「友だちを殺した」(なぜ、人を殺してはいけないか)

上松煌 作

友達を殺した。
ヤツは少し身もだえて、かすれた声で「いっ…っ…」と言った。
それだけだった。
それでアッサリ逝っちまった。
あっけない終わり。
人間、生きるか死ぬかのときはもっと、ジタバタするだろ?
命乞いもするよな?
泣きワメかねーのかよ?
グダグダ、おれに毒づかねーのかよ?
死ぬのが怖かねーのかよ?
そんなにカンタンにこの世からおさらばかよ?
あ?…


おれはわざとおくれて部室に行った。
やっぱり、ヤツが一人でいた。
おれをチラッと見て、
「遅かったな。もう、みんな帰っちまった」
「うん…」
おれは曖昧に返事した。
ヤツは近頃、球体のデッサンに凝っていて、今日は水晶玉みたいなガラスを前に置いていた。
おれはさりげなく後ろに立って、見るともなく見ていた。
ヤツが再び自分の作品に集中するのがわかった。
息を吸い、いったん止めて徐々に吐きながら鉛筆をはしらせ、また吸って止めて少しづつ吐く。
いつもの製作のリズム。
淡々と、しかもゆるぎない…。


ヤツは昔からそうだった。
高2までの人生を、淡々と、楽々と、悠々とゆるぎなくこなしてきた。
ヤツは自分の能力、つまり、優れた学力、体力、筋力、運動能力、芸術的才能に加えて親の財力、恵まれた容姿までもっていた。
親友のおれから見ても実に魅力的だった。
大人たちはいつも言う。
「完璧な人なんていない。ほんとうに恵まれた人なんかいない。みんなそれぞれ欠点や悩みを抱えてる。それが人間。それが人生」
違う!
いるんだよ。
生まれながらにして恵まれてるやつはいるんだよ!
すべてに遜色なく、神や世の中や学校の先生やPTAや異性同性から、いつも寿がれているやつ。
病的などうしようもないやつもいるが、健常はたいてい性格もいい。
おおらかで明るくてやさしくて考え深くて上品で、いつも物事をいいほうに取れる。
そりゃそうさ、苦労していないんだもん。
いつも賞賛の中心にいて、みんな一目置いていて、学校のテストも行事も難なくこなして、さわやかにニコニコしてる。
おれたちが悩んだり、苦しんだり、お荷物に感じたり、おびえたり、しりごみしたり、迷ったりしてる、日常の問題や煩雑なことすべてが、そういうやつにとっては簡単にクリアできる、小さな出来事にすぎないんだ。


おれとヤツとは小坊の時から仲が良かった。
もちろん、ヤツにはほかの友達もたくさんいたから、サッカーやドッジボールもしょっちゅうだったけど、本当はおれんちでゲームや絵を描くのが好きだった。
おれは絵が得意だったし、ヤツもなかなかに上手かった。
でも、今でも思い出すのは、そんなことじゃない。
5年生のとき、学校に秋の交通安全運動で警視庁の騎馬隊が来たことがある。
パレードやスタントマンの事故再現があり、一番最後にみんなで順番に馬にさわっていいことになった。
馬がデカイのでみんな怖がっていた。
おれは馬が好きだったし、何度も乗ったりさわったりしていたから、怖いよりもスベスベした毛並みの感触を楽しんだ。
きれいな葦毛で、馬はおれの得意分野だった。
さわり終わった児童から教室に帰ることになっていたから、校舎の入り口で待っていて、ヤツの番になった。
ヤツもほかの子と同じように、うれしそうにちょっとはにかんで手を出した。
それからが小学生の動作じゃなかった。
鼻面をなでて、あごの下を掻いてやり、平首を叩いた。
まるで手馴れた大人のように。
そして先生に言われたとおり列を抜け、馬の後ろを通らないようにしてこっちに走ってきた。
あっ、とみんながどよめいた。
馬があとを追って駆け、口取りの警官をズルズルとひきずったからだ。
それだけじゃない、甘えて首をのばして髪の毛をモシャモシャ噛んだ。
勝手な行動をしないよう調教されているにもかかわらずヤツを慕ったのだ。
周り中が、とくに女子が注目した。
「かっこいい」そんな賛美が渦巻き、婦人警官すらヤツを眼で追っていた。
おれはその時とった自分の行動を、当時は説明できなかった。
ヤツの腕をつかみ、つめを立ててギュウ~ッとつねり上げたのだ。
手はすぐに振り放された。
ヤツはおれをのぞきこみ、きっぱりと言った。
「なにもしてない。勝手についてきただけ」
「う、うん」
どぎまぎと返事をしたが、その出来事はおれの中に澱のように沈んで消え去らなかった。


そういえば、中坊の時にヤツの家に行ったことがある。
ヤツが校長や先生たちの意向で、球技や陸上なんかで活躍していた時のことだ。
運悪くけがをした。
バスケ中の「前十字靭帯断裂」というやつで、だいぶ痛かったらしい。
すぐ病院に運ばれ、大事をとって2週間ほど入院させられていた。
けがをしたことでヒーロー扱いになって、病院側が禁止したほど友達が病室に集まった。
おれは親友だから余裕こいて、退院したあと、直接、家に行った。
いつも学校に近いおれんちでつるんでいたから、初めてのことだった。
家は外国みたいに門番がいる高級住宅街の中でも、群を抜いてスゴかった。
迎賓館みたいな門を見た時は、正直、帰りたくなった。
おれは庶民だったし、洋館はチャラチャラした女子供のものだった。
ヤツは元気そうで、おふくろといっしょに迎えてくれた玄関は、ツリンツリンの御影石で10畳以上もあった。
広いホールがあって、その向こうは吹き抜けが7メートルくらいある居間で、カリブの海賊でもぶら下がりそうなシャンデリアが2基、まばゆい明かりをつけていた。
その四隅にはパルテノン神殿みたいな大理石がそそりたって重い天井を支えている。
今の時期は使われていなかったが、正面には5畳くらいある重厚な暖炉があった。
おれは振舞われた手の込んだ菓子の味も記憶にない。
茶があるのに、飲みこもうとするとむせるか、窒息しそうになる。
おまけにヤツのおふくろはキレイな人で、やっぱ中坊にはまぶしすぎた。
気を使って、いろいろおれをほめてくれたんだが、「あっ、はい」とか「いえ」しか言えなかった。
とにかくやたらに疲れたお見舞いだった。
帰りぎわ、ヤツが門まで送ってくれた。
おれは一つだけ疑問があった。
「あの、さ、おまえ、やっぱ、おかんのことママンっつうの?」
それがふさわしい気がした。
「あ?なんだよ、おふくろだろ、ふつー」
ヤツは笑って否定した。
「また、来るか?」
おれは拒絶を全身にあらわした。
「いや、ダメ、こういう家ダメ。マジでもの食うのゴーモン。2度といやだ。来ない」
「…ま、そーだろーな。みんな、そう言う」
声には、ちょっと失望があった。
「ったりめーよ。だれが来るかっ、こんなうち」
おれは調子に乗って口走り、ヤツがつらそうに笑顔を消したのに気づかなかった。


