*星空文庫

門の掌編集 (-2013)

N村Kタロウ 作

  1. 半透明少女
  2. The happy end of the world 
  3. 嫁はんを待ちながら
  4. 腐った実が陥ちる
  5. 縁側と舟

以前、他サイト様に掲載させていただいた掌編小説を、こちらにまとめました。何年も前に書いた拙いものですが、ほんのお目汚し、ということでご容赦ください。

半透明少女

 ダイニングキッチンのテーブルの上に、それはあった。
 日曜の明け方、まだ薄暗いうちに不意に目覚めて、水でも飲もうと寝室を出てきたときにみつけた。
 少女だった。身長はビール瓶ぐらいで、テーブルの上に仰向けに横たわっていた。
 いや、横たわっていた、というのは正確ではない。べったり貼りついていた、とでも言おうか。
 白濁した半透明の、ゼリー状のぷるぷるした材質でできているらしい。裸体の少女の形をしたその物体には、体の前側の半分しか無いように見えた。もともとそういう形状なのか、それともそれ自体の重さと弾力のためか、後頭部や、背中や、臀部や踵は、平面となってテーブルに密着していた。
 息を殺してそっと近づき、のぞきこむ。プロポーションこそ本物の少女そのものと見まがうほどリアルではあるが、細部の造形はまるでプラスチック製の型から抜いた菓子のように不鮮明だった。
「ハンダン、来ナカッタ」
 唇を動かさずに少女が言った。人の声、というより、びりびりと震えるブザーの音に似ていた。
「深イ。深イ。全テノ蹉跌ハ、ウミヲ生ミダス」
 私は、テーブルの反対側の椅子を引いて、腰を下ろした。
「縁側ノ薄暮、薄暮ノ縁側」少女は言う。「回ス、回ル、回サレル」
 じっと横たわったまま。唇は動かなかったが、小さくとがった乳房だけが発声に合わせて震動した。
「君だったのか」と私は言う。
「処置、措置、イズレ。利スル、違ウウミタイ?」
「びっくりしたよ。でも、いつかは会って話さなきゃいけないと思っていた」
「銑鉄ヲ飲用セズトモ、今ハ知ル人ノ傍ラ」
 半透明の少女の身体は、ぼんやりと光っている。蛍光灯の明かりのせいかと思ったが、体の内部に弱い光源があるようにも見える。
「そうじゃない。忘れていたわけじゃないんだ」
「ジャナキャ、滞留スル。ヤワラカサ、イツモクネクネ、紙ナプキンノ前モ」
「七年になるのかな。会わなくなって。でも、僕は君を否定したわけじゃない」
 少女は目を開いた。
 ゼリー状の物質の上に油絵具を乗せたような、不透明な白目の上に、さらに黒々と重ね塗りされた瞳。内面の表れというものを、一切感じさせない。彼女はここにはいない。
「……地下通路ノ僧侶ニ、ソコハカトナク、ソウジャナイ。アノ戸惑イモ?」
「そうだよ。どこかでつながっていると、ずっと感じていたんだ。君もそうだったんじゃない?」
 少女は、動かない。しかし、身体とテーブルの接するところ、輪郭に沿って、光沢があらわれてきたようだった。
「無為ト野菜ト広告灯カ。ドコカラドコ。ココカラココ」
「ああ。本当は嬉しいんだ。でも会えないよ。二人とも人間としてこの世界に生きている限りは」
「ココロヨク。ココロヨク。植林植林植林植林植林植林、ヤサシイトモ植林トモ思ワナイ」
 水が滲み出してきていた。肩口から、テーブルの中央に向かって、とろりと流れた。
 身体の形状は、いつしか曖昧さを増し始めている。胸の先端の部分は、ほとんど融け消えて乳房の曲面に同化しようとしていた。消えてしまう前に触れたい。強い衝動が、私をほとんど椅子から立ち上がらせようとした。しかし触れれば潰れるだろう。頼りなく柔らかい身体の全体が崩れ去るかもしれない。
 私は椅子に体重を戻す。触れたところで、あの時の感覚が戻ってくるわけではない。
「……あの時間は消えない。覚えていてほしい」
「ジット寮……ザケド、湿度ノ遊ビ、ジツケトサワラビ……」
 白目と黒目の色は、絵の具が水に溶け出すようににじみ、目尻から耳に向かって流れて二筋の線を描いた。声はさらに不明瞭になり、ボツボツというクリック音に似始めていた。
「……ジズズギ、デホ……」
「僕は、本当は君と一生をともに過ごすべきだった。今でも、それは分かっている」
 ある瞬間から、融解は一気に進み始める。最初に流れ始めた液体の一筋が、テーブルの端から床へ長い垂線を引いてたろたろと流れ落ちた。もう、顔を判別することも難しかった。広がった輪郭は、死亡事故現場にチョークで描かれる人の形と同じだった。
「でも、僕はそれには耐えられなかっただろう。本当にあるべき状態が、この世界で実現するとは限らない。そうだろう?」
「……セス……」
「今でも、君の身体を抱くことを、よく思い浮かべるんだ。彼女とは、何かが違う。本当なものがあった」
 たろたろたろたろ、と液体は落ちた。
「そうだね。どこかに、本当の世界があるならね」
 私は腕を伸ばし、テーブルの上に楕円形に広がる白濁した液に、人差し指の先をつけた。
 温かく、ねばりつく。指の関節のしわから、身体にしみこんできそうな気がした。
 空気に触れて急速に粘度と温度を失ってゆく液を、私は人差し指と親指の間でいとおしく撫でた。
「愛しているよ」


