできなかったが、
この距離になってようやく、彼女の瞳を見ることができた。白色、だった。
全く色の無い瞳。白い部分しかないようで、しかし確かに何かが動いてはいる。
それは瞳だと気づくのに、しばらくの時間がかかった。

「……こっちに、来て?」

始めて聞いた彼女の声。それはまるで、虫の翅が地面に落ちた時のように、
静かなものだった。この距離であっても、彼女の声を聞き逃してしまいそうになる。
彼女の声に従い、無言で頷き、歩み寄る。胸が高鳴る。
この僕の胸の高鳴りが彼女にも聞こえてしまっているのではないか。
そう思えるぐらい心臓は激しく、そしてその部屋は静かなものだった。

「……君、見てた、でしょ?」

二歩、三歩、ゆっくりとした動きで歩み寄っていると、そう尋ねられる。
いくつか疑問はある。しかし、この中で僕が声を出していいものかどうか。
僕がなにか喋ったら、彼女の声は書き消えてしまうのではないか。
この胸の高鳴りだけでも、彼女の声を聞き逃しそうになるほどなのだから。

「……うん」

なんとかひねり出した言葉は、そんな頼りのないものだった。

「やっと、しゃべった」

氷が解けたかのように、彼女はようやく表情を緩ませた。
白い翅も、心なしか少しだけ激しく動いた、気がした。

「友達になってほしいって、私が言ったの。私を見てるの、君だけなのだから」

その言葉の意味を、その時は理解していなかった。

白本

彼女の部屋は、白で覆い尽くされていた。足もとは不思議と柔らかく、
靴を履かぬ素足にとても心地が良い。彼女の座る椅子も、また白色だった。
白木で作られているかのような、あまりにも白すぎる以外は、普通の椅子。
腕を置くところはなく、背もたれもそれほど高いとは言えない。
それ以外にも家具はあるが、キャビネットもベッドも全てが白色で、
しかしそれほど明るくはない照明のおかげか、決して眩しくはなかった。

近くで見て初めて分かったが、白い翅はやわらかな白い毛に覆われていた。
触れて良いかと尋ねると「良いよ、好きなだけ」と言われたので、恐る恐る手を伸ばす。
滑るような手触り。汚れの一つもない、だけれどしっかりと白い毛が、手を包み込む。
あまり暖かくは感じない。しかしその手触りは、上質な布に包まれているようで、
いつまでも触っていたくなるほどだった。

わずかに空気が震える声を聞いた。それが彼女の笑い声だと気づくのに、
少しの間が必要だった。
顔を上げると彼女は嬉しそうに、丸めた白い手のひらを口元に添えて、笑っていた。
声らしい声は、ほとんど聞こえなかった。

「自慢なの」

小さな声。まだ衣擦れの方が、はっきりと聞こえる。

「うん、綺麗な翅だと思う」

率直に答える。指の間が優しく撫でられる。少しのくすぐったさも感じないぐらい、
滑らかなものだった。
汚して良いものか。数分か、数十分か。彼女の翅を堪能して、ふとそう考えた。
それと同時に手の動きも止まる。だから彼女も察したのだろう。

「どうせ、すぐに抜け換わるよ」

とは言われたものの意味が分からず、僕を見ていた白い瞳を見返す。

「一日に一度ね、抜け落ちて、また生えてくるの。そういうもの」

そう言われて、慌てて彼女の翅から手を離す。
手を見ると思った通り、手のひらには彼女の翅から抜け落ちたものであろう、
真っ白な毛で覆われていた。まるで、僕の手からも白い毛が生えてきたようだった。

