*星空文庫

夜走る

N村Kタロウ 作

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5

1

 明かりの消えたままの部屋で、いつのまにか夜のニュースが始まっていた。
 テレビの前には、黄色いパジャマを着た妻が仰向けに寝転がっていた。長い黒髪がカーペットの上で綺麗な扇形に広がっている。動かない彼女の姿は次々に変わる画面の色に染まる。戦車の走る黄色い砂丘や東京の白い街頭が、固く目を閉じた顔を照らした。キャスターの青いスーツが画面に映ると、彼女は死んでいるような顔色になった。
 キッチンでインスタントコーヒーを二杯入れて、私はダイニングテーブルの前に座った。ブラックで飲みながら、彼女の席に置いたもう一杯のコーヒーから湯気が立つのを眺めた。私が飲み終えても彼女のコーヒーからは湯気が上がり続け、宙に消えていった。
「コーヒー冷めるよ」と私は言った。「そう拗ねるなよ。さっきは悪かったって言ってるじゃないか」
 答えはなかった。二人分のコーヒーを入れることは私たちの間では和解の合図だった。それを彼女が無視するのは、よほどのことがあったときだけだ。
 自動車のコマーシャルの夕日がほの赤く部屋を照らした。彼女は再び生気を取り戻したように見えた。小さく尖った顎や軽く上を向いた鼻がとても可愛いと思った。
「ね、本当は死んでないんだろ?」椅子から立ち、彼女の肩を揺すってみる。まだ温かかった。「起きろよ。風邪ひくよ」腋の下をくすぐったり、鼻をつまんだりもしてみた。目を覚ましてくれさえすれば必ず仲直りできるという確信が私にはあった。
「拗ねるなってば」私は溜息をついた。「殺すつもりじゃなかったんだから」
 彼女の胸に耳を当てて鼓動をもう一度確かめる。ボディーソープの香りが鼻をくすぐり、柔らかい乳房がパジャマ越しに頬に触れた。何度聞いても、やはり同じだ。止まっている。
 首を振り、ダイニングテーブルに戻ってコーヒーの残りを飲み干すと、私はゴミ捨て用のビニール袋を探し始めた。流し台の下や、食器棚や、あちこち開いてみたが見つからなかった。洗面所にも見当たらない。考えてみれば、ゴミを出すのは私の役目だったが、袋を用意するのは彼女だった。
「ねえ。ゴミ袋どこ?」
 できるだけ何気ない調子でリビングの彼女に尋ねてみたが、やはり返事は無かった。
 ビニール袋はあきらめ、青い毛布で彼女を包むことにした。厚くて重く、暖かい毛布だ。去年の秋の台風で停電したときには、二人でこの毛布にくるまって夜を過ごした。不安を打ち消そうと、ロウソクの火を前に子供の頃の思い出を話し合った。まるでキャンプみたいだった。私たちはほんとうのキャンプに行ったことは一度もなかった。彼女はキャンプなどよりも温泉や田舎町にある小さな旅館が好きで、結婚前から私のフォルクスワーゲン・サンタナであちこちに出かけた。北陸の小都市の旅館で、老朽化した階段の板を彼女が踏み抜いたことがあった。転げ落ちそうになった彼女を私が抱きとめ、いっしょに踊り場にしりもちをついた。ふたりとも、生まれてからあんなに笑ったことは無かったんじゃないだろうか。ほんとうに楽しかった。
「あれは八年前だよね」と私は言う。「金沢から高岡まで回ってさ」
 毛布は小柄な彼女の身体を包むのに十分な大きさだった。彼女の顔が隠れるとき、冷たい唇に口づけて私は言った。
「楽しいことばかり思い出すんだ。しばらく忘れてたような事も。こんなことになったけど、君が好きなんだな」
 もし彼女が何かを言うことができたなら、こう答えるにちがいなかった。
「うん、わたしも楽しいこといっぱい覚えてるよ。さっきはごめんね」
「僕こそ悪かったよ」
 毛布の上からビニールひもでしっかりと縛った。これだけ厳重に包めば大丈夫だろう。
 裏口からガレージに出ると乾いた涼しい風が吹いていた。フォルクスワーゲン・サンタナのトランクに懐中電灯とスコップを積み、部屋に戻って、毛布に包んだ彼女を抱き上げた。思いがけない軽さに少し驚いた。
