蚊の舞う季節

 新聞広げた素人批評家も、前のめりな裁判員も、安保だなんだと騒ぎ立てる人も、みんな間違っている。
 この世で最も恐ろしいことは、誰かが誰かに殺されることじゃない。誰かが誰かを殺すことだ。

 今日、僕は一匹の蚊を殺した。
 朝一の眠たい授業のことだった。
 大学の退屈な講義が半分くらい終わったときだ。一匹の蚊が、僕の教科書の上に落ちるようにして留まった。もし留まったのが、腕や脚であれば、僕は何を考えることもなく、半ば反射的に叩き潰していただろう。けれども、やつが居座ったのは、僕の綺麗な教科書の上だった。
 勉強しない白のままの教科書に、黒い点はよく目立った。
 確かにそれは、目障りではあったので、吹き飛ばしても良かった。
 でも、ただなんとなく試してみたくなったのだ。今本を閉じたらどうなるのかと。
 僕は蚊が突然のことに驚き飛び去ることを半ば信じて、その本を閉じた。
 けれども蚊は僕の悪意に気がつかなかった。慌てることも逃げることもなく、ただ、最後の一瞬こちらを見上げたかと思うと、本が閉じ、僕の視界から蚊は消えた。
 再び本を開けるとひしゃげた蚊が露わになった。腹の中がぶちまけられ、濁った赤が白いページにこびりついている。手足は引き裂かれ、もはや身体とは繋がっていない。僅かに揺れている羽が、辛うじて蚊がまだ生きていることを示していた。いや、ただ空調の風に揺れていただけなのかもしれない。
 本が閉じられる前の一瞬、あの蚊は確かに僕を見た。僕の瞳に一体何を見たのだろうか。

 二週間ほど前、僕の住むアパートで心中事件があった。
 死んだのは、同棲していた大学生二人。僕の真上に住む二人だ。
 僕はその日、一限から授業があって、その上、サークルの飲み会で、家に帰ったのも遅かったので、それを知ったのは全てが片付いた後だった。
ー救急車とかパトカーとか来て、大変だったんだぜー隣のやつが言っていた。
 その日からしばらくアパートには警察官が出入りした。けれども、それ以外に僕の日常に大きな変化はなかった。
 顔くらいは覚えているし、キャンパスの広場で二人がサークルの練習で踊っているのを見たこともある。それでも名前すら知らない二人だ。死のうが消えようが、僕の世界に変化はない。さして興味もなかった。
 事実、僕にはなんの関係もない話だ。
 それが二日前までの真実だった。

