*星空文庫

【中編】高千穂峡のすみれ草

万田 竜人(まんだ りゅうじん) 作

ここで云う「随説」とは、随想的なファンタジック小説である。

第一章

(一) 高千穂峡のきらめく光

 遠景の峡谷の滝の流れから、きらめく光が目に入ってきた。その光は天に向かって
駆け登り天空につながった。まるで、凧を揚げたときの糸のようである。

 啓介は、高千穂峡の真名井の滝を初めて目にした。

 この地方に伝わる神話では、次のようなことが云われている・・・

「天村雲命(あめのむらくものみこと)の神が天孫降臨といって、天の神様のご命令
によって、天から地上に降り立たれた時に、この地には水源がないことに気付かれて、
天村雲命の神のご意思により、この地に、水系を移して天真名井として湧水。溢れる
ような滝となって流れ出したのだという」。

 高千穂峡の川幅が狭まった部分に、流れ落ちる滝であるだけに落差は十七メートル
とはいいながら、迫力満点である。また、その姿は周囲の景観の静けさの中にあって
躍動的な存在感を示している。

 まるで、糸のように天空の光が自分の目とつながる体験は、啓介にとって三度目の
ことである。

 一度目は、ニュージーランドのマウントクック村への入り口となるトンネルの手前
でバスを停めてみんなで休憩時間を楽しんでいる時のことであった。道路脇には小川
が流れていて、手を浸すと冷たくて気持ちが良かった。

「あっ虹よ」という声に反応して空を見上げると、大きな虹がアーチを描いて、大地
に跨るような光景であった。その虹の頂上に目をやった時に、天空の光が啓介の目に
糸のようにつながった。

 今にして思えば、あれはマウントクック村で遭遇した、まるで異次元の世界に飛び
込むことになる前触れであったのかもしれない。神崎さんという紳士のご案内で訪問
した異空間は、現在も、存在するのだろうか、それとも、夢か幻の世界であったのか、
いまだに確かめる術がない。

 二度目は、自宅の書斎における体験であった。冬の朝日とはいいながら午前九時頃
ともなれば、太陽からの陽射しの温もりは、パソコンに向かっている啓介の顔面にも、
ほんのりとだが、微妙な感覚で伝わってくる。

 太陽の方向に顔を向けると、啓介の目に天空からの光が糸のようにつながった。

 啓介の書斎は、家族の総意によって、二階に設けられた。西向きに座るように机と
椅子を配置したので、午前九時頃の陽光は左の頬に当たってくる。この書斎からは、
夕刻になると金星が見える。

 ときおり、この金星のそばに、月が並んで、天界のツーショットを演じてくれる。

「月をこそ眺め慣れしか星の夜の深きあわれを今宵知りぬる」という和歌がある。

この和歌は、愛する人と死別した女性の闇の深さを表した絶唱として知られている。
NHKの大河ドラマで放映したことのある主人公:平清盛の長男である重盛の息子
(次男)平資盛と、恋愛関係にあった女性が、その悲しみを詠んだものである。

 当時、資盛は(推定であるが)まだ二十五歳の若さであった。源氏に追われ都落
ちした後に壇ノ浦において入水して果てた。彼女の悲しみの深さは、まさに、この
和歌に凝縮されている。

 昨年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災では多くの人々が亡くなり、
多くの人々がいまだに行方不明である。残された人々は、家族や友人を看取ることも
出来ず、津波という容赦のない自然災害によって、一瞬のうちに愛する人々を失って
しまった。

 そのような悲しみの中にあって、政治の無策やスピード感のなさは、日々のテレビ
や新聞報道のなかで、次々と明らかにされている。

 高千穂峡に天孫降臨した時の天村雲命の神のような、即座に、水系をもってくると
いう偉大な力までは期待していないが、与野党を問わず日本の国政を預かる国会議員
の働きには、もっと、多くを期待するものがある。

 世情では新党結成の動きなども俄かに浮上してきている。このような時にこそ我々
国民の一人ひとりが、国会議員の選挙で貴重な一票を投じることだけでなく・・・

「ワイワイガヤガヤ」の精神で「健全な意見」を交換して、少しでも日本の暮らしを
良くすることを考え、考えたことを声にして発信して行く時代になってきたと啓介は、
強風荒れ狂う日曜日の午後に痛感した。

 日本は、三権分立の確立された民主主義国家であり、治安も維持されている。

 そのような中で「第四の権力」として、マスコミ社会も成熟してきており国家権力
が暴走して、大きな戦争に突入するような危機についての危惧はないが、今、国家が
抱えている「莫大な借金問題」「財政の課題」「少子高齢化の問題」「未来に向けた
年金制度の課題」、そして対策がもっとも急がれている「東日本の復興の課題」など、
いずれも問題の真相の見極めと対策の遅れを来たせば、日本という国家が、内側から
崩壊しかねない状況にある。

 戦後の平穏で平和な時代に馴れすぎて「必ず明日が来る」と信じてきた我々国民
の一人ひとりが、インターネットという道具を手にした、今、お互いの健全な意見
を発進、交流することで、「第五の権力」を創造して行かないと、国政そのものの
閉塞した状況は、脱して行けないと啓介は考えている。

 この記事は、自民党が下野して、新政権に移行した時代に書いたものである。

 いよいよ、日本もアメリカ社会のように健全な二大政党の時代が来たかと思った
のも束の間、2011年3月11日に発生した東日本大震災により平家物語の遷都
による混乱を思わせるような混乱に陥ってしまった。

 結果「決められない政治」と云うレッテルを貼られることになる。

 一方で、啓介は、政治による明確な決断によって手持ちの日本航空の株式(電子上
の株券)が紙くずになると云う経験をすることになる。啓介の場合は、航空ファンと
しての立場から株式を保有していたので、「株主責任による紙くず化」と云う説明は
肌身に伝わってこなかった。

 前述の・・・

「天村雲命(あめのむらくものみこと)の神が天孫降臨といって、天の神様のご命令
によって、天から地上に降り立たれた時に、この地には水源がないことに気付かれて、
天村雲命の神のご意思により、この地に、水系を移して天真名井として湧水。溢れる
ような滝となって流れ出したのだという」。

 この記事に書かれたことは、「何を意味するのか?」を考えた時に、その意味する
ところは、計り知れなく大きい。

 心理学の権威である「ユング博士」はフロイトと並び称される双璧的な存在であり、
ユングはフロイトと共に心理学の研究を進める間柄であったが、やがて学問的・心理
療法観的・人間観的相違から、フロイトとは訣別することとなった。

 ここに、ユング心理学の際立った特徴として、神話的世界からの学びがある。

「日常的な観点から見れば、とても耳を傾けることが出来ないことでも、神話的
な視点から見れば、人類的にも起こり得ることとして、耳を傾けることが出来る
かもしれない」と云うイメージから理解を重ねて行くと云う考え方である。

 前述の神話から学ぶところは・・・・

「施政を成す者の在り方として、民意を的確に推し量り・感じ取り、俊敏に、それを
実行に移したとき、施政者の存在も民意も共に救われる」と云うことだろうか?

 この神話の場合は神によって施政を成すものが選ばれており、そこに間違いが起こ
る可能性は少ない。しかし、我々の現実社会では、施政者は民意によって選ばれる。
したがって、間違いが、起きてしまう可能性がある。

「間違いが起きたら、どう対応すれば良いか?」
「間違いを、少なくするのは、どうしたら良いか?」

 本稿が、そのようなことを考える一助に成ればと考えて、長編ものを編んでみたの
であるが恐れ多くも、この編が少しでもその役に立てれば幸甚であると啓介は考えた。

 本稿は2012年(今から5年前)に執筆したものであるが、約5年間の醸造期間
を経て、啓介に、「どのような心の変化や成長があった」のかも合わせて考えて行く
ことで、長編をはじめから校閲する算段にて、順次、書き起こすことにする。



(二) 大いなる示唆

 冬枯れの中にあっても、常緑樹の生き生きとした存在感からは植物の生命力が確実
に伝わってきて、なにかしら元気付けられ、あの夏の暑い季節には緑陰としての涼し
さを届けてくれたことが思い出される。

 啓介は、期末試験が終わったばかりの開放感のなかで、まだ真新しい校舎の窓から
校庭を眺めていて、昨年十二月末の面接授業のことを思い出していた。

 授業科目は「徒然草を読み通す(1)」と題したもので、放送大学の島内裕子教授
によるものである。募集定員70名に対して、申し込み者が大幅に超過したと聞いて
いる。啓介は、この授業のなかで、徒然草の第四十一段に「考えたことを、声に出す
ことの大切さ」について、大いなる示唆を感じ取った。

 徒然草の兼好は、読書などから思索したことを、つれづれなるままに書き連ねるこ
とを、無上の喜びとしているが、この第四十一段では、自分の考えたことを、「周囲
の人々に声を出して伝える」ことが自分で思っていること以上に反響の大きいことに
気付いていて、そのことを書き出している。

 授業で使った「徒然草」島内裕子校訂・訳には通称「烏丸本」を用いて原文を掲載
しているが、ここでは分かりやすさを優先させて、第四十一段の訳文を書き出してみ
ることにしよう。

【徒然草:第四十一段(訳)】 島内裕子教授による訳

 五月五日、上賀茂神社の競べ馬を見学に行ったところ、牛車の前には身分の低い者
たちが、ぎっしりと立ち並んでいて、馬を走らせる馬場がよく見えないので、私たち
は牛車から降りて、柵の近くまで近寄ったが、そのあたりはとりわけ人々が混雑して
いて、どうにも分け入る隙間がない。ちょうどその時、向かい側の棟の木に、法師が
登って、木の股に座って、見物しているではないか。彼は木にしっかりとしがみつき
ながらも、ひどく居眠りしていて、木から落ちそうになると目を覚ます、ということ
を、さきほどから繰り返しているのである。

 これをみた人々が、嘲笑って軽蔑「なんて愚か者なのだろう、あんなに危ない木の
枝の上で、よくまあ安心して眠れるものだ」というので、自分の心にふと思ったまま
に、「われわれの死の到来だって、今この瞬間かもしれない。それを忘れて見物など
して、貴重な今日という日を過ごすのは、愚かさの点で、あの法師以上ではないか」
と言うと、自分の目の前にいた人々が「まことに、ごもっともなことでございます。

 われわれこそ、もっとも愚かでございます」と言って、皆が後ろを振り返って、私
を見て、「ここに、お入り下さい」と、場所を空けて、呼び入れてくれたのだった。
これくらいの道理は、誰だって思いつかないことではあるまいが、折からのこととて、
思いがけない気がして、強く胸を打ったのであろうか。人間というものは、木石のよ
うに非人情なものではないから、場合によっては、こんな程度の発言にも、感動する
ことがあるのだ。


 この徒然草第四十一段の感動は、単独で読んでも心には、響きにくいものと啓介は
考えている。やはり島内裕子教授が面接授業で提唱されていたように、徒然草を通読
する過程でこそ第四十一段における兼好の感動が伝わってくるのであると考える。

 最近は、「関東にも、四年以内に、確立七十%の割合で大きな地震が来る」という
予報が、盛んに報じられていて、不安に思うこともあるが、政府は認知していないこ
となので、真偽のほどは定かではない。

 しかしながら、真偽は定かでないにしても、兼好が筆で示したところの、
「貴重な今日という日をもっとたいせつに過ごそう」という呼びかけは、もっともな
ことである。兼好は、第四十一段で、「これくらいの道理は、誰だって思いつかない
ことではあるまいが・・・」と云ってはいるが、われわれには、なかなか気付かない
ことである。

 この第四十一段で最も大切なことは、話の繰り返しになるが、「自分で思ったこと
や、考えたこと」を声に出してみるということである。

 現代の日本において生かされている、われわれ国民一人ひとりが声を出すことの重
要性について、兼好は、大いなる示唆を与えてくれているのではないだろうか。



(三) 徒然草を読み通す

 彩の森入間公園でのウォーキングは冬の間はいつも午前十一時頃に、先ずは家内と
啓介が外周を歩く。次いで飼い犬との合同散歩になる段取りで、これを日々繰り返し
ている。

 しかし、今日は家内が鎌倉の娘ファミリーのところに、二泊三日の予定で出掛けた
ために、いつもとは、少し勝手が違う。家内と一緒のときには、飼い犬もよく歩くの
だが、啓介と一緒だと、匂い嗅ぎ専門に変身してしまう。そんな訳で、ほとんど歩か
ないため、啓介だけで、単独ウォーキングすることに決めた。

 彩の森入間公園内は広大な面積である。太陽の陽射しが強いところと葉陰のところ
があり、陽射しの強いところでは、まだ一月末だというのに白梅が咲き始めている。
白梅の隣に立っている紅梅も蕾が膨らんできており開花が近い。一方で、日陰の場所
には、先日の雪が残っており、今冬の寒さの厳しさを示している。

 啓介は歩きながら考えるのが癖になっていて、園内をウォーキングしながら、年末
に行われた面接授業のことを思い出していた。放送大学の面接授業は申し込んでから、
実際に授業が行われるまでに、半年くらいの余裕期間がある。したがってテキストは
事前に本屋さんに予約注文しておくことになる。

 このテキストを早目に入手した啓介は、早速、巻頭の「はじめに」の記事から読み
始めることにした。すると文中に・・・

「兼好は、決して最初から人生の達人ではなかった。徒然草を執筆することによって
成熟していった人間である。ここに徒然草の独自性があり、全く新しい清新な文学作
品となっているのである」という記述が目に留まった。

 そこで啓介は考えを巡らせてみた。

「であるとすれば、その執筆の過程のどこかに、その変容を感じ取れる書き出し部分
があるのではないか?」

「もし、その変容を感じ取れる部分があるとすれば、それは後段の部分であろうか?」

 島内裕子教授は、徒然草の通し読みを勧めておられるので、しからば・・・

「序段から第二四三段まであるので、最終段から序段に向かって通し読みしてみよう」
と啓介は考えて通読を重ねて行き、第四十一段まで来たところで、兼好の筆から大いな
る感動の場面を察することが出来たのである。

 放送大学における面接授業は、毎週、同じ曜日に繰り返されるスタイルと週末など
に集中させて行われるスタイルの授業がある。今回の「徒然草を読み通す(1)」の
授業は、週末に、集中させて学ぶスタイルであり、一日目、二日目ともに、午前十時
から午後五時頃までの通し授業である。途中で、休憩時間と昼食休みはあるが、担当
教授との対面による授業三昧の終日となる。

 そして、一日目の中間帯の時間に、受講生に感想を言わせる試みがあった。
啓介は五番目に「佐久間啓介さんは、徒然草を読んで、どんなことを感じましたか?」
と問われたので・・・

「ボクは予習で最終段から序段まで、逆順序で読み通してみたのですが、第四十一段
に兼好の心の変容をみた思いがしました」というと、島内裕子教授は・・・

「私も、兼好にとって、心の変容があったのは第四十一段であると考えます」

「それは兼好が、脱皮できた瞬間ともいえる段ですね」

「徒然草を逆順序で読み通すという試みも面白いので、私も今度、最終段から通し読
みしてみます」という意外なコメントをいただいた。このような意見交流が出来るの
も、島内教授のような徒然草に精通された先生にお会いできたことによるものである。



(四) 生き方の方程式

 厳しい寒さのなかで、幾分なりとも寒さが和らいでくると、彩の森入間公園の上池
の周りを占拠している鴨たちにも、それなりに変化が起きてくる。今日は、池に氷が
張っていないこともあって、数羽の鴨が池をめがけて、急降下して着水しては水飛沫
をあげている。そんな情景を眺めながら、先日の痛切な思いが、フラッシュバックの
ように脳内に蘇った。

「政治の無策やスピード感のなさは、日々の報道のなかで明らかにされ、新党結成の
動きも出てきている」

 このようなときに、われわれ国民の一人ひとりが、「ワイワイガヤガヤ」の精神で、
「健全な意見」を交換することが、なによりも大切と考えた。

 ところで、ワイガヤの精神で意見交流を行うのに徒然草の序段から第二四三段まで
を、「思考の通路」として活用できるのではないか、身近な例としては、放送大学の
面接授業のときに、島内裕子教授は、当日の受講生の全員から上手に意見や感想を聞
きだしていた。

 授業そのものが分かりやすく、親しみやすい雰囲気であったため受講生全員が的確
な意見や感想を述べていた。これは一方で徒然草そのものがもつ魅力も、意見や感想
を出しやすくしているのかもしれない。

 徒然草を読み通す面接授業と、並行させて選択したインターネット授業「日本文学
の読み方」島内裕子著のテキストの頁をめくると、徒然草の筆を進めるにあたって、
兼好は自分のこれまでの人生や自分の日常生活については、ほとんどふれていないと
している。

 しかも、徒然草は、作品のテーマを限定しないという独特の執筆姿勢で書いている
ために内容も多彩で、「日常生活でありがちな滑稽な勘違い」や「名人の話」「四季
の変化の話題」「優美な貴族たちの社会」「深く人生を見つめる話」そして「政治の
話題」などを、兼好自身による読書体験を基盤として、その思索により導き出すとい
うスタイルを貫き通している。

 ここで啓介は考えた。思索によって物事が普遍化されているということは、物事に
対する答えというよりも、人生の生き方について、一般的な方程式が示されている。
したがって、その答を割り出す楽しみは、読者に残されている。

 兼好が徒然草を執筆した年齢の詳細は不明だが、兼好が、残した和歌などから推測
して、三十歳代から五十歳代に書かれたものと推測されている。このきわだった特徴
は、方丈記を執筆した鴨長明と比較することで良くわかる。

 鴨長明も特異な文学者であり二十歳代のときには百四首から構成される家集「鴨長
明集」をまとめている。さらに長じては、「新古今和歌集」編纂時に編集作業にあた
る寄人となっており、その他にも、いくつもの散文作品を残している。

 そのような多彩な文学活動のなかにあって、方丈記は晩年の作品である。鴨長明は、
方丈記のなかで、自分がこれから何をどう書くかという「明確な設計図」をもってい
たといわれている。具体的には「自分自身と世の中との対比」「住処のあり方を通し
ての人間の生き方の検証」である。

 しかし、方丈記には、最終場面で、どんでん返しの思考が仕込まれている。

 このような両者の文学作品を比較してみた場合に、われわれ国民の一人ひとりが、
自分たちの人生をかけた未来図を描くときに「思考の通路」として取り組みやすく、
バラエティに富んでいて楽しく、分かりやすいのは「徒然草」のほうであると判断
して良さそうであると啓介は考えた。



(五) テニスコートは花盛り

 ブレントウッド・テニスクラブの室内テニスコートの温度計を見ると「セ氏5度」
を指している。夏季には35度を超えるので、温度差が30度以上もあるということ
になる。しかしながら、温度差は大きいものの、春夏秋冬を通じて、室内では快適な
スポーツ空間が確保されている。

 啓介は、生涯スポーツとして「テニス&ウォーキング」を生活の軸に据えているが、
継続的に鍛錬が出来るという意味において、室内コートは最適である。春季の花粉症
などから守ってくれるドーム型の大屋根であり、初夏の梅雨時でも継続的にスポーツ
が出来る場所である。台風の最中であっても、自動車で乗りつければ、いつも通りの
テニススクールに参加して汗を流せる。冬季の今日のような気温5度の寒さのなかに
おいても、軽くウォーミングアップして動き出せば、汗が滲んでくる感覚であり快適
なテニスを楽しめる。

 ブレントウッド・テニスクラブは、今年、25周年を迎える。フロントのAさんの
言葉を借りれば・・・

「1987年4月15日にブレントウッド・テニスクラブがオープンして早いもので、
25周年を迎えようとしている。コート造りの際は排水性の優れたコートにするため、
地盤を大きく掘り下げた。目には見えないところに多くの日数を費やすことになった
ことは意外と知られていない。

 コートのサーフェース(表面)はオムニコートで、見た目には人工芝のような仕上
がりである。打球感はクレーコート(土のコート)に近く画期的な仕上がりとなった
が、まだ、日本では耐用年数などの実績がなく、今までにない、新しいコート形態で
あったこともあり、人気が定着するまでには手探り状態が続いた。

 オープンセレモニーには、1975年のウインブルドンで、黒人選手として初めて
優勝したアーサーアッシュが来日して盛大なオープンセレモニーが行われた。

 その年の6月には併設したレストランがオープンして、都内でフレンチの料理人を
していたシェフが登場。テニスプレーヤーの舌を満足させた。

 当時、入会した会員には、『BRENTWOOD』のロゴマークの入ったネームプ
レートが、入会記念として贈呈されて、ロゴのデザインをしたハワード・ヨーク氏の
センスの良さも手伝い大人気となった。

 そして、今から、6年前に、狭山市の道路拡張整備計画に、テニスコートの一部が
重なってしまい、二つのコートが使用できなくなったため、従来の会員制クラブから、
室内テニスコートを用いたテニススクール主体の運営に変わった。しかしながら元テ
ニスクラブ会員の強い要望もあって、その後、屋外テニスコートの二面を主体にした
会員制クラブも小規模ながら復活した。

 啓介は開設当時からお世話になった会員の一人であり、「BRENTWOOD」の
ロゴマークの入ったタグは、テニス専用バッグに括りつけている。啓介にとって、
ブレントウッド・テニスクラブは自分のふるさとの様な感覚があって、今でも、レス
トランでフロントのAさんが入れてくれたコーヒーを飲むと、気持ちが落ち着く。