「ごめん……」

謝る。謝ることではないのかもしれないけれど、とにかく謝りたかった。

「別に、気にしなくて良いのに」

彼女は、やはり声の無い笑みを浮かべている。

「気づいてなかったの? 足もと」

彼女の白い指が、僕の足元を指さした。つられて見てみると、幾重にも重なった白い毛が、
僕の足に絡まっていた。

-----

「お話をしてくれるって聞いた」

彼女の顔が近い。椅子は一つしかなかったから、僕は寝台の縁に座って彼女と向かい合う。
綺麗に切りそろえられた前髪は彼女の白い瞳を隠さず、
椅子に座っているのに地面まで届いている白髪は、一つ動くのに難儀しそうなほど。
白に塗りたくられた部屋ではあったが、彼女の表情は豊かなものだった。
その部分だけ鮮やかな色が発されているかのような、そんな笑顔だった。
向かい合うと、彼女は椅子を引き僕に顔を近づけた。吐息がかかるぐらいの近さだった。

「本、読めないんだ」

彼女の部屋には書棚もある。
しかしその背表紙のどれもが白色で、タイトルらしきものはない。

「あの本は?」

気になって尋ねる。

「白いからね」

そんな答えが返ってきて、首をかしげる。確かに背表紙は白いが……。

「中身、見ても良いよ。意味がわかると思う」

言われて立ち上がり、書棚にある一冊の本を手に取る。分厚いもので、それなりに重い。
何枚かページをめくり、なるほど、とつぶやいた。確かに白い。白紙よりも白いページが、
永遠と続いていた。

「全部?」

尋ねると。

「そう、全部。白くなっちゃうの」

その言葉の意味が分からず、しかし白いだけの本に少し興味が出て、また何枚かめくる。
普通は文字や絵が描かれているものがこんなにも真っ白だと、逆に面白くあった。

「すごいね!」

自分でも思った以上に、大きな声が出た。
突然の大きな声にビックリしているのではないかと不安になり、彼女へと振り返る。
確かにビックリしているようではあったが、
それは大きな声より白い本に対する感想に対してのものだと、なんとなくわかった。

「なにがすごいの? そんなにすごいの?」

その疑問は、ご尤もだと思う。

「すごいよ! 本当に何も書かれていない本だなんて、見たこともなかったし!」

彼女が興味を持ってくれたことが嬉しかった。
だから一冊のただ白いだけの本を持って、彼女へと歩み寄る。説明したかった。

「本を黒く塗ることはあるよ! 見られたくない部分とか、隠したい部分とか!
そんな時は黒く塗るけれど、ただ白いだけの本って、あり得ないよ!」

寝台の縁に座って、彼女に白いページを見せる。僕もそのページを見る。
だからお互いの顔が、ほぼ触れ合うぐらいの近さになった。

「でも、お絵かきする時とか、白い本じゃない?」

彼女が僕を見て、首をかしげる。

「でも、この本の分厚さで白いだけだなんて、無意味で面白いって思わない?」

自由に文字を書いても、自由に絵を描いても、きっと使い切れないよ。そんな会話した。

白詩

一冊だけ、その真っ白いだけの本を借りる事ができた。
彼女が貸してくれると言って、その本を受け取る。ハードカバーらしき表紙は布製であり、
しかしまるごと色が落ちたかのような純白は不自然なそのものであり、
だからこそ僕も興味を惹かれて、その本を借りることにした。

「時間ですよ」

女性の声がした。慌ててその声の方へと顔を向ける。

「放送だね。いつもこうなんだ、誰も入ってこない」

彼女はいかにもウンザリといった表情で、その声の方へと顔を向ける。
入る時や白い本に集中していた時には気づかなかったが、
入口付近の天井にその声の出口らしきものが備わっていた。

「じゃあ、僕は出ないと」

合図とはこのことなのだろう。立ち上がろうとすると、彼女が手を伸ばしてきた。
その手に触れて良いものかどうか。迷っていると、腕を掴まれる。

「もう少し、一緒にいる事はできないの?」

そんなに力は強くない。ほんの少し強く動かしたら、
彼女の手が離れてしまうかもしくは彼女を引っ張ってしまうだろう。
触れるのも怖いほど、か細い指だった。

「規則、だもの」

出るように言われている。そうしないと、また怒られてしまう。
怒られるのは別に良いのだけれど、あのヒトにそっぽを向かれるのは、ゼッタイに嫌だ。
けれども、彼女の色なき瞳で見つめられ、困ってしまう。
それが表情に出てしまったのだろう。