(おわり)

The happy end of the world 

 ちょっとした決意をして、同じ大学の朋子に電話をかける。珍しく一発でつながった。
「もしもし、朋子ちゃん? 久しぶり」
「はあい」、力の抜けた声で、朋子が返事をした。「その声、高村くん?」
「あのさ、今からそっち行ってもいいかい」
「いいけど。なんで?」
「会いたいから。うん。会いたくなったんだ、こんなときだけど。その、実は、好きだから、君が」
ぼくはしばらく黙って答えを待った。いくつになっても、世界がこんなことになっても、やっぱり緊張する。おかしな話だ。
「それはなに?」と朋子は言った。「つまり、あたしとセックスしに来るわけ」
「朋子ちゃん? そんな言い方・・・」
「ふう」朋子は溜息をついた。「あたしはおとなしい子? こんなこと言わない子? もういいよ、そういうの。どうでもいいじゃない」
「分かるけど」
「別に、来ても良いわよ。セックス、悪くないわね。どうでもいいけど」
 電話が切れた。ぼくは出かける準備をする。セーターを着て、マフラーをぐるぐると巻いて、重いダッフル・コートを着て、毛糸の帽子をかぶる。そして革製のホルダーに出刃包丁を差した。護身用の武器は絶対に必要だ。
 玄関を出たら、雪はもう降り止んでいた。家々の屋根に薄く積もった雪は、真っ赤な空の色を映して暗いピンクに染まっていた。地球最後の夏休み。中天にかかった八月の真昼の太陽はもう、去年までとはまるで違う。輝きは弱く頼りなく、ぶよぶよと二倍近くにふくらみ、ほおづきみたいに赤かった。老人班みたいな無数の黒点が、はっきりと見えた。
 太陽は年老いた。一年後には死を迎える。
 国際天文学会がそう発表してから三ヶ月。太陽は素人目にもはっきりとその相貌を変えた。九ヶ月先には、核融合反応の燃え滓がその重さに耐えかねて太陽の中心に落ち込むだろう。そして、そのとき発生した衝撃波が表面のガス層を吹き飛ばし、太陽系を焼き尽くす。六十億人への死の宣告。だから、もう、なんだってどうでもいいんだ。
 駅まで、商店街を歩く。誰も歩いていない。シャッターの降りた店、シャッターの壊れた店。細々と営業を続けているコンビニの店先に、なぜかポリバケツが山積みで売られている。デタラメな流通でも、まだ機能しているのが不思議だ。
 電車は、実直な鉄道マンや熱心な鉄道ファンのお陰でかろうじて細々と動いている。駅の自動券売機はすべて止まっていて、改札には鉄道ファンらしい中学生くらいの少年がいた。
「電車乗るの?」、少年は首を傾げてちょっと考えた。「切符は買わなくていいよ、別に。社員の人も、もうどうでもいいみたいだもん。ホームで待ってて。もうすぐ来ると思うよ」
「ありがとう」
 十五分ほどで、一両だけの電車が来た。乗客はぼくひとり。座席はほとんどが外れ、衣服や食器が床に散らばっていた。
 車窓の景色を見ていると、走る車や歩く人を時々見かけた。火事なのか、炊事の火か、赤く照らされた雪の街のところどころから煙が立ちのぼっていた。
 運転手に頼んで朋子の家の近くで電車を止めてもらい、開いたドアから砂利の上に飛び降りた。
 朋子の街には人が多かった。どこからか東京音頭のメロディーが聞こえ、浴衣にコートを羽織った女をちらほらと見かけた。そうか、お盆だったんだ。
 朋子は大きすぎるダウンジャケットを着てニット帽をかぶり、アパートの外の階段に座って下を向いていた。ジーンズの膝の間には、武器の金属バット。彼女の細い身体で、こんな物が振れるんだろうか?
 ぼくが来ているのに気付いていないのか、朋子はそのままじっとしていた。ぼくは何分間かその姿を眺めてから声をかけた。
「朋子ちゃん、元気だった?」
「高村くん、ごめんね」やつれた顔を上げて、朋子は言った。「ごめんね、高村くん」
「隣、座っていいか?」
「うん」
 金属バットを膝の間にはさんで、朋子は階段の片方に寄った。
 隣に座ると、かすれた声で朋子は言った。
「ごめんね。高村くんと、そういうこと、わたしできないの」
「うん」ぼくは微笑んだ。
「好きな人、いるから」
「いいじゃん。いいよ。まだそういう気持ち持てるのって。そういう朋子ちゃんだから好きなんだ」
「ありがとう」
 朋子は遠くを見ていた。どんなまなざしも届かないほどの遠くを見ていた。
「ねえ朋子ちゃん、その人って・・・」
「いいの、もう」、朋子は白い息を吐いて鼻をすすった。「もういいの、私は。ごめんなさい」
 ぼくには分かった。彼女の世界はもう終わっていたのだ。そしてぼくにももう時間は必要じゃなかった。
 朋子の頭がゆっくりとぼくの肩に倒れてきた。かじかんだぼくの耳に長い髪が触れた。
 さあ早く、今この瞬間に。
 今この瞬間に、世界が終わればいいのに。
 瞬間、太陽が輝きを増したような気がした。