「だって、がんばってダイエットしてたのよ」と彼女が言いそうな気がした。生きていればそう言うに違いないと思った。
 彼女をトランクに入れて車を出した。五分で住宅地を抜けた。畑の中の県道では、人家の明かりも対向車のヘッドライトも数えるほどだった。たまに、パチンコ屋やコンビニエンスストアやファミリーレストランのネオンが暗い路傍に輝いていた。
 大橋を渡ったところでJRの踏切にひっかかった。長い貨物列車がゆっくりと通った。誰も乗っていない列車を見送るのは寂しかった。赤い尾灯が闇に消えないうちに遮断機が上がった。
 谷筋の道を山へ向かうと灯はさらにまばらになり、左右から尾根が迫った。火の見櫓のある小さな集落を通り抜けたのを最後に人家は絶え、森に入った。
 きれいに植林された杉の中をうねりながら県道はつづいた。真っ直ぐな幹をヘッドライトでかき分けるように進んだ。ダムを渡ったところで県道と別れ、細い林道を登ってゆくとやがてアスファルトは途切れた。
 未舗装の道をさらに三十分走った。そのあたりの森はもう長年人の手が入っていないように見えた。坂が少しなだらかになっている場所で小さな空き地を見つけ、車を止めた。
 静かだった。土やコケの匂いを含んだ、冷たく湿った空気が流れていて肌寒かった。
 スコップと懐中電灯を持ち、足下を照らしながら森の中へ歩いた。平らな場所が見つかると、私は木の枝に懐中電灯を吊して穴を掘りはじめた。
 土は思いのほか堅く、穴を広げるのはずいぶん骨だった。いくら掘っても穴はなかなか大きくならなかった。たちまち暑くなった。息を切らせて掘りつづけた。腕がしびれ、汗だくになった。どうしてこんなことをしなくちゃならないんだ。彼女を絞め殺したりした自分の愚かさに腹が立った。そして日頃の運動不足を恨んだ。一緒にテニスを始めようと彼女が言いだしたときに付き合えばよかったとも思った。
 どれくらいの時間掘りつづけたのか知らない。森での時間の経過はよく分からなかった。穴はようやく彼女の身体を収めるほどの大きさになった。
 トランクを開け、彼女を抱き上げた。腕の疲れのせいで今度は重く感じた。
「お別れだね」と私は言った。「こうするしかないだろ。僕らのプライバシーに警察だの裁判所だのが首を突っ込んできたり、検死官に身体の隅々まで調べられたりするのは君だっていやだろ」
 彼女を穴の側まで運び、その横に座って毛布ごしに彼女の顔をなでた。
「しばらくしたらまたここに会いに来るよ」
「いいの? そんなことして」と彼女なら言うだろう。「足がついて警察に捕まっても知らないから」
「警察なんか関係ないさ」
「馬鹿ね。たとえ私がまだあなたを好きでも、日本の法律では殺人なんだよ」
「よせよ、僕らの間で『殺人』だなんて。殺すつもりじゃなかったのは君だって分かってるんだろ?」
「あなたいつもそうなんだから、まったく」彼女はため息を吐く。「『そんなつもりじゃなかった』、『傷つけるつもりじゃなかった』、『嘘つくつもりじゃなかった』。そればっかり。そんなの、わたしには通じても世間では通用しないんだよ。しっかり殺しておいて、殺すつもりじゃなかったなんて、誰が耳貸してくれるのさ。殺したっていうことは、殺すつもりだったってことなんだよ。同じことなんだよ」
「ごめん。悪かったよ」
「謝ってくれなくても良いんだけどな。わたし別に怒ってるんじゃないから。死んでるのって気楽よ。もう何も関係ないし、何も気にしなくていいんだから。もうあなたのことも気にしない」
「さみしくなるな」
「当たり前でしょ。死んでるんだから」
「さよなら」
「さよなら。だけど今でもあなたのことは好きだよ」
 最後に顔を見ようかとも思ったけど、微笑んでくれることはないだろうし、もういちど包みなおすのは大変だからやめた。彼女を穴の底へ押し落とし、土をかぶせた。彼女をつつんだ青い毛布の最後の一片が見えなくなると、少し涙がでた。
「さよなら」
 穴を埋めた跡を落ち葉で隠して車にもどった。
 私は林道を下っていった。前にも後にも車は見えなかったが、法定速度で走った。万が一ここで事故を起こしたりしたら厄介だ。