「……ごめん、迷惑だよね……」

彼女の手が離れた。思った以上に強く掴まれていたのか、腕には紅い跡が残っていた。

-----

「本、か」

男のヒトに、彼女から借りた本を見せる。
本当に持ち出して良いのか尋ねるためだった。それ以上の他意はない。
そのヒトは迷ったように眉にシワを作り、うーん、と唸っている。

「……この本、なんか、ヘンだよね」

ただ白いだけの本。白よりも純白で、もともと色が無かったと形容するのが、
もっとも正しいと思ってしまうほど。
ちょうど彼女の翼の色で、瞳で、髪で、指先だった。彼女の白が、この本を染めていた。

「まぁ、許そうか」

許可が出た。

「しかし条件がある。明日、また彼女に合わせるからこの本に何か書いてきてくれないか?」

そう言われて、反射的に本の中を見る。白一色の本を、僕に汚せとそのヒトは言う。
なにを書けば良いのだろうか。尋ねようと視線を上げる。

「なんでも良いさ。詩など、彼女が喜ぶんじゃないか?」

なるほど、と呟いてまた視線をその本に移す。
いつの間にか窓ガラスから差し込む夕日が、白い本を真紅に染めていた。

-----

「だから、詩を書いたってわけ?」

彼女の声。慣れてきたのか、それとも気を許してくれたのか、
彼女の声が昨日より大きく聞こえた。か細く、しかし綺麗な声をしていた。

「白で、君で、翅だったから……」

書いたのは、白い翅、の黒い三文字だけだった。
自分でもなぜこんな三文字を書いて、そして彼女に渡そうかと思ったのかは分からない。
でも、見せたくなった。きっとこの中に、僕でもわからない僕の気持があるのだろう。
彼女は白い本に書かれた、折れ曲がり文字を成す線を見て、笑った。
彼女のはっきりとした笑い声は、始めて聞いた。綺麗な笑い声だった。

「でも、白い翅って。翅しか見てないじゃない」

彼女なりには大きな声を出したつもりなのだろう。
しかし、まだあのヒトの方が声は大きい。それでも、彼女の中では大きな声だった。

「……ごめん」

壁も天井も、本も寝台も、髪も指先も、瞳も翅も、彼女の全てが純白以上の白さで、
きっとそれが印象に残って、三文字だけ書いたのだろう。
だから、バツが悪くなってうつむく。
もしかして、彼女の気を損ねてしまったのではないか。少し機嫌が悪くなったから、
大きな声を出してしまったのではないか。そう、少しだけ怖かった。

「ありがとう」

だから、そう言われると嬉しくなり、視線を上げて彼女を見る。

「言葉を贈られるのは初めてなの。私のために考えてくれる人って、初めてなの」

彼女の嬉しそうな表情は、愛しく見えた。

「だから、ありがとう。この三文字、大事にするね」

だからその後の「貴方が、この文字が、白く、消えてしまっても」なんて、
彼女の独り言を聞き逃しはしなかった。聞こえたわけではない。少し口が動いた。
その程度だった。

-----

「だいぶ、白くなったな」

彼女の部屋に入るようになって三日目。
いつものように彼女の部屋から出ると、あのヒトからそう声をかけられた。

「どういう意味?」

尋ねる。白くなった? それって、どういう意味なのだ、と。

「いや、ひとりごとだ。おまえが気にする必要はないさ」

そのヒトはそう言うとそっぽを向き何も言わず、 僕の数歩先を歩いていた。

白嘘

やはりあの子の髪は白くなった。それを本人は気づいていない様子である。
肌も、元から白いほうではあったが今はよりいっそう白さが増している。
おそらく、このままあの子と彼女を会わせ続けていれば、白くなりきってしまうのだろう。
やはり会わせるべきではなかったのかもしれない。
だが双方が望んだことを、私は拒むことができなかった。
何より、彼女の異常性を確かめる好機でもあった。あの子は私に懐いている。
多少の言うことを聞いてくれるだろう。
しかし、いまさら彼女と会わせることはできないと言って、納得するだろうか。
……恐らくは、渋々ではあるが言うことを聞くだろう。
ならば今からでも、あの子と彼女とを引き離さなければならない。それはわかっている。
わかっているが……彼女も、あの子と出会うことを楽しんでいるように見える。

