逃げられる

 まさかドラマでもあるまい、という事が現実には起こったりする。
 会社員太郎さん(営業職 三十代)がある日帰宅すると、妻と子が荷物もろとも姿を消していた。彼が出張するのを狙って、出て行ったらしい。しかも悲劇はそれで終わらない。傷心の彼に追い打ちをかけるように、妻は持ち出したカードで買い物を続けていた。気づいた時には、かなりの金額を使われていたらしい。
 これはまた筋金入りの鬼嫁、という気もするが、夫婦の事は他人に決して判らない。妻を鬼にしたのは、他ならぬ太郎さんかもしれない。ちょっと怪しい、と思うのは、太郎さんに「前科」があるからだ。
 彼が結婚した時、同僚たちが一人千円ほど出し合って、お祝いを渡した。さすがに内祝いは大袈裟なので不要だろうが、新婚旅行のお土産すらなかったという。
 一人あたり千円のお祝いなんて、される方が迷惑、形ばかりのご祝儀で貸しをつくられてはたまらない、と反発を覚える人もいるかもしれない。しかしそこは職場というムラ社会、出した方も「ただでさえ今月は物入りだけど、付き合いだからしょうがない」という人が何割かいただろうし、形ばかりの礼を尽くしておくのが今後のためだろう。
 まして太郎さんは営業職である。言葉の使い方一つだけでも、人の気持ちが左右されることを身にしみて知っているはずだ。言葉ならぬ金品のやりとりがあった場合は、なおさらである。そこを平然とスルーできるというのは、図太いというか、少し鈍感すぎるかもしれない。
 そんな彼との毎日の暮らしである。逃げた奥さんにも何か、言いたいことがあったのではないかと思う。
 どうしても配偶者と別れたくなった時、いきなり黙って逃げようとする人は少数派だろう。まずは話し合いを、というのが通常の段取りである。相手からの暴力など、生命の危険がある場合を除けば、黙って逃げようとする人は、話し合いなど無理だと、最初から諦めている。それだけの絶望を、日々の生活の中で積み重ねてきたのだろう。

 もう一人、妻子に逃げられた男性がいる。次郎さん、同じく三十代の自営業。
 彼は二年ほど、仕事の関係で故郷を離れて過ごしていた。その時に妻の花子さんと知り合い、すぐに結婚した。周囲からはもう少し落ち着いてから結婚すれば、との助言もあったが、ちょうど故郷に戻る予定が決まった時期でもあったので、それに合わせるようにして籍を入れ、妻を伴って帰郷した。
 すぐに子供にも恵まれ、新生活は慌ただしく過ぎてゆく。しかし、次郎さんにとって予想外だったのは、花子さんが家事全般をやりたがらない事だった。最初のうちは、子育てが忙しいのだから、と自分に言い聞かせていたが、やはり何かが違う。いや、子育てからして超手抜きの、ぐうたら女房だ。
 しかし、次郎さんは正面きって妻に説教できるタイプではない。おまけに自分の収入がかなり不安定な事も、事態を黙認する方向へと彼を導いた。
 ここまで、花子さんにとって随分ひどい事を書いたが、あくまで次郎さんサイドからの証言だと断っておく。
 次郎さんの収入を補うため、花子さんは子供が少し大きくなると保育所に預けて、パートに出た。ところが、これをきっかけに夫婦の溝は深まってゆく。すれ違いの時間が増え、働いていることを理由に花子さんは更に家事をなおざりにする。家の中は荒れ放題、会話も必要最小限となってしまった。
 その頃には次郎さんも、自分の結婚が失敗だったと悟り、離婚を考えはじめる。しかし問題は子供である。彼は絶対に我が子と離れたくない。しかし妻もこれに関しては一歩も譲らないはずだ。
 そしてある日、花子さんはいつも通り車でパートに出たきり帰ってこなかった。ただの外泊だろう、という気もしたが、そうではない。身の回りの品がごっそり消えていた。
 翌日、次郎さんは子供を保育所にあずけて仕事に出た。妻がいなくなって、いっそさっぱりした気分すらした。我が子を置いていくような女など、出て行ってくれた方がありがたい。
 しかし、何か胸騒ぎがする。
 次郎さんは仕事を早めに切り上げ、保育所へと向かった。そんな馬鹿な、と思っていた事が、自分の目の前で起きている。逃げたはずの花子さんが、我が子を迎えにきていた。
 彼の姿に気づいた妻は、すぐに子供を抱きかかえて車に飛び乗り、エンジンをかける。次郎さんは慌ててその前に立ち塞がり、叫んだ。
「逃げるなら俺の屍を越えて…」
 思いっきり、はねられた。
 幸い、次郎さんは軽傷ですんだが、花子さんはそのまま我が子を連れて逃走した。その後二人の間には離婚が成立し、花子さんが子供の親権を得た。
 花子さんの心の中に何が堆積し、何をきっかけに引火したのか、色々な想像はできるが、真実は判らない。ただ彼女もまた、話し合いなど何の解決にもならないと、実力行使に出たのだ。
 
 この二組の夫婦、妻と夫のどちらが有責かなどと考えても意味がない。ただ、興味深いのは、太郎さんも次郎さんも、妻子に逃げられてから何年もしないうちに再婚している、という事実だ。もしや、先に新しい女ありきでは?という指摘もあるが、一切は不明である。
 ともあれ、たった一度の結婚でも、そう簡単にできない人がいる一方で、このように易々と新しい伴侶に巡り合える才覚は大したものだ。まさかもう一度、逃げられたりしないとは思うが。

逃げられる

逃げられる

ある日帰宅すると、妻と子が荷物もろとも何処かへ…

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-02-20

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