歩行訓練

 「平凡な毎日」は幸せだとよく言われる。私も同感だ。平凡のなかの一瞬一瞬がいかにかけがえの無い幸せなものだったかということを、いま思い知らされている。孫娘との「犬棒かるた」やかくれんぼ、息子達との囲碁や釣り、妻との買い物や庭いじり、そして、職場での日常の仕事、これらのマンネリズムは手の届かない「夢」となってしまった。嘘のように、健康時の体と生活は消えた。特別なことは望まないから、もとの平凡な生活に戻りたいものだ。
 病気になってからの私はこれまで予想しなかった毎日を過ごしている。平凡よりまだ悪い。歩くにも一歩の踏み出しがすくんでしまう。廊下で転んで前歯を2本折ってからは家でも外でも歩行器が手放せない。病院のような人混みでは車椅子が必要だ。
妻は私の運動機能が低下して歩けなくなっていくのを心配して、天気の良い日は散歩に誘ってくれる。私も危機感を持ち積極的に外に出るようになった。玄関の小さい段差はスロープをつくり、大きい段差は昇降機を使ってクリアする。歩行訓練には転んでも怪我は少ないと思うから公園の芝生が安全でいい。でも一旦転んでしまうと自力で立ち上がれないから細心の注意を要する。先日、妻の弱い力では私の体を起こせず四苦八苦した。しかし、めげてはいられない。リスクは伴っても筋力とバランスの維持のために頑張って、平らな芝生の上を歩行器なしで歩いてみる。理学療法士には疲れるほどしてはいけないと指導されているので、脚の筋肉がこわばってきたら立ち止まり、呼吸が乱れてきたら一休みしながら、わずかな距離を歩く。妻は私の歩行器を押して隣を歩くので、はた目には私が健常者であると二人で笑いながら歩く。
 お気に入りの公園は四ヶ所あって、その一つは、妻の運転で30分もあれば着く。山裾の広大な広がりに春、夏、秋を通して沢山の花が咲き、水鳥や野鳥の憩う池がある。管理が行き届いていて好きな場所だったが、芝生の傾斜が私にはきつくて歩くのが難しくなった。
二つ目は、J1リーグのサッカースタジアムもあるスポーツ公園で、家から一番近くて便利だ。家族ずれの子供達と体がぶつからないように、土曜、日曜を避けて行く。野球やジョギングをしている人達を見て、自分の健康だった頃を想う。
三つ目は港のある河川公園で、歩いて疲れたらベンチで休み、妻と船やカモメを見ながら取り留めのない話をする。磯の香りを含んだ海風が顔に優しい。この公園では川岸の店に入ってコーヒーを飲むのも楽しみである。このカフェは昭和初期に建てられた落ち着いた洋風建築の中にありバリアフリーである。いっときを過ごした後は別の店で当地名物の笹団子を買って帰る。
四つ目は孫の家に近い小さな公園で、孫娘に会えることを期待して行く。孫は最近まで敬遠していた遊具が出来るようになったと嬉しそうな顔を見せる。自転車も補助輪なしで乗れるようになった。私も負けまいと歩行器を使わずに芝生を20メートルほど歩いていたら、「ママ見て、おじいちゃまが歩いたよ、病気が治って良かったね」と声を出した。この公園では孫から夢と勇気がもらえる。
 私は健康な時には当たり前のようにしていた事ができなくなると憂いていた。しかし最近では筋力が低下してきたことだけに目を向けないで、まだ頭が働き、自発呼吸も公園散歩も出来るから恵まれていると思うことにしている。
視点を変えることによって、今の私の状況は不幸があるだけでは決してないということが分かってきた。妻のこまやかな介護を受け、孫と公園で遊ぶことの幸せに気づく。もとのような平凡な暮らしは出来ないにしても、このささやかな幸せがあれば、日々感謝しながら今の境遇を受け入れていけそうだ。
2017年4月12日
 

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