八月の残響 ~序~

八月の残響 ~序~

これは、−彼ら−の物語。
だから、−誰か−が語るべきなんだ。
理屈や動機なんて無い。
あるのだとするならば、まぁ、そんなものにすがる若者たちが描く、生きる残像だったと、言い残すことができる。
願わくば、多くの糸がゆっくりと解けてゆくように、それらの意味を持って、物語が始まりへと至ることを、祈ろう。

序 ~遣らずの雨~

序章『東雲』
夏の空には、遥かに続く積乱雲と、深みを帯びた碧色が映し出されている。雨が止んでから、どれくらい過ぎたのだろうか。夏の始まりを誰が告げたのかもわからぬまま、季節は蟬時雨へと移り変わってしまった。そんな、陽炎さえも愛おしくなるほどに降り続けたあの梅雨の日々に、誰が夏を宣告したのだろうか。この田舎に旅人が訪れたからだろうか。それとも、ある中学生が思春期に終止符を打とうとしたからだろうか。いや、もしくは、叶えられぬ夢に、どこかの若者が泣き崩れたからだろうか。

一章『誰でもない誰か』
誰でもない誰かに見守られた町。とある街からしばらく山々を経た所に、その田舎町は存在する。閉鎖的かと問われれば否定はできない。だが、人口の増減に波が無く、長らく遠い隣町とも友好的だ。1517人の老若男女は統合されたひとつの学校に、小学生と中学生を156人、何時間もかけてバスで隣町まで行く高校生や大学生が50人ほどいる。それ以外は働く若者や両親世代か、子を持たない同世代、もしくはそのまた更に上の代へと続いている。人口は大して変わることも無くここまできたが、100年も前には、隣町の商店街で売られる果物やら野菜やらはすべてこの町で実ったものだったそうだ。その頃は、今の倍以上の人々が血気盛んに暮らしていたというから驚きだ。そんな、日本にならよくある山々に隠れたこの町にも、周囲よりも少し早めの梅雨が到来していた。

二章『旅の終着地点』
じんめりした湿気と晴れているはずなのに、にわか雨のような香りを漂わせる中、トランクケースをリュックのように背負った見慣れぬ女性が、この町の境界線を前にゆっくりと深呼吸していた。
「田舎なら、こんな梅雨ですらいい匂いがするんだ。やっぱ東京とは違うな」
前髪をくくって三つ編みカチューシャと束にして額を露わにしたその顔は、物静かな雰囲気もあれば、活発的な瞳を持ち合わせる不思議な女性だった。町の境界には何故か石でできた大きな鳥居があった。これをくぐれば町に入ったことになるのだろうか。肩につかないくらいのショートヘアが、僅かにそよぐ追い風に揺られる。彼女はゆっくりとまぶたを閉じると、その鳥居を一歩またいだのだった。

三章『流転風景』
プラットホームに特有のベルが鳴り、乗車口前で並ぶ人々が顔を上げ始める。ゆっくりと入ってきた新幹線を眺めながら、眼鏡をかけ直した青年が地面に置いていた大きなリュックを手に持った。太り気味のせいか、腹と後ろに背負うリュックとのバランスがいい。最後尾から乗り込もうとした時、その青年は自分を呼び止める声に振り返った。プラットホームの階段を駆け上ってきた中年の男に、青年はオヤジとつぶやく。どうやら父親らしいその男は、手にしていたハンドバッグを青年に投げるとやや遠くから叫んだ。
「今日行く事連絡してるのか?」
雑に投げ渡されたバッグを、青年は掴み直すと答えた。
「まだだよ。どっちにしろ高校以来だ。覚えていなくてもそれでいいよ。これアレだろ?いいって言ったのによ」
息を整えた中年がとにかく持っていけと言っているようだったので、青年はベルの鳴る音が消えた事に気がつくと、手を振りつつ車内に乗り込んだ。
「つまらない物も、場所を変えれば価値がつく時だってあるんだ。よろしく言っといてくれ」
車窓ごしに頷いた青年は、新幹線が動き始めたのを確認すると、手を振るのを止めた。中年の男の姿は次第に遠くなって消えていく。移り変わる都会の景色を目で追いながら、青年は壁にもたれかけ、ハンドバッグを握りしめた。

