彩を愛した者 (巷に増殖中のガイ児の話)

やっぱり、予兆はあったのだ。
彩(あや)が西武遊園地駅近くの白いタイル張りのマンションに引っ越したのは、夏の初めだった。
「おまえ、こんなところに引っ込んじゃってさ。ガッコ(大学)行くの不便じゃね?」
「ええ~?そんなことないよ」
彩は笑って答える。
「だって、バイトには近いもん。ほら、シフトで夜おそくなったりするから、近いのが一番」
多摩湖を見下ろすそこは、昔は高級中華レストランだった。が、今は大資本らしく結婚式場や高級旅館まで併設している。
「お給料はそこそこだけど、雰囲気いいし、来年卒業したら、もう、正社員になっちゃいたいな。でも、聡馬(そうま)んとこから遠くなっちゃった。ごめんね」
「あ?彩がよけりゃ、それでいいよ。そんでも道けっこう暗いから気をつけろな」
そうなのだ。あれは引越しの晩だった。
荷物や細々したものを片付け、ちょっといちゃいちゃして眠った。
冷房をつけるほどでもなかったから、隣の農家の大きな庭に面した窓を開け放して風を通し、そのまま寝たのだ。
夜中にふと、イヤな気がして目が覚めた。なにか悪夢を見たのだが、思い出せない。
彩も起きたようだ。
「あ、聡馬起きてた?」
「うん、ちょっと…」
「変な夢見ちゃった」
「変な夢見ちゃった」
2人は同時に言った。シンクロしたことに笑って、彩がキッチンに立った。
「やっぱ、引越しって疲れるよね。なにか飲む?ヨーグルト系しかないけど」
「いや、外でなにか買って飲むワ」



 ここは3階だ。外階段をめぐり降りると川があって、橋を渡ると彩がバイトする大資本レストランに向かって、長い上り坂になる。
頂上を越せば、すぐ西武園と西武遊園地駅だ。坂道は結構広いのだが、3時近い深夜では、さすがに人通りがない。
途中、西に入る枝道があって、前に自販機がいくつか並んでいる。
枝道の先は数軒の住宅だが、突き当たりは共同墓地だ。黒々と緑が覆って、それだけに夜風がひんやりと心地よい。聡馬は墓など気にしないから、自販機の角に片手をかけて、その場で適当なものを飲んだ。
坂の上から足音が近づいてくる。
終電はとっくに過ぎていても、レストランの西にはコンビニがある。そこの客が帰ってきたのだろうと思った。
スニーカーっぽい柔らかめの音で、近づく気配から男だと直感した。ま、こんな深夜にたった一人でフラフラしている女がいたら、かえって怖い。
自分の後ろ、道路の反対側には街灯がある。自販機の明かりと街灯の光が相殺して薄くなった影が、足音とともに通り過ぎるのもわかった。
別に気にもしなかった。
(さて、帰るか)
振り返った。坂を下っていくだれかの背中が、間近に見えるはずだった。
だれもいなかった。
(えっ?)
反射的に坂の上を見た。
いるはずはない。ヤツは下ってきたのだから。



 「あれっ?だれか来てんの?」
玄関に高級スニーカーがある。今日の彩はバイトがないのだ。
「うん、元木陵(もときりょう)くん。中学のときのクラスメイト」
彩がニコニコと顔を出した。
「コンビニ行ったら、偶然会っちゃって。ちょっと寄ってもらったの」
「あ、どうも…」
陵が挨拶する。色白の線の細い男だ。神経質そうな長い指ととがった顎が、ちょっと取っつきにくい。ぎこちないが、それでも笑顔を向けてくる。
「どうも。初めまして。小野神(おのがみ)聡馬です」
こっちも笑顔を返す。
彩が楽しそうに話しだした。
「中学のときの友達なんか、もう、ばっらばらでしょ、懐っつかし~い。陵くんね、担任の先生とも親交があるんだって。あたし茂原先生大好きだったもん」
「別に。親父の患者ってだけ」
冷静な物言いだ。
「あ、陵くんね、北小平病院の院長先生の息子さんなの」
「ぼくは嫡男なんだ」
ちょっと睥睨するように言う。へんなプライドが高そうだ。北小平病院はこのあたりでもかなり有名ではあった。
「すごいな」
口先だけで驚いてみせる。親父の地位や名誉にすがるヤツなんか、タカが知れてる。
「医者を友達に持っとくと、なにかとイイって言うね。彩、よかったな」
「違う。友達じゃない。カノだ」
「えっ?」
「ええっ??」
聡馬も驚いたが、彩はもっと意外だったらしい。
「うそっ。そんなことないよっ。付き合ってもいないのに」
自信満々だった陵の顔色が変わった。
「そう思いたけりゃ、そう思ってろっ」
目が三白眼になっている。自分を否定されることに慣れていないのだろう。女を間にはさむと自分を大きく見せたくなるのは、男の常だ。
たぶん、陵は聡馬がこの場にいなければ、こんな態度はとらないのだ。
「陵くん、思ってろとか・・・そんな問題じゃないよ、ね」
彩がなだめるように彼の腕近くに手を伸ばした。
ほんの少しだけ指先が触れた。
「さわるな!誘惑する気かっ」
陵が瞬間的に身を引くのを見て、彩は驚くよりさきに謝罪していた。
「あっ、ごめんっ、ホントにごめんね。そんな気ないから」
「男女7歳にして席を同じゅうせずだろ。結婚まで女は男に触ってはいけない」
「え?・・・」
いつの時代の話だろう???
多分、医者という職業は常に誘惑にさらされているのだ。
まして、大病院の嫡男なら、でき婚や事実婚で強引に玉の輿を目指す女性たちには事欠かないだろう。
陵は小さい時から親にきびしく言い聞かされているのかもしれなかった。
そう思うと、心底、彼が気の毒だった。
「帰る」
陵が言い放って、それでも張りつくような笑顔を向ける。
「また、来る」
「本当にごめんね。ね、気にしないでね」
彩が気の毒そうに玄関で見送る。
陵が笑顔の張りつきを強くした。
「また、来る」
同じ言葉をくりかえして、そのまま去っていった。



 「ほんとにカノだったのか?」
聡馬の言葉に、彩はあきれたように首を振る。
「やだ、妬いてるの?違います、付き合ってなんか、い・ま・せ・んっ」
「だったら、いいけど…。男をやたらに部屋に連れ込むな」
「え…?聡馬、へんだよ。わたしの友達関係に口ははさまないって言ったのに」
「いや、そうだけど…。あいつ、なんか気味悪い」
「う~ん、そう言えば昔からちょっとコミュ症だったわね。っつうか、いじめられっ子だった。先生には気に入られていたけど、やっぱりお父さんの立場を鼻にかけるって言うか、そういうところがあって…。たいていの子が寄らず触らずだったけど、パシリに使っていじめてる子もいたよ。やっぱ、つらかったらしくてキレてね。それがすごい変わった方法」
「へ~、どんな?」
「うん、職員室とか校長室に泣き叫びながら飛び込んで、ホワイトボードとか、音は大きくてもそんなに自分にダメージのない物にバンバン頭や体をぶつけるの」
「知能犯だな」
「それを何度もやってた。ふつう、そこまでしないよね。でも、今、いじめ殺人とかいじめ自殺とかをみてると、やっぱり、そこまですべきなのかなって。わたしもスルーのくちだったから、気が咎めてるよ。ほんと、かわいそうだったなぁって…」
「うん。まぁ、院長の息子なら、自分は特別だと思うだろうな。中学生ぐらいまではね」
「そう。やっぱ、どんな理由があろうとも、いじめはいけないよね。だから陵ちゃんに会ったとき、やさしくしてあげようと思ったんだ」
「ま、人にやさしくしたいと思うのは、彩のいいとこだよ」
聡馬はおでこにチュッと口づけた。
「それをおれが来てぶちこわしたわけか」
「ううん、聡馬のせいじゃないよ。心配しないで。陵ちゃんはただのクラスメイト。同情はするけど、好きじゃないもの」
「そう思って安心しとくワ。あ~あ、いじめかぁ。そういえばおれもやられたな、やっぱ、中坊のとき」
「わかる。聡ちゃんはすごくいい子だったと思う。だから、やられたんだよ。いい子がいじめられる嫌な世の中だもん」
「いや、さ。しょってるって思われるかもだけど、けっこうおれ、ガキんときモテてた。そこまではよかった。中2の終わりのとき担任がさ、入学んとき受けた知能テストの結果をポロッとしゃべっちまったんだ。ふつうは言わない。だけど、担任としては知能指数よりもっと大事な精神成熟度数を重視しろ、といいたかったんだと思う」
「え~?知能指数いくつだったの?」
「160。これくらいまではけっこういるんだ」
「すごいよ。聡馬」
「そうでもない。平均が120くらいだから。学年に何人もいるはずなのに、バレたおれだけ白眼視。受験とかひかえてたから、ライバルはつぶせだったのかなあ。もう、集団でボッコボコだよ。卒業で逃げられたけど、今の時代だったら殺されてたワ」
「男子は怖いねぇ」
「おかげで精神成熟度数の重要性を、文字どおり骨身で感じた。彩も成熟度数高いよ。人として一番たいせつな度数なんだ」