それ以降、学校側はヤツの運動についてヤイヤイ言わなくなった。
あたりまえだよ。
まだ体の出来ていない中坊のケツを、大人の都合でひっぱたくからこういうことになる。
先生たちは先生らしく、『聖職の碑』であってほしいものだ。
その後、おれとヤツは公立中から杉並の都立高に進んだ。
偏差値70越えてて、本当に頭のいい、文武両道のやつが集まっていた。
その前半ころがおれにとって、一番の祭りだったな。
進学校でも学校自体が芸術に力を入れていたので、全国公募の美術コンテストや書道の展覧会でひんぱんに賞が取れた。
ヤツは同じ美術部に所属して、おれと楽しく受賞率を争っていた。
そのころまでは…。


おれはヤツに目を据えながら、まず、両手に滑りどめのテーピングを施した。
悠長と思うかもしれないが、おれの中にやはり(最悪の事態は避けたい)という思いがあったと思う。
気付いてくれれば、力も強く反射神経に優れるヤツは必ず反撃し、おれは友達を殺すという鬼畜を演じなくてもすんだかもしれない。
だが、ヤツは静かに信頼しきった背中を向け、自分の作品に没頭していた。
おれは携えてきたナイフの鞘をはらった。
光を反射しないくすんだ刀身は、まず、おれ自身の逡巡を切り裂いた。
ヤツが息を吸い、いったん止めて徐々に吐きながら鉛筆をはしらせる。
そのリズムを冷静に見すました。
息を吐ききった生体は筋肉が弛緩する。
おれは両手に握って伸び上がり、全身でヤツにぶち当たった。
必死の体重をかけると、最初、骨にあたった鋭利な刃先がずれ、一瞬でズシッと根元まで入った。
その瞬間、ヤツの心臓が激しく跳ね上がり、脈動が柄をとおして腕にまで伝わった。
おれはこの鼓動を止めなくてはならなかった。
おれは傷口をめったやたらにえぐり回した。
胸骨や肋骨に刃が当たって、聞いたこともないような音を立てたが、おれの腕は止まらなかった。
やつの体から暖かく、豊かで、なめらかなものが流れた。
おれは引き抜いたナイフを握ったまま、両手でそれを受けた。
ヤツの能力、ヤツの才能、ヤツの長所、ヤツの幸運がおれに流入し、おれはヤツを越え、おれ自身を昂進し、まったく新しいものに昇華する気がした。
凶暴な高揚感で、おれは獲物を倒した猛獣のように身構えて立っていた。
 

「たかし?隆ってばぁ。」
なつかしい、穏やかな声がおれを呼んだ。
「あ?みゆ、美優?」
おれはすぐに周りを見回したが、だれもいない。
(あ、これは記憶だ。記憶の声なんだ。おれはちょっと、オカシクなってる)
美優はヤツの彼女だった。
小坊時代から、いつも気の毒なほど取り巻きの女子にかこまれていたヤツが、高校1年になってやっと特定の彼女を持つことができたのだ。
おれはオクテでまだまだ女の子なんかうっとおしかったけど、ヤツが人並みに思春期を迎えたことが純粋にうれしかった。
美優は隣のクラスの放送部の子で、まぁ、かわいかったけど、地味で内気で目立たなかった。
おれたち3人はおれのうちをアジトによく集まった。
だから周りには、美優はおれのカノと思われたくらいだ。
これはむしろ好都合で、おれはヤツに、
「颯、うわさ気にすんなよ。おまえの取り巻き女って、しつこくてけっこう残酷じゃん。うっかりバレっと、おまえ、八つ裂きにされっぞ」
「怖えー。そう(颯)はイカの目んタマ」
ヤツは軽くふざけて、すぐマジで言った。
「感謝してる。けど、おまえ、誰かいい子いないの?今度はおれが協力するって。」
どうやら自分にカノがいて、おれにいないのを後ろめたく思っているようだった。
「だーっ、うざいっつうの!おれは颯みたいに色気づかねーの。たりーよ、女なんか」
これは本音だった。
そんなとき、美優は本当におかしそうにコロコロ笑うんだ。
その声を聞いていると、女の子もいーかなぁと思えてくるのが不思議だった。


「どうだ、上松。挑戦してみないか?」
あ、この声は美術の星野だ。
手には『北欧2カ国美術展 油絵部門』のパンフレットを持っていた。
これはけっこう権威ある公募展で、世界中から出品が集まる。
「おまえの親友の川村な、やるって言ってんぞ。来年3月〆切で選考は7月。仲良く入選めざせ」
「んー、ま、やってみっか」
余裕のおれの言葉に、星野先生は笑った。
「まだ、10月だ。時間はある。テーマは自由だし。時々見せに来いよ」
その日、おれは宣言した。
「北欧2カ国美術展、おれは秘密裏にやりたい。だから、何を描いているか見せない。もちろん、星野にもな。颯もおれに見せるな」
ヤツはすぐ趣旨を理解した。
「いいね。先生とかにイジられるのどーかと思うしな。この話、乗ったワ」
なんか、わくわくした。
おれたちはいたずらを成功させた悪ガキみたいに、肩をすくめて笑った。