2

 きっかけは、つまらない誤解、つまらない喧嘩だった。だが彼女はそうは思っていなかった。行き違ったまま、気づくと彼女の頸を絞めていた。頸は驚くほど細く、動物みたいに温かくて不思議な弾力があった。そして彼女の身体の他のどの部分よりもすべすべとしていた。指が彼女の頸に吸いつくようで、引き離すことが出来なかった。殺すつもりではなかったのは確かだ。彼女が死ぬなんて思ってもみなかった。
 たった一度殺してしまっただけで、彼女を永遠に失わなければならないなんて。なんと馬鹿な話だろう。一度死んだ者はそれきり生き返らない。そんなひどいルールのせいで、私は私にとって誰より必要な人を永久に失おうとしている。
 一人になった車を走らせ、街へ向かって林道を下った。
 県道に戻り、ダムの上を走っているとき、白っぽい人影がヘッドライトに浮かび上がった。ガードレールの横に立ち、車道にむかって前傾姿勢で、今にも飛びだしてきそうだった。速度を落とそうとしたとき、人影が車道へ一歩、二歩と踏み出したのが見えた。あわててクラクションを叩き、ブレーキを踏んだ。車はぎりぎり手前で停まった。
 若い女だ。車が止まるとふらついた足取りで近づいてきて、運転席側のドアの横でつまづいたようによろけて、ボンネットに手をついた。そしてそのまま私のほうを見ていた。誰だ。まさか警察官とは思えないが。緊張しながら、窓を数センチだけ開けた。
「危ないでしょう」と、私は押し殺した声で言った。
「……ごめんなさい」
 その声の幼さに私は驚いた。なんだ、子供じゃないか。背丈はそこそこあるけれど、これは子供だ。懐中電灯で照らすと、まぶしそうに目を細めた。中学生か、高校生か。いずれにしても十代半ばくらいの少女だ。痩せた子だった。痛々しいほど細い手足。膝頭までのスカートとTシャツ一枚でずいぶん寒そうだった。
 このままでは風邪をひいてしまう、と私は思った。こんな子が、こんな深夜に、こんなところにいたら、暴漢や強盗に襲われないともかぎらない。
「町まで乗せてってあげるよ。この時間じゃもうバスも無いだろ」
 それに、と私は考える。もう車と顔を見られてしまっている。もしこの子に何かあって、警察とかかわるようなことになったとしたら?
 取りあえず車に乗せてしまおう。どうするかは、あとで考えれば良い。何事もなく家まで送り届けてやれれば、そしてそれっきり何もなければ、私にとってもこの子にとっても何よりだが、場合によっては人質にもできる。そして最悪の場合には、口を封じることも。そんな考えも頭をよぎる。物理的にはさほど難しくなさそうだった。妻と同じように首を絞めればいい。ベルトを使ってもいい。こんな細い体で抵抗してもたかが知れている。もちろん、年若い少女にそんなかわいそうなことはしたくないけど。
 私は微笑んで言った。
「後ろに座って。遠慮しなくていい」
 少女は少しの間ためらう様子を見せたが、「ありがとう」と言って後部座席に乗り込んだ。草と水の匂いがした。
 私は車を出した。車が揺れるとルームミラーの中の影も揺れた。
「夜中にこんなとこでヒッチハイクなんて危険だよ。たまたま僕が通り掛かったからよかったけど」
「……はい」
「家はどこ?」
「沢井町。雲居台団地」
「じゃあ雲居台まで送るよ」
 私の家からそれほど遠くない場所だった。ルームミラーを覗き込むと、少女は暗い眼で窓の外の暗闇を見つめているようだった。
 探りをいれるようなつもりで、私は尋ねてみる。
「きみ、中学生?」
 女の子は首を横に振る。
「じゃあ高校生?」
 しばらく間があって、少女は「一応」と低い声で言った。
 それ以上尋ねてほしくない様子だった。学校のことで何かトラブルがあるのだろうか。いろいろある年代だ。私だってそうだった。想像は出来る。でも思春期の傷つきやすさをすっかりなくした今の私には、彼女の心を軽くする言葉を言ってやることはできないかもしれない。それは淋しいことだった。
「寒くない?」というのが、ようやく見付けた言葉だった。
「ちょっと」と少女は答えた。
 私はカーエアコンの暖房を入れた。
 車は県道を滑り、街へ向かった。市街地の方の空はかすかに明るく見えた。その光の下でまだ多くの人が起きて活動しているはずだ。早くそこに戻りたかった。妻がいて生活と仕事がある私の街に。しかしそこで待っているのはもう今までとは別の街、様変わりした世界であるはずだった。
 二つ目の集落を通り抜けたあたりで、少女が言った。
「停めて、どっかで」
「気分が悪いの。ここで停めようか」
「コンビニとかで」と女の子は言った。「トイレ行きたいだけです」
「それなら、もう少し先にコンビニがあるよ。大丈夫?」
 そこから数キロで、最初のコンビニエンスストアがあった。店のサインと数軒の民家の明かりの他は全くの闇だった。店の大きさと不釣り合いに広い駐車場に車を入れてエンジンを止めると、四方で何種類もの虫が重なり合って鳴いていた。
 少女はドアを開けてアスファルトに降りた。店員に顔を見られたくないので私は車で待つことにした。ステアリングにもたれて、誘蛾灯に照らされた少女の細い後ろ姿を見ていた。折れそうな脚で足早に歩く姿は精巧な時計細工のように不思議で、胸を苦しくさせた。
 少女が自動ドアを通って光の中に消えると、私はシートの背もたれを倒して身体を伸ばし、瞼を閉じた。眼の奥には重い物があった。
 私が横になるのを待っていたみたいに、頭の芯が痺れるような眠気がやってくる。私は本当は寝室のベッドにいるのではないか。そんな気がした。眼を開ければ、ベージュのカーテンと、ベッドサイドのスタンドの明かりと、隣で寝息を立てている妻が見えるのではないかと。朝になれば、眠りの中を通り抜けて、本当に元のベッドに戻っているのではないだろうか。

