*星空文庫

分離の肌

冬夜 流治 作

  1. 薔薇
  2. 白昼夢
  3. 沈思
  4. 樹帯
  5. 巣箱
  6. 湯浴み
  7. 梳髪
  8. 予兆
  9. 埋葬

執筆中である。完成はいつになろうか。未完のまま終わらせるのも良い……
山の記憶と病んで美しい女に捧げる。

薔薇

 あなたの腕は出ていった。そして戻ってくるときに花瓶を引っ掻けて落とした。垂直に落下する花瓶の残像を、わたしは見ていた。熱に潤み、揺らいでいる視野の中で、真っ直ぐに落ちてゆく花瓶の白い輝きだけが、糸を引くようにうっすらと見えた。それは音もなく床に吸い込まれ、無数の亀裂を走らせながら、粉々に飛び散った。あたかも大きな花弁が開くようにゆっくりと緩慢に、その破片は転がった。

 あなたの腕は白く溶ける。胸の上を撫でるようにしたたりながら、腰骨のあいだを水のように滑りながら、わたしの割れた皮膚の隙間へと入り込む。わたしの皮膚は薄氷のように透き通り、その奥に透かして薔薇のような肉が拡げられた。棘の生えた血管が脈打つように桃色の血潮に染まる様を――。

弱り切った皮膚など薄い膜のようなものだから、その包みを透かして差し込んでくる。あの一本の痛みが…

 花弁は払い飛ばされる。細い繊毛のように泳ぎながら、白は差し込む。割れた破片を拾い集めるように、指は漂う、しかしせわしなく。風邪はまだ治ってはおらず、降り積もる赤い花片が幾枚もふさりふさりと、辺りを終いには穏やかな赤に抱き包み。赤く大きく潤んだわたしの瞳は割れた鏡のような陶器の皿に引いた銀の釉の上に光っている。温かな涙が慈雨の如くしばし窓辺に覗く空模様を映す。唇のくぼみにたまった雨水を呑み込むと、僅かな塩が舌の上に仄かに沁みる。納まらない咳が凪となって揺らがす花々。

 窓辺は白木を打ち添えて、その上にガラスの瓶がさわさわと揺れている。いえ、その奥に透かして映るシャクナゲの花が揺れているのでしょう。息を吐きながら、もう一度あなたを求める。熱の上に加えて熱を、深い焦土と暗がりの水面(みなも)に、この血を溶かしましょう。

あなたの傍らで着かけた下着を脱ぐ。布団はわたしの熱で膨らんでいる。かすれた白に水の匂い。あなたが滑り降りる……わたしの肉の上に。

 傷の無い白、代えようのない肌に、わたしは無我夢中で口づけする。二つに分かれた肉も一本の痛みでつなげることができるのではあるまいか。ふと、そんなことを想う。

 あなたはわたしを抱き起こすと、この裸にそっと柔らかな白き毛布を纏わせる。長い廊下へ行くの?と尋ねれば、無言でうなづく。森へと続く長い掃き出し窓の傍で、わたしはあなたと二人並んで口をつむる。そのまましばらくじっと立っている。綿毛のような白いものが二、三、飛んできて、それが風の次第で舞って昇り、また降りるのをわたしはあなたの腕に身を預けながら茫然と見やる。そこかしこに、音楽のように草の立てる柔らかなささやきが響いておる。

 瞼を払いのけて顕わにされたあなたの瞳が、青々と覗き込む。深淵を縁から屈み見て、そこに何かを見定めようとするかのように、細い糸のような視線を垂らすあなた。水音のしないわたしの心。取繕うように微笑む。
「なにも引っかからないわよ…」
だって…その先に釣りあげる何物(なにもの)もないのだ。わたしは足早に廊下を走りだす。毛布が肩から飛び、あなたはそれを拾おうと足を止める。わたしは寝室に駆け込み、悪戯をした吾子のように息を弾ませて、鏡越しにくるくるとまわってみる。ただ唖然とした裸体が溶けた光の洞の中で虚ろに微笑む。わたしはわたしに唖然とする。あなたは近づいてくる。あなたの髪がわたしの肩にかかる。わたしはあなたに抱かれる。柔らかな上衣がわたしのそれに触れる。わたしのそれとよく似た細くて長い指。わたしの魂の一部。わたしの愛。いつなんどきもそれと等しい重さの抱擁をわたしに与えてくれた。

静止した肉体はそれでも動いてゆく、スイムスーツを着て泳ぐように、布団をかき分けて私たちは緩やかに弧を描く。あなたは疲れてしまい、目を半ば閉じうつ伏せに横たわる。結びつくことのできない肉体は、それが定めと知るかのように静かに抱き合う、それでもわたしの心臓はわめき囁き、打ち破ろうと身を潜め、刺しつつ舐めて風嵐のようにこの肉体の坩堝の中を掻きまわしている。痛くて思わず手を当てたくなるような胸奥の疼きがある。それは消そうとしたもののうまくはいかないサガのようなもの。あらゆるものを灰に変えてしまう欲望の舌だ。

 椅子に腰かける時、わたしはまだ不安だった。クッションがどこまでも呑み込むようにわたしの身体を包むとき、わたしは思わず手指を伸ばしてあなたを掴んだ。しがむように強く。束の間ふかく安堵する。定まらない振り子のような重みのある心臓の鼓動もしばしふと、その音を和めてくれる。息を吐いてあなたの手に顔をうずめると、わたしは言わなければならなかったことを思い出した。

「……」

 あなたとの一握りの時間。それを取り出そうとしてガラスの砂時計を壊してしまった。そのわがままを許してください。心音が小さくなってもう耳を当てても聞こえないとき、血の巡る温かさのようなあなたの涙がわたしの頬に振りかけられることを疑わない。弱り切った心を元気づけてください…そう念じなくてもそうしてくれていたのね。
 
 わたしはふと、あなたがもう行ってしまったことに気が付く。わたしはあなたが置いて行ってくれた温もりがさめぬようにと掌と掌を組み合わせて、その内側の肌を包む。ソファに巻貝のように丸くなり、目をつむってわたしは長い眠りに身を横たえる。