四章『女王蜂』
「梅雨ってまだ終わんないのー?」
「いやまだっしょ、つか髪めんどくせーんだけど、こいつの髪さ、この季節にサラサラとかあり得なくね〜?」
「近くに雨漏りバケツみたいなのあったくね?アレぶっ掛けよーよ」
中学校側の校舎の裏で、幾人かの男女を交えた中学生グループが、1人の男子中学生を中心にして輪になっている。同級生らが時折ゴミ袋を置き場に出しに来るが、誰も止めようとはしない。ましてや仲裁に入ろうなどと考えもしないだろう。それがただの喧嘩やら言い合いやらで済むのなら、まだマシな方だった。囲まれた男子の方は何も言わずにただうつむいたままだ。これが初めてでは無いのだろう。悔しさの滲む拳をわずかに握りしめる。その周りに佇む連中の1人がどこからか水の入ったバケツを持ってきて、勢いよくその男子にかけた。冷ややかな笑い声が聞こえる中、グループのリーダー格のような男子が、横に連れ添う女子に話しかけた。
「これくらいで気がすんだろ?大石」
大石と呼ばれた黒髪の女子は、切り揃えられた前髪で、大きな瞳を隠しつつニコニコ笑いながら、まるで友達と放課後を楽しんだかのようにずぶ濡れの男子に話しかけた。
「今日もホント楽しかったね?また遊ぼうね!」
ケラケラと笑う大石につられて周りの若者たちもが、さも楽しそうに笑い始める。輪の中に座り込んだ男子はといえば、びしょ濡れになった服を少し絞り終えると、よろけて立ち上がり自分のカバンを持ち直してとぼとぼと裏門へ歩き始めた。大石はグループ内のハデな連中たちとは違って、大人しそうな、外見も普通の女の子そのものだ。だが、彼女の名前は、多分校内でも有名なのだろう。通りがかりの中学生や小学生は、その場を避けるように、放課後の帰途についていた。

五章『時計仕掛けの隙間』
古めかしい瓦屋根の家が立ち並ぶここ垣根通りには、今日ものどかに時の流れに身を委ねた店が所々に立ち並んでいる。呉服屋、蕎麦屋、クリーニング屋、散髪屋、居酒屋、文房具屋。要所要所に未だ時代の名残を漂わせるこの通りは、この町の中心に沿って続いており、人の賑わいも、祭りの時には盛んだ。だが、こんな平日の昼間にはまるで人はいない。活気が無いようで、夕方になればある程度の賑わいを見せるのだが、そんな事を予想にできないほど、今は静かな通りと化している。そうした通りの中に、ある一軒の茶屋があった。
「それでね、結局ダメになったっていうか、もう最悪なんだようちの母さんってば」
漫画の世界から飛び出してきたかのような高い声が聞こえてくる。茶葉入れの壺を畳の上で転がしながら、ポニーテールに髪をくくった女性が、そんな愚痴をこぼしながら茶屋の中にある椅子に足を乗せたまま土間の縁側に寝転がっていた。
「それ以来まだお許しは来ないんだ?」
しわがれた声がやけに楽しそうに返す。髪を団子にくくり化粧もせず老婆は扇子を手に外の雲行きを眺めていた。
「夏菜子ちゃんのお母さんは、夏菜子ちゃんが生まれる前から、そういう性格だったさ。懐かしいねぇ」
「生まれついた性格かぁ。あたしもこんな大人になるのかなぁ、ってもう今年で20歳ですらなくなるんだよね。あぁ高校生活に戻りたーい」
声も立てずに笑う老婆に、夏菜子ちゃんと呼ばれた女性は茶屋の壁にある大きな時計の時間を見ると急用を思い出したのか、デニムのショートパンツを引っ張り直すと壺を立ててから老婆にまたねと別れを告げて、サンダルを履き、小走りで通りへ出て行った。夏菜子の姿が消えるまで手を軽く振っていた老婆は、彼女の足音が聞こえなくなると、さてさてと言いながら立ち上がり、土間の奥の方で茶葉の仕込みを始める事にした。

