*星空文庫

砂委員

N村Kタロウ 作

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何度も来る砂嵐。埋もれてゆく街。香穂と砂委員のお話です。

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1

 そのころ学校はまだ旧市街を見下ろす高台にあって、晴れた日には三階の教室からひろびろとした浜を見渡すことができた。
 浜だけがあり、海はなかった。少なくとも香穂たちの世代は誰も海を見たことがなかった。丘の下には、旧丸菊百貨店と消防署の望楼だけが目立つ黒瓦の家並みが横たわり、その向こうにはただ白く輝く砂ばかりが広がっていた。
 風がすっかり止んで、よほど晴れ上がっていれば――と言っても、もうそんな日は滅多に無くて、目の前の家並みでさえ、灰青色の砂塵にかすんで薄っすらとしか見えないのが常だったのだが――砂の白と空の青との境界に昔の灯台がぽつんと頭を出しているのが見えたり、日々起伏を変える砂の気まぐれで、錆びた廃船のマストが姿を現したりすることはあったけれど、たとえどんなに晴れた日でも、その彼方にあるべき水界の青は、目の悪い香穂はもちろん、ほかの誰にも見分けることができなかった。
 学校ではまだ毎日授業が行われていたはずだが、教師の声は香穂の頭の中でわんわんと反響するばかりで何の意味もなさず、ただ彼女を気だるい午睡に誘った。香穂はたぶん窓際の机で、細い背中を丸めて顎を前に突き出すようなあのだらしない姿勢で頬杖をつき、窓の外を眺めながらやがて眠りに落ちて行ったのだろう。
 この時期には、敏感な子どもたちはもう、未来を語る大人たちの言葉に空々しいものを聞き取って、自分達の将来は砂の中にしか無いのだと感じ始めていたし、実際、浜から町へと吹く風に運ばれて砂は絶え間なく増え続け、いくら丁寧に目張りをしても、砂防窓を閉ざしてボルトを固く締めても、少しずつ教室に入り込み、一日の授業が終わるころには、床といわず壁や天井といわず教室中の全てを被膜のような薄い層で覆いつくしていた。
 授業中ずっと机に突っ伏したままだった香穂の黒い髪や、褐色の腕や、紺の制服や、眼鏡のレンズにも砂は降り積もった。そして時折眠りが浅くなって呼吸が乱れたり身じろぎしたりすると、ブラウスの袖口やスカートの襞から、銀の糸をつーっと引いて床に流れ落ちるのだった。
 終業の鐘と同級生たちのざわめきに目を覚ましても、香穂の目に映る教室は砂まみれのレンズ越しにぼんやりとしていた。思わず激しくまばたきをしたら、朦朧とした視界に、まつげから飛び散った砂粒が銀砂子みたいにきらめくのが見えた。
 体を起こすと、肌着の中にまで入り込んで薄層をなしていた砂が、全身のあちこちでさらさら流れはじめる。こそばゆくて思わずぐっと身を縮めた瞬間、砂の膜は一気にはがれ落ち、耳の後ろから首筋へ、さらに肩へ、背中から腰へ、あるいは腋窩から脇腹へ、心前から臍へと、幾筋もの冷たい滝になって肌を撫で下ろした。
 数秒間きゅっと目を閉じ、香穂はため息をつく。