1月の終わりごろだった。
星野先生が、ちょっと怒った感じで教室に来た。
「上松ぅ、ちゃんと描いてるのか?2人とも一度も来んで…。川村はもう、完成したって言ってるぞ。明日、見せに来るから、とにかくおまえも持って来い!」
「えっ?颯、早えーなぁ」
だが、おれも八分どおり完成している。
いつもの部室で星野はうれしそーにおれたちを見比べた。
「どっちから先に見せてもらうか、おまえら、じゃんけんしろ。勝ったほうから見るよ」
おれたちはすぐにじゃんけんし、おれが先に見せることになった。
先生は自分で丁寧にイーゼルに架け、椅子にまたがって背もたれにあごを乗っけた。
「…すげぇな、上松。あ?この空気感…。夜明けだな。秋の夜明けだ」
さすが星野。
おれが何か言う前から一目でテーマを見破った。
絵は広い河口から見た湾岸のビル群で、もやが下半分を覆って影絵のように見せ、上半分が朝日に向かって希望のように屹立していた。
「よくできてる。ダントツだ。欲を言えばもやは水蒸気の粒子だ。近景は丸刷毛で少しづつ丹念に絵の具を置け。よく乾いてから平刷毛でなでろ。ったく、上松は勝手なことしてるワリにはすげえんだよなぁ」
先生はヤツの作品も出した。
そして、同じように画架にかけた。
部室の空気が吹きすぎるように、一瞬にして変わるのがわかった。
颯は馬を描いていた。
白くて、いつかの警視庁の葦毛に似て、はっきりと自分の意思をもった馬。
ほんのわずか瞳においた朱が、歴然とおれたちを見ていた。
爽快に前足を跳ね上げる馬体は生きた骨格があった。
皮膚の下には筋肉が躍動し、血管が走り、呼吸し、鼓動していた。
輝かな意図をもって絵の具下に群青を置いた馬は、薄暗い部室で拡大し膨張し、飛翔し去るかに見えた。
「う~~~~~ん!」
星野が空を仰ぐ格好をした。
「川村ぁ、先生は何も言えん。このまま出せ!」
そして感無量の感じで、おれたちを左右から胸に引き寄せた。
「上松、川村。ちくしょう! おまえら、今、おれに引導渡したんだぜ。先生には才能ないって。どっちの絵もおれには描けんワ」


いや、引導渡されたのは先生ではなくおれだよ。
ヤツの長足の進歩、形や色にたいする計り知れない感性と才能。
おれは明らかに負けたんだ、自分の一番の得意分野で。
この後、何が残るというのか…。
ヤツがいる限り、頭を押さえられたままだ。
おれは今まで一度たりとも他人の後塵を拝したことはなかった。
それがどうだ?
これから先、一番のいいとこ、一番美味しいところはヤツが常に持って行く。
おれはそれを指をくわえて見るだけの人生になるのだ。
そんなこと我慢できるか!
それに…。
「だが、死んじまったらおしめーだよな」
おれは口に出して言った。
手はヤツとおれの血に染まったナイフをもてあそんでいた。
冷静なつもりだったが、自分の手もあちこち切っていたからだ。
これが人間の犯す最悪の罪ってんだから笑わせる。
人殺しはもっと凄惨で、もっと困難で、危険で背徳的で、醜悪で陰鬱なもののはずだろ?
少なくともおれはその覚悟で来た。
あの日、薄暗い部室でヤツの馬が圧倒的な存在感を示した時、おれはヤツを(生かしておけない)と思った。
だが、それはまだ憧憬と尊敬、嫉妬と自尊の裏返しにすぎない。
おれたちはよく、部員同士で言い合ったものだ。
「殺してやりたいよ。あんたが死ねば、自分が一番だ」
これは一種の敗北宣言だが、言った相手が次の事象では言い返されるほど流動的だ。
おれ自身、社交辞令で先輩に言ったことがある。
この少し残酷で軽薄な言葉が、おれの中で、おれ自身を突き動かすほどの衝動になったとき、おれはおれなりに悩み、苦しみ、恐れ、否定し、忘れ去ろうともがいたのだ。
それがどんなものだったか…。