 啓介自身も、その間に、家庭の事情でいろいろな変遷があり、ブレントウッド・テ
ニスクラブへの通い方にも濃淡はあるものの、四十歳代からのお付き合いという歴史
観のある場所となった。自宅から、狭山市祇園のテニスコートまでは車で約20分間
の近さであり、脳内をテニスモードに切り替えるのには丁度良い距離と云える。

 確かに、開設当時は屋外のテニスコートが6面あって、太陽がいっぱいの練習風景
であった。二十歳代の後半にテニスを始めた啓介はいつも屋外で飛び回っていたので、
顔面はいつも日焼けしているのが当たり前の状況であった。

 そのような延長上では、当初、室内でのテニス練習には抵抗感があった。

 しかし実際に「屋外でもテニスが出来るクラブ会員」であり、「室内でもプレーが
できるテニススクール生」という体験を続けていて、ある日、花粉症の時期の夜中に
喉の痛みを感じた。

 最近は、肺の中まで花粉が入り込むことがあると聞き、急遽、室内でのテニスのみ
に切り替えた。ただし、これも花粉症の時期だけのことであり花粉が舞っている時期
を過ぎれば、快適な青空の下でのテニスも魅力的なのでクラブ会員に戻りたいという
気もしている。

 室内テニスコートにおける練習時間の90分間はあっという間に過ぎる。レッスン
後には海老名ヘッドコーチから今日のレッスンの締め括りの話がある。海老名ヘッド
コーチによるテニス技術向上に関する話は分かりやすく、長年にわたって、師と仰い
でいるメンバーも多い。同時に、人生を語るところがあって、その魅力には老若男女
を問わずファンが多い。

 啓介は、いまだにテニス技術の上達を感じることがあるのと、同時にヘッドコーチ
の話しは、人生の生き方などにおいても、琴線に触れるような思いをすることがあり、
大いに参考にしている。

 テニススクールの練習が終わった後で昼食のレストランをのぞくと満席状態なので、
入間市の隠れ家的な雰囲気が気にいっているアマルフィーに向かうことにする。

 最近は、近郊の東雲テニスクラブが閉鎖となりブレントウッド・テニスクラブ開設
当時の会員がまた戻ってきた。狭山市の道路拡張工事が始まり、室内テニスコートに
向けた大改造が始まったときに待ちきれず東雲テニスクラブに大移動した会員が大挙
して戻ってきたため、たちまちにして、余裕のあった募集会員枠は満杯となりゲスト
ハウスの満員御礼の掲示に合わせて屋外テニスコートもレストランも大盛況となった
のであった。

【後日談】 この記事は、5年前に執筆したものであるが、このブレンチウッドも、
一昨年末(2015年末)には、閉鎖となり、昔の善きテニス時代を思い出すための
歴史的な記事になってしまった。



(六) ワイワイガヤガヤの場作り

 ブレントウッド・テニスクラブのフロントでAさんと挨拶を交わして駐車場に出る。
フロントのAさんの家系図をたどると、ご先祖様には歌聖と称される「柿本人麻呂翁」
が記されているということが、話のきっかけとなって、時々「文学論」に花が咲く。

 ブレントウッドのフロント入口の生け花やインターネット上のホームページそして
テニスクラブ会報のセンスの良さには、Aさんの影響も大きいのではないかと勝手に
想像している。

 ご主人もこのテニスクラブの仲間であり人生の大先輩である。啓介が三年前に家内
と一緒にイタリアに出掛けることになったときに「海の都の物語(ヴェネツィア共和
国の一千年)」塩野七生著を読んでから旅に出ると面白いよという、アドバイスをい
ただいて、早速、本屋さんで買い求め大急ぎで読んでから出掛けたが、ヴェネツィア
を実際に自分の目で見ながら、本との結びつきも確認できて旅の楽しみは倍増した。

 テニスクラブから入間市のアマルフィーまでは、車で約十分間の距離である。イン
ターネットのホームページには、焙煎コーヒーの美味しい店として店内の風景ととも
に紹介記事が掲載されている。

 啓介はコーヒーよりも紅茶が好きで、アールグレーをマグカップでいただくことに
している。ただし、秋の入口の人肌恋しい感じがする気候の頃の焙煎コーヒーは季節
的に年に一度の絶妙な味覚の機会なので必ず焙煎コーヒーを味わうことにしている。

 喫茶店アマルフィーは、場所的には入間市役所の南側に位置しており、大通りから
の風景は軽井沢の古き時代の別荘のような雰囲気であり、入り口の左側には設計士の
星野さんのアトリエがある。木製の階段を登った奥に喫茶店アマルフィーがあるのだ
が、最初は、この階段の入り口を探すのが難しい。

 この店も星野さんの設計で天井が高く、音響効果が良いことから、時折、小規模な
演奏会が開催されている。アマルフィーは、昼食時こそ賑わうが、午後一時過ぎとも
なれば、ゆったりと食事できるので、時々、室内テニスの練習が終わった後で、マグ
カップの紅茶や、サラダとチキンカレーのセット、そして締めはアールグレーの香り
を楽しむという順序でお腹を満たすことにしている。

 啓介は、ゆったりと昼食を摂りながら考えた。

「アマルフィーの丸テーブルをお借りすれば六人は掛けられるのでこの場をつれづれ
なる『ワイワイガヤガヤ』の場として使わせていただく案はどうか」

「英語教師を招いて、時々、英会話のサークルも行われていることでもあるし、この
場所をインターネット上では、スペース貸しとしても案内している」

「徒然草を『思考の通路』として、喫茶店アマルフィーで、焙煎コーヒーや紅茶など
をすすりながら、意見交流が出来る場、ときには、政治談議ができる場を設けること
が可能ならば、われわれ庶民のレベルからも、インターネット上で『声なき声』とし
て、日本の政治に向けて発信して行ける。

 そのベースキャンプ的な、『場作り』が構築できるのではないか。まだ、具体的な
イメージを描く段階までは行っていないが、可能性としては十分に考えられる」

 そのように考えた啓介は、アマルフィーのオーナーであるTさんに、起案書を兼ね
た募集案内で具体的なイメージを明確にしてから相談しようと考えた。


(七) 学習暦を重ねる楽しみ

 彩の森入間公園には久々に大勢の人々が集まってきている。今日は「立春」である。
いつもの年だと暦の上では立春といっても寒いときが多いが、今このときは、両手を
広げると、太陽の暖かさが手の平で感じられる陽気である。

 太陽の光も明るくなってきて輝きが感じられる。赤ちゃん連れのお母さんが、枯れ
た芝生の上にシートを広げてくつろいでいる。池の周りの鴨や鳩も、いつもより活発
に動き回っているように感じる。

 家内の万歩計が、本日のウォーキング目標の五千歩を少し超えたので飼い犬を後部
座席のボックスに乗せて帰ることにする。家内はウォーキングの時だけ万歩計を身に
付けるが、啓介は朝から夜寝るまでの間、万歩計を腰のあたりに付けている。

 ウォーキングした日は、だいたい一万歩を超えることが多い。

 家に着くと郵便物が届いていた。放送大学からの郵便物で「特別講演会」の案内で
あった。五味文彦教授による講演で「日本史の新しい見方、捉え方」と題したもので
あった。講演後は、懇親会も計画されている。文面には卒業生を対象に定員250名
の募集とあるので、大規模な講演会である。

 啓介は「心理と教育」専攻で、昨年度末に卒業対象となった。

 昨年3月末にNHKホールで全国規模の卒業式が行われる予定であったが、東日本
大震災の影響で、全国規模の卒業式は中止となり卒業式で受け取ることになっていた
「学士」認定書は、宅配便で送られてきた。

 放送大学には1995年に入学。学習を重ねること16年にして「学士」認定書が
届いた。入学のきっかけは、大手町勤務のときに、たいへんお世話になった大先輩か
ら贈呈された一冊の本であった。

 大先輩からは「佐久間さんは感動屋さんだから」、是非とも、この本を読んでみて
くださいといって「月は東に、蕪村の夢、漱石の幻」森本哲郎著が贈られてきた。

 大先輩の思惑通りといったところか、これがきっかけとなって、俳句に興味が湧き、
早稲田大学の社会人向け講座で俳句を学び、講座を担当された早稲田大学英文科高橋
悦男教授編「俳句月別歳時記」を購入して作句を開始。高橋悦男教授が主宰されてい
る同人誌「海」に投稿するようになり、東京都内の句会などにも積極的に出席してい
るうちに、「松尾芭蕉の崇高な俳句は、どのような心の働きの中から創り出されて来
るのか?」の興味から、その答は心理学にあるのかもしれないと考えて、放送大学に
入学した。勿論、専攻は心理学とした。

 当時の心境としては「放送大学を卒業する」という目標ではなく専攻した「心理学」
から、何かを学び取りたいという学習意欲に牽引されてのものであり、学習暦を積み
重ねることへの満足感が優先した。

 しかし、後に、これが「兀型の専門性」を身に付ける必要性に迫られた時に、自分
にとって従来から経験を積んできた「管理工学(IE)」に加えて、もう一つの深堀
りの専門分野として、重要な存在になって来るのであるが、この時には、まだ、それ
ほど重要な専門分野になって来ることには気付かなかった。

 心理学から心の働きを学び取るという興味はやがて脳の働きへの興味に発展、さら
に脳の科学から、情報機器による情報処理の仕組みへと発展して行き、心理学の分野
においては「ユング博士」の考え方やアプローチの在り方に共鳴して放送大学大学院
の授業科目である「臨床心理面接特論」大場登・小野けい子著にも学ぶことになった。

 同じ大学院の「生涯学習論(現代社会と生涯学習)」岩永雅也著および「生涯学習
と自己実現」堀薫夫・三輪建治著も面白かった。

 生涯学習の面接授業では、思わず目が覚めるような演習機会にも恵まれ、学習暦を
重視した啓介の学びが、佳境に達した感のあるときに、大学の単位認定が卒業レベル
に達したため卒業となった。

 しかし、元々、生涯学習的に継続して学ぶことが啓介の考え方であるので迷うこと
なく放送大学に再入学。今度は「人間と文化」コースを専攻した。そこで出会ったの
が島内裕子教授であった。

 啓介が、島内裕子教授の担当するインターネット授業「日本文学の読み方」および
面接授業で対面が出来る、「徒然草を読み通す(1)」の受講機会に恵まれたことは、
必然の慶事といっても過言ではない。



(八) 日々学ぶことの習慣化

 啓介の「本好き?」は、啓介がまだ五歳の頃にルーツがある。

 母親は、既に、九十歳で他界しているが、啓介がよく聞かされた話として・・・

「ケイスケが、まだ五歳の頃に小脇に本を抱えて、部屋の少し高いところに登っては、
胸をはってポーズをとり、得意げな顔をしていたよ」というのである。

 けっして神童という類の話ではなく、今風に云えば形から入っていたようである。

 啓介は身近な経験において「その子は神童ではないか?」と感じたのは早稲田大学
の記念館の講堂へ外国人の講演を聞きに行ったときに「会場の皆さんの中からご質問
はありますか?」という司会者の問いに、手を挙げた受講者から・・・

「最近、循環小数の勉強を始めたばかりの息子から、『お父さん! 学校で先生から、
1を3で割り算すると、答は、0.3333333・・・と永遠に続く。これを循環
小数というのだよと教わったのだけれど、この答に、また、3を掛け算したら答はど
うなるの』と聞かれて絶句した」という前置きをしてから、質問者は、本論の質問に
入っていった。そのとき啓介は「その子は神童」と呼んで良いのではないかと思った。

 そして啓介は、その循環小数の話題から、大いなる示唆を受け取った。

 自分に向けた自分の声として・・・

「なんでも、割り切るのが好きな、佐久間啓介さんよ!」
「生きて行く上でどうしても、1を3で割り切らなきゃいけないときにも3分の1と
いう分数にしてそのままにしておく方法もあるのではないか!」と、この着想は、
その後の啓介の生き方に少なからず影響を与えた。

 ところで徒然草の兼好も「神童らしさ」を最終段の第二四三段で書き記している。

【徒然草:第二四三段(訳)】 島内裕子教授の訳から抜粋

 私が八歳になった年に、父親に問いかけて言った。「仏は、どういうものですか」。
すると父が答えた。「仏には人間がなるのだよ」と。再び、私は尋ねた。「人間は、
どのようにして、仏になるのですか」と。父は、また答えた。「仏の教えによって
なるのだよ」と。三度、私は聞いた。「教えなさった仏を、誰が教えになられたの
ですか」と。また、父が答えた。「それもまた、その先の仏の教えによって、仏に
なられたのだ」と。四度、私は問うた。「その教え始めなさった第一番目の仏は、
どのような仏だったのですか」と聞いた時に、父は「さあて、空から降ってきたの
だろうか、土から湧いて出てきたのだろうか」と言って笑った。

「息子に問い詰められて、とうとう答えることができなくなりました」と、父はいろ
いろな人にこのことを語っては、面白がった。

 兼好は、この少年時代の父親との問答をもって、徒然草の筆を置いた。

 この問答からは、ソクラテスのグループ討議による「ナゼナゼ論議」が連想される。
多くの難問をソクラテスは、このナゼナゼによって、解き明かしたといわれている。

 啓介は、企業人になってから、真の「本好き」「勉強好き」になった、きっかけは、
家内と、ニュージーランドに出掛けた際の、帰りの航空便での会話が原点であると考
えている。

 当時、企業人として忙しく働き廻っていた頃に、啓介も永年勤続表彰制度の対象者
となり、その表彰とともに、副賞として長期休暇と旅行代金が支給された。

 そして、旅行先としては、家内と相談して、地球の反対側となるニュージーランド
を選んだ。季節的には日本が春ならニュージーランドは秋となり季節は反対となるが、
時差の少ないことに魅力を感じて、秋のニュージーランドを旅先として選んだ。

 実際、ニュージーランドの眺望は素晴らしく、その感動は脳内に刻み込まれたまま
長期保存されて、六十歳の定年後、その体験をモチーフにして「小説」を書いた。

 家内とのニュージーランドへの旅は、啓介が後日「小説にする」ほど感動的なもの
であったので、当然、帰り便の機内での会話は大いに盛り上がった。

 盛んな会話の中で「今回の旅では、お金もかかったけれど素晴らしい旅だったね」
という二人の会話の延長上で、家内から思いがけない発言が飛び出す。

「やはり、これからは、自分にもお金をかけて行く、自分への投資も大切よ」という
話になって、家内から・・・

「あなたに、家計から百万円を提供するから、自分で好きなことに使ってみたら」と
いうのである。

 啓介は、日本に帰ってから、ずいぶん考えた。そして、「二つのアイデア」を考え
出して、家内に相談した。

「一つ目は、これからの情報化時代にあって、我が家にもインターネット回線を引き
込みパソコン購入。やがて、全社的な規模で情報化してくることは間違いのない見通
しなので、それを先取りしたい」

「二つ目は、入社時は設計に配属となり、純国産ジェットエンジンの量産設計に係わ
るという幸運に恵まれ、現在はインダストリアル・エンジニア(管理工学技術者)と
して活動。欧米における、管理工学関連の実務者の動向や実態を海外出張先で把握。
自分の目で、把握した事実や体験・経験などを事業所や工場の生産性向上運動などに
生かせると確信。現在は、そのおかげで活躍の場を見出しているが、一方で、最近の
市場における不況の荒波の影響を受けて、我が社でも多くの先輩たちが早期退職制度
で、退職の道を選んでいるが、極端な場合、将来、企業倒産ということがあっても、
自立して、自分を生かして行けるように、日々、研鑽出来る場を自分自身で用意して
おきたい」

 啓介は、そのように考え、パソコンを購入して手習いを開始。インターネット回線
を我が家に引き込んだ。そして、将来はビジネスコンサルタントも出来る素地を用意
しておこうと考え、プレジデント社の企業経営に関するノウハウ集をダンボール箱で
二箱分購入して勉強を始めた。

 総費用は百万円かかったが、これにより、日々学ぶ習慣はすっかり身に付いた。

 その後、この努力は意外な方向で実を結び、航空ビジネス部門が国内需要中心から
海外需要向けにも市場進出することになり、全社的な業務革新運動が必要となった。

 その旗振り役が大手町オフィスに集められ、啓介は中堅メンバーとして迎えられる
ことになる。当時、啓介は全社的な課題として権限委譲という難問を背負わされて、
これも、必然か昼休みの散策で、大手町にボストンコンサルティンググループの存在
を知り、世界を知り尽くした彼らは、「権限委譲」という難問をどのように扱ってい
るのだろうか、教えていただけそうな気がして、予算計上もないままに、無鉄砲にも、
ボストンコンサルティングのオフイスビルを訪ねた。

 フロントの案内によって、気軽に相談に乗ってくれた、ヴァイス・プレジデントの
言葉は明快そのもので・・・

「日本企業に共通した課題で、どこの企業も苦労されているようです」と実情を紹介
していただいたことを、昨日の出来事のように覚えている。お礼をいって帰る際に
「タイムベース競争」堀紘一監修が手渡されて、これが後に啓介にとっては、社内に
おけるビジネスコンサルタントとしてのバイブルとなったことはいうまでもない。

 啓介は、お礼に、この本の内容をさらに、詳しくビデオに監修したものを購入して、
全社的な業務革新運動に大いに役立てた。



第二章

(一) 何を意味しているのか

 ニュージーランドのカンタベリー地方で、2011年2月22日に、大地震が発生。
クライストチャーチの大聖堂の塔が崩壊したというニュースは、テレビ報道によって
知らされた。啓介にとってこの地方は大いなる元気をいただいた都市のひとつであり、
あの仰ぎ見た大聖堂の尖塔が崩壊したというニュースには驚愕した。

 クライストチャーチ地震と呼ばれる大地震により被害を受けた家屋は4万から5万
戸に及んだと云われている。なかでも、地元テレビ局が入っていたビルの倒壊による
被害は甚大であり、同局の関係者やこのビルに入居していた語学学校の生徒や留学生
が被害に巻き込まれて、多数の死傷者が発生した。

 語学学校という性格から、死者185人の出身は15カ国に及び日本人も28名が
尊い命を失った。クライストチャーチ国際空港では管制塔の建物が崩れたため、一時、
空港は閉鎖された。

 ここに亡くなった方々のご冥福をお祈りして合掌する。

・・・・・・・・

 徒然草を思考の通路にして、「ワイワイガヤガヤ」の場を設け、意見交流して行く
というイメージは、啓介の頭の中では、具体化しているが、それを、目に見えるよう
にして起案書にした上で、実際に、メンバー募集をして行くときに、どのような説明
をして行けば、「分かりやすいのか」、それは難題でもあり、課題でもある。 

 しかも、最初の問題認識であったところの・・・

「政治の無策やスピード感のなさを正す」
「最近の新党結成の動きをどのようにとらえるか」
「われわれ国民一人ひとりが『ワイワイガヤガヤ』の精神で、『健全な意見』を交換
すること」が、果たして、容易に実現出来ることなのかどうかは、ある程度の目論み
を建てておくことが肝心である。

 その際のポイントは出来るだけ分かりやすい展開が出来るか否かにかかってくる。

 松尾芭蕉の言葉を借りれば「幼子にも分かる展開」ということになる。幼子を対象
にするには、話に無理があるとしても「中学生にも分かる」イメージというレベルが
落としどころになってくると考えている。

 そういえば、昨年暮の「徒然草を読み通す」の授業でも、受講生の中に、中学校の
先生が混じっていて、島内裕子教授に次のような受講の感想を述べていた。

「現在、徒然草の話を読み聞かせているのですが、島内先生の講座を受講することで、
生徒たちにより分かりやすい授業をしようと考えています。本日の徒然草を読み通す
講座は勉強になりました」という主旨の感想であった。

 中学生にも分かるという視座で考えたときに・・・

 それを可能にするためには、徒然草を「思考の通路」にするということを独り舞台
でも良いので、啓介が、実際に独りロールプレーをしてみて手応えを確かめ、その上
で、皆で共有して行くというプロセスが必要なのではないか。

 既に、放送大学の文京学習センター(茗荷谷)の新校舎の研修室において島内裕子
教授ご指導の下において、徒然草の序段から第百十八段までの前半部分を読み通して
いる。これを基盤にして、先ずは序段から第十段までを、啓介の独りロールプレーで
演習してみたら、起案書や募集案内を作成するヒントが得られるのではないか。

 これらの段には・・・
「身分」「教養」「政治」「恋愛」「仏教」「子孫」「人生」「色欲」「住居」など
について、兼好の「つれづれなる思い」と「問題意識」が書き連ねられている。

 啓介は、序段の本分と、島内裕子教授による訳文の助けを借りて、
「ワイワイガヤガヤ」のロールプレーを演じてみることにした。

 独りロールプレーで、どこまで「思考の通路」を飛翔して行けるだろうか。

【徒然草:序段(本文)】

 徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆく由無し事を、
そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。


【序段(訳)】 島内裕子教授による訳

 さしあたってしなければならないこともないという徒然な状態がこのところずっと
続いている。こんな時に一番よいのは、心に浮かんでは消え、消えては浮かぶ想念を
書き留めてみることであって、そうしてみて、初めて、みずからの心の奥にわだかま
っていた思いが、浮上してくる。

まるで一つ一つの言葉の尻尾に小さな釣針が付いているようで次々と言葉が連なって
出てくる。それは和歌という三十一文字からなる明確な輪郭を持つ形ではなく、どこ
までも連なり、揺らめくもの・・・