3


「ねえ」と枕に頬をうずめた彼女が言う。そしてくすくすと笑う。
 寝室のベッドの上で私は目を開ける。オレンジ色のスタンドの光に包まれた妻が、肩まで毛布で包んで、私の隣で微笑んでいる。幾度となく繰り返されてきた、私たちの夜のひとつ。
「あなた、寝言でずっとわたしの名前を呼んでたんだよ」と妻は言って、また笑う。「苦しそうだから、起こそうかとも思ったんだけど。苦しいときにあなたが呼ぶのはやっぱりわたしの名前なんだなって、ちょっと嬉しくて、聞いてたの。もっと呼べ、もっと呼んだら助けてあげる、って」
 ひどいな、と私は言う。起こしてくれればいいのに。
「どんな夢見てたの?」
 覚えてないよ、と言って私は首を振り、手を伸ばして彼女の髪に触れる。長い髪の間にある小さな耳にも。そして肩に手を回し、抱き寄せる。
「あなたがわたしを呼ぶのは、どんなとき?」と私の胸で彼女は尋ねる。
 どんなときでも、と私は言う。ぼくはいつも、心のどこかで君を呼び続けてるよ。
「バカみたい。ふふふ」
 彼女は笑って、私の鎖骨の下に鼻先を押し当てた。
 私のパジャマの裾から彼女の手が入ってくる。背中に触れる彼女の手のひらは、濡れたタオルのように冷たい。長い髪からは、シャンプーの香りに混じって、かすかに土の匂いがした。
「ここは暖かいんだよ。たぶんあなたが想像してるより」と、彼女は言う。「あなたもここに来て」
 土の中の彼女の手の冷たさが、私の背中で広がってゆく。まるで冷たい手のひらそのものが、だんだん大きく広がってゆくみたいに。