「たかし。隆、どーして話、聞いてくれないの?何でそんなに怒るの?」
悲しい美優の声が聞こえた。
泣いていた。
「っじゃねーだろ。おめーは颯のカノだろ!今さらおれがいいって、あたま狂ってんの?そんなこと言われておれが、あーそうですか。じゃ、仲良くしましょうって言うと思ってんの?そういうの二股ってんだよ、木村。やっちゃ、いけねーのっ!」
おれはイラついて言った。
(なんだよ、公園なんかに呼び出して。見損なったぜ、バカ女)
本気で思ったが、切なかったことは事実だ。
おれはいつの間にか美優が好きになっていたんだ。
「隆、違う。そんなこと言ってない。ちょっとだけちゃんと聞いて。ね、ね、これが最後。もう言わないから」
おれが散々毒づいたのに、美優は怯まなかった。
「…じゃ、いってみろ。ちょっとだけだぞ」
「うん」
美優は考えをまとめるようにすこし黙った。
おれはその間にちょっとは冷静になった。
「颯くんがわたしのこと好きになってくれた時、ほんと、うれしかった。隆とも友達になれたし。わたし、ドン臭いから、颯くんが初めてつきあってくれた人なの」
「だからぁ?」
「うん、わたし、嫌われたくなくて一生懸命がんばった。颯くん万能でしょ。あの人、何でもできるの。わたしはそうじゃない。つきあっててその差がわかるの。わたしだって颯くんが好きだった。ほんとに好きで好きでしょうがなかったの。だから、よけいにわかる。自分はダメだって…」
「……」
「颯くんには颯くんにふさわしい人がいい。もっときれいな人や、もっと頭のいい人…。とにかくわたしじゃない人。わたしはやっとそれに気づいたの」
「ちょ、ちょっと待て。颯の気持ちはどーなるんだよ。颯は今でもおまえが好きだぜ」
「颯くんは嫌いになっても自分からは絶対に言えない人。やさしいんだもん。やさしすぎる。でも、お母さんとか、家族の人は違うと思う。隆は颯くんのおうち見た?」
「あ、ああ…。まあな」
金持ちには金持ちがふさわしい。金持ちは金持ちとつきあえばいい。
これはおれ自身、何度も思ったことだ。
だが、この場合、それは言えない。
「とにかく、木村はどーかしてるワ。おまえ、けっこうイケてるし、国立ねらえるほど頭もいい。ドン臭くもない。そんなに自分を卑下するな。また、3人でおれんちで…」
おれはここまで言って、はっと気づいた。
美優は颯には「颯くん」、おれには「隆」。
その他人行儀はいつからだったのだろう?
「わたし、さっきも言ったけど、颯くん見てるうちに隆が好きになった。本当に自分が自然な自分でいられるの。隆にはそういう力があるの。何度も思ったよ。隆が先に好きになってくれてたらどんなに良かっただろうって。でも、そんな考え、ズルイよね」
「颯は信じてるぞ。あいつ、美優に好かれてるって信じてる。今の今でもだ」
「だから、もう、…会わない。二股じゃないよ。隆には最後に好きって言っておきたかったの。…もう、行くね。聞いてくれてありがとう」
「待て、美優。話は終わってねーだろっ」
おれは腕をつかもうとしたが、美優はそれを全力でふりきって走って行ってしまった。
いや、このままではいけない。
このままでは3人がバラバラになる。
突然、張り裂けるようなきしみ音がした。
同時に複数の大人たちの大きな叫び声。
(え?バカ、あいつ)
おれは公園から走り出た。
下には歩道があって、すぐ横断歩道があった。
そこに転がる見覚えある靴の片方…。
おれは心臓が冷たくなるのをはっきりと感じた。
うそだ、美優のはずがない!
いきなり、数人の大人に抱き止められた。
「そば行っちゃいけない。頭打ってる。ここにいなさいっ」
おれの中でわだかまっていた何かがはじけた。
おれは全身で叫んだ。
「行かせてください。おれの…おれの彼女なんですっ」


一報を聞いた時、颯はちょっとのあいだ人事不省になったらしい。
だが、これはヤツを女々しいと責められない。
おれ自身、あのとき大人たちに支えられていなければ、ズルズルとくずおれていたはずだ。
その後、ヤツはしばらく授業に出られなくなった。
朝来ると、フラフラと保健室ならぬ美術室に行く。
そして日がな一日そこにいて、夕方になると力なく帰っていく。
最初、みんなはそれをいぶかしんだ。
美優はおれのカノだと思っていたから。
だが、ヤツの焦燥を見ていれば自然にわかる。
やがてみんな納得し、同情した。
担任はおれに、そばにいて出来るだけ補佐するように促した。
そのとき、おれはすでにヤツの親友ではなかった。
ヤツはおれの得意分野、おれの希望、おれの未来、おれの愛する大切なものを次々に奪った。
神のように冷酷に、悪魔のように的確にだ。
これからもそうだろう。
もう、たくさんだ!
抜け殻になったのはヤツじゃない。
おれだ。
なにもかも失ったのもこのおれなのだ。
だが、おれは絶壁に爪を立てる思いで、学校での平静を装った。
ヤツほど弱くはない。
これはおれのプライドだった。
ヤツさえいなければこれほど苦しむことはなかった。
ヤツさえいなければこれほどもがくこともなかったのだ。
美優との最後の日以来、おれの中には単なる嫉妬や敗北感でないなにかが、急速に充満しつつあった。
それは狂おしい熱感をともなう衝動的な感情で、破壊と暴力、他罰と自虐、殺戮と自己破滅を示唆する、深い絶望のようなものだった。
人間はおそらく、この負の感情を圧殺したまま生きることは出来ない。
おれは俺自身を生きるために、ヤツを殺さねばならなかった。
担任は、ヤツを最も憎む者、ヤツの最も恐るべき敵を、善意でヤツの身近に置いたのだ。
おれはナイフを購入していた。
ドイツのメーカーのもので、鋼を丹念に折りたたんで、刀身には洗練された木目模様が刻まれていた。
繊細で、しかも非常に鋭利で美しく、なによりも刃物にありがちな陰惨で残忍なところがなかった。
ヤツを殺す凶器は、おれの美意識にかなったものでなければならなかった。


人を刺し殺した嫌悪感が、今頃になってやってきた。
おれはガクガクと震え、無意識に歯を食いしばった。
ササラのように刃こぼれした刃先が激しい凶行を物語っていた。
「球体は、さ」
2,3日前だったか、ヤツは言ったのだ。
「内部は豊かに満ちて、表面は張り詰めてる。物の基本の形であり、すべての立体を含有する」
「…うん」
おれは返事をしたが、ちょっと真意をはかりかねた。
美優が亡くなって以来、ヤツは不意にこんな哲学的な話をする。
「球は円満具足であり、充足の証であり、完全完璧を象徴するんだ」
ヤツはやせてとがった指をあげて、空中に円を書いて見せた。
「3次元空間に描くのに、円になる。厚みはあっても2次元の円なんだ。人間は永久に球体を描くことは出来ない」
おれはそのとき、ヤツがずいぶんやつれていたのに気づいた。
以前のおれだったら、もっと早く気づいてやれただろう。
「だから?」
「うん、おれたちは球体の似姿、~のようなもを描いているに過ぎない。擬似、欺瞞。つまり、それがおれたちの限界だってこと」
「ちょ、そんなこと言ったら、世の中やってけねーよ。っつうか、生きていけねーワ」
「そう。でも、おれたち絵描きは2次元で、造形家は3次元で、科学者や物理学者は4次元で、それぞれ真実に迫ろうとする。それぞれの真球にね。だけど、最初からそんなものはないんじゃないかと」
ヤツはそこで言葉を切って、細くなった指で何かをつかんで離すしぐさをした。
「おれは時々夢を見る。いつも同じ夢。暗くて広い空間でさ、おまえや美優や親や先生、友達たちもみんないて、鬼ごっこみたいにつかまえようとするんだけど、つかまらない。おれの手はどんどん、どんどん化け物みたいに伸びていって、しまいにとてつもなく長くなる。そのとき、気が付く。まわりには誰もいないんだって」
「つまり、ひとりぼっちってことか?おまえ、詩人になれるぜ」
おれは思わず笑った。
「だけど、そういうことは言葉にしちゃいけない。陳腐になる。おまえの夢のおれやその他の人は、おまえの言う完全無欠の球体であり、真実なんだよ。それを象徴してる。だから、つかまらない。なぜなら、おまえ、さっき言ったろ?おれたちは球体の似姿、~のようなもを描いているに過ぎないって。それが限界だって。だろ?自分で限界決めてちゃ、つかまるわけねーじゃん」
おれはこんな話はやめにしたかった。
単なる言葉の遊び、観念の遊戯に思えた。
そんなことで現実逃避かよ、いいご身分だワ。
「とにかく、そんなこと考えるのやめろ。アタマ狂うワ。颯、おまえ、紙一重んとこあるからな」