 一昨日のことだ。
 生温い風を全身に受け、まだ酔いの醒めきらぬ気怠い身体を引き摺り、僕は家に戻った。
 僕のアパートは公園の奥にある。大学生ばかりが住む安アパートだ。学校に近いのが唯一のとりえで、その他にこれといった魅力はない。
 公園の雑草の茂みをかき分けたそこに現れるそれは、三階建てで、古くひどくボロかった。
 その日も、公園の電灯の下には羽虫が群がっていて、僕はその下を通り抜けなければならなかった。そうしてその電灯の下を通った時に、僕は向こう側のベンチに横たわる黒い塊を見たのだった。
 自然と事件のことが思い出されて、背筋を冷たい汗が伝って落ちた。もしや良からぬものを見たのかと思い、僕は息を殺して、それに近づいた。
 しかし、近寄ってみるとそれは少なくとも幽霊ではないということに気がついた。それは生きている人間であった。酔い潰れて寝ているただの女子大生だ。僕はそっと胸を撫で下ろした。人間の塊は少しだけ膨らんだり縮んだりもしていて、息をしているのが見て取れた。とりあえず、死んではいない。耳元には空のビール缶が置いてあった。
 闇に目が慣れて、顔が見えてくると、見覚えのある顔であることにふと気がついた。そうして、しばらく考えてから、同じゼミの林原だと思い出した。
 僕と林原はとりわけ仲が良いという訳ではない。ゼミで会えば、挨拶したり軽い話をしたりするという程度だ。とは言え、僕は彼女に悪い印象を抱いたことはなかった。ダンスサークルに入っているそうで、丁寧な化粧こそしているが、過度に華美だということはなく、日々の服装といい、立ち姿といい、都会の洗練されたお嬢さんといった感じの子で、その振る舞いには常に気品があった。
 しかし今は乾ききたった唇を間抜けに開き、そこからぬるい息が出たり入ったりしている。洋服こそ白ブラウスに橙色のプリーツスカートと洒落たものを着ていたが、その服にはあちらこちらに枝や葉が貼り付いていたし、ところどころ泥汚れもついていた。一目で気が付けなかったのも無理はない。
 飲み会帰りに酔いに耐え切れなくなり、公園で一休みしようとして、そのまま寝てしまったというところだろう。
 見てはいけない気がした。けれども、このままにしておくのも躊躇われる。この辺りも決して治安の良い地域だとは言えない。
 僕は二三度彼女を揺すった。彼女はむっくりと起き上がり、焦点の合わない目を瞬かせた。
 僕が覗き込むとようやく彼女と目があった。
「あれえ、三芳君。かんなのころで、だうすたん」呂律の回らぬ声で彼女は言った。
 僕からもいくつか尋ねたが、まったく言葉を理解していないようで、僕が目の前で、明らかな溜息をついても、意に介さなかった。
 彼女の髪から鼻をつくアルコールの臭いが放たれていた。飲んだのはこのビール一缶だけではないだろう。
「ちょっと、僕は水を取ってくるから、いいね」僕は彼女にそう言い聞かせ、部屋に戻ろうとした。
 しかし、一歩踏み出したとき、急に、夜風に冷やされた彼女の指が、僕の手首を掴んだ。
「え、行かのいで。行けのいでよ。あだしを一人にしのいで」彼女は急にしゃくりあげ、僕を強く引っ張った。振り払えば、倒れてしまいそうなか弱い腕だった。
 僕はまた溜息をつき、手首に絡まった白い指を一つ一つ解いていった。
「わかったよ。じゃあ、一緒に来るかい。ここにずっといるわけにはいかないだろう」彼女は幼子のように、こくりと頷いた。
 僕は空の缶を握りしめた彼女を支えながらアパートに向かった。明らかに酔いを感じさせる千鳥足の彼女が、足元に乱雑に並べられた鉢植えにぶつからないように歩くのは大変だった。
 僕のアパートは公園の奥に入り口がある。入り口には安っぽい門が設置されていて、真っ黒なペンキをテカテカに塗られたその門は、夏になるといつも生い茂る雑草に隠されて、埋もれてしまていった。僕はなんとか彼女をその門まで連れて行くことができ、ほっとした。
 しかし門の前に立った時、不意に彼女の足が止まった。
「いやだ……。いやだ、入りたくない」彼女の足が小刻みに震えている。軽く肩を叩いても押しても、前に進もうとしない。
 彼女の勝手さに苛立ちを感じ、大きく空気を吸い込むと水気を含んだ花壇の土の匂いがアルコールと混ざり鼻を刺激した。公園のベンチに戻そうとするなら、またあの酔っ払いを抱えて茂みを通り抜けねばならない。面倒臭いことこの上ない。
 僕は仕方なく強く彼女を門の向こうに押し込んだ。するとなんだか、目の前に現れたボロのアパートに、お前は悪いやつだと睨まれているような気がして、僕が悪いわけじゃない、それじゃあ、どうすればいいんだよと心の中で毒づいた。とはいえ、本当に誰かに見られていたら、変な噂になるだろう。早く入らないと面倒だ。
「嫌だも何も、君が来るって言ったんだろう」僕は今度は腕を引っ張って連れて行き、半ば強引に僕の部屋に押し込んだ。
 けれども、部屋に入ってしまうと彼女は嫌がらなかった。靴を脱ぎ捨て、よたよたと部屋に駆け込んだ。そして部屋の中央にぺたんと座り込み、なんだか急にご機嫌になって、鼻唄を歌い、上の服を少しだけ捲り上げた。
「見て。おへそにピアスあけたの。可愛いでしょう」赤く腫れあがった腹に、金属が刺さっている。その先についているガラスの飾りはいかにも安物と言う感じで、彼女にその不清潔なピアスが似合わないことは明らかだ。
「ねえ、可愛い? 可愛いでしょ?」僕は黙って首を振った。彼女はわからないといった顔をした。
 突然に左腕に刺すような痛みを感じ、見るとそこに蚊が止まっていた。さっきドアを開けた時に、一緒に入り込んだのだろう。
 僕はすっと右手を振り上げた。けれども、その手が蚊を叩き潰す前に、立ち上がった彼女の掌が僕の手首を受け止めた。さっきまでの彼女からは想像できない、素早い動きだった。彼女の指はしっかりと僕の手首に巻きついており、手は上にも下にも動かせなかった。
「殺すなんてだめよ。蚊だって生きてるんだから。殺したりしたら後悔するよ」彼女は唇を軽く尖らせて言った。
 僕の血を目一杯吸った蚊は、自分の体を支えきれないようで、酔ったようにふらふらと飛び上がったが、一瞬目を離した隙に、どこへ行ったかわからなくなった。
 彼女は僕の手を離し、大きく伸びをした。
 全く僕はどうしていつも酔っ払いの介抱ばかりさせられることになるのだろうか。内心毒づきながら、僕は冷蔵庫で冷やしておいた水をコップに注ぎ、彼女に手渡した。彼女はそれをぐいぐいと喉を震わせて飲み、幸せそうな顔をした。
 そして暫くは、持ってきた空き缶を指先で弄びながら、よくわからない鼻唄をずっと歌っていた。けれども、段々とそれは鈍くなってゆき、最後はこくりと項垂れ、缶をフローリングに落とした。中身が空気だけになったアルミ缶は、高めの音を立て、床に衝突したが、彼女がそれに気づくことはなく、座ったまま眠ってしまった。
 本日もう何度目かもわからない大きな溜息をついた後、僕は彼女のポシェットを肩から外し、それから彼女の両脇を抱え込んで、小型のソファまで運び上げた。彼女は激しく揺さぶられたはずだったが、それでも目を覚ます様子はなかった。ポシェットは彼女の足下に置き、風邪をひかないように、タオルケットもかけてやった。
 そこまでしてから、僕は、自分の寝る支度を整えて、漸くベッドに這い登った。
 彼女のアンバランスな言動を理解するには、僕の頭は疲れ過ぎていて、苛立ちと混乱だけが残っていた。大切な何かを見逃している気はするのだが、考える余力はもう既になかった。乱れた脳内を整理しようとする内に、僕は浅い眠りに落ちていった。