2

 校門を出て、木立の中の坂道を降りるとオペラ通りに突き当たる。小さな町の、砂に埋もれかけた商店街にそんな異国風の名前がついたのは、かつてオペラ館だかオペラ座だかという名の映画館があったためらしい。たぶん何十年も前のことだろうけど、賑わいをすっかりなくしても、オペラ通りという名だけはとどめていた。
 商店街とはいうものの、巳年七月の大嵐以来、旧市街の路面は常に砂に覆われていて、商品のパッケージの中にまで砂が入り込んでいるようなありさまだったから、まともに商売を続けようという気のある人たちはとっくに高台に店を移してしまい、残って商いを続けていたのは、遅かれ早かれ店じまいするつもりの老人たちだけだった。すき間なく並んだ二階家のほとんどは商売をやめていて、しかも半ば以上が空き家だったし、通りの真ん中にある丸菊百貨店も、赤煉瓦の建物の形だけを残してとっくの昔に空っぽになっていたけれど、その並びには生活雑貨などを扱う店が五軒ほど連なっていて、そこだけはどうにか商店街らしく見えた。
 その中でも、学校が近いこともあってまずまず繁盛していたショウブンドウという文房具屋の脇の路地の先に、浜へ降りる階段があった。
 この路地を使うのは、砂を捨てに行く近所の人くらいのもので、用事もないのに好きこのんでここを通る人間が香穂の他にそれほどいたとは思えない。黒板塀に挟まれた細い道の奥へ、壊れた温室や物置の傍らを通り抜けると、砂に覆われた六畳敷きほどの空き地があり、そこで地面が終わっていた。一階分くらい落ち込んだ段差の下はもう浜で、そこからはもうどこまでも砂しかない。石垣で固められたこの段丘崖が、言わば旧市街の最後の防壁だった。
 その広場から、石垣に取り付いたコンクリートの階段が浜へ降りていた。もともと何段あったのか分からないけど、たぶん砂の中に何十段も埋もれていて、見えているのは全体の一部に過ぎなかったのだろう。
 家や学校で姿が見えないとき、香穂はたいていこの階段にいた。最上段に靴とソックスを脱ぎっぱなしにして、砂際のいちばん下の段に座り、素足の指で砂に線を描いたり、足首まで砂に埋めてみたり、両手ですくい上げた砂をさらさらと制服のスカートの膝の間に溜めてみたりして、大人に見つかったらこっぴどく叱られるのは分かっているはずなのに、頭上からの視線も気にせずに遊んでいた。
「おーい、香穂」
 石垣の上から声をかけると、くるりと顔を上げて口元をゆるめ、「おう、みつかっちゃった」とかそんなことを言って、制服の砂をぽんぽんと払いながら立ち上がるのだ。
「嵐が来たらどうするんだよ」
「だいじょうぶ」
「いつか死ぬぞ、そんなことしてたら」
 言わずもがなのひと言だったけれど、香穂は何でもないような顔で眼鏡を外し、唇をとんがらせて左右のレンズにふっと息を吹きかけた。
「ねえ、だれにも言わないよね?」
「言わないけど」
「おじさんおばさんにも?」
「言わないよ」
「ありがと」
 唇の両端をきゅっと上げて眼鏡をかけ直し、素足でぴたぴたと段を駆け上がってきた香穂が立ったままで片足ずつを上げてソックスとスニーカーを履くのを待つ間、浜のほうを眺めていると、風が出てきたのか、薄曇りの空と浜との境界はぼやけて溶けあい、ほとんど一様な乳白色の広がりとなって、全部が空のようにも、目の前に垂らされたスクリーンのようにも見え、そんな何も無い世界にわざわざ触れようとする気持ちは、やっぱりどうしても分からないのだった。

3

 警報発令を告げる校内放送が流れると、授業が終わってもすぐには帰れない。教室待機になり、香穂は頬杖をついて窓の外を眺めながら嵐を待つ。近づく嵐の姿がまだはっきりと見えるわけではないが、砂煙が濃さを増し、窓の外が次第に暗くなることで、その接近を知ることができた。
 気候は年々厳しくなっていたけれど、クラスメイトたちはもう警報にも慣れっこになっていたから、砂委員の当番が回ってこない限り砂にも浜にも無関心で、警報時は席を離れないというルールにもかまわず、教師が目を離すと途端にグループごとに固まっておしゃべりを始めた。何人かが香穂にも話しかけたとしても、彼女は生返事しか返さなかっただろう。
 窓の外の世界はますます暗い靄に覆われ、旧市街の町並みも鉛色の闇に沈んでほとんど見えなくなった。
 やがて、その闇の奥に、闇よりもさらに黒々としたものが立ち上がる。
 それが見えた時には、あともう数十秒しか無いのだ。それが嵐の本体、砂を巻き上げて荒れ狂う風の塊だった。
 黒いものはたちまちのうちにむくむくとふくらみ、見上げるほど大きな、積乱雲のような、影の塔のような物に成長したかと思うと、その勢いのまま街に向かって崩れ落ち、回転も大きさもまちまちな無数の青黒い渦を生みながら、音もなく校庭を飲み込む。墨汁をぶちまけたたみたいに窓が真っ黒になり、誰かが小さく悲鳴をあげた次の瞬間、衝撃が校舎を揺さぶり、激しく震える窓ガラスに豪雨のように砂粒がぶつかってくる音が聞こえる。
 誰かが蛍光灯をつける。不安定にまたたく灯りの下で、一部の女子生徒だけは少しおびえているが、多くの生徒はまたおしゃべりを始める。
 香穂は眼を閉じ耳をふさいで、校舎を震わせる風鳴りが、机から腕の骨を通して頬骨に伝わってくるのを聴く。びりびりとしびれるような低い震動を頭蓋骨に感じながら、嵐が通り過ぎるまでずっとそうしていた。
 学校での香穂はだいたいそんな風にほとんどしゃべらない子だったらしい。特に仲の良い友達もなく、爪弾きにされるでもなく、二年生の七月に砂委員の役が回ってくるまで、ただぼんやりと、半分眠ったような日々を過ごしていたのだろうと思う。
 もしかすると、あの島田さんという三年生が、廊下かどこかで香穂に声をかけたことがあったかもしれない。「吉野さん、砂委員いっしょによろしく」とかなんとか。だけど香穂がその時どんな顔でどんな返事をしたのか、想像するのは難しい。