なぜ、こんなことを思い出したのだろう?
勝ち誇った興奮は去り、嫌悪の情も消えていた。
静かな虚脱感、真空のような虚無感がやってきた。
耳鳴りがする気さえした。
おれはそろそろとまわりを見渡し、机に突っ伏したままのヤツを見た。
ちょっと血を吐いていて、右手は握ったままだった。
何気なくそれを見て、おれは愕然とした。
鉛筆は真横に握られて、真っ二つにへし折れていた。
5本の指の爪はすべて皮膚を突き破り、肉の中に深く食い入っていた。
おれが傷つけることのなかった右手は血だらけだった。
颯は苦しかったのだ!

校舎と部室をつなぐ渡り廊下のあたりで音がした。
だれかが、こっちに来る。
だが、そんなことはもうどーでもいいことだった。
「おっ、いたのか」
星野が顔をのぞかせた。
いつもどおり、部屋に入ってこようとして先生は転んだ。
「いてー、リンシードか?拭いとけよ、ったく。あれ?絵の具か?」
6月近い夕方の、陰の濃い部室の中で星野先生は光のほうに手をかざした。
そして、一足飛びで壁の明かりをつけた。
それから先の先生の行動は、教師としてまことに天晴れなものだった。
おれをギラリと見て、手にナイフを持っていることを見てとった。
が、それを意に介さなかった。
先生は颯の首すじに触れて脈と体温を確かめ、もう、どうしてやることも出来ないことを悟ると、入り口をふさぐようにおれに向き直った。
「上松、おまえは丸腰の人間に刃物を持って向かうような人間ではない。よほどのことがあったのだと、先生は思う。だが、許されないことだ」
おれは黙っていた。
とっさに口がきけなかった。
「なぜ、川村を殺った?絵か?あの馬の絵か?」
「ああ!」先生はため息とも叫びともつかない声をあげて、近くのいすを引きよせて座った。
まるでよろめくようだった。
「よく聞け。おまえは絵では常にトップだ。それは先生も良くわかってる。他の追従を許さない、それがおまえだ。…こんなことをしなくても、今でもおまえは変わらずトップなんだ。わかるか?」
おれは少し身動きしたが、声は凍りついていた。
「上松はちょっとやんちゃで、思ったことをすぐ行動に移す。つまり、動的性格だ。だが、描く絵は実に、静なんだ。静かで繊細で情緒的だ。そして美しい。一方、川村はふだんは考え深くて穏やかだが、絵は力強い動なんだ。躍動し、流動し、荒れ狂い、寄せてくる。これが個性なんだ。内面の発露なんだよ。つまり、おまえたちはまったく違ったタイプの画家なんだ」
「おまえが川村の絵を見て将来に絶望したとしたら、大きな間違いだ。両雄は並び立てる。それがおまえらだったんだよ」
「おまえは川村の描いた馬を見て、仰天したかもしれない。だが、先生は造形的にはそんなにびっくりしなかった。彼の家にはガレージの隣に厩がある。お祖父さんはオリンピックで上位入賞を果たした人だよ。だから、馬は身近なものなんだ」
小坊の時の警視庁の馬。ヤツを慕ったあの馬…。
「なにもしてない。勝手についてきただけ」
ヤツはきっぱりと言ったのだ。
なんで気がつかなかったのだろう?
ずっと友達だったのに、おれはヤツについて何も知らなかったんだ。
「上松、先生は先生失格だ」
突然の言葉に、
「えっ?」
おれは頭を振った。
「なにそれ?関係ない。先生には何の関係もない」
「ちがう、関係ないどころじゃないんだ。おれはおまえが友達を殺すほど悩み苦しんでいるとは思わなかった。気付いてやれなかったんだ。おれはおまえをいつも見ていたのに」
「そうじゃない、先生。絵だけじゃない。それだけじゃないんだ。いろいろあったんだよ。とにかく、おれは颯がいたらダメなんだ。颯はあまりにも優れてる。恵まれすぎてる。何でも楽々とこなせる。おれは太刀打ちできない。これからの人生、颯がいるかぎり、不満と絶望しかないんだ」
「バカッ、生意気言うな!」
星野先生は立ち上がって、両手を広げて近づいてきた。
おれは先生を傷つけないように、ナイフを持った手を後ろに回した。
先生はおれをギュウ~ッと抱きしめてくれた。
タバコと絵の具の臭いがした。
「わずか、15,6のくせに人生を語るな。人生はおまえが思うよりもっと複雑で、荒々しく、嘘偽りに満ち、困惑や懐疑や罠だらけだ。だが、やさしく、暖かく、美しいものでもあるんだ。おまえらが人生を語るには10年早い」
「それはちがうよ、先生」
星野先生ともこんなに話したことはあっただろうか。
「おれ、小学校1年の時、友達と学校の屋上に寝たんだ。澄んだ秋の天気のいい日で、空が真上に見えた。その時、思ったんだ。みんな、空ははるか上にあると思ってる。それはちがう。こうして見ると空はここから、目の前からすでに空なんだって。だから、人生だって同じだ。社会に出なくたって、親に守られてたって人生は人生なんだよ。生まれた時からみんな、それぞれに人生なんだ」
先生は苦笑した。
そしておれの髪をクシャクシャになでた。
おれは身長がすでに170センチを越えていたから、星野先生との体格差は10センチもなかった。
それでもおれは先生の腕の中で小さく幼くなっていく気がした。
「上松、おれは一本とられたよ。おまえ、ちっちゃいときからすげーこと考えてたんだな。おまえ、頭いいワ。だが、そんなに頭がいいおまえがなぜこんなバカなことを?おまえは自分の無垢の人生に自分で傷をつけたんだ」
おれは現実に引きもどされた。
そうだ、おれは償いをしなくてはいけない。
「警察を呼ぶぞ。おれも出頭する。教師としての責任は重大だ」
「なぜ、わかんないの?」
おれは身を振りもぎった。
「先生には責任はない。絵だけじゃないんだ。うまく言えないけど、本当にいろんなことが原因なんだ。おれがこんなことをして、先生はむしろ被害者なんだよ!」
「そんなこといわれて、おれが、あー、そうですか、じゃ、あとはよろしくお願いします、とでも言うと思ってんのか?バカ!」
どこかで聞いたようなせりふだった。