 

白昼夢

 その日、わたしは夢を見た。海にせり出した長い階段の上に、こちら背を向けて人が腰かけていた。物思いにふけるように首を傾げ、小指で頬をつついている。わたしはその顔を覗こうと足を踏み出した。すると階段は溶けるようにして海の底へと消えてしまった。その人は宙に取り残され、そこに浮かんだまま、こちらの気配にも気が付かない様子で、海のほうを眺めていた。風の撫でる後ろ髪は短く、その後ろ姿は曖昧だが男を思わせた。わたしの知っている男だった。
 わたしは叫ぼうとした。けれど岩牡蠣の殻のように唇は固く閉じていて、自分ではこじ開けることもできなかった。やがて、海岸を海から立ち昇る霧が覆い尽くし、男の後ろ姿はそのぼんやりとした薄暗い光の中に呑まれて消えて仕舞った。

 気が付くと、わたしは砂丘の上に立っていた。傾いた小屋の入り口で、水を含んだ巨大な雲海が遠い山並みを越えてゆくのを、わたしはぼんやりとみていた。なぜだかわからないけれど、その雲の中にあの男もいるような気がした。それでわたしは小屋の中に入って持ち出せるものを探した。その中の家具や小物にはなぜか見覚えがあった。祖母の家に置いてあったマーマレードの瓶がおぼろげに記憶をよぎった。すぐに私は身支度を済ませた。悲しみをナップサックに、涙は水筒に詰めた。干乾びた歓びを靴のようにこしらえて、白い両足を突っ込んだ。歩くたびに、それは土の埃で鈍く染まる。
 長い道のりをわたしは歩いた。身体は軽いのだが、どこまで歩るけど、ちっとも周囲の景色は変わらない。一面が黄土色の絨毯にくるまれているかのように、どこまでもそれらは同じ景色だった。わたしは乾いたので飲むが、それはたちまち瞳から溢れだしてしまう。餓えたので齧るが、それは胃の中になにも残さない。喉に詰まるばかりで、わたしはとうとうそれを吐き出してしまう。白かったシャツは胸も腹もみすぼらしい黄色に滲んでしまった。気が付けば夜が這い寄ってきて、太陽は真っ赤に燃えたかと思うと、あっけなく炭になった。それが青白く輝きだし、やがて月に変わるのだった。
 ふと耳をすませば、透明な歌声の旋律がかしぐようにして流れていた。目を凝らせば、丘の上に少女の姿があった。なぜか、少女だと私にはわかった。彼女が長い角笛のような歌声を天空の伽藍にぶつけると、幾粒もの星々が音もなくぐらりとはずれ、すーと尾を引いて向こうの闇空に見えなくなった。目を凝らせばその闇空は地平線に黒々とそびえ立つ険しい山岳地帯なのだった。鋭い峰がのこぎりのように立ち並んでいる。わたしは座り込んで火を起こす。食べるものはあとわずかだ。靴はどちらも脱げてしまった。知らぬ間に破れて足先から落ちてしまったのだ。今となっては、どこに落ちているのかすらわからない。わたしは泣き濡れることもできない。水筒の紐が千切れてしまった。気が付いたときは涙も消えていた。筒と一緒にどこかに転がっていったようだ。丘の上の少女がただ一人、はばたくような歌声でオーロラの唄を謡っていた。
 乾いた瞼を力いっぱい押し付けて、わたしは眠ろうとした。疲れてもいないのに。すると、ぼんやりと光が見えた。夢はどこかに立ち去ってしまう。それを引き留めようと目をつむればつむるほど、光は強くなるのだった。そして、なんの手がかりも得られぬわたしを置き去りにして、夢は終わった。うしろ姿の男を追い求めて、足跡だらけの砂漠を歩く夢だった。

沈思

 ようやく眠りから覚めた時には、小鳥の鳴き声も逝っていた。日はだいぶ高く昇っていた。

 あのひとはあのことで少しもわたしをせっついたりはしなかった。わたしが言えるようにと、言葉にせずにとっておいてくれたのだと。いまごろになってわたしは気が付いた。まだあの人の置き去られた香りが部屋の節々に深く沁み込んでいる。…でも、結局、わたしは話せなかった。言葉を選ぼうとすると、気持ちがぐんぐんと離れてゆく。どう相手に受取られるかだけが気になって、心が追い付かなくなる。
 沈み込む体をソファから引き起こし、廊下を歩き、ガラスの重たい扉はいつの間にか開いていて、わたしは浴槽に満たされた涙へと、落ちるように沈み入る。

 肉体の陰の中に彷徨うかのように指先を伸ばす白い手ふたつ。

 肩に落した首を拾い上げることもせずにうなだれた女を背負う白い器ひとつ。

 斜めに浴室を落ちていく陽の白が、抜いた蒼暗い陰のまにまに、女の裸もまた音もたてずに沈んでゆく。

 肩にも足にも腕にも、風は巻き付き、わたしの体を捻りあげ、あっという間にひっくり返した。湿った樹皮の裂けるような音がして、わたしは入り組んだ枝の中へ転がり込んだ。瞳を瞬ばたく間もなかった。茫然と、唇を半ば開いて、その折り重なった影の隙間から、エッチングで描かれたように暗く荒れた空を、わたしは見つめていた。
 それからしばらして、ようやく上体を起こすと足を折って屈みこみ、わたしは腐ったような赤い葉をぶるぶると震わせている灌木の茂みのなかから、息をひそめてあたりの様子を見回した。海がどこか遠いところから捲れあがって、内陸の丘陵地帯に押し寄せてきたみたいに、あたりは轟轟とした響きで満ちていた。緑青のような苔の生えた暗い色調のがれ場が青銅で仕立てたような道筋をずっと丘の上のほうまでつけていた。そのあたりでは低い松林が身震いする犬たちのように、水音の混じった擦音を響かせ、荒い筆致で刷毛を払ったように、木々の枝は一面ぶれた濃緑(こみどり)の筋のように重なり合い、燃えるようにぐらぐらと震えていた。
 