六章『滲んだ汗の裏』
町の通りから少し離れた所には、小さなトレーニングジムがある。町でここを使う者と言えば大会出場の決まった野球チームのエースか、地元の消防署の面々か、彼ら2人くらいだ。横並びに置かれたダンベルを交互に持ち上げながら、長髪の青年と短髪の青年は互いを見ることもなく、手前に映る鏡の向こうの自分に意識を集中させている。途切れ途切れの荒い息が上がり、男だけのジム空間で異様な雰囲気を醸し出していた。はたから見れば、あまり目に優しい光景ではないだろう。いや見る者の性癖にもよるが。時間がたまたま重なっており、挨拶程度の言葉しか彼らの間では交られていない。しかし、だからと言って彼らが不仲なのかと言えば、誰もそのようには捉えることはないはずだ。いや、捉えていても良いのだろうか、そんなことはあるまい。
「今日も蒸し暑いっすね」
はじめに言葉をかけたのは長髪の青年だった。鍛えられた体は互いに同等と言っても過言ではなく、まるで同じ時期に鍛え始めたかのように、彼らの体はうりふたつだった。
「雨の翌日ほど、やる気のない筋トレはねぇよな」
初めての会話にしては、普段通りの、まるで適当な会話が友人の間でふと始まったかのような、そんな切り出しだった。2人は顔を見合わせると、互いに滲んだ汗を眺めてから、少しだけニヤついた。

七章『翌朝の出来事』
「梅雨なんてクソ食らえだ」
壊れた扇風機に粗大ゴミと書いた張り紙を貼ってから、腕をまくった男性がゴミ置場で腰を伸ばしながらつぶやいていた。誰かに問うたわけではなかったが、まぁ誰かではなくても呟きたくなった一言だった。
「梅雨だって甘い匂いがしていいじゃないですか」
だが、そんなたわいも無い言葉に返事をする者がいるとは予想にもしていなかったようで、男性は少ししわの出てきた顔を仰天させて後ろに振り返った。そんな挙動不審な振り向き顏にヘラヘラ笑いながら立っていたのは、町でも見たことのないトランクケースを背負った女性だった。
「すみません驚かせちゃいましたね。失礼ですが、桃園民宿舎って何処かわかります?」
元気に尋ねられた男性は気を取り直すと、笑いながらついてきなと言いつつ歩き始めた。女性は呑気に当たりを見回しながらその男性について行き始めたのだった。涼風が梅雨の湿気を吹き飛ばすかのように、颯然とそよいでいた。

八章『奇妙なふたり』
蒸し暑い外の世界とは反対に、少々冷房の効き過ぎなとある部屋で、ロングストレートに髪を綺麗に整えた女性がノートパソコンの前に座り込みながら呆れ顔と同時に黙り続けていたが、ようやくその沈黙を破る一言が叫び出された。
「ネット繋がらんのかい‼︎」
天井を仰ぐように金切り声を出したその女性はやや眼前のノートパソコンに突っ込むかのように手を差し出していた。そこへドタバタとどこからともなく聞こえてきた騒々しい足音に女性はこれまた呆れ気味に振り返った。そこへバンとドアを勢いよく開けて入ってきたのは、警察帽を雑に被った背の高い1人の男だった。ひょろっとしたその男はゼイゼイと息を整えながら未だにそこに佇む女性に、ようやくの思いで声を発した。
「て、てめぇ、そこで叫び声が聞こえたから、またヒステリー引き起こしたのかと思ったぞ!おい真央、聞いてんのか」
そんな警察官とは思えぬ身体能力の無さにため息を吐きながら真央と呼ばれた女性は、ネット回線に表示が皆無なまま置き去りにされてるノートパソコンをたたむとその警察官に差し出した。
「おっさん、これ返すね、てか鑑別所以来まともなパソコンいじってないわ」
せっかく綺麗にとかれた後ろ髪をワシャワシャとしながら真央はだいたいさぁと文句をこぼし始めたていた。そんな今日も始まるふたりのコントに、塀を越えた隣近所の老人が、まるで親子ねぇと和むように笑っていることは、ふたりの知るところではないだろう。

