発声練習

 ALSは神経障害のために進行性の筋萎縮が生じ、四肢、躯幹の運動機能障害だけでなく、呼吸障害、嚥下障害、言語障害をきたすといわれる。私の場合もやむを得ないことであるがこれらの症状が徐々にそろってきた。治らないと言われているが、手をこまねいてばかりもいられない。
 私は自己流だが一日一回言語訓練をすることにしている。私の場合は構音障害だから、呂律が回るように、舌や唇を動かし、深呼吸してから発音、発声練習をする。それにもかかわらず、「あいうえお」に濁点が、「らりるれろ」に半濁点がついたような声になってきた。「ドレミ」の音階も高くなる程これまでの「美声」が「奇声」に変わっている。口笛さえも「フーフー」と音色の無い空しい風が吹くだけである。
自己流の訓練では効果ないのかと心配になって、訪問看護師Yさんに現状を話した。そして、実際に「ドレミファソラシド」と発声して聞かせた。すると彼女もすぐに「ドレミ・・・・・」と後を追った。彼女はオーケストラが町に来た時、合唱曲のソプラノを歌うということを聞いていたが、なるほど、素晴らしい声だった。普段の発声練習は欠かせないという。私は、在宅療養中の身だからYさんの公演に行く事は無理だが、もしかして練習曲なら聞けるかも知れない。何とか私の好きな「スワニー川」をライブで聞きたいものだ。そうだ、良い作戦を思いついた、これでいってみよう。
私は毎月10日間の点滴注射を在宅で受けていて2年になるが、Yさん達はそのために交代で来てくれる。私の腕の血管は細くて刺しにくく看護師さん達を悩ませていた。Yさんも上手なほうだがたまに失敗していた。そこで、私は何回も痛い思いをしたくないからと屁理屈をつけて、「続けて3回以上失敗したらペナルティとして歌うことにしては」、と提案した。すると、彼女は賢い、「なにか小曲を練習しておきましょう」と答えた。それを聞いてまさかとは思ったが、この人は閉塞した療養生活の機微に触れつつ、病人の心のケアが出来る人だな、と感心した。
その後、幸か不幸か注射は殆ど失敗していない。フォスターの曲を聴きたいので「注射の連続失敗もたまにはいいのだが」と待っていたが、待望のソプラノは聴けずじまいだった。ところが、ある日、注射の応援にかけつけたYさんは同僚の失敗を我が事のように詫びたあと、ベッドサイドでほんとに歌ってくれたのだ。私は点滴注射を受けながら、そして妻は台所からとんで来て私の傍らで、鍛えられた美しい歌声に聴き入った。私は人生においてこんな事もあるのかと、稀有な経験に幸せを感じた。 2017年4月2日

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