嫁はんを待ちながら

 嫁はん、遅いなあ。なにしとんねやろ。
 純子もおらんちゅうことは、また何ちゃらいうリサイタル行っとんねやろか……言うて、へへへ、リサイタル言うたらまた笑われるねんな、これが。ライブちゅうねん最近は。ライブちゅうねん最近はなあ。
 しかしライブ言うたらなあ、わしらの業界では昔から、中堅どころの、ライブの、あの四条畷の……なんや、何ちゅうねやったかなあ、新聞広告出しとったよなあ。あれびっくりしたわ。せやけどあれはバルブの時分か。あー寒。灯油無いがな。灯油入れとかんかいな。寒いがな。
 なんや、晩飯もあれへん。なんもあれへんのかいな。土曜日やろが今日は。土曜日くらいゆっくり……ゆっくり……なんや、なんや言うて、俺、俺いつも言うとるやないか。まったく。
 淳子もなあ、あれはもうちょっとマシになる思うとったわ。今の若い子いうたらなあ、みな綺麗やで。テレビに出よる何やらエリーやらエリカやら、あこまで綺麗にならんでもええけど……あっこまで綺麗なったら、そらそれでまた心配でかなんやろなあ。しかし、会社の若い子でもなあ、もっとちゃんと化粧して……。それがなあ。あれやもんなあ。もうじき嫁に行かんならん歳やで、あれ。誰がもろてくれるねん。あれ誰がもろうてくれるねん。嫁はんの若い時分そっくりやがな。えーネクタイネクタイ、ネクタイどこへ掛けといたらええねん。分からんわ、嫁はんおらんさかい……はは、ここへこないして掛けたら、松の木に首吊りしとるみたいやなあ。ちょうどそない見えるなあ。カッターシャツとネクタイがなあ。おもろいもんや。しかし嫁はん遅いなあ。
 また順子連れてリサイクル……ちゃうわ。リザイブ……なんや、カタカナばっかりで最近分からん。リサイクルちゅうたらパソコンの何かやったかいな。もう忘れた。先週の会議でその話が出とったのに。ようテレビで言うとるがな。リサイクル。リザイブルちゅうたらまた別口やな。わしらの業界の……なあ。
 しかし、嫁はん遅いなあ。
 なんぞ食べんならんもんなあ。腹減って来たわ。嫁はんの飯もなあ、塩辛いねん。なんぼ言うても直らん。血圧……いや、しかしなんぼなんでも遅いんと違うかぁ? 潤子もいてへんし。あいつはまだ高校生やぞ。こんな時間までどこ連れまわしとんねん。あしたも学校……いや、夏休みか。夏休みでもなあ。高校生やぞ。学生の本分は何や。勉強や。言うて、赤坂先生に言われたなあ。あの先生にだけはよう言い返さんかった。経済学部の金マル派学連がゲバルトかけた時は、わしら文学部の学生で先生の研究室守ったもんや。なつかしなあ、赤崎先生。退官前やったもんなあ、もう亡くならはったんやろなあ。インターネットでいっぺん調べてもろうたろ。いや、イントラネットいうたか。違いがよう分からん。インテルネットちゅうのもあるんやったか。よう似たある。違いがよう分からん。腹減ったがな。冷蔵庫になんぞ……なんやこれ。パスタか。パスタいうたらスパゲッティか。こんなんしか無いのんかいな。こんなんしかあれへん。嫁はん遅いなあ。スパゲッティか。こんなんしかあれへん。これどないすんねんチンするんかいな。おーい準子、これどないすんねん? え? わし、分からんで。なんや、どこや。準子は。おらんのかいな。洵子いてへんがな。なんや。若い奴は、狙いすましたみたいに肝心なときにおらんようになる。会社の若手でも、みなそうや。
 あれはなあ、大卒なんぞ採るさかいに、あかんねん。理屈ばっかり言うてけつかる。わしら、みな、高卒で叩き上げて来たんやないか。大卒は要らん知恵が付いとるし、遊び癖がついとるし、使えん。大学で勉強なんぞしてもなあ、物の役には立たんねん。あれはバルブのはじけたころからやろ。あの前は高卒しか採らんかった。あのバルブからや。雰囲気が悪い。雰囲気が。責任ちゅうもんが無い。謝ったら済むと思うとる。あほんだら。信頼ちゅうもんがあるんや、わしらが築いて来た信頼ちゅうもんが。なあ。嫁はんおれへんやないか、嫁はん。信頼ちゅうもんが、なあ。夫婦の間もそうやで。
 ほんで巡子はどこにおんねん。中学生がこない遅うにどこをほっつき歩いとんねん。明日も学校やろが。またあのアメリカ村行っとるんかい。あない風紀の乱れた……。だいたいあの格好はなんや。下着やないか。アメさんが見たらパン助やと思いよるわ。あれどう見ても下着や。嫁はんは何しとんねん。あ、これ袋あけたらあかんのかいな。ほな書いとかんかいな。何で書かへんねん。あ、書いたあるわ。字ぃが小さいねん、そやけど、嫁はん遅いがな。よう見ぇへん。よう読めへんでこれ。字ぃ小さいねん。ほなどないしたろ。サランラップかけてチンせんならんな。サランラップどこや。サランラップどこにあるかも分からん。わし、嫁はん死んだらどないすんねん。