ピン・ポーン。
インターフォンが鳴る。彩はサッと立って画像を見た。
いたのは聡馬ではなく、陵だった。
「いらっしゃい、陵ちゃん。2週間ぶり?でも、今度から来るなら電話かメールして」
「そんなら、ぼくに教えとけ」
彼は子供のように口を尖らせた。
「あはっ、そうだったね。知らなきゃ連絡できないもんねぇ」
「うん」
それで気分が変わったらしい。
「ぼく、好きなんだ」
新宿高野の箱を差し出す。開けると、見るからに高級そうな夕張メロンだった。すぐに食べられるようにひんやりと冷やしてあっって、いい香りがする。
「ありがと。今、食べる?」
「うん」とうなづく。
大学4年生にしては挙動が幼いが、友達に恵まれなかったせいで、社会性があまり育っていないのだろう。
うれしそうに張り付くような笑顔を向ける。多少、不気味とも言えなくはないものの、無邪気と言えば無邪気には違いない。
それに彼は彩からは用心深く距離をとる。
最初にうっかり、彼女の指が触れたことを忘れてはいないのだ。
世間一般の女と同じように見られて信用されていないのは哀しいけれど、これは女性にとっては安全のバロメータだ。
細かいことはあまり気にしないことにして、メロンを4等分にし、一人前を出した。
先割れのデザートスプーンを添えている。
「違うだろ!」
「えっ?」
陵はイライラと、もう一度「違うだろ!」を繰り返した。
彩は戸惑って皿を引っ込めた。
「??どうするの?」
「こうに決まってるだろっ」
皿をひったくって乱暴に残りのメロンを盛り付ける。大抵の人間なら、一つくらいは残しそうなものだが、それをしない。彩のためのものはないらしかった。
友達の家など訪れたこともないのだろうか?
「陵ちゃん、これ、おみやげでしょ?一人で食べちゃいけないんだよ。おうちの人に同じこと教えてもらわなかった?」
彩の言葉に
「ん~?」と硬直する。
心当たりがあるらしかった。
不承不承うなづいて、しばらく皿をにらみつけたのち、
「んんっ」
と一番小さな一切れをよこしてきた。
むしゃむしゃと一心不乱にかぶりつく。大病院の院長の息子にしては、礼儀も行儀もなっていない。甘やかされるだけ甘やかされた結果の野放図さなのだろう。
「うん、うまかった」
欲望を満足させると、匙を放り出して
「手拭き!」
と、のたもう。
彩が急いで出すと手や口をぬぐい、それを邪魔そうにテーブルに放置する。汁が飛んだままのクロスにはまるで関心がない。
たぶん、それはお手伝いさんか家政婦さんの仕事なのだ。
ある意味、小気味いいくらいの無頼ぶりだった。
ここまでのタイプは初めてだ。彩はあきれるよりも、希少動物を見る気がした。
「彩ぁ、メロンいいだろ~」
上機嫌で笑顔を向けてくる。
「あいつがいないうちに食べちゃった。あはははは」
あいつとは聡馬のことなのだろう。
いじわるをしているのに、手をたたかんばかりにケタケタと笑う。罪の意識が希薄すぎて、彩は釣り込まれて笑顔になった。
「陵ちゃん、そんなこと言っちゃダメ。みんなで食べるからおいしいんだよ」
「へっ?」
ポカ~ンと、絵に描いたようなマヌケ面をする。
奇妙なことだが、彼にはまったく理解の外の話らしかった。



その後、陵はちょくちょく遊びに来るようになった。
だが、最初の約束の電話連絡はかたくなにして来ない。そのうち、彩のほうが根負けして何も言わなくなった。
時々、食べ物を手土産にするが、自分の好物ばかりで、何か食べたくなると部屋にやって来る節もあった。
それでも大半を自分が食いつくしても、彩と聡馬の分はちゃんと自分で取り分けができるようになってきた。
最初の彼の姿を知っている彩には、それが大きな進歩に見えた。
(やっぱ、人の成長には友達が不可欠なのね)
あの時は本当にびっくりしたけれど、だんだんに陵が好ましく思えてくる。
多少の異常性はあっても、それが改善される過程は、幼児か年の離れた弟でも見るようで、不快ではなかった。
彩には姉はいるが弟はいない。
(こういうのって、母性本能なのかな?)
ぼんやりとそんなことを考えたりした。
聡馬も聡馬で、
「聡、殺すっ」
と、陵が幼児のようにわめきながらプロレスもどきの技をかけてくるのを、気にもしないであしらっている。
彼は背も高く、学生馬術で鍛えているから、男も惚れる強靭な筋力と抜群の運動神経に恵まれている。
非力な陵の掛ける技など、歯牙にもかけない。
今日もしつこくまつわりついてくるのを片手で防ぎながら、コミックを読んでいる。
そのうち眠くなったのだろう。陵を振りほどくと、さっさと彩のベッドに寝っころがって目をとじた。
ぽつんと一人になった陵は、床にあったタフ紐を所在なげにいじっている。さっき、いらなくなった参考書をそれで束ねたのだ。
「やっと静かになったわねぇ」
彩は彼に笑いかけてキッチンに立った。食器を洗い、調味料のケースを整えて、ちょっとシンクを掃除する。
「聡、殺すっ」
(あ、またやってる…)
だが、跳ね上がるような甲高い声に、尋常でない響きがあった。
なぜかゾッとした。
「聡っ?」
陵がタフ紐で聡馬の喉を絞め上げていた。一重結びを作って、もろに絞める。
チラッとこちらに向けた目が、ワクワクと輝いている。
「陵ちゃんっ、ダメっ」
聡馬が横たわったまま、確実に指を一本一本こじあけてもぎ離すのが見えた。
劣勢になった陵が、ギャハギャハ笑いながら逃げる。
一歩で追いついて、その首に紐をかけ、冷静に引き絞る。陵がジタバタともがくのをしばらく無視して、それから開放する。
陵は涙とよだれでくしゃくしゃに泣きじゃくる。
「な。苦しいだろ。二度とやるな!」
「よく、もっ、やっ、たなっ!」
おお息をつきながら、恨みがましく叫ぶ。
「ち、くしょうっ。か、帰るっ」
言いざま、キッチンのタオルをひったくって鼻をかみ、床にたたきつけた。涙で真っ赤に血走った目のまま、陵はドタバタと出て行った。
「聡、やりすぎじゃない?…」
しばらくの沈黙の後、彩がやっと口をきいた。
「いや」
聡馬は首を振る。
「今日のはちょっと、おれでもキツかった。あのバカ、いつか人殺すぜ」
「ウソ…」
「限度を知らないヤツは、遊びの延長で殺っちまうんだ。ま、懲戒しておいたから、大丈夫だろう。心配ないよ、彩」
聡馬は彼女を胸に抱き寄せた。
「馬術部でもあるんだ。馬でもね。甘えて、ちょっと咬んでくる。すぐに離して、また咬む。だんだん強くして最後は本気だ。だから、人間が怪我をしない程度のところで叱って、罰を与える。陵にもそうしたんだ」
「そう…。もう、懲りたみたいね」
彩が彼を見なおして、びっくりして体を離す。
「首っ、すごい…」
「えっ?」
鮮やかな紐のあとが残っていた。強い拘束のために皮膚が擦り切れ、ささくれ立って血の滲んでいる部分もある。
かえって、彼は笑わざるを得なかった。
「あちゃ~、あいつ、そこまで本気だったのか?」
「もう、いやっ。陵くんとはさよならするわ」
「いいよ」
聡馬は無頓着に言った。
「馬なら、かえって有能な固体もある」
(人間でしょ?)
と思ったが、黙った。
彼は新馬でも調教しているつもりなのだ。
野放図で身勝手で、自分のことしか考えられないサルのような陵は、それはそれで不思議な魅力があるのも事実だった。



聡馬はバイトを終える彩を待っていた。今日は結婚式があったから、遅番の彼女の帰りは夜の11時ごろになる。
暇つぶしとボディガードをかねて迎えに来たのだ。
多摩湖を道路ではさんで高台に建つそこは、夜の人造湖を黒々と見下ろして静かだ。
待つほどもなく、10人ほどが出てくる。車や自転車、駅を利用する者、彩のような徒歩もいる。
「聡馬、待ったぁ?今日は村野さんと一緒なの」
彩のそばには、50歳くらいの小太りのおばさんが寄り添っている。
「あら、あなた、彼氏の小野神くんね。紀乃崎(きのさき)さんから聞いてるわ。う~ん、なかなかのイケメンだわぁ」
目が合うなり、にこにこと話しかけてきた。紀乃崎さんとは彩のことだ。
聡馬も笑顔で挨拶する。
「あたしね、いっつも車なんだけど、昨日の晩、半ドア気がつかないでバッテリーあがっちゃった。わはは、ほんとにバカ!あたしってバッカよねぇ」
元気に言って、豪快に笑う。
「小野上くん、あなた。彩ちゃんを大事になさいね。とってもいい子よぉ。しっかりつかまえて、放しちゃダメよ。お嫁さんにするまでヒモでつないどきなさい」
「やだぁ、村野さん。そんな言い方」
「な~に言ってんの。あたしね、ここの古だぬきババアだから言わせてもらうけど、彩ちゃんみたいな素直なバイトさんは、ホント、今どき貴重よ。孫の嫁にほしいくらいだわ。って、まぁ、まだあかん坊なんだけど・・・」
一方的にしゃべりまくるが、言葉の端はしに人の良さがにじんでいる。
「それから、あたしね、ちょっと霊感があるの。ぎゅ~っと精神統一しないとだめなんだけど。悩み事から体調まで、なにか気になることがあったら見てあげる。この間なんか友だちの脳梗塞の前兆見つけちゃった。精神一到何事かならざらん、よ。ま、疲れるけど」
何事かならざらんは、ちょっと意味が違うんじゃないかと思ったが、あえて黙った。
しゃべるだけしゃべって「じゃあね」と手を振り、村野さんはさっさと山口城址方面に去って行く。
「彩ぁ、おまえ、スゴイ先輩に恵まれたな」
笑いながら言う皮肉に、彼女も笑い出した。
「にぎやかでしょう?紀乃崎さん、、紀乃崎さんってかわいがってくれるいい人なんだけど、ちょっと疲れるの」
「うん、精神一到しなくても疲れるタイプだな」