 そのことが我ながら不思議で、思わぬ感興におのずと筆も進んでゆく。自由に想念
を遊泳させながら、それに言葉という衣裳をまとわせてこそ、自分の心の実体と向き
合うことが可能となるのではなかろうか。

 面接授業では、この対極として樋口一葉の雑記が参考記事として紹介されていた。

「つれづれならぬ身は、日暮らし硯にも向かわず、おのが勤め、ろうがはしく走り
巡りて、日もやうやう暮れぬとて、足机など取り出しつつ・・・」
(明治二十二年初春の雑記より)

 兼好と一葉の違いは決定的であり、それは「閑と忙」である。しかし両者に共通
していることは清少納言の「枕草子」を精読しており、両者ともにその影響を強く
受けていることである。

 兼好は、徒然草「第十三段」に、「ひとり燈火のもとに文を広げて見ぬ世の人を
友とするぞ、こよなう慰むわざなる」と書いており、訳によれば「独り、燈火の下
に書物を展げて、見ぬ世の人を友とするくらい、無上の慰めはない」として、読書
人の感想を述べている。

 また第七十二段では清少納言の枕草子の「もの尽くし」の文体で筆を進めており、
枕草子を精読していたことが良く分かる。

 古典文学に関する深い教養を武器に、近代小説の傑作を書いた樋口一葉は紫式部
よりも、清少納言に親近感を抱いていたと・・・

 島内裕子教授が著書の「日本文学の読み方」で述べており、樋口一葉の随想記
「さおのしづく」の冒頭にある紫式部と清少納言の比較論を紹介している。

 世間の人々の多くは、紫式部を高く評価しているが、自分はそうは思わない。

 紫式部には、父親や兄、藤原道長の庇護があったのに対して、清少納言は頼る人
もなく、独力で文学人生を切り開くしかなかった。

 清少納言を「霜降る野辺」の「捨て子」に喩え、「女の境」を離れて文学に一生
を賭けたからこそ、枕草子の表面は、優雅で華麗に見えるが、深層には・・・

「あはれに、寂しき気」が籠もっていると、一葉は洞察している。

 島内裕子教授の言葉をお借りすれば・・・

 これは、一葉が自分自身の文学の本質を、清少納言に仮託して告白したものともい
える。清少納言の「優雅と辛辣」の奥底にあるものは「女としてこの世を生きること
の哀しみ」であると見抜いた一葉こそ、まさに清少納言の「見ぬ世の友」であったと
いえる。

 啓介は、放送大学の島内裕子教授の呼びかけで「徒然草を読み通す」ことを真正面
から受けとめて、先ずは、最集段から序段に向けて読み通してみた。そして、今度は
あらためて序段から最終段までを読み通してみた。

 そこで、啓介は「あること」に気付いた・・・

 兼好の徒然草を「思考の通路」にして思いを巡らすためには、日本文化の始発期の
「古事記」からはじめて「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」「枕草子」
「源氏物語」「和泉式部日記」「更級日記」「方丈記」「平家物語」などを、
「日本文学の読み方」島内裕子著のガイダンスに沿って、一気に読んだ上で、
「徒然草を読み通す」ことをしないと、徒然草の文脈の奥底に潜むものに辿りつかな
いのではないかと考えて啓介は自宅の蔵書(日本の古典:現代語訳)を一気読みした。

 結果、兼好が「序段」に書いている名文は・・・

 自分自身が執筆家としての「ありたい姿」について、現役の六位蔵人の時代に構想
を描いていたのではないか(蔵人とは、天皇に仕えて日常の雑事や文書の管理を行う
役職である)。兼好は、神道の家柄に生まれており、若い頃は、堀川家の家司として、
事務をつかさどる職員であった。

 後宇多天皇と堀川基子の間に生まれた邦冶親王が、後二条天皇になったときに蔵人
として出仕している。三十歳以前には出家しており、出家して兼好御坊となったとい
われている。

 徒然草の完成は、登場人物の官位や記事からの推定で、兼好が五十歳頃までに書か
れたものとされているが詳細は不明である。

 兼好は、歌人としても知られており、和歌や記述文書などから、鎌倉に行ったこと
があり、晩年は「源氏物語」や「拾遺和歌集」などの書写も行っている。

 足利尊氏や高師直などの武家とも交流があり文化人として遇されていたことが推測
されている。

 啓介は、放送大学の大学院においても貴重な履修学習の体験をしている。

 ユング博士の心理学の考え方に共鳴した延長上で、大場登教授の存在を知って、
「臨床心理面接特論」大場登・小野けい子著に学ぶことにした。

 通常の教科は、二単位で編成されているが、この教科は四単位の編成になっており、
テキストにも厚みがある。啓介は、この教科の期末テストで百点満点を取っており、
いかに注力して学んだかの証と考えている。

 同時に、この臨床心理の考え方を学ぶことで、啓介はものごとに対する見方や取り
組み方に、奥行きともいえるような、余裕をもった考え方が出来るようになったこと
も確かである。

 ものごとを受け止めるときの基本的な姿勢として、「それは、何を意味するのか」
というアプローチを取るのである。

 これによって、一呼吸おくことが出来るために、慌てずに焦点を外すこともなく、
的確に対処できる。

 徒然草を「思考の通路」にするときにも、このアプローチの取り方は有効であると
考えている。兼好が序段でこんなことをいっているが、「それは何を意味するのか」
と、こんな具合である。

 同じく大学院の履修科目で岩永雅也教授から「生涯学習論(現代社会と生涯学習)」
を学んだときにも、啓介の心を揺さぶった学習経験があった。

 岩永教授は、啓介が卒業研究の論文をまとめたときの担当教授であり、岩永教授の
思考の特徴として、ものごとを多面的に、いろいろな視点から、見て行くということ
を日常生活の中で実践されている。

 兼好の徒然草の執筆と、同じような傾向が見られるところが面白い。

 岩永教授のテキストには書かれていないのだが、啓介は、次のようなことを本能的
に毛穴で感じ取った。

「表向きの話には、必ず裏の話がある。そしてそこには、さらに裏の話が隠されて
いることがある」

「ものごとを観る上で、多面的な見方は不可欠である」

「少なくとも、ものごとを対極的に両面から観る態度は、日常生活においても習慣化
したいものである」

 このようなことを感じ取ることになったきっかけは、「生涯学習論」のテキストの
中に、第二次世界大戦後のイギリスにおいて保守党と労働党の二大政党が交互に政権
を交代することになって、その度に生涯学習の全体的方向性が頻繁に重心を移動させ
られたという記事が紹介されていて、ある意味で不幸な状況が続いたことは、最近の
日本の与野党の交替劇にも似通っており、ねじれ国会の議案の推移などを見るに付け、
建前と本音と思惑が交錯して、まさにカオス(混沌)の状態を成している中で、政治
の正常化を望む啓介は、前述のようなことを本能的に毛穴で感じ取ったのである。

 徒然草を「思考の通路」として飛翔するときにも、このような多面的な見方は必須
であり、実は、徒然草に書かれていることをワイワイガヤガヤと意見交流することが、
自ずと多面的な見方に通じると考える。



(二) 兼好の決意と一葉の決心

 さて、徒然草「序段」は、何を意味しているのか。

 名文として名高い「序段」と「第6段」を合わせ読むことにより、この謎が解けて
くることに啓介は気付いた。

 ここで、第六段の書き出しの部分を読んでみることにしよう。

【第六段(訳)】 放送大学 島内裕子教授の訳から抜粋

「自分が高貴な身分であれ、ましてものの数でもない場合はなおさらのこと、子ども
というものはいないほうがよい、と私は思う。・・・(後略)」

 この文面からは、子どもが生まれることへの、恐れさえ垣間見せている。
序段と第六段を照らし合わせたときに、そこに明確に見えてくることは、兼好が閑職
に追いやられたために「徒然なるままに・・・」という情況に置かれて、執筆活動を
始めたのではなくて、蔵人としての現役のときに、その情況を自ら望んで兼好御坊と
なり、読書を通じて脳内に浮かんだ想念を、清少納言の「枕草子」のように思うがま
ま書き綴りたいという「決意」を固めて、その意思を継続させて、貫き通すためには、
子どもはいらない、という発想をしたのではないかと、恐れ多くも推測する。

 おそらく序段から第十段くらいまで、あるいはもっと先の段まで現役の蔵人時代に、
既に、文面に出来るまでの細部を含めて、構想をもっていたのではないかという推測
も出てくる。

 したがって、本格的な徒然草の執筆にあたっては、脳内に秘められていたところの
文面を、一気に、文字として吐き出していったのではないかとも考えられる。

 話は変わるが伊賀上野に生まれた松尾芭蕉の場合も、十九歳の頃から藤堂藩侍大将
であった藤堂良精の息子良忠(俳号蝉吟)に仕え、若君と共に学んだ俳諧が二十一歳
のときに、初めて二句が撰集に入集したものの、若君の良忠が二十五歳の若さで病没
した後は致仕しており、その後は消息が途絶え、二十九歳の春に俳諧師としての独立
を目指して江戸に出た。

 江戸では神田上水の水道工事の事務にも携わったことがあるが、次第に俳諧の弟子
たちも増えて、俳諧の宗匠生活も軌道にのった。

 しかし新たな境地を切り開くために、宗匠生活を辞めて深川に隠棲することになる。
その後は、各地への旅と、旅の合間の草庵暮らしや、故郷伊賀への帰郷を繰り返し、
大阪で没した。

 兼好も、芭蕉も、その一生は、ホイジンガの云うところの「第三の生き方」を貫い
たといえる。

 オランダの史家ヨハン・ホイジンガは、名著「中世の秋」でヨーロッパの中世末期
の文化と中世人の生活の豊かさを記述しているが、その文中で「人間の三つの生き方」
を説いている。

 そのなかで兼好と芭蕉が生きた、第三の生き方について夏目漱石が彼の作品である
「草枕」の冒頭で、とても分かりやすい説明をしている。

 山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ
引き越したくなる。

 どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。

 人の世を作ったものは、神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りに、
ちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて越す国
はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。

 人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。引き越すことのならぬ世が住みに
くければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよく
せねばならぬ。

 ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士
は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

 ホイジンガの「人間の三つの生き方」ついては「月は東に、蕪村の夢、漱石の幻」
森本哲郎著に詳しい解説がある。それぞれの生き方を「道」として解説している。

 ホイジンガの云うところの「第一の道」は、現世の住みにくさや生きにくさの解決
を彼岸の世界からの救済に求めようとする考え方であり、宗教的な神仏を求める希求
の発想である。

 すべての文明は、先ずこの道を歩んできた。キリスト教も、イスラム教も、仏教も、
その性格はいかに異なろうと、歩んできた道は同じであった。

 やがて「第二の道」があらわれる。第二の道は現世の世界そのものを改良によって
住みやすく、生きやすいものにして行こうという考え方であり、現実の世界を積極的
に改良して道を切り開いて行ったときに、新しい時代が始まり、生きることへの不安
から、勇気と希望に道をゆずる。

 この意識がもたらされたのは十八世紀にはいってからのことである。しかしながら、
人々の歩む道は、この二つに尽きている訳ではない。

 もうひとつ「第三の道」がある。第三の道は、第一の道のように神仏の加護に希求
するのではなく、さりとて第二の道のように現実の世界を変革したり改良したりして、
そこに理想郷を実現させようというものでもない。

 そのまんなかにあって、「せめてみかけの美しさで生活をいろどろう、明るい空想
の夢の国に遊ぼう、理想の魅力によって現実を中和させよう」という生き方である。

 この第三の道は、はたして現実からの逃避だろうか。ホイジンガは、その問いかけ
に対して・・・

「いや、そうではない」と答えている。

 それは現実とのかかわりを持たぬということではなく、この世の生活を芸術の形に
つくりかえることであり、生活そのものを美をもって高め社会そのものを芸術と遊び
によって、生活そのものに豊かさを加えて満たそうとするものであると、ホイジンガ
は説明している。

 ホイジンガは「中世の秋」すなわち、ヨーロッパの中世末期の文化を、このような
視点からとらえ、そこに、中世人の生活の豊かさを発見したのであった。

 樋口一葉の前述の雑記「つれづれならぬ身は・・・」の情況から一葉は「第二の道」
と「第三の道」を、併走しながら執筆に励む日々であったと思われる。

 読売新聞に「一葉ゆかりの文学散歩」と題して、その情景が目に浮かぶような記事
が掲載されていたので書き出してみることにする。

 樋口一葉は、21歳の頃、母と妹の三人で龍泉寺町(現・東京都台東区竜泉三丁目)
に暮らしていた。一葉は小説家を志しながら、瓦ぶき平屋の二軒長屋で荒物と駄菓子
を売る店を営んでいた。

 一葉が、17歳の時に父親が亡くなっており、作家をめざすと決めた19歳のとき
には、一家の大黒柱として家計を背負いながらの「決心」であった。



(三) ダ・ヴィンチからのひらめき

 樋口一葉の作品と文体の特徴については、放送大学の東京多摩学習センターの所長
新井特任教授から「文章心理学入門」の授業で、文章の統計的な解析結果などを踏ま
えた独自の理論を拝聴した。

 その時に拝見した一葉の肖像から、凛とした表情のなかで、きりりとしまった口元
は「何を意味するのか」と考えた。そこで脳内をよぎったのは、イタリアで鑑賞した
「最後の晩餐」の壁画にまつわる話題であった。

 ご存知のように、最後の晩餐の壁画は、主イエス・キリストを中心に、弟子たちの
姿が描かれている。

 作者のダ・ヴィンチは、キリストの口元からの言葉として・・・

「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのひとりが私を裏切ろうとしている」
という発声を、キリストの口元が開いていることで表現しており、その言葉に対応し
た弟子たちの動作が、それぞれの弟子たちの動作や、表情に連なって描かれていると
いう。

 啓介は、なかなか鑑賞の機会に恵まれないという情況の中で、イタリア現地の教会
において、この壁画を見る機会を得たのであるが案内者の説明に聞き入りながら観賞。
「その意味するところ」を知ったときに最高傑作といわれる所以を知るにいたった。

 啓介は新井教授の「文章心理学」を受講後、自宅の蔵書「日本現代文学全集」から、
樋口一葉集を取り出して「たけくらべ」を読み返してみた。そして巻末の作品解説に
目を通した。山本健吉氏による解説である。

「定本現代俳句」山本健吉著で評論の確かさとわかりやすさは、既に承知している。

 一葉が最初に望んでいたのは、歌塾の後継者になることであった。歌塾の後継者に
なるということは、歌人になるということではなくて、お花やお茶の師匠と同じよう
に、それだけで生計が成り立つことを意味していた。

 当時は、歌を作ることが上流・中流の子女のたしなみであり躾でもあった時代なの
で、一葉は、その資質を中島歌子から、見込まれて、しばしば後継者への期待を仄め
かされ、期待に胸を膨らませていた。

 しかしながら、一葉が、龍泉寺町に移って、荒物・駄菓子の小商いをやりだしたの
は、中島塾の後継者の地位を断念したからであった。

 しかし、その後、一葉がその商いを畳んで本郷丸山福山町に移ったのは、もう一度、
塾長歌子の甘言に仄かな希望を見出したからであった。しかし再度、その希望を空し
く打ち砕かれて、歌塾の後継者という立身出世の目標は雲散霧消した。

 そのとき、一葉は、あらためて作家としてひたむきに生きようと決めた。

 これが、後に、和田芳恵氏がいうところの「奇跡の期間」の始まりであった。
一葉が「大つごもり」を書いた明治二十七年十二月から「たけくらべ」を完結させた
明治二十九年一月に到る「十四ケ月間」を、和田氏は奇跡の期間と呼んでいる。

 この奇跡の期間には他にも「ゆく雲」や「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」など、
一葉の傑作といわれる作品のすべてが書かれているのである。

 樋口一葉の凛とした表情のなかで、きりりとしまった口元には、奇跡の期間といわ
れる時期の作家としての決意が感じられるのである。


(四) 一葉と鴎外の接点

 作家魂を燃やして作品を次々と発表して行く一葉の活躍ぶりは、一葉の日記に詳し
く書かれている。

 山本健吉氏は「一葉の傑作はと問われたら」、「躊躇なく日記と答えよう」と述べ
ている。奇跡の期間と云われた時期のものは、「水の上日記」として書かれている。

 しかしながら、あまりにも激しい作家魂の燃焼は、作家の身体をも、蝕んでしまう
のだろうか、一葉は肺結核を患い二十五歳という若さでなくなっている。

 樋口一葉集に載っている「樋口一葉年譜」によれば、明治二十九年(一八九六年)
二十五歳のときの記述として、一月には、「この子」や「わかれ道」「たくくらべ」
を発表。二月には、「裏紫」を発表している。

 この頃、春陽堂から専属作家として契約するように求められている。

 五月に書き下ろしで出た「通俗書簡文」の執筆は多くが病床でなされたようであり、
この下書の手帳の中に高熱に悩まされた記事があるので、肺結核は三月頃からかなり
進んでいたものと考えられる。

 七月には、幸田露伴から合作小説の誘いを受けている。八月初旬には、山龍堂病院
において院長の樫村清徳氏から「絶望」の診断が宣告され、読売新聞から一葉の重態
が報じられた。

 それでも病苦のなかを、萩の舎の歌会に出席しており、かつて一葉が歌塾の後継者
として資質を見込まれていた時代のことに思いが走る。秋頃には、緑雨の依頼による
鴎外の連絡で、青山胤通が往診するものの絶望と伝えられる。

 十一月二十三日の午前に死去、二十五日に葬儀が行われた。

 樋口一葉は、日々の多忙な中で「第二の道」と「第三の道」を併走して、目まぐる
しい生活を続け奇跡の期間といわれる時期には、第三の道に専念できたものの・・・

 やはり、兼好のように「徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて・・・」という
心境にはなりきれずに、樋口一葉の「奇跡の期間」といわれる黄金期に完全燃焼して
逝ってしまった。

 樋口一葉の病状回復に一縷の望みをかけて、緑雨からの依頼により青山胤通に連絡
をとって往診を実現させた、森鴎外は、自身も医師であり作家であった。

 森鴎外の六十年の生涯も公私ともにきわめて多忙な人生であり、医師としても活躍
しながら、文学活動も大きく進展させている。

 森鴎外の場合も、誤解を恐れずにいうならば、「第二の道」と「第三の道」を併走
したといえる。

 鴎外の場合は「ドイツ三部作」の発表から、晩年の独自のスタイルである「史伝」
に到るまで、作家としての活躍は、三十年の歳月を超える長期間に及んだ。

 それだけに、それぞれの時期ごとに文体を含めて大きな飛躍が見られる。

 それは、医師としての熟達ぶりとの関連もあると推測される。

 鴎外は石見国(現在の島根県)津和野で生まれた。明治五年に鴎外は父静男ととも
に上京。本郷の進文学社でドイツ語を学び、明治七年には東京医学校予科に入学して、
十九歳で東京大学医学部を卒業。陸軍に入って明治十七年に衛生研究と陸軍衛生制度
調査のためドイツに留学している。



(五) 森鴎外の交友の幅広さ

 ドイツからの帰国後、鴎外は、陸軍軍医として勤務するかたわら、落合直文・井上
道泰・小金井喜美子(妹)たちとともに、翻訳詩集「於母影(おもかげ)」を、明治
二十二年八月に「国民之友」の夏期付録に発表。明治二十三年から二十四年にかけて
「ドイツ三部作」と総称される「舞姫」「うたかたの記」「文づかい」の小説を発表
している。

 まさに、ドイツへの留学が、文学者「森鴎外」を誕生させたといってもよい。

 鴎外は翻訳においても活躍しておりアンデルセンの「即興詩人」の翻訳にあたって
は、明治二十五年九月に稿を起こし、明治三十四年一月に完成している。

 鴎外が原稿を綴る時間は帰宅後の夜、訪問客がいない日曜日などに当てられ、日常
は医務を優先させ、「第二の道」と「第三の道」を併走したがゆえに、その翻訳には
九年の歳月を費やしたのであった。

 鴎外は明治四十二年十月の雑誌「文章世界」で、自らの翻訳態度を表明して・・・

「翻訳は、老いこんだ労爺が片手間にやる仕事だと世間ではいうかもしれない。然し
ながら、幾ら老い込んでも暇な時間を遊んでしまう訳にも行かない」と述べている。

 鴎外の文業において翻訳の占める比重は高く当時の若い人は鴎外の翻訳によって、
西洋の文学や学問を吸収し、さらには長じて文学者となる例も多かった。

 吉井勇や堀辰雄は、鴎外の翻訳について多くを語っているし・・・
斉藤茂吉は、ヨーロッパを訪問した時に、「即興詩人」の旧跡を辿っている。

 その鴎外が晩年になってからは・・・

 世間から「労爺の片手間にやる仕事といわれた翻訳」からは脱して「史伝」という、
今までになかった独自のスタイルの文学を創造しているというところは、まさに圧巻
である。

 鴎外が史伝を綴る際には、ある人物の伝記を精密な調査と考察によって掘り起こし、
その人物を鮮やかに描き出している。

 鴎外は、この史伝を書くにあたって、知友からも情報を収集しており交友の広さが
伺える。また史伝のための調査に当たっては、その人物の子孫にも会い墓所を訪ねて
碑文を読み、手紙を蒐集して、それらを総合しながら書き進めて行く。