 旬子もうじき嫁にいくのにお母ちゃんおらなんだら不憫やなあ。衣装やら段取りやら、弘通(ぐつ)悪いなあ。わし分からんで。サランラップもよう見つけへんねやさかい。嫁はん遅いなあ。おおこれやこれや。サランラップ。いや違うわこれクレラップて書いたあるがな。クレラップて何や聞いたことあるけどどない使うねん。サランラップと一緒やろか。別のことに使うもんやろか。一緒に使うてええねやろか。わし分からんでぇ。嫁はんどこ行ったんや嫁はん。かなんなあ。もう九時や。もう九時かいな。嫁はんどこ行きよったんや。洵子の入学祝いとかでまた高い店行っとるんちゃうやろな。けったくそわるい。いや、違うで。わし羨ましいのと違うで、スパゲッティやらグラタンやら好かんしな。おおかた天満の大川端に夜桜見物でも行っとるんやろ。あの川向かいに戦中は砲兵工廠があって、大阪大空襲の時は、ごうごう燃えて、へへへ、あら綺麗やったなあ。へへへ。そやけど勤労奉仕へ行っとった子はようけ死んだなあ。よけ焼け死んだなあ。かわいそやったなあ。かわいい子がおったんや。なんちゅう名前やったか。丸っこい体つきでなあ、それにしても、あの食べ物の無い時分になあ。いまの子は、みな体格がええわ。うちの循子でも、見てみ、あれ。ボインやし、太もももむっちりしとるし、あれで高校生やねんからなあ、何や、親のわしでもムラムラっとケッタイな気分に、えへへへ、そんなことあるかいな。無いがな。そんなアホなことあるかいな。無い無い。えー、そやけどこれ動かんなあ。どないなっとんねやろ。飯食われへんがな。どこぞ押さんならんのやろか。説明書があるはずやなあ。みなまとめてタンスに……。
 わあ。わあっ。わ、なんやこれ。なんやこれ。わあーっ。こ、こ、これ何や。なんや。なんやねん。あれか。あれかいな。わしのカッターシャツとネクタイかいな。びっくりしたなあ。びっくりしたわあ。はあはあ、なるほど。ここへこないして、鴨居のところへこないして吊ったら、ちょうど松の木に首を吊ったような格好に。ははあ、こらおもろい。よう出来たある。こらおもろいなあ。しかしびっくりしたなあ。誰ぞに見せたいなあ。嫁はん腰抜かっしよんで。嫁はんまだ帰って来ぇへんねやろか。エリカもまだ帰ってへんのんかい。エリカもまだ帰ってへんのんかいな。何をしとんねん、ほんまに。うちのエリカは別嬪やさかいなあ。誰に似たんやら分からんけど。えへへ。このわしとあの嫁はんからなあ。嫁のあほんだらが、こないな夜中にエリカ連れまわしてどないするんや。なんぞあったらどないすんねん。なんぞあったら洒落ならんで。このごろはケッタイな奴多いさかいなあ。嫁はんはもうどないされてもかめへんけど、エリカがケッタイな男にケッタイなことされたら、わし犯人ぶち殺しに行くで、そらもう。殺すで。どないして殺したろ。包丁で突くぐらいやったら足らんで。まず最初は足の親指ライターであぶったる。それから目蓋にずらっと釣り針刺して銀色のまつ毛にしたる。そんなんまだまだ序の口……。おっ、これやこれや。ここ押したらええねん。ちゃあんと「あたため」て書いたあるがな。それにしてもひらがなで「あたため」てなあ。かえって読みにくいがな。今日日の若い子はこんな漢字もよう読まんのかいな。輸出用なんかいな。
 せやけどスパゲッティかあ。なんや気ぃ進まんなあ。嫁はんが死んでから、わしろくなもん食うてへんなあ。エリコは料理よう作りよらんしなあ。我がの娘のことをこない言うのもなんやけど、あれは器量ももう一つやし、性分も陰気やし、身体もガリガリで女らしいところが無いさかいなあ。せめて料理ぐらい出来な、話にならんで。死んだ時の嫁はんよりまだ陰気で貧相やもんなあ、へへへ、こんなん言うたら嫁はん怒りよるわ。仏壇(ぶったん)で歯噛みしよるやろ。そやけど寒いなあ。こないな時間にユリカはどこ行きよったんや。また男とじゃらじゃら遊んどんのとちゃうやろなあ。スパゲッティ、これでもうええのんかいな。もう食べれるんかいな。なんや不味そうやなあ。若いもんはこんなん好っきゃねんなあ。食べとないなあ。醇子もリエコももう寝とるんやろか。明日は運動会や言うて楽しみにしとるもんなあ。生意気盛りでも可愛いもんや、まだ小学生やもんなあ。しかし嫁はん遅いなあ。まだ帰って来ぇへんのかいな。まだ帰って来よらんのかいな。嫁はんまだ帰って来よらんのかいな。わし待っとんねんで。さいぜんからずっと待っとんのにから。