「そういえば、このごろ、昼間なのにへんな足音と気配感じるんだ。彩は気づいてる?」
聡馬が思い出したように言った。
彩はベッドの上、彼はいつものように床の上で夏掛けにくるまっている。もう、9月末なのに、まだまだ気温は高いのだ。
「あ、聡ちゃんも?たまにあるよね。わたし、気のせいかなぁって思ってた。」
「ああ、彩もか…。ま、無害だとは思うけどね。大学4年って、来年には社会人か否かを突きつけられるからね。まじめに考えれば考えるほど、いろいろある。神経過敏になってもおかしくないよ」
「ほんとにそう。迷ったけどあたし、やっぱり進路、バイト先のあそこに決めたの。ばっちり内定取っちゃった。福利厚生しっかりしてるし、事務から接客、セッチングからコーディネートまでマルチな能力が要求されるの。それがとっても楽しい。社員さんもみんないい人だし」
「そりゃ、よかった。あのマシンガントークの村野さんも喜ぶよ」
「うん、まだ言ってないけど、目に浮かぶわぁ」
「おれはどうしようかなぁ…。いづれ、親の会社継がなくちゃいけないけど、もっと勉強したい気もあるし。だけど、その方向がね、ちょっと不明なんだ。おれ、ひょっとしたら、ガッコ入りなおして馬専門の獣医になるかもよ。まだ悩んでる段階だけど、ま、来年には決めるワ」
「聡ちゃんはお馬さんだけじゃなく、お勉強も好きだもんね。知は力なり、って」
「あはっ、まあね」
2人はそれで黙った。
でも会話したせいか、頭がさえて眠くない。彩が彼のほうにコロンと寝返りをうった。
「聡馬」
「うん?」
「わたし、聡に言ってなかったんだけど…」
「なに?」
「うん、…やっぱ言わないほうがいいかなぁ…」
「あ?なによ。言って。おれが怒るようなこと?」
「ううん、怒らないとは思う」
「じゃ、なに」
「あのねぇ、わたし、この前、陵くんにプロポーズされちゃった」
「ええっ?」
「卒業したら、結婚しよう、って…」
「……」
「わたし、断ったよ。早すぎるし、うちはサラリーマンだし。玉の輿なんか疲れちゃう」
「彩の親父さんは有名企業の部長職じゃん」
彼は反発した。
「医者なんか、昔は賎業だったんだぜ。奴隷の職業だ。むこうが逆玉だよっ」
「聡、怒らないって言ったのに。そんな言い方、らしくないよ」
「怒ってないっ。ただ、あいつ、意外に手が早いって、びっくりしただけだ」
「手が早いって・・・?。手も握って・ま・せ・んっ。もう、怒りんぼ!」
「・・・・・・」
聡馬は無言でふくれた。彼にしては珍しい反応だった。



 10月に入ってからというもの、がぜん馬術部が忙しくなっている。
彼は障害飛越と馬場馬術の両刀遣いだから、11月、12月の小規模大会に出る後輩たちの指導にあたる。馬術界では新進気鋭としてけっこう有名なので、みんな聡馬に教わりたがるのだ。卒業まで自分のことも含めて、予定は目白押しだ。
気にしつつも、彩の部屋からは遠のいてしまう。
当然のことながら、陵がそれに取って代わる。
「彩ぁ、考えた?」
「なぁに?」
「んもう、覚えとけよっ」
彼はじれったそうに、手足をバタバタした。
「結婚だよ。忘れるなっ。大事なことだろっ」
「ああ、それ?」
彩は困惑する。
「あの、さあ。もう何度も断ったよね。わたし、しばらく社会で働きたいの。結婚はもっと先のこと」
「もう、頑固やめろよっ!ぼくは彩と結婚したいんだ。それでいいんだよ。社会に出たけりゃ、その後だ」
「陵ちゃん、そりゃ、あたし、陵ちゃんのこと嫌いじゃないよ。でも、それとこれとは別の話なの」
「だからぁ、ぼくは彩が好きなのっ。彩はかわいいし、いい女だ。女なんか、かわいくなきゃ、価値ないよ」
かなりの問題発言だった。でもこれは、この年齢の青年たちの間では、けっこう本音として飛び交う言葉でもあるのだ。
「彩はぼくと結婚する。それでいい。だれも反対はさせない」
結論は出たという感じでドヤ顔をする。
「ぼくに好きになってもらえて、彩はほんとに幸せなんだ」
ひょっとしたら、こういうのを純粋と言うのだろうか?
あるいは天然と言うのだろうか?
たしかに悪意はない。自信も満々だ。彩を好きという心に偽りはないだろう。
条件としても父親は社会的地位や信用もあり、家族や家庭的にも恵まれ、裕福で結婚相手としてはなんら不足はない。
これが世間で一番の幸せとされる「望まれた結婚」なのだろうか?



 「紀乃崎さん、あなたぁ、彼氏かえたのぉ?」
村野さんがいきなり言ってきた。
「え?あ…」
「あなた、気が付かないでしょうけど、もう、3回も見たわぁ。そこのコンビニ。2人でちょくちょく来てるのね、小野神くんじゃない誰かと」
「ええ…。あのぉ…、聡馬にはフラれたみたいなんです。このごろケンカばかりで、それっきり冷たくて…」
「ほんとに?フッたんじゃないのぉ?」
「ほんとです…」
「そう?あたしから見たら、小野神くんのほうがよっぽど相性いいように見えるわよ。今度の子は、そうねえ、ちょっと難しいタイプよねぇ」
「元木くんと話してもいないのに、そんなふうにいわないでください」
「え?あ、ごめんね。元木くんっていうんだ」
村野さんはちょっと考え込んだ。
「元木って、なんか聞いたことあるわねぇ。ええと…」
「あの、元木陵くんっていって、北小平病院の院長先生の息子さんなんです」
「そうだっ、そう、そう。その院長さん、この間もテレビ出ていたわぁ。なかなかハンサムなお爺さんよねぇ」
彩はちょっと笑った。村野さんといくつも変わらないのに、彼女にとっては元木院長はお爺さんなのだ。
「で、あなた、惚れているの?その元木くんに。遊びじゃなく結婚前提でってことよ。小野神くんフッて遊びじゃ、おばさん、許さないわよぉ」
「…はい。最初から彼がすごく積極的で…。でも、あたしには聡馬がいたし」
「そうよねぇ。小野神くんはホント、きちんとしたいい子だもの。…あなたぁ、ひょっとして元木くんのプラスアルファにヨロめいたんじゃない?」
「えっ?」
ヨロめくなんて、ものすごくイヤな言葉だった。
「ひどい…。そんなことありません」
「そう?女にとって結婚は重大問題よ、今も昔もね。だから、その気はなくても、ついつい人柄や相性以外の要素も加味しちゃうのよねぇ。ところがそれが落とし穴。価値観の相違だ、喧嘩だ、別居だ、離婚だって、苦しむことになるのよ。ま、どうせ結婚は先のことでしょうから、十分、元木くんを見極めればいいわ」
彩は迷った。
(村野さんに打ち明けるべきだろうか?)
陵は心底、彼女に惚れているらしく、ものすごく積極的で、独善的に行動していた。
つい数日前にも、
「彩ぁ、おまえの親に会ってきた。お母さんが、どうぞよろしくお願いしますって、頭、何度もテーブルに擦りつけてたぞ」
と、突然、当然のことのように言ったのだ。
「ええっ??」
青天の霹靂だった。
彼女は結婚そのものについても、まだ、色よい返事はしていない。
それなのに陵はひたすら先走って、外堀を埋めてくるのだ。
もう、親まで巻き込んで、卒業後の婚姻を事実化しようとしている。そこまでするということは、自分の親にも当然彼女のことを話し、ある程度の了解を得ているに違いない。
その強引さが恐ろしくもあった。
彩がまだ迷い、悩み、決断できないでいる一生の問題が、彼女の気持ちを抜きにして、どんどん追い詰めてくるのだ。
「村野さん」
彩はささやいた。
「あたし、ほんとは困ってるんです。相談に乗ってください」
「えっ?あっ、いいわよ」
彼女もささやき声になった。
「職場じゃマズイから、仕事終わっていっしょに帰ろ。あなたの部屋でゆっくり話そうね」