 これらの研究・調査・考察が渾然一体となって文学となる。

 したがって、読者も現場に立ち会っているような感覚で読書が出来る。

 このような稀有な文学スタイルは鴎外にして初めて樹立された新しい文学ジャンル
であり、後世の作家に大きな影響を与えている。

 鴎外の文学交流の幅広さは、鴎外が三十歳代の時に始まっている。鴎外は、本郷の
駒込千駄木町に転居した時に、自らの書斎を観潮楼と名付けている。

 日清戦争に従軍してから、帰国後は、明治二十九年に幸田露伴・斉藤緑雨とも交流
している。緑雨から樋口一葉のために、青山胤通による往診を依頼されたのも、この
頃である。幸田露伴や斉藤緑雨とは、雑誌「めざまし草」を創刊している。

 永井荷風も観潮楼を訪れており「日和下駄」のなかで歓談したことを書いている。

 明治四十年には、与謝野鉄幹や佐佐木信綱・伊藤左千夫・斉藤茂吉・石川啄木・
上田敏たちが集まって観潮楼歌会が開かれている。

 森鴎外の六十年の生涯は、もののみごとに「第二の道」と「第三の道」を併走した
といえる。



(六) 海外のピアニストを魅了した漱石

 森鴎外集には「夏目漱石論」が載っている。その箇条書きから抜粋することにする。

一 今日の地位に至れる経緯

 政略というようなものがあるかどうだか知らない。漱石君が今の地位は、彼の地位
としては、低きに過ぎても高きに過ぎないことは明白である。

 然れば、今の地位に漱石君がすわるには、何の政策を弄するにも、及ばなかったと
信じる。

二 社交上の漱石

 二度ばかり逢ったばかりであるが、立派な紳士であると思う。

三 門下生に対する態度

 門下生と云うやうな人物で僕の知っているのは、森田草平君一人である。師弟の間
は情誼が極めて、深厚であると思ふ。

四 創作家としての技量

 少し読んだばかりである。併し立派な技量だと認める。

五 長所と短所

 今まで読んだところでは、長所が沢山目について、短所は目に付かない。
ということが、明治四十三年七月「新潮」第十三巻第一号に書かれている。

 夏目漱石は、学生時代に「方丈記」の英語訳をしているが、森鴎外が数多くの翻訳
を手がけて西洋文化を広く紹介し続けたのと対照的に、漱石の翻訳活動は目立たない。

 しかし、対極的な見方をすると、漱石の作品の多くは翻訳されて、世界で読まれて
いる。草枕の冒頭部は英語訳されて、ひとりのピアニストの心を捉えて、座右の書と
なった。カナダのピアニスト、グレン・グールドが、その人である。

 「山路を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい・・・」

 この英語訳は、アラン・ターニーによって、一九六五年に訳されたものであるが、
前述したように、この冒頭部は「第三の道」の本質を的確に表現している。

 ピアニストという、芸術の分野で活躍する人の心を捉えたことは必然と考える。

 漱石は、イギリス留学の経験を踏まえて、イギリス文学論としての「文学評論」を
明治四十二年に発表している。

 内容的には漱石が東京帝国大学で明治三十八年九月から行った、在職中の英文学の
講義をもとにしている。この年は「ホトトギス」に、「我輩は猫である」を発表する
一方で「倫敦塔(ろんどんとう)」「カーライル博物館」「幻影の盾」など英国での
留学土産とも云える数々の短編を発表し創作活動が実質的に開始された時期であった。

 漱石は、次第に、教師を辞めて創作に専念したいと思い始めていた。

 これらの著書で、取り扱われている内容は、十八世紀の時代のイギリス文学である
が、その基盤となっているギリシャやローマの文学、そして西欧の文化・社会・芸術
に関する考察などを多く含んでおり、非常に幅広い著述である。


(七) 漱石の趣味論と徒然草

 漱石の「文芸評論」のなかには「趣味」についての論述がある。

 明治時代末期には、徒然草を趣味という観点から、解釈する説が提起されていた。
明治四十二年の藤原作太郎「鎌倉室町時代文学史」(大正四年刊)には「要するに
徒然草一篇、感情を主とし、美を重んぜし著者が、自己の趣味を説くを主眼とせし
ものなり」とある。

 この本は、明治四十二、四十三年に東京帝国大学で行われた講義内容を、作太郎の
没後に編んだものだという。

 奇しくも、東京帝国大学で漱石がその数年前に行った講義ノートが「文学評論」で
あり、そこには趣味についての論考が書かれている。この時代における趣味の観点が、
国文学と英文学の双方に、浸透していたことを示す意味で「文学評論」のなかに書か
れている「趣味」についての論述は徒然草の研究史にも一石を投じ得る存在であった
と云える。

 徒然草の執筆について、趣味として捉える論説には、その捕らえ方に、それなりの
説得力がある。

 対極的に、「源氏物語」が書かれた当時の状況を垣間見るときに源氏物語が執筆中
の段階から宮中で話題となったことが「紫式部日記」には書かれている。また、余談
であるが、当時の日記には作家である「紫式部」が老眼になり始めたことなども記さ
れており平安時代の女性が老眼になる年齢は三十五歳前後と推測されていることから、
逆算して、紫式部は九百七十三年前後の誕生かなどということも推測されている。

 これに比べて「徒然草」は、兼好の執筆中に広く読まれた形跡はなく、同じ時代の
書物や記録類などには徒然草のことは記されていない。

 当時、兼好は表舞台において歌人としての働きがめざましく「続千載和歌集」以下、
勅撰和歌集に合計十八首が入集しており、自選の「兼好法師集」には二八〇首が収め
られている。これらの歌からは、出家前後の心の機微がうかがわれる。

「世の中の秋田刈るまでなりぬれば露もわが身も置きどころなし」

「あらましも昨日に今日は変わるかな思ひ定めぬ世にし住まえば」

「寂しさも慣らひにけりな山里に訪ひ来る人の厭はるるまで」

「立ち返り都の友ぞ訪はれける思ひ捨ててもすまぬ山路は」

 放送大学の島内裕子教授によれば、和歌に籠められた揺れ動く心境は・・・

「徒然草」においては直裁的には書かれていないが、同じ兼好が書いた韻文(和歌)
と散文(徒然草)の双方を視野に収めて、読み合わせて行くことが、大切であると
云っている。

 兼好にしてみれば徒然草の執筆は楽しみの時間であり、つれづれなるままに・・・

 溢れ出る想念を書き留めて、楽しんだということを考えれば、それは大いなる趣味
の領域であったという見方も確かに出てくる。

 少なくとも、樋口一葉のように命を削るような執筆活動ではなかったと云える。

 一方で、大正五年に満四十九歳で亡くなった漱石は、東京帝国大学を辞してから、
晩年までのまさに十年間の文学者生活において、近代小説の在り方を多くの作品群に
よって書き示し「第三の道」を走り抜けたと云える。



(八) 仏画の微笑み

 夏目漱石に対して、個人的な親しみを感じ大いなる興味を抱いたのは、鎌倉に嫁ぐ
ことになった娘の婚礼家具を、嫁ぎ先の若旦那のお宅に持ち込む際に、先方の祖母の
方が立ち会ってくれて、いろいろな話を聞かせていただいたことに端を発している。

 当時、祖母の方は、九十歳近い年齢であったが、藤沢で百軒を超えるアパート経営
に現役で取り組み大活躍しておられた。そのお忙しいなか、藤沢から鎌倉までお出で
いただいて恐縮であった。

 嫁ぎ先の洋館も祖母の方が購入して、土地も二〇〇坪あまりとゆったりとした環境
であることから、祖母の方が住むようになってから二十畳ほどの茶室を増築されたの
だと云う。

 道路から玄関までは松の木などの日本庭園風になっており、洋館は築七十年という
ことで、明治から大正にかけての雰囲気を漂わせている。

 趣味のひとつであるという仏像の鉛筆画を見せていただいたが、写真を超えた精密
さには驚嘆した。檀家総代を務めているという浄妙寺の住職から仏画を頼まれたとい
うお話にも納得が行く。

 お話によれば目尻を一ミリメートル下げただけで、微笑みの表情は大きく変わると
いうことであり、そのお話ぶりには説得力があった。

 今でも「朝は午前五時に起きてアパートの敷地内の整理・整頓・清掃も行っている」
という現役の経営者だけに、足腰は勿論のこと頭脳も明晰な印象を受けた。

 元気いっぱいな祖母の方の説明で、何よりも驚いたことは、この洋館には・・・

「夏目漱石の三女の栄子さんが居住されていた」というのである。

 そこで啓介の興味は・・・

「それでは、この洋館に夏目漱石も訪れたことがあるのだろうか?」という点に移った。

 かつて、夏目漱石が小説のなかで、外国人を鎌倉の海に案内したことがあることを
思い出して、啓介が蔵書にしている夏目漱石集をはじから読み通してみたが、該当の
作品は、啓介が蔵書にしている中には、見当たらなかった。次に着目したのは、漱石
が晩年に書いた「硝子戸の中」であった。

 これは朝日新聞に掲載されたものであり漱石の身辺雑記的な書き出しになっていて、
幼少の頃からのことが書かれている。漱石は鎌倉に栄子譲が住んでいた時代に、この
洋館を訪れた記事があるのか、興味をもって読み通してみたが、それらしき記述はな
かった。

 その後、鎌倉の浄妙寺において、嫁ぎ先の母親の法事があり法事の後の会席の際に
嫁ぎ先の父親から「鎌倉文学館」の存在を教えていただいた。

 鎌倉で生まれ育ち、大手建設会社の重役を退任後は、地元の鎌倉で観光名所案内の
ボランティア活動も行っており、鎌倉を訪れる観光客の気持ちをよく理解しているの
で、啓介が、日本文学について興味をもっていることを分かった上での鎌倉文学館の
ご案内であった。

 嫁ぎ先の父親が「啓介が日本文学に興味をもっていること」を知ったのは、結納の
ご挨拶で、若旦那と一緒に、啓介のところに来客されたときのことである。

 啓介の居間には、大きな書棚が二つ対をなして並んでいる。


【後日談】

「この記事は、自民党が下野して新政権に移行した時代に書いたものである」と云う
ことは前述した通りであるが、当時、私の蔵書には・・・

「漱石が外国人を鎌倉の海に案内した情景を描いた作品は見当たらなかった」。
しかし、その後、電子版の日本文学全集を購入、漱石の作品「こころ」の中に、その
情景を見付けた。

「私がすぐ先生を見つけ出したのは、先生が一人の西洋人をつれていたからである」
と云う表現で、鎌倉の海水浴場の描写をしていた。

 私は、本稿の書き出しに当たって・・・

「本稿は2012年(今から5年前)に執筆したものであるが、約5年間の醸造期間
を経て、啓介に、「どのような心の変化や成長があった」のかも合わせて考えて行く
ことで、長編をはじめから校閲する算段にて、順次、書き起こすことにする」

と記した。

 実際に、身の周りで起きた小さな変化としては・・・

「日本文学全集も電子版を購入することで、従来の蔵書と云う表現を借りれば読める
作品が格段に増えた・・・漱石の『こころ』の再読も電子版の購入による」

「聞いて楽しむ『日本の名作』の購入によりCDで楽しむ世界を知った」。
「実際に、CD全集を聴いて、『ごん狐』の結末には、切なく・果てしない余韻を
感じ取った」

「定年後、作家デビューの難しさと狭き門の存在を思い知ったが、インターネットの
世界で、星空文庫から、まことに勝手ですがの『作家デビュー』を果たせた」

◇ そして大きな変化としては東京都の都議選において自民党が与党から転落した。

◇ 昔は「10年ひと昔」と云ったが、今や「5年で一昔」の時代になったのか?



(九) 漱石の原稿に思わぬ発見

 大型書架の一方には、啓介の日本現代文学全集(講談社)が並び、もう一方の書架
には、家内の現代語訳日本の古典全集(学研)が並んでいる。

 この書架を目の前にした嫁ぎ先の父親は・・・

「啓介さんは、管理工学(IE)の専門職でありながら、日本文学ですか?」
と訪ねられた。

 啓介は、それに対する答えとして、俳聖の松尾芭蕉や与謝野蕪村そして小説家の
夏目漱石などに興味があり、趣味で読書をしている旨を伝えた。

 会席での鎌倉文学館のご案内は、そのような経緯を踏まえた上でのものであった。
その後もなにかと気にかけていただき、その年の師走の中頃に、年末のテレビ放映で、
鎌倉の浄妙寺茶室において、小説家の五木寛之氏が、テレビ取材を受けるという情報
をお知らせいただき、年末に熱心に拝聴した記憶がある。

「これからの情報化社会にあって、情報の情の字は、こころとも読む・・・・」という
言葉で、お話が始まったと記憶している。

 五木寛之氏は最近までに「直木賞」をはじめとして「吉川英治文学賞」「菊池寛賞」
「仏教伝道文化賞」「NHK放送文学賞」など、数多くの受賞をされており日本を代表
する文学者である。新聞報道による最新作の紹介にはいつも心ひかれる。

 五木寛之氏は龍谷大学で仏教史を学んだことでも知られており、まさに「第一の道」
である宗教的な心の世界を学び「第三の道」で文学的に作品化していった功績は大きい。
浄妙寺におけるテレビ放映でも、慈愛に満ちた眼差しは、今でも印象に残っている。

 その後、鎌倉文学館には、鎌倉のお宅にお邪魔した際に、啓介だけで自転車を借りて
出掛けてみた。

 鎌倉文学館には、鎌倉の文人と云われた方々の作品が数多く紹介されていて、中でも
ノーベル賞作家の川端康成の作品は別格扱いであった。

 一方で、夏目漱石の作品は特別展として目立った扱いになっていた。
啓介は、夏目漱石の特別展のコーナーを念入りに見て廻った。

 そして、夏目漱石が自身で執筆した原稿用紙を目の前にしたときには感動した。
原稿の書き出しの部分から、まさに目を皿のようにして見て行くと面白いことに気付
いた。

 ひらがなの「も」の字が独特な形で書かれている。
「も」の字の横棒二本が「し」の左手前で止まっているのである。
それは意識的な止め方という印象をもった。

 啓介には、これが「し」をまたがないという意思の現われにみえた。
今までに目にしてきた漱石の文献類から「漱石が家族をこよなく愛していたこと」
には、伝わってくるものがある。

 愛する子どもたちのためにも「死ぬ訳にはいかない」。
そのような意思が、このひらがなの「も」の字に凝縮しているのではないかという
推測をした。

 漱石は正岡子規とは親友であり、子規とは多くの書簡を交わしている。
漱石は、二十一歳で第一高等中学校本科第一部に入学。またこの年には夏目家に復籍。
この翌年頃から正岡子規との交流が始まっている。

 そして漱石は子規の訃報をイギリスの地で知らされることになる。



(十) 留学先からの帰国

 夏目漱石が、正岡子規の訃報を知ったのは、漱石が留学先のイギリスから帰国する
ためにロンドンを出発する間際であった。この年、漱石は強度の神経衰弱に陥り発狂
の噂が文部省にもたらされた。

「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」という伝命が、藤代素人に伝えられての帰国事情
であっただけに、日本への帰国を目前にした状況において子規の死の「訃報」に直面
した漱石の心のうちは察しても察しきれないものがある。

 翌年(一九〇三年)、帰国後、漱石は第一高等学校講師に東京帝国大学英文科講師
を兼任する形で就任している。大学では「英文学形式論」を講義したが学生たちには
レベルが高すぎたようである。

 その後は「文学論」をノートにまとめ、大学で文学論を開講している。

 この文学論は、漱石がイギリス留学中に構想したものであるが、漱石にとって、
ロンドン生活はきわめて不愉快なものであったようである。

 漱石自身が云っているように、英語が流暢でなかったことと、自由に使える金銭が
不足していたために、自ずと、外国人との交際が億劫になっていたことに原因がある
ようである。

 しかし、このイギリス留学の経験と正岡子規との交流が夏目漱石という偉大な小説
家を生み出す原動力となったことは、誰の目にも明らかなことである。

 その年(一九〇三年)十月末に、三女栄子が生まれている。そこで啓介は気付いた。

 漱石は、一九一六年(大正五年)に胃潰瘍が悪化して亡くなっており、三女栄子が
生まれてから、その間は十三年である。このことから判断して、鎌倉の洋館に住んで
いた栄子の家を、漱石が訪問することは、時間軸から観てありえない。

 同時に、啓介が気付いたことは、日本現代文学全集に掲載されている「年譜」には、
年齢が数え年で書かれているため、年譜では漱石の亡くなった年齢が五十歳となって
いるが、満年齢では四十九歳で他界したことになる。

 したがって前述の樋口一葉の亡くなった年齢も二十五歳としたが満年齢では二十四
歳ということになる。読売新聞で、「一葉ゆかりの文学散歩」と題した記事を読んだ
ときにも、読売新聞の記事では一葉が肺結核で亡くなった年齢を二十四歳としていた
ので、この一歳の差に疑問を持ちながらも、そのままにしていたが、ようやくその謎
が解けた。

 樋口一葉が亡くなった年(一八九六年)に、夏目漱石は、父親に伴われて東京から
熊本に出てきた中根鏡子と結婚している。

 漱石は、この年四月に熊本で第五高等学校に講師として就任、七月には教授に任じ
られている。後に、漱石は、晩年の随筆「硝子戸の中」において漱石が知人から犬を
貰って「ヘクトー」と名付けて子どもたちとともに可愛がったことが書かれているが
子どもたちは一緒に遊んでくれる漱石に対して、どのような印象をもっていたのであ
ろうか。

 夏目漱石の次男である夏目伸六氏は「父・夏目漱石」として、彼から見た父親像を
描いているが興味深い指摘が、そこには記述されている。

 随筆家である夏目伸六氏が書いた「父・夏目漱石」は、菊池寛からの依頼によって
執筆したものである。

 父の漱石が亡くなったときに夏目伸六氏は、まだ満八歳であった。後に、彼は慶応
義塾文学部予科に進み、同独文科を中退。父が残した潤沢な印税で、ドイツを始めと
するヨーロッパ各地を遊学している。

 交友関係は多彩で、岡本太郎や若かりし頃の吉川英治や石原慎太郎、中曽根康弘、
福田赳夫という豪華な顔ぶれである。

 彼は、世評による父・夏目漱石の神格化には批判的であった。

 夏目伸六氏による記述から抜粋すると・・・

「父が、ニコニコと笑っていた顔も、また、私たち小さい子供達と一緒になって大口
を開けて笑っていた顔も、いまだに、はっきりと覚えている。父と二人で相撲をとり
ながら、一生懸命に、一遍でも良いから、父を負かそうとして、真赤になって痩せた
腹にしがみついていたときに、私の心の底にはいつ怒られるか分からないという不安
が絶えずこびりついて離れなかったのである。当時の私にとってはいつ怒鳴られるか、
それが父に対する最大の恐怖だった(漱石はときに癇癪を起こすことがあった)」



(十一)高浜虚子の存在感

 鎌倉文学館では、俳句の世界における「高浜虚子」も別格の存在感を示していた。

「去年今年貫く棒の如きもの」という新年の代表句があるが、虚子ならではの感慨を
詠んだものであって、年が改まったからといっても、新たな喜びがある訳ではないと
しているものの、実は一見無造作な表現の中に、的確なものをつかんでいて、それを
大胆に、ずばりと云ってのけている衝撃的な表現力が、ノーベル賞作家の川端康成の
胸中を射抜いたことは、案外、知られていない。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった・・・」という川端康成の表現力には、
いつ読んでも思わず引き込まれるような感動があり、もう一度、小説「雪国」を読み
返してみようかという気にさせる川端康成の世界であるが、虚子の俳句に寸鉄の鋭さ
を感じとったのであろうか。

 啓介が鎌倉文学館を出て、守衛所のところで、自転車のタイヤの空気が少ないこと
に気付き、空気入れをお借りして空気を注入していると、守衛所の方が外に出てきて、
思いがけず夏目漱石の特別展に話が及び、夏目漱石の一家が、鎌倉の別荘地でお世話
になった場所は、三女栄子さんの住んでいた洋館に近い場所であることを教えていた
だいた。

 探究心の強い啓介は、早速、自転車を走らせて、その別荘地を訪ねてみた。
守衛所で教えてもらった別荘地は急な坂の上にあり自転車を降りて手で自転車を押し
上げて登った。

 その別荘地から鎌倉の海岸までは少し離れているが、その気になれば、家族で連れ
立って海岸までピクニックするには快適な距離感ではある。

 かつて漱石は、三十歳のときに、実父直克が享年八十四歳で死去したために鏡子を
伴って上京した。このとき、妊娠していた鏡子が東京に着くと間もなく流産したため、
その年(一八九七年)の八月初めから一ヶ月近く鎌倉での養生生活をしている。

 漱石は、このときに病床の子規を見舞っており、九月には一人で熊本に帰っている。
鏡子は鎌倉で癒されて十月に熊本に帰ったと記されている。



第三章

(一) 一生涯学生作家

 還暦を通過した記念に、啓介は放送大学の専攻「心理と教育」において、卒業研究
に取り組む決心をした。

 そして、研究テーマ:「サービス業における教育開発および生涯学習への反映」と
題して論文の書き出しに手を着けた。担当講師は、前述の岩永雅也教授である。

 論文の構造は二部構成にした。第一部では、定年までに従事したジェットエンジン
の設計から生産までの経験と、定年後の販売サービス業におけるコンサルタント業の
経験を基にして、両者を比較研究する中から・・・