九章『夜明け前の』
暗い夜の高速を走り続けていると、秒刻みに電柱が過ぎ去っていく。目で追う間もなく、いつか見た景色に似たかの如く、そんな呆然とした空間を眺めながら、ボーイッシュな髪型をした女性が、ようやくぼやけたその視界を現実だと認識したのであった。
「ねぇ沙織起きた?」
どこからか友達の声が聞こえてくる。暗い座席の中で辺りを見回した沙織は、ふたつ後ろの通路側の席に体育座りをしてスマホをいじる声の主を見つけた。
「起きてたの?朝早いからしっかり寝てね」
そう言いながらも何故か1度目が覚めてしまうとしばらくは眠れなくなることを知っていた沙織は、少しだけ窓側に腰を移してから、夜行バスからの車窓の景色を眺めることにしていた。ほんの隙間だけカーテンを開くと、真っ暗な深夜のバス内よりも少しだけ明るい外の世界が見える。トンネルを通る回数は随分と多くなった。
「もう近いのかな」
懐かしむように、儚げに夜空を見上げながら、沙織はただただ、思いの果てでうずくまっていた。

十章『新しい住まい』
ダンボール箱の山々に囲まれながら次々と運ばれてくる荷物にある女性は笑いながらため息をつく。
「にしても今日は客が多い!」
そう言いながら笑顔で荷物を運びに来たのは梅雨の時期にもかかわらずすでに焼けた肌をする青年だった。女性は彼からそれを受け取りつつ聞いた。
「旅する劇団だっけ?私みたいな引っ越し以外に他にもやって来られる方々がいるの?」
汗を拭いながら青年は女性の持った荷物をにわかに支えつつ答えた。
「はい、劇団については俺もよくわかんないんすけどね。涼さん以外にもウチの民宿で一泊だけ滞在される方が来られるそうなんですよ、なんでも職業が女優さんだとかで。もう町内会が黙ってないっすよね〜」
涼は笑いながらガムテープを剥がしつつ中にある下着類にギョっと驚いて背中で隠しつつ青年に向かって叫んでいた。
「ちょ!ギョ!いや、関根くん!こっち見ないで!これはアウトなやつだから!」
チラッとだけみえてしまった青年こと関根は顔を真っ赤に変貌させつつスミマセンと謝りながら次の荷物を取りにかけて行った。

十一章『南星』
風が吹いている。誰かを待つ影がそよ風に揺られた気がした。刹那、何もなかった空に光が差し、反射的に見上げた深い鏡の向こう側で、星が舞っていた。永遠なんてものに価値はあるのだろうか?誰かが言った。喜べる時間も悲しめる時間も、永遠に続きはしない。だから、価値があるのだと。そんな事は誰だってどこかで気づいているに違いなかった。一匹の蝉が鳴き始めたのはいつからだろうか?その蝉に続くようにいつしか、雨雲は消え去っていく。照りつける太陽が誇りを取り戻すとき、大地がどれほど揺れ動くことか。物語には常にY字路だ。誰にも決められない自分だけの生き様がそこにはある。季節が移り変わる瞬間も、一匹の蝉が鳴き始める瞬間も、必ずそこには選択という決定路がある。自身の物語に気づくはずもない彼らの、これまでの道のりとこれからの道のりが、いつしかどこかで決定路となって繋がりあう時、その時こそ、我々は価値というものを実感できるのだろう。