 わたしは両の掌を伸ばして、左右の岩をひとつづつつかみながら、灌木(はいまつ)の茂みから這い出すと、ゆっくりと丘の頂上を目指してがれ場を登っていった。林の中に入れば……とわたしは思った。この渦巻く矢のような風から安全に逃れるには、それしかないように思えた。泥が雨水と一緒に、まるでジャック・ポロックの絵画のように飛び散って、身をくねらせる蛇のように空中を飛んでゆく。ひとつの岩からひとつの岩、ひとつの茂みからひとつの茂みへと、あちらに少し、こちらに少し、といった具合に、岩陰を進むトカゲのようにわたしは前進した。手や足や顔の様々な場所から、じんわりと藁の燃えるような鈍痛が伝わってきた。灌木の鋭い枝先や濡れた岩のとがった角で、わたしの体は少しづつ、そして確実に、傷つけられているという言うのに、風はまるで納まる兆しを見せなかった。

樹帯

 林の中へ入ると、恐ろしい風音はすれど、あたりはしんとした動かぬ空気が占めていた。溶けた芒果(まんごう)のような鮮やかな菌糸が薄暗い樹根を這い巡り、地衣類が独特の斑模様を幹に浮かび上がらせている。わたしはしばらくどちらへ歩いていったらいいのか逡巡し、やがて決心というよりも不安から、背中を押されてふらふらと歩き始めた。痛めた指や腕や膝から、血が滲むのを拭うゆとりもなく……。
 
 わたしがいたその場所はただ暗く、湿気が混ざり、吐き出す息は重苦しく、翳った空は稲妻の気配におびえていた。深く陰に沈んだ苔草を踏み散らし、歩き続けても、ゆく先に出口は見えなかった。わたしは歩きなれたあのいつもの道を外れて、奥深い森の中をさまよっているに違いない。そんな疑念が次第に輪口を狭くする紐のように喉を絞めつけた。飛び散ってゆく花びらに混ざる虚無の匂い。深い百合の香り……とても疲れていたのに、そう、息をするたびに肺が痛んだ。けれども、わたしは蹲ることも、立ち止まって息を整えることもしなかった。そうしてしまえば、もう二度と、この森から出ることはできない、そんな気がした。
 
 森には逆立つ唐檜がずっと奥まで続き、その深緑を濃くあたりに蔓延(はびこ)らせていた。あたりには低い木々の呼吸の音が薄い水蒸気の雲とともに流れている。木立を巡りながらしばらく歩いていると、毛深い枝の隙間から、明るい樹帯の切れ目が見えた。愁眉が開くのを感じて、思わずわたしはひとり声をたてて笑った。見慣れた片流れの屋根が、(にび)た真鍮や黄銅の茎を揺らす草原のあちらに、震える銀のしっぽのように瞬いていた。

 とりとめもなく強い風が山を鳴らし、時化た海のようにその樹冠を波打たせていた。あの雷雨の気配も相変わらず頭上に重くとどまっていた。だけれど、わたしにはあの家の輪郭を見つけた喜びが、あの樹帯の中で百合の香りに包まれていた時の恐ろしさを、なにか赤く美しい焔でも灯したようにぱっと()して仕舞ったような気がした。あの頼りなく震える一枚の屋根が、あの薄く脆い一枚の皮膚が、その下に守られた温かな空気の広がりと、そこで待っているあなたのことをわたしの胸の内にそっと火種としてくべてくれたから、わたしは歓声にも似た小さな悲鳴をあげながら、輝く刃物のようにひゅんひゅんと風をきる草原の中を、一目散に駆けだしていった。

巣箱

 わたしは打ちかけの文字をカタタタタタタと連打して消してしまうと、パチンとノートパソコンを閉じた。

 あなたの帰りを待つうちに、あたりは白い霧が立ち込め、嵐の様相を見せはじめていた。強い雨が軒先を打ちはじめ、やがて屋根全体が小さなばちでやみくもに鳴らすように響き始めると、わたしの不安はますます胸の内で色濃くなっていった。最初は綿兎のように柔らかくもやもやとしていた霧も、次第に薄暗く濁りはじめ、いつどこから、空に張られた無色透明の皮張りに、稲妻が最初の一打をくわえても、もうおかしくはない。

 わたしはノートパソコンの電源コードをソケットから引き抜くと、それを無意識のうちに端のほうから几帳面に巻き直した。あなたはいまごろどこをさまよっているのだろうか。せめて、出発が遅れて出先にとどまっていることをわたしは願っていたけれど、「今から帰る」と一通メールが受信トレイに入っていたほかは、なにもあなたからの連絡はなかった。

 風のいななきが樋を突くと、居間の掃き出し窓についた水滴が、一斉に横一直線にたなびいた。バケツのようなものが転がっていく音が、庭の水場のほうからした。それはひどく乱暴な音だった。家が、まるで大波に打ちのめされるボートのように、梁をきしませた。わたしはそんな心もとない豆腐のようなボートの中で、耳をそばだてて立ち尽くしていた。

 壁も、部屋の柱も、その真ん中に置かれた小さな円卓(テーブル)も、むき出しの小屋組みも、まるで物性を失い、虚ろに揺蕩した。不安の重さが胸を歯噛みする。目筋に一杯涙をためて、こちらを見上げているあなたの顔が、刹那、幻のように目の前をよぎったりもする。あらゆるものが不確かで、定まってもいない。そしてそれには常に悪い予想がつきまとう。

 この体をどこに預けたらよいのかわからなかった。肘掛け椅子、その薄いピンクがかったベージュの布地で覆われた座面におろした腰の、どこか居心地悪く、しっくりとこない納まり。ぬるいコーヒーの謎めいた渦巻のように、脳裏に浮かぶ、とりとめのない景色たち。しばらくすると、あたりが暗くなるにつれ、気温がすこしづつ下がり始めたことに、わたしは気が付いた。悪い兆候だ。