4

 砂委員は上級生と下級生が二人一組になって一週間つとめるのが通例で、下級生はその間、毎日一時間以上も先輩とほぼ二人きりでいっしょに作業をしながらやり方を教わることになっていたから、割り当てられた相棒がちょっときれいな女の子だったりすると、男子生徒たちは張り切っていいところを見せようとしたし、その逆もまた同じようなものだった。
 だからというわけでもないけど、最初の年に砂委員の仕事を教えてくれた上級生のことは印象に残っている。幸運にもと言うべきか女の先輩だったとはいえ、二人ともビニール袋を頭にかぶり、タオルでマスクをしていて、顔なんてお互いにほとんど見なかったから、目鼻立ちとかは思い出せないけど、先輩の割に背が低くて、当時まだ小さかった香穂とあまり変わらないくらいなのに、タオル越しでもよく響くほど元気な声で話す人だった。
「最初は天井からね」
 放課後の教室で先輩は言った。季節はたしか秋で、先輩は冬用のジャージの袖口を、砂が入らないようにゴムバンドでくくっていた。
「細かい砂は天井にもついてるから、この長いほうきで払い落とすの。見てて」
 竹ざおにくくりつけたほうきで天井を掃くと、霧のように細かい砂が教室中にさらさらと降った。香穂なら銀のシャワーをうっとりと顔に浴びていたかもしれないけど、この先輩は目を細め眉をしかめながら、ただ自分の務めを果たそうと一生懸命だった。
「分かった? じゃ、もう一本あるから同じようにやってみて」
 ほうきとスコップとちりとりを手に、二人で手分けしたり協力したりして、担当していた三階の一日分の砂を集めると、ほぼ満杯になった手押し車を荷物用エレベータに乗せ、搬出口へ運んだ。
 かわりばんこに車を押して校門からの坂を下り、オペラ通りを左に折れ、家並みが途切れると、道はそこから浜の方へぐっと曲がり、白茶けた砂と枯れ草だけの空き地の間を緩やかに下降して、やがて砂に埋もれて消えてしまい、そこからは道を引き継ぐように、赤い小旗の列が砂の上を真っすぐに続いていた。
「絶対に、旗から五メートル以上離れちゃだめ。砂に呑まれちゃったら助けられないわよ、あたし、ちっちゃいから」
 先輩は笑っていたけれど、砂の下に家屋や自動車などが埋もれていて、残された空洞に砂が流れ込んで大規模な陥没を起こす場合がよくあることを、町の子どもたちは口やかましく聞かされていたし、喉の奥にまで砂を詰め込んで窒息してしまった人々や、地下に残された空洞の暗闇の中に人知れず消えた人々についての話を、誰に教わるともなくみんなが知っていた。
 旗の列に沿って固められた砂を踏み、二人で車を支えてゆくあいだ、安全通路とは言っても、タイヤや長靴が砂に取られそうになることが何度かあり、一度などは転びそうになったところを先輩がとっさに手首をつかんで引っ張ってくれて、小さくて冷たい香穂の指とは違う温かさに頬が熱くなったりもした。
「もうちょっと近くに来たら?」と先輩は言った。「こっちからいっしょに押そう」
 百メートルほど歩き、鉄杭に結び付けられた旗の色が赤から黒に変わるあたりで砂を捨てる。そこまでが砂委員の仕事だった。黒い旗の列は、遠ざかるにつれてまばらになりながらも地平線の手前まで続いていたけれど、そこは立ち入りを禁じられたエリアだった。
 軽くなった手押し車を押して帰る途中、赤旗の列に沿って、他の階の砂委員が下りて来るのが見えた。
「見て、あれ」
 先輩に肘で腕をつつかれてもう一度見ると、男子と女子が揃いのマスクをして、くっついて腕をからませながら車を押していた。どっちが上級生でどっちが下級生なのか、ちょっと見ただけでは分からなかった。
 無言で行き違ってしまってから、目だけの顔を先輩と見合わせた。
「砂に呑まれちゃえばいいのにね」
 小声で言って、先輩はくすくす笑った。
 オペラ通りまで戻ってくると、先輩はビニール袋の頭巾とタオルのマスクを取ってしまい、ほっと溜息をつき笑顔を見せた。
「金曜までいっしょにがんばろうね。やり方だいたい分かったでしょ?」
 香穂と違って男の子みたいに短いけれど、香穂と同じようにつやつやした黒い髪を、香穂と同じくらいの高さに見下ろしながら、女の子の髪はみんなクッキーのような匂いがするのかと思った。香穂と歳が三つ離れていることが残念だった。きょうだいや親戚同士がペアで砂委員になることが多いと聞いていたから。
 今でも残念に思っている。もしも砂委員として香穂と組むことができていたなら、あの子の小さな冷たい手をつかんで引き戻し、何があっても放さなかっただろう。