十二章『一泊限りで』
「遠いところ遥々。どうぞ、さ」
トランクケースを背負った女性の前に、丁寧な手つきで出迎えたのは、身なりを整えた白髪の老婆と、その娘と思われる50代の女性だった。後ろに立っていた腕まくりの中年は、じゃ自分はこれでなと言いながら連れてきた客にウインクした。すると出迎えてくださった2人の女性が、イワ君も今日は寄って来なよぉ、と話しかけている。どうやらこの町は本当にネットワークが張り巡らされているらしい。イワ君と呼ばれた中年の姿が消えると同時にニコニコと笑いながらトランクケースを背負ったままの女性は2人に深々とお辞儀をすると言った。
「この度は一泊限りではございますが何卒、よろしくお願いします」
それに瞬時に応えるかのように2人の女性があらやだと笑いつつ身だしなみを整えてからしっかりとお辞儀を返した。
「松岡さんね、ご予約は随分と前から承ってますよ〜。狭いところですが、実家に戻ったように使ってもらって構いませんからね。松岡さんだから、まっちゃんかな??」
身だしなみがしっかりしているにも関わらず何故か親しみのわくその女性たちに松岡ははい!と元気よく答えた。じんめりとした部屋の中はどこも梅雨の時期は変わらないが、それでも、松岡には懐かしく思えるほど、桃園民宿舎に借りた新しい自分の部屋を気に入ったのであった。

十三章『群像路線』
いつからだろう。気がつけば、電車から見える景色は灰色から緑色へと変わっていた。新幹線を降りてから青年は見た目にそぐわぬ軽やかな足取りで階段を駆け上ると、ローカル線に乗り換えた。それからというもの向かい合う席に1人座りながら、青年はのんびりと流れ行く風景に目を移し、夢うつつに時間を過ごしていた。
「切符を御拝見してもよろしいですか?」
野太い声が聞こえてから青年は驚きつつ目を覚ました。今の時代においてまだ切符の拝見などがあるのかとやや感心しながら青年は胸ポケットからパスケースを取り出し、その中から切符を出して車掌に手渡した。
「あっちはこの時期が一番蒸し暑いですよ」
苦笑い気味に青年はそうなんですかなどとトボけつつ印の押されたその切符を眺めていた。喧騒としたあのビル群の街並みからはまるで世界が変わったかのように、窓を開けると、そこには青臭く前日の雨で独特の香りを漂わせる何かがあった。青年は目を細めると、その空間を堪能した。いったいどれくらいの年月が経ったのだろうか。いや、どれだけの物語を読み終えたのだろうか。ふと、臨場感という次元を超えた不思議な浮遊感を青年は感じていた。にしても蒸し暑い。そう言いながら気だるげに汗を拭うと、窓を全開にした。遠くの空で雨雲が唸っていた。

十四章『巣穴の綻び』
知らないうちに、だろうか。ふと気がつけば、息を荒げて自分は走っていた。ゼェゼェと追い込みをかけられるように、肺には空気が届いていないようにさえ感じる。喚き立てるわけでもなく、少年はちぎれんばかりに鞄を振り回しながら走っていた。ああ、どうして、誰も気がつかないんだろうか。びしょ濡れの制服はいつの間にか乾いている。不思議と涙は出ないのに、どうしてここまで我武者羅な気持ちになってしまうのだろうか。少年は北東に位置するあざみ野中学校から走り続けて橋を渡り、延々と続く田んぼ道を息を切らしながら走った。その脳裏から離れない彼女の微笑を、少年は恐怖とも捉えず、憎しみにも捉えず、ただその顔に潜む闇を、憂いていた。遠くの家の前で手を振る少女がいたが、気にもしなかった。どこまで自分勝手になれば気がすむのだ。少年は自身が疲れているということさえ忘れてていわみ野へ瓦屋根の町通りに入っていった。汗の雫がやたら目に入る。少年は目を拭おうとするが、まるで泣いているとも思われかねないその動作を気にして、何も手は出さなかった。角を曲がって次の小さな裏通りをかけて行く。この辺りの地域でも珍しく石でできた塀を飛び越え少年は、降り立った芝生をゆっくりとしゃがみつつ歩き始めた。裏口から入れば、いつ自分が来たかさえもわからないだろう。少年はすっかり乾いた制服を上だけ脱ぐと、芝生から小池の小さな石畳の通路を通り抜けようとしていた。ふと口から滑るように、少年は小さな声でつぶやいていた。
「それでも好きだったんだよな」
それは幻聴か、はたまた少年が正気を失ったか、というはずはなかった。だから、誰にも聞こえないからと、ふと呟かれた言葉に過ぎなかった。だからこそ、少年はその一言を一生、悔やむこととなった。
「若いねぇ、孝大くんは」
「どぅわぁ!!」
思わず踏み外した先には、間の抜けた鯉の面と池があった。裏口前にある小さな庭で、その年一番の水しぶきが上がった。

