私の戦争体験

 私は真珠湾攻撃(1941年)の翌年に満州の新京(長春)で生まれ、終戦(1945年)の翌年に家族と共に内地(日本)に引き揚げてきた。引き揚げ前の2,3歳のころを70年過ぎた今でも思い出す。
 新京の冬は積雪がなくてもどこもかしこもツルツルに凍るので、兄たちは「桜木小学校」の校庭や家の前の大通りでスケート遊びをする。私は転ばないように用心して立って、兄たちを見たり空を見上げたりする。ある日には青く晴れ上がった空にキラキラ輝く点々が現れたとおもうと、それは地上に近づいて落下傘になった。私の家が有る街には兵隊さんが沢山いた。目の前を小部隊、大部隊の兵隊達が隊伍を組んで行進していった。町にサイレンが鳴る度に家族全員は庭に掘った防空壕に避難しようとして粗末な階段を下りていく。板の扉を閉めると中は真っ暗になって恐かった。身を寄せ合いながら固唾を呑んで空襲警報が解除されるのを待った。
 父の歯科診療所には治療を受けるために毎日数人ずつの兵隊がドカドカと入ってくる。ある時彼等が横に並んで椅子に座っているところをソッと覗いたら、兵士の一人が私を手招きして膝に抱き、腰から拳銃を取り出して触らせてくれた。母に関東軍兵士かソ連軍兵士かのちに聞いておけばよかったが、記憶では顔からして外国兵だったと思う。私には悪い人達でないように思えた。しかし、母は恐れて毎日早めに診療所の玄関を閉めようとした。この頃は日本人に召使として使われていた満州人(まんじんと呼ばれていた)は次第に解放されて、逆に日本人の家に物取りに押し入るようになったので、それも恐かったのだ。
 そのような状況下で一家は数枚の写真だけ持ってあわただしく家を出た。私には何が起こったか分からない。「ハイセン」、「ヒキアゲ」などの言葉を時々聞きながら母親について行くだけである。母は弟をおんぶしたので、3歳だった私は母と手をつないで歩かなければならない。私より4つ上、8つ上の兄たちはリュックを背負い、後になり先になりして父と歩く。私は「歩かなければ置いていくよ」と言われていたので、足にマメができても、痛い足の裏を地面につかないように横にしたり、かかとだけで歩いたりして我慢した。各所で体全体、服の中までも真っ白になるほど、強い匂いのする粉薬(DDT)を噴霧されながら、長い長い道のりを歩いた。やっと乗り物に乗れたが、中がうす暗い貨物列車で、停車する度に梯子を昇り降りして外にでた。森や野原や畑で大小便をし、深呼吸をしていい空気を吸ったらまた列車に戻るのだ。これを繰り返した。一旦停車すればなかなか動かない。列車の旅もうんざりするほど長い時間がかかり、そのうえ貨車の中は暑苦しくて嫌だった。
引き揚げ船では怖い思いをした。兄たちはデッキに出たりして遊んでいたが、私は大勢の人達で混雑した船室に母と弟と一緒にいるしかなかった。食事になると赤くて甘そうなコーリャンが毎回出てくるが、実は美味しくない。甘くて美味しい物など何一つ無いので私は機嫌が悪かった。食べる事を催促されてとうとう泣き出した私を父はデッキに連れて行って、「みんなの迷惑になるから泣くのをやめなさい」と叱った。私が泣きやまなかったので、父は私の両脇に手を置いて、私の体を船べりの外側に出して言った。「泣きやめないと、海に落とすよ」。私は体が凍り、声も出なかった。
 佐世保港(のちに母から聞いた)から母の実家の玄関先に着くまでの記憶は途切れている。そして、その後は戦後の貧困生活で父母が苦労するのをみることになる。両親の様子を見ていると子供心に悲しかった。若いとき満州で裕福に暮らしてきた母が、敗戦で全財産を失い、引き揚げてきてすぐに病気になった夫を数年後に亡くして、どん底に落ち、再び安定した生活を取り戻したのはいつか。
   「満州では果物でも何でも最上等の物を買っていた」
   「70歳頃からやっと幸せを感ずるようになった」
すでに90歳になっていた母のこの話は私の心を癒してくれた。30数年も長く続いた親の苦労を思いながら、残留孤児にならず、海に捨てられる事もなく、これまで育ててくれた事に感謝した。これが戦後を含めた私の戦争体験である。
 後年私は自分が幼少の時、大人達は何をしたのかを知るために戦争を書いた本を読み、広島、長崎、沖縄そしてアウシュビッツをたずねた。長野県上田市にある「無言舘」では若くして戦没した画学生たちの絵や文章に接して涙が出た。
2017年2月1日
 

私の戦争体験