やはり、私には二人を引き離すことはできない。
あんなにも笑顔のなかった彼女が、あの子と出会ったことでようやく笑ったのだ。
それはきっと、彼女にとって良いことに違いない。

しかしこのままでは、あの子はどんどん白くなる。肉体的にも、精神的にも。
それを食い止めなければならない。
彼女と会わなくなれば、その影響から逃れることはできることはわかっているが……。

……仕方がないこと、なのかもしれない。私のミスだ。

 -----

「あの子は……?」

蚊の翅が落ちるよりも小さな声。あの子と会わせなくなって今日で三日目、
やはり見る見る元気がなくなっているのが見て取れる。
彼女の声を拾う集音器も、ついに最大倍率になった。それでも、ほとんど何も聞こえない。
恐らくは機材も白く染まってしまって、効率が落ちてしまったのだろう。
また取り替えなければならない。後で手配をしておこう。

「……白くなったよ」

嘘をついた。
あの子はまだ完全に白く染まりきってはいないが、
それはまるで染まりきってしまったかのように、彼女に告げる。
ガラス越しに見える彼女の顔に、少しの影が見えた。

「嘘だ」

予想外の言葉。最初は聞き間違いかと思った。

「そこにいるよ。また、あの時のようにあの子が私を見てる」

彼女の部屋からは外は見えないはずだった。
特殊な構造となっており、こちらから彼女の様子を見ることはできるが、
彼女からこちらの様子は見えない、そのはずだった。
それなのに、彼女はあの子の姿が見えるという。
振り返る。幾重ものガラスの向こうに、確かにその子はこちらを見ていた。
……やはり彼女にとって、白は見えないものと同じなのだろう。

「……会わせるわけにはいかないんだ。わかってくれるね」

彼女は私を見た。彼女から見ると、ただの白い壁のはずなのに。
そして、一度だけ小さくうなずき、またいつものように椅子の上に力なく座り、
虚空を見続けた。

 -----

「気分はどうだい」

その子へのインタビューは、毎日欠かさず行っている。
部屋へと赴き、椅子で正面に向き合い、いくつかの質問に答えてもらっている。
白くなるとはどういうことなのかは、以前の協力者が教えてくれていた。
何も考えられなくなるのだという。何も見えなくなるのだという。
何も言えなくなるのだという。何も何でもなくなるのだという。
白化は彼女から引き離すことで進行を止めることができる。
症状が軽ければそのまま色を取り戻し、意識も視力も気力も回復するが、
進行しすぎた白化は彼女から引き離しても症状は止まらず、やがて真っ白になる。
真っ白になった者は、もはや生きてはいない。例えるなら白紙のような、そんな状態になる。
その者が完全に白化し解剖したところ、皮膚も筋肉も神経も内臓も血液も、
全てが白くなっていた。
そしてその子は、順調に回復しているように見えた。以前より、色が戻っている。

「すごく良いよ」

でもその表情は暗い。彼女と会えないことにまだ納得できていないのは、確かだった。
ある程度は回復している。ならばもう、彼女と会わしても良いのではないか。
そんな意見も出てきた。もしまた白化すれば、また引き離せばいいではないか、と。
私はそうは思わない。白化は明らかに加速する。
白化の症状が治まっているのは、単に表面上はそう見えるだけなのだと。確信している。
その子の体内では、脳内では、まだ白化は続いているのだ、と。