十五章『茶屋の主は語る』
「それで、先程かけて行った女性は?」
梅雨も明けぬ蒸し暑いこの夕方に、熱湯をカップ麺に注ぎ込みながら、客はにじむ汗を拭きつつ老婆に問うた。
「夏菜子ちゃんかえ?ああ、そうさねぇ、生まれも育ちもこのいわみ野のお嬢ちゃんよ。都会に憧れちゅうことはよう知っとるけ、けんど、この町が大好きなんやろねぇ。20歳を過ぎてもまだあの元気は消えてないわ。なんえ、惚れよんけ?」
ニンマリと笑って聞いてきた婆さんに客は苦笑しながら手を振った。
「まさか、よりによって旭婆さんほどの人間から聞く質問じゃないですよ。それにしても20歳を過ぎてるんですねぇ。まだ中学生か高校生にすら見えますよ。働いているようにも見えませんし」
客の呟きに旭婆さんと言われた老婆は、音もなく笑い終えると、若いんだろうねぇ、まだ模索中さね、と時計を眺めつつ語っていた。客もまんざら興味がなくも無いようで遠くを見つめていた。そんなのどかな茶屋からの風景を眺めていると、どこからともなくかけてくる足音が聞こえてきた。客がおやとつぶやく間もなく茶屋の前の通りを、勢いよく走り去っていく少年の姿があった。
「何事ですかね?この町はやたら走る若者が多い」
客の笑い気味の質問に旭は、あれさね、と答えていた。
「若いって、走らずには耐えられないものが、幾度となくあるんだろうねぇ」
ふと気がついたように客は聞き返した。
「なるほど、ところで旭婆さんって一体いつからこの町に来てるんですか?噂じゃこの町の住人で旭婆さんを知らない人はいないんだとか、まぁこの自分もあまり詳しい者ではないんで、言えたもんじゃありませんが」
旭はその言葉をゆっくりとうなづいて聞き終えると、茶葉を仕込む手を止めてから、口を開いたのだった。
「まずは、この町にかつてあった言い伝えから、だろうさね」

十六章『色違いの人間』
あざみ野は町外れのトレーニングジムに、2人の男が並ぶようにしてベンチに座っていた。珍しく消防署の連中のいないこのジム空間では、にわかに新鮮な空気がある。タオルで汗を拭いながら短髪の青年が長髪の青年に話しかけた。
「君、高校は卒業した?いわ高とか」
少々猫背気味な長髪の青年は、その高校名を聞いて驚いたようにうなづいた。
「知ってんすか?いわみ野高校を?」
聞き返された短髪の青年は少し思い出すかのような表情を作ってから答えた。
「もちろん。この町の北東にあるあざみ野小学校とあざみ野中学校、そして南西にかつてあった、いわみ野小学校と、いわみ野高校。5年くらい前に、同世代の強姦事件か何かで、近隣の子持ちの住民たちの多くが引越し始めたことで…子供の人口が減った?か何かで、いわみ野の学校はすべて廃校になり、小学生たちは、あざ小に統合されたんだよな。けれど、いわ高の生徒は、おかげでだいぶ遠い隣町まで歩いて登校しなきゃならなかったんだよな」
随分とペラペラ出てくるこの町の学校話に長髪の青年はにわかに苦笑いをするかのように相槌を打って返していた。
「この町に新しい人が1年ほど前引っ越されてきたのは知ってましたが、すげぇじゃないすか。強姦事件とかいうのはガセネタって噂ですよ?都市伝説とかそういうのらしいです。俺も少し忘れかけてたところでしたよ、ちなみに、俺らの世代はちょうどその5年前にいわ高に進学する予定だったんす。今ではバイトしながらのコレですよ。岡本さん、でしたっけ?」
互いに笑い終えると、長髪の青年は短髪の青年に話しかけた。
「ああそうだ。よろしくな、と言ってももう顔見知り過ぎるけどね〜」
「ですね、すんません。自分のことは裕翔って言いますんで、よろしくお願いします」
2人の1年間続いた無言のジム生活が、なんとなしに始まった会話によってようやく終わりを迎えたことは、ここでしか語られない事実である。