 これからの「サービス業における教育の在り方」を考えてみるという内容にした。

 第二部では、生涯学習という観点から自分自身のこれからの生き方を考えてみた。
具体的には啓介の夢である「一生涯学生作家」としてその可能性を探るという内容
で構成してみた。

 啓介にとっては、放送大学の面接授業において、三輪教授と西原先生にお会いでき
たことは幸運であった。

 先生方から「生涯学習と自己実現」の講義をお聞きしたときに、成人の知的能力の
推移においては、それを「流動性知力」および「結晶性知力」とに分けて考える必要
があることを教わった。

 流動性能力とは「短期記憶」や「概念形成」および「情報処理」「推論」といった
ものであり、青年期をピークにして次第に知力は低下してゆく。これに対して結晶性
知力は「後天的な文化接触や教育」そして「生活経験によって培われてゆく知力」で
あり、経験や学習が反映される知力である。

 この結晶性知力は、成人期を過ぎても、その知力は低下しにくいといわれている。

 また学習のペースなどをコントロールすることによって、結晶性知力の向上も期待
出来るという。

 具体的には「語彙に関する能力」「算術能力」「哲学や思想への理解力」「一般的
知識の理解力」「社会規範に伴う判断力」などがそれに該当する。

 この結晶性知力向上の話を聞いたとき、啓介は「一生涯学生作家」としての可能性
を確信した。さらに面接授業において西原先生から、シリル・フールが提唱している
「探究する精神」の在り方を知ることにより・・・

 その具現化には、成人として「三つの学び方」があることを知り目から鱗が落ちる
思いであった。

 啓介は、この三つの学び方を基にして好循環を作って行く概念として「吊橋理論」
を考え付いた。

 この理論に至るまでの経緯には、紆余曲折があり、けっして、簡単な思考過程では
なかったが実際に取り組み始めてみると、自分自身に対してスムーズに適用できた。


【吊橋理論としての概論】

 ここでは「択一」と云う考え方ではなくて、シリル・フールの三つの学び方をフル
活用している。

 (一)  一つ目の学び方は「目標志向型」の学びである。

 好循環を生み出すための最初の「目標」設定においては自分自身の人生の奥深くに、
 例えば、白寿(九十九歳)に的をおいて、そこに、到るまでを吊橋のワイヤーケーブル
 をイメージして、具体的に張り渡すことにする。

 (二)  二つ目の学び方は「学習指向型」の学びである。

 ここで、さらに好循環に弾みをつけるために、過去に知り得た知識を振り返ること
 も含めて、さらに新たな「知識の獲得」に興味をもち放送大学や大学院などの授業
 で学び続ける。

 (三)   三つ目の学び方は「活動志向型」の学びである。

 この活動を通じて好循環にさらに勢いをつけるためには、実際に小説を書き一作品毎
 に丁寧に完成させることで、節目をつけて行き、さらに日々の作品を一枚一枚、踏み
 板として張り出してゆく。

 この学びのリンクによって、シリル・フールが提唱する「三つの学び」をフル回転
させることが出来るので・・・

「結晶性知力の向上を図りつつ、一生涯学生作家としての道のりを歩いて行くことが
出来る」と考えて、啓介は、早速、執筆活動をスタートさせた。



(二) 久米の仙人

 啓介は、一生涯学生作家としての執筆を続けながら「吊橋理論」は、まさに論より
も実践がたいせつという実感をもった。

 なお吊橋理論を基に書き進める文章は、きわめて平凡で日常的なものである。それ
こそが踏み板を踏み外して谷底に落っこちない秘訣であると啓介は確信している。

 徒然草の第八段に、久米の仙人の話が載っている。

【徒然草:第八段(訳)】 放送大学 島内裕子教授の訳から抜粋

 世間の人々の心を惑わすものの中で色欲くらい大きな存在はない。人間の心という
ものは、本当に愚かであることだ。女の匂いなどは、ほんのかりそめのものなのに、
ほんのちょっと衣裳に薫物を薫らして匂いを付けただけと頭では知っていながら何と
もいえぬよい薫香には抗しがたく必ず心がときめくものだ。

 久米の仙人が、水辺で裾をたくし上げて洗濯をする女の脛が色白なのを見て神通力
を失って空から落ちたという話がある。女の手足や肌などがつやつやして、ふくよか
であるならば、その美しさも魅力も、持って生まれた生得のもので、薫物とは違って、
取って付けたものではないから、仙人だって神通力を失うほどのことはあろう。

 この段について、島内教授の評では、色欲の抗しがたさを、薫香と肉体そのものと
二通りに分けて考察したところが眼目であるとしている。

 兼好は、いわば「色欲の発生源」を見極めたのである。

 次の第九段についても、愛欲の抗しがたさを書いており、第八段とは一続きである
としている。

【第九段(訳)】 島内裕子教授の訳から抜粋

 女というものは髪が素晴らしく長いのが、まずは人目に立つものであると思われる。
人柄や心ばえなどは、何かいう気配に、簾や几帳越しであっても、おのずとわかるも
のである。

 何かに付け、ちょっとした仕草やありさまにも男の心を惑わし女がゆっくりと打ち
解けて眠ることもせず身を惜しまず、とても堪えられないようなことにもよく堪えて
忍ぶのは、女の方でもまた、色欲に捕らわれているからである。

 すべてこんな調子であるから、全くもって対象を愛し執着する心の根は深く、源は
遠いのである。人間の心に宿る六つの欲望、つまり「六塵の楽欲」は多くても、それ
らをすべて厭い棄てなくてはならない。

 しかしながら、その中に、ただ色欲の迷いだけは、どうにも脱却できないものであ
って、老いも若きも、知恵ある者も愚かなものも、区別なく、皆が同じように捕らわ
れてしまうと思われる。

 だから、女の髪を縒り合わせた綱は強靭なので、大きな象もしっかりと繋がれてし
まう。また、女が履いた下駄で振動板の部分を作った笛には、秋の牡鹿が必ずおびき
寄せられると云い伝えられている。

 何はともあれ、みずから戒めて、恐れ慎むべきは、この色欲である。

 ここでも、島内教授の評によれば、兼好は、仏典などからの書物によって仕入れた
知識により、この文章を書いている節が見られるとしている。

 なお、文中の「六塵」とは、色・声・香・味・触・法である。
この第八段と第九段の一続きは、兼好が書いた第三段ともつながっている。

【第三段(訳)】 島内裕子教授の訳から抜粋

 すべての方面にわたって優れていても、色好みでないような男は立派な玉で作った
盃の底がないといった体で、まことに肝心要のものが備わっていないと思わずにはい
られない。

 露や霜にしとどに濡れても、逢瀬を求めてあちこちと彷徨い歩き、親の厳しい注意
や世間の指弾を考慮に入れる心の余裕もなく、ああもこうも、いろいろと、思い乱れ、
それでいて、相手の女性と一夜を共にすることもできず、独り寝がちで、心穏やかに
眠る夜もない、とまあそんな状態こそが、よいのだとは云え、ひどく恋愛だけに没入
しているというふうでもなく、女に与しやすしと思われないことこそ、男の恋の理想
というものだろう。

 久米の仙人は神通力を失って空から落ちたという話で終っているが、ときに、人間
の世界では、色欲に抗しがたく、愛欲にのめり込んでしまうこともある。

 文学の世界では、近松門左衛門が「曽根崎心中」などの傑作を恋の道行文という、
七五調の美文で描いている。

 近松の芸術論の真髄は、「虚実皮膜論」である。近松は・・・

「芸というものは、実と嘘との皮膜の間にあるものなり」
「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあるなり」としている。

 ここで近松が展開している理論は、宗祇が「源氏物語」の主題について述べている
ことと、内容的には、極めて近いとされている。源氏物語が、荒唐無稽な作り話かと
思えば強烈なリアリティーがある。

 また、登場人物や舞台となっている場所には、特定のモデルが想定されるので歴史
的な事実を踏まえた真実の話かと思えば歴史離れをした虚構がいくつも交じっている。
真実と思えば、虚構、虚構と思えば、真実、それが源氏物語の世界の奥深さなのだと、
宗祇は語っている。

 宗祇は西行と並ぶ旅の文学者でもある。

 最近(といっても、この記述は5年前のものである)、芥川賞を受賞して話題とな
った田中慎弥氏は、源氏物語を原文で二回、現代語訳では三回通読しているという。

 その他にも、亡くなった父親の本棚からは、司馬遼太郎や松本清張の作品を読み、
母親から買ってもらった昭和文学全集からは、川端康成や谷崎潤一郎、三島由紀夫の
作品などを読んでいて、「あ、こんな世界もあるのか」と開眼させられたと文芸春秋
の当時の三月特別号のインタビューで語っている。

 この特別号には、芥川賞の該当作が掲載されていた。

 田中氏は、既に「新潮新人賞小説部門受賞」「川端康成文学賞」「三島由紀夫賞」
を獲得されている作家であり「芥川賞」も作品を読めば納得の行く受賞作である。

 芥川賞の「共食い」は、スピード感のある衝撃作であり、作者への印象としては、
母親の胎内に心地よい執筆の場を設けてもらって自由自在に泳ぎ回りながら作品化
して行ったという、まさに、恵まれた環境の中で執筆を続けたことが想像出来る。

 執筆に当たっては午前中に二時間、午後に四時間ほど手書きで原稿を書くという。
また、家の中ならどこでも執筆できるので場所は選ばないのだという。午前中は意
識が澄んでいるため、その時間帯には執筆と併せて前日に書いたものを読み返すと
いう。


(三) カオスの世界

 まだ、二月下旬だが、桜が咲く頃の陽気を思わせる陽射しの下で、本を読んでいる
と、うとうととして気持ちよくなり、眠気が瞼と綱引きを始める。こんなときに半眠
状態で、目に浮かんでくる映像は台湾に行ったときの衛兵の姿である。

 彼らは警護に当たっている間は、けっして瞼を閉じないという。これは瞬きもしな
いということである。それに比べて太陽の陽射しを浴びてうつらうつらしている啓介
は、まったくの隙だらけである。

 こんなときは、いつも番犬としての使命感を感じて郵便配達や宅急便の人などに吠
えまくっている飼犬も傍でうつらうつらしている。啓介は、手元に文芸春秋特別号に
載っている芥川賞の「道化師の蝶」を、十頁くらい、読んだところで、うつらうつら
していたのである。

 道化師の蝶は、これを書いた円城塔氏でなければ書けないだろうという作品であり、
「この先には、なにが書いてあるの」という感じで読んでいたのだが、太陽の暖かい
陽射しには勝てなかった。

 内容的には、「飛行機の中で読むに限る本」とか、「高校への坂道で読むに限る本」
とか、「バイクの上で読むに限る本」とか、「通勤電車で読むに限る本」など、特定
の状況で、読むに限る本があっても良いということを盛んに主張している。

 執筆内容も独特だが、円城氏の執筆スタイルも独特である。家では小説を書かない
という。本人は、インタビューで「そうなんです、家で書いていると、眠くなってし
まうこともあるのです(笑)」と答えているので、啓介が、本を広げたまま半眠状態
に陥ったのは、たまたま家で執筆した頁かもしれない(笑返し)。

 道化師の蝶もサンフランシスコの喫茶店やホテルのロビーで書いたものだという。

 執筆の時間帯は、集中力が続くのは二時間が限度なので、朝二時間、昼二時間、
夜二時間であり、合計で六時間、書ければ相当調子が良い日だという。

 通常の執筆場所は喫茶店で、それも二軒も三軒もハシゴして書くために、ときには
隣の席の話が面白くて聞き耳を立ててしまい一行も進まないこともあるという。小説
の着想も、家でじっとしているときはダメで、移動中とかに、ふと思いつくことが多
いという。

 まさに、時代の先端を行っているという印象が強いが、実は松尾芭蕉と同じような
感覚で、旅を住処として、旅を友とする作家なのだろうか。

 円城氏は、東北大学卒業後は、東大の大学院に進みカオス理論で知られる金子邦彦
さんの研究室に入ったという。金子研究室は、物理学的なアプローチで生物学をやる
人もいれば、ロボットを研究する人もいたりして、まさにごった煮的なカオス(混沌)
状態であったという。

 円城氏は、その中にあって、「絶対言語」みたいな構造があるのではないかという
研究をしていたという。

 研究室の時代と小説を書くようになった現在で考え方の癖みたいなものは共通して
いるのではないかという。ただし、研究の場合は、とことん詰めなければならないの
だが、小説だと思いついたアイデアをそのまま書いているぐらいの違いでしょうかと
いっている。

 それを聞いて道化師の蝶を読み返すと、確かに円城氏がいわれるような内容で書か
れていることが伝わってくる。

 啓介は、「道化師の蝶」という題名を聞いたときに、放送大学の「カオス学入門」
合原一幸著に書かれていた「蝶」のことを思い出した。

 カオス学で「初期値のほんのわずかな差が、時間とともに指数関数的に拡大する」
というローレンツの発見がある。

 このローレンツの説は、「バタフライ効果」の語源とともに有名になったが、彼が
バタフライという言葉に直接言及したのは一九七二年十二月末の講演のときであった。

 そのときの講演のタイトルは「予測可能性:ブラジルの一頭の蝶の羽ばたきが、
テキサスにトルネード(台風)を引き起こすだろうか?」であった。

 カオス学に精通していると推測するところの円城氏が、題名に「蝶(バタフライ)」
の文字を編みこんだので、啓介は、話の展開において蝶がどんな舞をみせるのだろう
かと期待したのであった。

 文芸春秋特別号を読んでいて、大いに参考になったのは、芥川賞を受賞された両氏
の文筆活動への取り組みについてであり、特に、執筆の時間帯と執筆場所については
一生涯学生作家を目指すものとしては、大いに興味が湧き参考になった。



(四) 御二階さん

 啓介は、吊橋理論を足がかりにして執筆を開始するに当たり、小説家の童門冬二氏
と宮尾登美子氏のお二人の執筆スタイルを参考にして、執筆場所や時間帯をおおまか
に決めて執筆を進めている。

 ご存知のように童門冬二氏は東京生まれで、都庁在職中は美濃部東京都知事の首脳
として活躍された。一九七九年に退職後は、小説家に転進され、歴史小説家の分野に
おいて、新境地を切り拓かれた大作家である。

 童門氏の執筆スタイルを知ることになったのは、啓介がプレジデント社から経営に
関するノウハウ集を購入したのがきっかけである。

 プレジデント社からの学習器材は「テキスト本」「ビデオ」「カセット」から構成
されており、直接的に生の講演を聞く機会としては、童門冬二氏の小説家としての心
構えが拝聴できるという全体構成であった。

 当時、既に、二十年以上の歳月を経ており、本稿を執筆してからも5年を経過して
いるので、現況も、同じかどうかは定かではないが、童門氏は都庁を退職して作家に
転進するに際して、奥さんに・・・

「これからは作家生活に専念するので、私は二階で暮らすことにする。貴女もこれか
らは一階で好きなように生活を楽しんで下さい」といって、御二階さんに成りきった
というのである。

 先ずは、そのような作家としての生活環境を創ることが、小説家として生きる道と
覚悟を決めたという趣旨の講演内容であった。

 宮尾登美子氏の場合は高知県高知市生まれ、再婚した夫と上京して、「連」で婦人
公論女流新人賞を受賞。その後「櫂」が太宰治賞を受賞して出世作となり、さらには
「直木賞」「吉川英治文学賞」「菊池寛賞」を受賞されている。

 二〇〇五年の大河ドラマは「宮尾本平家物語」「義経」が原作であり、二〇〇八年
には「天璋院篤姫」も大河ドラマ化されている。

 宮尾氏の場合は家事をこなした上で、執筆の時間帯を決めて取り組んだという。

 その後、夏季には北海道での執筆の光景なども、テレビなどで紹介されたこと
もあったが、執筆の時間帯などについては存じ上げないまま、時間が経過してし
まい、残念な気持ちだけが残った。


 啓介は、「御二階」さんまでの覚悟は出来ていないので、「昼間」執筆の
スタイルとして、執筆の時間には拘らないことにした。


(五) 東日本大震災の発生

 三月初旬に、放送大学から「日本文学の読み方」島内裕子著が届いた。

 平成二十三年度版として受講を申し込んだ教科のテキストである。講義の内容は、
インターネットで視聴できるので、四月からの授業を待たずに聞くことにした。

 日本文学の始発期の文学作品である「古事記」から解説を始めており分かりやすく、
聞きやすい授業内容になっている。

 その解説は「万葉集」「古今和歌集」・・・と続いている。

 三月十一日、突然の揺れに啓介は飼い犬を小脇に抱えて、リビングルームと玄関口
の間にある引き戸の片側を開け、玄関の頑丈な扉を開放して、ひとまず外に出るため
の避難口を確保した。

 啓介にとって、これほど大きな地震を体験したのは始めてのことである。
 家内は、約二十分前に美容院に出掛けている。玄関口から南側を覗き込むと電線が
大きく揺れている。

 このような場合に室内に居ることが安全なのか外に出たほうが安全なのか、とっさ
には判断がつかないものである。

 玄関の北側は道路になっており、向かいの建物は庭を挟んで奥に位置しているので、
安全な空間地帯が十分に確保されている。先ずは、空間地帯の安全が確認出来たので、
外に出てみようと考え、飼い犬を小脇に抱えたまま道路に出ると近所からも夫婦連れ
や、子供連れの人々が出てきている。

 玄関の脇に設置してある背の高い給湯器を見ると、ゆらゆらと大揺れをしている。
深夜に沸かした熱湯を溜めておくための機器であり重量物なので、土台はコンクリで
固めて、その上に置いてあるのだが、今にも横倒しになりそうな揺れ方である。

「こんなときは、どうしたらいいのでしょう?」という若い奥さんの呼びかけに、
ハットとして気持ちが我に返って、冷静な感覚が呼び覚まされた。

「外は大丈夫なようなので、部屋に入ってテレビで状況を確認しましょう」と答えて、
それぞれに家の中に入ることにした。

 家の中で、テレビを付けながら、室内の点検をすると、食器棚の中の食器類が扉に
接した状態で落下せずに止まっていたので、助かった思いでガラス扉を静かに開けて、
食器類を奥のほうに押し込んだ。

 家の中のもので、特に壊れたものはないことに安心して、先ほどの地震のときには、
大揺れしていたテレビに目を転じると、東北地方の太平洋岸一帯に津波警報が出され
ていた。それも海岸線に沿って長く太く赤い線が引かれている。

 家内が、間もなくして、買物袋を自転車の後ろのカゴに載せて帰って来た。
美容院の隣接地にスーパーマーケットがあるので、ついでに寄って買物をしてきたよ
うである。部屋の中から、その姿が見えたので、外に出て買物袋を受け取る。

 美容院では、座席について、髪の手入れをしているときに、大きな揺れが来たので、
美容師さんと一緒に外に出たのだという。地震の揺れもおさまって店内に戻りテレビ
を見ながら髪の手入れを終わったというが、美容師さんの中に、東北地方出身の方が
いて、それも実家の母親が、テレビで報じている津波注意報の海岸線で暮らしていて、
自宅の目の前が海だというので、ひどく心配されていたという深刻な話であった。
(2011年3月のことなので大震災発生から既に6年超が経過したことになる)。


(六) 帰宅困難者

 関東地方でも、二〇十一年三月十一日の地震の影響は広範囲に及び時間の経過と共
に交通網が寸断されて行き都内では夕刻から大混乱が始まった。

 帰宅ラッシュの時間帯に、駅構内を閉鎖するところも出てきて、事態は、ますます
大混乱に陥った。そして東北地方の「地震」と「津波」。そして「原発事故」の影響
は、日を追うごとに緊迫した状況となって行き、その影響は日本列島の全域に及んで
いった。

 この状況をいちはやく把握した海外の政府機関は素早い対応によって自国への緊急
避難の措置を取り、一部の人々は帰国を決行、その他の人々も帰国準備を始めた。

 これらの報道を見ていて、啓介は、日本政府が発表する報道の遅れに一抹の不安を
感じていた。そのような状況の中で、アメリカなど諸外国の政府や日本の民間企業の
迅速な判断や、俊敏な行動力には、敬意と驚嘆の目で、その動向を注視した。

 一方で、テレビ報道などの大局的に物事を観て行く報道も、もちろん重要であるが
このようなときには、「今日と明日をどうするか?」というところの日常的なレベル
での生活情報などがより重要であるが、それがまったくといってよいほどに欠落して
いた。

 啓介は、地震の翌日に身内に連絡をとって安否確認をした。そのときに、もっとも
大きな影響を受けていたのは、群馬県に住んでいる、啓介の妹ファミリーのところと
迅速対応が必要なのは鎌倉の娘ファミリーのところであることが分かった。

 たまたま、妹ファミリーのところでは、近所に住んでいる長女の家で、長女自身が
東京都内に新人向け出張研修に出掛けており、その娘も、明治大学の同級生と都内で
会うことになって出掛けていたという。

 長女は、最近になって大手のドラッグストアーに就職することになり、新人研修が
東京都内で行われることになっていたため、群馬県から出掛けていた。そして、帰宅
困難者になってしまったのである。

 こちらに対しては、ご主人が長女の勤務先と連絡が取れて自家用車で都内まで迎え
に行く段取りが取れた。

 娘も、その車で連れて帰れればと、携帯電話で連絡を取り続けたが、ついに、連絡
がとれず「同級生も一緒なので、二人で力を合わせて何とかするだろう」という期待
感で、自分の奥さんだけを、その日のうちに連れて帰ることになった。