「嘘はイケナイな」

蒼白の顔色で調子は良いといわれても、とてもではないが信じることはできない。

「嘘じゃないよ」

……さて、どうやら。なにがともあれ、その質問の答えは全て用紙に記入する。
本当に調子が良いかどうかは、後の検査でわかることなのだ。

「……彼女はどう?」

記入していた手が止まる。

「そうだね」

本当のことを言うべきか、それとも嘘をつくべきか。
用紙をペンで叩き、少しの間だけ迷ってしまう。
彼女は明らかにこの子と会いたがっている。そして恐らく、会わせたほうが良いのだろう。
しかしそれでは、この子の白化を促進させる結果になってしまう。
……やはり会わせるわけにはいかない。
白化が進みすぎることが、この子にも彼女にも良い結果になるとは思えない。

「彼女は……今は眠ってるよ。君と話して、疲れていたんだろうね」

だから会わせることはできない。そんな嘘をついた。
その子も納得したように、しかし弱々しくうなづいた。これで良い、はずだった。

白約

その日は雨が降っていた。彼女についての研究結果を見せられた日の午後だった。
彼女は周囲の、ありとあらゆるものを白化させる力を持っている。
白化したものは、総じてただ白いだけのものになり、人間であれば死んだと等しくなる。
例えば本であれば全ての文字、絵が見えなくなり、ただの白いだけの紙束になる。
それが壁であれば白くなり、ガラスであれば彼女に面している部分が白くなり、
まるでマジックミラーのように、片方からしか透してみることができなくなる。
果物であれば、それはただの白いなにか。食べることはできるが、それは白以外に何もなく、
食感は硬く、そして味はない。消化もされず、そのままの形で排出される。
毒にも薬にもなりはしない。少し小難しい感じで、そんなことが書かれていた。
そして僕は、その白化の症状が出ている状態らしい。
そういえば、と彼女に会っていたときのことを思い出そうとする。
何も思い出すことはできない。
記憶のその部分だけ、まるで白い紙を見ているかのように、何もない。
それより以前のこと。彼女に数個の文字を贈ったときのことは、かろうじて覚えている。
それで彼女が喜んだことも、覚えている。彼女のことを思い出すと、その笑顔を思い出す。

会うことはできないの? あの人にそう尋ねた。

「ダメだ。彼女も疲れている」

嘘だ。

「嘘じゃないさ」

あの人はもう、僕とまともに会話をしようともしなかった。理由はわかる。
僕の白化は治りはじめているのだという。
白くなった細胞は、まるで癌細胞のように増殖するが、それ自体は長く生きることはない。
だから多少の白化程度ならば自分の免疫だけでなんとでもなってしまうらしい。
しかし進行しすぎた白化は、あまりにも進行しすぎた癌細胞の如く、増殖が止まらない。
そして人は白くなる。白くなった人は、もはや人ではないという。

でも彼女は、僕を見てるよ。

誰にも言っていないことがある。僕だけの秘密にしようと、心に決めていることがある。
彼女は確かに僕を見ている。僕も白い壁の向こうの彼女が見えている。
白い壁のこちらと向こうから、まるでその白い壁が存在しないかのように。
きっと彼女にとって、白は存在しないに等しいものなのだろう。
その気になれば、あんな箱庭から外に出ることはたやすいのだろう。
そしてそんな彼女と、僕は約束している。ここから逃げ出そう、って。
壁の向こうで唯一の色がある彼女と、そう約束した。

「見えていないさ」

この人は、やはりわかっていない。

見えるんだ。

そういっても返事はなく、手元の白い紙に何かを書き込んで、出て行ってしまった。
僕も彼女になり始めているのだろう。
あんなに白かった髪も黒くなってしまった。けれども白い壁は、その奥が透けて見えている。
まるでそこに存在しないかのように。天井も、カーテンも、窓枠もシーツも、何もかも。
だから通れるかな、って思った。
ここを通ることができれば、彼女に会うことができるかな、と。