腐った実が陥ちる

 歩道に立ちどまって、大統領府にひるがえる黄色い旗をしばらく眺めた。
 これで見納めかもしれない。忠誠心も愛国心も無いつもりだけど、赤い旗が好きなわけでもない。
 どんよりした眼の衛兵が、ライフルをぶらぶらさせながらこっちをじっと見ていた。僕は首を振って、夜の大通りを歩き出した。大荷物を積んだリヤカーや、政府軍の敗走兵を乗せた軍用トラックがひしめき合う道を、行き交う人の肩に何度もぶつかりながら、酔いのせいでひどくおぼつかない足取りで。
 高級ブランドや貴金属を扱う店はもう全てシャッターを下ろして店じまいしていた。懐かしい店ばかりだ。どの店を見ても、何か買ったことがあるような気がする。
 そうだ、そこの角の、エクリュだかブリュだかというフランス語の名前の店で、誰かに指輪を買ってやったような記憶がある。アオザイを着た女の子に。あれは誰だっただろう。忘れてしまった。どこかの店の、何とかという名前の女の子だ。いくつかの顔が重なり合いながら脳裏をよぎったが、誰がどの店の誰なのか、結びつけるものは僕の頭の中にはもう残っていなかった。
 彼女たちはどこへ行ったのだろう。どこかから航空券をせしめて国を出て行っただろうか。ヘリに拾われて、いまごろは沖の軍艦の船倉に詰め込まれているのだろうか。それとも、とっくの昔にデルタかどこかの田舎町にでも帰ったのだろうか。分からない。Where have all the flowers gone? この先知ることもないだろうな。
 洗いざらしの擦り切れたシャツに身を包み、なけなしの財産を詰めたスーツケースをかかえて、不安な面持ちでさまよう下町の住民たち。はじめから失う物などない物乞いの少年たち。ウイスキーのボトルを手に交差点につっ立っている野戦警官。おろしたての白い麻のスーツにネクタイ姿の僕は、人波の中でひどく目立っていただろう。どこからか僕を冷やかすような声が聞こえた気もしたが、酔った意識には届かなかった。ポケットに財布が残っているかどうかすら、どうでもよかった。何百ドル持っていたところで、明日にも使えなくなるかもしれないのだ。
 今日はひどく蒸し暑い。どこかで子供が泣いている。テレビでミン大統領が何かしゃべっている。怒鳴りあっている連中がいる。市の連中がゴミの回収をやめてしまったせいで、蝿や蚊や、ついでにアメ公のヘリもぶんぶんとうるさい。しかし、なによりも砲声がうるさくて、たまったものじゃない。ぼんやりとした頭をかき乱す。腹の底から響いて来る。
 もはやそれは首都を四方から取り囲んでおり、しかもその輪が次第に狭まりつつあることは、兵役を経験していない僕の耳でも分かった。ダナンが落ちてから一ヶ月しか経っていないというのに、僕の祖国はもはやその小さな輪の中にしか存在しなくなっていた。
 急に怒りが込み上げてきて、僕は口に出して毒づいた。畜生。薄汚れた政治屋どもめ、愛国者面をして反共だ自由だと吠えていたくせに、修羅場をミンひとりに押しつけて尻尾を巻いて逃げやがった。こんなどうしようもない国から搾り取れるだけ搾り取って。ツケぐらい払ってから消えろってんだ。この僕だって、酒場のツケを払わなかったことは今まで一度も無いんだ。
 また砲声が続いた。何発かは遠くない場所に着弾したようだった。いっそのこと、今すぐここに落ちやがれ。蝿や、蚊や、泣いてる子供もろとも、僕を吹き飛ばしてくれ。
 河岸のほうで上がった数発の照明弾の光が、通りを染めた。照明弾の数だけ、重なり合って僕の影ができる。昼間と同じ街並みが青白く浮かび上がる。ほんの数週間前までこの通りを満たしていた洗練された雰囲気の、その亡霊が現れたように思えた。家並みの間から見えるカトリック聖堂の塔がやけに白い。
 そのとき僕の目に、ホテル・ヴィル・ヌーヴの看板が入ってきた。
 そうだ。たしかあそこには、最上階から街を見下ろせる涼しいバーがあったはずだ。こんな蒸し暑い、虫どもがうるさい夜に、よく冷えたカクテルを飲むというのは悪くない思い付きだった。今夜なら、ひとつの共和国の滅亡という世紀のショーまでおまけについてくるかもしれない。南ベトナム最後の夜。こいつはそうそう見られるものじゃない。
 思いがけないことに――いや、酔った頭ではさほど意外でもなかったのだが――ホテルのドアは簡単に開いた。ロビーの明かりもついていた。いつもの初老のドアボーイが僕に一礼した。
「いらっしゃいませ、ムッシュー・グエン」
「やあ、バーは開いてるかい?」
「申し訳ございませんが」ドアボーイは眉を曇らせた。「エレベーターが止まっておりますので、バーまでは階段をご利用いただけますでしょうか」
「じゃあ飲めるんだね」
「当ホテルのバーに休業日はございません、ムッシュー。ただ、エレベーターのことではご不便をおかけしまして申し訳ありません」
「気にするなよ。酔いざましにはちょうどいい」僕はドアボーイの肩を叩いた。「君にまた会えてうれしいよ」