5

 古い木造家屋だったから、二階の香穂の部屋から物音が下まで聞こえてくることがよくあった。
 静かな子だったけれど、早朝や夜更けには、子どもなりの暮らしが生む微かな音、たとえば足音とか、椅子を動かす音とか、丁寧に砂を掃き集める音なんかが聞こえたり、あるいは音とも言えない気配のような、音としては何も感じられないような音が、ちょうど雪が降り積もるのが聞こえるみたいに、耳のあたりにしんしんと感じられたりもした。
 何の音にせよ、そこに確かに香穂がいて、まだ眠らずにいるという事実は温かいものだったし、万一この高台の住宅地まで砂が押し寄せてくるような破局が今この瞬間に起こったとしても、二階で目覚めている香穂が真っ先に砂に呑まれることだけはないと思うと安心していられた。
 砂丘の冷たい舌先が、表層でさらさらと絶え間なく崩れながら、全体としては着実に前進を続け、眠る少女にそっと這い寄り、次第に厚みを増す堆積の重さで両脚の自由を奪い、胸を固く押さえつけ、やがて息苦しさに眠りから覚めた少女が、頭を上げたり、顔をそむけたり、唇を堅く結んだりして抗おうと試みてもその甲斐なく、砂はついには鼻孔に入り込み、たまらずに開いた唇の間から、喉の奥まで一気に流れ込む――。もっとも恐れていたのはそんなイメージだった。
 朝になると香穂は自分で目を覚まし、きちんと制服を着て眼鏡もかけてから「おじさん、おばさん、おはようございます」と家族の前に姿を見せた。だらしない服装で家の中をうろついたりすることもなく、部屋の砂かきも自分でちゃんとやって誰の手も借りようともせず、もちろん子供のことだから、朝食のテーブルでラジオのトークに「えへへ」と笑ったり、猫背で腕をだらんとさせて「眠いよう」とか言って、「ちゃんと座りなさい、香穂ちゃん」などと叱られたりする場面もあったけれど、うちでの暮らしに慣れたように見えてもやはり気を張っているのは、そばで見ていれば分かることだった。
 玄関を出てから砂防倉庫の角で通学路が分かれるまでの道のりを二人して歩く間、香穂はおしゃべりになった。家でも静かで、学校でも口数が少なかったらしい香穂が、その五、六分間だけは自分から口を開き、つっかえたり口ごもったりしながらも、ときには喜び悲しみや怒りの表情さえあらわにしたのだけど、思えばどんなことを話していたのだったか、香穂の話し方には他の子と違うところがあって、「えーと」「だけどね」「あのね」ばかりが多く、どこが始まりでどこが終わりともつかず、またその話題は外界の客観的な場所や時間とはほとんど無関係だったから、まるで夜の夢の話を聞いているみたいに模糊として、はっきりしているのは、全てが何らかの形で砂と関わっていることだけだった。
 放っておくと香穂の話はいつまでも続き、砂防倉庫の分かれ道で立ち止まってもまだ次の言葉を探していたりするものだから、話の途中であってもこちらから切ってやるしかなかった。
「香穂の学校はあっちだろ?」
 香穂は次の言葉を言おうと開きかけた口の形をそのままに、レンズの奥の目をほんの少しびっくりしたように大きくして、言葉にならない言葉を飲み込もうとするみたいにうなずき、そしてぴらぴらと手を振るのだった。
「……ばいばい」
 三年、四年、五年を経てなお、香穂の中には吐き出しても吐き出しきれないものがあり、話にならない話や、言葉にならない言葉や、声にならない声や、音にならない音に耳を傾けてくれる誰かを求めていたのだろう。香穂の「ばいばい」を聞くたびに、細い神経が一本ぷつんと切れるような痛みが走ったのは、おそらくそのせいだった。

