私の戦後体験

 時子が死に、一人暮らしも板についたかなと思った瞬間、私はふいに淋しさを感じた。いや、淋しいとは少し違う。空しい、もしっくりこない。少し広くなったこの家で、誰にも会わずにただ料理の腕だけが日増しに上がってゆく生活は、なにやら滑稽である。そうだ、私と、この家と、私とこの家とのこの生活は、どうしようもなく滑稽に思えるのだった。どこがどうというわけではないのだけれど。
 そんな滑稽さをなんとかせねばなあと思いながらなんともしていなかった折、町の広報誌に掲載された「ボランティア募集」の広告に目が留まった。いわゆる「語り部」となる戦争体験者を募っているらしい。終戦日が近いこの七、八月中、町の小さな博物館の講堂で自身の体験を語ってもらうとのことだが、その語る内容というのが「終戦から現在までのご自身の歩み」だという。戦争体験そのものでも、戦後復興期の苦労といったものでもなく。私はこの手の活動に携わった経験がないのでよくわからないが、これはちょっと珍しいなと思った。私は広告に記載された番号に電話をかけた。
 「はい、○○町地域交流課ですー」電話に出たのは間延びした感じの声の男だった。
 「あー、夏休みの語り部ボランティア募集の知らせを見て電話したのですが」
 「はーい、ありがとうございますー。戦争体験者の方でいらっしゃいますね?」
 「はい。でも、話すのは戦争体験ではなくて…」
 「そうですー、戦後にどんな人生を歩まれたのかを語っていただきますー。町内にお住まいですよね? どのあたりに?」
 「ええ、三丁目に…」
 「あー、でしたら今ちょうど私、近くにいるんで、お宅にお伺いしてもよろしいですかねー? お名前は?」
 「えっ、園田清ですが…」
 「はーい、ありがとうございますー、失礼しますー」と言って男は一方的に電話を切った。まだ私はやると決めていたわけではなかったし、細かい住所も伝えていなかったのだが。どうやら話し方の割にせっかちな男であるらしい。
 十分後に現れた小太りの中年男は倉持豊と名乗り、私が慌てて用意した茶と羊羹を疾風のごとき速さで平らげた。私の簡単な生い立ちを小刻みに頷きながら聞き終えると、倉持氏は「では、来週から毎週土曜日に、よろしくお願いしますー」と言った。
 「いや、そのー、恥ずかしながら人前で長くしゃべった経験はあまりないのですが…練習みたいなものは?」
 「必要ありません」と倉持氏はきっぱり言った。「そこがいいんです。みなさん、普通の人の普通の話を聞きたがりますのでねー」
 そんなものだろうか、と半信半疑ながらも私は本当に本番まで特に何の準備もしなかった。倉持氏は「園田さんは土曜日になったらふらっと博物館にやって来て、適当に思いついたことをそのまま話してくだされば結構ですからー」とも言っていたが、果たして私はいつの間にやら聴衆の前に立っていた。若い家族連れが多いようである。父親より母親の比率の方が若干多い。大学生らしき人や中高年もぱらぱらと混じっている。講堂の入り口には「園田清氏、自身の戦後を語る」と立派な墨書きの文字で書かれた看板が立っていた。