夕映えのガラスの反射が落ちていた。
おれは颯を見た。
髪も皮膚もまだ生き生きとしていたが、じっと動かない体はもう、いつものヤツじゃなかった。
ああ、美優。
哀しく狂おしい思慕の情が、またおれを襲ってきた。
美優を失って以来、この狂気のように乱れた熱情は、くりかえし暗い波頭のようにおれを翻弄した。
それは激しい怒りと憎悪、破壊衝動に他ならなかった。
おれは幾度となくベッドをころげまわり、床に落ちて執拗に頭と体を打ちつけ、壁を叩きつけて指や手首を痛めたのだ。
おれは憎しみが実際に、胸の痛みや呼吸困難を伴うことをそのとき初めて知った。
颯さえいなければ、美優も死ぬことはなかったのだ。
颯さえいなければ、美優はおれのカノだった。
颯さえいなければ、すべてが円満だったのに…。
だが、おれもやはり常識のくびき下にいた。
怒涛のような殺意、狂うような怨念のただなかにあって、おれはなお、それを手なずけ意識下に封じ込めようと努めた。
それがどれほど困難だったろう。
苦悶のあまり、一時期、水さえ受け付けなくなった。
水を含むとすぐに吐いてしまう。
親たちは心を痛めていた。
親父は出勤前と帰宅後に必ずおれの部屋に顔を出しておれを確認した。
おふくろは食卓をおれの好物で満たした。
うなぎと蒸しあわび、フォアグラをのっけた黒パン、伊勢海老にはさんだマンゴスティン、そんな小生意気なぜいたく品がサラダや食前酒に混じってならんだとき、おれは声をあげて泣いた。
やさしく善良な人たち!
だが、おれはもう、彼らとはあまりに隔たっていた。
ヤツを殺すか、自分が死ぬかだった。
荒ぶる心が次第に倫理を侵食し、理性を解体し、法秩序を嘲笑しはじめていた。
そしておれはチャンスを待ったんだ。


美優。美優。美優。美優。
おれはほんとはこんなにも美優が好きだったんだ。
なぜ、もっと早く気付いてやらなかったのだろう?
「たりーよ。女なんか」
おれが不用意に幾度となく言ったこの言葉を、美優はどんな気持ちで聞いていたのだろう。
おれのバカ!
おれは本当に大バカ者だ。
失ってから大切なものに気付く。
取り返しがつかなくなってからいくら渇仰したところで、失われたものはもどらないのだ。
このおれが、このおれが、もうすこしやさしい敏感な心を持っていたら…。
(え?)
意識の奥底で何かが動いた。
このおれ?
そうだ、このおれ。
(いや、そうじゃない)
すぐに否定した。
だが、一度意識にのぼった小さな疑惑はじりじりと拡大し、汚点のように広がりつつあった。
「電話しに行く。上松、いっしょに職員室に来い」
いきなり、星野先生の声が聞こえた。
自分の中に沈殿していたおれはハッと顔を上げた。
「ちょっと、待って」
おれはとまどい、無意識のうちに拒否していた。
頭をかきむしりたい気がした。
このボタンを掛け違えたような、妙な違和感。
おれの中から何かが生まれてくる気がした。
いや、以前からあった。
おれはそれを黙殺し、強引に封じ込めてきたのだ。
それに気づいてしまった今、それを究明しなくてはならなかった。
おれ自身のためにも。
「先生、おれ、今、なんか重大なことをまちがえた気がする。なんだろう?…わからない。でも、わかりたいんだ。一人の時間をください。おれは逃げも隠れもしない。少しでいいんだ」
ほんとうに無理な要求だった。
こんな言葉に同意する大人なんかいない。
逃げる気か、きっとそう言うだろう。
おれは自分で言いながら、自分の言葉の身勝手さにあきれた。
「…そうだな…」
だが、先生はおれの様子をじっと見てから言った。
そして、真剣におれの目の中を見た。
おれも必死で見返した。
先生の心の中の葛藤が、まざまざと見える気がした。
それでも先生は壁の時計を指した。
「いいだろう。あと33分で7時になる。それまでよく考えろ。7時になったら電話する」
先生はおれを信じてくれたんだ。
「必ず、来いよ」
そしてそのまま、振り向きもせず出て行ってくれた。
おれはその背中がひどく疲れているのを見てとった。