 友達と二人で、避難所に逃げ込むことが出来た娘は、翌日には無事に帰宅の運びと
なった。

 一方、鎌倉の娘ファミリーは、若旦那が、東日本大震災発生の前日三月十日に中国
出張に出掛けており、三月下旬に帰国予定のため、娘が鎌倉での家事や雑用が片付き
次第、入間市に孫を連れて帰省することになっていたが、入間市に来る日時は未定で
あった。

 東日本大震災発生当日から、交通機関は寸断されていたので、鎌倉からタクシーを
使っての帰省が、一番安全・確実ということになって、震災の翌日には、即、実行に
移した。

 これらの安否確認のコミュニケーションの中で妹から日常生活にとって重要な情報
が寄せられた。

 スーパーマーケットのイオンからの情報によれば・・・

「今、食料品・ガソリンなど、あらゆる物資が東北地方に向けて緊急輸送されている」
ということであり、一週間もしない状態で、ガソリンが不足してくる可能性があり、
自動車の燃料だけは、早目に補充しておいたほうがよいという話であった。



(七) 米軍によるトモダチ作戦

 未曾有の大災害としかいいようのない、東日本大震災発生から間髪を入れずに迅速
な経営判断をして俊敏に行動を起こしたのは、スーパーマーケットのイオンやヨーカ
ドーなどといった、大手の民間企業であった。

 家内が心配していた美容師の方の東北の海沿いに住む実家の家族は不幸中の幸いで、
あのときイオンに買物に出掛けていて命拾いしたという。

 大手スーパーマーケットは日本全国に店舗を配置しており、それらの店舗を支える
流通と情報の機能を世界的なネットワークを張り巡らすことで、キメ細かく統括して
いる。その上で物流部隊をダイナミックに動かしているので俊敏さは身上でもある。

 勿論、災害発生の現地において指揮をとる警察や消防・自衛隊など、国の治安維持
や防衛などの使命(ミッション)を担う関係機関の俊敏な行動は、このような大災害
発生時には国民の命綱を握って離さない信頼のおける組織であることは新聞やテレビ
報道などを通じて、誰の目にも鮮明に焼きついた。

 また、アメリカ政府によって派遣された米軍による「トモダチ作戦」には、日米の
絆の強さが、想像以上のものであることを改めて認識した。

 しかし、そのような命がけの献身的な活動の一方で、日本全体の空気というか国民
全体の気持ちの在り様、言い換えれば国の全体的な雰囲気として、東日本大震災発生
から四十九日の間は、日本的な仏教観として国民全体が喪に服したといえる。

 そして、震災地における四十九日の法要の報道あたりから、あらゆる面で大きなう
ねりが起こり始めて、「このままではいけない、なんとかしなくては」という国民的
な感情が高揚してきたことも確かである。

 ホイジンガの唱える「三つの道」を思考の軸にしてこのうねりを振り返ってみると、
第三の道といえる芸能や文化に係わる人々が、ボランティア活動という方法で、現地
に出向いて支援や応援を始めた。

 石原プロモーションによる炊き出しなども目立った動きであった。また遠隔地から
テレビなどを通じてライブ中継で被災地に向けて、支援活動する動きも盛んになって
きた。

 第一の道といえる宗教界では被災地における死者を弔う仏教的な供養が絶え間なく
行われ被災地の方々の心を慰めた。被災の規模が未曾有のものであっただけに、行方
不明の方々に対しては、供養の施しようもない場面も出てきた。

 第二の道といえる現世を改良・改革して良い方向に持ってゆこうという面から政治
に目を向けたときに、被災地における県のレベル・市町村のレベルでは、役所の方々
が自分自身、被災している中で、懸命な支援活動をされていた。

 しかし、問題は「国政レベル」での対応であり、アメリカ政府など諸外国の迅速な
判断力と俊敏な行動力に比べるとその対応の遅さには云いようのない不安感を感じた。
復興庁の発足は、震災発生から十一ヶ月も経ってから、ようやく立ち上がるに至った
という歴史的な事実が、その遅滞ぶりを物語っている。


(八) 総論賛成・各論反対

 読売新聞の二月二十六日(日曜日)朝刊には、東日本大震災で被災した宮城、岩手
両県の小中学生六人が、二十五日に東京・赤坂の復興庁を訪れて三項目からなる意見
書を平野復興相に手渡したという記事がのっていた。

 新聞では「復興、本気なのですか」というタイトルで、小中学生六名の写真が載り
一面のトップ記事として扱われていた。

 会場では、平野氏に対して、中学生の一人が・・・

「がれき処理が進んでいない。国は本当に復興するつもりがあるのですか」
と迫る一幕もあったという。

 子供たちにまで心配をさせ不安を抱かせている政治の実態をどう観るか。

 読売新聞の二月二十七日(月曜日)の記事には「双葉町長、国に不信感」
と題して、汚染土を保管する中間貯蔵施設の設置を巡る会合が中止になった
ことを報じている。

 東京電力福島第一原発が立地する福島県双葉郡の八町村長と、細野環境相、平野
復興相が、復興について話し合うための意見交換会であったが、双葉町長ら三町長
が欠席することになり、中止されることになったという。

「政府はうそばかり何を信用していいかわからない」と平野復興相に電話をしてきた
双葉町長の不信感は、議題には入っていなかった中間貯蔵施設の用地の買収について
国が説明することになっていると地元紙が報じたことを理由に挙げているという。

 双葉町長にしてみれば、知らないところで「シナリオ」が作成されていて、会合に
出たために住民が不利な状況に追い込まれてしまう場面を直感されて・・・

 「間一髪で『欠席』という手段をとって危険回避された」

 政治家にも「腹に落として動く」タイプ、「心を決めて動く」タイプ、「頭で動く」
タイプと、さまざまだが、啓介にとっては、頭で動くタイプの政治家がもっとも苦手で
ある。この場合「行動の予測が建てがたく」ゲームマシンのような走り方や行動を取る
ために、うっかりすると振り落とされてしまう。

 腹に落として動くタイプの政治家は、猛牛のように突進しても、方向性が安定して
いるので安心してついてゆける。心を決めて動くタイプの政治家も、行く手の方向に
急激な変更はなく、変更するときには心を込めた事前の説明をするので国民にとって
の行く末を安心して任せられる。

 細野環境相も平野復興相も腹に落として動く政治家と推測されるので、これからの
手腕が期待されるものの、与党全体の政治的な取り組みには考え方の幅が大きすぎて
問題があると啓介は考えている。

 今日の日本の実情は多様をきわめており、東日本の実情を考えれば・・・

「総論賛成・各論反対」の場面に陥りやすい課題が山積している。

 このようなときには、総論を唱えながらも各論の部分では地域密着型での政治姿勢
が不可欠になってくる。そのためには、復興庁は、本庁を東日本に置いて、横断的な
施策の調整が必要な時には各省庁を東日本に呼びつけるくらいの権限を持たせる必要
がある。それに加えてシナリオを創る段階から地元を参加させることも重要である。


【後日談】

 私は、過去に「頭で動く」タイプの政治家の決断によって日本航空の株券を紙くず
にされてしまった手痛い経験がある。あのとき、日本航空の事業再建は正念場にあり、
あらゆる面から経営の刷新が模索されていた。

 当然、株式についても減資は避けられない状況にあり、90%の減資も想定内の状
況にはあった。日本航空そのものの経営基盤には盤石な資質が伝統的に培われており
仮に90%の減資があっても、中長期的には株主に向けた復帰の方策も多少の痛み分
けはあるとしても期待感はあった。同時に航空ファンとして日本航空の株式は手放し
難かった。

 しかし、事態は甘くなかった。日本航空の経営改革に向けては、社内における経営
刷新も避けては通れない事情にあり、社内に向けて危機的な状況を周知徹底するため
に株主を標的にして、「株主責任」と云う造語にも似た説明によって、「頭で動く」
タイプの政治家からの説明が、テレビなどのニュースによって唐突に流された。

 そして、翌日には、事前に図ったような迅速さで株券は紙くずに化した。

 株式の紙くず化の後は、ジャンボ機の退役などもあって、大口の不動産に匹敵する
膨大な資金の流動なども経て、現在では、何事もなかったように、株式の再上場にも
成功して経営基盤は復調した。

 これは仮説であるが、日本航空の株主責任の話が政治家に向けられたときに・・・

「腹に落として動く」タイプの政治家が担当大臣であったなら、経営革新の旗振りを
する幹部の要請に対して、社内に向けて、危機的な状況を周知徹底することが目的で
あれば、「90%の減資」を提案したであろうと推測する。

 結果、社内に危機感が周知徹底できれば中長期的に、幾分の痛み分けはあるにせよ、
株式を紙くずにする必要はなかったと推察する。

 それは「心を決めて動く」タイプの政治家にあっても、同様に、90%の減資など
の後に、好循環を生み出せる方策を提案したことであろうと推察する。

 選挙の時に、迷うことがあったら、「腹に決めて動く」タイプの政治家と「心に決
めて動く」タイプの政治家を選ぶことが、後の好循環を期待出来ると考えて間違いな
いと、後日談として、あらためて痛感した次第である。

「頭で動く」タイプの政治家には、一夜にして振り落とされる危険があると肝に銘じ
て選挙に臨む必要がある。


【後日談(続き)】

 稀に「心を決めて動く」タイプと「腹に決めて動く」タイプと「頭で動く」タイプ
の三軸を兼ね備えた人物が政治の世界には登場することがある。

 現都知事の小池さんが、この三軸を兼ね備えた政治家と云う印象を強く受ける。

 具体的な例えで説明すれば・・・

「心を決めて、都知事選に出馬、見事に当選を果たす」

「難題中の難題と云われた豊洲市場の課題については、最期の最後に頭を働かせ腹に
決めて、三方両得的な大岡越前的裁定で見事に方向付けを果たした」

「都政の二元代表制の課題については、頭で動いて、急遽、知事職に専念を決め、
豊洲市場の実行計画の段階ではエース格の秘書を都政実行の支援に送り込んだ」

と云う具合に、見事に三軸の働きを適時・的確に駆動させている。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 そして、都知事には、次なるステージが用意された。

「東京都としての地方自治を内包しての国政への影響力発揮である」
「それは可能であるか?」を問う前に・・・
「それは必然である!」と断言する。

 ここでその具現化について私がイメージしたことを書き出してみることにする。

◇ それは「希望」の翼を大きく広げて羽ばたくことで、鳥の眼的に東京圏を日本を
そして地球全体を俯瞰して、政局を的確な方向にもって行くことを意味する。

◇ もちろん、代表は「現都知事」の小池さん。そして、具体的な守備範囲は東京圏、
これは国政から都、区&市、町村まで垂直的に東京都の行政に責任を持つ。
同時に、東京圏として広域首都圏的に、神奈川県・埼玉県・千葉県などとも国会議員
の協力を得て互恵関係を強めて行く。これは、いわば希望の党の心臓部の行政を司る
ことになる。そして、東京都で様々な施策を俊敏にやって見せる。

◇ そして東日本には地域の統括を置く。目前の課題としては復興事業として6年前
からの取り組みで、やり残している復興事業の総仕上げする。

◇ 西日本にも地域の統括を置く。西日本では、他党との協力体制も期待出来るので
有志との連携を図る。

◇ 希望の党の代表と東日本の統括および西日本の統括は、立場は対等、当然のこと
として、首都圏と地方では、利害が相反することも生じてくるので、そこはお互いに
遠慮することなく、お互いに、WIN&WINの答えを見付ける必要がある。

◇ 党として狙う立ち位置は与党(革新的な政策を推進出来る保守)。したがって、
次の衆議院選挙において、自民党と公明党にも健闘を期待する立場を取る。

◇ 特別な取り組みとしては、的確な人財(人材)を得たことから北朝鮮問題におけ
る拉致被害者の奪還に向けて具体的なプログラムを策定して取り組みを開始する。

 これは、私の願望をイメージとして示したものであり「そうなればいいな」と云う
レベルのものである。

 そして最も重要なことは都知事として都民の期待に引き続き応えることである。
しかし、東京都知事と希望の党の代表を兼務するとなると、それぞれについて連続的
に観て行くことは出来なくなるので、都政の遂行については都知事特別補佐官を任命
都政の状況を連続的に鳥の眼で見て行き、逐次、都知事と連携して動ける存在が不可
欠になってくると考えるが、都民ファーストの都議にも、衆議院の選挙に立候補した
い人も居るようなので人選は極めて難しいと云える。

 (イメージとしては、アメリカ大統領の特別補佐官のような立場の人財の選出)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 しかし、これは仮説であるが「もしも・小池さんが都知事をやめて・衆議院に出馬」
した場合に、小池さんを都知事に選んだ都民が・再び・小池さんに期待を寄せて希望
の党に夢を託すだろうか? ・・・

 と云うことについては、都民の掌中に、その答えが残されており、選挙を終わって
みないと結果は分からない。

 結果、都心部において・希望の党の票が思い通りには伸びなかった場合は・・・

「衆議院の解散」と云うリセット・ボタンを押した安倍総理の思惑通りとなる。
この場合「リセット」と云う言葉は、先に、小池都知事が発信しているが・・・

 安倍総理にしてみれば、「かけそば一杯で夜も眠れず」、「国会はフリーズ状態」
の混迷を打破するには、情報機器的な常識では「電源をいったん抜いてのリセット」
は当たり前のことであり最近の野党の混迷を見る限り思惑通りと云うことになる。

 いずれにせよ、今から6年前に、自民党が下野した時のことを考えれば、その後は、
本稿で執筆しているように、決められない政治が続き、混迷の5年間を経験してきて
いるので結果的には「喜ばしい結末」になるので「それも良し」ではあると考える。

 しかし結果は「神のみぞ知る」というところである。


(九) 太平洋と日本海をつなぐルート

 今から6年前には次のようなことを真剣に考えていた。

 東日本の復興を考えるときに、先ず必要なことは「東北全図」のエリアマップを机
の上に広げることである。啓介は、早速、昭文社が発行したものを机の上に広げる。

 双葉町の位置を再確認する。この地図は芭蕉翁の崇高な俳句はどういう過程を経て
誕生したのかを探るために、家内と一緒に、夏季に3年連続で近畿ツーリストの旅に
参加したときに買ったものである。

 芭蕉翁の話題になると話が長くなるので、本題の「復興」の話に戻すことにする。

 双葉町は阿武隈高地の東側に位置する。国会議員が東京から現地に向かうには遠い
位置関係ではない。汚染土を処理して中間貯蔵するプロセスについてシナリオの段階
から参加していただこうと考えるなら十分に対応できる距離である。

 問題は政府に「シナリオ」段階から現地の町長を参加させる発想がないだけである。
現在、最先端を行く航空機の開発にあっては、設計段階からユーザーであるところの
航空会社の技術者に、設計の一員として参画していただくシステムをとっている。

 結果として、数々の名機と云われる傑作機が誕生してきている。

 ただし東日本の復興という大規模なものになると対象となる海岸線だけで・・・

 約五〇〇kmにも及ぶため、東京から国会議員が通う訳には行かない。そうなると、
政府としても、腹を括る必要がある。

 それを実現させるアイデアはある・・・

 先ず、東日本の花巻市または北上市辺りに「復興庁」の庁舎を建設する。
この地域をあえて選んだのには理由があり、日本列島を縦断する鉄道と、太平洋と
日本海をつなぐ鉄道が、交差する場所であるからと啓介は考えた。

 その庁舎には、現在の衆議院と参議院の三十%に相当する議員に移動していただく。
今や議員削減の声が高らかであるが、それは、十年後の東日本復興がなってからでも
遅くない。先ずは現有の有能な議員の方々に、東日本での復興にご活躍いただく。

 ここでの議決は、衆議院と参議院の二院制によるものではなく、特別措置法を定め
て衆議院に準じた一院での即決決議とする。東日本の復興に当たっては、俊敏性が命
なのである。国政は憲法の定めるところによって二院制で運用して行く。

 その際に、復興庁には強力なリーダーシップが必要であるので復興総裁を置くこと
にする。総裁に任じられる人物には強烈な個性をもった人財が適任かもしれない。

 復興総裁には、まかない資金が国から割り振られて、その資金を元手にして復興に
あたる。各省庁もオールラウンドで行政が動かせるように、官僚の方々にも移動して
いただく。任期は十年とする。

 この機能が動き出せば、逐一、中央政府の認可は仰がない。完全な自治行政組織と
する。ただし、組織が暴走したときには、国政のトップ集団の判断で復興総裁以下の
人事と資金源を凍結出来る。

 次に交通機関に改革の手立てを講じる。日本列島縦断ルートは出来ているので太平
洋と日本海をつなぐ交通機関を鉄道や道路網として、複数ルート、整備拡充する。

 これは、政治的にも生命線になると啓介は考える。



(十)天国と地獄のバイキング料理

 啓介はかつて道州制の話題をテレビで観たときに我が彩の国「埼玉県」は・・・
「南関東に入るのか? 北関東に入るのか?」という議論を耳にしたことがある。
東日本大震災を経験した啓介はこのことについて「あるアイデア」を考え出した。

 日本に道州制を導入するときには太平洋岸と日本海岸を必ず道州制に対として組み
入れる考え方である。したがって、埼玉県は、関東州の中央部に位置することになる。
神奈川県から新潟県までを同じ道州制の中に治めるという考え方である。

 機能的には東京都が州の政治の中心となる。これは(当時)「大地震が四年以内に
は七十%の確立」で予想されるという立場をとる科学者の集団があるからには、国政
として認知しないことであっても、これからの未来を考えるときに無視できない警告
である。

 そのように考えると、太平洋岸に大地震や津波の被害が発生したときに、同じ州内
の二番目の統治機関が機能して、迅速な判断力と俊敏な行動力により、日本海岸から
物資を調達して、陸路で横断的に太平洋岸を救う必要がある。

 勿論、日本列島を縦断する物流ルートからの支援も不可欠である。

 日本海岸に大地震が発生したときには、その逆のルートの支援が必要になってくる
ことはいうまでもない。これを可能にするのが、新しい道州制のコンセプト(概念)
であり、太平洋と日本海の両岸を統治機能の中に、セットで組み入れるところに特徴
がある。

 この新しい道州制の導入までには、長大な時間と費用を要するが、この概念に近い
規模での災害訓練のシミュレーションと実地演習はやっておく必要がある。

 この場合には、二つのシミュレーションと実地演習を行っておくことが肝心である。

 一つ目は、太平洋岸に大災害が発生した場合の想定によるシミュレーションと実地
演習である。

 二つ目は、日本海岸に大災害が発生した想定によるシミュレーションと実地演習で
ある。可能ならば、この実地演習の際には、日本列島の縦断型での支援方法の演習も
併せて行うことが望ましい。

 具体的には、関西地区や九州地区からの支援である。このシミュレーションと実地
演習は、関東州だけではなく、東海、関西、九州地区にも必要である。東日本は復興
が最優先であることはいうまでもない。

 昔、天国と地獄における「バイキングの違い」の話を聞いたことがある(一部創作)

 ある旅人が、ひょんなことから地獄に落ちた。地獄の食堂にはテーブルいっぱいに、
ご馳走が盛られている。ところが地獄の人々は1メートルもある長すぎる箸を持って、
食べるに食べられず、やせ細っている。

 うまく箸で挟んでも口にすることが出来ないのである。そんなときに天上の方から
声が聞こえてきて声の指示通り吊るされた綱に掴まって天上の世界に行くと同じよう
なテーブルがあって、ご馳走が山のように盛られている。

 みんな健康的な笑顔で迎えてくれる。旅人は、その光景をみて納得した。

 皆さんペアで一組になって食事をしている。交互に1メートルの箸の先を相手の口
に運び、相棒が食べ終わると今度は自分の番で相棒が口元にご馳走を運んでくれる。

 今や、日本も、同じ条件の中で「地獄の暮らし」を望むのか、「天国の暮らし」を
のぞむのかを選択して、動き出す時代になってきていると啓介は考えている。


(十一)捻じれ国会の効用

 新しい道州制の考え方は、東日本大震災の復興事業に併せて実行して行けば、より
迅速な決断と俊敏な行動に結びつけることが出来ると啓介は考えている。

 復興事業の実行に当たっては、復興庁と民間企業が連携をとって進めて行くことが
肝心である。実際に、復興事業が動き始めれば、民間企業に実行力の期待は移ってい
くことになる。

 その場合に、復興庁と新しい道州制の区割りにリンクした企業連合が、運命共同体
を形成できれば望ましいのだが、東北全図を観たときに、その区割りの調整は困難を
極める可能性がある。

 何故なら太平洋と日本海の両岸が対になるように区分けして行くとした場合に現存
する県をそのまま存続させる場合には、かなり、変則的な、地区の形態となるところ
も出て来るため、物流ラインの構築に無理が生じる可能性がある。

 一方で、画一的に直線的な横断区分をすれば、過去に県として積み上げてきたもの
が崩れてしまうという危惧がある。折衷案としては、今回の震災の影響が少なかった
日本海側に現存する県を基準にして太平洋側を直線的に区分した場合でも無理は出て
くる。第一優先課題は復興の推進であり、道州制はそれを円滑に推進するための手段
であるので、それにこだわる必要もない。

 しかし、このようなビジョンは中央政府だけが考えて決めるのではなく地域密着型
で地元の夢や希望を織り交ぜた上で、構築して行く必要のある性格性を帯びているだ
けに、そのような面からも、復興庁は東日本にセンター機能として据える必要がある
と啓介は考える。