「わたくしも――」と言いかけて、ドアボーイは急に泣きそうな顔になった。「――ふたたびお目にかかれるとは思いませんでした」
 僕はドアボーイに手を振って、フロントの横の階段を上がっていった。階段の明かりはすべて消えていた。踊り場の窓から、照明弾の光が強まったり弱まったりしながら、サーチライトみたいに下から上へ古びた壁を照らし出していた。何度か、建物全体を揺るがすような砲声が響き、僕はそのたびに階段を踏み外しそうになって舌打ちした。
 五階にたどりつくまでに、ずいぶん汗をかいた。実際いくらか酔いがさめてしまったようだ。これは飲みなおさなきゃ。そう思いながら僕はバーのドアを押した。
 暖かく、控えめな色の照明。天井でゆったりと回る扇風機。レコードプレイヤーからはチン・コン・ソンか何かの甘ったるいメロディー。バーは二か月前に来た時と何も変わっていなかった。僕が足を踏み入れた瞬間に、遠くで着弾したロケット砲の火球が店内を明るくした。客は一人もいなかった。まあ、この時間なら珍しいことじゃない。
「いらっしゃいませ、ムッシュー」若いバーテンダーがぼくに微笑んだ。「いつもの席になさいますか?」
「今日は景色が見たいな」と僕は言った。「窓の近くのテーブルに行くよ。飲み物はいつものでいい」
「申し訳ありません、あいにく、ライムを切らしておりまして……」
「何が出来るのか、って聞いた方が早いのかな」
「恐れ入りますムッシュー。ビールならご用意できますが」
「仕方ないね。腹がふくれるから嫌なんだが」
 僕は大きな窓のそばの椅子に座って、外を眺めた。対空射撃の曳光弾が暗い空に幾筋も飛び交っていた。政府軍だって何もしていないわけじゃないらしい。そりゃあまあ、そうだろう。アメリカさんからあれだけお餞別をもらったんだ。多少の悪あがきをする程度の貯金はあるはずだ。まったく、持つべきものは良き友だね。
「お待たせしました」
 瓶とグラスを持ってきたのはバーテンじゃなかった。白いアオザイに身を包んだトランだった。それで僕は、自分が誰よりも会いたかったのは彼女だったのだと思い出した。本当にそうなのか分からないけど、そう決めることにした。そう思ってるほうが楽しいじゃないか。今となってはどっちでも同じだ。
「トラン、君も飲むといいよ。一緒に夜景を楽しもう」
「ありがとう。機嫌がいいのね」
 トランは一旦カウンターに戻り、もう一本のビールとグラスを持って来た。そして僕の向かいに座った。
「乾杯しよう」と僕は言った。「ベトナム共和国に!」
「……ベトナム共和国に」
 そして僕らはグラスを合わせた。ぬるいビールだった。こんな夜だ。まあ、ぜいたくは言うまい。
「もう来ないと思ってたわ」とトランが言った。
「プレゼントのことで言い合いをしたからかい? よせよトラン、僕はそんなに心の狭い人間じゃ……」
「バカね。冗談言ってる場合?」
 トランの眼が真剣だったので、僕はちょっと酔いがさめてしまった。
「そんな顔するなよ。可愛くないな。おふくろみたいだ」
「とっくに飛行機に乗ったと思ってたわ。あなたなら航空券なんて簡単に……」
「見ろよ、空港がまだ燃えてる。石油の高いご時世だってのに、もったいないな、まったく」
 ぼくはタンソンニャットの方向を指差して言った。うす赤い光が見える。本当にそれが燃えている空港なのかどうかは分からない。でも空港が陥落したことは誰でも知っている。
「アメリカ大使館へ行かなかったの? グエン上院議員と一緒なら、空母にだって乗せてもらえるかもしれない」
「親父なら、もうおふくろや兄貴たちとロスアンゼルスに着いてるころさ。僕が見つからないからって、探しに戻るような人たちじゃないからね」
 僕はビールをぐいと喉に落として、グラスを置いた。
「話を変えてもいいかい、トラン? そんな話じゃビールがおいしくないよ」
「いいわ」トランはため息をついた。「何の話をしたいの?」
「海へ行きたいね」と僕は言った。「ニャトランでも――ニャトランはもう北軍に取られたんだっけ? まあ、どこでもいいや。どこかビーチへ行って、もっと冷えた飲み物を飲む。この際だから、ビールでもいい。ぜいたくは言わないよ。君はどう?」
「あたしは嫌い。陽に焼けるもの」
 照明弾がバー全体を真っ白にした。壁にシミがあるのが見えた。トランは赤い目をしていた。バーテンダーが追加のビールを持ってきた。
「じゃあトラン、映画は好き?」
「そうね。フランス映画なら」
「フランス映画は僕も好きだよ。よし、今度一緒に行こう。ただ、上映前にニュース映画が入るのだけは何とかならないのかな。あれ、時々うちの親父が映るんだ。これから映画を楽しもうって時にさ、見たくもないよ」
 トランはくすくすと笑った――のだと思う。すすり泣いているように聞こえないでもなかった。
「ビーチが駄目なら高原はどうだい。ダラットに親父の別荘がある。子供のころからいつも遊びに行ってた。親父もおふくろもアメリカに行っちまったし、君を連れて行ったって、もう誰にも文句を言われないよ。良いぜ、涼しくて。フランス人が置いていったワインのコレクションもある。たしかうちのガレージにまだプジョーが一台残ってたから……。待てよ、ダラットも陥落したんだっけ?」