 わたしはケトルを探しに台所へ入り、それが食器棚の折り畳み式の天板の上に頭を逆さかさにしてたてかけてあるのを見つけた。蒼暗い部屋にそこだけ光を集めてぼうっと滲んでいる。手を伸ばすと、その円をなす鏡面仕上げの面を滑るように、歪んでねじ曲がった肌が波を打った。その奥で黒い二粒の歪んだ闇が(まばた)いている。不安、その一文字が頭を離れない。さっとひっくり返して、蛇口のねじを回すと、すぐにどっと渦巻きながらケトルの底を黒く濡らした。その半ばまで水を満たし、鋳鉄を折って(かたど)られたコンロの爪の上にケトルを移すや、手首をひねりつまみを回す。シュッと蛇の吐息のようなものが円盤に開けられた小さな丸穴の連なりから漏れ出るとすぐ、低い息吹が空気を揺らし、火の匂いが立ち昇った。

 そしてしばらくその暗い銀に揺らめく水を見つめていると、小鳥が木の梢をたたくようなかすかな音が荒い風の怒号に交えて聞こえた。この嵐の中で虫探しをする鳥もいないだろうにと、わたしは朧に思った。すると次はすぐにもっと強くはっきりと、湿った木をたたく音がする。空耳か、いいえ、それは何度も玄関の戸板を骨で打ちつけていた。

 わたしは目を見張り、すぐにそばにたたんであった手拭いを掴むと、玄関まで飛んで行った。戸を開くと、安堵よりも、むしろ痛々しいその姿に、わたしは息が詰まり、何も言わずにあなたを抱きかかえると、腕に力を込めて、戸の内側へとその体を導きいれた。あなたの体はまるで暴漢に切り刻まれたみたいにあちこち血が滲み、青痣が脛や肘に浮いていた。その髪は水を吸って黒々と鈍く、乱れ、渦を描いて頬や唇や瞼の上に張り付いていた。あなたはわたしの名前を呼びながら、その蒼白くなってしまった細い指先で、そのところどころ血の滲んだ指の腹で、弱弱しくわたしの頬へ触れた。わたしは思わずあなたを力づよく抱きしめた。この体の顕熱を濡れた衣服を透かしてあなたの肌に移そうと、なんども手でその体を擦り、身を寄せながら、その唇を、目を瞑ったまま探り当て、その上唇をつよく吸った。すると、あなたの唇は水餅のように冷たくわたしの口の中に流れ込んだ。

湯浴み

 首の後ろのほくろ。豊かに水を含んだ絵筆で二回、振りかけたようなその薄い染み。手拭いで泥を拭っていると、ようやくそれとこれとの区別がつくぐらいにまでなった。身震いすると乾いた咳を何度もする。あなたの顔を見ると、蒼白い顔貌にすでに煙るように一面、血の色が浮いている。

 わたしは手拭いを彼女に渡すと、風呂場まで走っていって、昨晩、湯上りがけに磨いておいた浴槽の栓をしめ、蛇口をひねる。オレンジ色の明かりの灯った計器盤で湯温を確認して、大振りのバスタオルを持って戻ると、疲れたように玄関のあがりかまちに座り込んでいるあなたが目に入る。うつむいた睫毛の先に、まだ小さな水滴がぶら下がり、それがまるで黒揚羽の触角のように儚く映る。ぽたぽたとまだ髪先から水滴を垂らしながら、あなたはなかばうわの空で、指だけがのろのろとつま先を拭いている。泥で黄土色に滲んだ靴下が二足、その横に、まるでジャガイモみたいに丸まって落ちている。

 バスタオルを背中からまるでレースのテーブルクロスでも敷くように、鎖骨の浮き出たあなたの仄暗い肩にかける。その首筋の思わぬ熱さに、左心房が脈打って痛む。わたしは次に台所へと走る。ケトルがシューシューと荒い息を立てている。その蓋を取り、もうもうと立ち上る白い湯気に、真新しい手拭いをかざして、たっぷりとその暖気を含ませる。湯気に触れる指先が火傷しそうなくらい熱いので、途中ですぐにとり箸で掴みなおし、数秒待って引き上げると、それは手拭いではなくって、それ自体がひとつの湯気の塊かあるいは蒸気でできた織物のように感じられる。片手で火をとろ火にまで落とすと、手先で鞠のようにもてあそびながら、急いでまた玄関へとわたしは戻る。すると、あなたはもうその頭を腕の中にがっくりと落として荒い息をしている。それがあまりに苦しそうなので、名前を呼んでみる。手を伸ばして頬に触れて呼んでも、返事がない。屈みこんで、うつむいた顔の下のほうからそっと呼ぶと、ようやくくぐもった小さなうめき声が返ってきた。わたしは頭の中で、あれこれ看病の段取りを考えながら、蒸した手拭いで彼女の顔、首、そして服を脱がせて背中を拭き、最後にズボンも玄関側に回り込んで脱がせてしまうと、脇の下に肩を入れて、立てる?と尋ねる。弱弱しくうなづくので、なんとか呼吸を合わせて立ち上がる。乱れた息が、わたしの右のうなじに見えない空気の塊を投げつけてくる。浴槽までいくと、まだ半分も湯が入っていない。ストーブの前で待つか?と尋ねると、ううん、寝たい、という。だいぶん熱が上がってきてしまったようなので、とにかく寒い風呂場は禁物だ。でも長い髪にはまだ泥がついていたし、体も冷えていたので、熱いシャワーを浴びるように言い聞かせて、風呂場の戸を閉めた。廊下を半歩進んだところで、たらいをひっくり返すような音がしたので、はっと思って足を止めるが、つづいてシャワーの取っ手をひねる音がして、水音が聞こえたので、しばらく耳を澄ませている。温かな水が陶器のタイルに落ちる音が、細かな砂をふるいにかけたような音をたてて鳴っている。あなたが体を動かすたびに、そこに波をたてるようにザザァという音がした。