心は再び美優のもとに帰っていく。
美優のささやかなしぐさ、ちいさく優しい言葉、ほほ笑みや笑い、ちょっとした困惑など、思い出すたびにおれはほっこりと暖かくなれる。
ほんのり甘くて、なんとなく切なくて、ちょっともどかしい中間色の感情。
ぬるま湯のような感傷。
そのなかで、今、なにかが覚醒しようとしていた。
最後に会った日、美優は泣いていた。
泣かせたのは颯だ。
美優を苦しめたのは颯だ。
颯がしっかり受け止めないから、美優が無駄に悩むのだ。 
おれは沸騰する激情とともにそう思ってきた、今の今まで。
ほんとうに、そうだろうか?
あの時、美優がおれを好きだといってくれたあの時、おれも確かに美優が好きだった。
その美優をなぜ、泣かしてしまったのか。
それは…。
おれは頭を振った。
この期に及んで、おれはまだ自分自身を直視したくなかったんだ。
おれの中の醜悪なもの、おれの中の汚い卑怯な部分、おれの触れたくない弱点がしだいに形をあらわしてきた気がした。
おれは一番でなければいやだった。
颯の前におれを好きになってくれていなければダメだったんだ。
颯を見ているうちにおれを好きになったと美優は言った。
それが最悪なんだよ、美優。
それじゃ、颯がおれの前に立ちふさがることになる。
そんなの、おれが受け入れると思うか?
あの時、おれの心はねじれ、曲がったんだ。
正直、好きだって言われてうれしかった。
おれの本心は美優にむかって、おれも好きだと告白していた。
それなのにおまえをののしったんだよ、美優。
おまえがおれの腕を振りほどいて走ったとき、おれは本気で止めていたのだろうか?


すべてはおれの責任だった。
嫉妬とゆがんだプライドと言うなら言え。
颯に向けた、あの狂気じみた憤りと憎しみは本来、おれ自身が受けるべきものだったんだ。
弱くていい加減なおれは、その肝心な部分から逃げた。
無様で、卑小で、卑怯なおれ。
颯の親友を気取っていたのに、その実、何をしてやっただろう。
おれはいつも、ヤツが恵まれすぎていることをねたみ、能力や才能をそねみ、楽しげにみんなの中心にいることをひがんできたのだ。
たとえそれが無意識だったにせよ…。
そして、おれは気付いてやらなかった。
颯の孤独に。
あまりにも優れ、あまりにも多くを持ち、あまりにも突出しているがゆえに、愛するものですら離れていく現実に。
颯は2,3日前に言ったのだ。
追い求めても幻想にすぎない円満具足、描いても実態には迫れない球体、つかもうにもつかめない身近な人々…。
颯はひとりぼっちだったんだ。
たぶん、狂うほどに。
追い詰められた颯はおれに内面の苦悩を吐露した。
颯のあの夢は、今、思い返しても深々とさびしかった。
だが、おれはそれに対して何をした?
イラつき、冷笑し、無残に話を打ち切ったんだ。
おれは何ということをしたのだろう!
おれは人として完全に負けたのだ。
………。
「颯…」
おれは小声で呼びかけてみた。
「ああ?」
と、返事して、起き上がる気がした。
「ったく、寝ちまったワ」
いつものように笑いかけるはずだった。
だが、颯は静かにそのままだった。
おれはおずおずと手を伸ばした。
ふれた頬は、5月末のこの時期にしては驚くほど冷たかった。
かかえこむようにした画板に、颯の最後のデッサンがのこっていた。
6Hというおそろしく硬い鉛筆で描いたガラスの球体。
脆くて、はかなくて、悲しげで、まるで消えるまえのシャボン玉だった。
そのとき、おれははっきりと悟った。
颯は、おれよりはるかに美優が好きだったんだ!
美優に恋焦がれる颯の喪失感、絶望感、落胆や悲哀、寂寞や愛惜の情。
タッチはかきむしった爪あとそのままだった。
もだえ苦しむ颯は、文字通り命をけずったのだ。
おれにはできない。
これほど激烈に人を愛し、これほど真剣に人を思慕し、これほど無垢に希求することは!
大人たちは正しい。
「完璧な人なんていない。ほんとうに恵まれた人なんかいない。みんなそれぞれ欠点や悩みを抱えてる。それが人間。それが人生」
そのとおりだったんだ。


「殺人はいけない。人を殺してはいけない」
大人たちは言う。
それなのに、なぜ人を殺してはいけないか、それを明確にいい切れる大人は少ない。
おれは大人じゃないけど、今のおれなら言える。

人を殺してはいけない第一は、他人の持つ時間を断ち切ることになるからだ。
時間こそ、すべての人々に平等に与えられたものだ。
どんなに金を積んでも「おれの時間が一日、48時間になった」というバカはいない。
いたとしたら、それは比喩で、時間の価値を言っているに過ぎない。
おれは時間こそ、完全完璧であり、円満具足なのじゃないかと思うんだ。
あらゆる未来、あらゆる可能性、善も悪も、幸も不幸も、プラスもマイナスも、時間は内包する。
過去から未来へ流れる時間の中で、おれたちは現在のこの一瞬を基点として、~になることも、~にならないこともできるんだ。
時間はその究極の自由すら含有する。
一人ひとりの持つ、その完全無欠の時間を他人が左右していいものだろうか。
殺人は不遜であり、最悪の強奪なのだ!

第二には、憎むべきエゴだからだ。
殺人者にあるのは自分だけだ。
自分の怒りや憎しみ、誤解や嫉妬、欲望や甘え、絶望や自暴自棄。
それに翻弄され、押しつぶされ、周りや他人など考えてやる余裕もなく、自分だけが追いつめられ、ついに逃れるすべを失ったと感じた時、殺人は発生する。
少なくともおれはそうだった。
だが、それがどれほど身勝手なことか!
善悪なく無反省に自分に盲従する、この狂った最低のエゴイズムを、おれたちはあまりに安易に考えてはいないか?

そして第三は、もう、明白だ。
死ぬことは決して楽ではないのだ。
颯を見ろ。
颯の右手を見るがいい!
死の瞬間の恐るべき苦悶を刻んだままの右手がすべてを物語っているんだ。
人間は死を恐れない。
ただ、死の苦しみを恐れるのだ!
これは生きとし生けるものすべてに言える。
罪なくして保健所に送られる小さな子猫も、食用にされる大きな牛馬も、その瞬間まで、なお生きたいと望み命を愛惜しむのだ。
死は生物にとって最大の恐怖であり、極限の苦痛なのだ。
これを他者に与えることが罪でなくしてなんなのだ!