 私は目を開けた。
 ここは寝室ではなくて車のシートだ。分かっている。コンビニの駐車場、軒下の誘蛾灯の紫の明かり。後部座席に少女はいなかった。
 背中が冷えていた。車の中はさっきよりもずっと寒くなっていた。私は眠っていたのだろうか。腕時計を見る。コンビニに来てから何分経っただろうか。分からない。少女は、逃げたのだろうか。それともまだトイレにいるのか。
 少し迷ったが、店の中に様子を見に行くことにした。ここならもう、かなり街に近い場所だし、店員に顔を見られたとしても致命的ではないだろう。それよりもあの少女のほうが気がかりだ。逃げてしまったとしたら? 私はあせり始める。私があの時間にあの山中にいたことを知っている、ただ一人の人間を、このまま帰らせていいのだろうか。考えてみれば、見つけたときにダムに突き落としておくべきだったのかもしれない。暗闇を落下していく少女を私は想像する。恐怖に歪み、涙で濡れた顔を最後に一瞬だけ見せ、踊るような動きで回転しながら、谷底に向かって遠ざかってゆく。ダムの擁壁に頭がぶつかり、頸が折れる気味の悪い音が響く。華奢な身体は弾かれるように川辺の大岩にたたき付けられて、全ての骨が砕けてしまうだろう。血にまみれた髪の毛だけが、コンクリートの擁壁にこびりついて残る。
 私が雑誌の棚の前に来たとき、水の流れる音がしてトイレのドアが開いた。濡れた手をスカートでこすりながら、少女が出てきた。
 明るいところで見ると少女は思っていたよりもずっと健康的で血色のいい顔をしていた。私は安堵のためいきをついた。女の子は私の顔を見て、わずかに表情を動かした。それは微笑みと呼べるほどのものではなかったが、少なくとも私を拒否する眼ではなかった。
「何か暖かいものでも飲む?」と私は言った。
 少女はうなずいた。
 保温ケースの缶飲料の中から少女はホットレモンを、私はココアを選んだ。私が代金を払っている間、少女はレジ前のワゴンに並べられた安売りのスナック菓子を手にとって眺めていた。
「もしかして晩御飯食べてないんじゃない?」と私は尋ねた。
 女の子は不思議そうな顔で、小さくうなずいた。
「じゃあお腹すいてるだろ」
「忘れてたけど」呆然とした目で、ため息を吐くように女の子は言った。「すいてる。どんな気持ちのときでも、お腹って減るんだ。馬鹿みたい」
 私もひどい空腹だった。彼女の言うとおり、滑稽なことだ。


「君の言う通り、どんなときでも腹は減る」と私はお握りのビニール包装を剥がしながら言った。「たとえどんなに悲しい事があっても、死にたくなるくらい酷いことがあっても、体の方は今までどおりの生活を続けようとする。腹が減る。僕らはそれに勝てない」
 フランクフルト・ソーセージを口にくわえたままで少女はうなずいた。田んぼの中にある消防倉庫の前に車を停めて、私と少女はコンビニで買った食べ物を食べていた。よほど空腹だったようで、少女はたちまちのうちにメロンパンとお握りとフランクフルトを片付けた。
「ひとつ聞いてもいいですか」と少女はフランクフルトの串を噛みながら言った。
「なに?」
「死にたいと思ったことありますか?」
「ああ。あるよ。何度もある」
「意外」と女の子は言った。「そんなふうに見えない」
 少女の言葉はわたしの胸を衝いた。そんなふうに見えない? そうだ、どうして今夜の私は死ぬことを全く考えなかったのだろう。かつては、死はあんなに近くにあったのに。心の中でいちばん美しかった人を、この手で消し去ってしまったのに。
 死にたくなったことなんて、何度もある。ずっと長い間、何もかもがいやだった。この少女ほどの歳のときには、ほとんどいつも死ぬことが念頭にあった。しかしいつのまにかそれを忘れていたのだ。今夜の私は死ぬことなど思いつきもしなかった。妻を殺したあと、埋めたりしないでいっしょに横になる。愛する人を殺してしまった人間にとって、当然考えるはずのことなのに。
 少女は窓の隙間から串を捨てた。
「捨てちゃだめだろ」と私は言った。

4

「君ぐらいの時は、しょっちゅう死ぬことを考えてた」
 と言って、私は車を止める。遮断機が降りた。助手席の少女は真剣な目で私の顔を見ていた。警報機のランプの明滅のために少女の顔は赤かった。
「今は? 思わないの」
「うん。思わなくなった」
「今、いくつですか」
 三十歳、と本当の年齢を答えそうになったが、少しずらして答えた。
「三十二」
「わたし十六。半分だ」
「そうだね。ちょうど半分だ」
「まだ半分。信じらんない。あと十六年も、どうやって生きれるんだろう」うんざりしたような顔で少女は首を振った。「どうして死ななかったの? 生きててもいいんだって、それが正しいんだって、いつ、どうやって信じれたの?」
 信じてたわけじゃない。ただ過ぎていっただけだ。
 ほとんど空のコンテナ貨車が踏み切りを次々と過ぎていった。
「ニュースとかで、よく人が死ぬじゃない」と少女は言った。「事故とか、事件とか、病気とかで、みんなの役に立ってた人とか、みんなに好かれてた人が死ぬじゃん。みんな泣いてたりして、そういうの見たら、みんなから『なんでお前が死ななかったんだ』って言われてる気がする。『なんでお前じゃなくて、あんなにいい人が死ぬんだ』って。なんか悪いことしたような気がする。私は何もできないし、誰もわたしのこと好きじゃないんだし」
「命は交換できないから」と私は言う。
 この子の言うように交換できるのなら、私は迷わずこの子を絞め殺して命を奪い、それを妻に与えるだろう。それができないなら、これ以上死なないほうがいい。いまいましいことに、一度失えば取り戻せないものなのだ。
「君が死んで悲しむ人だって必ずいるはずだ。それに気づいてないだけじゃない。お父さんやお母さんは? 友達は?」
 私の言葉はまるきり嘘みたいに聞こえて、自分の言葉じゃないみたいだった。踏み切りが上がって、私はアクセルを踏んだ。
「友達なんか、いないし」と女の子はつぶやくように言った。「親だって、私が死んだらほっとするよ。私が死んでも誰も泣かない。それは冷静にわかってる。でも死ねない。ダムにも、飛び降りれなかった。死ぬのは怖くない。死ぬのは怖くないのに、なんで高いのが怖いんだろ。なんで痛いのが怖いんだろ」
 女の子の声は、青白い火のような、静かで異様な熱を帯びていた。
「この車に、思いっきり飛び込むつもりだったのに。できなかった。バカみたいにふらふらして、こんなふうに乗せてもらって、ご飯まで買ってもらっちゃって。どうして、わたしなんかに優しくしするの? そんなことしても何にもならないじゃん。生きてても--」
 突然、悲鳴のような声を上げて女の子は泣きだした。髪をかきむしり、グローブボックスにがんがんと額を打ち付けはじめた。
「おい、やめろよ」
 私は車を路肩に寄せて停め、腕をつかんで少女を止めた。二、三回は身をよじって抵抗したが、すぐに静かになって頭を垂れた。腕を放すと、すすり泣きの声だけが続いた。
 車は畑の横の草むらに半ば乗り上げて、車幅灯を点滅させて止まっている。後ろにも、反対車線にも他に車はなかった。私はステアリングに手を置いたままで少女を見ていた。スカートの膝の上で握りこぶしを作り、肩を震わせている。黒くつややかな髪はくしゃくしゃに乱れていた。骨張った細い姿は、十八の頃の妻を思い出させた。彼女も車の中で泣いたことがあった。こんなふうに細い背中で。
 私が眺めている間も涙は流れ続け、少女は寒そうに体を縮めた。私は思い切って腕をのばし、その薄い肩に触れた。女の子は顔を上げることもなく、そのままの姿勢で泣きつづけていた。Tシャツの肩は冷たく湿っているように感じられた。
「死ぬのはいつでも死ねる。急ぐことないって。もうちょっと待ってみなよ。十六年や三十年で結論なんか出るもんか」と私は少女の肩に手をかけたままで言った。「時が来れば、どっちみち僕らはみんな死んじまう。うまく死ねないのは、まだ死ぬ時じゃないからさ。心配しなくても、いつか誰かがちゃんと死なせてくれるよ。どこかの誰かが、とんでもなく遠いところからハンマーみたいなものを投げるんだ。くるくる飛んできて、頭にガツンと一発。確実に死ぬ。そのハンマーがどんな形をしてるかは、僕にも君にも分からない。それは病気という形かもしれない。自動車事故かもしれない。君は優しいと言ってくれたけど、僕みたいな男が君を絞め殺して山に埋めるかもしれないんだぜ」
 私の手は少女の右肩にあって、そこから数センチ上には彼女の頸があった。体の大きさは大人みたいに見えるこの子の、頸はアンバランスに細長くつるんとして幼さをとどめていた。
「そうしてくれてもいいんです」
 と少女は顔を上げずに言った。ついさっきあんな風に泣いていたと思えないほどはっきりとしたクリアな声だった。
「優しくされると、嘘ついてだましてるような気になる。誰か他の人と、誰かもっと大事な人と、勘違いされてるみたいな」
「赤の他人の僕が言うのは変かもしれないけど、君にはまだ死んでほしくない。そんな気がするのはたぶん、君がまだ、誰かにとって必要な存在だからじゃないか。誰かが君を好きなんだ。もし、今はそうじゃないにしても、いつかきっと、誰かが君を好きになる。だから死んでほしくない」
「いいこと言うじゃない」とうしろから声がした。妻の声だった。
 ルームミラーを見ると、後部座席に彼女が座っていた。黄色いパジャマで、青い毛布を肩にかけ、コーヒーのカップを片手に持っていた。まだ湯気が上がっていた。
「あなたの場合はどうだったのかな」と彼女は言った。皮肉をいうような口調じゃなかった。「あなたは誰かにとって必要な存在だったかしら?」
「僕にとっては」と私は言った。意識が遠のいた。マイクとスピーカーを通してずっと遠くから自分の声を聞いているような気がした。「妻が。僕にとって、誰よりも、必要だった。彼女は死んだんだ。死んでほしくなかった」
 私の言葉はつづいた。
「出会ったとき彼女は十八歳だった。僕は二十歳だった。十年前。僕を必要としてくれる人を、はじめて見つけた。彼女にとって僕がとても特別な、大きな存在になったことを知った。そして彼女が僕をこの世界に繋ぎ止めてくれた。生きることが正しいと信じられるようになったわけじゃないが、しかし」
 ミラーを見ると、彼女はまだそこに座っていた。何も言わずに微笑んでいた。
「君は……彼女は、死んでしまったけど、僕がいたことで、幸せだったと思う。どんな終わり方をするにせよ、彼女の十年間は、僕がいない十年間よりも、ずっと幸せだったはずじゃないか。そう信じてるよ。僕はあんなに彼女を愛したんだ。彼女だってそうだった。確かに、最後の最後は不幸だったね。でもその最後の一瞬だけのために、それまでの幸せな十年が全て消え去ってしまうっていうのか? そんなはずはないよ。ハンマーが飛んできた。それだけの話だ。それがどんな形をしていたにせよ」誰だって死ぬ。何らかの理由で。たまたま私がその役割を演じただけじゃないか。決まっていたんだ。遠くで誰かがハンマーを投げたんだ。どうにも息が苦しい。言葉だけが勝手に出て行く。これが私の考えなのか? お前はそんなことを考えていたのか? 私は話しつづける。「十五や十六のころは、今の苦しみが無限に続くように見えるかもしれない。でもちがうよ。それはすぐに終わる。僕の妻がそうだったように、君にも幸せな日々が来る。それももちろんいつか必ず終わってしまうけど、だからって消えてしまうわけじゃない。価値が無くなってしまうわけじゃない」
 そうだ。たしかに僕は君を殺した。腹を立て、憎み、首を絞めた。でもそれはたった一度、ほんの一瞬だけのことだ。ぼくは十年間ずっと君の幸せを願って、君の力になろうとして来たじゃないか。一度だけの過ちのために、それが全て消えてしまうっていうのか。そんなはずは無い。あるものか。
「私も、いつか、そんな風に思えるようになるかな。誰かが好きになってくれて、それから死ねるかな」
 暗い車の中にいた。明滅する車幅灯が、道端の草をオレンジ色に浮かび上がらせ、また闇に沈める。私の手は少女の肩の上にあった。その肩が少しだけ柔らかくなったような気がした。私はその肩を軽く叩いて、手を離した。
「なるさ。君は若いし、賢いし、可愛いじゃないか」

