「明日、シーラカンスはペンギンの夢を見る」

「明日、シーラカンスはペンギンの夢を見る」

深い深い海だった。

彼は小さい頃から無い物ねだりばかりしていた。それは向上心や上昇志向の類のものとは全く違う、今の自分がまさに手に入れてないものに対する執着であり、現実に対する不満足のようなものだ。それに対する努力や忍耐力も持ち合わせていないことも付け加えておかなければならない。ただ彼は無欲であった。血糖値が下がりきらない程度に飯を食い、気が滅入らない程度には娯楽を楽しんだ。友達や恋人といった類のものとは無縁であったが、パソコンを開けば退屈しのぎ程度に交流ができる人は常に確保していた。朝目が覚めるとコップいっぱいの水を飲み、顔を洗う以外は常に狭い部屋で思索に明け暮れている。頭のどこからかチクチクという頭痛を感じ始めると布団に潜り込みまた朝を待つ。

そう彼は現実の世界には生きていない。
彼は深い深い海の中に住んでいる。
深い深い海の中に。

彼は待っているのは朝だけではない。彼はあろうことかこの世界から飛び立つことも待っていた。待つという表現を採用するのは不自然なことではあるのだが、彼はただ待っていた。この光すら申しわけ程度にしか降り注がない深い深い海の底から彼は飛び立ち大海原を羽ばたいてみたいと考えていたのだ。彼は幸いとても優れた視力を持ち合わせていた。彼の目には空に羽ばたく自分の憧れたちを毎日映し出していた。ひらひらと、もしくはすいすいと自由自在に動き回る憧れの彼たちが彼の憧れであった。おそらく触れることすらできない景色の住人。彼はいつか自分もあのようになってもいいのではないかと考えながら現実に目蕩んでいた。

彼と憧れの彼との違いはなんなのだろうか。
憧れの彼に努力をしているそぶりは見当たらない。
そのような点から彼は自身が努力する必要はないと感じていた。
いつか、いつか大海原へ。

コップいっぱいの水を飲む。パソコンの画面に打ち込み飽きたパスワードを入力すれば見飽きた待ち受け画面が現れる。半ば無意識にブラウザを開けば自分は知りたいことがあるから検索をするのか、いや、検索をしないといけないから知ろうとするのか。考えようとしてすぐやめた。なんてどうでもいい思索なんだ。一欠片ずつ小分けに包装されたもののうちの一つのチョコレートを口に入れる。苦味も甘みも香りも気にはならない。そもそもチョコレートにおいての美意識も持ち合わせていないので、たとえ世界一ありがたいチョコレートを食べたとしても何をどう感動していいのか分からないんじゃないか。何より私はチョコレートに対して味を含めた多幸感を求めていない。この一つ一つ包装されたチョコレートは手が汚れず、口の中に入れると数時間は生きていられる。私はチョコレートを食べているというよりも、元々は量が多く一人で扱うにはいささか面倒な時間というやつを食べてるのではないかと考えている。ひとつあたり4時間といったあたりか。1日6つもあれば生きていける。時間を小分けにして今日も網の海に潜り込む。

深海にふりそそぐ、空の記憶
終わりだと思っているんでしょ?
つながってるんだよ。ここにいるよ。
真っ暗な世界で、ほんのすこし
届けばいいのにふわりふわり

マリンスノーというらしい。生物の死骸などが分解されながら深海にふりそそぐ現象のことだ。私たちにとってはそれは重要な栄養源になり、ある意味では私たちも生物循環に貢献しているだと思う。この口はなんのためにあるのだろうか。この目はなんのためにあるのだろうか。このひれは、筋肉は、この、命は。ただふりそそぐタンパク質を摂取するだけの毎日。いつ頃からかそういうことに全く興味がなくなってしまった。何ヶ月も食べなくても十分に生きていける。そのくらいエネルギーを使うイベントがないのだ。ただ揺蕩うのみ。必要以上によく見える目を使いひたすら上を眺める日々。時間が要らない。時間が邪魔だ。毎日毎日憧れの彼になれないと考えている時間が要らない。邪魔だ。私だって大海原を自由に飛び立ってみたい。私だって。本当はもっと時間を使いたいんだ。要らないなんて嘘だ。邪魔なんて嘘だ。欲しい。時間が欲しいという時間が欲しい。
背中の方にドシッと何か感触があった。何かの骨であろうか。興味はない。