 -----

夜。黒の世界。何も見えず、眼を閉じる。白い揺り椅子が、前後に揺れる。
彼はどうなったのでしょう。これ以上、彼が私の傍にいたら、彼は白くなってしまいます。
でもきっと、彼は私に会いにきます。なんとなく、わかってしまうのです。
白い壁の向こう。私に面している全てのものは白くなってしまいます。
そして白くなったそれは、私にとっては存在しないものになってしまいます。
だから出て行こうと思えば、簡単に出て行くことができます。
でも、出て行ってなにができるのでしょうか? きっと何もできません。
迷惑ばかりかけるに決まっている。
だから私はここにいます。それだけの理由で、ここにいるのです。

でも彼は、私を逃がすつもりでした。約束だって、言っていました。
声は聞こえません。けれども、なぜかわかってしまいます。きっと彼が白いからなのでしょう。
彼と一緒に逃げる? きっとそれは、とってもすばらしいことなのでしょう。

「でもダメだよ」

彼の部屋は、私の部屋とかなり離れています。でも、彼がどこにいるのかはわかります。
眼を閉じていても、彼の姿を見ることができます。
私は、私によって白くなったものの全てを見ることができます。それは眼を閉じていても。
今は私の部屋の全てと、彼と、何百、何千、何万もの白い何かを見ています。
もともとは人であったもの、私を取り巻く何かであったもの、有象無象の全て。
今、白化しているの意志を持っているのは彼だけだから、彼とだけ話すことができます。

「白くなってるんだよ」

それがどうしたの? 彼は声に出したつもりでしょうけれど、その声は聞こえません。
でも何を言いたいのか知ることはできます。それはきっと、彼が白いからなのでしょう。

「私と一緒にいたら、白くなりきってしまう」

だから、ダメ?

「ダメだよ。白くしたくないから」

でも、見せたいものがあるんだ。

「白くなっても良いから?」

うん。僕が白くなっても、僕が白くなりきってしまっても良いから。

「それは、どんなもの?」

花。

「花は見たことがある」

××。

「見飽きてる」

君と見たい。

「私と?」

君と見たら、きっと満開のあの××は、とっても綺麗なんだろうな、って。

「……でも、ダメだよ。迷惑がかかっちゃう」

迷惑なんかならないよ。

「白くなっちゃうんだよ?」

それでも君に見せたいんだ。どうしても。

「どうしても?」

どうしても。

××という花は、正直に言えば見たことはありません。でもその存在は知っています。
それはこの季節にだけ咲く花で、すごく綺麗らしいです。
私は図鑑を見ることはできません。私が見ると、その図鑑はすぐに白くなってしまいますから。
だから、興味がわきました。

「わかった」

約束だよ。明日の夜。

「明日の夜だね」

明日の夜。私たちはこの施設から抜け出して、満開の××を見に行きます。
そう、彼と約束をしました。

白局

約束の夜。彼は……やはり、この場所に来ることはできそうにありません。
職員は私の性質を知っています。
私は、自ら協力してこの施設に、あの白い部屋にいることを知っています。
だからでしょう。私は、いともたやすく、彼と約束をした場所にくることができました。

でも、彼は違いました。彼は白いだけの、白くなってしまっただけの、ただの人です。
私のように、白いところを通り抜けることは、できません。
鍵を開けることもできません。まして、数多の人の目をかいくぐる事なんて、不可能でした。
私はそのことを知っていました。察していた、と言い換えたほうが正しいのかもしれません。
だってのに約束をしました。愚か、なのでしょうか。

彼の姿を、白い壁の向こうに見ることができます。
数体の大人が彼を囲んでいます。その手には、なにかの棒でしょうか? が握られています。
その色は黒く、だから私はそれが何かを見ることは叶いません。
何か言い争っています。ですがその内容はわかりません。
けれども確かなことは、やはり脱走は失敗に終わる、その事実だけでした。

彼の元に行くべきでしょうか? 悩み、座り込みます。夜の世界は、好きではありません。
目の前は街灯もない黒の世界であり、白の私とは正反対であり、拒絶しています。
私一人ではこの黒い世界を歩くことはできないでしょう。
こうして相対しているだけで、足がすくみます。
誰かの手に引かれ、ようやく歩くことができます。
それが、私がこの施設にいる理由のひとつでもありました。私は夜が大嫌いです。
二つの山を作った両膝を抱え込み、頭を埋めます。
背中の白い翅は、かすかに震えているようでした。

彼……ょを………とじ……な……でよ!!