「そうみたいよ。だけど、どちらにしてもそんなに酔ってちゃ運転できないわ」
「どれもいいワインだったんだ。味の分からない北部の田舎連中にはもったいない」
「どうせならうちの店にゆずって欲しかったわ。北の将校さんたちにここで祝勝会を開いてもらえたのに」
「それもそうだね」
 ぼくがうなずいたのと同時に、強い閃光が部屋を満たした。ほぼ同時に地響きがグラスを震わせ、レコードの針が飛んだ。窓ガラスにぱらぱらと砂粒のようなものが当たる音がした。「今のは近かったですね」バーテンダーが走ってきて窓の外を見下ろした。何百メートルか先の街区が赤い炎に包まれていた。
「ロケット弾だ」僕は舌打ちした。「貧乏性だな、北の連中は。明日には全部自分たちのものになるっていうのに、待ちきれないのか」
「そうよ。待ちきれないの」とトランは言った。「わたしも農家の娘だから、分かるわ。いま食べないと誰かが食べちゃうんじゃないかって心配なのよ。だからあの人たちは共産主義者になるの」
「今までに僕が聞いた中でいちばん優れた政治理論だよ、トラン。おかげでやっと――」
 ぼくが会心のジョークを言い終えるのを待たずに、トランが口を開いた。
「これからは、あなたのお父様たちの代わりに、あの人たちがこの国の主人になるのよ。あなたそんな人たちとうまくやっていける?」
「今の僕には無理だけどね」笑いがこみ上げてきて、僕の口から漏れた。「あちらさんの方で再教育キャンプに入れてくれるさ。キャンプって好きだよ。アメリカに一年間留学してたことは言ったっけ? あのときはよくキャンプをしたな。誰とだって友達になれる。たぶんベトコンとだって」
「あなたバカよ。どうして逃げなかったの? ……きっと殺されるわ」
 今ではもうはっきりしていた。トランは泣いていた。バカな僕のために? この腐った首都のために? 空っぽの共和国のために? ――まあ、いいや。どれだって同じだ。この国はこの街であり、そしてこの僕なのだ。民族を育んだ土を離れ、アメリカから降ってくる金と、同胞の血によって、醜く、幸せに育ったこの僕なんだ。
「ありがとうトラン」
 肩を震わせているトランの手に、僕は軽く触れ、そして離した。
「やっぱり、少しだけ一人にしてくれないかな。三十分でいいよ。一人で飲みたいな」
 トランはうなずいて立ちあがった。
「ねえトラン、このバカ騒ぎが落着いたら、ほんとに二人でどこかへ遊びに行こう」
「そうね。もし行けるなら……」トランは僕に背を向けて、ちょっと肩を上げた。「……ビーチでもいいわよ、別に」
 カウンターへ去って行くトランの細い後姿を、照明弾の光が純白に浮かび上がらせた。それは僕の眼に焼き付いて、いつまでも消えなかった。トラン、君に指輪をあげたことがあったっけ?
 僕はひとりで飲みつづけた。酔っているんだ、涙が出ていたとしても不思議は無い。ぼんやりと光がにじんだ断末魔の首都を見下ろしながら、僕はひとりで飲みつづけた。
 僕はこの腐った街が好きだった。この街の夜、柔らかいユエ訛りの女の子、歌、ダンス。烏のようなヘリの群れ。正気を失ったように陽気な米軍将校や、人殺しの眼をした報道カメラマン。ショロンの胡散臭い金持ち華僑たち。ナパームと照明弾。名前は忘れたけど、フォアグラのおいしい、テロで吹き飛んだレストラン。くたびれたフランス女。坊主のバーベキュー。雨のように降り注ぐ酒と、あふれかえる援助資金。南ベトナム、サイゴン。腐った果実の甘い匂い。このどうしようもない国のどうしようもない首都で、偉大なる「民主主義」の庇護の下にあって、同じ肌の色をした何百万の苦しみの上で、徴兵逃れの馬鹿なお坊ちゃんと呼ばれながら、ぼくは楽しかった。この上なく幸せだった。アメリカ? 亡命政府? 馬鹿言え。あの父親と一緒に、今まで以上に乾いた嘘の中で生きろって言うのか。嘘の国で、嘘の人生を二十五年も生きたんだ。もうこれで充分じゃないのか。
 僕はグラスを手に、窓に向かって立った。色とりどりの光が首都の上を飛び交っていた。北軍の将兵諸君、さあ、こっちを見たまえ、僕を撃ってくれ。解放戦線の同志たちよ、僕は君たち農民に借りを返さなきゃならない。昔集めたビートルズのレコードは全部、君たちに進呈しよう。ハノイで流行らせてくれ。プジョーのキーはどこに置いたんだっけ? 見つけた奴にやるよ。あれは悪くない車だぜ。
 僕は知ってるんだ、君たちは正しい。だけど僕は君たちの同志にはなれないだろう。僕は何百万人もの君達の血をすすって生きてきたのだ。それに、君たちのテーブルマナーには我慢がならないよ。でも君たちには、この腐敗しきった首都ともども、僕を吹き飛ばす権利がある。義務がある。トラン、君でもいい。君が僕を終わらせてくれるなら――。
 目の前が明るかった。今までに一度も見たことが無かったほど強い光だった。そしてその光は、いつまでも消えないのだ。