 衣類のしまってあるクロークの扉を開くと、わたしはいくつか引き出しを引いて、彼女の衣類をひとつひとつ膝の上に重ねていった。下着はできるだけ暖かそうなものを目につく範囲で選んだ。ラマの毛を編んで作った足首当てや、羊毛の腹巻などを引っ張り出していると、箪笥のまわりは雪でも降ったように白く散らかった。そこから必要なものだけをフランネル生地の寝間着の上に積むと、また風呂場へと戻った。

 脱衣所の扉は空いていて、浴室から吹き出す湯気がもうもうと廊下まで吹いていた。すぐに入らずに、少し声をかけてみるけれど、また返事はない。のぼせて倒れているのではないか、ふとそんなふうに心配になる。敷居をまたぐと、わたしたちの家で一番大きなバスタオルでごしごしとどこか乱暴に体を拭いているあなたの背中が見えた。肩甲骨の二つのふくらみが、湯煙の中に浮かぶように動いている。腕の動きに合わせて、肩が肌色の波のように揺れている。その裸の体は砂糖の結晶を集めて(かたど)ったように、移ろう柔らかな粒子の中で、美しい。そしてまた肩が震え、こんどは湿った重い咳が二、三、四と続いた。わたしは持ってきた衣類を彼女に差しだした。彼女はゆっくりと下着に足を通す、ブラジャーのホックをつけるのを手伝おうとすると、苦しいからいらない、という。そう、というと斜めに後ろをちらりと振り返り、わたしを見る。その熱を帯びて、まるでこの世界のものでないみたいに潤んだ瞳に、わたしはなぜかつらくなる。その美しさに対して、なにか性的な欲求は沸いてこない。ただ、あなたの喘ぐ喉を擦り減らすその苦い吐息に、瞳を溶かすその痛みに満ちた熱に、わたしは苦しくなる。わたしはどこも傷なく、痛んでもいない自分の肌を見やり、まったく平常を保つ自分の鼓動や体温を感じ、そこに、この目の前にあるひとつの肉体との違いをまざまざと思う。それは憐みや慈悲の限界でもある。苦しみはこの刹那に存在し、しかしそれはわたしの肉体の外にあって、このわたしの感じえないあなたの肉体の内に、独りあるままなのだ。それに触れることはできない。それは常に、わたしの触れえる一歩奥に退いて、じっと潤んだ瞳でわたしを見つめ続けているのだ。

梳髪

 葛粉を溶かすと、半透明の膜は湯表にみるまに広がり、水は急にそこに自由に立ち振る舞うのをやめて、氷雨のような色に凝った。匙を持ち上げると、(あん)のようにとろりと垂れた。薪ストーブに肘掛け椅子を引き寄せて、毛布を巻いて座っているあなたのところまで、マグカップを運ぶ。傷ついた鳥が、体中の羽毛を膨らませて、丸く眠っているような、そんな後ろ姿が、白い部屋の中にあった。気が付けば、あたりはあの暗い雷雲の気配を失い、雨の音はすれど、先刻の荒ぶる風の音は聞こえない。寂しく憂いに沈んだ雨垂れの音が、樋を震わせ、板庇を硝子の数珠のようにつらなって、まるで涙のようにはらはらと降ってゆくのをわたしはしばし立ち止まって眺めていた。口をつぐみ、世界の均衡を崩してしまうような一切の感嘆を発することもなく。記憶の中のように、霧に沈んだ、懐かしさと手の届かない景色たちを思わせる静けさの中で……。

 すでに鼻をそばだてていたのだろう。手わたそうとすると、振り向かずに生姜汁?と尋ねるので、いいや、葛湯に生姜を溶いたんだ、と答えると、初春の葉をゆする木漏れ日のように、あなたの頬がつかのま緩む。指が伸びてきて、マグカップを大事そうに掴んだ。するとマグカップはまるで一面ぶれたように、ひとところにとどまらずに細かに震えた。それはあなたの両の手の指に支えられながら、ゆっくりとわたしの指を離れ、口元へと退いた。乾いた唇から、葛をすする音が、ふっふっと荒い吐息に混じる。その下唇と上唇の葛に濡れたところにだけ、まるで金魚の尾びれのような朱が灯る。一口を時間をかけて飲み終わると、それからまたつらそうに、あなたは咳をした。すると熱のせいで目筋の端に溜まっていた涙が、すっと瞳から一筋流れた。わたしは、ドライヤーのコードをソケットにはめ込むと、後ろから手櫛でまだ湿っている髪を軽く梳いた。でも、そのスイッチを押そうとして、わたしはそこに躊躇する自分を見出した。和紙の上を砂の滑るようなこの繊細な静寂を打ち壊してよいものか、とわたしは思った。それはなにか残虐なことのように思えた。静かに身を休めているあなたに、もしかするとこの音は不快な眩暈を起こすかもしれない。わたしは再び、コードをソケットから抜き、ドライヤーを元あった場所へと掛けた。そしてガーゼを入れた瓶を取ってきて、その一枚を人差し指に巻き付け、同じようにもう一枚を中指に巻き付けた。左右の手に同じようにしてから、わたしはもういちど、濡れた髪へと指を這わせた。ガーゼが水を吸って重くなるたびに、それを替えて、髪の一束一束を丁寧に、丹念に拭いた。髪の匂いはいつもにまして仄かに芳しく、わたしの鼻先で香った。あなたはそのしばらくのあいだ、するに任せて静かに目を瞑っていた。炭の上に(おこ)るまぶしい紅炎が、あなたの鼻先や睫毛の上に火の粉を散らしたように輝いていた。そして、擦り傷や切り傷に当てた包帯にも、一面、セラフィムのような輝きが燃えていた。あなたはそれ自体、(かたど)られた鈍色の光りのように、薪火を照り返して熾っていた。