彼の声が聞こえた、気がしました。やはり私は間違っていたのでしょうか?
私はこの施設で、不自由に感じたことはありません。
そもそも私は周りを白くしてしまうため、あの部屋から出ることは許されません。

やはり約束なんてしなければ良かったのでしょうか?
こんなことになるのであれば、最初から彼の誘いを拒絶すべきだったのでしょうか。
彼は、きっと二度と私と会うことは許されないでしょう。
そして私は、そのことを気にしなくなってしまうでしょう。
白くなる記憶は、あるだけ無駄ですから、すぐに忘れるようにしているのですから。

やはりあんなわがままを言わなければよかったのでしょうか?
彼だけでした。私の部屋を見ていたのは。他の人は、私を見てはいませんでした。
その黒い瞳に惹かれた、のは事実かもしれません。
ですが彼のくれたあの三文字は、もう白くなりきり、見ることは叶いません。
少しすれば、彼の記憶も全て白くなってしまうでしょう。白い記憶は、白いだけです。

やはり私は、存在してはならないのでしょうか?

叫び声、が聞こえた気がしました。顔を上げたくはありません。
どのような現実がこの白い両目に飛び込んでくるか、わかったものではありませんから。
眼を閉じても白を写す私のまぶたは、両目を覆う白い腕の先の地面を捉えていました。

 -----

私が悪いのだ。最初から、彼女とこの子を会わせるべきではなかった。
彼女のわがままを聞いてやるべきではなかった。
どうせ白くなる記憶なのだ。どうせ白くなる想いなのだ。悲しみさえも、白くなるのだから。
でもこの子と私は、この記憶と想いが白くなることはない。
こんなことになるのは、予測すべきだったのだ。許されざるべきことをした。彼と、私と。

「どうするんです?」

目の前には、ついさっきまで喚いていた物体がひとつ。
ところどころが白くなりかけ、しかしさっきまでは……。
左右にかぶりを振る。これはもう、何でもない。私は私の役目に戻らなければ。

「任せるよ」

その黒い棒状のものは、普段ならば収容物の鎮圧に使われる、ある種の兵器だった。
決して人間に使うものではない。だがこの施設では、このようなものしか置いてはいない。
それは普通ならばこの程度で十分であり、そして必要なのだから。

その子には悪いことをした。私は彼女を探さなければ。また、入り口にいるだろうか。
背を向ける。後で始末書を書かなければと思うと、少しだけ痛くなる思いがした。

 -----

やはり彼は死んだのでしょうか? その人に尋ねます。
その人は私を創りあげた張本人であり、事実上、私の父親でもありました。
ですから、その人の言うことはいつも聞いていました。優しい人、だと思います。
ですが、愚かな人でもありました。

「死んではいないさ」

いつも、このようにぼかした言い方をしています。

「だが、もう君はあの子と会うことはできない、な」

それはなんとなくわかっていました。彼は私を脱走させようとしたのですから。
死んだにせよ、死んでいないにせよ、どうせ私は全てを忘れてしまいます。
だから、もう悲しく思うことはありませんでした。どうせ、忘れてしまうのですから。

「そうですか」

私の表情は、やはりその人の目には悲しく映ったのでしょうか?
その人は悲しそうな表情を浮かべ、けれどもまたいつもの、優しい笑みを浮かべていました。

「帰ろうか」

ええ、帰りましょう。背を向けたその人の背についていきます。
廊下の壁も天井も真っ白で、だから私はその奥を見ることができます。
なにもかもが白いから、何も見ることはできませんでした。

管理された白い翅

管理された白い翅

全てが完全に管理された空間で、彼女は生きていた。白い肌、白い髪と、白い翅。 やはり白い毛の生えた翅は、彼女の調子に合わせて力なく動いていた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 白役
  2. 白本
  3. 白詩
  4. 白嘘
  5. 白約
  6. 白局