 淡い朝日がカーテンの隙間から部屋に侵入する頃に僕が目を覚ましたのは、その朝日のせいではなく、部屋に人の動きを感じたからだった。
 薄っすら目を開くと、ちょうど林原がソファの上のタオルケットを畳んでいるところだった。それで僕は昨日のことを思い出した。
 タオルケットの四角を丁寧に揃えて畳み終えると彼女はすっと背筋を伸ばし、玄関に向かって歩き出した。
「帰るの」僕はベッドの中から彼女の背中に声をかけた。
 彼女は足を止め振り返った。
「起こしちゃった?」僕の質問には答えずに、彼女は言った。
「まあね」僕は答えた。
「昨日、あたし、変なことしたり、言ったりしてない?」
「まあ、なんというか、ね。覚えてる?」
「思い出さない方が、いい気はしてる」彼女は苦笑した。
「まあ、そうだよね」愛想笑いをしながら、僕はベッドに腰をかけた。
「迷惑かけて、ごめんね。帰るね、あたし」彼女は軽く右腕を挙げ、左手でドアノブを掴んだ。
 そこで僕は、ここを去ろうとする彼女の横顔が美しいことに気がついた。そして、なるほど、それは彼女が化粧をし直したからなのだと理解した。昨日の薄汚れた顔を拭き落とし、新たな仮面をかぶっていた。家に帰るだけの今、そんなことをする必要なんてないのに。
 もしかしたら。僕は思った。今まで、僕が偶然綺麗な林原しか知らなかったのではなく、僕が昨日見た林原こそが特別だったのではないか。常に美しい仮面を纏った彼女が、本当の彼女なのではないのか。
 僕はそこでようやくある可能性に気がづいた。可能性には過ぎなかったが、だとすると昨日の彼女の異変も納得できる気がした。
「待って」僕は彼女を呼び止めた。
 彼女が首を傾げる。
「なあ。死ぬなよ」
「何それ? どんな冗談? 縁起でもないからやめてよ」彼女は顔の前でひらりと手を振って笑って見せた。
「でもさ、鳥肌が立っているよ」僕が腕を指差すと、彼女は咄嗟に己の腕を抱いた。そのまま、僕が目を彼女から逸らさないでいると,彼女は俯き呟いた。
「殺してくれてもいいのよ」
「殺さないよ」
「殺してくれたら嬉しいよ」
「殺さないよ」
「そうね。いいや。ただの、冗談」彼女は髪をかきあげ唇を強く噛んだ。
「聞いてもいいかい。先日の心中の一件のこと。今思い出したんだ。死んだ彼らと君が同じサークルだったってこと」
 彼女の白い顔が青くなった。血の滲んだ唇だけが、顔の中でいやに明るかった。
「知りたいの?」
「教えてくれるのなら」
 彼女は暫く何かを考えている風に黙っていた。暫く黙って、黙った後に一呼吸して、彼女は唸った。
「二人をあたしが殺したの」
 壁時計の秒針が部屋に煩く響いた。
「美波がね……このアパートに住んでた彼女よ。美波は和哉だけでなく、歩とも付き合っていたの。歩は知ってる? ドイツ語の授業でいつも左端に座っていた子いたでしょ。彼よ。私、美波と歩のことを和哉に言ったの。そしたら、美波と和哉、二人で死んじゃったの。全く嘘はついてないのよ。もちろん、美波を裏切るつもりもなかったわ。あの子にも幸せになって欲しかった。でも、私も幸せになりたかった。全く馬鹿な話よね」彼女は冷たく笑った。
「君が、和哉君と付き合いたかったから、美波さんの浮気を彼に訴えたの?」僕の問いに彼女はそうだと頷いた。
「ついこの間ね、歩にね、私が自殺の原因だって言ったの」
「そしたら、なんて」
「死ねって」透き通った声が部屋に響いた。
「勿論、その日の晩に、ごめんって書いたメールが何通も来たよ。悪いのは俺だからって。でも、あれはあの時の本音だったんだろうなって」
 彼女は落ち着いた様子で、荷物をまとめ、小さなポシェットを肩にかけた。
 玄関まで行き、清潔感のあるパンプスを履き、細い指をドアノブにかけ、僕を振りかえった。
「じゃあ、帰るね」
 僕は再び言った。
「死ぬなよ」
「死ねないよね。私に歩は殺せない」彼女は哀しく微笑んだ。