 突然、灰色の塊が毛布の襞を滑ると、木張りの床を打った。はっと身震いして、あなたは手元を探ったが、そこにないのを認めて、足元に目を落とした。そして、半ば反射的にその割れた椀状の破片を拾おうとするので、わたしの左手が無意識のうちに動くあなたの左手を抑える。なおも、あなたは足元のひびの入り欠け散った器を見つめている。謝罪の言葉をうわごとのように繰り返しながら、見えるものがそれしかないっといった眼差しで、それを見つめている。わたしは居間の戸を開け、奥の部屋のベッドまで連れていって、その縁にあなたを腰かけさせた。あのセラフィムのような焔は瞳の内にだけ燃え残っていて、そこにスラグのように浮き上がる感情が、苦痛、哀情、後悔、感謝、といった色調の違う闇に包まれて漂っていた。目を瞑って、とわたしは言った。そして深く眠るんだよ、と。わたしの目の色を読んで取ったのか、あなたはうなづくと、首をねじって、枕にそっと頭を落とした。わたしはひざまずき、しばらくその様子を見守っていた。時折、苦しそうに咳をし、熱にあえぐものの、その様子はおおよそ無事で安らかである。曇った綿埃の様な雲の塊を透かして、ぼんやりとした光が辺りにはべっていた。白い毛布にくるまった人影が、その片隅で、静かな寝息を立てはじめる。わたしは立ち上がり、スリッパを脱いで右の脇腹に抱え、靴下ですら慎重に、床を踏んで、部屋の端まで来ると、戸に十本の指を添えて、ゆっくりと閉めた。

予兆

 床に屈んで、割れた破片を集めていた時だった……

 わたしは異変に気がついた。それは体の特定の部分から響いていた。耳?いや、脳だ。頭蓋骨の伽藍をひと巡りして耳の中に落ちてきたような声。その発信源は、どう上手く表現すればいいのか、思いつかない。一言でいえば、不明だ。それとともに、水の湧きあがる音が骨を砕いた。衝撃はずっと体の奥まで駆けていった。すると、揺らめく鏡が現れた。それは水で濡れている。わたしの腹の方と、わたしの背の方に、二つの鏡が忽然と現れ、向かい合った。そこに映るのは……誰かがいる。わたしの背後で、屈む人影が何かをつぶやき、悲しげな相貌は、こちらを呻くように見つめる。するとそこには銅が燃えるような眼、翡翠の静かな光に満たされた眼が並んでいる。その揺れる穂のなかを手をつないでわたしたちが歩いてゆく。まだ幼い、茶色い外套を着させられて、膝を揺らしながら歩く子供のわたし。その先を母が歩いてゆく。わたしは何かにおびえるように、その手をしっかりと掴んでいる。すぐ後ろに少女がたっている。痩せた形の美しい脚をはだしのまま草原につけている。スカーフが、首にかけられたまま風に流されている。そこから火の音がする。何かが崩れてゆく。花の焦げる強い香りがわたしを一瞬、めくらにする。その香りの間から、あの銅の燃える眼が見つめている。力強い胎動が鳴り響く、狭い洞窟を押し出されてゆく。空気が燃えている。その被膜がわたしを包み込む。後方に声がする。あの声が頭蓋の丸天井を回り続けている。それは長い距離を進むうちに、音声の意味としての部分が擦り減ってしまって、辛うじて言葉であることは認識できるものの、そこからなんら有意味な音列をひろいだすことができない、そんな声だった。
 わたしは振り返り、その音源を探り見る。すると、そこにも同じように瞳がある。それは薪の中で燃えている。その手前の薄暗い色落ちした床木の上に、割れたマグカップが落ちている。後ろにも、それと全く同じ気配を感じる。背後を見る。暖炉がある。その焔が白い。岩塊がよぎる。急速に冷え固まる溶岩のように、その動きは次第に緩慢になり、その流体運動の減速に比例するように、白亜の鋭く切れおちた崖が次第にその姿を現した。崖の裾は霧が満たしている。その奥のほうで呼び声がする。うっすらと影なす松の林が見える。輪唱のような声が、そこから鈴を揺らすように響いてくる。ああ、だが違う、これは、よくよく耳をすませば、ひとりの声で、二人でも三人でも、それ以上でもない。同じ言葉を繰り返している。それが木霊と震えあい、複雑にずれ合わさってゆく。多重録音だ。ライヒだ。彼の音楽に似ている、とわたしは思う。風景の背後が切り取られて落ちる。すると厚みのある壁紙が背後で剥がれ落ちて床に落ち、響いた。わたしは振り返る。暗い扉が見える。揺れている。その一歩は暗闇へ、と声がある。手を伸ばす。ゆっくりと引き抜く。黒い薄い帯状の繊維が何本も指先に付着している。昔、テープレコーダーから磁気の記録媒体を引き出して、それをぐちゃぐちゃにしてしまったことを思い出す。本来結びつくことのない時間と時間が肌を重ねて絡まっている。その時、また声がある。ふと気が付く。これは血肉の声だ。母だ。たぶん、と思う。その時、予想外の方向から音がした。平滑なものが、その重心を軸にして、狂わんばかりの速度で回転している、とわたしは感じる。