 また、新しい道州制の考え方で進めるにせよ現存する県の括りで進めるにせよ復興
事業を手掛ける企業連合などについては、早急に組織化して復興庁・地元の行政機関・
地元企業・地元住民が一体となって、ビジョン創りから、さらにはそれを具現化する
グランドデザイン、そして、都市としての在り方を示すところの基本設計までを一貫
して展開、開示して行くシステム作りも急がれるところである。

 この復興庁には、全国に向かって、二十四時間情報開示出来るニュースセンターも
必要になってくると考える。

「このような、抜本的な革新の実行計画作りが、現在の国政に担えるのだろうか?」
「次の衆議院選挙までを期限にして実行出来なければ責任ある与党とは云えない!」

「日本には戦後の復興を成し遂げてきた、あの株式会社日本の屋台骨を双肩に背負い、
活躍してきた優秀な官僚が温存されている。官僚を動かせてこその与党である」
と啓介は考える。かつての小泉政権では北朝鮮における「拉致問題」の具体的な進展
を皮切りに「郵政民営化」や「医療制度の改革」などを抜本的に推進してきた実績が
ある。

 その後、衆議院と参議院の捻れ国会は捻じれに捻れてきた。
福田・小沢両首脳のトップ会談で連立政権の話し合いが行われ捻じれ国会が解消する
公算も見えた時期があったが、そのチャンスも消滅した。

 一方で「最低保障年金の導入」といった悪循環を招きかねない悪法は、その実現が
捻じれ国会の効用で阻止されている。



(十二)とりあえず内閣

 ここで、悪循環という言葉の意味を身近な生活の中で考え直してみようと、啓介は
考えた。人間は動物の一種である。しかも二本の足で歩くという身体の構造になって
おり歩くことによって正常な生理機能が営まれるように身体の仕組みが出来ている。

 したがって、生活が近代化され、便利な生活になって、身体を動かす機会が失われ、
慢性的な運動不足の状況に陥り、生活習慣病の発生をもたらすという「悪循環」を、
招いているのが現代の社会である。

 この社会の変化に伴う運動量の大幅な減少は、成人ばかりではなく、塾通いに忙し
い子供たちにも波及している。これが身近な生活環境の中で考えることの出来る悪循
環の具体的な例である。

 啓介は、企業内の全社的な業務革新を推進する旗振り役を担う立場にあったときに、
この悪循環を「悪魔のサイクル」と云い換えて企業内に印象付けてきた。

 この生活習慣病という悪魔のサイクルに、足を踏み入れないためには、放送大学の
「運動と健康」臼井永男著では、二本の足で歩くことから始めるウォーキングを勧め
ている。

 この歩くことで弾みがつけば、それはスポーツの世界、生涯スポーツの世界につな
がって行く。七十五歳を過ぎた高齢者が、歩くことをやめて寝てばかりの生活をして
いると、本当に寝たきりになってしまう。老いても、なお歩き続けることは、好循環
への不可欠な道のりであると啓介は確信している。

 この好循環を「天使のサイクル」と呼んで、啓介は、企業内に呼びかけてきた。

 それでは・・・

「最低保障年金の導入が何故、悪循環である悪魔のサイクルに陥るのか?」

 この最低保障年金の制度は、国民年金を納めなかった国民年金保険者にも、最低、
月に七万円を支給するという発想である。

 ここで悪魔の囁きは・・・

「年金なんて納めなくても月に最低七万円はもらえるよ!」
「それでなくても生活がたいへんなときに、ムリして払うことないよ」
ということになる。

 この悪魔の囁きに耳を貸した人々が増えてくれば、やがて年金制度は崩壊してゆく。
「日本の年金制度崩壊を狙った悪魔の仕掛けに誰が手を貸すのだろうか?」

 そのようなことも思案しないで、最低年金保障制度を、とりあえず議案に盛り込も
うとしている現在の内閣は「とりあえず内閣」としかいいようがない。

 現政権(当時の)が掲げてきたマニフェストは国家予算の無駄な部分を切り捨てて、
その費用で子供手当てや高速道路の無料化など若年層が喜んで票を投じる気にさせる、
さまざまな施策(施しの策)を実現させて行こうと考えた。
(これは今から6年前の政権が考えた当時の方策である)。

 これが上手く行けば、天使のサイクルとなる。

 ところが天使のサイクル(好循環)を廻して行く順序を間違えた。
とりあえず、施しから先行させたのである。ところが、無駄の掘り起しが思ったほど
には上手く行かない。ここで、逆回転の悪魔のサイクルが廻り始めた。

 そこで、当時、野田政権は、消費税の増税という方法によって、舵をきり直して、
逆回転によって生じた悪魔のサイクルを、なんとか必死で改善しようとして必死に
もがいたというのが当時の情況である。

 そして、今、選挙戦において、一部の政党は、そのときの窮状をすっかり忘れて
しまっているが、財源難の今日において、安易な発想に根拠を置いた消費税の増税
の先延ばしは、次世代に向けて借金を増やすことにならないのか?
世界の金融市場から信用を失うことにならないのか?
立ち止まって考える必要性を痛感する。


(十三)サムライ日本の戦士の自覚

 日本の政治の混沌(カオス)の中で東京スカイツリーが、二〇一二年二月二十九日
に完成。竣工式では、神官による安全祈願が行われた。この世界一のスカイツリーを
旗印にして、かつての株式会社日本の全盛期のような、日本の復活を狙って、新たな
ルネッサンス運動を起こして行きたいと啓介は熱望している。

 株式会社エクセレントジャパンとして、元気な姿を世界に示して行く活力は、まだ
まだ日本には残っている。まさに、なでしこジャパンの世界制覇はそれを自らの健闘
と活躍で示してくれた。

 ところで話は変わるが、徒然草の序段から第十段までの間で、兼好は、政治に向け
て、どんな示唆を与えているのだろうか。第二段に、その示唆がある。

【徒然草:第二段(訳)】 放送大学 島内裕子教授の訳より抜粋

 かつてあった聖君主による理想の政治のことも忘れ、人々が愁え、国が損なわれる
のも知らず、すべてにわたって贅沢を尽くして自分だけが満足し、周りの人が圧迫を
感じるようなわがもの顔の態度をしている人は全く思慮分別のない人間だと思われる。

 衣冠から馬・牛車に至るまで、今あるもので間に合わせて使いなさい。美麗を求め
てはならないと、藤原師輔の大臣が平安時代に書かれた九条殿遺戒にも記されている。

 また鎌倉時代に順徳院が宮中のしきたりをお書きになった禁秘妙にも、天皇のお召
し物は粗略なものが良いのだとある。

 兼好が理想の政治について願望を書いた段である。兼好が後二条天皇の蔵人を務め
ていたことから、兼好自身の体験の反映であろうと島内教授は述べている。

 蔵人という任務は天皇の日常生活をお世話するとともに文書の管理なども行う職種
であるので、このような的確な考えを持つことが出来たのだと考える。

 現代における天皇・皇后の日頃のお暮らしぶりは、テレビなどで紹介されているが、
その誠実なお人柄とともに質素倹約の工夫がよく伝わってくる。また、東日本大震災
に当たっては、被災地訪問の際も、その慈愛に満ちた表情で、ひとり一人の被災者の
手を取り励まされていた。

 このお姿によって多くの被災者が癒され、ボランティアの人々にも勇気を与えてい
たことが、テレビ映像からも容易に想像できる。

 国政を預かる国会議員についても、与野党を問わず現地入りして支援に力を注いで
いることが想像できる。兼好の云うような、自分だけの満足のために贅沢を尽くして
いる国家議員もいないと確信する。

 しかし、啓介は、兼好の示唆するところは、国難にあっては、自らを律するわかり
やすい態度を示すように云っているのだと考える。

 国会議員の歳費削減二十%を公明党が提唱しているが説得力のある提言である。
国会議員の定数削減については、東日本のこれからの復興に多くの議員の活躍を必要
とすることから、安易に削減には踏み切れないが・・・

 啓介自身、定年の五年前から、毎年給与削減の辞令を受け取り、最終的には三十%
削減に達した。しかし、それでも懸命に任務に従事した。啓介には、サムライ日本の
戦士の自覚があったからである。


(十四)国会議員百人相当の行動力

 東日本大震災発生後、多くの外国人が日本を去り多くの外国人が新たに日本を訪問
することに躊躇していた中で、コロンビア大学退職後のドナルド・キーン氏が日本へ
の永住を決意された。

 その表明には日本国内はもちろん世界中の人々が注目した。

 そして、二〇一一年九月初め米国での家具などの処分を済ませて日本にやってきた
ドナルド・キーン氏の永住に向けた行動は日本の国会議員の百人相当の行動に値する
と啓介は考えている。

 当時は、世界に向けた日本からの原発事故に関する情報発信が少ないために、極端
なケースの場合には日本列島全体が原発事故による放射能の影響を受けているという
印象すら与えていた。

 確かに地球儀感覚で観たら、日本列島の地形は目に小さく写るので福島県で起きて
いる原発事故というよりも、日本で起きている原発事故という捉え方も出てくるので、
日本全体が危険という認識になってくる。

 このような世界的な認識の中において・・・

 世界的に、高名な日本文学研究者であるドナルド・キーン氏が、まさに、ご自分の
人生を掛けて、日本への永住宣言をされれば「日本が安全な国であること」を知って
いただくために、これ以上の説得力はない。

 あの混沌とした東日本震災後の状況の中にあって・・・

「日本列島の多くの地域が安全であること」を知らせることの重要性に気付いていた
国会議員が果たして何人いただろうか。それは言い換えれば諸外国の動向にも気付い
ていなかったことを意味する。

 ドナルド・キーン氏は、一九四〇年に、アーサー・ウェイリー訳の「源氏物語」を
購入。最初は、本の分厚さに比べて安価であることに魅力を感じて購入したと云うが、
やがて物語に感動を覚え、漢字そのものにも興味が湧き日本研究の道に入る。

 日米開戦に伴い、米海軍日本語学校に入学。日本語の訓練を積んだ後に情報士官と
して海軍に務め、太平洋戦争では日本語の通訳官を務めた。復員後、コロンビア大学
に戻り角田柳作の下で修士号を取得している。

 一方で、戦後の日本人の節度ある行動に感銘を受けたドナルド・キーン氏は、その
背景にあるものを知るため、日本文学にも興味を持ち研究を深めていった。研究成果
として、日本文学の多くが彼によって英語訳されて、欧米に広く紹介されている。

 彼の「日本文学撰集」(一九五五年)では、徒然草についても言及しており、
「おくのほそ道」の英語訳もある。

 ドナルド・キーン氏は、昭和の文豪・三島由紀夫の親友でもある。

 三島由紀夫は、「日本文学小史」の中で、光源氏の二十歳の青春の絶頂期である
花宴巻と三十六歳の壮年の絶頂期である胡蝶巻を賞賛。人間が感じる快楽が、この
二つの巻において、盛りの花のように咲き誇っていると感嘆し、優雅なるフランス
の宮廷画家・ワットーの世界を思わせると述べている。

 しかし、ドナロド・キーン氏は、三島由紀夫よりも早く、自著の「日本の文学」
で源氏物語の美しさと儚さをワットーに喩えている。

 そのドナルド・キーン氏が日本国籍を取得。東京都北区の区役所での記者会見の
写真が読売新聞の三月九日の記事として報じられている。雅号は鬼怒鳴門とある。



(十五)東日本に向けて黙祷

 東日本大震災で亡くなった一万五八五四人の方々、そして行方不明の三一五五人の
方々のご冥福をお祈りして、こころから黙祷を捧げる。

 当時、関東で暮らす啓介でさえ、この一年間は時間軸に狂いが生じたような感覚が
あり、ましてや東日本で暮らす人々の心中を察すれば日常的な生活観を取り戻すには、
まだまだ多くの時間を要すると考えた。

 読売新聞の三月十一日の報道を隅から隅まで読み通して感じたことは東日本大震災
のことを知れば知るほど、テレビ報道で観る映像よりも、その数字から被害の甚大さ
には驚愕するばかりである。

【地震・津波】

◇ 震災発生日時   二〇一一年三月十一日午後二時四十六分
◇ 規 模      M九・〇
           (震源は宮城県牡鹿半島の東南東約百三十キロの三陸沖)
◇ 震 度      最大震度七(宮城県栗原市)
           (宮城、福島、茨城、栃木の4県三十四市町で震度六強)
◇ 地盤のずれ    宮城県牡鹿半島で、東へ五・三メートル動き、
           一・二メートル沈降
◇ 余 震      二百三十一回観測
           (二〇一二年三月九日までの震度四以上)
◇ 津波の高さ    宮城県南三陸町   三十三・〇メートル
           岩手県釜石市    二十九・七メートル
           福島県富岡町    二十一・五メートル
◇ 浸水面積     五百六十一平方キロメートル
           (六県六十二市町村、山手線内側の九倍)

【被 害】

◇ 死 者      一万五八五四人(十二都道県)
◇ 行方不明者    三一五五人
◇ 避難者数     四十六万八六五三人
           (ピーク時の二〇一一年三月十四日)
◇ 遺児・孤児    一六〇〇人(震災で親を失った子供たち)
◇ 建物被害     百十六万八四五三戸(うち全壊は十二万九一〇七戸)
◇ 商工業者     二万七一四九業者が被災(三県)
◇ がれき      二二五三万トン(三県)
◇ 液状化      関東地方一都六県九十六市区町村の百八十四か所で発生
           (津波被害を受けた東北沿岸部は判別不能)
◇ 帰宅困難者    五百十五万人
           (東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城の一都四県)
◇ 被害総額     十七兆四〇〇〇億円
           (阪神大震災は九兆六〇〇〇億円)

 (内 訳)
    住宅・店舗・工場など  十兆四〇〇〇億円
    電気・水道など     一兆三〇〇〇億円
    道路・港湾など     二兆二〇〇〇億円
    農地・水産関係施設   二兆四〇〇〇億円
    学校・福祉施設など   一兆一〇〇〇億円


【ライフライン】

◇ 鉄 道      東北新幹線は四日間、全線運休
           (東北と関東などのJR在来線は最大六十二路線で運休)
◇ 道 路      高速道路の通行止めは最大十五路線、国道は百七十一区間
◇ 電 気      八百七十一万戸停電(十七都道県)
◇ 都市ガス     四十六万二五二八戸供給停止(八県)
◇ 水 道      二百三十万戸断水(十九都道県)


【被災地への派遣・支援】

◇ 警 察      九万四九〇〇人
◇ 消 防      三万四百六十三人
◇ 医師・保健師   二万三二一〇人
◇ 自衛隊      最大時十万七〇〇〇人
◇ 自治体      七万九一〇七人
◇ ボランティア   九十三万九三〇〇人
◇ 義援金      三四九三億円(日本赤十字社など四団体)
◇ 海 外      六十三か国・地域から救援物資

 
 同じ読売新聞の日曜版に浅野温子氏が「心の風景」と題するコーナーで、古事記の
読み語りを始めて、もうすぐ十年になることが紹介されていた。

 全国各地の神社を中心にして公演を行っており今のところ五十五社において日本人
ならではの喜怒哀楽が詰まった話をされていて公演の朝には必ず散歩をするという。

 神社の周りを特に当てもなく歩いて行くと、必ず、突き当たるのが川だという。
それは大きな川であったり、小さな川であったりと、いろいろあるけれども、今まで
に古事記の読み語りを通じて五十五種類の川を見てきたという。

 浅野温子氏によれば、川が海と違うのは、川は一瞬でその表情が変わるという。
昨日はとても穏やかで静かな流れであったのに、少し激しい雨が降っただけで、荒々
しい濁流になったりする。

 生活に密着していながらも、不思議で神秘的、そんなことを感じるようになったの
だという。

 啓介は、川や海の水面を見れば津波のことを思い出してしまう東日本の人たちに
こそ、浅野温子氏による古事記の読み語りが必要なのではないかと考えた。

 同時に、日本列島を津波で大きくえぐられ、多くの仲間を失ったわれわれ日本人
こそ、真正面から読む必要のある本として「古事記」があるのではないかと啓介は
考える。

 かつて心理学のユング博士が、心理学の極みが神話にあることに気付いて多くの
神話研究に注力した経緯があるが、日本人であるわれわれは、古事記という神話を
歴史的な知的財産として有している。

 それは日本創生の物語であり、今の壊滅的な被害を受けた東日本にとって、再び
「創生」して行く必要のある、今、あらためて読み直す価値のあるバイブルと啓介
は考えている。



(十六) 現代人が古典を読む意味

 浅野温子氏が古事記の読み語りを始めて、もうすぐ十年になるということも含めて
古事記のような古典を現代人が読む意味はなんだろうか? と考えてみるとき・・・

 これについて兼好が徒然草の第十三段で、明快な答えを指し示しているということ
を島内裕子教授が、放送大学のテキスト「日本文学の読み方」の中で述べている。

 それでは、徒然草の第十三段には、どのようなことが書かれているのだろうか。

【徒然草:第十三段(訳)】島内裕子教授による訳

 独り燈火の下に書物を展げて、見ぬ世の人を友とすることくらい無上の慰めはない。
本と言えば「文選」のあわれ深い巻々や「白氏文集」や「老子」の詞章「南華の篇」、
すなわち「荘子」。日本の文章博士たちが書いたものも、昔のものは、しみじみと心
に沁みることが多い。

「一人、燈火の下に文を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業なる」
という短い文章(原文)で本を読むことのかけがえのなさを的確・簡潔に述べながら、
意を尽くした文章であると、島内教授は解説を加えている。

 これらのことに関連して、日本文化に、深い洞察を示した本居宣長の場合を、例に
挙げれば、宣長は源氏物語の講読会を二十九歳で始めて以後四十年間も継続させた。

 弟子たちとの講義形式の読書は、宣長の源氏物語に対する認識を日々深めるのに
ふさわしい方法であったことは、後年の名著である、「玉の小櫛」の結実によって
証明されている。

 啓介も、つれづれなる「ワイワイガヤガヤ」の場作りのイメージとして・・・

 徒然草を「思考の通路」として、例えば、喫茶店アマルフィーなどで焙煎コーヒー
や紅茶をすすりながら意見交流できる場、ときには政治談議ができる場を設けること
が可能なら、われわれ庶民のレベルからも、インターネット上で「声なき声」として、
日本の政治などに向けて発信して行けるベースキャンプ的な「場作り」が構築できる
のではないか?