 私は若くして南方の戦線に送られ、そこで終戦を迎えた。復員後は会社勤めも経験したがどうにも性に合わず、しばらく職を転々とした後、あるとき豆腐屋になろうと決意し、職人の下に弟子入りし、独立してこじんまりとした工場兼店舗を建て、ひたすら豆腐を作り続けた。数年前に店を畳み、昨年には妻の時子も亡くなって、今は一人で悠々自適の生活である…。
 といったことをつらつらと話してはみたが、人様に語るような内容もないため、十分足らずで話し終えてしまった。持ち時間は大体ニ、三十分程度で、と言われている。それならば、と思って私は戦争体験について話すことにした。終戦日に近いこの時期にわざわざ戦争体験者の講演を聴きに来ているのだから、やはり聴衆もこれを期待しているだろうと思ったのだ。
 一晩中聞こえてくる傷病兵の唸り声や叫び声、古参兵が下級兵に加える理不尽な制裁、栄養失調とマラリヤ、屍にたかるアリやハエ、うごめくウジ、極限の空腹の中でヘビやカエルを見つけたときの歓喜とその得も言われぬ美味さ…私はこうしたあれこれについては大人だけでなく子供たちにこそ聴かせるべきだと思っているので、一切の遠慮を抜きにして語ったのである。
 しかし、私は妙なことに気が付いた。聴衆の反応がすこぶる悪い。悪いというのは、話の悲惨さに辟易しているとか、子供に聴かせる話じゃないと親たちが憤っているとかそういうことではない。彼らは私が語る戦争の話にはまったく関心がないように見受けられる。目が死んでいる。身も心もここにあらずという感じがする。私は時子が「小説の情景描写っていらないと思うのよねえ」と言っていたのを思い出した。娯楽小説ばかり数多く読み捨てることを生きがいにしていた時子にとって、物語の筋と直接関係のない部分はただひたすら邪魔なだけだったのだ。目の前の聴衆にとって、私の戦争体験は時子にとっての情景描写と同じく読み飛ばされてよい代物だった。「ちゃっちゃっと話を進めてくれればいいのよ、ちゃっちゃっと」。
 私はいささか面食らった。これはこの町の人々の傾向なのか、それとも今どきの若い人たちというのはそんなものなのだろうか。
 こうした反応を見て、私は話を方向転換して豆腐屋稼業の魅力や苦労話などを披露し、「今の平和に感謝しましょう」といった月並みなまとめで語りを終えた。聴衆は暖かい拍手を送ってくれたし、倉持氏も「良かったですー。特に豆腐屋さんのお話は興味深かったですー」と言ってくれたので、まあ悪くはなかったのであろう。
 その次の土曜日には、私は前回の反省を生かして、自分の普通の人生を普通に話すことに集中した。しかしやはりそんな話ばかりでよいものだろうかという気持ちが拭い切れず、例えば、軍隊内のいじめや食糧難を引き合いに出しては、「同じ人間同士でいがみ合いや足の引っ張り合いをするのはよくないことです」とか「毎日おいしいご飯が食べられるだけでも幸せなことなのです」とか、そういう教訓めいたことも話してみた。そしてやはり聴衆は「ふーん」という唱和が今にも聞こえてきそうな顔でそれを聞き流すのであった。
 三回目以降、私は戦争体験についてほとんど語らなくなった。私自身にとってはどうでもよいと思われるような話に、聴衆は身を乗り出すようにして聴き入っていた。八月の最終土曜日、最後の講演には老若男女さまざまな人が集まった。いわゆるリピーターという者もいるようであった。
 