おれは本能的に知っていたんだ。
命をもぎとられる苦しみがどんなものか…。
知っていたからこそ意識的に、死は軽微で取るに足らず、たやすく造作なく、安易なものと思い込もうとしたのだ。
自分自身の精神の安定のために。
颯を殺したのは代償行為に過ぎない。
おれは本当は、おれを殺さねばならなかった。
最初からそうすべきだったんだ。
臆病なおれは、なんと愚かで冷酷な間違いを犯したのだろう。
おれが殺したいほど憎んだのは、おれ、このおれ自身にほかならない。
あの時、美優を引きずってでも止めておくべきだったあの時、おれは易々とそのチャンスを逃した。
その結果がどうだ?
おれは愛する者すら守れないへタレだった!それが赤裸々に晒されたんだ。
いくら悔やんでも、もう、取り返しがつかなかった。
その時点で、おれはおれをぶち殺してやるべきだった。
それなのにおれはすべての責任を颯に転嫁した。
おれの身代わりとして颯を嫌い憎み、おれへのいけにえとして颯を殺したのだ。
それほどまでにしても人間は、自分自身を欺くことはできない。
カッと全身が熱くなるのがわかった。
煮え湯を飲むような苦渋がよみがえって、おれは凶暴に机をたたきつけた。
そのとき、まだ右手にナイフを握ったままだったことに気づいた。
星野先生はやっぱり動揺していたんだ。
おれからナイフを取り上げるのを忘れてた。
おれはシャツを引き裂くと、肋骨の隙間をさぐった。
鼓動が高鳴るのを感じた。
このまま床にぶち当たればいい。
自殺と殺人とは違う。
自殺はおれ自身が望むのだ。
この究極の同意にはなんぴとたりとも口をさしはさむことはできない。
ジタバタとバカげた醜態を演じたおれ、人類最悪の罪を犯したおれは、もう、消え去るべきだった。
「必ず、来いよ!」
身構えた耳に、いきなり星野先生の声が聞こえた。
びっくりしてよろめくほどの大声だった。
「ダメなんだよ、先生」
幻聴で、だれもいないとわかっていても、おれは口に出して言った。
「約束は守れない。ごめん、ほんとうにごめんなさい。先生がくれた時間で、自分がどんなにまちがった人間かわかったんだ。いなくてもいい人間、いてはいけない人間っているんだよ。それがおれだったんだ」
「必ず、来いよ」
もう一度、今度はささやくようだった。
おれは入り口を見たが、やっぱり誰もいなかった。


途切れた空白が生まれるのがわかった。
おれがここで死に、職員室に行かなかったら星野先生はどうなるだろう?
おれに示してくれた先生の理解と信頼、善意の寛大な処置はどのように曲解されるだろう?
すぐに警察に通報しなかった罪、おれを現場にひとり残した間違い、ナイフを取り上げ忘れた過失、なによりも殺人者を信じた甘さ…。
警察も、マスコミも、学校も、父兄も、世間も、こぞって責めたてるに違いない。
教職を追われるかもしれなかった。
これほど教育者に適正のある先生が、ののしられ、誤解され、不適格者の烙印を押されて排斥され、追放されるんだ。
そんなことは断じて許せない!
今度こそ、正確な判断をくださねばならなかった。
さんざん間違えて、ここまで罪を重ねてしまったおれが…。
暗くて獰猛な衝動に、もう身をまかせてはいけなかった。
「逃げも隠れもしない!」そう言いきった口の下から、おれは何をしようとしてるんだ!
偉そーに啖呵を切っておきながら、また逃げ道をさがしてた。
おれはやっと覚悟を決めた。
それでも涙が出た。
「先生、ひどいよ。おれは死にたいのに。やっと死ぬ気になったのに…」
駄々っ子のように、おれは泣いた。
だが、先生を裏切ることはできない。
いなくていい人間、いてはいけない人間のはずのおれが、先生の正義を証明するために存在しなけりゃならないなんて、なんという皮肉だろう。
それでも大切な星野先生を窮地に立たせることはできないんだ。
颯の両親もおれが死ぬことは望まないに違いなかった。
生きて、悔恨と内省にもだえる日々、罪を忘れず颯を弔い続ける人生を求めるに違いなかった。
そう、それが正しいのだ。
約束の時間がせまっていた。
おれは絵の具をふき取るきれいなタオルでナイフを包んだ。
同時におれ自身を殺す決意も封じ込めた。
死ぬのは今じゃない。
颯を償ってからでいい。
そのためにおれは今しばらく、おれ自身の命を預かるのだ。
空に紺色の闇が下りはじめていた。
とてつもない大罪、考えられない間違いを犯してしまったおれ。
だが、許されるなら、今こそ素直に言える気がする。
颯、おれのかけがえのない友達。
そして美優、はじめてのおれのカノ。


渡り廊下から見える暗くなった校舎に、たった一つ明かりがついていた。
星野先生の待つ職員室の明かりだった。




40行30文字 原稿72

「友だちを殺した」(なぜ、人を殺してはいけないか)

「友だちを殺した」(なぜ、人を殺してはいけないか)

おれとヤツは古い友達だ。おれは能力は人並みたが、絵だけは才能を持っていた。一方、ヤツは大金持ちで勉強や運動もでき、容姿端麗で絵も上手かった。大人の言う『完璧な人なんていない。ほんとうに恵まれた人なんかいない。みんな欠点や悩みを抱えてる。それが人間。それが人生』は嘘だ、おれはそう思ってた。おれたちは同じ都立高に進み美術部に所属した。やがて、ヤツに彼女ができた。おれとヤツは美術展に出品するため絵を競ったが、このとき得意分野の絵でもヤツに負けた。おれが誇りを失った矢先、ヤツの彼女に本当はおれが好きだったと告られた。おれは毒づき、走り去った彼女は事故で亡くなった。狂気と憎悪はヤツに向けられ、おれは葛藤の末、ヤツを刺し殺した。現場に来た顧問の先生から時間をもらい、初めて颯の孤独と『完璧な人間などいない』ことを悟った。同時になぜ殺人が人類最悪の罪かという厳粛な3つの理3つの理由に思い当たった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-03-23

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著作権法内での利用のみを許可します。

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