6

 姓も同じ、家も同じだったことから、事情を知らない人には兄妹と間違われることもあったが、実のところ香穂は従兄の娘にあたるやや遠い血族に過ぎず、もちろん同じ市内の親戚だから幼いころから顔は知っていたものの、うちに一緒に住むようになったのは香穂が八つのとき、舟入町にあった彼女の家が巳年七月の大嵐に見舞われてからだった。
 うちに来たばかりのころの香穂はとにかく何も言わない子で、あるいは全く口を利けなくなってしまったのかもしれないと大人たちは気の毒がり、しかしあんなことがあったのだから無理もないと声をひそめあったものだった。
 ほどなく夏休みに入ったため、香穂はしばらくは小学校にも通わず、与えられた二階の部屋から出てくるのも食事の時くらいで、話しかけてもほとんど返事さえしなかった。それまできょうだいというものを知らなかった少年にとって、緊急のこととはいえ家族に女の子が加わったというのは非日常的で、不謹慎ながらイベントのような感覚もあったのだけど、その時の香穂からはもう、親戚の集まりでいちばんにぎやかだった眼鏡の女の子の面影は失われていた。
 夏休みが終わる頃には、香穂が舟入町の家に帰れそうにないことがいよいよはっきりしてきた。オペラ通りより低い市街地は放棄せざるを得ないというのが県と市の判断だったし、香穂の家族もすぐには見つかりそうにもなく、彼女はわが家から小学校に通うことになった。
 うちはオペラ通りから二つの坂道を上がったやや高い場所だったのだけど、同じ段丘の上にあった小学校まで、子供の足で十分ばかり歩く間、住宅や木立が目隠しになって、浜はほとんど目に入らなかった。ただ一か所、ボウリング場跡の空き地の横を通る時だけ、視界をさえぎるものがなく、果てしない砂の広がりを見わたしながらカーブする道をおよそ五十歩、その頃の香穂の脚ならおそらく六十数歩、徒歩で通り抜けなければならず、そこで香穂が取り乱したり足が動かなくなったりすることを大人たちは危惧していた。
 最初の朝、その場所に通りかかるまでは、香穂は黙って後ろをついて来ていた。時折振り返ると、洋梨の柄のワンピースに木漏れ日を浴びたうつむき加減の細い姿が、付かず離れずの距離を保ちながら歩いているのが見えた。
 洋梨のワンピースは、それから何年間か、着丈や袖丈が相当きつくなってもまだ時々着ていたのを覚えているから、香穂がただ一着だけ災害以前から持っていた服というのがそれだったのだと思う。
 木立が途切れ、カーブに入り、白い地平線が視界に広がり始めたあたりで、香穂が追いついてくるのを待った。
 洋梨の柄に重なっていた木漏れ日の斑点が消え、全身が日なたに出てから二、三歩あまり、香穂の足が動かなくなったのは、レンズ越しの彼女の瞳がみるみる色を変えてゆくのが分かるくらいの距離だった。
 熱を帯び始めた九月の光の中で、香穂は凍りついていた。
 この時間を長引かせてはいけないと思ったのは、小学校に行けないと困るとかそんなこと以前に、ここでこうして身体を強ばらせていること自体が香穂の小さな胸の奥を深く傷つけ、黒くて硬くて有害なものを残すだろうと子どもなりに直観したためだったから、彼女をそこから無理やり引っ張り出すことにためらいはなかった。
「香穂」
 名前を呼び、駆け戻って、だらんと下されていたその左手を取り、小さくて硬くて冷たい五本の指をきつく握ってぐっと引いた。
「行こう」
 秋が過ぎ、冬が来て、指が痛くなるほど寒くなると、ダウンジャケットと毛糸の帽子の香穂は、カーブの入り口で黙って手袋を脱いで左手を差し出したものだった。彼女が通学路でとりとめのないことを色々と話すようになったのはそのころだったと思う。香穂とはちょうど三つ違いで、同じ学校に通ったのはその年の九月から翌年の三月までの間だけだったから、毎日手をつないでそのカーブを行き来したのもその半年あまりの間だけだった。
 それ以外に彼女の肌に触れたことは、後にも先にも一度も無い。