 私が豆腐屋になろうと決意したのには、あるきっかけがありました。私は一時期、タクシーの運転手をしておりまして、ある日、一人のパン職人を客として乗せたのです。彼は、この湿気の多い国でパンを作ることの難しさと楽しさについて語ってくれました。そして私たちは次のような会話を交わしたのです。
 「パンはいいよ本当に」と彼。
 「いいですか、パンは」と私。
 「うん、いいよ。パンはねえ、食えるからね」
 彼のこの言葉がずっと心から離れませんでした。このとき、私の中に「何か具体的な、目に見えるものを作って暮らしていきたい」という思いが芽生え、日ごとに成長していったのです。

 それがなぜ豆腐だったのか、私にもいまいちはっきりとしないのですが、実際に豆腐を作り始めてみると、どうやら豆腐作りとパン作りには通底するものがあるらしいということがわかってきたのです。
 そのパン職人によれば、毎日同じ品質のパンを作れなければ商売にならないわけですが、まったく同じパンを作るというのは厳密には不可能なのだそうです。気温や湿度は毎日変わりますし、また加える水の量や硬度、生地をこねる強さ、速さ、発酵にかける時間など、様々な要素の微妙な変化によって、毎日違うパンができあがるわけです。
 豆腐作りも同じことで、一丁として同じものはないとさえ言えるのです。豆腐は八から九割が水でできていて、水質・水温の管理が極めて重要になります。大豆を一晩水につけておくのですが、この仕込みの時間を夏は短めに、冬は長めに取り、さらにその日の気温によっても微調整します。また、大豆はたとえ同じ産地のものであっても年によって出来が違いますし、収穫された大豆は一年の間にどんどん性質が変わっていくものなので、それに合わせた作り方を模索していかなければなりません。「これが私の作った豆腐だ」と胸を張り続けるためには、毎日同じことをしているだけではいけないのです。
 とはいえ、豆腐作りの工程は実にシンプルで、誰にでもできるものです。大豆をすりつぶし、それをゆで、濾してできた豆乳ににがりを加えて固める…しかし、そうした一つ一つをいかに丁寧に行うかで味に大きな違いが出てくる。これがたまらなく面白い。
 朝は早いですし、作業場はサウナのような暑さになり、またかなりの重労働でもあります。しかし、毎日毎日、必ず成果が出る。作れば、必ず形になる。それも、食べられるものとして。こうしたわかりやすさが、どうやら私の性に合っていたようなのです。

 最近は様々な豆を使った料理の探究に凝っておりまして、自宅でも豆を栽培しております。大豆、小豆、いんげん豆、さやえんどう…もとは妻が始めたものをしぶしぶ引き継いだ形ですが、これがやめられなくなった。大豆はただ煮るだけでもおいしいですし、カレーやチーズオムレツなどに入れるのもいいですね。小豆は赤飯や善哉に、かぼちゃやさつまいもと一緒に煮るのも手軽でよい。金時豆の甘煮なんかもたまに作りますが、これはお茶うけに最適です。
 それにしても、豆類というものの変身の仕方には目を見張るものがあります。大豆ひとつをとっても、豆腐に納豆に味噌に醤油にと様々な形に生まれ変わるのです。あの小さな一粒にそんな魔法のような力が込められているとは、我々には想像することさえ難しい。いや、魔法などという言葉を使うのは先人たちに失礼でしょう。これは長い年月をかけて人類が培ってきた知恵であって、私の豆腐作りなどはその遺産の上にただ乗っかっているに過ぎないのかもしれません。
 でも私は、それがどれほどささやかなものであれ、何かを破壊するよりは創造する側にいたいと思うのです。何かを作り続ける人間に、他人を傷つけ、損ない、嘲笑うような時間はないのです。私にはそんな暇はありませんでしたし、これからも決してありません。皆さんもそうでしょう?

 九月のある日、倉持氏がやって来た。暑さもやわらいできたというのに大きなハンカチで額の汗をせわしなく拭いながら、「今ちょうど近くに来たものでー」と彼は言った。私はお茶と金時豆の甘煮を出した。倉持氏は「ほう、これが例の」と小さく叫んでそれを掻き込んだ。
 倉持氏は、講演のアンケートに書かれた感想をまとめたものと、私宛の手紙を持って来てくれたのだった。講演はおおむね好評だった。戦争体験についてもっと聞きたかった、という要望はなかったようだ。変わった人たちだ、と私は思った。
 講演を終えてみて、私の一人暮らしの滑稽さが薄まったのかといえば、むしろ逆で、このまま、滑稽なままでよかろうという思いが強くなっていた。ますます豆を育ててやろう、ますます凝った料理に挑戦してやろう、と私は思っている。
 手紙は、「自分も語り部をやってみようかなと思いました」という年配の方からのもの、女子高生からのかわいい丸文字のもの、短いもの、長いもの、様々だった。小学一年生の男の子がこう書いていた。「ありがとうございました。とおふはおいしいです」。それだけ伝われば十分だ、と私は思った。

私の戦後体験

私の戦後体験

私は戦後体験の語り部になった。戦争体験ではなく。4,855字。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-17

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