 分かるだろう、トラン、僕はこの国の湿った空気が好きなんだ。この空気の中では、何もかもが甘い匂いを放つんだ。

縁側と舟

 右手には青い闇に沈んだ庭があった。左側は明かりの無い座敷だった。その境界をなす縁側で、柱にもたれ、足を投げ出して座っているのだった。
 真暗闇ではない。雨上がりに月でも出ているのか、木の葉や庭石に光の点が散らばっている。黒光りする敷板に、投げ出された裸足の両足が白く浮かんでいた。
 座敷は広い。二十畳ほどあろうか。そのあちらこちらに、布にくるまって眠る人影がある。大きい者や小さい者。体を横に向けあるいは背中を丸め、誰も顔を見せない。男か女かも分からない。幾人かは布の端から黒い髪を少しのぞかせていた。
 もはや痛みも無く、苦い思いも無かった。ただ懐かしい。みな気心の知れた親しい人ばかりだ。ひとりびとりを誰が誰とは見分けられなくとも、そのことは確かだった。
 暗い座敷の奥には、水墨画の襖絵がぼんやりと見えた。白砂に松原、帆掛け舟が一艘浮かんでいる、霞んだ浜辺の風景。見覚えのある絵だったが、どこかの寺院で実際に見たのか、画集で目にしたのか、それとも絵ではなく実景を見たのだったか、判然としなかった。
 細部の情景は暗くてよく見えないが、たしか霧雨が降っていたはずだ。そしてあるかなきかの風を筵帆に受けて進む舟。鏡の如く凪いだ水を、舳先がさばさばと切る。編笠姿の船頭は、うつむいて面貌を見せない。舵を取る腕は、袖のない着物からするりと伸び、胸がひやりとするほど細く、白かった。
 霞の底に水面が広がる。見やると船頭は目の前にいる。笠の縁から口元だけがのぞく。青白く薄い唇。長く黒い髪がはらりと垂れ、その幾筋かが微風にあおられて、濡れた笠の縁にはりついた。
 背筋を激しく打たれたように、
 ――この人を、知っている。
 と気づいた刹那、ひぃーん、と硝子を撫でるような響きを聞いた。
 静けさが戻ると、船頭も舟も景色もすべて元どおりに薄暗い襖絵の中に沈んでいた。
 今の音は何だったのか。庭の石灯籠の辺りから聞こえた。生き物の声のようであった。ひぐらしの鳴く声にも似ていた。夢にうなされた少女の、声にもならぬ声とも思えた。
 薄闇の座敷は、今はまた全き静寂のなかにあった。
 二十人近い人がいるのに、衣擦れや寝息さえ聞こえないのだった。あるいは、もはや彼らとは違った理のうちにあって、互いに界を異にしているのかもしれなかった。
 寂しかった。誰かと声を交わしたかった。この中の、誰にでもいいから、せめて別れを告げたかった。
 寝ている人影の中で最も近くにいるのは、細い身体を黒っぽい毛布にくるんだ小柄な女性、もしくは少年だった。丸めた背中をこちらに向けて、微動もしない。
 誰だろう。幾人かが思い当たる。いずれもごく近しい相手だった。その中のひとりに違いないのだ。少し手を伸ばせば、その肩に触れることも、毛布をめくって顔を見こともできたろう。しかしそうすればこの静かな時は永久に消え去ってしまうかもしれない。
 彼らと顔を合わせ、言葉を交わすことは二度とできない。そう納得せねばならないのだろう。こうした時間が与えられただけでも幸いなことなのだ。
 暗い座敷を目を凝らして見渡す。誰も身体を丸めて石のように動かない。床の間の掛け軸には細い筆で何か書かれているようだったが、はっきりとは見えなかった。奇妙に崩された二文字は「未生」とも読めたし、「未来」とも「来世」とも「本来」とも読めるようだった。
 それより他には家具も調度も無い。床脇の違い棚に置かれた白っぽいものは、目を凝らすと置物でも陶器でもなく、丸めた衣服らしかった。
 誰かが脱いでそのまま置いたような服。それだけがこの美しい空間と時間の調和を乱していた。
 グレーのパーカーのように見える。遠い呼び声のごとく、記憶が胸を打つ。この中に、あの子がいるのか。
 そうだ。そうに違いない。あの子が寝る前に脱いで、丸めてあの違い棚に置いたのだ。グレーのパーカーを。そうに違いなかった。
 静寂を乱さぬように座ったまま目で探す。この十何人かの中にあの子がいる。考えてみれば、いない筈が無いのだ。どこかに……どこに? 体形の極端に違う者はすぐに除外できる。では床の間の前で寝ているのがあの子か。でもあの子はもっと手足が長かった。部屋の中央でうつ伏せになっているのは? それともやはりパーカーのいちばん近く、違い棚の下で体を折り曲げているのがそうなのか。
 それらしき姿を三、四人にまで絞り込むことはできたけれど、そこまでだった。どれもあの子のようであり、だがやはりどれも違うように思われて、そうなると違い棚に置かれているのがあの子のパーカーかどうかも怪しくなってくる。ここにあの子がいない筈が無いという確信だけが残り、見つけ出すことはやはりできないのだと悟った。
 だがとにかく、あの中の誰かなのだ。その筈なのだ。いる筈なのだ。ひとつひとつの人影を、しばし見つめた。あの子でなくても、みんな誰かしら大切な人であることは間違いないのだ。
 この時間はいつまでも続かない。皆が目覚める前にここから消えなければならない。自分は遅れて来て、先に行く者だ。それは分かっていた。
 襖絵の舟が、少しずつ進んでゆく。微かな風を帆に受け、注視し過ぎると動きが見えなくなるほど、ゆっくりと。
 いや、そうではない。舟が進むのではない。舟の描かれた襖一枚だけが動いているのだ。
 開いてゆく。少しずつ、少しずつ。
 やがて現れた隙間の向こうは、黒漆で塗りつぶしたように真っ暗だった。
 徐々に広がってゆく四角な闇に目を凝らすと、そこにもやはり光はあった。オレンジ色の小さな灯火のようなものが、ぼんやりと見えた。しばらく見ていると消えてしまう。しかし目の力を抜くと、やはりそこにある。
 長方形の闇はさらに少しずつ広がり、何もかもを飲み込んでいった。襖も、眠る人々も、畳も床の間も、やがては縁側も庭も、なべて暗闇と成り果て、それでもなおオレンジの光はゆらゆらと揺れる。裸足の指先に触れるのはもはや磨かれた縁側ではなく、冷たく濡れた船底である。編み笠をかぶった船頭が、白くか細い腕で舵を取っている。凪いだ水の上を、オレンジ色の光にむかって音も無く、ゆっくりと進んでゆく。
 すとん。
 襖の閉じる音を背後に聞き、すべてが父母未生以前の闇に崩れ落ちた。
 何もかも分かっていた。船頭のこと、あの子のこと、あらゆる物事の意味さえも。しかしそれを口に出そうにも、もう言葉にも声にもならない。そこには縁側も舟も無く、光も影も形も無い。時間も、私も無い。

『門の掌編集 (-2013)』

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『門の掌編集 (-2013)』 N村Kタロウ 作

以前、他サイト様に掲載させていただいた掌編小説5篇を、こちらにまとめました。何年も前に書いた拙いものですが、ほんのお目汚し、ということでご容赦を。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-08
Copyrighted

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