たとえ限りなくゼロの確率でも
僕は君の手の中で起こる奇跡を信じたい

検索することがなくなると必ず検索してしまうことがある。「生命 なぜ存在する」「生命 起源」「生命 理由」。おそらく理由が欲しいのだろう。自分が存在する意味、権利、そういった類の他の言葉で表されるべきもの。この世界に僕がいなければこのようなことを考える必要はなかったわけだ。ということは当然、僕が生まれたことに意味があるのではないか。意味があった方がいいに決まっている。少なくとも僕にとっては。
「生命 確率」
おぞましい結果が出てきた。地球上に生まれる確率はゼンマイ仕掛けの時計をバラバラに分解し、その部品を海にばらまき、その部品たちが再び一つの所に流れつき、一つの時計の形に組み合わさり再び時を刻むのと同じ確率ということだ。僕がここに存在するのは限りなくゼロに近い奇跡だ。奇跡。嫌いな言葉だ。この言葉はどういうわけだか期待してしまう。奇跡は僕の力ではどうしようもないところで生まれるから奇跡と呼ぶわけで、こういうものを信じることに本当に意味はないし、決して信じてはいけないものだと考えるからだ。しかしながら自分自身がその奇跡という巨人の肩の上に座っているとなると話が難しくなる。期待してしまう。期待してしまう。そいつはいけない。
ちょうどいい具合に頭がチクチクとしてきた。僕は服を着替え暖かいお湯を飲んで布団に潜り込んだ。

聞こえない、聞こえない、聞こえない、見えるのに
どんどん大きくなる自分の耳は世界を覆ってしまうんだ

彼は新しい趣味のおかげで時間をそこまで邪魔だと思わなくなっていた。とめどなくふりそそぐマリンスノーの中でも大きいものを集めて気にとどめておくようにし始めた。中でも骨を熱心に探し集めた。一つ一つは十分に小さく無価値なものに見えるが、彼にはこれがいつか一つに組み合わさり何か素敵なものになると思えて仕方がなかったのだ。むしろ、これを全て集め終わり繋ぎ合わせるとどのようなものになるのだろうと考えるだけで愉快になり、今まで要らない、邪魔だと忌み嫌っていた時間すら惜しくなるほどであった。彼は一つの確信があった。この骨を最後まで全て集めると、きっとこれは憧れの彼になるのであろう。そう思えて仕方がなかった。自分が作り上げる憧れの彼を自分の友達にしようと考えていたのだ。そして自分もあの大海原で自由に飛び回る。そういう口利きをしてくれたっていいと考えていた。自分が憧れの彼とあの遥か上の大海原で飛び回っているところを想像すると無謀と思われるこの趣味も楽しくて仕方がなかった。
よかった。彼は生きる意味があったのだ。これで彼は生きていける。もう思い残すことは何もない。たとえこれが最後の奇跡だとしても。

深い深い海だった。
何もない海だった。
それなのに。
彼は幸せになった。

別に何も不満のないこの狭い部屋のことを深い深い海の底なのではないかと考え始めてからしばらく経った。この部屋で僕が何もしないでいれば一体誰に迷惑をかけるというのであろう。迷惑というよりも無意味なことだ。無意味。孤独。どちらも特段避けなければならないことではない。なければどうということでもないものの大半はあってもどうということもないのだ。
「シーラカンス」
なんとなく深海魚のイメージで検索をしたが実は全てが深海魚というわけではなかった。知らなかった。知ろうともしていなかった。あんなに何回も夢の中では深海にいたのにも関わらずだ。彼は幸せになった。彼はいつも遥か上の方に優雅に飛び回るペンギンに憧れていた。彼はペンギンのことを鳥だと考えていたのだ。彼は頭が悪いわけではないのだが、それでもその海の上には天井のない空気で満たされた空というものがあるところまでは思索が及ばなかった。その点は彼の愚かな点でもあるかもしれないが、私が全てのシーラカンスが深海に住んでいるわけではないことを知らないばかりに、夢の中では常に深い海の底ばかりを思い浮かべていたことと比べても優劣つけがたいというものだ。彼が深い深い海の底から解放することができないのは私に原因があったのだ。
よかった。救われた。私はまた一つ解き放たれたのだ。おそらくこういうことをこれから何回も繰り返すのだろう。新しいことを知るたびにそれをこっそり宝箱のようなところに隠しておき、思いついた時にそれを組み立てる。ある日、その集めた知識が一つになる時こそ私が生きる意味があったのだろう。
言葉が生まれた。目の前のパソコンは検索してくれと枠をこちらにあられもなく開けて待ち構えているが、思うところがあり紙と鉛筆を取り出し言葉を並べ始めた。

空蒼く見える 冷たい街の景色
ほろようサカナは 部屋に眠り
ヒントを忘れて 冬も越せぬ

彼はそこまで書き終えるとその紙をなるべく細かく破り、千切り始めた。そこには彼なりの確信があったのだろう。
いつかこの紙がなんらかの形で一つになる時、その時こそが本当にこの文章が完成する時なのだと。

「明日、シーラカンスはペンギンの夢を見る」

fin.

「明日、シーラカンスはペンギンの夢を見る」

「明日、シーラカンスはペンギンの夢を見る」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-03-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted