*星空文庫

分離の肌

冬夜 流治 作

分離の肌
  1. 宣誓
  2. 薔薇
  3. 白昼夢
  4. 小屋
  5. 樹帯
  6. 湯浴み
  7. 狩猟
  8. 海辺
  9. 梳髪
  10. 予兆
  11. 雪風
  12. 解熱
  13. 逃走
  14. 埋葬
  15. 火炉
  16. 庭辺
  17. 白夜
  18. 湖畔
  19. 焼身

執筆中である。完成はいつになろうか。未完のまま終わらせるのも良い……
山の記憶と病んで美しい女に捧げる。

宣誓

  銀梅花の頭飾りをつけたユーラリは極めて印象的な相貌で目をあげた。ホアンは魂が弓のように引き絞られるのを感じ、美という言葉がこれほど自然に舌先に湧き出るのに驚き、しかしその古くから練り清められてきた言葉でさえ、この瞬間になんら力も彩も持ちえないことに気がついて息をのんだ。化粧らしいものもせず、ただわずかに頬に薄紅を引いただけだったが、その姿は神話の生き物を思わせた。暗い森の中から彼女が姿を現したとき、楢の樹径の太い二本の幹は堂々とした戸柱となり、木立は萬年草(セダム)や地苔の群緑に鱗張りにされた列柱廊となって、突き出た丘を取り囲んだ。風が枝を抜けるとき、赤紫に輝く針葉を散らし、弦を擦るような厳かな音をたてて大樹が揺れた。クレヤミ・シロは立ち上がり、立会人は静かに拍手をしたが、取り巻く世界の立てる歓声は音もなく、しかしはるかに強いものだった。それからシロの朗読により、小さな羊皮紙の文章が読まれ、誓いが交わされると、その文章は蠟の捺印を捺されて革張りの筒に封印された。

 ナジカ・ホアンとナジカ・ユーラリの結婚式は慎ましく簡素なものであった。稲妻と雨の叩く葉々に祝福され。放物線を描く白銀の滴が米の代わりに撒かれた。そこには鳴り物入りの饗宴も騒々しい鐘の音もなかった。立会人も数少なく、祭壇もなく、音楽もなかった。粗末な丸椅子は切り株の様に草原に並べられ、草叢に咲く野花の活けられた小さな花瓶が虫に喰われた樫の長机に置かれていた。そこに温められた料理の鍋が置かれた。ボンネットを長椅子がわりに、二人はその動かなくなった骨董品(がらくた)の上に腰かけて、白亜の断崖を眺めた。それは彼岸島(アヴァロン)の険峻な山々のように、遠い幸福へと二人をいざなうように輝いていた。皮肉めいたことだ。この瞬間に幸福を感じられたためしはなく、それは化粧を施された過去か、あるいは夢想の未来にしかまみえたことがない。藁屑の薫りが立ち昇る胸元に頭を寄せながら、ユーラリは今、死んでしまいたいと思ったぐらいだった。雑多な音にかき消されることもなく、その満ち満ちた幸福は破裂寸前まで膨らんでゆき、そして破裂した。

薔薇

 あなたの腕は出ていった。そして戻ってくるときに花瓶を引っ掻けて落とした。垂直に落下する花瓶の残像を、わたしは見ていた。熱に潤み、揺らいでいる視野の中で、真っ直ぐに落ちてゆく花瓶の白い輝きだけが、糸を引くようにうっすらと見えた。それは音もなく床に吸い込まれ、無数の亀裂を走らせながら、粉々に飛び散った。あたかも大きな花弁が開くようにゆっくりと緩慢に、その破片は転がった。

 あなたの腕は白く溶ける。胸の上を撫でるようにしたたりながら、腰骨のあいだを水のように滑りながら、わたしの割れた皮膚の隙間へと入り込む。わたしの皮膚は薄氷のように透き通り、その奥で透かし彫りの薔薇のような肉が拡げられた。棘の生えた血管が脈打つように桃色の血潮に染まる様を――。

弱り切った皮膚など薄い膜のようなものだから、その包みを透かして差し込んでくる。あの一本の痛みが…

 花弁は払い飛ばされる。細い繊毛のように泳ぎながら、白は差し込む。割れた破片を拾い集めるように、指は漂う、しかしせわしなく。降り積もる赤い花片が幾枚もふさりふさりと、辺りを終いには穏やかな赤に(いだ)き込み、二枚の皿、その割れた鏡のような銀の釉の上に光るわたしの瞳は赤く大きく潤んでいる。温かな涙が朝露の如くしばしわたしの頬を伝い落ちる。唇のくぼみにたまった雨水を呑み込むと、僅かな塩が舌の上に仄かに沁みる。納まらない咳が凪となって揺らがす花々。

 窓辺は白木を打ち添えて、その上にガラスの瓶がさわさわと揺れている。いえ、その奥に透かして映るシャクナゲの花が揺れているのでしょう。息を吐きながら、もう一度あなたを求める。熱の上に加えて熱を、深い焦土と暗がりの水面(みなも)に、この血を溶かしましょう。

あなたの傍らで着かけた下着を脱ぐ。布団はわたしの熱で膨らんでいる。かすれた白に水の匂い。あなたが滑り降りる……わたしの肉の上に。

 傷の無い白、代えようのない肌に、わたしは無我夢中で口づけする。二つに分かれた肉も一本の痛みでつなげることができるのではあるまいか。ふと、そんなことを想う。

 あなたはわたしを抱き起こすと、この裸にそっと柔らかな白き毛布を纏わせる。長い廊下へ行くの?と尋ねれば、無言でうなづく。森へと続く長い掃き出し窓の傍で、わたしはあなたと二人並んで口をつむる。そのまましばらくじっと立っている。綿毛のような白いものが二、三、飛んできて、それが風の次第で舞って昇り、また降りるのをわたしはあなたの腕に身を預けながら茫然と見やる。そこかしこに、音楽のように草の立てる柔らかなささやきが響いておる。

 瞼を払いのけて顕わにされたあなたの瞳が、青々と覗き込む。深淵を縁から屈み見て、そこに何かを見定めようとするかのように、細い糸のような視線を垂らすあなた。水音のしないわたしの心。取繕うように微笑む。
「なにも引っかからないわよ…」
だって…その先に釣りあげる(なにもの)もないのだ。わたしは足早に廊下を走りだす。毛布が肩から飛び、あなたはそれを拾おうと足を止める。わたしは寝室に駆け込み、悪戯をした吾子のように息を弾ませて、鏡越しにくるくるとまわってみる。ただ唖然とした裸体が溶けた光の洞の中で虚ろに微笑む。わたしはわたしに唖然とする。あなたは近づいてくる。あなたの髪がわたしの肩にかかる。わたしはあなたに抱かれる。柔らかな上衣がわたしのそれに触れる。わたしのそれとよく似た細くて長い指。わたしの魂の一部。わたしの愛。いつなんどきもそれと等しい重さの抱擁をわたしに与えてくれた。

 静止した肉体はそれでも動いてゆく、スイムスーツを着て泳ぐように、布団をかき分けてわたしたちは緩やかに弧を描く。あなたは疲れてしまい、目を半ば閉じうつ伏せに横たわる。結びつくことのできない肉体は、それが定めと知るかのように静かに抱き合う、それでもわたしの心臓はわめき囁き、打ち破ろうと身を潜め、刺しつつ舐めて風嵐のようにこの肉体の坩堝の中を掻きまわしている。痛くて思わず手を当てたくなるような胸奥の疼きがある。それは消そうとしたもののうまくはいかないサガのようなもの。あらゆるものを灰に変えてしまう欲望の舌だ。

 椅子に腰かける時、わたしはまだ不安だった。クッションがどこまでも呑み込むようにわたしの身体を包むとき、わたしは思わず手指を伸ばしてあなたを掴んだ。しがむように強く。束の間ふかく安堵する。定まらない振り子のような重みのある心臓の鼓動もしばしふと、その音を和めてくれる。息を吐いてあなたの手に顔をうずめると、わたしは言わなければならなかったことを思い出した。

「……」

 あなたはただ静かに笑うばかりで、なにもわたしを責めない。それがどこまでもわたしを捕まえて、永劫の火(トフェト)へと突き落とすなんてことをあなたはしらない。それがどれほど優しい罰かなど、あなたは気づかない。

 でも、あなただって相応の対価を払っている。あなたはただ笑っているだけではない。そう、わたしはあなたの瞼が疲れて幾分蒼くなりかけているのに気付いている。なのに、わたしは意地を張って何も言うことができない。あなたの目は心なしか潤んでいて、いつでもわたしを下から掬い上げるように見るのだった。そしていつも、わたしが泣くよりも先にあなたが泣いてくれた。だから、仮に突然、終わりがわたしの命を捕えてしまったとしても、わたしはたぶん、おびえる必要はないのだ。心音が小さくなってもう耳を当てても聞こえないとき、血の巡る温かさのようなあなたの涙がわたしの頬に振りかけられることを疑わない。弱り切った心を元気づけてください…そう念じなくてもそうしてくれていたのね。わたしは小さく感謝する。もちろん、それは言葉にはならないままであったけれど。

 わたしはわたしの身勝手さを、あなたの純粋な反応を通して焼き付けられる。あなたが居ること、それがわたしには苦しい。あなたなど居なければよかった。これもまたわたしの身勝手さなのだ。ホアン、どうかわたしを許してください。あなたを求めながら、あなたを拒絶するわたしの天邪鬼な角があなたを刺し通す。眸を瞑った獣たちのように、あなたはいつもなんの抵抗も示さずに、わたしに求められるがままに与え、そしてばらばらにされる。あなたはわたしの鏡。その醜さを映し出す静まり返った水の板。求められるがままに流れ、(かたち)あるままに姿なす。ホアン、一体なぜあなたはわたしとともに居ようと誓いまでたてたのか。それは謎めいたあなたの微笑みに隠されたままだ。
 
 そしてわたしはふと、あなたがもう行ってしまったことに気が付く。わたしはあなたが置いて行ってくれた温もりがさめぬようにと掌と掌を組み合わせて、その内側の肌を包む。長椅子に巻貝のように丸くなり、目をつむってわたしは再び長い眠りに身を横たえる。

 

白昼夢

 遠く声がする。呼び声が、かっこうかっこうと静かに鳴く鳥の声をかりて、わたしの内耳に囁きかける。するとわたしはそちらへよろめく。でも皺だらけの両手が優しくわたしを引き留めている。色のない祖母の眸がわたしを見つめる。まるでわたしの意志を確かめるみたいに。そして諭すように話し始める。
「いいかい、ユーラリ、おまえはまだここでまってなくちゃいけないよ、ずっと先へ入っていってはいけないよ。ほら、あそこをご覧、鳥の影が見えるかい、あれはおまえの母さんだ。わたしの巣箱にユーラリ、おまえを残して、自分だけ飛び去ってしまったおまえの母さんだよ。いいかい、絶対にあの声のする方へ行ってはいけないよ。もし、この言いつけを守れなかったら、ユーラリ、おまえは決してここへは戻ってこれなくなるんだ。」
摩耗した腰骨をかばうように体を折り曲げながら、祖母はわたしをそっと家の中へと追いやった。そして湿った木戸が蝶つがいのきしむ音をたてて背後で閉じた。でもわたしの意識は依然として家の外に置き去られたままだ。風の音がびょうびょうとあたりを満たし、大きな地鳴りが丘陵から響いていた。それでも鳥の声は細く細く、千切れながらも寂しげにわたしの耳に響き続ける。家屋は湿っぽい雪の重みにその身を屈め、圧しひしぐ莫大な雪の下で軋みをあげ、吹き寄せる風に立ちのぼる煙も吹き散らされる。わたしの記憶の中で、村は一枚の写真のように奥行きを失い、雪に埋もれてゆく。

 気が付くと、わたしは窓辺に立っていた。傾いた小屋のひしゃげた窓枠に右手の五本の指を連ねて置いて、波硝子を透かし入る陽光に左手をかざしながら、水を含んだ巨大な雲塊が遠い山並みを越えてゆくのを、わたしはただぼんやりとみていた。

 祖母は時折、銃を担いで猟に出かけた。わたしはついて行かなかった。その音を聞くだけで失神してしまっただろう。苦痛でしかなかった。あの硝煙と銃声の取り合わせは、きわめつけの一撃のようにみぞおちに喰いこむ。どんな拳よりも深く。祖母はやがて村の中から一人の少年を選び出して猟に同行させるようになった。二丁の猟銃を狭い肩に引っさげて、祖母の後ろを追いかけてゆく少年の姿をわたしは幾度も窓辺から見送った。その光景は繰り返されるうちに、わたしをとても複雑な気持ちにさせた。ふたりは「ゆびきり山」の北にある毛深い森の中に棲む紫紺(しこん)色の毛長い獣を狩りに行くのだ。それは渦を巻く大きな象牙色の角を生やした樹懶(なまけもの)のような獣で、手足を伸ばすと三メートル以上もあった。その頭からは房をなして波打つ毛が垂れていて、その顔のほとんどを覆い隠していた。わたしは力なく瞼を閉じたその獣たちの死に顔を見ると眩暈がした。

 わたしはひとつの物音も立てず、草原に身を潜めた鹿のようにひっそりと、猟に出かけてゆく二人の背中を眺めた.。出てゆく時刻は測ったようにいつも正確だった。わたしは水筒に薬草茶を詰め、炊いた白米で握り飯をつくり、それをアルマイトのわっぱに並べた。そして居間の方卓(テーブル)にそれらを目につくように用意しておくのだった。祖母は飴茶色の掛け鞄に手際よく水筒とわっぱを仕舞うと、わたしが台所の窓辺に立ち尽くしているのを知っていて、出かける間際、必ずその入り口で決まり文句を口にした。「竈には火が、鍋には肉が、眸には風が、絶えずありますように」と。でも、わたしは祖母の顔を見なかった。わたしの意識は村の小径を進んでくる少年に奪われていたからだ。そしてまた少年も振り向かなかった。少年は小路を進むにつれてわたしのいる窓へと背を向けるように弧を描き、道なりに歩きながら玄関前の小さな菜園を囲む粗末な柵に寄りかかると、祖母が出てくるのを待っていた。木戸を押し開けて祖母が玄関から姿を現すと、少年は銃を担ぎ直し、それから何事かを祖母に話していた。それから祖母が歩きはじめ、二人は最初は並列に、やがて祖母を先頭にして縦列になって森の中へと消えていった。帰ってくる時間にはばらつきがあったから、わたしは少年を見ないことの方が多かった。彼は時たま、大きな獣の体を一人で引きずってきては、台所の勝手口に置いてゆくのだった。それでもわたしは最初、少年が戸板を隔てた向かいまで来ていることにすら気がつかなかった。それで少年の背中ばかりが意識の底に焼き付けられ、しばらくの間、わたしは少年の顔をあまり正確に思い描くことができなかった。そしていまわたしが見送っている雲はその少年の背中に似ていた。見つめれば見つめるほど、銃床が当たってねじれ、その裾をはためかせている無地の衣が目に浮かび、その襟口からすっと伸びた羚羊のような色素の淡い首筋がさわさわと大気の微粒子の中に揺れて見えるようだった。でもそれは誰もが見て即座に理解できるような具象の鏡(ポートレイト)ではなく、あくまでも不確かな印象の霧(ヴェイル)に包まれている。それでもわたしはそこにはっきりと少年を感じた。なぜだかわからないけれど、その雲の中にあの少年はいるような気がした。

 わたしは小屋の中を歩き回って目に映るものを注意深く確かめてみた。その家具や小物には慣れ親しんだ面影があった。居間の方卓の上には艶々と輝く大きな硝子瓶が堂々と置かれていた。埃ひとつついていないそのまあるい胴体には、(とろ)ける橘皮果醤(マーマレード)が満たされている。あの剥きたての甘橙(オレンジ)の果皮の放つ胸を締め付けるような甘くすっきりとした香り。小ぶりの果刀で無心に皮をむき、それが笊の中にうず高く積み上がって空気にまで沁み込み、部屋中が金木犀の花束のように眩しく輝いたことをわたしは思い出す。北西に向かって壁に切られた窓からは、楡の木の枝を透かして斜陽の光が差し込んでいる。その波硝子の窓を揺らす風には青草の匂いがからまっていて、わたしはそれを鼻先に嗅ぐ。そしてそれは瞬く間に夏至の草原の光景へとわたしを導きいれる。わたしの痩せた指を葦の茎でも拾うようにそっと掴んでいたあの少年の指先。たちどころに眼差しがわたしに触れる。一瞬はっとする。少年の頬が血潮を失い、悲しげな蒼紫に輝き始める。してしまったことを思い出す。すると後悔が湿気た重い雪となって、(むらと)に降り積もる。わたしは勝手口を開けて裏庭へと抜ける。節くれだった瘤の木が張り出した枝先に鈴なりに蠟のような白い花を咲かせている。梢の雪が崩れるみたいに、それがゆっくり首ごと落ちてゆく。
 
 乾いた瞼を力いっぱい押し付けて、わたしは眠ろうとした。疲れてもいないのに。すると、ぼんやりと光が見えた。夢はどこかに立ち去ってしまう。それを引き留めようと目をつむればつむるほど、光は強くなるのだった。そして、なんの手がかりも得られぬわたしを置き去りにして、夢は終わった。

 目を覚ますと、陽射しは物寂しい薄紫に染まり、すでに夕方なのだとわたしにはわかった。まだあの人の置き去られた香りが部屋の節々に深く沁み込んでいる。……でも、結局、わたしは話せなかった。言葉を選ぼうと近づくと、気持ちは足早に遠くへと離れてゆく。どう相手に受取られるかばかりが膨らんで、心がみるまに萎んでしまう。長椅子から起き上がり、廊下を歩く。硝子の重たい扉はいつの間にか開いていて、わたしは浴槽に満たされたぬるま湯へと、手を浸す。そこへわたしはつま先から滑るように沈み入る。微熱に乾いた肌に水が仄暗く寒い。

 肉体の陰の中に彷徨うかのように指先を伸ばす白い手ふたつ。

 肩に落した頭を拾い上げることもせずにうなだれた女を

 背負う白い器ひとつ。

 斜めに浴室を落ちていく陽が枝越しにちかちかと瞬き、

 壁に染みた蒼暗い陰のまにまに、

 女の裸もまた音もたてずに沈んでゆく。

 日没前、光が息づく間じゅう、わたしは昨日の出来事を思い出そうとしていた。蛇口をひねり、熱湯を浴槽に注ぎ足しながら。右手をその磨きのかかった石縁からたらして、たたきをはさんで向かいに切り取られた正方形の開口部から、庭先に戯れる最後の光たちを眺めながら。日の終わりに、真新しい夜に備えて、花や叢草は一滴残らず光を飲み干そうと身を延ばし、衣擦れのようなかさかさという音を立てる。その密やかな呼び声に応えるようにあちらこちらで幽霊たちが起き上がる。彼らは蜻蛉のようにふわふわと飛びはじめ、急にすばしっこくなって梢を飛び跳ねたかとおもうと、煙幕となって残照を受けとめ、空気を一瞬にして紫水晶(アメジスト)の霧へと変容させる。身を寄せ合い隙間なく敷き詰めあう草花はそんな気まぐれで手品師みたいな光たちと束の間の遊戯を楽しんでいるかのように、いつまでもいつまでも茎を震わせている。

 祖母はそうした夕べの時間を大切にしていた。彼女は猟から帰ってきたあとでも、体力が許す限り夕方のそぞろ歩きを楽しんだ。「昼と夜のすれ違う束の間の摩擦が生み出す神秘的な効果」と祖母はしばしば厳かに口にした。それには神話的な響きがあった。わたしは二匹の狐の尻尾が触れ合ってそこから火花が飛び散る様子を脳裏に思い描いた。ひとつは白い尻尾、もうひとつは黒い尻尾の狐たちがじゃれ合うと、その尻尾から色とりどりの火花が産まれて、大気を燃やす。それが夕焼けなのだと言う。狐たちは取っ組み合い、甘噛みし、記憶の中にまで飛び込んでくると走り回る。頭の中で扉がばたばたとせわしなく開け閉めされ、その無秩序な動作の中からふらりと記憶が逃げ出して、おもむろに脳裏に踵をつける。すると浴室の硝子に映り込むように白くて美しい母の横顔が現れる。母はなにかを探すように廊下の端に置かれた鍵のかかった棚を手探りする。そしてはっと何かに気がつくようにして首をひねり、透き通った森の木立のような眸でこちらを見つめる。わたしはひたりと動きを止める。刹那、音はすべて耳から逃げ去ってしまう。蜘蛛の子を散らすように、まるでかくれんぼするときのように。でも、母の視線はわたしを通り抜けて、浴室の壁のどこか向こう側へと注がれていた。これは記憶の眸なのだ。母は壁の向こうの誰かに優しく微笑みかける、すると目じりにちり紙を撚ったような細い皴ができる。そうして、まるで安心させるような口調で何事かを語り掛けながら、足音も立てずに静かにわたしを通り抜けて、壁へと進んだ。母は壁にすっぽりと飲み込まれてしまう。でも気配はわたしの意識の中にとどまっていた。母の手はわたしの後ろ髪を掻き上げ、そっとその首筋を撫でた。わたしは湯面(ゆおもて)に浮かべたままだった左手で思わずその指を掴む。しがむように強く。それは指先から手首までしかなかった。体のほとんどがなくなってしまっていて、それは記憶の母とは程遠い、不完全な部分でしかなかったけれど、指先に自分の手を絡めたとき、わたしはそれが本物だと信じた。その手にはあの懐かしい肌の感触があったし、きちんと手首には脈が打っていた。その指に触れていれば、母がどんな表情をしているか、わたしはわざわざ確かめなくてもくっきりと思い浮かべることができた。

「可哀想なユーラリ、牛乳を飲みなさい。すこし元気が出るでしょう。」

 母は片手で釉のかかっていない薄墨色の水差しをとった。その取っ手は自然な曲線を描いていて、まるで藤木の曲げ木細工を思わせた。駄目、お母さん、わたし牛乳なんていらない。わたしはそう叫んで母の手から水差しを払いのけた。牛乳が飛び散り、床に砕けた破片と一緒くたになってひたひたと水たまりになった。母は困ったような静かな笑顔で、そっとその右眉の端が下がっていた。わたしは離すまいとぐっと両手で母の手を握りしめた。それなのに、次第に、その皮膚は醜く崩れ始め、突沸してぶくぶくと泡立ち、火脹れのように真っ赤になった。そしてそれは黄色になり、褐色へとどんどんと鮮やかさを失って、しまいには、魚の干物のようになってしまい、とうとう消えてしまった。

「怖くない、ユーラリ、大丈夫、怖くない……」

 わたしは瞼を押し上げるふたつの大きな滴が、肌の外へと放り出されるのを感じた。それは頬を伝い流れ、湯面にぴちゃんと小さな水音をたてて落下した。獣の死に顔が映りの悪いテレビみたいにざっざっと切れ切れに現れる。どこからかホアンの声もする。少年が獣の頭蓋骨を切り落とし、そのねじみたいな模様の角を片手に掴んで、頭のない獣の体をわたしに向かって突き出す。流れる血はまるで生き物のように躍り出て、わたしがさっと差し出した容器の内側へ蔓草のような渦模様をなして泡立った。それからわたしは獣の体を無表情に受け取り、その重たい体を力一杯引っ張り入れる。ホアンが後ろ足を持って獣を押し込む。その二の腕に綺麗な筋肉の筋が浮き出ている。獣をなんとか台所まで運び入れると、わたしたちはどちらともなく目を合わせて、徒労にあえぐ息を整える。ホアンはすぐに敷居をまたいで出て行く。わたしは首を出して外の空気を吸うと、素早く勝手口に引っ込んで戸を閉める。瘤の木に獣の頭をひっかけようと爪先立ちしているホアンの姿がちらっと閉じる戸越に見えた。

 孤りになると、わたしはよく研がれた肉切包丁を取り出して、頭のない獣の体を見下ろした。そして「こんちくしょう、こんちくしょう」と呟きながら、忌まわしい記憶をばらばらに解体して消し去ろうと獣の毛を毟り、その肉をそぎ落とし、調理した。塩と香辛料の薫りが生臭い血の匂いを塗り消して、やがてぐつぐつと煮える鍋からは香ばしい肉の薫りが立ち昇る。ホアンが勝手口から控えめな声で、煮えかけでいいから少しその肉を取り分けてほしいとわたしを呼んでいる。それでアルマイトの手提げ筒にふたつの肉切れを汁と一緒に移すと、ホアンは「どうも」と左目を瞑って去ってゆく。

 代わりに祖母の声がした。わたしを呼ぶ砂州の丸い石のような声。年季を経て擦り減り、温かみに厳かな震えの加わったあの声が、「ユーラリや」と呼んでいる。それは深い霧のように耳の裏側に立ち込めている。「ユーラリ、今日のはどんな加減かね」と尋ねながら、皺だらけの細い手が深鍋から木製の丸い杓子で湯気を立てる獣の肉を拾い上げる。指持刀(ナイフ)を入れなくても崩れるくらいに柔らかく煮た肉には仄かに泥炭の薫りが染みついている。すると緞帳を引くみたいに霧が晴れる。あと一息のところでわたしは肉を食べ損ね、歯がかちんと打ち合わさると同時に思い出す。わたしは昨日、荒地にいたのだと。そして風に巻かれて帰ってきたのだと。
 水が浴槽の外へと溢れ出て、排水溝に白い泡をたてながら流れ込むのが、音だけしかしないけれどわかる。瞼を開くと、あたりは真っ暗だった。わたしは暗い水の中に孤り浮かびながら、まだ意識の中に取り残されている母の横顔と、屠られた獣のもつれた長い毛を思い浮かべる。悪寒が熱とともに背筋を駆けてゆく。酷く頭が重たい。一口でいいから、冷たい水が飲みたい。体は水の浮力を打ち消してなお重く、腸に石でも詰まっているみたいだった。蛇口をひねって水を止めるので精いっぱいだ。風呂から上がらなくてはいけない。身体を拭かなくてはいけない。服を着なくてはいけない。それから髪を乾かさないといけない。夕食をつくらないといけない……しなくてはいけないことは数えはじめるときりがない。その言葉の響きだけで浮き輪に穴が開いたみたいに気力が抜けてゆき、萎むように心の中が空っぽになる。すると無気力が心地よい。わたしは漂い始める。記憶たちはそこかしこに偏在していて、その滑らかな断片はわたしの停滞した心に棲家を求めるかのようにして現れる。触れるものを斬るための刃をその後手に隠しながら。わたしは鼻先だけ湯面に浮かべてあとはすっかり黒練りの水の中に沈めてしまう。すると胎動する鼓動だけが聞こえて、羊水の中にいるような静けさがわたしを包み込む。傷つけるものの近寄れないその場所でわたしは再び目を瞑る。

 石と石が触れ合う音。足裏でそれが十分に固定されていることを瞬時に判断しながら、少しずつ進んでゆく。浮石を踏めば、大怪我をするかもしれない。息を整えようと立ち止まり、視線を北のほうへ伸ばすと、世界のあらゆる緑に彩られた地平線の向こうに白亜の断崖が見えた。わたしとあなたはそれを「ゆびきり山」と呼んでいる。それは切り立っていて、山という言葉の持つたおやかさなど微塵もなかったけれど、結婚式を挙げたとき、あなたがあの威厳に満ちた台地を指さしながらわたしにそう囁いてから、わたしもあの崖を見るたびに「ゆびきり山」と思わずつぶやいてしまう。わたしたちはあの断崖を一望できる森のはずれにある丘の上で誓いを交わした。それはもう五年も前のことだ。
 雨傘の下でみんなで踊ったときの思い出すと今でも可笑しくなる。この地方のしぐれた気候は、あの日も、長机に並べられた短杯(ショットグラス)に一センチばかしの大雨を降らして急ぎ足で通り過ぎた。杜松(ジュニパー)の香りがするすると立ち昇り、蒸留酒(ドライ・ジン)の瓶を倒したように鼻先に透き通った。茶碗(ティーカップ)は三角琴を鳴らすように鈴々と鳴り渡り、溶けた蝋のように受け皿から水が流れ落ちた。大音響を響かせて稲妻が閃き、濃紫に雲の腹が染まった。わたしたちは大慌てで近くの納屋に逃げ込もうとした。電離した大気の立てる海の薫りに似た臭気があたりに垂れこめ、雲は沸騰した黒い液体のように波打ち、鈍重な鯨の大群が悲しげな鳴き声を上げ、白波を蹴立てながら大海原を突進するように、突如としてわたしたちへと押し寄せた。濃密な霧は隙間なく泡立つ乳のように人々を包み込み、その瞬間、様々なものが身の回りをすり抜けて飛び去っていった。わたしはエイハブ船長のように納屋の入り口に凍り付き、脈の中で火が燃えているのを感じた。激しい雨に草叢はひしぎ、それは甲板を押しつぶす白鯨のように泳ぎぬけた。誰も言葉を発しなかった。唐突に音は消え、わたしたちはすべての騒乱の中心にみられるという、あの魅せられた静寂の中にいるのだった。そしてしばらくしてから、草地に降る静かな雨の音がまるで大地の底から染み出すように湧きあがって来た。
 わたしはじっと立っている。忍耐強くあたりの寂蒔とした気配に耳を傾けながら。草を踏む音、あれは風とは違う。あの重み、あの拍子、あれはホアンだ。振り返るとやはりホアンがいる。彼は銀梅花の冠を握っていた。そんな残念そうな顔をしないでよ、とわたし思う。これはこれで素敵なことじゃないの。
「ユーラリ、納屋に入ろう。」
と彼は一言うながした。中では人々が思い思いに体を拭いたり、上着を脱いだりしていた。藁の饐えた匂いがするが、よくよく見ると十分に容積のある頑丈なつくりの納屋であることが分かった。わたしはその太い壁柱に身を持たれて深々と息を吸い込み、それからそれを注意深く吐き出した。まるで自分の呼吸の拍子を振り子のような一定の振れ幅へと調整するように、なんどかそれを繰り返した。それにしてもなんて重苦しい場所なんだろう。
 ヨジカ・サレキが外から駆け入ってきて、人々に見えるように手に握られたものを左右に振った。それは瓶口から漬けこまれた薬草の薫りを強く漂わせた。すると人々は笑い出し、口々にさあ、戻ろうと言い出した。ホアンがわたしをうかがうように静かにこちらを見たので、わたしはうなづき返した。
「外に出ましょう。そして踊りましょう!」
人々は傘をさし、それをゆらゆらと風に揺らしながら丘の上へと戻って行った。ホアンの片手が力強くわたしを先導し、わたしは何も考えることもせず笑い続けた。あの一陣の嵐が堅苦しい婚式の空気を打ち砕いてさらっていってくれたのだとわたしは思った。シロが歌い始めると、人々はその輪に加わり、ホアンが踊り始めると、やがてみんながその輪に加わった。誰かが持ち込んだ火紐壺(ランタン)の明かりが湿った高原の空気に白々と燃えていた。
 
 わたしはもう一度、その断崖をまじまじと見つめた。その頂は雲に隠されて見えなかったが、高くつきだした腰のあたりまではっきりと見ることができた。その岩肌は雨垂れの跡をしめす淡黄色の筋を引き、水蒸気に煙る大気の中で乳のように光っていた。雲が移ろうにつれその様相は言葉では追いつかないほど目まぐるしく変化する。雲の切れ目からひときわ強い光線が投げかけられると、岩肌はみるまに輪郭を研ぎすまして目もくらむばかりに輝き、それは長い年月をかけて風雨に漂白されてしまった立ち枯れの木や鹿の骨を思わせた。
 わたしは視線を足元に戻し、低木もまばらな荒地を縫う色黒の石たちの上を歩いた。それはごつごつとしているいっぽうで脆く、雲間から差す光りを受けて表面にちりばめられた石英の結晶を輝かせた。荒野は一年中湿っていて、そのせいで岩には苔があちこち生えており、それが足元を滑りやすくしていた。それでいつもここを歩くときは石の形に注意して、一歩一歩をできるだけ石の重心に乗せるようにして歩かなくてはいけない。そうやって細心の注意を払って歩いていても、ふとした気のゆるみで浮石を踏んづけ、転んだ拍子に硬い草の茎に嫌というほど掌を突き刺したり、飛び出た石の角に太腿を打ち付けたりする。ここは散歩という言葉が連想させる憩いや安らぎとは程遠い世界、絶えず精神を張り詰めて、次の瞬間に生じ得るいかなる事態への備えを要求する場所なのだ。しかし時折、わたしはあえて危険を承知でこの場所を通りたくなることがある。遠くには寝そべった女のようになだらかな丘がいくつも黄緑色の影を伸ばしていて、降り積もって溶けた生き物たちの匂いが風向きによっては鼻先に痛いほど香る。それは荒地のところどころに湧き出している瀝青の匂いだ。反射的に顔をしかめたくなるようなこの匂いが好きだという人がだれかいるだろうか。けれど、わたしはこの匂いを嗅ぐたびに、祖母が雨漏りを防ぐため屋根に塗っていたタールの薫りを思い出して懐かしくなる。あわせて荒地では泥炭を採集することもできる。それは薪の代わりに祖母がよく使っていたものだ。ショベルを使って掘り起こし、竈にくべると、それは海藻や湿った磯の薫りを放って燃えた。じくじくとした湿地に根を張り、頑丈な茎で空へと身を伸ばすスゲの株があちらこちらにこんもりとした塚をつくっている。それはお堂の裏にある土を盛り上げて造った墓と似ていた。そうだ、ここは死者たちの場所だ、とわたしは思う。ここは孤りきりになり、遠くに過ぎ去った彼岸の日々に目を凝らす場所なのだ。

 断崖のほうから岩の割れるような鈍い音が木霊した時、わたしはようやく気がついた。心臓が絞るように小さくなって、鼓動がひときわ大きく、一瞬響く。耳が腫れぼったい。鼓膜が内側から押されているのがわかる。悪い兆候だ。天候が崩れるときはいつも決まって、体が機敏に変化を感じ取る。だが、それに気がつくときはたいてい手遅れだった。風が吹き始める。雨交じりの重たい風だ。泥を含んだ低い風だ。急がなければ、でも、ここは走り抜けることの出来ないがれ場の上だ。わたしはそろそろと動くことしかできない。息の詰まるような緩慢な動作で、猛然と押し迫ってくる嵐の気配へ向かっていかなければならない。そう、悪いことに、わたしの家はあの断崖の方角にある。だから荒地は危険なのだ。

 そしてとうとう、地面を捲り上げるような地鳴りを響かせながら、風の一陣がわたしに真正面から襲い掛かった。風は溺死させる波のように重たく、呼気は気管へと押し込められる。咄嗟に身体を低くかがめて、かろうじて風の圧力を逃がし、倒れるのを防ぐ。

 風たちは人手を増していよいよ弄ぶようにわたしを取り囲み、小突きまわした。突き返しても振りほどいても、それは絡みついてきた。やがてわたしの首にも腕にも足にも、風は巻きつき、そしてわたしの体を捻りあげ、とうとうひっくり返した。わたしは、あっと声をあげたかどうか、あるいはあまりのことに怖くて何も叫ばなかったかもしれない。受け身のとりかたなんか知らなかったから、両足を宙に投げ出して、たぶん本当になさけない格好をして、軽々とわたしは放り出された。そして湿った樹皮の裂ける音がして、わたしは入り組んだ枝の中へと転がり込んだ。瞳を瞬ばたく間もなかった。茫然と、唇を半ば開いて、その折り重なった影の隙間から、わたしはしばし銅板画のような暗く荒れた空を見つめていた。
 
 雷光の帯に白く削られた空が傷口から黒いよだれを垂らす。

 雨は溝鼠(レミング)みたいに泥沼の大地を走り回る。

 雲は押しのけられるが直ぐに流れ込み切れ間がない。

 暴風は回転する擂粉木棒でゆっくりと叢を擦り潰してゆく。

 嵐雲の喉奥に、白く光る歯。

 たばしる鋭い光が雷鳴の平太鼓(ティンパニー)を踏み鳴らす。

 樹が縫い針みたいに飛んでいく。

 森がその背中を逆立てて、針鼠の群れのように行進する。

 滝壺が耳を閉じ込め、瀑布が鼓膜を撃ち破る。

 自然が一手を打つ時、

 その指先で桂馬(ナイト)を進めるとき、

 その突撃に、人は盤に転がる無力な(ポーン)でしかない。

 どれほどの時間そうしていたのだろう。わたしはようやく上体を起こすと足を折って屈みこんだ。背中から倒れたせいか、首筋が焼けるように痛む。灌木の茂みは腐ったような赤い葉をぶるぶると震わせていて、わたしはそこからうかがうように息をひそめてあたりの様子を見回した。海がどこか遠いところから捲れあがって、内陸の丘陵地帯に押し寄せてきたみたいに、あたりは轟轟とした響きで満ちていた。すぐ目の前にはわたしがさっき歩いていた道が見えた。緑青のような苔の生えた暗い色調のがれ場が、青銅で仕立てたような道筋をずっと丘の上のほうまでつけていて、そのあたりでは低い松林が身震いする犬たちのように水音を響かせていた。樹はどれも苦しそうに幹をしならせていた。荒々しく刷毛を払ったように、枝々の葉は一面ぶれた濃緑(こみどり)の筋となって重なり合い、燃えるようにぐらぐらと煮えて見えた。
 
 わたしは両の掌を伸ばして、左右の岩をひとつづつつかみながら、灌木(はいまつ)の茂みから這い出すと、ゆっくりと丘の頂上を目指してがれ場を登っていった。林の中に入れば……とわたしは思った。この渦巻く矢のような風から安全に逃れるには、それしかないように思えた。泥が雨水と一緒に、風の振り乱した絵筆を離れ、身をくねらせる蛇のように空中を飛んでゆく。風は狂った指揮者みたいに腕を振り回し、気流をかき乱し、ほとばしらせた。いたるところで大地が甲高い音をけたてて爆発しはじめ、突き飛ばされた砂利や小石が、まるでひとつひとつ意識を帯びるかのようにして飛び出てゆき、わたしの頬や髪や首や、あるいはその周囲のあらゆる物質に飛びこみ、次の爆発を引き起こした。世界は飛び交う濃密な微粒子の集まりへと還元され、それらはぎりぎりですれ違い、交差点ではじけとび、どんどんと混乱し、あちらこちらで衝突を引き起こしていた。飛びくる小石や泥を避けながら、ひとつの岩からひとつの岩、ひとつの茂みからひとつの茂みへと、あちらに少し、こちらに少し、といった具合に、岩陰を進むトカゲのようにわたしは前進した。あっちまでいって、それから横に少し動いてと、わたしは考えた。でも、考えることはあまり役に立たなかった。理性はすでに二歩も三歩も後退し、あのすりきれた胡桃の殻のどこかにしまわれたまま忘れ去られていた原始の感覚が頭蓋骨の中でくすぶり始めた。それはわたしに属さない野獣の領域からわたしの肉体の主導権を握りしめた。

 そして棍棒を振り上げた。それを力一杯降り降ろし、怖気づいてしり込みする感情を絞り場の葡萄のように押し潰すと、どこかへ放り捨てた。前進せよ、前進せよ、と野獣は吠えると、右手、左足、左手、右足とひっぱりあげた。ばちばちと電気火花の散るような音が響いていて、雹が降り始める。恐ろしさで頭の中が稲光のように真っ白になる。けれども、鞭のように打ち込まれる激痛が、そのたびにわたしを内側から頭突きし、咆哮し、わたしを目覚めさせる。手や足や顔の様々な場所から、じんわりと藁の燃えるような鈍痛が立ち昇っている。灌木の鋭い枝先や濡れた岩のとがった角で、わたしの体は少しづつ、そして確実に、傷つけられているという言うのに、風はまるで納まる兆しを見せなかった。それは彼らの猟奇的な性質を明るみに出す。つい先ほどまでさらさらと梢を撫でていたそよ風の甘やかな愛撫と表裏一体に結び付いた、自然というものの恐るべき母性の一部を。わたしを捨てて、遠くへ走り去ったすべての存在と同じように、それはわたしを拒み、世界の外縁から弾き飛ばそうとする。しかしこれに野獣は憤怒する。強烈に憤怒する。烈火のごとく憤怒する。突き放す風の手の残忍さに野獣は食らいつき、割れた頭蓋骨をのぞき込むあの少女の燃える銅の眸を帯びて、毛を逆立てながら前進する。


 格闘はわたしを激しく消耗させた。野獣はわたしを木立のほうへ引きずっていこうとしたけれど、もう肉体は限界で、筋肉もみるまに力を失っていった。「ユーラリや、もし自然がいきりたって勝負(チェス)を仕掛けてきたときには、蛇のような狡猾さを忘れてはいけないよ。謙虚に地に伏してその力を受け流し、事象の隙間を縫いなさい。」と祖母は楡の木をつつきながらわたしに微笑んだ。わたしは風の流れをつかむため肌をそばだて、その切れ目を見つけようと耳を澄ました。抗うのではなく、それに委ねるのだ。しばらくすると風は絶えず南に吹いているのではなく、北西に吹き返しがあることがわかってきた。冷静さを取り戻したわたしは風の拍子を取り、その吹き返しを割り出しては機会をとらえて素早く岩陰を走り渡った。何度か予想外の風に叩き返されることがあったものの、この方法はそれなりにうまくいきそうだった。失敗を繰り返しながら微速な前進を繰り返えすうちに、やがて、わたしはこの突風にうまく対処できるようになる。これは殺す嵐ではない。わたしを少し試しているだけなのだ。するとわたしは自分が思ったほど圧迫されているわけではないことに気がつき、またわずかに自由になる。自分を超越した存在とひとつになり、調和を手に入れる。混乱は過ぎ去り、わたしは自分がさっきよりも身軽に動き始めたことを感じ取る。風はいまやわたしの味方ですらあった。さあ、木立はもうすぐそこだ。

小屋

 耳を澄ませよ。その始まりには何の音もなく、そこにはなんの聴覚も介在しない。けれど、わたしは聴くことができる。肌に触れる前に、最初の一滴が雲間を降下している間に、わたしはそれを肌に埋めた無数の耳で聴くのだ。 

 わたしは打ちかけの文字をカタタタタタタと連打して消してしまうと、ぱちんとノートパソコンを閉じた。

 雨は震わせ始めた。あらゆるものを少しづつ、ばらばらに揺らし始めた。まるで砂をふるいにかけるように、空気を揺らし、そこから細かな塵芥(ちりあくた)を払い落としてゆくのだ。

 霧は息吹き始めた。それは草地を(こす)るように、すれすれに流され始めた。まるで包帯(ガーゼ)を巻き付けるように、木立を覆い、そこから柔らかな香煙を()き出してゆくのだ。あたかも空気の放精のように、それは草花の繊毛を濁らせ、萬年草の鮮やかな色に指を沈め、地衣類をその腹で撫でた。泳ぎながら白煙は這い寄り、そして立ち昇る。その柔らかくもやもやとしていた毛並みはやがてひっそりと濁りはじめ、火山灰を思わせる鼠色を纏う。気圧が低くなり始めている。断崖はすでに見えない。そして無数の稲子たちの羽音のようなものが、遠くから近づいてくる。雨は少しづつ密度を増してゆき、その白い筋がやがて空気そのものへと変容する。屋根全体がばちでやみくもに鳴らすように響き始める。草地を打つ稲子たちの小さな足音が重なり合い、唸り声を上げる鈍重な獣の達の群れのように、突如として襲い掛かったとき、軒先がセントエルモの火のように光って見えた。いつどこから、空に張られた無色透明の皮張りに、稲妻が最初の一打を加えたっておかしくない。もう辺り一面、もうもうと猛烈に土砂降りの雨だ。

 わたしはノートパソコンの電源コードをソケットから引き抜くと、それを無意識のうちに端のほうから几帳面に巻き直した。初夏の嵐はとても気まぐれで、綿毛のような雲が気がついたころには膨れ上がった樋熊(ヒグマ)のような形相で、その暗い剛毛を逆立てて迫ってくる始末だった。断崖のほうで積乱雲が立ち昇るときは特に注意が必要だった。遠く離れているならば、それは美しい夏の日の一コマでしかないが、潜り込むものには誰かれなく襲い掛かる恐ろしい性格の持ち主だから。ユーラリの帰りはわたしの当初の予想よりかなり遅れていた。お堂のある村までは往復で一時間ばかり歩けばよいはずだった。そこで必要な用事を済ませても、せいぜい二時間もかからないだろう。しかし、彼女がでかけてからもう三時間近くたつ。せめて、出発が遅れて出先にとどまっていることをわたしは願っていたけれど、「今から帰る」と一通メールが受信トレイに入っていたほかは、なにひとつ音沙汰なかった。それもすでに一時間以上も前のことだ。なかば苛立ちすら覚える状況だった。

 風のいななきが樋を突き、居間の掃き出し窓についた水滴が、一斉に横一直線にたなびいた。それは溶けたガラスのように軒先から放り出され、水飴のように尾っぽを伸ばしながら霧の中へ飛び去って行った。バケツのようなものが転がっていく音が、庭の水場のほうからした。わたしは肩を縮めて、その音の方へ意識を集めた。それは癇癪を起こした子供が(ブリキ)の積み木を投げつけるようなひどく乱暴な音だった。家はまるで大波に打ちのめされる手漕ぎ舟のように、棟木をきしませた。巨大な抹香鯨たちが平たい尾で小屋の四方を滅茶苦茶に叩きつけながら泳ぎ去ってゆくような感覚に、自然と方卓(テーブル)の端を指が握り締めている。どこかに体を寄せていないと、一瞬のうちにばらばらになりそうなすさまじい音が聴覚を翻弄する。小屋組みは不気味に関節の節々を鳴らしながら左右に揺れているように見えた。わたしは頭上を見やり、耳をそばだてて部屋の真ん中に立ち尽くしていた。もし破壊の兆候が現れたら、即座にそれに対処できるように。まるで船底で襤褸(ぼろ)切れと角材を手に息をひそめる乗組員たちのように。

 壁も、柱も、部屋の真ん中に置かれた小さな円卓(テーブル)も、窓枠にはめ込まれた硝子も、激しい風雨の音にばらばらに叩かれ、まるで物性を失い、打楽器のように振動した。不安の重さが胸を歯噛みする。あらゆるものが不確かで、定まってもいない。そしてそれには常に悪い予想がつきまとう。部屋の真ん中に椅子を引きずっていき、そこで座って腕組してみたけれど、布地に覆われた座面におろした腰の、どこか居心地悪く、しっくりとこない納まりに余計落ち着かなくなる。ぬるいコーヒーの描く謎めいた図形のように、脳裏に浮かぶ、とりとめのない景色たち。しばらくすると、あたりはますます暗くなり、比例して気温がすこしづつ下がり始めたことに、わたしは気が付いた。追い打ちをかけるような悪い兆候だ。鉄火炉(ストーブ)に薪を継ぎ足しながら、わたしは、泥をかぶり濡れた体を震わせながらどこかでユーラリが助けを呼んでいるのではないだろうか、という不吉な予感に苛まれていた。心象に現れる彼女は岩地に蹲り、風のなすままに煽られていた。長い髪がコロナを放ち、それが極光のように輝いている。顔は見えない。でもわたしにはわかる。彼女が助けを求めているのだということが。待っているよりもむしろ迎えに行くべきだとわたしの感情は働きかける。一方で、理性は自力で帰って来た時のためにしかるべきこれこれの備えをしよとわたしに命令する。まず湯を沸かそう、とわたしは短い協議の末に決定する。彼女は頭のてっぺんから足の先まで水浸しになっているに違いないから、胃に温かいものを用意してあげなければならない。それに仮に探しに出かけるとしても、それ相応の用意が必要だ。わたしは悪い考えを振り払い立ち上がる。どうしたってわたしも濡れてしまうだろう。

 わたしはケトルを探しに台所へ入り、それが食器棚の折り畳み式の天板の上に頭を逆さかさにしてたてかけてあるのを見つけた。蒼暗い部屋にそこだけ光を集めてぼうっと滲んでいる。手を伸ばすと、その円をなす鏡面仕上げの面を滑るように、歪んでねじ曲がった肌が波を打った。その奥で黒い二粒の歪んだ闇が(まばた)いている。不安、その一文字が頭を離れない。さっとひっくり返して、蛇口のねじを回すと、すぐにどっと渦巻きながらケトルの底を黒く濡らした。その半ばまで水を満たし、鋳鉄を折って(かたど)られたコンロの爪の上にケトルを移すや、手首をひねりつまみを回す。シュッと蛇の吐息のようなものが円盤に開けられた小さな丸穴の連なりから漏れ出るとすぐ、低い息吹が空気を揺らし、火の匂いが立ち昇った。

 その暗い銀に揺らめく水を見つめていると、しばらくして小鳥が木の梢をたたくようなかすかな音が荒い風の怒号に交えて聞こえた。この嵐の中で虫探しをする啄木鳥(キツツキ)もいないだろうにと、わたしは朧に思った。するとすぐにもっと強くはっきりと、湿った木をたたく音がする。空耳か、いいえ、それは何度も玄関の戸板を拳骨で打ちつけていた。

樹帯

 緑の毛を逆立てる狼たちの間へと潜り込むと、わたしは衣服の泥を無意識のうちに両手でたたいた。湿った泥は織り目の隙間に逃げ込んでかえって染みを大きくした。林の中は、恐ろしい風音はすれど、あたりはしんとした動かぬ空気が占めていた。溶けた芒果(まんごう)のような鮮やかな菌糸が薄暗い樹根を這い巡り、地衣類が独特の斑模様を幹に浮かび上がらせている。わたしはしばらくどちらへ歩いていったらいいのか逡巡し、やがて決心というよりも不安から、背中を押されてふらふらと歩き始めた。痛めた指や腕や膝から、血が滲むのを拭うゆとりもなかった。
 深く陰に沈んだ苔草を踏み散らし、歩き続けても、ゆく先に出口は見えなかった。わたしは歩きなれたあのいつもの道を外れて、奥深い森の中をさまよっているに違いない。そんな疑念が次第に輪口を狭くする紐のように喉を絞めつけた。飛び散ってゆく花びらに混ざる虚無の匂い。深い百合の香り……とても疲れていたのに、そう、息をするたびに肺が痛んだ。けれども、わたしは蹲ることも、立ち止まって息を整えることもしなかった。そうしてしまえば、もう二度と、この森から出ることはできない、そんな気がした。
 吐息が喉に詰まるような湿気た暗い森はどこまでもひっそりとわたしにつきまとった。目を凝らし、折り重なる木立の向こう側に一抹の光でも見えはしないかと思って、わたしはじっと眺めた。すると爪先を節くれだらけの太い根に引っ掛け、もんどりうって転んだ。突いた両掌に腐葉土の薫りがした。見上げると、樹々の濡れそぼった木葉は鋭く尖り、その切っ先に抜き取られた空には稲妻の気配がおかれていた。わたしは立ち上がり、また歩き始めた。眸は吸いつけられるように樹皮の銀色の光や茸の放つ仄かに白い光に吸い寄せられては、それが木立の切れ目ではないとわかると失望したようにまた彷徨った。でたらめに歩き回り、棘だらけの蔦で腕をひっかいたり、額を針葉に突き刺したりしているうちに、もうまわりのすべての事がどうでもよくなってきて、頭に無色透明な造影剤でも流し込んだみたいに、なにもかもがぼんやりとした塊になった。わたしは大きく揺らいでいる鏡のようなものに近づいてゆき、そこにうごめく肉塊のようなものが浮かんでいるのをじっと見つめていた。それは唇のような桃色の肉をむにょむにょと動かしながら、種子のような二粒の闇を瞬かせている。すると破裂音がして、白が跳ぶ。爪の間に針でも差し込んだみたいに、一瞬にして意識が鮮明になる。じっと眺めると、そのうごめく肉塊は水溜まりに映ったわたしの顔へと戻ってゆく。いびつな毛の塊がわたしの頭にくっつき、シュールレアリストの彫刻さながら奇抜な紋様を描いている。それは分解され、雨風に膨れ上がったわたしの髪の毛だった。毛の塊を縛っている髪留めによって、とんでもないところでとんでもない形にわたしの髪は再構築され、それが奇妙な帽子のように頭に乗っかって見えたのだ。わたしは首を伸ばして覗き込み、髪留めを取る。長い髪が多頭蛇(ヒュドラ)のようにのたくり落ちる。

 母の髪、暗い髪、いつも梳かれ、濡れた羽根のように艶やかに枝垂れていた。その前髪がわたしの頭に触れると、わたしたちの二つの頭は同一の闇の中に溶け落ち、見分けがつかなくなる。傍らにある母の肉体より、その長く密な毛髪のほうが包容力に満ちていて、冬の晩に窓に引かれた厚手の窓掛(カーテン)のように、わたしを疎外感から引き離し、甘やかな暖気に包み込んで落ち着かせた。それは燦然とした黒い太陽、頭蓋より流れ落ちる至福の黒い母乳。愛は決して言葉にまで熟しきることのない原初的な液体で、髪は岩盤を縫って地表へと延びた水脈のように、その鉱水を細い毛先から、一滴、また一滴と心に補充してくれる。親鳥の編んだ巣籠の中で、温められる卵のように、そのしばらくの抱擁の間、わたしは安心して眸を閉じた。それでも、母が頭をあげて髪をかき上げてしまうと、目に映る景物は不安に充ちたもの以外のなにものでもなかった。母の体は血の気を失い、眸は冬空のように冷たく曇っていた。三日月のようにその頬が痩せて映ったのは、言葉に刻印することもできない山のような堆積物がすでに母の心を圧し潰していたからなのだろうか。新月が来たら母は消えてしまう。そんな兆しをわたしは無意識のうちに感じ取っていたのだろうか。取り残されることの恐れは夜と闇が相共に伏すように、常にわたしの肌の内側に抱き込まれて存在していた。わたしの内面的な傾向を支配し、それに根差し、成長していった。ただ恵まれていたのは、それをわたしが自覚できるよう、手助けしてくれる人がいたこと。それが他ならぬわたしの祖母だった。気の触れた母は(祖母は実の娘の鬱病にたいして極めて冷静な態度でこうした言葉を使うことがある)、わたしに危害を加えようとすることは一切なかった。子供への愛は常に母の内側にあったけれど、その扉が開かれている時間はどんどんと短くなり、終いには、ぱったりと何の物音もしなくなった。彼女は扉という扉を何の理由も示さずにすべて閉ざし、わたしに背中を向けてしまった。

 それからわたしは手の甲を思い出す。アイロンをかける母の手首。衣類の皺をひとつひとつ丁寧に伸ばすように動く母の腕。アイロンは実はどこかで母の神経とつながっているのだと、さらっと匂わすようなその手つき。わたしが思い返すほど、それは親しく肉になじみ、まるで有機物だ。その取っ手は指の腹の描く起伏をなぞるようにぴったりと手のひらに収まっていた。そこにはなんの不自然さも、なんの不一致も入り込む隙間がなかった。まるで熟達した戦士が振い慣れた刀で空中に複雑な模様を描くように、母はアイロンを縦横無尽に動かして、衣服のどんなささいな皺も吸いとってしまうのだった。わたしは母の隣で、洗い立ての衣類からアイロンの熱が浮かびあげる様々な匂いを嗅いでいた。それらは衣類が干されている間にその傍らをすり抜けていったあらゆるものの形をわたしに想起させた。風に剥ぎ取られる以前に、それらはどんな実在と結びついていたのだろうか。見えないものから見えるものを想起することはわたしにとってごく自然な楽しみの一つにすぎなかった。それは難しくはない。

わたしは次々に鼻腔から映像を抜き取り、両眼から投影した。暖かな母の気配はアイロンの湯気となって立ち昇り、羊水のマントになって包んでくれた。わたしは世界に浸りきり、ある一瞬から測ることのできない時間を光速で飛び越えて、ふたたび何一つ変わらないその一瞬へともどると、双眼に焦点を取り戻した。

 深々と差し込む斜陽は部屋を結晶化した。母は琥珀の中に閉じ込められてその細い四肢を微動だにしなかった。肉の焦げる奇妙な音がちりちりと鳴っていた。お母さん、なんか焦げ臭いよ、ねえ、とわたしは心配になって母に言う。しかし、母の表情は、蠟で精巧に象られた人形のように蒼白く、なんの変化も読み取れなかった。わたしは手を伸ばして母の腕をつかむ、そうしてゆさぶろうとして手元のアイロンに気がつく。そして目を見張る。鉄の熱した切っ先が母の手の甲へめり込んでいる。それが肉を焼く音が白い煙とともにうっすらと立ち昇る。お母さん、火傷、火傷!っとわたしは母の腕を揺さぶり、無我夢中で叫んだ。アイロンがぐらりとゆれて重たい音をたてながら床に転がった。母の甲には歪んだ三角の焼跡がくっきりと残っていた。すると突然、母の眸に生気が戻り、わたしを驚いたような眼で見つめてからこう言った。
「どうしたのユーラリ、そんなに大きな声で。」
わたしが火傷、火傷ともう一度繰り返すと、母は自分の手の甲を見つめ、それから頬だけが緩むように微笑んだ。わたしを安心させようとしてそんな表情をしたのだろうとわたしはしばらく思っていた。でも、今思えば、あの眸の病的な暗さが陽射しに隠れて指し示していたものは、ただ純粋な鎮痛効果に過ぎなかった。彼女が火傷のひりつく痛みから、束の間の安らぎを取り出したという、ただそれだけのことに。一瞬だけ、母というものを空気中に切り取っているすべての輪郭線が和らぎ、その肩は心なしか軽くなって下がったような気がした。それから母はわたしに言った。
「ありがとう、ユーラリ、手当をするわ。」
「救急箱を持ってくる。」
と急いで立ち上がろうとするわたしを母は引き戻し、その時の手には異常なほど力がこもっていた。
「直ぐに包帯を巻くのは毒よ、冷やさないと、それに、このことはお祖母さんには秘密よ、心配させたらきっと死んでしまうから。わかったわね。」
母の口調に含まれる異様な殺気に、わたしは何も言い返すことができなかった。わたしは咳き込み、部屋に残るあの気味の悪い香りから少しでも遠ざかろうとふらふらと窓辺へ吸い寄せられるように歩いて行った。母はわたしに背を向けて、しばらく何事かをぶつぶつとつぶやいていたが、やがて立ち上がり、部屋から姿を消した。
「お母さん、きっとよくなるから、頑張って。」
とわたしはなんとかその背中へ向かって叫んだ。その声は間違いなく母の耳に届いたと思う。その背中を覆う長い髪が、まるで初期微動を思わせる震えにぶれたのを見たからだ。わたしはまるで枝に張り渡された柔らかな銀の巣のように、沈む母を受け止めようと言葉を差し出したつもりだった。そうだ、蜘蛛の糸は衝突するすべてのものを抱きとめる。それはなんて優しい仕草なのだろう。そしてそれがたまらなく残酷なのだ。何も言わなければよかった、ただ母が通り過ぎるに任せればよかったのだ。わたしが不安な眼差しを向け、一途に心配すればするほど、母は見えない蜘蛛の糸へとからめとられ、ますます身悶えるだけなのに。洗い場の水音に紛れて、母が嗚咽していたことをわたしは知らない。でもわたしは今、耳に聞いたこともないその声を確かに感じることができる。引き剝がされた様々なものを運び込む、きまぐれな記憶の風が、遠い昔に失われた声のすべてをわたしの内耳へと注ぎこもうとでもするかのように。

 わたしを傷つけたくなる衝動をどのように母が抑えていたのか、わたしはあの時になるまで知らなかった。わたしの代わりに、母は自分の体を傷つけていたのだ。そうやって、血反吐を吐くような思いで必死にわたしを育てながら、誰も聞き取ることのできない大きな声で、母は泣いていたに違いない。彼女は独り親だったし、祖母はその時まだ遠くに住んでいて、周りには誰も人がいなかった。それは母が心をくつろげて、いつでもなんでも話ができるような人という意味だ。真夜中に、わたしを寝かしつけた母の傍らに座って、もし誰かが少しでも耳を開いていてくれたら……そんな絶望的な可能性を計算し、なかったことをまるであったことのように想像するわたしがいる。それは母の死がわたしに対して無条件に焼きつけた癒しようのない火傷からの逃避行なのかもしれない。でも、わたしはそれを不条理だとは思うことができない。嬰児たちが産道を引き裂き、それによって母親を殺してしまうことがあるように、自分が無自覚な母親殺しなのではないかという取り除けようのない罪悪感がわたしを押し潰している。それはわたしの身体の内側にある見えない肌を焼き焦がすトフェト、その悲しくも無情な白燐の焔なのだ。

 森をさまよいながら、わたしはこうしたことを考え、ひとしきり事の初めから事の終わりまで辿り終わると、まるでテープを巻き戻すみたいに、今度は事の終わりから始めて、事の初めへと至った。”悲し”はほんの小さな石ころほどの大きさでも、それこそ天から降ってきた隕石みたいに大きな穴を穿つことができる。でも、それを”優し”というスコップで埋め戻すには、一体、どれほどの時間が必要なのだろう。それには一体、スコップ何杯分の土がいることだろう。それを到底数えることはできない。それを到底量ることもできない。あるのはただ大きな黒々とした穴だけ。だれもその穴の深さを測ることはできない。母のそれを測れなかったように、わたしのそれも測ることはできない。流星のえぐった隕石孔(クレーター)を小さなスコップで埋め戻してゆくような理不尽さの中で、取り残された人々は生き続けていかなければならないのかもしれない。
 
 森には逆立つ唐檜がずっと奥まで続き、その深緑を濃くあたりに蔓延(はびこ)らせていた。あたりには低い木々の呼吸の音が薄い水蒸気の雲とともに流れている。木立を巡りながらしばらく歩いていると、毛深い枝の隙間から、明るい樹帯の切れ目が見えた。愁眉が開くのを感じて、思わずわたしはひとり声をたてて笑った。見慣れた片流れの屋根が、(にび)た真鍮や黄銅の茎を揺らす草原のあちらに、震える銀のしっぽのように瞬いていた。

 とりとめもなく強い風が山を鳴らし、時化た海のように並み居る木々の樹冠を波打たせていた。あの雷雨の気配も相変わらず頭上に重くとどまっていた。だけれど、わたしにはあの家の輪郭を見つけた喜びが、樹帯の中で百合の香りに包まれていた時の恐ろしさを、赤く美しい焔でも灯したようにぱっと()して仕舞ったような気がした。あの頼りなく震える一枚の屋根が、あの薄く脆い一枚の皮膚が、その下に守られた温かな空気の広がりと、そこで待っているあなたのことをわたしの胸の内にそっと火種としてくべてくれたから、わたしは歓声にも似た小さな悲鳴をあげながら、輝く刃物のようにひゅんひゅんと風をきる草原の中を、一目散に駆けだしていった。

湯浴み

「ユーラリ?」

 わたしは目蓋が取り払われてしまうような錯覚に陥る。すると眸にはいっぱいに彼女の顔が広がるのだった。わたしの手は手拭いを掴み、両足は玄関までの距離を飛ぶように走った。廊下の終わりに向かって腕は延ばされ、それはすでに抱きかかえる対象を探すように手探りしていた。開錠すらもどかしい。よけいな力が入って、戸板は乱暴に開け放たれる。風が頬をすり抜けて室外へと吸い出されていく。夜を思わせる陰鬱な景色が戸枠に切り取られ、その額縁の中へユーラリが現れる。息も絶え絶えに立つ彼女の姿が雷光と泥水に彩られて輝いている。

「ホアン……」

 一言だけ彼女はかろうじて口にした。わたしの両の腕はその脇腹へ伸び、わたしの両の手はその肩を掴んでいた。それは思考を介さずに反射的に行われた。わたしは戸の外側で抱きかかえ、戸の内側へと導きいれた。そこかしこに血が滲み、青痣が浮いていた。暴漢がその身体を切り刻んだかのように。あちこち髪は渦を描いて頬や唇や瞼の上に張り付き、泥が一面を荒地の匂いで覆い尽くしていた。一瞬閉じかけた彼女の瞼が開き、眸があらわになる。それは見えない触手でわたしの視線をからめとり、その蒼白くなってしまった細い指先で、弱弱しくわたしの(まなこ)へ触れた。咄嗟に、熱が導火線を伝うように燃え移り、わたしは悶えて力まかせに抱きしめる。あなたの口から何かが抜け出てゆくように白く吐息が漏れてくる。体熱を肌越しにあなたへと移そうと、無意識のうちに手を潜り込ませ、その身体を撫で擦りながら、両腕で引き寄せ、目を瞑ったまま探り当てると、その上唇をつよく吸う。すると、あなたの唇は水餅のように冷たくわたしの口の中へと流れ込んだ。

鉤爪を絡ませ、翼で叩き合う二羽の鴉のようにわたしとあなたはひとかたまりに崩れ落ちる。あがりかまちに骨と衣服がぐったりと鳴った。
 
 髪の毛にはあちこちに色とりどりの苔、土塊(つちくれ)、砂利が絡まり、それがユーラリの頭髪を色糸を撚って織り上げた斜文織(ツイード)のように染め上げていた。沈んだ暗い山吹、紫を帯びた猩々、煤けた黄土、鈍びた銀灰、そんな色調がそぞろ出るとまたひっこむ。首筋や襟周りにもその波紋は及んでいる。首巻はどこにやったのだろう。それは帰路のどこかで風に飛ばされてしまったのかもしれない。星座のような無数の濁点が飛び散る皮膚に、半ば泥に覆われて、擦り傷や切り傷がところどころ混ざっている。

 傷口に沁みないようにと力の入れ方を様々に加減しても、なかなか拭き取れない。頑固に残る二つの染みを消そうと無口になってしばらく奮闘してから、それが彼女の黒子(ホクロ)だったということに気がつく。目頭を反射的に引っ掻く。平常それを見てきたはずなのに、見たつもりになって意識を傾けていなかった。そういうことがこの頃、多くなったと思う。五年という歳月が、いとも容易く、日のはじめにあった優しい気遣いや苦もない忍耐や細やかさに満ちた配慮を削り取って、わたしたちの間に張り渡された意識の糸を漫然とむしばんでゆく。それはとても悲しいことだ。でも、避けられないことでもある。ひとたびそれに気がつくたびに、その痩せた糸を撚り合わせ、切れた糸を紡ぎ直す丹念な作業を繰り返すしかない。そこに出来上がるのは、ああ、節くれだらけの不格好な一本の糸だ。でも、経た日数を物語るそのしんと静かな表情には、なにかしっかりとした根っこのような力強さがある。あの土の剥けた地面を這う瘤だらけの樹根のような逞しさがある。それが老いて伴侶を亡くしてもなお、その人を支え続けるのだと、あの猟の合間にヨールカはわたしに言った。バルカ・ヨールカは面梟を思わせる邪気なく美しい眸をしていた。まるで彼女の内に整然と並べられた膨大な知恵の書物を表象するかのように、それは透徹としていた。そして(なつめ)色の風景に彩られたわたしの記憶で、なおもヨールカの厳かな声は響き続けている。わたしの鼻先で、肩の線が内側から乱暴に揺さぶられるように震えると、痰の絡んだ重い咳が何度も喉を突いて出た。はっと我に返ってあなたの顔を見ると、蒼白い顔貌にすでに煙るように一面、血の色が浮いていた。

 手拭いを彼女に渡すと浴室まで走り、浴槽が垢ひとつなく艶々としていて清潔なのを確かめると栓をしめ、蛇口をひねった。計器盤に蜜柑色の明かりがともるのを横目で見ながら、湯温を確認して、大振りのバスタオルを真鍮の布掛から取り上げると、玄関までまたひとっ跳びで駆け戻った。ぽたぽたとまだ髪先から水滴を垂らしながら、あなたはなかばうわの空で、指だけがのろのろとつま先を拭いている。泥水の花が数珠つなぎで床に咲く。それがくっつきあいだんだん大きくなる。黄土色に滲んだ靴下が二足、その横に、まるでジャガイモみたいに丸まって落ちている。色の変わった手拭いを床に後ろ手を突くように置くと、あなたは眉をしかめ、体中から力を寄せ集めるように唸ると、重たいダンベルでも持ち上げるみたいに玄関のあがりかまちに両足を引っ張り上げる。そして蹲り、うつむいた睫毛を黒揚羽の触角のように揺らしている。

 水の滴る音がぼとぼとと低く床を打っている。背中からまわすようにしてバスタオルを鎖骨の浮き出たあなたの仄赤い肩にかける。その首筋が予想を超えた熱さに侵されていることに、わたしの喉が驚いて脈打つ。話しかけても馬耳東風といった有様だ。でも部屋に上げようにも泥が酷い。考える間もなく台所から今度は荒々しい蒸気の音がする。失念していたとばかりに、わたしは舌を打つ。コンロの上ではケトルがぶるぶると身震いしながら湯気を拭き上げている。蓋はカタカタと縁にぶつかり今にも飛んでいきそうだ。片手で火力をとろ火にまで落とす。それから、わたしはもうもうと立ち上る白い湯気に真新しい手拭いをかざし、たっぷりとその暖気を含ませる。湯気に触れる指先が火傷しそうなくらい熱いので、途中ですぐにとり箸で掴みなおし、数秒待って引き上げると、それは手拭いではなくって、それ自体がひとつの湯気の塊かあるいは蒸気でできた織物のように真っ白だった。それを二回、空中で振るってから、玄関へ戻る。すると、頭を腕の中にがっくりと落として荒い息をしている。それがあまりに苦しそうなので、名を呼んでみる。手を伸ばして頬に触れて呼んでも、返えるこだまも無い。屈みこんで、うつむいた顔を下のほうからそっと呼んでやると、ようやく小さなうめき声が返ってきた。わたしは蒸した手拭いで彼女の顔、首、そして服を脱がせて背中を拭き、最後にズボンも玄関側に回り込んで脱がせてしまうと、脇の下に肩を入れて、立てる?と尋ねた。弱弱しくうなづくので、なんとか呼吸を合わせて立ち上がる。乱れた息が、わたしの右のうなじに見えない空気の塊を投げつけてくる。浴槽までいくと、まだ半分も湯が入っていない。鉄火炉(ストーブ)の前で待つか?と尋ねると、ううん、寝たい、という。だいぶん熱が上がってきてしまったようなので、とにかく寒い浴室に長居は禁物だ。でも長い髪にはまだ泥がついていたし、体も冷えていたので、熱いシャワーを浴びるように言い聞かせて、脱衣所の戸を閉めた。「嫌だ」と一声聞こえたが、すぐに風呂場のカーテンを引く音がした。廊下を半歩進んだところで、たらいをひっくり返すような音がしたので、はっと思って足を止めるが、つづいてシャワーの取っ手をひねる音がして、水音が聞こえたので、しばらく耳を澄ませている。温かな水が陶器のタイルに落ちる音が、細かな砂をふるいにかけたような音をたてて鳴っている。

 衣類のしまってあるクロークの扉を開くと、わたしはいくつか引き出しを引いて、彼女の衣類をひとつひとつ膝の上に重ねていった。下着はできるだけ暖かそうなものを目につく範囲で選んだ。ラマの毛を編んで作った足首当てや、羊毛の腹巻などを引っ張り出していると、箪笥のまわりは雪でも降ったように白く散らかった。そこから必要なものだけをフランネル生地の寝間着の上に積むと、また風呂場へと戻った。

 脱衣所の扉は空いていて、浴室から吹き出す湯気がもうもうと廊下まで吹いていた。すぐに入らずに、少し声をかけてみるけれど、また返事はない。のぼせて倒れているのではないか、ふとそんなふうに心配になる。敷居をまたぐと、わたしたちの家で一番大きなバスタオルでごしごしとどこか乱暴に体を拭いているあなたの背中が見えた。肩甲骨の二つのふくらみが、湯煙の中に浮かぶように動いている。腕の動きに合わせて、肩が肌色の波のように揺れている。その裸の体は砂糖の結晶を集めて(かたど)ったように、移ろう柔らかな粒子の中で、震えている。そしてまた肩が大きく波打ち、こんどは湿った重い咳が二、三、四と続いた。わたしは持ってきた衣類を彼女に差しだした。彼女はゆっくりと下着に足を通す、ブラジャーのホックをつけるのを手伝おうとすると、苦しいからいらない、という。そう、というと斜めに後ろをちらりと振り返り、わたしを見る。その熱を帯びて、まるでこの世界のものでないみたいに潤んだ瞳に、わたしはなぜかつらくなる。その美しさに対して、なにか性的な欲求は沸いてこない。ただ、あなたの喘ぐ喉を擦り減らすその苦い吐息に、瞳を溶かすその痛みに満ちた熱に、わたしは苦しくなる。わたしはどこも傷なく、痛んでもいない自分の肌を見やり、まったく平常を保つ自分の鼓動や体温を感じ、そこに、この目の前にあるひとつの肉体との違いをまざまざと思う。それは憐みや慈悲の限界でもある。苦しみはこの刹那に存在し、しかしそれはわたしの肉体の外にあって、このわたしの感じえないあなたの肉体の内に、独りあるままなのだ。それに触れることはできない。それは常に、わたしの触れえる一歩奥に退いて、じっと潤んだ瞳でわたしを見つめ続けているのだ。

 「ホアン、たぶん許されないと思う。お母さんは、お母さんは――」

 盛んに叫ぶ声がした。記憶の中ではっきりと。まるで輪唱のように繰り返されている。喉まで膨れ上がるものを必死に飲み下すように、少女は息を溜めた。わたしは彼女を必死になって凍てつく湖水から引き揚げ、腰まで水につかりながら湖底を蹴って岸辺へと進み、そこに分厚く張った氷へと押し上げた。

 「嫌だぁぁっ」

 なんて声だ。よくその細い身体からそんなおぞましい吠え声が出せるものだ。もう二度と水に飛び込まないように、わたしはきっと鬼の形相をして彼女を陸地へと引きずって行った。腕に抱えた彼女は、体中の臓器が鳴っていた。たぶんそれらが皮膚の内側で何かが裏返るようなあの背筋のぞっとする音をたてているのだ。途中、何度も滑って転び、そのたびに顎や膝頭を意識が飛びそうになるくらい氷に打ち付けたが、なんとかわたしは彼女を固くしまった土の上へ降ろした。口の中が血だらけだった。彼女の色を失った肌の上にも雪の上にもそれはぽたぽたと滴となってしたたって、まるで点々と咲いた罌粟の花のようだった。もう優しさも親切もどうでもよかった。無理やり外套を羽織らせ、濡れた服の上から腕を回し、羽交い絞めにするようにして体を温めてやることしかできなかった。なんて暴力的なんだろうと、自分で自分を嫌悪した。

「痛むそのままを神経移植して欲しい。」

一瞬、あなたは爪をたたみ、猫のように身を沿わせる。ユーラリの和らいだ光は眩しげに、そしてわたしは息を忘れる。

 しばらくすると、ユーラリはひときわ遠い目をしてどこかを見つめていた。その視線はいつ戻るともしれぬ永遠の遮蔽の彼方に飛び去っていた。一方、血を拭いながら、荒い息が赤い飛沫となって飛ぶのをわたしは見ていた。いつだって、わたしはあなたの傍らに居て、その傍らに居ない。どれだけ近づいても、そこに居ることができない。身体としては居たとしてもだ。肉厚な脂肪もなければ、鎧のような皮膚もない、わたしたちは鯨でもなければ犀でもない、あるのは静脈が浮かび、産毛に包まれた、薄い皮膚だけ。他と比べたら人間のそれは脆すぎて話にならないんだから、苦労せずに熱を通わせることができると思うだろう?だがそうでもない。わたしたちには別の皮膚がある。その皮膚は強靭な薄い膜でできている。透明な鋼のような、それでいて角度によっては全く不透明になってしまう。伝導率の極めて低い、まるで絶縁体のような皮膚だ。それを何と名づけよう。それはわたしをわたしとしているもの。あなたをあなたとしているもの。意識を切り分ける国境線みたいなものだ。その見えない皮膚は、常に油と水の間に生じる一本の線のように、限りなく細く透明にわたしとあなたを隔てている。それに何と呼びかけよう。この分離の肌に、あの分離の肌に。わたしはどうやってそれに近づこう?どうやってそれを跨ぎこそう?どうやって?……

狩猟

「片方でも眼を閉じちゃいけないよ。両眼で見るんだ。」
とヨールカは耳打ちした。わたしは僅かに顎を下げてそれに答えた。適切な瞬間に、最適な部位に銃弾を撃ち込まなければならない。それが獣への敬意なのだ。苦痛を最小限にとどめることは、肉の味を良くし、不必要な臓器の損傷を防ぐことにもなる。

獣は金の眼を反射した。太い枝に黒いそりかえった鉤爪をひっかけ、ぶら下がりながら木から木へ渡って行った。幹の上でしなるおとがした。柔毛が長く垂れた。銃声がそれを吹き飛ばした。

切り裂かれた故に、痛みを知り、そこに皮膚の在ることの確かさを認識するのだ。

大岩に右手を突き、腕に力を込めてそれを飛び越えた。走る、葉が腿に切れそうなくらい鋭く光って波をつくる。

すべて死の儀式の後に、獣たちは低く美しい声で唄いながら森へ消えていった。大きな葉が何枚か幹の上から降ってきた。くるくると回りながら真っ直ぐに腐葉土の上へ落ちた。

海辺

 砂を踏みしめる足の音。無数の鈴を震わせながら波は盛り上ると、銀のように透き通り、空中へ巻き上がりながら弧を描き、白濁とした泡となって浜辺に寄せては返した。ユーラリの眸は永遠の遮蔽からいつ戻るとも知れなかった。ずっと寄せては、砕け、ずっと寄せては、砕け、波は光りを縫い込んだ銀の指の絶え間ない愛撫のように、砂の肌を撫で、その凹凸を少しづつならしてゆく。爪の先まで満ち満ちた潮力がわたしをあなたのもとへと運んでゆく。彼女は戻ってきてわたしにしばらく体を預けることをよしとする。引力の計算に従って、透明な血小板はどんな裂けめにも流れ込み、その対立を調停し、埋め合わせ、再び地続きの調和へと修復する。ささくれた言い争いをやめにして、長い小道を歩いてきた。開けた世界で、束の間、わたしは彼女と和睦して、この熱を冷まそうとする。

 夏が間近いこの時節、海辺は陽気に満ちている。わたしは麻の敷布をふんわりと風に含ませる。それが砂の上に積もった埃を散らしながら真四角の領域をゆらゆらと広げる。そこにさっさと腰を下ろしてあっけらかんとしている朴の花を払い、はっと斜め上を見上げると、もうひとつふたつと潮風に煽られながら朴の花が降ってくる。それは指先から落ちてはわたしの鼻先や髪に触れて、敷物の上へ散らばった。ユーラリの双眸が戯れるようにわたしを見つめている。手を伸ばして掌を掴もうとすると、それは眩しい午後の陽射しに紛れるように素早くわたしの指先をすり抜けた。

 砂を蹴る足の裏が波打ち際へ走り去る。わたしはユーラリが砂地に置き去った籠を持ち上げて、その砂を払い敷物の上で蓋を開く。ああ、なんて充実した瞬間なのだろう。わたしは銀の鱗が飛ぶように波打ち際を跳ねているのをちらっと横目で見ながらそう思った。笑顔が彼女の歯並びをきらきらとさせている。ユーラリはひとりで楽しそうに笑いながら、貝を放り投げ、こちらを見ると、また無邪気に笑い声を立てた。

白葡萄の発泡酒を足場の悪い道をわざわざ運んできた椀脚杯(ゴブレット)に注いで、わたしはオリーブ油に漬け込んだ鰊とチーズを挟んだライ麦パンのサンドイッチを頬張る。それからしばらくして、失神したようにわたしは眠りに落ちた。夢のない深い眠りがどこからかわたしをとらえ、引きずり込んだのだ。

 それは一瞬のうちに過ぎ去り、意識はすぐに現実世界の手触りを思い出した。ユーラリは白鷺のように凛と海辺に立っていた。砂地に残された白い脚は一本だけまっすぐにあらゆる重力をすり抜けて聳えていた。波の運ぶ白い蟹の甲羅がその親指と人差し指の間に乗り上げた。流れ着いた細かな砂が編糸帯(レース)のようにその足首までを網目状に覆っていた。


 花托に包まれた小果へと指を滑り込ませる。薄い甘液が絡みつく無花果の中は温かい。指先を動かすと、果肉が漿液のように流れ出てくる。それをこそげ取って鼻先の唇へと運ぶ。あなたの舌先がそれを食べる。指先を舌がなぞると、それはわたしの右の額に感じられた。無花果の果肉が舌にからめとられ、指先から喪失していく。

梳髪

 仄かに土の薫りがする生姜の根を丁寧に水洗いし、皮ごとおろし金で円を描くように丁寧にすりおろす。すると鼻先に……ジンギベレン、ボルネオール、ファルネセン……乾いた樹皮を思わせる辛い香りが混ざりあう。大振りのマグカップを選び、すりおろした生姜をいれて、ケトルから湯を注ぐ。そこに葛粉を溶かすと、半透明の膜は湯面(ゆおもて)にみるまに広がり、水は急にそこに自由に立ち振る舞うのをやめて、蝋梅を散らした氷雨のような色に凝った。匙を持ち上げると、(あん)のようにとろりと垂れる。淡黄色の根っこが調理台の上に転がっている。銀色のおろし金にくっついた生姜の繊維は透き通ったひげ根のようだ。鉄火炉(ストーブ)に肘掛け椅子を引き寄せて、毛布を巻いて座っているユーラリのところまで、わたしは注意してマグカップを運ぶ。薄暗い廊下の向こうで、霞みのような光があなたの姿を浮かびあがらせる。それは傷ついた鳥が、体中の羽毛を膨らませて、丸く眠っているような、そんな後ろ姿。気が付けば、あたりはあの暗い雷雲の気配を失い、雨の音はすれど、先刻の荒ぶる風の音は聞こえない。寂しく憂いに沈んだ雨垂れの音が、樋を震わせ、板庇を硝子の数珠のようにつらなって、まるで涙のようにはらはらと降ってゆくのをわたしはしばし立ち止まって眺めていた。口をつぐみ、世界の均衡を崩してしまうような一切の感嘆を発することもなく。記憶の中のような、霧に沈んだ、懐かしさと手の届かない景色たちを思わせる静けさの中で……わたしは肺の奥深くから熱された息をゆっくりと吐き出して、目蓋を閉じると手を伸ばす。するとおもむろに何かが指に当たる。それは刺繍された編糸帯(レース)の手触りのようで、風にふわふわと揺れていた。胸の中に突然こみあげてくる熱いものがあって、わたしはそれを上手に表現できない。あの日もそうだった。孔雀石(マラカイト)を想わせる爽やかな光りが葉叢(はむら)を彩り、さしかわす枝が注意深く覆い隠した木立の中から、葉脈に滴る雨のように拍手の音が響いてくる。いいえ、それは純然たる雨音かもしれない。美しい眸をして娘が立ち尽くす。その額に銀梅花の花冠が揺れている。花嫁の装いに身を包み、ユーラリは雨の中を振り返る。差し出された傘を打つあのしじまのような音。過ぎ去った夕立の後、鳥たちのさえずりがどんな雅楽よりも美しく響いてきたあの午後の祝宴を……それは意識の隅々にまで染みわたっている。高ぶる精神の針が真っ白な紙の上に一切の詳細を素描した。消えざる記憶。それからわたしは窓から忍び込む冷気が、まごついているとあっというまにその触れるもの全部を冷やしてしまうということを思い出す。葛の立てる湯気が、硝子に幽霊の手跡のように白い息をはりつけてゆく。熱々を飲んでほしかった。

「ホアン、ありがとうほんとうに」と声がする。あちこち裾をひっかけながら、ようやく舌先まで響いたような小さな声。

 すでに鼻をそばだてていたのかもしれない。手わたそうとすると、振り向かずに生姜汁(ジンジャーシロップ)?と尋ねるので、いいや、葛湯に生姜を溶いたんだ、とわたしは答える。すると初春の葉をゆする木漏れ日のように、あなたの頬がつかのま緩む。指が伸びてきて、マグカップを大事そうにそっと掴むと、まるで一面ぶれたようにそれはひとところにとどまらずに細かに震えた。それはあなたの両の手の指に支えられながら、わたしの指を離れ、ゆっくりと口許へと退いた。マグカップの縁をかすめるふっふっという荒い吐息に、乾いた唇の葛をすする音が混まざりあう。その下唇と上唇の葛に濡れたところにだけ、まるで金魚の尾びれのような朱が灯る。一口をじっくりと時間をかけて飲み終わると、それからまたつらそうに、あなたは咳をした。すると熱のせいで目筋の端に溜まっていた涙が、すっと瞳から一筋流れた。わたしは、ドライヤーのコードをソケットにはめ込むと、後ろから手櫛でまだ湿っている髪を軽く梳いた。でも、そのスイッチを押そうとして、わたしははたと手を止めた。耳をそばだてなくても流れ込んでくる。ちり紙のうえを滑り落ちる砂のような繊細な静寂が部屋をエーテルみたいに満たしている。それを掻き混ぜるモーターの音で瞬時に破壊するのは何か恐ろしく場違いなことのように思えた。静かに身を休めているあなたに、もしかするとこの音は不快な眩暈を起こすかもしれない。それに時には考えたうえで手間をかけたほうがいいこともある。反射的にある行動をとる癖がついているときはなおさら……とわたしは思う。再び、コードをソケットから抜き、それを合成樹脂の黒い胴体へと巻き付ける。それから洗面台まで戻り、ドライヤーを元あった場所へと掛けた。そしてガーゼを入れた瓶を取ってきて、その一枚を人差し指に巻き付け、同じようにもう一枚を中指に巻き付けた。左右の手に同じようにしてから、わたしはもういちど、濡れた髪へと指を這わせた。ガーゼが水を吸って重くなるたびに、それを取り換え、時間をかけながら髪の一束一束を丁寧に、丹念に拭いた。1秒間に3ナノメートルの速度で、ゆっくりとそれは伸び続けている。音もたてず静かに。そんな微細な変化をわたしは断片的な気づきを通してしか悟ることができない。あれ?といった具合に。あらゆるものがゆき巡りひとところにとどまらず動いているのに、そうした事柄についてゆっくりと腰を据えて吟味する時間がこのところ欠け落ちていたかもしれないと、再び、ひそかに反省する。髪の匂いはいつもにまして仄かに芳しく、わたしの鼻先で香った。あなたはそのしばらくのあいだ、するに任せて静かに目を瞑っていた。炭の上に(おこ)るまぶしい紅炎が、あなたの鼻先や睫毛の上に火の粉を散らしたように輝いていた。そして、擦り傷や切り傷に当てた包帯にも、一面、セラフィムのような輝きが燃えていた。あなたはそれ自体、(かたど)られた鈍色の光りのように、薪火を照り返して熾っていた。

「一体、どうしてこんなことになってしまったんだろう、ユーラリ?」
「嵐よ、そのせい。」
「そうだね、でもユーラリ、それだけなのだろうか。まっすぐに帰ってこなかったの?」
「ええ……いいえ、正しく話すわ。荒地によった、あそこは匂いのとても美しい場所だから……」
「荒地によったのかい。なにかを見にいったの?記憶のようなものを?」
「ええ、いつも思い出すために行くのよ、知っているでしょう?この話はいままで、ホアン、いままで何度もしたよ。ホアン、虎のような眼をしないでね。わたしは怖いの。そしてボロボロになってしまっているの。わかるでしょう?それで優しく訊いてくれるのでしょう?」
「動物園でみたあの眼のことをいってる?」
「ふぅ、そうそう、あの眼のこと。まるで瞳のなかに金剛石(ダイヤモンド)の鉤爪が生えてるみたいな。みつめた人のはらわたを両目から引っぱりだしてしまうようなあの恐ろしい眼。」
「そんなに恐ろしいだろうか。ユーラリ、そんなにこの眼は嫌い?」
「怖い……でも、嫌いではない。ホアン、大好きなの、でもだめなの。うまくいかないのよ。みつめると恐ろしくなってしまうの。」
「あなたはあそこにいくと周りのものごとを忘れてしまう。ユーラリ、だからわたしはとても心配しているんだ。気遣いなんだよ。理解してほしい。」
「そうね……そうかしら、そうでもないわ。縛ろうとしているのでしょう。わたしを引き離そうとしているのよ、大切な人から。でもホアン、そのくわだては絶対に成功しないわ。」
「ユーラリ、とても冷たい目をしている。違うよ。そういう意味じゃない。何度だって言える。でも、わたしの言葉はみんなはじかれてしまって届きそうもないな。」
「わたしの眼は静まり返った盾のようね。あの人もよくそういったわ、いつも静かなユーラリや、いつも静かな眼をして、いつも二枚の盾をあてているって……」
「だってユーラリは、ひとたび考えはじめると、なにも目に入らなくなるし、なににも反応しなくなるんだから。」
「わたしはそれには納得できないわ。だってそのときわたしの眸は大きく見開かれているのよ。たいがいね。祖母は古い人だったから。でも温かかった。とても巧みに話す人だったから、なにか言いつけられてもすこしも窮屈じゃなかった。」
「それはきっとあなたがお婆さんのことを深く尊敬していたからだよ。わたしもお婆さんのことは本当に素晴らしい人だといまでも思っている。」
「ホアン、尊敬している。あなたのことも、もちろん、こころの底からそう思っている。でも。」
「荒地には特別な愛着があるんだね。そこでこころを空っぽにして、思い出をなみなみ注ぐのでしょう?」
「その言いかたは正しくない。むこうから押し寄せてくるものをわたしはただ受け入れているだけ。」
「あそこにたちよるべきではないとわたしは思うし、それはいまでも同じだよ。」
「ホアン、あなたはなにか邪悪な記憶を招き寄せるためにあそこにいっていると決めつけているでしょう。」
「邪悪だなんて一瞬たりだって思ったことはないよ。ただ、あまり孤りで歩き回るのは良くないよ、ユーラリ。想像するだけで心配になるんだ。もしかしたら、なにか取り返しのつかないことが起きるのではないかって。それに、そうやって荒地に出かけた後、帰ってくるたびにあなたは陰鬱な顔になる。だからもう――」
「あそこでわたしは介抱しているの、痛んだ心を修復しているの。」
「それは本当のこと?」
「信じないって決めているからそう言うのね。」
「ユーラリ、わたしに見えていることとあなたの見ていることとには多分違いがあるのだろうね。もうすこし話してくれない?」
「ホアン、たとえどんなに話しても無駄だわ、あなたには理解することはできないのよ。」
「それはとても悲しい断定だね。」
「そうね。でもどうしようもない。」

 ……

 突然、灰色の塊が毛布の襞を滑ると、木張りの床を打った。はっと身震いして、あなたは手元を探ったが、そこにないのを認めて、足元に目を落とした。そして、半ば反射的にその割れた椀状の破片を拾おうとするので、わたしの左手が無意識のうちに動くあなたの左手を抑える。なおも、あなたは足元のひびの入り欠け散った器を見つめている。謝罪の言葉をうわごとのように繰り返しながら、見えるものがそれしかないっといった眼差しで、それを見つめている。わたしは居間の戸を開け、奥の部屋のベッドまで連れていって、その縁にあなたを腰かけさせた。あのセラフィムのような焔は瞳の内にだけ燃え残っていて、そこにスラグのように浮き上がる感情が、苦痛、哀情、後悔、感謝、といった色調の違う闇に包まれて漂っていた。目を瞑って、とわたしは言った。そして深く眠るんだよ、と。わたしの目の色を読んで取ったのか、あなたはうなづくと、首をねじって、枕にそっと頭を落とした。わたしはひざまずき、しばらくその様子を見守っていた。時折、苦しそうに咳をし、熱にあえぐものの、その様子はおおよそ無事で安らかに見える。
「ホアン、さっきのひどい言葉遣いを許してね……」
突然、顎先をこちらに傾けると、あなたはいがら交じりの声でそう言った。
「大丈夫、ユーラリ。あれはきっと本心ではないって……」
あなたは僅かに微笑んだかのように思えた。その乾いた唇の端に皺が微かに浮かんだのを笑い皺と思い安らいだ。けれども、それは勘違いだったのかもしれない。あれは「本心なのよ」と心の中であなたは言っているのかもしれない。なぜなら彼女が謝ったのは言葉遣いについてだったからだ。それが言わんとしたことに変わりはないのかもしれない。それからしばらく、わたしはじっとあなたの顔を斜めに見つめていた。彼女のほうは眸を見開いたまま天井の一点を見つめていた。ピアノ線で引っ張り上げられるように、わたしもその視線を辿ってゆくと、天井をベッドと並行に走る梁が赤みを帯びた茶色い陰に沈んでいる。そこには一見、何もないように見えた。でも、わたしがじっと目を凝らしていると、まるで騙し絵から隠された記号が浮き上がるようにして、一羽の蛾がその梁の面に姿を現した。丁寧に丸められた葉巻のような胴体は狐の毛皮を被ったような柔らかな(こうべ)へと結びつき、優美な曲線をなす繊毛に覆われた触覚がそこから二差しの柳の枝のように伸びている。それは馬の(たてがみ)でつくった鞭のようにしなやかに宙に謎めいた渦巻を描く。二枚の厚みのある前羽根はその端を前方へと張り伸ばし、色の異なる複数の液体が描きだしたような複雑な斑紋で覆われていて、天鵞絨(ベルベット)のようにすべすべとしている。残る二枚の後羽根も木肌に伸びた糸屑のような細い脚を覆いながら(くう)へ弧を描いていた。
「あれは磚茶揚羽というの。果物の果汁を吸って生きているのよ。」
「そう、蝶なの?見たところ蛾のようだけれど。」
「いいえ、蝶よ。そう名付けられているのよ。ホアン、あなたは蝶もまた蛾であることを知らないのね。そして蛾もまた蝶なのよ。このふたつには少しも大きな違いはないの。蛾が塵屑を食べて、夜にしか飛ばないというのも偽りよ。昼間に花の蜜や果実の汁を吸う蛾もいるのだから。でもね、人間というのはなんでも上と下に線を引きたがる生き物なのね。そしてその際、不都合なことは全部、消しゴムで消してしまうのよ。蛇行する線を彼らは好まない。なんでもまっすぐに切り分けたがるの。実はね、蝶と呼ばれるものはその種族の中でもほんの一握りなの。それは特権階級というわけ。あとはみんな蛾として追いやられているの。まるで太陽と月星のようにね。でも、わたしは陽下の光を飛ぶ蝶よりも、闇夜の焔に焦げる蛾のほうが尊いと思うわ。蛾たちは光というものが奇跡であることを知っているのよ。蝶はそんなこと知りもしないでしょうけれど。だってそれは蝶たちが目を覚ますと世界の中にすでに溢れていて、探す必要がないんだから。でも蛾たちはそうではない。自分の身を燃やしながらひたむきに光を求めるのよ。それはとても尊いことだとわたしは思う。」
「とても不思議な考え方をするね。蛾はとても哀れだとわたしは思う。」
「同情しているの?でもそれは助けにならないわよ。これっぽっちもね。」
「ユーラリ、あまり斜めから物事を見るのは体に毒だよ。」
「ホアン、斜めからではないわ。真っすぐよ。そうしたいと願っている。でも、あなたの言う通りかもしれない。人にはみなそれぞれの心の傾きがあるから、ある人に見えるものが他の誰かにとってもそう見えるとは限らないでしょう。それはつまり、何が水平で何が傾いているのかを人は自分個人では決して評価できないということなのよ。そして他の人もそれを正確に評価することはできない。それは人の範疇を超えた出来事なのよ。」
「そうなのかもしれない。錯覚は常にわたしたちにつきまとう。」
「偏見もね。」
とユーラリは付け加えた。それから彼女は熱に浮いた声で唐突に話しはじめてこう言った。
「わたしはすべてを奇跡だと思って生きたいの。すべてのことに平等に頭を下げて、恭しく感謝しながら生きていきたいの。それができるかしら。」
「既にしていると思うし、これからももっと繊細にそうしてゆけると思うよ。」
とわたしは答えた。内心とてもそうは思えなかったけれど、彼女を喜ばせるために、わたしはそういう言い方を選んだ。すると案の定、彼女はとてもうれしそうに微笑み、それからふっとその瞼を閉じた。

 白い毛布にくるまった人影が、枕の片隅で、静かな寝息を立てはじめる。わたしは立ち上がり、スリッパを脱いで右の脇腹に抱え、靴下ですら慎重に、床を踏んで、部屋の端まで来るとそっと振り返った。曇った綿埃の様な雲の塊を透かして、ぼんやりとした光が部屋の中にはべっていた。戸に十本の指を添えて、ゆっくりと閉めた。

予兆

 廊下に戻ると、肌寒さが急にわたしを襲った。ユーラリとの間に生じた不協和を無理やり収斂させたようと、話すべきことについて口をつぐんだ自分が居た。それは罪悪感となり、わたしを震わせた。外の寒さが原因ではないのだ。冷気は心の底から吹いてくる。居間へと戻る。そこに相変わらず燃えている鉄火炉(ストーブ)がある。

 床に屈んで、割れた破片を集めていた時だった……

 わたしは異変に気がついた。それは体の特定の部分から響いていた。耳?いや、頭だ。頭蓋骨の伽藍をひと巡りして耳の中に落ちてきたような声。その発信源は、どう上手く表現すればいいのか、思いつかない。一言でいえば、頭のある地点からそれはするとしか言いようがない。それとともに、水の湧きあがる音が骨を砕いた。衝撃はずっと体の奥まで駆けていった。すると、揺らめく鏡が現れた。それは水で濡れている。わたしの腹の方と、わたしの背の方に、二つの鏡が忽然と現れ、向かい合った。そこに映るのは……誰かがいる。わたしの背後で、屈む人影が何かをつぶやき、悲しげな相貌は、こちらを呻くように見つめる。するとそこには銅が燃えるような眼、翡翠の静かな光に満たされた眼が並んでいる。その揺れる穂のなかを手をつないでわたしたちが歩いてゆく。まだ幼い、茶色い外套を着させられて、膝を揺らしながら歩く子供のわたし。その先を母が歩いてゆく。わたしは何かにおびえるように、その手をしっかりと掴んでいる。すぐ後ろに少女がたっている。彼女は独りぼっちで、痩せた形の美しい脚をはだしのまま草原につけている。皺だらけのスカーフが、首にかけられたまま風に流されている。そこから火の音がする。何かが崩れてゆく。花の焦げる強い香りがわたしを一瞬、めくらにする。その香りの間から、あの銅の燃える眼が見つめている。力強い胎動が鳴り響く、狭い洞窟を押し出されてゆく。空気が燃えている。その被膜がわたしを包み込む。取り上げる腕のない赤ん坊が泣いている。わたしは抱かれた腕の間から開かれていない瞳を透かしてそれを遠くに見ている。後方に声がする。あの声が頭蓋の丸天井を回り続けている。それは長い距離を進むうちに、音声の意味としての部分が擦り減ってしまって、辛うじて言葉であることは認識できるものの、そこからなんら有意味な音列をひろいだすことができない、そんな声だった。
 わたしは振り返り、その音源を探り見る。すると、そこにも同じように瞳がある。それは薪の中で燃えている。その手前の薄暗い色落ちした床木の上に、割れたマグカップが落ちている。後ろにから、なにかがひたひたと押し寄せる気配を感じる。背後を見る。水たまりに映った暖炉がある。その焔が赤くて濃い。鉄臭く断裂し、根元からちぎれて漂いでる二筋の火焔の帯が絡まりあい、また分かれる。急速に冷え固まる溶岩のように、その動きは次第に緩慢になり、色を失い硬くなる。すると白亜の鋭く切れおちた崖が次第にその姿を現した。「ゆびきり山」とわたしは呟く。崖の裾は霧が満たしている。その奥のほうで呼び声がする。うっすらと影なす松の林が見える。輪唱のような声が、そこから鈴を揺らすように響いてくる。ああ、だが違う、これは、よくよく耳をすませば、ひとりの声で、二人でも三人でも、それ以上でもない。同じひとつ言葉だ。それが谷に跳ね返り、木霊となって震えあい、複雑にずれ合わさってゆく。あれはクレヤミ・シロだ。彼の声に似ている、とわたしは思う。「二人は一体となり」と彼は呼びかける。誰かがそれにおぼろげに答える。ふたつの異なる声が。すると音声はますます背景に沈み込み、擦り減った点字のようにその意味が読めなくなる。ユーラリが笑っている。あんな幸福そうな顔はいままで見たこともない。すると彼女もろとも風景が剥がれて落ちる。それは肌理柔らかな薄い皮膚だ。それがわたしに絡みつき、足を掬う。それは流砂のように流れ出てきてわたしを彼女から押し流す。必死に泳ぎ続けていると、やがてその白い砂の流れがすっかりわたしを埋めてしまう。薄いハトロン紙を何枚も重ねたような白くて不透明な景色がわたしを抱きしめている。手はせわしなく何かを探る。何かが視界の隅で金貨のように光っている。わたしはドレスの中に身を潜めているのだ。白い花嫁のドレス。風が波打つ幾重の襞をめくりあげて、そのたびに霞んだレースを透かして山が見える。あの白亜の断崖だ。遠くのほうに、燃える稲光を身に帯びた重い雲を伴ってそびえたつ。光の塔頂は暗闇へ、と再び声がある。破裂音がして、白が跳ぶ。稲妻ひとつ、と数える。鳥が飛んでいく。編隊を組み、その腹を金の帯のように輝かせながら、断崖へとまっすぐに。先頭をゆく鳥の気流に助けられながら、二羽の白い鳥が並んで飛んでゆく。破裂音がして、白が跳ぶ。稲妻ふたつ、と数える。鳥は群を崩して散開する。墜ちてゆくものもいる。二羽の鳥がぐるぐると回りながらその一羽を追いかける。だが途中で見失なってしまう。破裂音がして、白が跳ぶ。稲妻みっつ、と数える。霧の中で、少女が鳥の首を握って歩いている。弱弱しく鳥はあたりを見回している。少女の瞼には、あのセラフィムのような火が散っている。顔を横に向けて、瞼の縁と睫毛だけが、見える。黒髪がなびく。帳のように、すると世界が暗くなる。雹が降ってきて、わたしは動けないのに、それはわたしに当たらない。少女が駆け出すが、すぐに雹が肉を打ったので、蹲った。胸に抱えた鳥が鋭く鳴く。そのつぶらな目がわたしを見る。血が少女の肌の表に浮かび始める。それがゆっくりと流れ出て、皮膚の裏に蒼暗く膨らむ。紫の寒さもその中に溶け始める。少女は鳥の頭にそっと自分の血を乗せて、それから何事かを呟くと、鳥を放した。羽音が遠ざかる。わたしは金の指輪を手にする。それは雹で無残に押しつぶされたウエディングドレスの下で輝いている。少女の胸を伝う血が、太腿へと達し、それは水たまりの中に落ちると、急に自由にふるまい始める。それは少女の足を掴んでぐっと引きずり込む。地面がそこだけ泥のように柔らかく襞を打ち、ゆっくりと彼女を太腿まで呑み込んだ。わたしは彼女の手を掴むがすり抜けてしまう。その薬指になんとか指輪を滑り込ませる。彼女はあきらめを湛えた瞳でわたしを見つめている。終わりのために整えられた言葉がその唇の上を滑り始める。三つよりの指輪がその指先で輝いている。すぐ近くで猛りをあげる火の音がする。稲妻の墜ちた樹が燃えている。その巻き上がる煙が蒼暗い空に呑まれてゆく。それは色あせた枯れ葉の浮かんだ竪穴の底の水のようにしんとしている。

 湧きあがる水音も、今はもうしない。重い氷の降る音が土をえぐり、枝を折り、葉を撒いた。

 わたしは象徴を振り払おうと立ち上がる。眩暈が強い。欠片を踏みそうになる。右足がもつれ、左足を突き出す。そこに欠片が刺さる。破裂音がして、白が跳ぶ。稲妻よっつとわたしは数える。よろめきながら寝室に向かう。その扉を力任せに開けてみると、そこには白い毛布に囲まれ、寝息だけが残っていて、人影はなかった。そして、湯気のようにその息も消えた。狼狽して、わたしは振り返る。眩暈で景色はおいてゆかれる。だが、誰かがいた。椅子の上に、あの暖炉の前に。そしてこちらを見ている。わたしは息を詰まらせる、そして瞳が、大きく見開く。大きく、大きく――。

 

 急に骨が抜け肉が溶けたみたいに、足首が曲がった。そしてわたしは大きな音をたてて後ろ背に床へとたたきつけられた。葉の生い茂る庭園のように部屋がざわめいた。わたしの立てた大きな風が、芭蕉の葉をめくると、大きな露玉がビードロを転がすようにばらばらと降ってきた。そして部屋は白く筋になる。竹林のように、互いに幹を打ち付けながら静物たちが歌いはじめる。大きな森が、葉の茂った樹冠を不安定に張りのばす。屋根は見えない。そこには穿たれた空虚が口を開けているのだった。見上げながら、わたしは吸い込まれる。その時、わたしは椅子の上に座るものの顔を見た。写真に焼かれたあの相貌とそっくりなおまえを。そして深い憂鬱にとらわれて失墜する。暗い、不確かな穴の中へと。

 少女は床に散らばる欠片をひとつ残らず拾い集めると、それを両手に盛ったまま、向きを変えて歩き去る。暗がりに揺れる背中が、何も羽織っていない無垢な白さに揺れながら、廊下の闇にすっぽりとくるまれ、滅した。

 寝床から起き上がるように、穴から這い上がり、わたしは目を瞬かせた。暗い夜の部屋。足を踏み出すと、床がきしむ。はっと振り返ってみれば穴はない。鉄火炉が燃えている。何一つ変わらない平静な晩。木床は丁寧に油をなじませて拭き掃除をした後のように、艶がありすべすべしている。カーテンは引かれてるので、部屋も寝静まっている。外がどんな様子なのかもわからない。床に映るのは鉄火炉の中を舞う蛾のような煌めきと、松ぼっくりを燃やすときに出る緑柱石(ベリル)のような焔の揺らめきだけだった。あの銅の燃えるような瞳と重なる。わたしは今しがた横になっていた長椅子に座り込む、足の裏を返してみても、そこに傷はない。マグカップの欠片もすべて片付けられている。なにが夢で、なにがわたしのしたことなのか分からなくなる。

 台所に行くと、ブリキの取っ手に指をかけて、そっと開いてみる。屑箱の中には丁寧に折って丸められた新聞紙の塊が入っていた。手を差し入れて、拾い上げると、中で乾いたかちゃかちゃという音がする。調理台の上に丸めた新聞紙を寝かせ、中身を確かめてみると、中には砕けたマグカップの破片が包まれていた。これを片付けたのは自分しかいない。彼女はあの時、寝ていた。わたしは起こさないように静かに寝室の扉を閉めると、マグカップの破片を拾い集め、床を磨いた。そのはずだった。でも、その時はまだ午後の4時過ぎだったはずだ。わたしは冷蔵庫にマグネットで張り付けられたデジタル時計に目をやる。そこには0時19分と表示されていた。いくら介抱で疲れていたとはいえ、食事もせずに急に倒れ込んでいままで寝てしまうことなどあるだろうか。仮に、とわたしは考えてみる。右眉の下の筋肉が、痙攣し、その連続的な信号が意識の集中を妨げる。もし、とわたしは再び考える。右手の中指をその眉の上にあてがい、ときほぐすようにやや指を前後させながら、砕けたマグカップを介して一体なぜ夢の入り口にたどり着いたのかをわたしはしばらく熟考したが、結局、過去に起きた出来事からその関連を見出すことなどできなかった。あれが夢だったとすれば、その内容と現実の時間の経緯とには大分、大きな齟齬がある。長椅子に横たわるとか、毛布を体にかけるといった睡眠の前に行う動作の記憶がまるで抜け落ちていて、マグカップを片付けているところから急に意識の切れ目なく夢の中へと滑り込んでしまったような感覚が確かにする。それはとても不可解なことだった。

 わたしはケトルに残っていた水の残量を確認して、それからコンロの火をつけた。湯が沸くまでの間、わたしはぼおっと台所の床に突っ立って、夢のことを考えていた。台所の通路の端にある縦長い窓にはブラインドが下ろされていなかったので、そこから家の東に面するシャクナゲの茂みが見えた。わたしはその花の特徴を思い出すことができなかった。それはずっと見てきたものだし、見慣れていたはずだったのに、暗闇に不明瞭に浮かび上がるその白い花が、日の下でどんな形をしていたか、その葉の形がどんなふくらみを描いていたかをうまく思い出すことができなかった。やれやれ、と笑ってみたものの、その笑みにはどこか湿った苦い薫りがした。天鵞絨(ベルベット)の闇の指がわたしの手の甲から手首にかけてをまるで溢れる水のように滴り、そこには言いようのない寂しげで冷たい雨の薫りがしみ込んでいた。ふと、もう一度窓の外を見やると、何も見えない。いや、じっと凝らして注意していれば、そこにごくわずかだかピアノ線のような雨の筋が少しずつ浮かび上がってくる。そして、それはシャクナゲの、夜の闇の中でどこから集めたのかわからない、まるで淡雪のようなぼんやりとした光を包み、まるで太陽を縁どる煙った光輪のように、その輪郭を浮き上がらせていた。
 湯気の香りがする。水に溶け込んだ様々な鉱石(ミネラル)がつづら折る岩や空を思わせる儚い香りが、暗い台所の壁にねじれながら泳ぎ、ほつれるように伸びてゆく。食器棚の下段の扉を開き、ウイスキーを取り出す。冷たい北海に浮かぶ小さな島でつくられたモルトウイスキーだ。まだ瓶に半分ほど残っている。それから耐熱製の角杯(タンブラー)にウイスキーを注ぎ、煮え立った湯と蜂蜜、檸檬、香辛料を入れて軽く掻き回(ステア)した。そして居間に戻り、またあの長椅子に腰かけた。わたしはその琥珀色の液体を少し飲み、暖炉の燃える火を見つめ、そこから発せられる美しい光の映り込んだ床を眺め、それからまた角杯(タンブラー)に口をつけて、すこし飲んだ。クローブの薫りが樫の木や湿った草の薫りと一緒に夢の引き起こした混乱をわたしから徐々に洗い落としていった。この一杯のホットトディは記憶を手招きしている。それは夢とは違う、もっと整頓されて心地よい、滑らかな石のような記憶だ。それは鼻孔を微睡ませる。そして神経のきつく縛られた針金(テグス)を少しずつ緩めて、何の配慮も要求しない真夜中の闇の中へと、一本ずつ放り捨ててゆくようだった。それはわたしを軽くした。すると、花が開くように、夢の景色の中で、あの燃えるスカーフを身に着けた少女のことを思い出した。わたしは確かに、その姿を知っていたし、けれども、それは草原ではなく、もっと荒々しく、もっと悲し気な景色の中でのことだった。

雪風

 雪が降っている。少女が独り、その繻子(サテン)のような凍える大気の果てを凝視している。遠くの木立は風で雪の払い落とされた唐檜の頭がまるでのこぎりの歯のように並んで、それが遠くから見ると凍り付いたように固く動かなかった。そしてその手前にある群れ集まった建物の一つからは長い煙がほとんどなびくこともなくまっすぐに立ち上っていた。少女の影は盛り上った丘の背中にひとつおかれた林檎の種のように小さく、足跡がほとんど見分けのつかないの小さな窪みを雪面に型押していた。そして、その後ろをだいぶ遅れて、少年が光る息を吐きだして、ずっと追いかけてゆく。それはわたしだ。

 わたしはまた口腔を湿らす程度にトディを含むと、深い鈍痛を眉間のあたりに感じて、すぐに二口目を口にした。瞳を閉じると、強い風の音が、海辺の貝に耳をあてた時のように、記憶の果てから吹き寄せて、大きな海鳴りが聞こえた。

 雪陵を風が払ったので、煙が指の腹でコンテを擦ったように滲んだ。どこからか物悲しい鐘の音が響いていた。わたしは丘の背から振り返って、埋葬場を眺めた。ついさっき抜けてきたばかりのように思っていた太陽や熊の彫られた飴色の木柱が立ち並ぶ柱廊が、妊婦のようにたおやかな線を描く丘のふもとに、男性的で張り詰めた円柱の影を幾本も長く伸ばしていた。

 白い雪原はほとんど見分けがつかないくらい空と溶けていた。少女は黒く染めた毛皮の外套を着て、霧氷を吹き付けたような冬の地形に微動だにしなかった。瑪瑙(アゲート)の波打つ筋を思わせる外套の表面には、巻き上げた雪がまるでさらし粉をふるいで一面軽やかに撒いたように散っている。毛皮の光沢は微風に揺れる繊毛の僅かな角度の変化を敏感に感じ取って、銀糸のように強く輝き出たかと思えば、急に、深い影の谷を流れる沢のようにその鳴り響く光を潜めたりもした。

 少女はわたしを見た。すると途端に、少女を追いかけて温かいレセプションホールを後にした時の無垢な大胆さは、羞恥を含んだ軟弱な心底に沈みかかった。その瞳をわたしは直視できなかった。それでも、斜めに構えた目の端には、少女の青ざめた顔が映っていた。そして、彼女の表情筋の端々に焼け付いた悲しみが、むしろ暗い焔のように燃えて見えたのは間違いではなかった。怒りは何の予兆もなく、突然に、その表情を彩った。
「なんでほっておいてくれなかったのよ、なんでわたしを追いかけてきたりしたのよ」
と彼女は言った。その声は肌荒れした皮膚のようにささくれて乾いていた。そしてわたしの心配交じりの関心をつららのように引き裂いた。なにをどう答えたのかわたしは覚えていない。

「関心なんかじゃない、そんなのいらない」
と冷たくとがった声で少女は怒鳴った。少年は顔をあげることもできずに、口ごもり、唇がなにか別の糸口を探そうとしばらく震えていたが、結局、なんの経路も見いだせずに、曇った息を宙に漂わせた。
「そうやって口ごもって、結局、なにを受け止める度胸も懐もないじゃない、わたしは――」
あまりに早くしゃべりすぎて、過呼吸気味にしゃくりあげると、少女は獲物にとびかかろうとする野獣のように口を開いて、大きくえずいた。目じりから血の色をした涙が白い頬骨をなぞって落ちた。
「わたしはね、吐きそうなのよ。みんな愁傷を顔に浮かべてぞろぞろやってきては、ゴミ捨て場みたいにわたしのぽっかり空いた穴の中にお悔やみの言葉だのなんだのぽんぽんと投げ込んで、そのくせ涙の一滴も拭ってくれないし、ハグの一つだってしてくれない。キメ台詞を言い放って退場する幼稚園のお遊戯みたいに、みんなわたしがなにか言おうとするころにはさっさといなくなってて、レセプションホールでフィンガーフードをつついてるのよ。最低よ。あんただって――」
少女は拳を振り回してよろめき、そのまま雪の中に片手を突きながら、荒れ果てた鈍色の光を湛えた瞳で少年をにらみつけた。少年はそのとき、初めて憤怒に焼き焦がされながらも、哀愁とでもいうべきものを少女に対して感じた。風の稜線を裂く音と少女の甲高い怒鳴り声とで激しく混乱した少年の意識は、蓄電した雷雲のように巨大な雷鳴をとどろかせ始めていたが、その圧力を開放寸前で封じ込めるだけの哀情を少年は少女に対して感じたのだった。
「あの人はもう死んでしまったのよ、虫に食われて塵になるだけなのよ」
と彼女は言った。そして片膝をついたまま少年から目を背け、埋葬所と反対に広がる広大な丘陵地帯を苦悩の表情で見つめていた。静止した地で、二人の人影は暗いシェオルの墓石を見つめるかのように、その顔を固く縛って、それきりしばらく黙り込んだ。
「信じられない」
それからぽつりと彼女は言った。
「お母さんはいままでわたしを形作ってきた一番大きな人だったのに……わたしの血肉を羊水の中に塑像して、血の叫びでわたしを産んだあの人が……」
少年はおずおずと少女に近づき、その傍らに屈みこんだ。すると少女の目は微かにこちらを見たように思えた。そこにすがるような眼差しが走り、その脆弱な亀裂が崩れそうなほど広がりかけた。その鱗をはがして、傷口に触れようとするかのように少年は指を伸ばしかけた。でも、少女はカラスが飛び立つみたいに黒い影だけをそこに残して少年の指をすり抜けた。
「さっ、わたし帰るわ、あの黒づくめ達のところに行って、葬儀に参列いただいた御礼を申しあげないといけないの」
最後のところを気取って優雅な口調で言うことで、少女は自分の悲嘆に歪む感情と嘲笑的な理性との均衡を保とうとした。そしてすらっと立ち上がると粉雪を細い指で素早く払い落としながら、もう丘の中ほどまで走り下りていた。少年の空しく差し出された両手は滑らかな黒い毛皮の上を滑っただけで、宙に浮いていた。それが抱きしめようとした対象はもうすでにそこにいなかったから。生唾が喉を下る低い音が、まだ高いままの心音に混じって耳奥で聞こえた。
「ユーラリ……」
はじめて、少年はようやくひと言発した。呼びかけた少女は既に、埋葬場の柱廊に至る除雪された小道を歩いていた。その遠く小さな影に少年はもう一度呼びかけた。そして、この取り残されたことによる虚脱の中で初めて、少年は少女の抱える痛みの断片を理解できたような気がした。それは人のきっともっとも奥深いところにあって、誰にも通じず、誰にも顧みられることのない空虚なのだ。その真っ黒な穴には、引き上げようのない無数の瓦礫が堆積し、溶けて煮詰まり、照らしようのない暗闇に覆われて胎動しているに違いなかった。そして一度、その穴が口を開けてしまうと、それを縫い合わせない限り、どんな温もりもどんな慰めもまたどんな励ましも、皮膚を通り抜け、脳を抜け落ち、心臓から滑り出て、そのぽっかりと口を開いた無感覚の口腔へと吞み込まれてしまい、ひとつの波紋もたてることはないのだ。少年は歯を食いしばって唸った。奥歯がぶるぶると震えて、あご骨が軋む梁のような音をたてた。そして狂おしく少女の名を呼び捨てにしてののしったが、それはすべて北風の押し寄せる怒号に飲み込まれてしまった。

 わたしは長椅子の上で肩を落とした。一体、彼女の何がわたしをからめとってしまったのだろう。あの暗い影に沈んだ眸のどこが。将来という二文字もない、あの獣のような眸のなにが。

 雪片は寒気に尖った爪先で、灰色に塗りこめられた空を少しずつひっかいて、その裏の銀の素地を細い線のように残しながら落ちてゆく。それは暗いアスファルトの舗装路を子供たちがチョークでひっかいて遊ぶように、しまいには空の一面を濃淡の微妙に異なる無数の筋で埋め尽くした。練り辛子のような黄色の羊服にも、少年の頭にも、それは羽毛を落としてゆく。少年にはきっと、なにかが見えていたわけでは無かった。そこには何ら目印となるもののないただの茫漠とした白が広がっていた。雪雲の入り組んだ迷路(フィヨルド)へ陽の光が迷い込む。それは相貌からすっかり血の気を剥がれて彷徨い出てくる。その弱弱しい光は箔の舞う空気の溶液を白く濁らせる。すると世界は升目のない真っ白い紙のように奥行を失う。それは逃れるあてのない孤独で世界を包み込んでしまう。少年はのろのろと彼女の背中を追いかけてレセプションホールに戻る。

 演壇の上でユーラリは肩をそびやかす。でも、その指は袖口の目に見えない紐をいじっていて、その絡まったしこりをほどこうとしている。その絶え間ない動作の繰り返しには、彼女の矮小な自尊心が現れている。加害者としての不条理な自己批判と、被害者としての自己憐憫と母への憎しみがないまぜになって、なぜ自分がここにいるのかという理由を見つけられないでいる。あの手の付けられない凶暴さも、源泉は同じなのかもしれない。愛情が枯渇することを恐れて、無意識に生じた防衛反応のようなものが、しだいに威力を増して、しまいには極めて殺傷性の高い兵器へと変貌してしまった。針鼠から山荒(ヤマアラシ)へと。

 わたしがユーラリと再びあったのは、ヨールカがわたしに猟の助手を求めてきたときだ。部屋の中にはユーラリもいて、鍋から杓子で煮出した薬草茶を茶碗に汲んでいた。それからわたしの方を一度も見ずにそれを盆に乗せて運び、楢の円卓に音もなく滑らせた。磨かれた卓上には黄花藤が硝子の丸椀に妙然とした様で活けられていた。枝垂れた花をこれだけ生き生きと活けることはとても難しいことだ。わたしは花をしばらく見つめてからヨールカを見た。すると彼女は鼻先でユーラリの背中を指示した。そうなのか、とわたしは感心した。ユーラリは何も見ていないようで、実はしっかりとこちらを見つめていた。座っているわたしの後ろに興味を引くものでもあるかのようなそぶりで、眸を流すのだ。庭先の花や鳥でも見ているといわんばかりの自然さで。しかし、それは神経質なくらいの注意深さで、わたしの表情に現れる些細な変化を捕まえようとしての事だった。そしてわたしの表情に何かを捕えるたびに、はっきりとユーラリを包み込む空気はその温度を変えた。わたしたちはしばしば狙撃手のように遠くから互いを監視しあい、気管という銃身から、言葉をライフル弾さながら打ち出すきっかけをうかがっているのだった。

解熱

 熱の眩暈から覚めると、風の揺らす葉叢(はむら)の音が足先の方に響いていた。毛糸のような光にくるまれ、角がすべて擦り減ってしまったような丸みを帯びた視界のなかで、朝なのだとわたしは感じた。それは、まるで長い一人旅の末にようやくたどり着いた景色のように、なにか途方もない時間の経過をわたしに覚えさせた。やや朦朧としながら、わたしは毛布の端をくしゃくしゃと両掌で掴んで、少しだけ頭をもたげ、枕の角にそれをのっけた。鼻先から汗が転がり落ちて胸元にすっと消えた。肌が隅々まで呼吸しているような感覚。毛穴がゆんわりと開いていて、そこから蒸気でも吹き上がっているような湿った暖かさ。毛布は汗を吸い、肌に張り付いて、まるでその一部のようだった。その極めて粘性のある液体はじっとりとわたしの体を覆いつくしていた。わたしはホアンのことを呼ぼうとして、けれど、声は丸まった枯葉のように喉に引っかかってしまった。そう、わかっている。あなたはいない。今日は仕事の日だったから……とそこまで無意識のうちに考え着いてから、はっと、今日は何日なのだろうという単純な疑問が頭をかすめる。そして、それはわたしが日に繰り返される営みへと立ち返るのを阻んでしまう。その単純な前提が不確かであることがわたしを急に不安にさせる。わたしは身の置き場のない虚数のように、実数の連ねられたデカルト座標を飛び回る。まるでばねみたいに腕だけ跳ね起きて、無意識のうちにスマートフォンを手探りしたけれど、充電端子の先はどこにもつながっていなかった。わたしが寝始めたのは金曜日だった。そこからどれくらいの時間が経過したのだろう。わたしにはとんと見当もつかない。どこかに七曜表(しちようひょう)でも掛かってはいないだろうかと部屋を見回そうとしたが、首のリンパ腺がまだ腫れぼったく、痛みがあって十分に首を回すことができない。熱もまだ微かにあるだろうか。たぶん、平熱ではないとわたしは思う。もぞもぞと胸のあたりまで毛布から這い出てはみたものの、あえなく重力に押し戻されるようにしてわたしはまた毛布の中へと滑り落ちる。でも、意識は冴え冴えしてしまって、肉体だけがまるで石でも肌の裏に詰め込んだみたいに重たかった。川に泳ぎに出かけたら、飛び込んだが最後、そのままひき臼みたいに一直線に川床へ沈んでしまうに違いない。それは、そういうずっしりとした重さだった。さて、どうすればいいのかなと枕の上で額に指を添わして考える。そもそもなぜわたしは寝ていたのだろう。手がかりとなるのは唇に残された熱の花と、その藁の燃えるような痛みだけだった。それは接吻(キス)の瞬間をわたしに思い出させた。ホアンの眸は、睫毛の下で湯気をあげた黒いサウナ石のようだった。それは依然として流れ続ける溶岩の上に形成された冷え固まった黒い被膜のように、静かだった。睫毛は輝石を多く含んだ流紋岩のように輝いていた。稲光が色素欠乏症(アルビノ)の気配をそこに纏わせていたのだ。わたしはどうしたのだろう。されるがままに任せ、あがりかまちにへたり込み、それからどうしたのだろう。様々な光景が断片的に浮上してはまた潜水する。記憶はぶつぎりにしたうどんをぐらぐらと煮え立つ熱湯に投げ込んだみたいに、立ち込める湯気の中に紛れてしまい、そこで思い思いに泳ぎ回って、少しも時系列に沿って整列してはくれないのだった。わたしは枕に顔を押し付けると、右の頬をこすりつけ、それから左の頬をこすりつけた。あいかわらず首がぎしぎしと痛んだ。それは寝起きの悪い子供みたいな仕草だった。それから頭を起こして、また横たえる。頸椎が小気味よい音をたてて鳴る。瞼を掻こうと持ち上げた人差し指の先に、暗紅色に滲んだ包帯がふやけて張り付いている。それを見た途端、枯れた泉から急に水が湧き出るように、痛みが体の奥底で目を覚ます。途切れていた回路がどこかで一斉につながったみたいに、体中のあちこちで肌が疼き始める。傷が網膜を通って脳を揺さぶり、それが神経を叩き起こして忘れていた仕事を思い起こさせたみたいに。そうね、もうそろそろ起きなくてはね……それにしても、ずいぶんあちこちとケガをしたものね……とわたしは言葉にせずに呟く。傷口がそこかしこで熱っぽく脈打つたびに、わたしはそれを逆さまにたどり返して、傷が肌のどこにつけられたものかをひとつひとつ思い出していった。

 また風の音がする。倦怠感を洗い流すような涼しい音だ。大きく息を吸って、それから吐いて、足の関節を曲げたり伸ばしたりして毛布の中で体操する。それから拳を二本突き出して、右から順に指を伸ばしながら、頭の中で十数えて、今度は左から順に畳みながら十数えた。そしてゆっくりと起きあがる。フランネル地の寝間着が乳房の上を滑り、わたしは右肩に頬を寄せて、思わずくすくすと笑った。まるで猫のしっぽが這いぞったような、そんなくすぐったさに体が緩んだ。

 丸椅子の上に硝子の水差しが伏した杯と共に置かれていたので。わたしはそこから水を二口ほど飲んだ。

 戸板と壁の隙間は闇が埃のように溜まっていた。あなたは、わたしより一足早く起きると、いつも決まって廊下の窓掛(カーテン)をすべて引いてくれた。それで、わたしが目を覚ます頃には戸板の縁にあしらわれた真鍮の薄板に粉々に砕かれた萌黄色の光が散っているのだった。それが今日はない。扉はまるで寝静まったように静かだった。それはあなたがまだどこかで寝ているということを暗に指し示していた。

 わたしは自分でも可笑しなくらい神経質に、ひとつの足音も立てないよう膝を曲げながら扉へと進んだ。そしてその窪みにそっと指を這わせた。そしてそれを引っ張った。床に白く残された足跡が、吸い込まれるように消えてゆく。下桟に油の塗られた戸板は空飛ぶ絨毯みたいに音もなく滑っていった。けれどもその動きはどこか唐突にぎこちなく停止した。はっとこわばるように固まった指先が動かない。隙間から見えた光景がわたしを身じろぎさせない。廊下は隅々まで黄土色の霧に満たされていて、窓掛はさながら縄をひっかけた縊死体の群れのように横並びにうなだれて、その波打つ装束の裾を垂れさがらせている。しかし、わたしはそれらを見てはいなかった。怯えさせたのはそれらではなかった。わたしは扉を引きながら、わたしの瞳に映るそれらとは全く違う光景を、そう、ほんの一瞬だけ、その向こう側に見てしまった。撃鉄が火皿を打つような低い音が、一回、わたしの脳裏に響いた。そして暗い通路の向こう側にわたしは母の姿を認めた。

 長い廊下の窓掛をすべて引いてしまうのに、そう時間はかからなかった。その暗幕の向こうに広がる美しい景色への期待に、わたしはあのおびえを打ち負かさせた。すると、緞帳が上がるように、わたしを包み込んだあの暗い幻は、奔り出る太陽の照明に燃やし尽くされて退場した。わたしは動機が鎮まるまでしばらく廊下に置かれた藤編みの椅子に座りこんで、裏庭に落ちる日の光に目を細めていた。土の窪みに溜まった水溜りの周りを飛び跳ねている小さな鳥が羽を振るうと、廊下一面に小さな光の数珠がほどけて散らばった。それは翼を滑り宙へと投げ出された微細な水滴に反射した陽の光にほかならず、しかしその生み出す効果は廊下を葉枝のそよぐ午後の木立へと変えてしまった。そこでは卯木(うつぎ)七竈(ななかまど)山帽子(やまぼうし)が白い花を咲かせ、重なり合う薄緑の葉を透かして差し込む低い光りに、その花弁の縁を琥珀のように燃やしながら、嗅ぐことのできない穏やかな煙をたてている。その香煙の輪をわたしは睫毛の先から吸い取ると、それは薬液のように心臓を鎮めてくれた。

 記憶の肉片に食い込んだ釣り針のような過去をこうして自然のごくわずかな奇跡が幾度も癒してくれた。それを引き抜くこうとするわたしを諫めるように、なだめるように。わたしたちは過去を自在に取捨選択できたらどれほど良いだろうかと思うことがある。けれども、ふとわたしたちが自然の大きな(かたち)に目を凝らすとき、いいえ、この目を大きく開くとき、わたしたちは自分たちの小さな心の容器(いれもの)を恥ずかしく思う。沢山の血を受け止めてきた大地の悲しみがわたしのそれより小さいはずがない。すべてのものは共に呻き、虚無に服しているのだ。だが、それを恐ろしい奴隷労働のように見続けてしまうのではなく、その先へ続くものに目を止めなるべきなのだ。そのとき、目の前に横たわるとても飛び越えることのできように思えた亀裂すらも、芋虫が葉の上に食い残した白い筋のようにちっぽけなものに過ぎないと気がつかされる。わたしは小さく感謝の言葉を述べてから、そっと椅子を後にする。ホアン、あなたにもそれを伝えたいと思う。でも、純粋な感謝ほど言葉にするのに難しいものはない。それを思えば思うほど、言葉は手の届かない地平線へと退き続けるのだ。あなたの皮膚を破れる言葉があったらよいのに。種子のような、破ってなお生き続ける言葉がどこかにあればよいのに。

 鳥たちは入れ代わり立ち代わりやってきては楽しそうに水浴びをしている。わたしは少しずつ居間へと通じる長い廊下を進み始める。そして耳は廊下を擦る足の音や、だんだんと近づいてくる薪ストーブのはぜる音にそっと注意を払っている。居間に入ると、長椅子の上に毛布の塊が横たわっている。そしてそれは耳を澄まさないとわからないくらいの小ささで、寝息を立てていた。

 わたしは毛布の塊の方へと手を伸ばし、その重なり合う二枚の布をそっとめくりあげる。のぞいている顔は、緩んだ春の雪が崩れて、その下からつぼみを開いた福寿草のように穏やかだった。平和な寝顔、とわたしは思う。熱に毛羽立った頬が思わず緩む。その眠りに落ちた顔は、暗い玄武岩を枕に眠る少年の面影をふと、わたしの瞼の裏へと浮かべて流す。夏至の平原に鳴きかわす渡り鳥の声が湖畔を流れて、草むらに身をひそめるわたしたちのもとまで響いてきたあの日のことを……。無精髭のせいで微かに黒ずんだ肌を指先でなぞった。熱がわたしを浮ついた気持ちにさせているのか、それとも空腹のせいで頭に血が回っていないのか、どちらかしら、とわたしは考える。まるで子供のいたずらのようなことが次から次へと無条件に湧き出てきて、自分で自分にうんざりする。たぶん求めているのだ。今すぐ起きて抱き締めさえしてくれれば……心の皮膚のほつれている今のうちに……その想いは届かない。あなたの意識は眠りの向こう。疲れさせてしまったのね。それはわたしのせいよね。

低い栗色の机が長椅子の右の端、あなたの頭の方に寄せてあって、そこに香辛料の薫りを未だに漂わせる角杯(テンブラー)がひとつ置いてあった。底の方には色の抜けた檸檬の繊維や黄色い皮、ふやけた黒いクローブの実がこびりついていて、飲み口のあたりには冷えて白く凝った線が薄く唇の形を残している。

 舌が唇から這い出して、その肉厚な丸みをゆっくりと舐めた。無意識のうちに。そして再び、舌は暗がりへと戻っていった。まるで火山のように力強い腕が灰のような雨の降りしきる冷たい霧の中から、わたしを家の中へと引きずり込んだことをわたしは思い出し、つづいて熱が溶岩のように、わたしの氷河のように固くなった唇を割って流れ込んだのをわたしは思い出す。すると羽毛で撫でられたような甘い震えが膝頭を打ち、わたしはまた額に熱が昇るのを感じた。それは子供じみた恥ずかしさや少女じみた憧憬にけしかけられた甘い恍惚などではなく、筋肉からあらゆる力が引き抜かれてゆくような、神経からあらゆる感覚が逃げ去ってゆくような、深い眠りに陥る直前の弛緩に似ていた。あの時、とわたしは情景を思い浮かべる。舌先が歯茎の裏を蛇のようにくねる。あけ放たれた扉から注ぎこまれる濁った雨粒も、わたしの意識には届かなかった。溶岩が歯茎にまで達し、わたしの舌先を燃やし尽くしたとき、細胞を動かすあらゆる力が注意深く抑制された出力を超えて、焼ききれる導線(ヒューズ)のように体の末端まで一閃し、刹那、わたしを安全な隠れ家へと送り届けるために振り絞られていたあらゆる力が唐突と失われた。まるでブレーカーが落ちるように。それはこわばった筋肉を一瞬のうちに解体して、蓄えられていた疲労を開放した。その熾った火が取り除かれた後には、莫大な弛緩と安堵がわたしの他の感情を圧倒していた。そして冷えた体を急速に熱がなぶるのをわたしは感じた。きっとそのとき、脳はふつふつと煮えて泡を立てていたに違いなかった。だから何も覚えていない……その後のことは。

 わたしはグラスを手に取りあげる。それから濃厚な牛酪(バター)のような香りが廊下から漂ってくることに気がつく。グラスを持ったまま、匂いを鼻先でたどりながら、わたしは居間から遠ざかる。ホアンは鍋を火にかけっぱなしで寝てしまったのかもしれない。わたしは身震いする。でも焦げ付くような香りは少しもせず、そこには食べたくてたまらなくなるような鶏がらや白味噌、牛酪、牛乳、扁桃(アーモンド)の混ざりあう深い香りがするだけだった。わたしが台所に入ると、コンロの上には鍋がおかれたままになっていた。火は消えていたが、まだ温かいのではないだろうか、とわたしはなんとなしに思った。覗いてみると、それは牛酪南瓜(バターナッツカボチャ)のポタージュだった。スプーンでひと匙掬って舐めてみると、みるみる頬の筋肉が緩むのが分かった。思わず声をあげたくなるくらいの美味しさだった。
 わたしはコンロのつまみを回し、鍋を温めた。それに夢中になっていたので、調理台の上に置かれたままになっているものにわたしは気がつかなかった。深皿を取り出そうと食器棚を開き、そこから一枚を選ぶと一回転して調理台へと向き直った。すると、そこに広げられた新聞紙の包みに目が留まる。そこに散らばっている割れたマグカップの残骸が瞳に吸い付く。
 早鐘のようにどんどんと心臓が胸を蹴りはじめた。痛い、だめ、飲み込まれてしまう。撃鉄が火皿を打つような低い音が、一回、わたしの脳裏に響いた。銃口から何かが吐き出すされ、鈍い羽音をたててその鉛色の影は飛び去っていった。打ち抜く真紅の太い針先が首筋を抜けて後方で弾け、腰壁の上にまで砕けた髄を飛び散らせた。わたしの手を何かがすり抜けていった。それは大きな音をたてて床にたたきつけられた。破片が飛び散り、その後ろで体中から根こそぎ骨を抜き取られたみたいに母が大きくくねるのを見た。母の顔は硝煙に霞み、薄布(ヴェイル)に顔を包み憂いを慈愛の上に固めたピエタのようにわたしの目に焼き付けられた。しかしそれは死の領域へと旅でる母から生の領域に立ち尽くす子へと贈られた逆さまのピエタで、子を残して身勝手な苦悩を理として世を先立つことへの憂いと、苦悩から解放される一瞬に溢れだす何の迷いもない我が子への無垢な愛情とがひとつの相貌にまとめられたものに違いなかった。開かれた唇の奥で舌先がたなびく赤い血とともに溢れだし、それがリボンを繰り出すように宙を長く這った。そして指は銃弾を放ち終わったその形で引き金に絡まり、ゆっくりと腕とともに落ちていった。骨が内臓に、内臓が肉に、肉が皮膚に、皮膚が床に打ち付けられ、それが背筋をぞっとさせる気味の悪い音をたてた。首からは泉のように血が吹き出ていた。瞼はひきつったまま閉じており、意識の半濁したままわなわなと震える唇からは、空気の代わりに吸い込まれた血が気管を逆流して牛の肝臓をミキサーにかけたみたいに泡立ちながら溢れ出ていた。それは弾丸が首筋を射抜くあの劇的な一瞬に比べて極めて残酷な印象を伴ってわたしの視覚に流れ込んだ。死が牙をむいて犠牲者へと組み付くときよりも、それが息の根を止めるまでの時間の長さにわたしは泣きながら凍り付いた。そして廊下を流れてゆく血が砕けた陶器の欠片を見る間に臙脂に染めていった。それは砕けたマグカップだった。わたしはそれをはっきりと覚えている。わたしはそこに注がれた牛乳を飲んでいた。それは母が水差しから注いでくれたものだった。それなのに母はわたしが飲むのを見届けもせずに廊下へ消えた。そしてわたしは無意識に母の消えた廊下の先を見た。母はわたしからそれを差し控えることも隠すこともしなかった。大きな拳銃を持ち上げて、わたしを見ながら母は微笑んだ。そしてわたしの名前を呼んだ。引き金が引かれるのと同時だった。母は狂っていたのか……わたしにはわからない。それを理解できる人がどこにもいなかったから、母は死んだのだ。孤独の引力が突進する弾丸を母の首筋へと引き込んだ。それは外れることもなくまっすぐに母の喉を突き破って廊下のどこかへと飛び去って行った。そして、わたしの触れえるすべての温もりも声も微笑みも、冷たくなった肉の躯を置き去りにして、弾丸とともに永劫の虚無へと飛び去って行った。最後に母が私に何と言ったのか……そう、名前を呼んだ。そしてこう言った。
「ユーラリ、怖くない、ユーラリ、大丈夫、怖くない、ユーラリ――」
三度目にわたしの名前を呼んだ時、母は永遠にいなくなってしまった。

逃走

 吹雪の中で追いすがった一本の腕が敏捷に突き出された。濡れた松の木をひっかいて樹皮にまみれたその掌が、わたしの鼻先で分解された松笠の薫りをくゆらせる。遅れずにさらに一本が頬をかすめる。糸みたいに伸びる二本の白い腕が、まるで繭みたいにわたしを包み込み、閉じ込めようとする。それを全力で蹴りやって身を前に伸ばす。前へと、わたしは喘ぐ白い息を吐きだして最後の直線をひた走る一頭の馬になる。投げ輪のような腕をかいくぐり、雪の丘を駆け上ってゆく……皮肉な笑いがわたしを捉え、歯茎をすり抜けてくぐもった笑い声が響きだす。

 無重力が欲しいからと言って、重力の鎖を切ってしまえとばかりに自由落下を試みるのは愚かなことだ。でも母は多分、それと似たようなことをした。押さえつけるものから逃れようとして、結局はその手中に身を任せてしまったのだ。

 わたしは生きよう、とわたしは思う。その言葉を一口ずつ千切って、自分の心に食べさせてやる。あの丘のてっぺんまで走ろう。そして頂上から世界を見渡して一息つこう。きっと何かが変わるはずだ。そう言い聞かせてわたしは駆け続ける。丘の上で墓石のように立ち尽くす。そして大音響の涙であたりを打ちのめしてやろう。後ろで狂ったように名前を呼ぶ声がする。息切れしながら、それでも執念深く追跡を続けてくる声が、近づいたり遠ざかったりする。雪の下に隠れた灌木の茂みに足をとられてわたしは転びそうになる。それでも鋭く腰をひねり、上体をナイフのように左右に動かして銀狐のようにわたしは切り裂いてゆく。足が雪面に食い込むたびに、足の裏に枝の折れる感触を感じた。冬眠を破られ、身体を砕かれた木々たちは、激痛に耐えかねてとうとう少女の両足にしがみつき、それをひねりあげた。耳の奥でどぅっという音がして、わたしは雪の毛布に頭から突っ込み、危うく灌木の槍先で眸を突きそうになった。口の中のどこかを嚙み切ったのかもしれない。苦い砂鉄の棘が舌先を刺していた。そして顔を起こすと、開いた唇から雪面に赤く散った。足音が近づいてくる。眼をやると痩せた背の高い少年がたっている。

「なんでほっておいてくれなかったのよ、なんでわたしを追いかけてきたりしたのよ」
喉が痛くて、口から泡みたいに血がとんだ。ネフェスの大きくあえぐ口元が痛みにひきつるのが見えた。その黒曜石みたいな目が大きく開き、じっとこちらを見つめている。
「気になったんだ、死んでしまうんじゃないかと、だから――」

 怒り、なんと虚しい感情……雪だるまのように膨れ上がり、雪だるまのように溶けてしまう。わたしを正面からのぞき込もうと、彼は身をかがめ、下から掬うように見上げた。あのまっすぐな瞳は頼もしい常緑樹の大枝のようだった。わたしを庇おうと羽を広げていた。本当は、ためらわずに泣いてしまいたかったけれど、あらがいがたい不合理な反抗心と無為から生じた頑なさが二枚の鱗となり、わたしの眸を封じた。それ以上のなんの手がかりも彼には与えまいとわたしはそっけなく首をそらして立ち上がり、口の血を拭いながら重力の引っ張り下ろすがままに丘を駆け下った。

 そう、わたしはあなたに十も感謝したいことがあるのに、そのうち六を忘れてしまって、三を無かったことにして、一を放り投げる。あなたの背中にむけて、とんでもないタイミングで。鈍い音をたてる。それがあなたに食い込んでゆく。そしてくずおれる影。十分よ。こんなわたしなんか嫌いなんでしょう?もう十分よ、本音で話したらいいわ。そう怒鳴りながら、水割りの葡萄酒をあなたに飲ませてあげる。罵声の中に溶かした一口のありがとうをあなたの唇に沁み込ませてあげる。あなたの口腔を満たす血が絨毯みたいに赤く汚すの。それを爪先で踏み消しながら、わたしは出てゆく。

 乳房を押しつぶし、首筋を赤く痕つけて、指が圧す、強く、強く。自分で自分を掻きむしっているわたしを見て、眉の上から血を引いた顔が、悲しそうに歪む。真っ赤な球根が喉元から破裂して溢れ出る。切りつけてやる、臆病なあんたと違うんだ。あんたなんかに理解されてたまるか。吠える、血を吐き出して。美しい霧が柘榴石のアーチでわたしの口先を彩った。爪先をぎらつかせて滑空するすべての鷲たちにわたしの肉をくれてやる。だからお願いだ。わたしを天へと運び上げてくれ。その猛禽類の瞳でわたしをバラバラにしてくれ。

「ユーラリ、さあ」
と獰猛な影が叫ぶ。すると突然、祖母の声が響く。

「なんであなたはそんな石みたいに固い顔をしているの?どうしてわたしに少しも微笑まないの?なんで四六時中そんなに難しい顔をしている必要があるの?たった人匙でもいいからここに温かいものを注いでよ、甘いものを溶かしてよ。角張った冷たい顔なんて大嫌い。」
「流されてこようか、あの川に」
彼女の眸に答えて、わたしは笑う。どんなに噛みついてもいいさ、好きなだけそうしてくれたらいい、そんな余裕のある心地が、自信を湧き出させる。
「角が取れたら、少しはあったかくなるかもしれない」
「ざらついたままでいいのよ、凹凸をかみ合わせて、ひとつになれるから」
「そう」
眸が近づく。ユーラリ、もう取り繕った優しさなんてどうでもいい。そうホアンの眸が訴えかける。わたしは手の延ばして彼の頭を抱き寄せる。甘美な記憶を打ち消して、再び、死の匂いでわたしの記憶を再起動してくれたら。発煙筒みたいに夜陰を照らす愛で、この肉体を消滅させてくれたら。そのとき、皮膚のないわたしたちはひとつになれる。あなたの頭はずしりと重みがあり、髪はふさふさと柔らかい。
「無菌室のガラス越しにわたしをみるのはやめて、叩き破って入ってきて、さらっていってくれたらいい」
「いつまでもそんなに凶暴なのか」
「張りつめた乳房と生えそろった歯があるうちわね」
つかのま少女に戻る瞳がわたしを見ている。

紙を全部丸めて燃やしてしまって、それから考えようとわたしは思う。火を擦り起こす。眠たげに瞼を掻くこともせずに、火は走る、またたくまに。

独房のようなこの皮膚を突き破って、(サイ)のような角で突進する。


 ユーラリ、あなたの眸を見よう。ああ、萌え出る原子の群れが戦闘へと駆り立てられて、彗星のように吹きあがってくる。割れて散り散りとなり井戸に溶けた陶片のように、堕落した微原子の指先が、暗く燃える空から降下する。


 それは二重連星だった。ひとつにはクタリと名づけられ、もうひとつはヨールカと呼ばれている。その長大な引力の腕にわたしは引き込まれるように加速する惑星だ。そしてそのわたしの周りをまわる小さな月がある。それにはホアンと名づけられている。

埋葬

 こちらへと投げ出された一本の腕が見えた。その腕は蝋人形みたいに血の気なく凝っていたけれど、その内側には焼いたベーコンのようなものがへばりついていた。それは何度も裂かれたせいで褐色の帯になってしまった皮膚だった。どんな声でわたしは泣いたのだろう。それは腹の底から湧きあがる怒声のようでもあり、気管を千切るような嘆声のようでもあった。声をあげないようにぐっと舌を噛み、なんどもあの人は自分の腕を切ったのだ。刻まれた無数の縦皺。わたしが瞼を瞑り、夜の眠りの中へ漂い出ている合間に。一体、数えることができるのか。いくつの夜なのか。なんど母は乗り越えたのか。それが母を打ち倒すまでに、どれほどの苦痛があったのか。すべては死んだ眸の暗い穴の中。濁った硬い皮膚の中。分離の肌の内側に抱き込められたままなのだ。わたしへ向かって投げかけられた腕の先で、五本の指は、まるで手招きするように僅かに内側に曲がっている。