7

 その音が始まるのは皆が寝静まった頃、時には深夜の二時や三時だったりした。
 音と言ってもかすかな気配のようなものに過ぎず、神経を集中していなければすぐに見失ってしまうのだけど、この耳で感じていたのは確かだし、他の物音にまぎれると聞こえなくなってしまうのだから、やはり物理現象としての音だったのだと思う。週に一度くらい、始まりも終わりもはっきりと聞きとれないので何分間とは言えないのだが、断続的に一時間ほど続く音に耳を傾けていると、香穂の身に何かが起きているのではないかと不安にもなったけど、もう幼いとは言えない彼女のドアを真夜中に用もなく開くことはためらわれたし、何かあったのかと直接たずねることもできなかった。
 音の源が分かったのは、香穂が島田さんと二人で初めての砂委員を務めることになったあの夏からさかのぼること、およそ半年前のことだった。
 おそらくは深夜というより夜明け前に近いころ、何かの気配にふと目を覚まし、暗闇と布団の中で耳を澄ますと、聞こえてきたのはあの音、まるで雪が降るような、水道管がかすかに震えるような、ジャケットから出したレコード盤が静電気を発するような、火を消したコンロが冷えてゆくような、しかしそのどれでもないあの音だったのだ。
 しばし寝床で耳をそばだてながら、何から発せられる音なのか、香穂は眠っているのか起きているのかと当てもなく考えをめぐらせていたが、切れ切れに続いていたかすかな音はやがて戸外からの風音にかき消されてしまい、吹き止むのを待ってみても風勢は強まるばかりで、ついには軒先の電線がひゅるひゅると鳴り始めるに至ってただの強風ではないと気づき、枕元にあるはずのラジオを手さぐりで探そうとした時、家中の柱や梁が破裂するように「ぱああん!」と音を立て、千本の鞭の悲鳴とともに砂の雨が窓を襲ってきた。
 もはや警報を確かめるまでもなく、町は嵐のただ中にあった。
 周りの建物や木々にある程度守られているとはいえ、気密の甘い木造家屋はただでさえ砂が入り込みやすく、ましてこの夜の嵐はその年で一、二を争う激しさだったから、室内の空気はたちまちのうちに、布団をかぶっていても分かるほど砂っぽくなった。ラジオのかわりに探り当てた電気スタンドのスイッチを押すと、幸い停電はしておらず、薄い砂煙のせいで紫がかった光に浮かび上がった部屋は家具も窓ガラスもすべて普段通りだったから、思い切って温かい布団を飛び出し、狂った風音と木材のきしみが響く冷たい階段を裸足で駆け上って、形だけのノックももどかしく、ドアを開けた。
「香穂、だいじょうぶ?」
 香穂の部屋は、天井の明かりは消えていたけれど、勉強机の小さな蛍光灯がついていて、物の形や色が分かる程度には明るかった。閉ざされた雨戸ががたがた揺れていたが、風鳴りは階下より静かだった。
 香穂は薄い身体をベッドの端に横たえ、Tシャツの胸の上で両手を組んでいた。
 冬でもやや浅黒い両脚は、ショートパンツから二本並んでするりと伸びていたが、膝関節で折れ曲がってマットレスの縁からだらりと下がり、さらに足首から先は、床に置かれた四角い大きなクッキー缶の中にそっくり隠れていた。
 忍び足で近づいてみると、香穂の長い髪はくしゃくしゃの毛布の上に広がって、無造作に放り出された眼鏡にからみついていた。レンズもフレームも無い素顔に真横から光が当たっているせいか、小さな鼻がいつもより立体的に見えた。うっすらと砂の積もったまぶたは、閉じるでも開くでもなく、そのあわいで少し震えているようだったし、頬は朱を帯び、紅みの差した唇が半ば開いて濡れていたものだから、熱でもあるのかと思ったけど、苦悶の色はどこにも無く、眉は穏やかに開いていた。腕や太腿の筋肉が少し緊張しているようにも見えたが、呼吸による胸の上下のほかに香穂の身体に動きは無く、目覚めているのか、眠っているのか、そのどちらでもないのか、判断するのは難しかった。
 床のクッキー缶には、白い砂がみっしりと詰まっていた。天井や壁に付着しているのと同じような、きめの細かい粉雪のような砂の中に、香穂は両足をくるぶしまで埋めていたのだ。
 風はまだ激しく、ごとごとと揺れる雨戸に、何度も何度も砂が降りかかるのが聞こえた。しばらくそうしてベッドのそばで香穂の顔や身体を見下ろしていたのだが、嵐の音にまぎれて、香穂の口のあたりから何かが聞こえた気がして、思わず一歩うしろに下がった。
 それは言葉でも声でもなく、文字にするなら「ちっ」とか「ぴち」とでも表記すべき、濡れた唇か唾液の泡が立てるような単なる小さな音に過ぎなかったし、顔や手足の表情には変化も動きも無かったのだけれど、どうしても彼女の姿をまともに見ていられなくなって、いたたまれず、そのまま後ずさりでベッドを離れ、そっとドアを閉じた。
 翌朝、香穂は嵐について全く触れず、家族がその話をしてもきょとんとした顔で、砂防倉庫までの道でも常と変わらぬとりとめのないおしゃべりの末に、いつものように「ばいばい」と手を振った。
 二階からの音はそれからしばらく途絶えたけど、二か月ほどして再び始まり、また毎週のように繰り返され、そしてあの夏まで続いた。