 彩の部屋の窓に明かりがついているのが見える。
だれかいるのだ。聡馬か陵か?
恐る恐るドアを開けると、
「彩、お帰りぃ」
久しぶりの聡馬の声がした。彼女はホッと安堵する。
「あ、村野さん、こんばんは」
彩の隣にいる人影を目ざとく見分けて挨拶する。
「お久しぶり、小野神くん。ちょっと、いい?おじゃまかしらね」
「いえ、いえ」
一人で酒盛りをしていたらしいテーブルの上を、すばやく片付ける聡馬を見て
(あらぁ?この子、ずいぶんやつれたわねぇ?)
と疑問に思う。
「聡ちゃん、やっぱ、ここ遠い?…このごろ、ずうっと来ないものね…」
彩が村野さんのために座布団を出したり、お茶を入れたりしながら遠慮がちに尋ねる。
「いや、まぁ。…今だけだよ」
(ふ~ん、彼女はフラれたみたいって言ってたけど、彼にはそんな気はなさそうね)
軽く状況把握してから言葉をかける。
「小野神くん、紀乃崎さんね、いろいろ悩んでるみたいよ。君がそばにいてあげられればいいんだけど」
「はぁ…」
彼女の言わんとするところがわかるらしく、口ごもる。
「じゃ、話して。彼氏の前で。奇しくも彼がいてくれて好都合だわぁ」
聡馬が彩にまっすぐに目を向けてくる。何の話かピンときたのだ。
二人だけだと、いつも気まずくなる話…。
でも、もうためらってはいられない。
彩は陵に対する今の自分の気持ちが、友情だか愛情だかわからないこと、実家に相談しても母親が大乗り気で、ひたすら祝福されるだけなどを正直に話した。
「父と母は、ほんとに仲がいいんです。なんでも母が最優先だから、あたしや姉が嫉妬しちゃうくらい…。父も陵くんみたいに、恋愛にものすごく積極的なタイプで、今でも毎日母のところに通ったのを、『深草の少将』か『カノッサの屈辱』みたいだったって笑うんです」
「あはははっ、うらやましいわねぇ。うちの宿六亭主に聞かせたいわぁ」
彩も聡馬もちょっと笑った。村野さんの口から出る昭和の言葉は、古い日本語の情愛を偲ばせてほほえましい。
「父母も当時流行った学生結婚だったので、卒業すぐの結婚になんの疑問も持ってないんです」
「なるほどねぇ。そういう事情なら、あなたのお父さんもお母さんも、反対はしないわね。むしろ、良縁と思っちゃう。じゃあ、小野神くんは紀乃崎さんのことをどう思ってるの?うっかりすると君、こんないい彼女を取られちゃうことになるのよ」
聡馬は彩をチラッと見て、苦渋の表情をした。
「いや、おれは陵なんかより、よっぽど彩が好きですよ」
言いつつ、青年らしい自負がその顔をよぎる。
「それは断言できる!」
「あらら、彩ちゃんは幸せね」
彩は肩を縮めて思わず顔を伏せる。うれしいけど、第三者の前ではやっぱりちょっと恥ずかしい。どんな表情をしていいのか、一瞬迷ってしまう。
「ただ、おれは…彩を幸せにできるかという意味では、陵に劣るかもしれない」
「どういうこと?」
「はい…。つまり、おれにとって、結婚はまだまだ先のことなんです。家は事業してるんで、いつかは親父の後を継ぐにせよ、もっと学びたいし、もっと社会を知りたい。親父はいつも言うんです。土方になってでもいい、6、7年、社会でのたうち回ってから帰って来い。他人の飯を食って、苦労してからが一人前って。会社経営はそれだけ厳しいってことでしょう。甘ったれた二世にしたくはないみたい」
「正論よ。小野神くんのお父さん素晴らしいわぁ」
「おれ自身は、獣医になりたい希望もあります。馬の医療って日本はまだ遅れてるんです。イギリスが進んでるんでそっちのガッコ行こうかなとか。…だから、もし、おれと結婚したら彩は苦労するかもしれない。やっぱり、そんなことはできない。彩がかわいそうだ。跡を継ぐにせよ、おれのところは80名足らずの小企業だから、今の世の中じゃ吹けば飛ぶようなものだし」
彼は彼女を振り向いた。
「彩、おまえは陵と結婚したほうが…」
彩は思わずさえぎった。
「それが結論なのっ?」
悲鳴のようだった。
「あ、いや…」
聡馬はとぎまぎと黙った。
「状況はよくわかったわ。紀乃崎さん、あなたは小野神くんにフラれてなんかいないし、元木陵くんもモーレツにあなたが好きね。二人は選べないから、本当に迷っちゃうわよねぇ。それでも、やっぱり結論を出すのはあなた自身よ。つらくても納得がいくまで、とことんつきつめて考えなくちゃダメ。おばさんはただの聞き役。でも、他人が入ると問題の本質が見えてくるでしょ」
そうなのだ。二人で話しているとやっぱり堂々巡りになって、しまいにケンカになる。
彩にとって、聡馬の思いやりが優柔不断に見えるし、聡馬は陵にくらべて自分が至らないように思えてイラつくのだ。
「さて、おばさんはそろそろ帰らなきゃ。でも、その前に小野神くん、あなた、具合が悪いんじゃない?顔色、あんまりよくないわ」
「えっ?」
彼はきょとんとする。
「いえ、絶好調ですよ」
「そういえば、聡馬はたまに、へんな夢みるんですって。それがいっつも同じ夢って、おかしいですよねぇ?」
彩も心配そうだ。
彼は首を振る。
「いや、このごろ部活で馬上にいる時間が長くて…。体の使いすぎで、夢に筋肉痛や神経痛が出てるんじゃないかと」
「でも、だれかに何かされて、それが痛くて苦しいんでしょう?」
彩はかえって眉をひそめる。
「うん。まぁ、夢だから」
「彩ちゃん、彼氏、思ったより深く悩んでいるのかもよぉ。口には出さないけど…。おばさんは夢判断なんかしたことないけど、夢のだれかって、あんたたちが直面してるこの問題のことよ。それを象徴してるわ。痛くて苦しいのは、彼の心そのまま。思いがまんま夢に現れてるんだわぁ」
「いや、おれ、そんなに弱くないですよ」
「君はあんがい頑固で傲慢ねぇ。馬なんていう人間よりはるかに力があっても、それなりに友好的な生き物を扱ってるからかしら。へんなプライドはいらないの!彼女に彩ぁ、捨てないでってしがみつくくらいのことはしなさい!ほんとうは君、そうしたいくせに」
「えっ?いや、おれは別に…」
真っ赤になってしどろもどろになるのを見すまして、村野さんは帰っていった。



「だからぁ、頑固やめろって言ってるだろ!素直になれっ」
陵が大声を上げた。
彼はこのごろ、とみに横暴になっている気がする。
おそらく自分がこうと決めた考えや意思を、あからさまに拒絶されたり、反対されたことがないのだ。たいていの人間が一目置く自分に対して、なびいてこない彩の気持ちが理解できないらしい。
「陵ちゃん、怒鳴らないで。今日はイヴだから、みんなで楽しくやろうよ。その話はあとで、また話そ。ほら、そろそろ聡馬が来るよ」
彩が困り顔でなだめる。
陵は今になっても、かたくなに彼女の気持ちを認めようとしない。
それでも彩の繰り返しの拒否で、さすがに結婚話を周りに吹聴するのは、独り相撲丸出しと気づいたらしい。プライドの高い彼は案外、そんなことも気にする。
電話や訪問で彼女の両親を追い回すのはやめたが、今度は彼女がわざと自分を困らせているという妄想に取り付かれている。
彼はイライラと額にしわを寄せ、ツリーにパンチをあびせたあげく、玄関に通じるリビングのドアを2回もドアバンした。
何かに当り散らさないと気が治まらないようだ。
「やめて、隣の部屋の人もいるし」
彩が懇願しても機嫌はなおらない。キッチンに移動して包丁をつかみ、サラダ用の野菜をグサグサ刺したりするのがちょっと怖い。
「これ、陵ちゃんの好きなカティスのクリスマスケーキだよ。見て、金箔とチョコクリームがいっぱい。おいしそうでしょ」
機転を利かして、歓心をかう。
あれほど不機嫌だったのに、大判のチョコケーキをテーブルに出すと、今までの怒りを忘れたように張り付く笑顔を向けてくる。
好きなものや興味の移行によって、一瞬にしてコロッと気分を変えるのは、陵の奇妙な性癖のひとつだ。
まるで上書きされたかのように、新しい事象のみが関心事になる。
「食べる!」
いきなり言って、テーブルの前に座る。
「でも…。聡馬が来るまで待ったら?もう来ると思うよ」
「いい。食べる」
たぶん、わざと駄々をこねて、意趣返しをしているのだ。
彩は苦笑して、彼の自由に任せた。
いつまでもキッチンにディナーを置いておくわけにはいかない。気に入ったグラスを選び、海鮮やチキン、サラダやステーキなどを運ぶ。
玄関で音がする。
「あ、聡?遅かったねぇ」
「ああ~、悪い、悪い。後輩たちがいつもお世話様って、いろいろしてくれたんだ。そのお相手で遅くなった」
紙袋をぶらさげてリビングに入る。
「おう、陵~、元気?」
聡馬は屈託がなく、物にこだわらないタチだ。陵が抜け駆けして、彩を自分のものにしようとしていることには、あまり悪意を抱いていない。むしろ彼女から、友愛しか得られない現実を気の毒に思っている。
陵は陵で、たぶん気づいていないと思っているのだ。しゃあしゃあと口をぬぐいっぱなしでいる。おおっぴらにタカをくくっているのが見え見えでも、聡馬の態度がよそよそしくならないのは勝者の余裕なのだろう。
だから、クリスマスを一緒に過ごす友達すらいない陵を、この席に呼んだのだ。
彩も、ほんとは二人だけで過ごしたくても、仮にも自分を好きだといってくれた陵が、孤独にぽつんとしているかと思うと気が咎めてしまう。
「あれっ、もう、食べちゃったの?」
聡馬の声に彩も陵を見る。
あれだけ大きなホールケーキが影も形もなくなっていた。
少しであっても、彩と聡馬の分を自分で取り分けられるようになったはずなのに、見事に最初に戻っている。
それにしても異常な甘いもの好きだ。一度にそんなに食べて、気持ちが悪くならないのだろうか?リミッターがぶっ飛んだ嗜好も、陵の七不思議のふたつめだ。
「聡が悪い。ちゃんと早く来ないからだ。ぼくは悪くない!ぼくはお腹がすいてかわいそうなんだ。聡馬はぼくに謝罪すべきだ」
相手の事情など眼中にない、子供のような被害者意識も不思議の3つめで、おもわず笑ってしまう。
「わかった、わかった。おれが悪い」
聡馬が紙袋を渡す。
「この中にもらい物がいっぱい入ってる。あげるから気分なおして」
「ん~」
ひったくるように、のぞきこむ。
「うん、ま、いい。これからは早く帰れ。わかったら、二度とぼくを待たせるなっ」
威張りくさって言うのを聞いて、二人はまた笑った。この尊大ぶりが4つめ。
袋の中には結構有名店のプチケーキやクッキー、チョコやパイなどが小口に包装されて、たくさん入っている。
陵はそれを片っ端から食い散らかして、上機嫌だ。
有名病院長の二世として、人もうらやむ学歴なのに、この幼児性はなんだろう?
まあ、やっと甘えられる友達を見つけて、退行現象が起きているのだとは解釈できる。
陵の気に入らないことをしたり、言ったりしない限り、大きな赤ちゃんのようにかわいいところもあるのだ。
人付き合いの経験に浅く、うまく距離感を保てない彼を、だからといって責めるのは確かに酷なことだった。