 そのように考えた啓介は、アマルフィーのオーナーである高橋さんに起案書を兼ね
た募集案内で具体的なイメージを明確にして相談しようと考えた。

 そのためには、先ずは徒然草の序段から第十段までを対象にして、啓介自身が独り
ロールプレーを試行してみて、感触を掴み、その上で起案書を作ろうと考えた。

 そして、序段から始めたが、序段は、徒然草の総論に相当するだけに「思考の通路」
としては奥行きがあり、広がりもあるので、まさにとめどなく天空を舞う鳥になった
ような感覚で、今もって、飛翔を続けているような感覚である。

 そして、これこそが、徒然草が持つ独特の魅力なのかもしれない。

 科学的に、ものごとを観る三つの目として「鳥の目」「虫の目」「魚の目」という
組み合わせがあるが、序段を思考の通路にしたとき、通路の先は鳥の目に通じている
のかもしれない。

 それでは、第一段には、どのような記述があるのだろうか。

【徒然草:第一段(訳)】島内裕子教授の訳

 好むと好まざるとにかかわらず、ひとたびこの世に生まれた以上は、全くのところ、
自分は何になりたいのか、実にさまざまな願望が心に去来するものだ。

 天皇の位に即きたいとか、天皇としてどのように振る舞うべきかを口にするなどは、
言うのも畏れ多いことである。古来から「竹の園生(竹園)」と呼ばれる天皇の御子
孫、つまり、皇族の方々はすべて、われわれ人間と異なる出自でいらっしゃるのは、
たいそう尊いことである。天皇・皇族以下の貴族の中では、摂生・関白・太政大臣で
ある。「一の人」のありさまは言うまでもなく、それ以外の貴族であっても身辺警護
のために「舎人」を付けていただく高い身分は、とても素晴らしい。

 そういった貴族の場合は、たとえ没落しても、子や孫までは、やはりどこか気品が
違う。けれども、それよりも下の階級となると、それぞれの身分に応じて時流に乗り、
自慢顔であるのも、本人は「どうだ」と言わんばかりのようだが、そのような態度は、
ひどく嫌なものである。

 ところで貴族の世界から目を転じて法師のことを考えてみると、この法師くらい羨
ましくないものはない。「他人からは、まるで木の端のように、何の価値もないと思
われているのではないか」と、清少納言が枕草子に書いているのもその通りである。

 あたりを払うような勢いで威張り散らし、大声で騒いでいるのを見るにつけ、法師
が素晴らしいものだなどとは、とても思えない。増賀上人が言ったように、そのよう
な法師は世間の評判を目当てにしているようで、かえって仏の教えに背いているだろ
うと思われる。そうではなく、一途な世捨て人こそが、かえって望ましいだろうに。

 それはともかく人は、容貌・姿が優れているのが何と言っても望ましい。
何かちょっと言ったりする時に聞きにくくなく、愛嬌があり、口数が多くない人こそ、
いつまでも向かい合っていたい。ところが、今まで立派で素晴らしいと思っていた人
に、がっかりさせられる本性が見えてしまったら、本当に残念である。

 身分や外観は生まれつきでどうしようもないが、「論語」にもあるように心はどう
して賢い方から、さらにより賢い方へと上昇移動できないだろうか、できないなどと
いうことはないのである。

 外見や気だてがよい人でも、才学を身に付けていないと身分も低く容貌も憎々しい
人にも交じるような境遇になってしまう。そういう時に、周囲から相手にされず当人
も気後れしてしまうのが、本当に残念なことだ。

 だから、ぜひとも身に付けたいのは、まずは本格的な漢学の素養や漢詩を作る教養、
それに加えて、和歌を詠み、楽器の演奏ができることである。また有職故実に通じて
人々の手本となれること、こういったことすべてが素晴らしいのだ。

 筆を持てば、すらすらと文字を書き、宴会の席では好い声で拍子をとり、辛そうに
するものの酒も飲めないような下戸ではないというのが、宮廷世界に生きる男たるも
のの理想であろう。

 島内裕子教授によれば、これを書いた兼好が何歳くらいで、どんな生活をしながら、
このようなことを心の中で考えていたのだろうかという疑問を投げかけた上で・・・

「いきなり貴族社会における身分や才芸・教養などを問題にしていることから徒然草
の冒頭部は、あるいは出家以前に書かれた可能性も考えられる」としている。

 このことに関して、啓介は、序段から第十三段までは、兼好が蔵人として出仕して
いた時に、清少納言の枕草子などの文章を念頭に置きながら、兼好の脳内において、
文章化までの詳細も含めて構想を描いていたものと推測している。


最終章

八俣の大蛇の退治劇 

 本稿では、今から6年前の自民党が下野して政権が変わった時代の出来事を綴った
文章をパソコンから引き出して今日的な視点を後日談として書き加えてきたが・・・

 当時、東日本大震災の復旧工事において細野復興相が堅実な政策を推し進めていた
姿が印象的であったが、当時の与党は、政策面を決定する過程において、議員構成が
多彩でそれぞれの議員の考え方も幅広なために「なかなか決められない政府」と云う
印象を強く受けた。

 ところが、今回の衆議院選において、あっけなく最終章を迎え、希望の党の代表の
小池氏が、いともあっさりと幅広の考え方を持つ政党を分断してみせた。

 これは今までに誰にも出来なかったことであり該当の政党の選挙結果は度外視して
も、見事に分断してみせたお手並みは、賛否はあるものの神がかり的である。

 私は、今から6年前に、次の様な記事を書いた・・・ 

 現代の日本において、人口の減少が著しく、一方で医療の発達などにより長寿社会
が現実のものとなってきている。「少子高齢化」という表現で、年金制度などの根幹
が揺さぶられる深刻な事態となって、既に、二十年以上の歳月が経過している。

 そして、その事態は、深刻さを増すばかりである。

 しかも、最近は少子化の傾向が加速化しており、国政においては年金制度の維持に
向けて人口の推移を示す統計だけが先行して、消費税の増税だけに特化した国会審議
の独走が続いている(6年前の印象)。

 このことは、与野党を含めて、国政を預かる国会議員に「真の問題は何か」という
ことを探究する意欲が欠如しており「将来に向けての展望や施策」も乏しく、国政を
して「視野狭窄症候群」に陥っていると云わざるをえない。
(これも6年前の印象)

 この状態を科学的な言葉で表現すれば・・・

「政界はカオス(混沌)の状況に陥り、いくつもの悪循環(悪魔のサイクル)が、
のたうちまわっている」

 この問題の深刻さは国政を預かる国会議員に「真の問題は何か」が皆目、見えて
いないという事態に加えて、未来に向けた見通しのなさと、恐怖が、奥深く潜んで
いる状態と云える。
(これも6年前の印象)

 古事記の神話に学ぶなら「八俣の大蛇」の正体が掴めていないということになる。
八俣の大蛇の胴体には何が入っているのか、「三つの目」といわれる「鳥の目」や
「虫の眼」「魚の目」を駆使して探索する必要があると啓介は考えた。

 一つ目の胴体には「何が入っているのか」・・・

 ここには人口の推移という怪物が潜んでいる。ここは鳥の目で怪物の正体を空から
見届けることにしよう。この人口の推移という怪物には、国政としての問題の解析や
対策などは何も加えられていない。

 ただただ人口の推移を眺めるだけで、世代別に受給する年金の損得勘定だけが論じ
られている。何故、少子化になっているのか、その原因として、どのようなことが考
えられるのか、それに対してどのような具体策を打ってゆくのか・・・

「それは可能なのか」
「不可能なことなのか」
「それとも少子化に合わせた社会構造に変えて行くのか」

「現状の社会構造を維持するためには、現在人口の維持や人口増加策が必須なのか」
「人口増加策が必須だとしたら、例えば、海外などからの移住を計画するのか」
「移住に協力してくれる国はあるのか」などなど掘り下げる必要のある問題や課題は
山積しており、その根は深い。

 単に人口の推移だけを眺めて、受給できる年金額に一喜一憂するばかりが政治とは
云えない。そこには日本人として叡智を結集する工夫が必要と啓介は考える。


 二つ目の胴体には「何が入っているのか」・・・

 ここには、産業の空洞化という怪物が潜んでいる。

 ここは魚の目で産業界に潜んでいる怪物の生態を探索してみよう。最近は政治主導
という言葉が先行して政局を混乱させているが、これは、国会議員の歳費削減、国家
公務員の賃金の適正化といった性格のものについては、政治主導で取り組まなければ
実行性を保証出来ないからことから、先見性のある政治家が、政治主導と云う主張を
したのであって国政のすべてに関して、政治主導でやろうという考え方ではない。

 例えば産業の空洞化といった問題の根幹を掘り起こして対策を取ってゆくためには、
民間企業主導が不可欠であり、政治家や官僚はサポート役に徹する必要がある。

 今までの経緯では、円高対策が先行して、多くの企業が海外に進出していった。
そのため国内産業が空洞化して、求人数が激減したため、大学や高校を卒業した
若者が就職できないという事態が発生してきている。
(当時、6年前の深刻な事態)

 さらに加えて、最近では、国政による公務員の新規採用削減が直近で浮上してきて
おり、新規雇用の氷河期に大量のドライアイスを空中散布するような暴挙には、目を
疑うばかりである。

 一方で、そのような状況にあってもトヨタ自動車などは「公益企業」という看板を
掲げて、海外に進出しながらも、国内の就業者に働く場所を用意している。

 既に、海外に進出した多くの企業は経営活動を通じて、海外の地元で多くの信頼を
勝ち取っているものと推測する。そこで海外で就労していて日本に興味を示している
就業者を日本国内にもローテーションさせていただき、日本国内にも、再度、企業と
しての軸足を広げることを模索する時期に来ているのではないかと啓介は考える。

 そのためには国政として法人税の引き下げなどを断行するなど、頭で考えるだけで
なく腹に落として行動できる国会議員の登場を望みたいものであると啓介は考える。

【後日談】

 今回の衆議院選挙において、自民党と公明党の与党が、安定した票の確保によって
政権を維持したが、6年前の就職面における氷河期のたいへんさは、多くの先輩達に
よって口伝され、先日の若者の発言・・・

「今の政権は、就職面で安心出来るので、今の与党に期待する」というメッセージに
つながったのだと考える。

 実際、私も、この若者の言葉に共感して、初めて期日前の投票に出掛けた。あの時
は投票日に台風が来ると云うので「あの若者達の応援をするには投票に行くのが一番」
と考えたからである。
(案外、政治への熱意は、身近なところから発奮するものであることを感じとった)。

 次回は、三つ目の胴体に入っている怪物を描写してみるが、自民党が下野した時代
の政権与党が解体して本稿としては最終章を迎えたが、今、安定政権の見通しをもつ
にいたった与党に一見していただき解決への道筋をつけていただくことを期待する。


三つ目の胴体には「何が入っているのか」・・・

 ここには、外国人の就労の壁という怪物が潜んでいる。

 最近の新聞報道などを賑わしている問題として、外国人への「介護福祉士」試験の
難しさという問題がある。この医療問題の世界を虫の目で観てみよう。

 この頃は漢字にルビをふるなどして、外国の方が試験に取り組みやすいように多少
の工夫はしているが、介護福祉士さんが実際に活躍する医療現場において本当に必要
なスキルを問う試験問題になっているのだろうか。

 今や、医療現場を支える介護福祉士さんとして働いていただける人材は貴重な存在
である。前述の日本の人口推移をみても、外国の方の移住による労働人口の増加はあ
りがたいことである。

 このような尊い思いで、来日されている方々に難題を課して試験でふるい落として、
失意の思いで帰国させてよいものか。

 労働人口の国際化については、まだ国内でも議論が尽くされていないが、日本国内
における医療現場では、このような好機が目に見えているのにもかかわらず、国政に
方向性と先見性がないばかりに、チャンスはどんどん失われているとしかいいようが
ない。

 これは医療現場に限ったことではない。日本国内における労働人口の国際化は避け
て通れないこととなれば、異文化における、コミュニケーションの在り方の実践研究
なども、早急に必要になってくるので、この面での先進国家といえるアメリカなどで、
異文化コミュニケーションの在り方を学び取る必要も出てくる。

【後日談】

 外国人の就労の問題において、特に、介護福祉士の課題については、後期高齢者が
急増する2025年問題が近づいてきているが、いわゆる日本の急成長を支えてきた
団塊の世代が、2025年には、いっせいに後期高齢期に突入して来る。

 最近は加齢の問題など簡単に乗り越えて、ますます元気な人々も増えて来ているが、
それでも後期高齢期に達して来れば、介護福祉士さんにお世話になる人々も増えては
来る。

 したがって、そのときになって慌てないためには、国家事業としても需要と供給を
考えて、介護福祉士の増員を計画的に進めて行くなど、その解決策の一環として外国
人の就労なども、重要テーマとして取り組んで行く必要があると考える。

 同時に、この課題は、一つ目の胴体に入っている「人口と人口構成の急激な推移」
という怪物に向けた対策としても、具体的な解決の方向性を見出す可能性を秘めてい
ると云える。


四つ目の胴体には「何が入っているのか」・・・

 ここには、能力主義という怪物が潜んでいる。

 かつて、国際社会において円高が急速に進んだときに日本人の給与ベースは世界的
な給与標準に比べて相対的に高くなってしまった。

 国内だけで暮らす限りにおいては、可処分所得が増えた訳ではないので、豊かさの
実感はないが、輸出産業などにとっては、この給与ベース高が足枷になって、企業の
業績を圧迫することになってしまった。

 そこで、能力主義という美名の下に、全体の給与の引き下げと、団塊の世代の後に
続く、若手幹部の急速的な育成という中長期的な企業戦略と戦術に基づいた目的のた
めに多くの企業で能力主義が導入された。

 しかしながらこれはサッカーのなでしこジャパンに代表される日本人独特のチーム
ワークの良さを捨てることでもあった。国内でも賢い企業は、所期の目的を達するや、
さっさと、チームワーク重視にシフトしているが、そこに、気付かない企業の多くは、
新入社員の早期退社などという事態に直面している。

 元々が、チームワークで業績を向上させてきた日本企業にあって、お互いの手柄の
ぶんどりあいというような事態を招く恐れのある能力主義は、日本企業には不向きで
あると啓介は考えている。


五つ目の胴体には「何が入っているのか」・・・

 ここには、原発の問題が、ずっしりと重く住み着いている。

 今から6年前の政局においても、原発の再稼動の可否は最優先の課題になっていた。
この原発の問題に取り組むときには、どこから、取り組むかという優先順序が極めて
重要になってくる。

 当時、日本の国内事情では、福島原発の収束に手一杯な状況であり、あれだけ絶対
安全と云われた原発事故の後始末に追われていた。

 日本国内で、今日の事態になっている以上は、日本国内の全ての原発について福島
原発と同じ規模の津波が押し寄せてきたときに対応できる安全基準が確保されている
のかの検討は、最優先課題であり、必須の課題でもある。

 それに加えて、内閣府の有識者検討会が、駿河湾から日向灘にかけて海底で起きる
巨大地震について、予測し得る最大の震度と津波の推計値を公表したが、これに対す
る安全基準の検証も必要である。

 このことは日本海の原発が置かれている全域についても、同様のシミュレーション
が必要であることを意味しており、まさに、日本列島全域の海域において同様の推測
値を公表した上で、それぞれの原発について安全基準を確認することが急がれる。

 そのような安全基準の確認ができて、はじめて、それぞれの原発を再稼動するのか、
早急に廃炉にして大震災に備えるかの判断を可及的速やかに行って行く必要がある。

 ここで誤ってはならないのは政治的な主導で決めるのではなく、あくまでも科学的
な決断を最優先にして、住民からの民意を尊重した上での決定が重要であると啓介は
考えている。

【後日談】
 しかしながら、現時点において、科学的に安全宣言をしても、民意として再稼働を
許容する空気感は希薄であり、あらゆる政党から、政治課題としての政策や指針が示
されても、民意とのかい離があることは否定出来ない。

 このような状況において、採れる手段は・・・

◇個々の原発について、多面的に、安全点検をして、再稼働を許容できるものは、
 科学的な根拠を明確にして残すこととする。安全基準から外れたものは廃炉に
 もって行く手続きを取る(先ずは、科学的な層別が重要)。

◇そして、安全が確認された原発は、再稼働に向けて整備を完了させておく。

◇後は、再稼働するにせよ、廃炉にするにせよ、日本国内の意思として、思考の
 成熟(熟成)を迎えたときに決断をする(必ず、超越的な知恵者は現れる)。



六つ目の胴体には「何が入っているのか」・・・

 ここには比例代表制という怪物が潜んでいる。

 今から約6年前の比例代表制による投票を経験して感じたことは、当選者の顔ぶれ
を見る限りにおいて、国民が選んだ議員という感覚からは遠い存在のケースが生じる
ことであった。

 当時の政治活動の中で盛んに「仕分け」という言葉が飛び交っていたが、国会議員
についても、国民による仕分けが、国会議員の一人ひとりについて必要になってきて
いるのではないかと痛感した。

 当時、与野党を問わず信頼できる政党の存在がなくなりつつある当時の情況におい
て、先ずは、国会議員として適正な人材を国民が直接選ぶ方法をとり、その上で政党
の再編成を行って行く必要があると感じた。

 言い換えれば、比例代表制はないという前提で、小選挙区か中選挙区か、あるいは、
他の区割りは出来ないかなど、選挙制度の在り方の見直しの順序を変えたらどうかと
当時の啓介は考えた。


七つ目の胴体には「何が入っているのか」・・・

 ここは、癒着の巣になっているようである。

 この世の中のあらゆる癒着が、この胴体の中に蔓延しており救いようのない状態
になっている。

 さて、ここで八つの胴体を鳥の眼で俯瞰的に良く観察してみると古事記に出てくる
「八俣の大蛇」とは様子が違うようである。胴体がやたら長い、しかも胴体どうしが
 絡み合っている。

 スサノオノミコトは、ヤマタノオロチを一刀両断で退治したが、今回の八俣の大蛇
については、それぞれの胴体の中身をよくよく観察して、「真の問題」が何なのかを
見極めないことには、一刀両断で退治という訳には行かないようである。

 それこそ、真骨頂のワイワイガヤガヤ隊が、胴体の中に潜り込み、よくよく胴体の
中を観察して、真の問題を探り当て、悪性の部分は切除するなどして、徹底的な処置
を加えて行かないと解決にはつながらないようである。

 そのような意味でも、政治任せではなく、国民一人ひとりの叡智の結集が急がれる
ところである。それぞれが、日本という国家の在り方に関する問題であると、同時に、
国民一人ひとりにとっての問題であり、課題であるといえる。

 さて、八つ目の胴体には「何が入っているのだろうか?」



八つ目の胴体には「何が入っているのか」・・・

 ここは、日本国の憲法の維持や改廃をめぐっての論争が渦巻いているようである。
まだ、その論争の渦は小さいがその中心を見ると渦の勢いは強い。

【後日談】

 日本国の憲法論議は、政権が安定して来た今日こそ声高に論じられるようになって
きており、太平洋戦争が終結して、大きなパラダイムシフトがあり、当時の政府関係
者は、米国をはじめとして、諸外国の知見を考慮しながら・・・

「これからの世界の中における、日本の真の平和的国家の樹立を願って立憲したもの
であり、当然、そこには世界観があり、日本国の憲法については、地球上の宝ともい
える知的財産としての価値を世界の国々から認めていただいているが、恒久的とも思
われるような平和が続いている今日において日本の国内論を前面に出すことで改めて
憲法の見直しを行い、国内論に沿って改憲を行うのがことが良いか?」

「やはり世界から信頼感を得ている現行の日本国憲法を維持することが良いのか?」
 
「改めて、国民の目線で考えて行く時代に入って来た」と云える。

 世の中に「矛盾」と云う言葉があるが現行の世界から信頼を得ている日本国の憲法
は「盾」と云う見方からは考え方が統一されている。しかし、現実の世界では、仮に
隣国などから「矛」を突き付けられたときに、例えば制空権などにおいて、或る境界
を越える脅威に対しては、排撃可能な「矛先」は常に磨いておく必要はある。

 例えが適切か否か、判断が難しいが、「盾」的な憲法の中に「矛」的な要素を明記
したときに、これを読んで行動を起こす立場に「矛盾」が生じないか、熟慮が必要に
なってくる。

 すなわち、世界観の中で成り立っている日本国の憲法と並立させた国内法があって、
両者の矛盾を明快に制御できる方法はないか・・・などなど ?

 また、地方自治の課題についても、日本国の憲法として制定された当時は・・・

「民意に主体があることが明らかにされ、画期的なパラダイムシフトを国民が全員で
体感したが、今や地方自治も成熟に成熟を重ねてきており、この面においても国内法
の整備・拡充を果たした上で、憲法議論が重要な課題になってくると考える」。

 そして日本国憲法の在り方を考える時に、その選択は、かつてのクイズダービー
に代表されるような、政治家や有識者が考えた案を国民が選択する方法ではなく、
国民の一人一人が、一から、否、ゼロから考えて、案を練って行く時代に来たと
受け止める必要がある。

 何故なら、日本国の憲法は、政治家のためのものではなく、国民が三権の長や政治
家の行動を規制できるものでなくてはならないからである。それは、国民の誰しもの
脳内にある、かつての暴走国家への後戻りを許すことは出来ないからである。

 これについては、筆者も稿をあらためて、日本国の憲法の成り立ちなど、初歩から
学び、ゼロから考え直すことで、別途、稿を起こして行くことを考えてみたい。


稿の終わりに想うこと

 この稿を書き始めるきっかけは、群馬県の水上の先、谷川岳の山麓の宿で夜空から、
星が降ってくるような開放感のある露天風呂の湯殿に浸かりながら、四国四県の夏を
代表する阿波踊りの状況を思い浮かべていた。

 すると唐突に思える感覚で、アイルランドの歌姫エンヤの「アマランタイン」の曲
が流れ始めた。阿波踊りは、激しい動きで観客の目を引き付ける。

 エンヤの曲は、どちらかというと静かな旋律で聴く者を魅了する。

 したがって、両者の心地よさは対極にあるといえる。私よりも家内のほうが気持ち
が癒されるといって、エンヤの澄んだ歌声を気に入っている。

 アマランタインの発売を知ったのは私のほうが先であった。

 アルバムの中に菫草(すみれぐさ)という曲があってエンヤとコンビを組んで活躍
している作詞家のローマ・ライアンが、松尾芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」
という俳句に触発されて詞をつけたという話を聞いて、俳句を趣味とする私はこれを
買わない訳にはいかなかった。

 しかし私は旅先で家内を喜ばせようと考えて、旅行カバンの中にしのばせたままに
していたが、露天風呂に入る前に、後で聴こうかと云って紹介だけした。

 今回の旅は、私が定年に達し、その後、家内も定年となり、二人とも定年となって、
初旅は子供たちに海外旅行を勧められたものの群馬県の谷川温泉郷を旅先に決めた。
宿はインターネットで見つけた旅館たにがわ。

 宿に着いてフロントでの記名が終わり、抹茶のおもてなしを受けていると・・・
「家族専用の露天風呂を予約されますか」と聞いてきたので、早速、希望したところ、
 スムーズに予約が出来た。

「そして茶目っ気のある家内が湯殿の入り口にラジカセを持参して、スイッチオン、
浴衣の裾を手繰って、星空を仰ぎ見ながら、菫草の曲を流して、私の背中を流して
くれると云うことになり、私は極楽気分でエンヤの曲を楽しんだ」

 そして、私が部屋に戻った後で、露天風呂に入った家内が部屋に戻り部屋食の便利
さもあって食事中もエンヤの曲を聴きながら、最近の好きな曲目や、最近、読み応え
のあった書籍などに話が及び・・・

 私が、最近、古事記の記述を繰り返し読み込む過程で、次に旅をするとしたら九州
地方に出掛けて、高千穂峡を訪ねてみたい旨を披露したところ、家内の賛同もあって、
高千穂峡に出掛けることになった。

 その際には、谷川温泉郷で聴いたエンヤの菫草(すみれぐさ)の曲も飽きずに持参
した。そのような経緯もあって、本稿を書き出す時に「高千穂峡のすみれ草」と題し
た次第である。

(完)

『【中編】高千穂峡のすみれ草』

『【中編】高千穂峡のすみれ草』 万田 竜人(まんだ りゅうじん) 作

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-04-23
Copyrighted

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