8

 家庭の事情を考えれば、香穂には砂委員の役を断るという選択肢もあった。同じような境遇の子は大抵そうしていたし、香穂も当然拒否するだろうと思われていたから、やっぱりやりたいと言い出した時にはみんな驚いて、無理しなくてもいいと言い聞かせたりもしたのだけど、話が具体的になるにつれて朗らかになり、今まであまりしゃべらなかった食事の席でさえ砂委員のことを話しはじめた彼女を見て、大人たちは戸惑いつつも、大筋では喜ばしいことだと考えたようだった。
 日程も夏休み前の最終週と決まり、いよいよ一か月前になると、砂防倉庫までの道でもあの子の話はそればかりだった。
 この年にはもうほとんど梅雨というものが無く、夏至が近づく頃には朝からまともに陽が照りつけ、少し歩くだけでも首筋に汗がにじむほど暑くて、香穂の頬にも幾筋かの髪が貼り付いていたけど、当人は少しも気にせずいつになく熱心にしゃべり続けた。
「あのね、最初は天井の砂を降らせるの。自分で落ちて来ないのは、いちばん冷たい砂ね。触っても、触ってないみたいなやつ」
 香穂に教えてもらわなくても砂委員の仕事については分かっているわけで、それよりも気になったのは、香穂と組む先輩について、要は男子なのか女子なのかということだったのだが、遠回しな質問を幾つか重ねた末に香穂から引き出した答えは、「島田さんはおんなのこだよ」だった。そして当たり前のような顔で「かわいいおんなのこ。島田りさ子ちゃん」と付け加えた。
 香穂が誰かを「かわいい」なんて言うことは滅多に無かったし、そもそも彼女の口から人の名が出ること自体珍しかったので驚きはしたものの、「かわいいおんなのこ」なら別に何も言うべきことはないと、その時は思った。
 ろくに雨も降らないまま六月が終わり、七月も半ばを過ぎ、ついに夏休み一週間前になった。
 初日の月曜、朝から上機嫌で登校し、最初の仕事を終えて帰ってきた香穂は、まるで六歳の子供に戻ったみたいに真っ赤な頬をして、麦茶のグラスを片手にあれこれとりとめのないことを話しつづけ、家族が揃って夕食の席につくと、おずおずと切り出した。
「おばさん、りさ子ちゃんをうちに呼んでもいいですか」
 今までに一度も無かったことだから、両親はとても喜んだけど、その喜びの中には、自分たちの肩の荷がほんの少し軽くなったという気持ちも含まれていたと思う。
 それからの五日間、香穂がどのように砂委員をつとめたのか、見たことも、直接聞いたこともないし、想像するのも難しいけど、ただいくつかのイメージだけは鮮明に思い描くことができる。
 たとえば、まだ日差しの強い教室で、マスクもせず、髪も制服も眼鏡もそのままで、長ぼうきを手に、両腕を伸ばして天井を掃く香穂の上に激しい銀の雨が降り、熱を帯びた頬や眼鏡のレンズを叩き、袖口からブラウスの中に流れ込んで、汗のにじみかけた肌を冷ましながら、低いところをたどってさらさらと下り、スカートのプリーツを滑り降りてスニーカーの足元に落ちるのを。
 あるいは、裸足の香穂が、夕風の吹き始めた浜を、赤旗の列から距離を取りつつ、一歩踏み出すたびにくるぶしまで埋まり、沈みそうな後ろ足で砂を蹴り上げ、はかない砂煙の航跡を残しながら、沖へ向かう後ろ姿を。
 やがて旗の色が黒に変わり、その黒旗もまばらになったあたりで、香穂は足を止めて振り返る。
「りさ子ちゃん、遅いよ」
 強さを増した浜風が紺のスカートをはためかせ、表層の砂がゆらめきはじめる。浅黒い両脚はすでに膝下二十センチくらいまで沈んでいる。香穂は邪魔っ気そうに制服のリボンをむしり取って投げ捨て、指をぱらぱらと動かして手招きする。
「りさ子ちゃん、行こう?」
 もちろん、そんな情景を本当に見たわけではないし、その意味するところを説明することもできないけれど、それはイメージというよりほとんど記憶のように、何度思い出しても鮮明で、いつまでも脳裏から消えることが無いのだ。
 香穂が島田りさ子といっしょにいるところを実際に初めて見たのは、彼女が消えたあの日の数週間前、砂委員の役目が残り一日となった木曜日のことだった。
 夏の陽がやや傾き始めたころ、案内を乞う声に応えて戸口に出ると、ほぼ同じ背丈の二人の少女が、しっかりと指を組み合わせて手をつなぎ、紅い顔を互いに見合わせていた。やせっぽちで浅黒い香穂の傍らにいたのは、おでこが広く、頬や肩がふっくらした白い肌の女の子で、家で水浴びをして着替えて来たのか、砂っぽい制服姿の香穂とは違って、よれたタンクトップとハーフパンツと石けんの香りをまとい、二つ結びにするにはちょっと無理のある長さの髪はまだ乾いていなかった。
 香穂と手を握りあったままで腰を折り曲げて「お邪魔します」とあいさつした彼女の、メレンゲみたいにふんわりした胸元から逸らした目を足元に落とすと、黒塗りの下駄の上に、赤いちりめんの鼻緒を挟んで、桜色の短い指が綺麗に並んでいた。
「香穂ちゃんのお兄さん?」
「うん。ここんちのお兄ちゃん」
「暑かったね」
「アイス食べる?」
 そんなことをしゃべりながら、香穂と島田さんは階段の上に消え、普通の女の子同士みたいに何か言っては笑いあう明るい声が夕方まで聞こえた。
 島田さんが帰り、深夜になると、またあの音とも言えない音が始まり、眠りに紛れてしまうまでずっと続いた。