シャンパンで乾杯した。
陵は酒に弱いから、ちょっとなめただけで
「うぇ~っ」と、露骨にマズイという意思表示をする。
「コーラあるよ。好きでしょ」
彩が身軽に立って、よく冷えたコーラとグラスを出してやる。
「氷っ」
「え?陵ちゃん、これ、すごく冷えてるんだよ」
「いい。氷っ」
ご要望に沿うしかない。
いったいどうするのかと見ていると、グラスにほとんど満杯に氷をつめこみ、それに頓着なくコーラをそそいてしまう。
当然、すぐにテーブルにあふれて周りをぬらしているのに、それは全く意に介さない。赤子でない限り、状況は把握できそうなものだ。これも七不思議の5つめだが、家ではお手伝いさんや家政婦さんが文句もいわずきれいに処理してしまうのだろう。
乳母日傘で育ったらしい陵は、彼女らに仕事を与えてやっているくらいの認識なのだ。
「ダメ、きれいに拭かなきゃ」
タオルをわたすとちょっとテーブルをこすって、それでそっぽを向いた。きれいにする気などは最初からない。
彩はため息をついたが、今日は楽しくやるつもりだから、深く追求はしない。
実際に彼は楽しそうだった。
日本で有数の医学部の学生らしく、習い覚えた知識をペラペラと披露する。それが脈絡もなく、しかも際限なく続くのだ。
それを彩も聡馬も、文句も言わず延々と聞いてやっている。
友だちとの心の交流どころか、自己満足のみで傍若無人、他に人無きが如き振る舞いも不思議の6つめ。
おまけに部屋には暖房が最高設定でついている。異常に冷たい飲み物を好むくせに、陵は寒がって、真夏のような室温にしたがるのだ。夏は夏でエアコンを最強にして、冷凍庫のようにしないと気がすまない
この体温調節の未熟さこそ七不思議の最後だ。
二人はやっぱり暑いから彩は薄い半そでセーター、暑がりの聡馬に至ってはタンクトップ一枚で、20代前半の青年らしい若い骨格と均整の取れたしなやかな筋肉を見せている。
陵が何かに興味を持ったらしい。
横から手を出して、まるで子猫がちょっかいを出すように、ちょんちょんと突っつき始めた。
聡馬が一瞬、硬直した。遊びの対象が、タンクトップの布地を突出させている、彼の乳首だったからだ。
「ダメ、感じちゃうだろ。コレいじっていいのは彩だけ」
はらいのけても、こういう時の陵は辟易するほどしつこい。中腰になってなおも手を伸ばしてくるのを、一計を案じて気分転換させる。
「ダメ~、やめないとこれだぞ~」
両手を伸ばしてわきの下をコチョコチョしたのだ。
キャハキャハと、陵は幼児のような歓声を上げて床を転げた。
「は~い、おしま~い」
いいかげん楽しませてやってから、聡馬は酒にもどる。
友達役もなかなか大変なのだ。
陵はしばらく床をゴロゴロしていたが、いきなり、ドサンと彩のひざに頭を乗っけてきた。
「あっ。あ~、びっくりした。陵ちゃん、いきなりだもん…」
彩はちょっと困惑して聡馬の顔色を伺う。
彼はギラリとその様子を見たが、陵がのんきに、
「ん~ん、ん~、ん、ん」
と、鼻歌を歌っているのを見て、顔色を和らげる。
陵が自分から彩に触れてきたのはこれがはじめてだが、母親のひざのつもりなのだろう。
かたくななまでの女性にたいする警戒心や不信がやわらいできたのは、陵にとってのプラスだ。
軽くうなづいて彩を見た聡馬の目は、
(ま、ちょっとはかんべんしてやろう)
と言っている。
彩も別に異論はない。
大学4年生にもなってから、友達との信頼関係を学んだり、構築しなければならない陵は、かえって気の毒な気がする
共依存になっているかもと疑ってもみるが、なぜか無下にはできないのだ。
今夜の彩は、やさしいサーモンピンクのセーターに黒のストレッチジーンズ、髪を軽くたばねて、細くてきれいなうなじを見せている。
ひざからの陵の視線で見ると、大きくはないが形のいいバストときゃしゃなあごが目立つ。
小さくてぽっちゃりした唇が愛らしく、チャーミングな鼻、大きな瞳と長いまつげが人形のように魅惑的だ。
「んんん~~、彩ぁ」
「きゃあ~ぁ」
彩が悲鳴を上げて陵をはねのけた。
聡馬が一瞬で、その間に滑り込む。
「何をしたっ?」
「してない、ぼくは何もしてないぞっ」
していないどころではなかった。陵は両手で、彩の胸をもろにわし掴みにしていた。
陵はなぜこうも、極端から極端に走るのだろう?
「うそをつくな!陵、おれが見ていないとでも思うか。おまえはもう、帰れ」
「いやだっ。ぼくは帰らない!」
いつもは旗色が悪くなると、二言目には
「帰るっ」
とわめくのに、今夜はまるで人が変わったように拒否する。
「いいか、おまえと彩は友達なんだ。友達にそんなことをしてはいけない」
「ちがうっ、聡はうそをついてる。彩はぼくのカノなんだ。おまえが来る前からだ。聡が割り込んだんだ。おまえが悪いっ」
「陵ちゃん、やめて」
彩が言った。泣きそうな声だった。
「もう、何度も何度も何度も言ったよね。陵ちゃんとは友達なの。聡馬とは違うの」
「彩はまちがっている。ぼくが正しい。彩はぼくを好きなんだぞ。だから、ぼくと結婚する。当然だ。彩が空気読めないだけだ。でも、ぼくはそれを叱りはしない。女なんかそんなものだからだ」
「へぇ~。ずいぶん上から目線じゃないか」
聡馬が口をゆがめた。彫りの深い顔立ちの大きな目が、今は鋭くなっている。あごをぐっと引いた上目遣いの目が三角になって、すごい迫力だ。
陵はたちまち怯む。
「おまえは、もう、帰れ。で、しばらく来るな」
玄関ドアを開け、ぐずぐずしている陵の首っ玉を、犬っコロでも下げるようにつかんだ。
「いやだっ。やめろ、帰るっ。帰るから放せぇ」
ジタバタしてわめいて、お情けで放してもらう。
瞬間、陵が豹変した。
「彩ぁっ。おまえの裏切りはこいつのせいなんだなああぁっ?」
地団太踏みながら、聡馬に無遠慮に指を突きつける。
「こいつがいなけりゃいいんだなああああぁぁ!ぼくを怒らせるとどうなるかあああぁあっ」
目が逝っている気がした。薬物中毒患者のように、へんに瞳孔が開いた狂気の目。
彩がおびえたように後じさるのを、聡馬がすばやく抱きとめる。。
その隙に陵は玄関に逃げて、くるりと振り返る。
「聡ぉぉぉっ、後悔するぞおっ」
「なんだとっ」
気色ばむ聡馬に、キレた証拠のヒステリックな笑いを返す。そのまま陵はまっしぐらに駆け下りていった。
逃げ足の速いのはいつものことだが、今夜ばかりは彼の異常性が露骨に噴出した気がした。



「村野さん、ごめんなさい。…ちょっとへんな話なんですけど…」
彩が受付に立つ彼女に声をかけた。幸い、客はいない。
「あら、紀乃崎さん、どうしたのぉ?今日はお休みでしょ。なにかあった?」
村野さんはカンがいい。彩の顔色から、何か心配事だと悟ったようだ。
「あの、さ、あたし早番だから、たまにはいっしょに夕飯食べよ。ほら、椿峰交差点のとこに台湾料理の店あったでしょ。あそこ、大根餅がすっごく美味しいのよ。おばさんがおごるからさ、そこで待ってて。…心配しない。大丈夫よ。あたしのシックスセンス使って、ちょっと見てあげる」
ほんとうに気さくで頼りになる人だ。
明るく元気に言われると、心が軽くなる。
彩が聡馬といっしょに6時きっかりに行くと、なんと彼女はもう店の前で待っていた。
「あたし、古株だから、時間は結構自由になるのよね。…なんか気になってさ。個室、取っといたわよ」
さっさと自分で案内する。
個室に落ち着き、二人に好きなものを注文させながら、さりげなく様子を伺う。
彩は聡馬との将来を決意したのだろう。すっかり落ち着いた優しい物腰と、希望にキラキラする目がとっても愛らしい。
(うん、彼女は大丈夫ね。いいなぁ、若いって。…っと、問題は彼かぁ)
10月半ばに会ったときも聡馬の顔色は決して良くはなかったが、今はそれがさらに進んで土気色の唇だ。いったいどうしたのだろう?激しい練習の日焼けにしてもおかしい。
「そうねぇ、彩ちゃん、おばさんから見ても小野神くん変よ」
「やっぱり…」
彼を見てため息をつく。
「実は、24日のイヴに陵くんと決裂しちゃったんです。ホントに決定的。陵くん、カンカンに怒っちゃって。もう、来ないんですけど、それでも聡馬が心配して、あたしのところにずうっと泊まってくれてて…。でも、夜に…たまにですけど夜が怖いんです」
「ああ、悪い。彩に心配させちゃって」
聡馬が困惑する。
「いや、無意識だからさ、自分でもどうしようもないんだ」
「前に君が言ってた、あの痛くて苦しい夢?今でも続いてるのぉ?」
「ええ、時々なんですけど、それが、もうすごいんです」
彩が返事をした。
「夜中に叫ぶんです。それが怒ってるんだか、苦しがってるんだかわからないの。もう、ほんとに怖い。そういう時、起そうとしてもなかなか起きないんですよ。のた打ち回ってるだけ…」
「あらら、そりゃ怖いわねぇ。彩ちゃん、ちょっと彼氏に触っていい?脈見せて」
村野さんは病変を心配しているのだろう。
聡馬が神妙な顔で、ボタンダウンのそでを巻き上げる。
一分間に93回が触れた。スポーツをやっている割にはかなり早いが、馬術選手の安静時脈拍数は常人と大差ないから、まあ、心配ないだろう。
皮膚はいくらかカサカサと硬直した感があるものの、その下の硬く締まった筋肉は健康そうでむくみもなかった。
何よりも第六感にピンとくる、いやな感じがない。いや、多少ある気もするが、その程度の不調なら体内では日常的に起きている可能性がある。
おそらく重篤なものではないはずだ。
「彩ちゃん、今のところ、彼、たぶん病気はないみたい…」
「よかったぁ」
彼女の歯切れの悪い言葉でも、彩は笑顔を見せる。
料理がいろいろと運ばれてきた。いけるクチの彼のためにビールを注文してやったので、聡馬はうれしそうに半分くらいを一気飲みする。
その屈託のない動作も飲みっぷりも、全くの健康体だ。
「おれ、今、最高に体調いいんです。相棒ともバッチシだし。あ、相棒って、おれの馬の第2優駿号なんですけど、もう、自分からハミ取ってやる気十分なんですよ。一ヵ月後の大会は絶対、最高結果出す」
快活な表情で、自信に満ちて言う。
それでもそのくすんだ顔色が気になって仕方がない。あきらかにやつれた感もある。なにかわけのわからない違和感もある。。
(恋敵の悩みは解決したのに、おかしいわねぇ?)
考えながら、ふと、なんだか頭の中に紗がかかっているように、自分のカンの切れが悪いことに気づいた。
(あら、いやだ。あたしこそ疲れてる?このごろ忙しかったから…)
「村野さん?」
彩が覗き込んでいた。
「あんまり、食が進まない?あたし、へんな相談しちゃったから」
「ううん、違う、違う。彩ちゃんの相談は大歓迎よぉ」
彩に気を使わせては気の毒だ。急いでニコニコしてみせる。
「でも、小野神くん、体重とかへんに落ちてない?」
やっぱり質問は体調関係になる。
「体重ですか?いや、おれ、体脂肪落ちて、筋肉は逆についたと思いますよ」
「そう…」
(ああ、だめだ。今日はほんとうにカンがダメ。壊滅だわ)
はたから見てかなり違和感があるのに、聡馬に自覚はまったくないのだ。彼女は頭を振って話題を変えた。
「彩ちゃん、さっきの話だけど、おばさん、ものすごくイヤ気がするの。彼が起きなかったら、イヌのケンカみたいに水でもなんでもひっかけなさい。そのまま寝かしておいてはいけないわ。無理にでも起すのよ。絶対やってね」
「え~、村野さ~ん。この寒空に、水って…」
聡馬が笑って苦情を申し立てる。
「はい、やります。ほんとに怖いんですもの。聡、なにか違う世界に引きずり込まれるみたいで」
彩の言葉で第六感がピクンとうごめいた気がしだ。
だが、それ以上には発展せず、具体的なイメージも沸かなかった。