 後ろを振りむくと、モーターが唸りをあげ、ミキサーの銀刃が回っている。母の手がその上に置かれている。もうすこしよ、と母はつぶやく。できたらガラスの器によそるのを手伝ってね、と。その口元が静かに笑う。その声は近くてどこか遠い。ミキサーの中ではバナナや牛乳やヨーグルトが、波打ちながら黄金(こがね)の泡を立てている。そして見る間に、その泡はなめらかな金の帯を描き、それはミキサーの回転によって波打ち、その軸芯の周りに円を描き、蜜のような光を放ち、恍惚と輝いた。幼いころ、母がおやつの時間になると作ってくれたミルクシェイキをわたしはずっと眺めていた。それは温かな肌色を湛え、そこに窓からの光が差し込んで、優しくそれに触れると、突然、波頭を戯れる真昼の光に変わった。そして無数のカモメたちが舞い降りてきて、その乳色の海を薄いハトロン紙を何枚も重ねたような白くて不透明な景色へ変えた。甲高く呼び交わす鳥たちの声と、潮風を切る羽音が、しばらく響いていたものの、やがて結婚式のにぎやかな喧騒がそれに重なるようにして響いてきた。アコーディオンとホルンの音、ヴァイオリンの音色もする。そしてわたしはドレスの中に身を潜めている。白い花嫁のドレス。風が波打つ幾重の襞をめくりあげて、そのたびに霞んだレースを透かして山が見える。あの白亜の断崖だ。遠くのほうに、燃える稲光を身に帯びた重い雲を伴ってそびえたつ。光の塔頂は暗闇へ、と再び声がある。破裂音がして、白が跳ぶ。稲妻ひとつ、と数える。鳥が飛んでいく。編隊を組み、その腹を金の帯のように輝かせながら、断崖へとまっすぐに。破裂音がして、白が跳ぶ。稲妻ふたつ、と数える。鳥は群を崩して散開する。墜ちてゆくものもいる。破裂音がして、白が跳ぶ。稲妻みっつ、と数える。霧の中で、少女が鳥の首を握って歩いている。弱弱しく鳥はあたりを見回している。少女の瞼には、あのセラフィムのような火が散っている。顔を横に向けて、瞼の縁と睫毛だけが、見える。黒髪がなびく。帳のように、すると世界が暗くなる。雹が降ってきて、わたしは動けないのに、それはわたしに当たらない。少女が駆け出すが、すぐに雹が肉を打ったので、蹲った。胸に抱えた鳥が鋭く鳴く。そのつぶらな目がわたしを見る。血が少女の肌の表に浮かび始める。それがゆっくりと流れ出て、皮膚の裏に蒼暗く膨らむ。紫の寒さもその中に溶け始める。少女は鳥の頭にそっと自分の血を乗せて、それから何事かを呟くと、鳥を放した。羽音が遠ざかる。わたしは金の指輪を手にする。それは雹で無残に押しつぶされたウエディングドレスの下で輝いている。少女の胸を伝う血が、太腿へと達し、それは水たまりの中に落ちると、急に自由にふるまい始める。稲妻の墜ちた樹が燃えている。その巻き上がる煙が蒼暗い空に呑まれてゆく。それは色あせた枯れ葉の浮かんだ竪穴の底の水のようにしんとしている。

 湧きあがる水音も、今はもうしない。重い氷の降る音が土をえぐり、枝を折り、葉を撒いた。

 わたしは象徴を振り払おうと立ち上がる。眩暈が強い。欠片を踏みそうになる。右足がもつれ、左足を突き出す。そこに欠片が刺さる。破裂音がして、白が跳ぶ。稲妻よっつとわたしは数える。よろめきながら寝室に向かう。その扉を力任せに開けてみると、そこには白い毛布に囲まれ、寝息だけが残っていて、人影はなかった。そして、湯気のようにその息も消えた。狼狽して、わたしは振り返る。眩暈で景色はおいてゆかれる。だが、誰かがいた。椅子の上に、あの暖炉の前に。そしてこちらを見ている。わたしは息を詰まらせる、そして瞳が、大きく見開く。大きく、大きく――。

 

 急に骨が抜け肉が溶けたみたいに、足首が曲がった。そしてわたしは大きな音をたてて後ろ背に床へとたたきつけられた。葉の生い茂る庭園のように部屋がざわめいた。わたしの立てた大きな風が、芭蕉の葉をめくると、大きな露玉がビードロを転がすようにばらばらと降ってきた。そして部屋は白く筋になる。竹林のように、互いに幹を打ち付けながら静物たちが歌いはじめる。大きな森が、葉の茂った樹冠を不安定に張りのばす。屋根は見えない。そこには穿たれた空虚が口を開けているのだった。見上げながら、わたしは吸い込まれる。その時、わたしは椅子の上に座るものの顔を見た。写真に焼かれたあの相貌とそっくりなおまえを。そして深い憂鬱にとらわれて失墜する。暗い、不確かな穴の中へと。

 少女は床に散らばる欠片をひとつ残らず拾い集めると、それを両手に盛ったまま、向きを変えて歩き去る。暗がりに揺れる背中が、何も羽織っていない無垢な白さに揺れながら、廊下の闇にすっぽりとくるまれ、滅した。

 寝床から起き上がるように、穴から這い上がり、わたしは目を瞬かせた。暗い夜の部屋。足を踏み出すと、床がきしむ。はっと振り返ってみれば穴はない。薪ストーブが燃えている。何一つ変わらない平静な晩。木床は丁寧に油をなじませて拭き掃除をした後のように、艶がありすべすべしている。カーテンは引かれてるので、部屋も寝静まっている。外がどんな様子なのかもわからない。床に映るのはストーブの中を舞う蛾のような煌めきと、松ぼっくりを燃やすときに出る緑柱石(ベリル)のような焔の揺らめきだけだった。あの銅の燃えるような瞳と重なる。わたしは今しがた横になっていた長椅子に座り込む、足の裏を返してみても、そこに傷はない。マグカップの欠片もすべて片付けられている。なにが夢で、なにがわたしのしたことなのか分からなくなる。

 台所に行くと、ブリキの取っ手に指をかけて、そっと開いてみる。屑箱の中には丁寧に折って丸められた新聞紙の塊が入っていた。手を差し入れて、拾い上げると、中で乾いたかちゃかちゃという音がする。調理台の上に丸めた新聞紙を寝かせ、中身を確かめてみると、中には砕けたマグカップの破片が包まれていた。これを片付けたのは自分しかいない。彼女はあの時、寝ていた。わたしは起こさないように静かに寝室の扉を閉めると、マグカップの破片を拾い集め、床を磨いた。そのはずだった。でも、その時はまだ午後の4時過ぎだったはずだ。わたしは冷蔵庫にマグネットで張り付けられたデジタル時計に目をやる。そこには0時19分と表示されていた。いくら介抱で疲れていたとはいえ、食事もせずに急に倒れ込んでいままで寝てしまうことなどあるだろうか。仮に、とわたしは考えてみる。右眉の下の筋肉が、痙攣し、その連続的な信号が意識の集中を妨げる。もし、とわたしは再び考える。右手の中指をその眉の上にあてがい、ときほぐすようにやや指を前後させながら、砕けたマグカップを介して一体なぜ夢の入り口にたどり着いたのかをわたしはしばらく熟考したが、結局、過去に起きた出来事からその関連を見出すことなどできなかった。あれが夢だったとすれば、その内容と現実の時間の経緯とには大分、大きな齟齬がある。長椅子に横たわるとか、毛布を体にかけるといった睡眠の前に行う動作の記憶がまるで抜け落ちていて、マグカップを片付けているところから急に意識の切れ目なく夢の中へと滑り込んでしまったような感覚が確かにする。それはとても不可解なことだった。