9

 二人が戻らない、という学校からの知らせを受けたのは、彼女らの砂委員の最終日だった金曜の夕方、夏の長日とはいえそろそろ空が薄暗くなり始めたころだった。
 電話を取った母はそのままろくに身支度もせずに学校へ走っていったが、一緒について行くことは許されず、警察なり消防なりから直接連絡があるかもしれないというので留守番を命じられ、静かな居間のダイニングテーブルにひとり残された。
 香穂と島田さんが、二人で浜に出たきり戻らない。分かっていたのはそれだけで、それ以上のことを考えたくはなかったけれど、戻るべき時刻を二時間以上過ぎてまだ浜にいるのだとしたら、旗の列はじきに宵闇に紛れて安全通路も分からなくなるだろうし、風が出てくれば明かりを頼りに街の方角を知ることさえ出来なくなるだろう、などと考えをめぐらさずにいられなかった。
 テーブルに伏せるようにして、時計の音とともに連絡を待つ間、冷たい吐き気が続き、頭の奥では不快な摩擦音が聞こえ、身体も椅子もテーブルも床も支えを失ってひゅんひゅんと傾き続けていた。こうしている間にも取り返しのつかないことが起こっているのではないか、この瞬間がリミットなのではないか、まさに今が、流れる砂の中から香穂を救い出す最後のチャンスなのではないのか。
 電話も鳴らず、誰も戻らないまま闇で満たされてゆく家で、明かりもつけずにテーブルに突っ伏して、知らず知らずのうちに眠っていたのだろうか。それはいったい夢だったのか、幻視だったのか、あるいは後年に挿入された偽の記憶だったのか定かではないけど、まるで映写機が回り始めたみたいに、白く輝く映像が視界に広がった。
 真昼間のように明るい砂の上で、小麦色の小さな細い手と、ふんわりとした白い手が、しっかりと握りあっていた。全ては光に満たされた塵煙の中にあり、二つの手と砂の他には何も見えない。砂の寄せ波が覆いかぶさって来ても、手と手はただ血の色が失せるほど強く握り合うだけで、逃れようともしなかった。
 白く柔らかそうな手の甲に、骨ばった指がぐっと食い込む。
 その時、香穂でも島田りさ子でもない女の声が、耳元ではっきりと聞こえた。
「砂に呑まれちゃえばいいのにね」
 飛び跳ねるように顔を起こすと、誰もいない真っ暗な部屋で、風に揺すられた窓がかたかたと鳴っていた。
 夜光時計の針はまだそれほど進んでいなかったが、そのまま闇に座り続けていることにはもはや耐えかねた。椅子を蹴って玄関を飛び出したら、外の風は心配したほどではなく、空気もまだ澄んでいたけど、旧市街への坂を駆け下り、真っ暗なオペラ通りを走ると、路面に積もった砂が靴の下でぽふぽふと音を立て、砂塵の匂いが鼻をくすぐった。
 家並みが途切れ、道がカーブし始めたあたりで、浜のほうがいつになく明るいことに気づいて足を速めると、舗装が砂に消えるあたりに、いくつかの人影が、夜間工事に使う大きな照明灯に照らされているのが見え、怒鳴るような人声も聞こえてきた。
 淡い砂煙の立った光のスポットの中には数人の救急隊員と学校の教師、そして両親の姿もあり、そのうちの何人かがこちらを見ていた。そして彼らの輪の中にもうひとり、砂の上に座っている子どもの姿に気づき、まっすぐに駆け寄ったが、体育座りをしたその少女は香穂ではなかった。
 赤いタオルを肩に掛けていたほかには、島田さんが身につけていたのはグレーの下着だけで、砂の上で自分の両膝を抱きしめて縮こまった汗みずくの白い身体が照明を浴びててらてらと光り、膝と胸郭の間で押しつぶされた左右のふくらみが歪んだ白磁のように輝いていたのを、胸が悪くなるほどはっきりと思い出せるのは、われ知らず記憶に焼きつけていたのだろうか、香穂の安否さえまだ分かっていなかったのに。
 男たちの声が聞こえ、二人の救急隊員が軽々と担架を運んで光の輪に入って来た。毛布の端からのぞいた髪も、何かを探してるみたいに宙をまさぐる手も、熱にうなされるように誰かを呼び続ける声も、確かにあの子だった。
「香穂」
 目の前を通る瞬間、その手に触れようと伸ばした手は、空中ですれ違った。
 すぐに車に乗せられ、島田さんともども病院へ運ばれた香穂は、しかし二日後にはけろりとした顔で退院してきて、そのまま夏休みに入った。砂の中に失くしてしまったメタルフレームの代わりに新調した赤いセルフレームの眼鏡のせいもあってか、むしろ以前より元気になったようにさえ見えた。
 そして島田りさ子が毎日のように遊びに来るようになった。
 二人は明らかに親密さを増していて、ほとんどの時間は香穂の部屋に閉じこもっていたけど、たまに姿を見せるときは腕を組んだり肩を抱いたりして、似ていない姉妹みたいにひそひそ話をしてくすくすと笑いあったりしていた。それはどう見ても危険な兆候としか思えず、大人たちがあの夕方の出来事を単なる事故としか思っていないのが不思議でならなかったし、実際、夏休みの半ばを待たずして香穂は消えてしまい、それきり戻らなかった。
 香穂は今度こそ本当に、八月の砂に消えてしまい、それきり二度と戻らなかったのだ。

『砂委員』

「10」に続きます。
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『砂委員』 N村Kタロウ 作

何度も来る砂嵐。埋もれてゆく街。香穂と砂委員のお話です。 他サイト様に1-7まで掲載していましたが、8,9を加えてこちらにアップします。今後もこちらで連載予定。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-09
Copyrighted

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