(どうも、変よねぇ。彩ちゃんと聡馬くんに関しては、あたしのカンがまるで働かないなんて…)
彼女は今日は休みだ。
家でのんびりしているが、やっぱり気になって仕方がない。
台湾料理店で会食したあの日、まるでだれかが意図的に牽制でもしたかのように、彼女の能力は手も足も出なかったのだ。
(第三者が何かしている?あたしの第六感をスポイルできるだれか?)
考えても思い当たらない。
強力に神経を集約する彼女を、外部から妨害できるだけの集中力を持った人間なんかめったにいない。
仮にいたとしても、それをするからにはかなりのメリットがなければならない。金を取るわけでもなく、ただの親切心からの行動にそこまでする者がいるだろうか?
(彩ちゃんと聡馬くんのことで、他にかかわりのある人なんかいないものねぇ…)
またまた、頭に紗がかかる感覚がある。
(えっ?ううん、ちょっと待って。そういえば…ああ…ええと…?)
髪をかきむしりたい感じで、自問自答する。朦朧とぼやけた取っ掛かりが意識の底をかすめるのがわかる。
それが…、いや、それは…。
(ああ、ダメ…。だれかに遠隔操作されてるみたいに、集中しないわぁ。あたし、どうしちゃったのかしら?)
時々、なにかのヒントででもあるかのように、もどかしい断片が流れすぎていく。気になっているのに、それを確認したいのに…。
『村野さん、実は24日のイヴに…』
不意に彩の声がよみがえった。
(彩ちゃん!)
とっさに意識を集中する。
『…決裂しちゃったんです。ホントに決定的…』
(彩ちゃん、それで?それから?)
『カンカンに怒っちゃって…』
愕然とする気がした。
(そうよ、そうだわ。なぜ、気づかなかったの?思い込みの強いタイプなら、あるかもしれない。あたしのジャマをしたり、もっと偏執気質なら…)
『もう、来ないんですけど』
彩の言葉が今更ながらに納得できる。
(来ない…、いきなり来なくなるってことは、執着の対象がほかに移ったってこと?じゃ、誰に?もしかして…)



誰かの気配がする。
暗闇の中に何かがいるのだ。
(また始まった…)
決して慣れっこになったわけではないが、聡馬にとってこれはいつもの夢だ。
序章が始まっただけでピンとくる。何をしても無駄だが、彼は本能的に身構える。
やがて特徴あるスニーカーらしい足音。コレもいつもの音だ。
(待てよ…)
聞き覚えがある。そう、彩の引越しのあの晩、夜中の自販機の前で聞いた、姿なきあの音…?
そしてそれは…。
『あははは、やっと気づいたの?IQ160は案外バカだ』
ケタケタとバカにしきって嗤う。いつも気配だけで無音だから、声が聞こえたのはこれが初めてだ。
『夜も昼もそばにいたのに。おまえらは目に見えるものしか信じないから、ホント、やりやすい』
今夜はやけに饒舌だ。
(何が目的だ?)
それに対する答えはない。
夢の底がシンと静まり返る。この先に来る痛みと苦しみ。
もちろん、夢だと自覚はしている。それなのにいくら目覚めようとしても、悪夢は抗いようもなく進行していく。現実ならいくらでも対処はできるが、こればかりはどうにもならない。
最初のうちこそ、夢でよかったで済んでいた。
だが、このごろは目覚めたあとに、実に嫌な疲労感と脱力感がくる。確実に状況は悪くなっているのにどうにも改善の方法がないのだ。
彼は諦観にも似た思いで夢の中に立ちつくす。



もう、2月の障害飛越大会の一週間前だ。
聡馬は率先して大学の厩舎に泊りこんでいる。人も馬も大会当日に向けて、心身ともに最高の状態に持っていくのだ。
これはいつものことで、大会まで毎晩2人が泊り込むが、今夜は相棒の部員の都合で彼は一人きりだ。
14頭いるすべてに給餌を終え、一頭一頭に平等に話しかけて「お休み」を言うと、とたんに暇になる。部室のキッチンに備蓄してある大判カップラーメンを物色し、餅を焼いて入れると、それが今夜の夕食だ。
相棒がいればこんな粗食にはならないが、一人だけではついついこうなる。腹がくちくなればそれでよし。彼はすっかりくつろいだ気分でスマホに手を伸ばした。
「彩。今なにしてる?おれは、飯食い終わったとこ」
やっぱり、声が聞きたい。
「わ~、もう、9時過ぎだよぉ。ご苦労様。優ちゃんは元気?」
優ちゃんとは第2優駿号のことだ。
彼女のいつもの明るい声に聡馬はほんとうに癒される。
「ああ、元気も元気、コンビ組んで4年だけど、過去最高の出来だよ」
「そう?きっと大会バッチシだね。すっごく楽しみ~。あっ、そう、そう。大会の日ね、わたし、家族みんなで応援に行くよ。全員で客席からいい念力送るからね」
「あはは、いいけど、逆にすげ~プレッシャーになりそうだ。彩のご両親やお姉ちゃんの前じゃ、おれ、絶対、いいかっこしいになっちゃうよ」
そのへんにある駄菓子を適当につまみながら、とりとめもない話に興じる。
彼が満足して電話を切ったのは、もう23時を回ったころだった。
そろそろ、寝ないといけない。自分の寝袋を引っ張り出し、あたりをちょっと片付けて広げる。
間もなく、ほんわりとしたいい感じの睡魔がきて、聡馬はとろとろと眠りに落ちていった



『うん、…よく覚えていないんだ。とにかく、だれかがおれに何かするんだ。それがえらく痛くて苦しい。目が覚めて、ああ、夢でよかったって…』
『やだ…。部活やりすぎで、疲れてるんじゃ?2月の障害飛越大会がプレッシャーになってるとか?聡馬は次はオリンピックに行くって、みんな言ってるよ』
『いや、大会はむしろ、楽しみなんだけどね。…ま、夢は夢で気にしてはいないけど』
『でも、あるよねぇ、夢でよかったっていう夢。わたしは聡とは違うけど、卒論がぜんぜん進まなくて、なぜか単位も日数も足りなくて、教授にも見放されちゃって、ああ~、留年ってなってるの』
『あはっ、それは怖いな』
『うふふ、聡は頭いいから、そんな夢は見ないでしょ』
夢うつつの中で、いつかの会話が聞こえる。
(聡は部室で、ちゃんと寝てるかな?)
なんとなく気になって、うらうらと目覚めてしまう。
聡馬がいないとガランとした部屋。空しくてさびしくて、へんに広々として暗い部屋。
いきなりスマホが鳴った。
「えっ?」
思わず飛び上がる。
得体の知れない不安に手がふるえ、声が思うように出ない。
「もしもし、彩ちゃん?」
村野さんだ。
「彩ちゃん、寝てた?遅くにごめんねぇ。でも、おばさん、つきとめたわ。陵くんよ。あたしのジャマをしたり、小野神くんの夢に出たりするの、みんな彼よぉ」
「え?ウソ」
いきなり言われても、ちょっととまどう。
でも、心当たりは確かにある。
「あ、そういえば、昼間でもへんな足音とか気配も…」
「そうでしょ?彼、念というか、執着を送ってるの。おばさんが心配なのは、そういう粘着質の人間って得体が知れないのよ。小野神くん、そこにいるぅ?」
「いえ、馬術部の部室に泊まっています。大会の前はいつもそうなんです」
「そう…」
村野さんが考え込むように黙るのがわかった。
「彩ちゃん。あたし、車出すから。今からいっしょに行こ。部室の場所知ってるわよねぇ。あっ、その前に彼に電話。早く!出ても出なくても結果教えて。じゃ、ね」
言うなり切られて、あわただしく電話する。最低2人は部室にいるはずなのに、だれも出ない。ビクンと体が震えて、不安がおしよせる。
スマホを握る手がこわばるのが、自分でもわかるほどだ。
「村野さん、へん。聡馬出ない」
「やっぱり!とにかく、ものすごくいやな予感がする。すぐ行くから、準備して待ってて」
またすぐに切れた。
そう、確かに陵は得体が知れないところがある…。
彩はもう、じっとしてはいられなかった。最低限のものを収めたポーチをつかむと、階段を駆け下りた。待つ間もなく、村野さんが猛スピードでやってくる。
男のように大胆な運転だった。
「三鷹と調布飛行場の間なんです。もと、天文台のあった手前」
彩の説明に村野さんは大きくうなづいた。
「あ、知ってる。道路からちょっとだけ馬が見えるわよね。あそこかぁ、まかしといて。最短距離で行けるわ。あたし、あのへんなら詳しいから、安心しなさいっ」