 わたしはケトルに残っていた水の残量を確認して、それからコンロの火をつけた。湯が沸くまでの間、わたしはぼおっと台所の床に突っ立って、夢のことを考えていた。台所の通路の端にある縦長い窓にはブラインドが下ろされていなかったので、そこから家の東に面するシャクナゲの茂みが見えた。わたしはその花の特徴を思い出すことができなかった。それはずっと見てきたものだし、見慣れていたはずだったのに、暗闇に不明瞭に浮かび上がるその白い花が、日の下でどんな形をしていたか、その葉の形がどんなふくらみを描いていたかをうまく思い出すことができなかった。やれやれ、と笑ってみたものの、その笑みにはどこか湿った苦い薫りがした。天鵞絨の闇の指がわたしの手の甲から手首にかけてをまるで溢れる水のように滴り、そこには言いようのない寂しげで冷たい雨の薫りがしみ込んでいた。ふと、もう一度窓の外を見やると、何も見えない。いや、じっと凝らして注意していれば、そこにごくわずかだかピアノ線のような雨の筋が少しずつ浮かび上がってくる。そして、それはシャクナゲの、夜の闇の中でどこから集めたのかわからない、まるで淡雪のようなぼんやりとした光を包み、まるで太陽を縁どる煙った光輪のように、その輪郭を浮き上がらせていた。
 湯気の香りがする。水に溶け込んだ様々なミネラルがつづら折る岩や空を思わせる儚い香りが、暗い台所の壁にねじれながら泳ぎ、ほつれるように伸びてゆく。食器棚の下段の扉を開き、ウイスキーを取り出す。冷たい北海に浮かぶ小さな島でつくられたモルトウイスキーだ。まだボトルに半分ほど残っている。それから耐熱グラスにウイスキーを注ぎ、煮え立った湯と蜂蜜、レモン、香辛料を入れて軽くステアした。そして居間に戻り、またあの長椅子に腰かけた。わたしはその琥珀色の液体を少し飲み、暖炉の燃える火を見つめ、そこから発せられる美しい光の映り込んだ床を眺め、それからまたグラスに口をつけて、すこし飲んだ。クローブの薫りがオークや湿った草の薫りと一緒に夢の引き起こした混乱をわたしから拭いさっていった。この一杯のホットトディは記憶を手招きしている。それは夢とは違う、もっと整頓されて心地よい、滑らかな石のような記憶だ。それは鼻孔を微睡ませる。そして神経のきつく縛られたテグスを少しずつ緩めて、何の配慮も要求しない真夜中の闇の中へと、一本ずつ放り捨ててゆくようだった。それはわたしを軽くした。すると、花が開くように、夢の景色の中で、あの燃えるスカーフを身に着けた少女のことを思い出した。わたしは確かに、その姿を知っていたし、けれども、それは草原ではなく、もっと荒々しく、もっと悲し気な景色の中でのことだった。

埋葬

 雪が微風の空をくるくると回りながら落ちてくる。少女が独り、その繻子のようなスクリーンの向こうを凝視している。その影は盛り上った丘の背中にひとつおかれた林檎の種のように小さく、足跡がほとんどわからないくらいの小さな窪みを雪面に型押ししていた。そして、その後ろをだいぶ遅れて、少年が霜のように光る息を吐きだして、ずっと追いかけてゆく。それはわたしだ。彼女にはきっと、なにかが見えていたわけでは無かった。冬の雪原のように、そこには何の目印となるものもないただの茫漠とした白が広がっていた。マス目のない白い紙のように、逝くあてのない放蕩の自由が、かえって行くべきところを喪失させる。遠くの木立は風で雪の払い落とされた唐檜の頭がまるでのこぎりの歯のように並んで、それが遠くから見ると凍り付いたように固く動かなかった。そしてその向こうにある村からは長い煙がほとんどなびくこともなくまっすぐに立ち上っていた。

 わたしはまた口腔を湿らす程度にトディを含むと、深い鈍痛を眉間のあたりに感じて、すぐに二口目を口にした。瞳を閉じると、強い風の音が、海辺の貝に耳をあてた時のように、記憶の果てから吹き寄せて、大きな海鳴りが聞こえた。

 白い雪原はほとんど見分けがつかないくらい空と溶けていた。少女は黒く染めた毛皮の外套を着て、霧氷を吹き付けたような冬の地形に微動だにしなかった。瑪瑙の波打つ筋を思わせる外套の表面には、巻き上げた雪がまるでさらし粉をふるいで一面軽やかに撒いたように散っている。毛皮の光沢は微風に揺れる繊毛の僅かな角度の変化を敏感に感じ取って、銀糸のように強く輝き出たかと思えば、急に、谷底を流れる沢のようにその鳴り響く色を潜めたりもした。


 
 

『分離の肌』

『分離の肌』 冬夜 流治 作

女は熱に病んでいる。それは体の病でもあるが、しかし熱の多くはその心のうちにささくれた旱魃をもたらしている。男は女を愛しているが、その心は鉛をいくつも詰めたように重くなってしまった。家で、二人が暮らすうちに、そのすべての世界を包む世界が、そのすべてを沈めてゆく。深い霧の中へと。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-12
Copyrighted

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。