 わたしはコントロールしようとした、けれど駄目だった。恐るべき呪詛が生暖かく床から指を伸ばしてわたしの踵を掴んでいる。その信じがたい握力にわたしは引きずり込まれてしまう。そしてぱっくりと開いた鉄臭い歯の抜け落ちた口のなかにわたしを呑み込み始める。ゆっくりとまるでミルクシェイキでも飲むように……わたしは液体になる。母の体から流れ出た真っ赤な血へと還元されるのだ。それはわたしの初めにわたしを塑像したあの胎盤の脈打つ火に違いなかった。

 わたしは思わず嗚咽を漏らした。あの美しい眸が萎びて腐ったバナナみたいな黒い隈に縁どられてしまったとしても、手首にたくさんの醜い筋が赤褐色の染みを穿っても、わたしにはあの人の代わりはいなかった。

 身に着けているフランネル地の寝間着が吹き払われて消えてゆく。わたしは目を見張る。かわりに黒い襟付きのワンピースが体を包んでしまう。黒い帯が蛇のように天井から降りてきて、みぞおちのあたりをぐるりと縛り、視線を落とすとまるで少年のように乳房はすとんと絶壁のように落ちている。足首まで隠す口留(トップエンド)の高い長靴が雪を締め付ける音をたて、燃える蝋燭の光が視界を四隅から照らしている。燭台を掲げた人々の列が雪山を厳かに進む羚羊の群れのように動いてゆく。

 雪は紋白蝶の千切れた羽みたいだ。その降り積もる死骸が見慣れた世界を広漠とした白へとならしてゆく。あらゆるものの輪郭が微睡み、それを縁どる陰影が平面へと折りたたまれてしまう。わたしは異様な寒気に上掛けへと手を伸ばし、それを両肩に回す。まだ微かに母の匂いがした。

火炉

 不穏な気配で目を覚ます。煤けた空気が漂ってくる。蛋白質が焦げつく匂い。すべてが灰燼に帰す前兆のようなものをわたしは感じ取り、飛び起きて、その煙が流れてくる方向に目をやる。一瞬で心拍が上昇し、こめかみのあたりに血が集まるのを意識の片隅に感じたときには、すでに両足は駆け出していた。台所では何かが燃え始めていた。天井に煙がたまり始めている。鍋がぐつぐつと煮えている。赤く熱を帯びた鍋そのものが。わたしはその隣で生気なく頭をうなだれているあなたの姿に気がつく。考える間もなくコンロをひねり、彼女を台所から引きずり出す。泣き声が聞こえる。布の引きちぎられるような鈍い音。食器棚の吊り金具が引っかかって寝間着の背中が裂けた。でも少しぐらい彼女が傷つこうが構わない。ユーラリが生きてさえいてくれればいい。それで十分だ。

 わたしは乱暴に細い二の腕をつかむ。握ったまま廊下を玄関へ走り、そこへ彼女を突き放す。手桶を浴槽に投げ込んで、水を汲む。戻りながら走る。黒い煙が頭上に垂れこめていたが、舌を思わせる火はそのどこにもなかった。わたしはまだ溶解した岩のように輝いている鍋底に水をぶちまけた。雄たけびのように、空気中に猛烈に灰色の湯気が放たれる音が響いた。蒸気窯の破裂音みたいな耳障りな音。一瞬、気圧されるように動きに詰まる。轟轟という響きはやがて毛の縮れるようなかすかな音へと収斂してゆき、静けさが戻るころには台所は霧がかかったみたいに全体の陰影が定かでなかった。わたしは鉄火炉から火掻棒を持ってきて、それで鍋を洗い場へ落とすと、それが冷えるまで蛇口を開けっ放しにした。水は流れ落ち、ぼうぼうと煙っていた。それから台所の窓を開け、すべての煙が吸い出されるまでじっとあたりの様子を見守った。天井に残ったのは深い穴を思わせる煤の跡だった。その時、わたしの脳裏に忽然と閃いたものがあった。紅蓮の舌先に燃え落ちてゆく小さなマッチ細工みたいな納屋だ。火の粉が虹色に輝きながら木々の梢のそのまた先へと吸い込まれてゆく。人々が茫然とそれを見守っている。
「水だ、井戸から水持ってこい。」
と人々は口々に叫んでいる。クレヤミ・シロが悟りを開いた僧のような口どりで言った。
「駄目だ、もはや手遅れだ。なるがままに任せるしかない。」
納屋は巨大な篝火のように燃え続けた。柱は次第に黒く醜くやせ細り、やがて音をたてて崩れた。火はその沸騰した肌の上を舞い続けた。それがたっぷりの水を含んだ紙に一筆、朱色を撫でつけように空に照っていた。
「わたしのせいだわ。」
女が泣きわめいている。その髪は干からびてくしゃくしゃに乱れている。
「煙草を吸ったのよ。そのせいよ、そのせいだわ。」
人々は慰めることもせずじっと立っていた。ただ彼女の甥が、気がふれた女が火の中に飛び込まないように辛うじて押さえつけていた。

 玄関に戻ると、彼女は身を屈めて泣いていた。ああ、あの時と全く同じだ、とわたしは思う。まるで蛇に射すくめられてしまった兎のように、彼女は弱弱しく惨めだった。切り裂けたフランネル地の寝間着から露わな背中が照っている。その顔貌の片鱗をのぞかせるように、脊椎の生み出した闇が弧を描く肋骨の筋に沿ってうっすらと伸びている。指を裂けた布地に滑り込ませる。わたしはそこに断崖を探り当てる。骨を覆う滑らかで冷たい弾力のある皮膚。そこに張り巡らされた血脈の裏地は皮膚を僅かに盛り上げて、わたしの指腹(ゆびっぱら)にどくどくと感じられる。まるで岩肌の亀裂をなぞるように、その網目状の血の流れを指で追う。すると彼女は右手でわたしの足首を捕まえて、ぐっと身を寄せる。ひときわ熱いところへ導くように、彼女の左手の指がわたしの掌を包み込む。温かい涙が、氷のように冷たい鼻筋にぶら下がっている。わたしは思わず言ってしまった。「何事もなかった。だから後悔しなくていい……」と。すると彼女の指にこめられた力が軽くなったような気がする。わたしは屈みこみ、彼女の左手の甲を両手で包み込む。すると彼女は猫のようにさらに身を寄せてきた。まるで白亜(チョーク)から削り出したみたいに、彼女の裸体には最初、少しの水気も感じられなかった。けれど、わたしはそこに何かが浸みだしてくるのを肌で感じた。ユーラリは荒く息を吐き出し、足首を掴む指に力をこめた。そして頭を跳ね上げるとわたしを見上げた。長い前髪がもつれあいながら額をそれた。眸、潤む、溶けた牛酪(バター)を思わせる。双眸がせり上がる。あたかも体が縮んでいくような感覚にわたしは囚われる。頬に林檎の皮のように血の気が浮き出ている。その白い皮膚を薄く嚙んでみる。ゆっくりと前歯を離すと、圧したものの形を写し取るように、そこだけ強い。彼女の舌がしなやかに突然、首筋をさらう。そして下顎の付け根を噛んだ。
 煤けた髪に指を通すと、燃え尽きた芯のような髪が床に落ちた。息苦しくなって咳き込む。彼女の指はまるで水のようにわたしに入り込んだ。脇の下に手を差し通して、彼女を抱き上げる。抱えたままわたしは居間までずっと彼女の肉体の広がりを量っている。その深い重さを。毛布の上に崩れながら抱き合う二つの肉体に、もう言葉はいらない。文字を滑らさずとも、わたしとあなたの会話は続く……

庭辺

村からは海が見えた。

「あなたが落ち葉を踏み散らかして一緒に踊ってくれた時は嬉しかった。心臓の中で立つ続けに花火が上がっていたの。あなたには見えていたかしら。」
「うん、皮膚を突き抜けて、眸から飛び散っていったのを見たよ」
それは見ているわたしも思わず頬が緩むくらい、とてもとても幸せそうにあなたは笑いました。
「見えていたの。良かった。ネシュ、もし独りぼっちで誰にも気がついてもらえないときでも、あなたにならきっと届いているということね。仮に、あなたがとても遠いところにいたとしても。」
「そうさ、ユーラリ、仮に地球の裏側で突然、あなたの心臓が止まったって、わたしにはすぐ隣であなたの胸に手を当てて聴いているときのように一瞬でわかるだろうさ。」
接吻(キス)して。ホアン、わたしにして。」
「いいよ。目を瞑って。」
大きく息を吸い込んで、彼女は目を瞑った。

白夜

 わたしが探り当てたのは、濡れた氷のような質感のひんやりとした丸みだった。 

 窓の外には空一面に葡萄色の雲が垂れ込めていて、時折、まるで皮を破いたみたいに陽の光が滴り落ちる。窓にとまった羽虫を指先ですりつぶしながら、少年は冷めた薬草茶を飲む。指が硝子をこする生ぬるい音がよじれた紐みたいに鳴っている。傍らには頁を伏して置かれた本が一冊、まだ真新しい紙の匂いを放っている。

 影法師は濃淡を変えて揺れ動き、急に締め付けるように喉元まで這い寄っては、澄ました顔になって行儀よく肋骨の窪みに腰かけていたりしたものだから、わたしはそのあまのじゃくな振る舞いにすっかり気分が滅入ってしまって、時にひどく憂鬱な感情に悩まされるときもあった。

 それで、母がある朝の食事の折に、それを恋なのだと静かに指摘してからは、わたしは反抗的になってその影法師を縛り付け、殴打し、なんども死刑を宣告したが、影法師はかえって巧みな地下活動でわたしを一層、衰弱させた。一瞬の吐息の中に要約される拒絶と受容の曖昧な一本線。その揺れる綱を右に戻ろうか左に進もうかと悩んでいると、どこからか飛んできた堅い木の葉が桟の下のガラスをとんと叩く。それで硝子のコップをテーブルの上に置き去りにして、目の詰まった重たい毛織物の上着を服掛けから引き抜くと、壁に突き出た摩耗した雁首からすえた樹の匂いがした。玄関まで出てきてから、洗い場の水音に気がつき、わたしは振り返ったが、母は少しの気配も感じないようなそぶりで昼食の煮びたしを盛っていた大きなすり鉢を磨いていた。靴紐を締める間もなく黒土(くろつち)に渡された石の上を勢いよく跳び走って、わたしは夏至の草原へと続く松の木立へ身をくらませた。

 見えるものを見えなくし、見えないものを見えるようにするあの感覚は全身に沁みていた。それは盲目の羚羊が真っ赤な火炎の断崖を億尾もなく駆け降りるように、少年を走らせた。突き破られた空の青さに、消し飛んだ世界は雲となって浮かび上がり、立ち込める湯気が少年を押し上げて、地平に輝く太陽を魅させる。

 腕が(とんび)二差(ふたさ)しの羽のように光り、皮膚の裏に閉じ込められた弾力が隆起沈降を繰り返す。光を体で撥ね散らし、影を体で掻き混ぜようと、踊る、白い二本の腕。髪が螺旋(らせん)状に渦巻く顔、その(おもて)に幸福に光る乳白の前歯が唇を割って、白亜(はくあ)鼻梁(びりょう)をなぞるように日が斜めに落ち、顔を取り巻くねじの影の模様を描く。回り続ける少年は腕木を介して左右に異なる重りを下げているかのように、足の軸はふらつき、まるで減速する独楽のように上体を揺らしながら、草をあべこべに踏み散らかして、やがて頭を地面の水平へと大きく大きく傾けていくと、ついに音もなく草むらに倒れた。少年は一瞬、気絶したふりをして目を瞑り、唇だけが蒼白い顔に熟した赤い命をともして見えたが、その奥で肺は気球のように膨らみ、つづいてふいごの様に荒々しく収縮していたので、仰向けになった胸のあたりは沖合を押し渡る波頭のように大きく上下していた。少女がその耳元でささやく。
「今のわたしはどんな風に映っているの?」
どんな?……

 それから少年は少女の肩に手をかけて起き上がり、しばらく一本の影が分離したふたつの肌色の光は、草原の中で互いに身を寄せ合って座っていた。暗い目に燃える隕石を宿したまま、少女は意識の中でばらばらに砕けてゆく石灰岩でできた雲を眺めていた。

 わたしは知っていた。それは絶えず落ち続けているが決して打ち付けられることはないと。周回軌道上の残骸(デブリ)みたいに、燃え尽きることもなく回り続ける。わたしが少年の時からずっとそれは燃え続けていたし、今でも、あなたの目の中に激しく浮かび上がることがあった。いっそのこと落っこちて消えてしまえばいいのに、それを受け止める大地すらない。燃え尽きるには短すぎる寿命が、あなたをこれからも苦しめるだろう。せめて、気圏のごとく年月がそれを少しでも摩耗させ、軽くさせることをわたしは隔てられた皮膚のこちら側で願い、しかし、ただ願うだけだ。心の皮膚は薄くて厚い。それをすり抜けることはできない。

 遠くに伏せた椀のような石を思わせる黒い塊がぽつんと見えている。そこには縦に細長い入口が一か所開いていて、ずっと地下へと続く長い階段があった。わたしは一人でその近くまで行って、石の壁に手を這わせ、そっとその斜めに穿たれた暗がりをのぞき込んだが、下まで降りてみることはしなかった。風が下の方から吹きあがってくる不気味な音が途切れることなく響いていたからだった。でも、ここから眺めていると、その時感じた異質な感覚がまるで勘違いがじゃないかと思えてくるようだった。この夏至の平原では人の手が産み出した(かたち)もその造り主の手を離れて、太陽から流れ落ちる甘やかな蜜のような日差しの移ろいや、匂いたつ湿った土と樹皮から流れ出す乳香のような複雑な香りの作用に包まれて、自然という大きな(かたち)の一部に溶けてしまっている。それは寝袋みたいにすっぽりとわたしたちも包み込んでいる。そしてその容の一部に溶けるとき、束の間、わたしたちは安堵し、ともにひとつの意識を共有し、ひとつの感傷に滑りこむ。皮膚をぴったりとくっつけて、互いに奪い合うわけでもなく、ただ安らかに、目を閉じているとき。瞼の裏に血を透かして真っ赤に陽の光が広がるとき、ただその一瞬に。

「死ぬ前にもっと世界を見ておきたい、そうしたらきっと(そこに時間と肩を並べて住んでいる美しい顔が、水のように取り囲んでくれるから、腐敗した油からわたしはまもられ)とり去られても笑える」
少女は白いパンを食べながら、そう笑った。
「そう、確かに死はとても退屈な事実だ」
と応え、少年はパンを食べてゆく少女の白い歯を眺めた。唇の端に狐色の欠片がこびりついている。

 恋はまるでパンドラの箱だ。あけてしまえば、粉砂糖のように脆い希望という一文字以外はなにも残らないのだ。たった一杯のぬるま湯ですら、それを溶かしきるには十分だというのに……

 そして何枚服を着ようと蝶のように軽く、蜻蛉のように素早かったあの頃のあなたは、夏至の平原に立ち上がり、わたしを見て微笑みを浮かべようとして、途中でそれが不愉快そうな眉の仕草にねじれて……わたしはあとでそれをはにかみと呼ぶことにした。その頃のわたしたちの間には、どう読み解いていいのかわからない未熟な記号が飛び交っていて、わたしたちはお互いにそれを読み解けないことの方が多かった。それで、草原の風にわたしたちは記号を吹き散らばし、雲を滑り落ちる雨にそれをぼかした。

 

湖畔

 湖は静まり返った鉛色の板。空を打つ風の鼓動のようなものがもつれあいながら頭のてっぺんを通り過ぎ、はっと目をあげると、渡り鳥の群れが湖へと舞い降りていくのが見えた。鳥たちの腹は鉛板を擦り、白銀の火花を()ぜ、すると摩擦にその平面は溶けて波立つや、重なり合う同心円を描いて鳴りはじめる。映り込む葦藪(あしやぶ)は鮮緑の舌をちらつかせて発火する。そこに色とりどりの体を浮かべると、鳥たちはくべられた薪として燃え始める。

 存在とは不在にくり抜かれた虚ろだと思う。そこには周囲の様々な身振りが溶けた蜜のようにたまっている。物質こそが永遠の不在である。存在は常に、捉ええないものとしてわたしの傍らを通過し、それは未だ理解されないまま、トフェトに灰となって降り積もっているに違いないのだ。眸に闇を持つ者だけがその存在を不在の中に浮き上がらせることができる。陽が暮れてから舞い始める燐の虫のように。では、真昼の蛍に一体何の意味があるのかと、彼女が尋ねた。
「それはきっと昼間だって光っているのだけれど、わたしたちの眸は鈍感すぎて感じることができないんだよ。」
と少年は言った。無為なことでないの?それは常に、物事の終わりに訪れるあきらめのようなものではないのかしら。
「大事なのは繰り返される努力さ、それがあれば納得が出来なくてもいいんだ。仮に目に見えないからといってその光が無為になるわけではないだろう。それはきっと今だってどこかの葉の裏地や下生えの梢を照らしているに違いない。世界を埋め尽くす無数の粒子に、きっと何粒かの光をそっと優しく差し出しているに違いないんだ。」
そういう感知できない静かなものたちの質量に世界は支えられているのだと少年は繰り返した。亀もいない、象もいない、(アトラス)もいない。そういう大きな存在は小さなものたちの集体を代弁しているに過ぎない。もし世界に星しかなかったら、その質量で世界は崩壊していただろう。物事にはしかるべき隙間が必要で、その隙間を満たす見えない物質が必要なのだ。
「蛍たちが居なくても、この世界の光はちっとも困らないけれど、すこし寂しく思うだろうね。」
と少女は一言だけ返した。そうやって他者の同情にすがって生きているだけなのだろうか。いいえ、駄目、こんな考え方じゃいけない。わたしたちはこの世界の見えない物質になる。そうすることで、わたしは停滞していた心を過去から未来へと前進させなければいけない。

 少女の中に成熟した女の印象が浮き上がり、やがて痩せた胸や骨ばった腕はそこにいなくなり、それとともに少女も消えた。そして瞬きするあなたが、じっと夜空を眺めていた。それはわたしたちの後ろからゆっくりと草原を追い越してゆく。あなたの細い体、けれども確かに重みを増した肉の質感がわたしを少し安心させる。生きることの理由は絶えず、内からではなく外からやってくる。それをひとつでも多くかき集めて、胸の中で抱きしめていないと、とても不安になる。空が落ちてくるのではないかと。
「わたしの母はそれに気がつくことができなかった。あるいはそのことを親切に何度も言って諭してくれる人が身近に誰もいなかったのよ。母は一人ぼっちだった。世界で一番、忙しくて孤独で愛を注ぐことに夢中になって、愛を受けることを忘れていた。それがいつの間にか当たり前になり、母という人そのものになってしまった。」
燃えることの意味を見失った蛍。真昼の光を知ったばかりに……。

 墜ちゆく太陽。日の終わりに夕闇の食い残した光りの一角、その美しい燐光に魅せられて、燃え落ちてゆくすべての鳥たちが呻き始める。空気を研ぐ鋭い鳴き声で。その声は草むらに身を埋めたわたしたちのもとにも届く。きっと世界の果てまでも。

 いつまでもいつまでも鳥たちは飽きることなく鳴き続ける。草を揺らすことも雲を動かすこともしないその声に一体どんな意味があるというのか。でも、それには確かに意味があるのだ。それは嘴の先にはない、卵の中にもない、まして親鳥の腹の中にもない。部分を探してもそれを見つけることはできない。物質は潜むものの仮初の身振りに過ぎない。じっと目を凝らす必要がある。この広がりのすべてに。すると、そこに微かな痕跡が浮かび上がる。それは目に見えるものすべての背後に隠れている。本当に大切なのはそうしたものだ。わたしたちが草むらで寄り添いあって見つめている限り、それは決して耳を離れない。それはずっと響き続ける。塵の中でも、血の中でも、限りなく永久に。

焼身

何かがが顔を包み込んでいる。ひっかくと指にも沁みる。酸のような舌に腐食するわたしの顔が

顔が大音響を響かせながら、そいつに食べ尽くされる。膨れ上がる闇が下水よりも暗い。すっかり奪い取られて塞がれてしまった。後にはぱったりと何の光もない。

ユーラリには炎に群がる蛾がはっきりと映っていた。やがて全てが燃え尽きる。

『分離の肌』

『分離の肌』 冬夜 流治 作

女は熱に病んでいる。それは体の病でもあるが、記憶に起因する心の病でもある。熱は彼女のうちにささくれた旱魃をもたらしている。停滞したその心を過去から現在へと動かすために、男は女を愛する。しかし、その心は鉛をいくつも詰めたように重くなってゆく。女は自分を消すことで男を救おうとする。しかし結局、それは「押さえつけるものから逃れようとして、結局はその手中に身を任せ」ることに過ぎないと男は言い聞かせる。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-12
Copyrighted

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