 妙にリアルな胸部苦悶が襲ってくる。
胸の深いところがなにかで切り刻まれる気がして呼吸がつまり、心臓の鼓動がおかしくなって、脅すように不規則に肺にぶち当たる。
体が悲鳴を上げて、危機を脳に警告しているのだ。
「陵、何をした?」
暗闇のすぐそばで、見えない気配がヘラヘラと嗤う。
まちがいなく陵だ。独特の血の通っていない感じというか、感覚や心情を共有できない違和感が、いまさらながらに迫ってくる。
実に楽しそうだ。
『バ~カ!ぼくは何もしていない。おまえの体に聞け。ったく、アホすぎて笑える。ほんとはラッキーだったんだ。この疾病は最初、あまり自覚症状がない。それなのになんども転げまわるくらい痛いなら、さっさと病院に行くべきだったんだ。それもしないで、ぼくのせいってなんなんだよ!』
吐き捨てるような返事だった。
たしかに一理ある。今となっては、自分の体に対する過信、驕りは陵の指摘するとおりなのだ。
これは夢だ。
だが、症状は現実だ。
おそらく年間10万件以上もある突然死の一つなのだ。
多くの人は救急の連絡すら出来ずに亡くなっていく。
そのなかには聡馬のように自覚はあっても覚醒できずに、見た目、眠るように死んでいく者も少なくないのではないか?
体の状況によっては、目を開けることや目覚めることにも、多大な労力を要するのだ。
「ちくしょう!」
全身が怒涛のような痛みと苦しみを訴えてくる。それには何とか耐えても、呼吸困難だけはどうにもならない。生命の危険に鋭敏になった脳が対処しようと、知覚と痛覚を研ぎ澄ませる。
それでも目覚めない。耐え難い苦悶にのたうちまわるだけだ。
「陵、人が苦しんでる、の…見て、なにもし、しない、のか?」
言葉がとぎれとぎれになった。
まじかで実験動物でも見るように、のぞきこんでいた気配がケラケラと侮蔑した、
『おまえはぼくの患者じゃない。』
勝ち誇った言葉だった。
『だから、後悔すると言ったろう?イヴの夜に教えてやってもよかったんだ。だけど、おまえはぼくを追い出した。ざまぁ。自業自得ってこのことだ』
医学生のくせに、見殺しにはなんの痛痒も感じないらしい。こんな情操欠如が医者の卵なんだから笑わせる。
それに言葉の用法もおかしい。
追い出されるにふさわしい行動をしたのは彼だ。だから追われた。自業自得は陵自身なのだ。
おまけにしゃあしゃあと口では言うが、病変を教える気がなかったのも明白だ。思念を飛ばして夢に現れ、冷酷に経過観察をし、村野さんの霊視を妨害したのもその気がなかった証拠だ。
口先ばかりで言いつくろうのは、人の心のない不誠実な者の常套手段なのだ。
おそらくこのまま死ぬだろう。
事件性はなく、突然死・病死として処理され、いちおう司法解剖にまわされる。たぶん、陵はそこにも執着で現れ、罪の意識もなく貴重な医学的情報のみを仕入れる。
医者たる仁術も知らず、知識のみをインプットしてほくそ笑むのだ。
「ちく…しょう!」
同じ言葉を繰り返すしかなかった。



「村野さん、こっち」
彩がナビゲートする。馬場の北側に馬房があり、東のはじに部室がついている。
すぐそばに車をつけて、ドアを叩きながら呼びかけるが返事はない。鍵もかかったままだ。
「彩ちゃん、こっち、窓。ほら、開くわ」
村野さんが、大きなバケツのような飼い葉おけを見つけて、ひっくり返して踏み台にする。中は電気が消してあって暗いが、だれかいるのはわかる。
「聡?聡でしょ、返事して」
呼びかけても返事はない。寝袋から半分体を乗り出している。近寄ろうとして、ゾッと身の毛がよだった。
聡馬のそばにだれかいる。真っ黒な影。
「陵ちゃんね?ねっ?でしょっ?」
詰問に、影は軽いいたずらを見つけられた子供のように、ちょっとはしゃいだ。
『んん~?彩ぁ、来たのかぁ。うふふふっ、こいつはもうダメだよ。見りゃわかるだろぉ。そうだな、もって20分ってとこだ』
「ちく…しょう!」
聡馬がうめき声を上げた。いつもなら叫べるのに、もう、声も弱くなっている。
「陵ちゃんっ!」
猛然と怒りがわいた。彩は自分の人格が突然変わった気がした。憎しみ、人を憎むことがどんなことか、生まれて始めて知った思いだった。
「陵ちゃんっ、聡馬は本気で友達になろうとしたんだよっ。陵ちゃんみたいに聡馬もいじめられっ子だったから。あんた、医者を目指してるくせに、こんな状況を見てよく平気ねっ」
『はぁ~?』
バカにしきった口ぶりには、神経を逆なでするような冷酷さがあった。
『友達って?ぼくは頼んだ覚えはない。こいつが勝手に友達認定しただけだ。こんなヤツが友達なんてキモい、迷惑だっ』
「なにそれっ?」
言うまいと思った言葉が、自然に口をついていた。
「中学時代、あんたがなぜいじめられてたかわかった。どうしてヒトモドキって言われてたかがわかったわ。元木をもじったんじゃない、本当に人でなしだったからよっ」
『わああああああああぁ、ヒトモドキって言うなああああぁ』
陵が激高した。
『ウザあああぁあ、ぼくをいじめられてたって言うなあああああああぁ』
発狂したみたいにわめくのを、彩はもう聞いていなかった。
パッと明かりがついた。
村野さんが壁を探ってつけたのだ。
陵は消えはしなかった。よほど思念を集中しているのだろう。彩はもう、その姿を見るだけで我慢できなかった。
決然と立ち上がると、なげしにかかるハンガーをつかんで、力いっぱい振り回した。
「あんたなんか、だいっきらいっ。世界で一番嫌い。人間じゃないわ。ヒトモドキ、人もどき、ひともどきっ」
陵は痛そうな顔をした。
だが、それもわずかな間で、いきなり開き直ったかのようにふてぶてしい表情をみせると、スウッと見えなくなった。
「聡?」
揺さぶるが微動だにしない。
いつもなら暴れるのに、なんだか白くなって静かだ。
「やだ、村野さんっ、聡馬が死んじゃう」
「彩ちゃんっ、水っ」
奥のキッチンに行った村野さんが、水をいっぱいに満たした四角いものを突き出した。馬の飼料を計る五升枡だ。
反動をつけて思いっきりぶちまける。
「……彩…?」
「聡馬…もう、やだぁ」
思わず泣き声になる。
村野さんが彼の手首を握った。どこかに電話している。
「…はい、本人に意識はあります。でも、もう脈が触れないんです。ええ、間に合わない。受け入れ先お願いします」
電話を切って手早く説明する。
「小野神くん、大丈夫?行くわよぉ、彩ちゃん。救急車じゃ時間のロスだから、こっちから行くの。柳沢心臓外科!緊急手術の準備して待ってるって。すぐ近く。ラッキーよぉ」
車まで連れ出そうとして彼女と彩が左右から肩を貸すと、彼は照れくさそうに振り払った。
「歩…ける…大丈夫」 