 林原が家に来てから一週間ほど経った。昨晩、部屋を掃除していると溜まっていた電気料金の請求書やらなんやらの葉書の間から白い封筒が滑り出てきた。
 届いたことに気がつかず、放置していたらしい。切手さえ貼られていないその封筒の宛名は僕の名になっていたが、送り主の名は書いていなかった。
 封筒の端をハサミで切って、中身を取り出すと、白い便箋が一枚と、コピー用紙で作られた小さな封筒が出てきた。
 僕は先に便箋を手にとって目を通した。真っ先に目に入ってきたのは神崎美波という名だった。
 それが林原のいう彼女のことだということは直ぐにわかった。
ー自分は所用でもうすぐ家を空けるつもりだが、もし、いない自分を訪ねて来る人がいれば、同封した封筒を渡してほしいーそれが、その手紙のあらましだった。
 僕は震える手で、もう一つの封筒を破き開いた。封筒は大きく乱れて破けたが、便箋は傷付けずにに、取り出すことができた。
 宛名は書いていなかった。それは、本当に必要最低限のことだけが書かれた遺書だった。
ー以前から自分の将来には望みがないと感じていた。ずっと前から死にたかったのだ。自分が死ぬ理由は、それ以上でも、それ以下でもないーと。

 今日の二時間目の授業は彼女と教室が同じだった。
 手紙のことは何も言わなかった。
 彼女も僕と目があっても軽く会釈しただけで、行ってしまった。
 会釈の時も彼女は笑ってた。淋しげだけれども、微笑んでいた。
 そして僕は初めて気がついた。
 世の中で最も恐ろしいことは、誰かが誰かに殺されることじゃない。誰かが誰かを殺すことだ。
 僕もせめて、自分が殺した蚊の命くらい、背負って生きようと思った。

蚊の舞う季節

蚊の舞う季節

大学の帰り道。僕はアパートの前にある公園で、同じゼミの林原が寝ているのを見つける。普段は小綺麗で品の良い林原であるが、その日は酷く酔っていて……。

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更新日
登録日
2016-09-14

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