5

 再び車を走らせた。女の子はずっと黙っていた。
 黙っていられると私は危なくなる。不安になる。私の様子を不審に思ったのかも知れない。ひょっとすると、妻の幻と対話しながら、私は「殺した」などと口走ったのだろうか? 思い出せない。そうだとすれば、もし妻の行方不明が表ざたになったら、この子は今夜のことを思い出さないとも限らない。この子はもう私の顔を記憶しているだろう。車の形や、ひょっとしたらナンバーも。フォルクスワーゲン・サンタナなんて、今時、どこにでも走っている車ではない。
 やはり殺しておくべきなのかも知れない、と私はまた少し考えた。確かにさっきは少し心の交流のようなものがあったかもしれない。でも、いちばん好きな妻だって殺せたんだ。誰とも知らない少女を殺すのなんてそれよりずっと簡単だ。
 車を停め、少女をシートに押さえつけてベルトで絞める。車の中は密室だ。このあたりだとまだ人通りも無い。助けを求めても誰も来ない。革のベルトが細い首に食い込む。死にたいと口では言っていても、殺そうとすれば悲鳴を上げ、涙も流す。顔をゆがめ、身をよじらせて抵抗を試みても、細い腕には何の力も無い。たやすいことだ。体重も妻より軽いだろう。名前も知らない子だ。私との接点は何もないはずだ。
 ハンドルを握る手に汗が出る。横目で女の子を見た。
 彼女は気づいて顔を上げた。ほんの微かだけど、ほほえみを浮かべているように見えた。
 速度を落としながら、彼女の顔をのぞきこんだ。ぎこちなく引きつって、唇の端は震えていたけれど、それは笑顔だったと思う。
「もうちょっと」と女の子は言った。「ちょっとだけ、ハンマーが飛んでくるまで、考えてみる。もう少し」
 私はうなずいた。この子は私をいい人間だと思っている。思ってくれているのだと信じよう。そうすれば、殺さずに済む。せっかく笑顔を見せたこの子を。
 人家が増え、市内の住宅地に入った。雲居台団地の入り口への交差点の信号で止まったとき、女の子が言った。
「家の近く。ここ、左です」
「うん」
 赤信号をにらみながら、私はもう一度自問する。本当にいいんだな? このまま家に帰してしまっていいんだな? ここで左へ曲がれば、この子の家はもうすぐそこだろう。曲がらずに走り出せば、そのままどこかへ連れ去るしかない。連れ去れば……。
 信号が青に変わった。女の子は小さくため息をついて「帰んなきゃな」とつぶやいた。私は左にハンドルを切った。
 彼女の家は団地の奥の新開発地区にある一戸建てだった。五戸分ほど離れた空き地の前に私は車を止めた。
 ドアを開けて、「ありがとう」と少女は言った。
 アスファルトに降り、ドアを閉めようとした彼女に私は言った。
「ねえ、君、夜中にヒッチハイクなんて、二度としちゃいけないよ。危険すぎるから」
 女の子はうなずいてドアを閉め、車に背を向けて歩いて行った。暗がりを歩いてゆく細い後姿を見送りながら、これでよかったんだと思った。頸を絞めたりしなくてよかった。あの子は妻とはちがう。私を愛したわけでも愛されたわけでもないのに、殺されたりしてはかわいそうじゃないか。
 細長い影が門に消えると、私は車を動かした。


 車をガレージに入れ、私は勝手口から家に入った。リビングのテレビはまだつけっぱなしだったが、番組の放送はもう終わっていて、どこかの都会のリアルタイムの夜景が映っていた。ダイニングテーブルの上にはインスタントコーヒーがそのまま残っていたが、冷えきって泥水のようだった。
 冷めたコーヒーを流し台に捨て、薬缶で湯を沸かし、熱いコーヒーを入れなおした。はじめは一杯だけいれたが、思い直してもう一杯いれ、二つのカップをテーブルに置いた。
 体の疲れを感じていたので砂糖をスプーン二杯溶かし、暖かい湯気を吸い、もうひとつのカップから上がる湯気を見つめながらコーヒーを飲んだ。
 午前三時。彼女は寝室にいるはずだった。十年の間に、私は何度も彼女を傷つけ、悲しませたり、涙を流させたりもしたけれど、彼女が私のところに帰ってこないということは無かった。この時刻に彼女が寝室にいなかったことなんか、一度たりともなかったのだ。
 風呂に入って土や汗のにおいを洗い流し、バスタオルを腰に巻いて、二階の寝室へ上がる。ベッドでぐっすり眠っているはずの彼女を、すぐにでも抱きしめようと思った。髪を撫で、口付けして、いつまでも変わらず、私は彼女のものだと伝えようと思った。眼にしなくても、私には見えていた。ベッドサイドのスタンドの、ほの明るいオレンジの光の中で、黄色いパジャマの肩まで毛布をかぶり、柔らかい羽根枕に頬をうずめて、子供のような微笑を浮かべて眠っている彼女の姿が。眠っていても、いつもきちんとベッドの半分を空けて待っている彼女の隣にもぐりこんで、まず最初に、やわらかい頬に触れよう。
 階段を上がってゆく。寝室のドアは閉ざされている。ノブに手をかける。そっと回し、ゆっくりと引く。オレンジ色の光が目に入ってくる。私は眼を閉じる。


(終)

『夜走る』

何年も前に、それよりもっと何年も前に書いた小説をリライトしたものです。自分でも半ば忘れていたような作品ですが、眠らせておくのも寂しく思い、こちらにアップさせていただきました。

ご意見ご感想などおありでしたら、こちらの掲示板にお寄せください。お気軽に。
「星の門」 http://hashidateamano.bbs.fc2.com/

『夜走る』 N村Kタロウ 作

「よせよ、僕らの間で『殺人』だなんて。殺すつもりじゃなかったのは君だって分かってるんだろ?」 「あなたいつもそうなんだから、まったく」彼女はため息を吐く。 二人の女性との、夜のドライブの話。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-14
Copyrighted

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