聡馬は集中治療室に一週間、個室に移って10日の後、希望して4人部屋に移った。
「夜なんか一人でいると、息は血と薬の臭いがするし、パジャマの襟からは正中線切開のすごい傷跡が見えるしね。もう、馬には乗れないしで、やっぱ欝になる」
のが、その理由だった。
「そんなこといわないで」
彩がなだめる。
「聰はほんとは助からなかったんだよ。ご両親だけじゃなく親類や友達にも連絡が行って大変だったんだから。村野さんもずーっと付き添ってくれたし。聡は馬術じゃなくても、いろいろ得意分野があるんだから、もとのような健康体に戻れなくてもいいじゃない。それにわたし、今度のことですっごく強くなった気がする。前は聡馬に助けてもらってばかりだったけど、これからはわたしが助けるよ」
彼はちょっと元気になって微笑した。
「彩、ありがとう」
「それからね、聡は獣医さんになるべきじゃない?人にも馬にも優しいもの。聡のお父さんも言ってたよ。社長業は気の休まる暇がないし、不規則に体も酷使するから、聡馬は別の道がいいんじゃないかって」
「うん…」
「前から獣医が希望って言ってたじゃない?」
「いや…そうだけど」
どうも歯切れが悪い。
「イギリスに留学しなきゃってこと?」
「…まぁ、そう」
「なぁんだ、そんなこと?聡馬は遠くへ行っちゃうとこだったんだよ。もう、二度と会えない遠いとこ。それに比べたら、留学なんかなに?わたし、有給とって会いに行くよ。そういう遠距離恋愛って、ホントはちょっとあこがれてたの」
彩はおでこを彼のおでこにくっつけた。聡馬が腕を回して、以前のように彼女を抱き寄せた。
「胸、痛むんじゃない?」
心配して言う言葉に、彼はさらに力をこめた。
「痛くてもいい。彩とこうしていたいんだ」
聡馬が唇をすべらせてきた。音がしないよう周りを意識しながら、二人はいつまでも唇を重ね続けた。
幸せだった。
お互いになんとなく涙が滲むような、そんな幸福な時間だった。
どれくらいたっただろう?カーテンの外で、小さな咳払いの音がする。
二人はサッと離れた。彩がとぎまぎしながら開けると、村野さんが顔をのぞかせた。
「ずいぶん長いお取り込みねぇ。おばさん、外でずっと待ってて、待ちくたびれちゃったぁ。な~にしてたのかしら?」
思わず赤くなる顔を見比べてニンマリしながら、まだ何か言いたそうだ。
聡馬が急いで話題を変えた。
「村野さん、このたびは本当にお世話になりました。ありがとうございます。おれ、退院したらさっそく、あらためてお礼に伺います」
「もう、気にしないで」
彼女は真顔で言った。
「君のご両親に、それはそれはご丁重なお礼をしていただいてるの。それにね、君が助かったのは君の力なのよ。主治医のセンセも言ってたけど、心嚢って心臓を包む袋があるんだけど、その中に血液がいっぱいたまっちゃって、ふつーの人なら止まっちゃうのに、君のはガンバって動いていたんだって。だから、手術が間に合ったって」
「わ~、聡、すごいじゃない。生命力強いんだね。医学は日進月歩だから、将来的にまた、お馬さんに乗れるようになるかもよ」
「そうよ。生きてる限り『人生、いたるところに青山あり』よ!…って、あたし、カッコ良すぎぃ?」
おどけた村野さんの言葉にみんな笑った。
彼女の言うとおりだった。生きてさえいれば、また新しい局面もある。青山とは本来は墓所だが、転じて骨をうずめてもいいと思える仕事や境遇のことだ。
失ったものの分だけ、新たな可能性が加わると言っていい。
本当に、突然の180度の転換だったけれど、結果としては最悪ではなかった。
「でも…陵くんって、怖い」
彩が思い出したように言った。
「あれって、生霊なの?ネットなんかでカキコあるけど、本当に目に見えるなんて…」
「そうねぇ。平安時代の人じゃないと信じがたいでしょうねぇ。でも、おばさんだって一度だけ、すんばらしいの飛ばしちゃったことあるわぁ。目撃者も複数だから、案外、あることかもよ」
「えっ、村野さんも?やだ、ちょっと怖いな」
「あははは、そういわないで。あたし、おばあちゃん子でね、ちょうど、うちの宿六が胆石で入院中だったわ。ほら、八高線の茂呂山病院。おばあちゃんが倒れたって連絡があったんだけど、北海道だし、間に合わないなぁって、涙がすごく出てねえ。そしたら、あたし行ったの。おばあちゃんの枕元」
「ええ~?」
「ホントよ。ほんとなのぉ!伯父と伯母がいて、伯父が『おう、来たか』って言って、おばあちゃんを見たら、ちょっとニコッとしたみたいで。すっごく安心したけど、もう帰らなきゃって。それで『じゃ、帰るね』って言ったら、伯父が『そうか、帰れ』って。伯母も『気いつけて』って言ってくれて。気がついたら宿六の病室」
「うそっ」
「あたしも思ったわぁ、うそって。でも、あとで伯父と伯母に裏取ったら、ほんとのほんと。まちがいなく、あたし、おばあちゃんのとこに行ってた。でも、伯父も伯母もちっとも不思議がっていなかったよ。『そんなもんだろ』って」
「わぁ~、肉親って怖くないってホントなんですね。わたしは陵くん見て、ゾッとしちゃった」
「そうねえ、あの子は前頭葉に欠陥があるのかも。だから、こだわりというか、執着がすごい。なにかでコツつかんで、念飛ばしてたんでしょうね」
「まいったな」
聡馬がつぶやく。
「また、まわりウロウロするのかなぁ。本人なら楽勝だけど、夢ん中じゃ生気吸われる気がする」
「やっかいな子よねぇ、陵くんって」
村野さんも頭を振った。
「あの子の場合、執着は基本、負のエネルギーなのよぉ。怨念に近いかな。だから対象者の体の状態によっては、悪影響うけて疲弊しちゃうの」
「やだ、もう。こんなことたくさん!」
彩は本気で言った。もう、陵に振り回されるのは真っ平だった。
良かれと思った友達関係も、彼の心には届くどころか、ただのおせっかいだったのだ。
人の姿をしていながら、人の心を持たない者にはどう対処したらいいのだろう?
3人は今更ながらに、黙りこむしかなかった。



 「でも、まぁ、たった一つ、あの子に届くことと言ったら…」
しばらくして、村野さんが口を開いた。
「自分を非難し、追い詰める言葉でしょうねぇ」
「あっ、それ、わたし言っちゃった。ほんとは言っちゃいけないことだったのに」
彩が自分の口を押さえた。
「陵くんを傷つけちゃった」
「う~ん、ま、その言葉があなたたちへの、彼の執念を溶いた部分もあるのよねぇ。おばさんも見ていたけど、陵くん、ヒトモドキって言われて逆上したけど、次の瞬間、居直ってたわぁ。ああいう子にありがちなんだけど、都合の悪いことは意識の外にはじき出すの」
「じゃぁ、忘れちゃうってことですか?」
「忘れるまではできないでしょうけど、多分あの瞬間よぉ。彩ちゃんも小野神くんも、彼の妄執からはずれたの。二人ともあれ以来、へんな気配とかあった?」
「え?いえ…」
「いや、そういえば、おれも陵の夢すら見ないですよ」
「ねぇ?でしょう?」
村野さんはちょっと得意そうだった。
「この結末はありえないことだったんだわ。つまり、彼にとっての失策。彩ちゃんをお嫁さんに出来ないどころか、言われたくないホントのことをビシッと言われちゃったし。小野神くんに至っては、うまくクタバレって思っていたんじゃないかなぁ。でも、彩ちゃんやあたしが駆けつけちゃって、それもパア。陵くんにとってはとんでもない誤算よね。彼、今頃、すべてなかったって、記憶の改ざんをしてるわぁ」
「すごい。でも、そんなことをしても、事実は事実なのに…」
「人間は弱いものなのよ。あの子、変にプライド高いしね。でも、それでよかったじゃない。あなたたちも忘れなさい。陵くんのためにもね。いつまでも覚えてると、彼、念飛ばしてヒスるわよぉ。わすれろおおおぉって」
村野さんの冗談に、だれも笑わなかった。
いかにもありそうで怖かった。
「陵はあれで、医者としてはどうなのかな?自分の興味のある症例の患者には夜も昼も粘着したりして」
「そうねぇ。知識や技術の習得にはすごい熱心だから。まわりにきちんとしたスタッフがつけば、逆に名医になれる可能性もなきにしもあらずかも。まぁ、そうあってほしいという希望だけど…。考えてみると同じ病院で短期間に続けて患者が亡くなったりするのって、単なる技量の問題だけじゃないかもしれない。なにか暗い闇があったりしてね」
「そういうのって不安だなぁ。聡馬はあと一ヶ月も入院しなきゃいけないのに」
彩はやっぱり心配になる。
こんどのことで、どんなに愛し合っても永久の別れはかならずあることが身にしみだ。
しかも、それは突然の場合もある。人は宿命的にそのときを知ることなく、今日がそのまま明日につながると信じて、人生を歩むしかないのだ。
「大丈夫よ、ほとんどの病院は診療と病気の撲滅のために邁進してるもの。だけど、おばさんは小野神くんの患者になりたいわぁ。獣医だっていい。人も動物も造作なんかおんなじ、大きさの違いだけよね」
冗談とも本気ともつかない言葉だ。
「え?いいですけど、注射針だって馬用のものですよぉ。それは覚悟してもらわないと」
「ええ~?あらやだ、あたし、それ忘れてたあ」
村野さんの素っ頓狂な言葉にみんな笑った。
「ほんっと、君って正直ねぇ。せっかくの患者希望第一号を逃しちゃったのよぉ」
「聡は商売っ気より、技術で勝負するタイプなんです。だから、馬用の注射器でもきっと上手くできると思うんです」
彩の出した助け舟は妙ちきりんだったが、村野さんは満足そうだった。
「そうよね。小野神くんはきっと、医は仁術なりを地で行くような獣医さんになるわね」
「じゃ、おれ、ひげ生やさないとな」
聡馬が鼻の下に指をあてがう。
「赤ひげ」
「あはは、聡は似合うと思うよ」
「そうね。でも、思い切ってサルバトーレ・ダリみたいなのはどう?おばさん、あの人好きなのよぉ。あ、そうそう、信州に美術館あるでしょ?彼が退院したらみんなで行かない?あたし、車出すわぁ。彩ちゃん、あたしの運転技術しってるでしょ」
さっそくの楽しい提案だった。
「ええ、もっちろん。ほんとにスタントマンかレーサーみたいでしたぁ」
彩がニコニコと褒める。
「あはは、まあね」
村野さんはまんざらでもなさそうだ。
「おれもそのころになれば、帰りの運転くらいできますよ。ま、村野さんにはぜんぜん負けるけど」
「あらあら、二人とも、ほんとに気を使ってくれるのねぇ。おばさん、鼻高々よ。実はあたし、うちの宿六亭主にはないしょで、時々、多摩湖周遊道路カッ飛んでんのよぉ。なんにも取り柄ないけどさ、運転だけは好きだし、ちょっとは自慢できるかなってとこ」
まったく、人は見かけによらないものだ。
「でも、さ」
ちょっと改まって言う。
「一日一日を大切にって、軽い気持ちで言うけどさ、なかなか出来ることじゃないわよね。あたしもさぁ、宿六大事にしないと。今更ながらだけどね」
わははははっと豪快に笑う声は、本当に楽しげだった。
彩も聡馬も自然に手をつないで、そんな彼女を見ていた。
春めいた二月の日差しがそっと差し込んできた。
 

彩を愛した者 (巷に増殖中のガイ児の話)

彩を愛した者 (巷に増殖中のガイ児の話)

甘ったるいだけの恋愛モノではありません。みんな、ガイ児には気をつけようぜ! 2015年7月作。2014~2015までの8作中、8番目

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-17

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