十七章『客のまにまに』
「いいのにそこまでしなくてもう、旅疲れもあるだろうし」
台所の方から奥さんの声が聞こえていたが、そんなことを松岡は気にしていなかった。むしろそんな疲れなど無く、ようやく始まったこの田舎での新生活に終始ニコニコしながら、桃園民宿舎の手伝いをこなしていた。
「これで終わりです!手間かけちゃってすみません!って奥さんこのおそうめんいただいていんですか?息子さんの分も残しておかないと」
いいのいいのお腹すいたでしょうに、食べたい時に食べておきなさい、どうせ孝大が帰ってきたら食べてしまうからねと笑顔でご褒美をくださる奥さんに感謝しながら松岡は氷の入ったそうめんとつゆを両手に少し部屋から離れた一階の縁側に持って行った。長らくの夢だった本物の縁側に無言でギャァと興奮する松岡は、夏の風物詩たる風景そのものだった。そうして、縁側に座り込むとなんだか梅雨の空も悪くないと思い始める。不思議と風は涼しく、地面はにわかではあるが、乾き始めていた。もう少しで、この梅雨が終われば、夏がくるのだろか?そう考えながら松岡はのんびりとした空間で、広い縁側で箸を手にした、その時だった。落ち着いた庭の片隅でゴソゴソと物陰から出てくる影があった。その影は風景に溶け込む松岡に気がつかないせいか、裏口から入ろうという魂胆らしい。その影が唐突にボソリと呟いた。
「それでも好きだったんだよなあ」
笑えるのを堪えようとしながら、松岡はそれでも何か不思議な独り言のような気がした。気がしたために、とうとう声をかけてしまっていた。
「若いねぇ、孝大くんは」
突如としてその陰である、この桃園民宿舎の息子である孝大は、高らかに庭の池に飛び込んでいた。大きな水しぶきが、虹を作り上げていた。

十八章『守り神』
中央鑑別所からの出所は、彼女にとってのリセットされた空間だった。一時期、世間を騒がせた怪盗集団に、彼女はいた。奇怪な犯罪を起こす彼らの砦は、ネットワークにおける彼女の存在が不可欠だったのだ。だが、法の前においては、どんな正義も意味をなさないことは、承知の上だった。彼女は綺麗に整えられた前髪を少し風間になびかせながらふと、少しだけ過去を思い出していた。正しいと思えることが、なぜ悲劇を生むのだろうか。遠くの空に、見たこともない雨雲が迫っていた。
「今週にかけてが最後だろうな」
同じ方角を見上げていた警察官が気だるげに呟く。ふんとそっぽを向きながらも隣で歩き続ける彼女はそれとなく返してみた。
「赤城のおっさんはさ、いつまで私の監視を続けるつもり?ほっといたって何もしないってもうわかったでしょ」
後ろ髪が長いのに、乱れていないのが不思議だと、この町唯一の正規交番勤務である赤城は考えながら、自転車を押しつつ答えた。
「何もしない?バカ言うな。一体どんだけデカイ社会現象巻きおこしときながら、どの口が言えてんだよ。俺がこの町を守る、そんだけの仕事だ」
「守るって、それこそバカでしょ。守ったって泣く子はいるし、行方不明者だっていないはずないじゃん。第一さ、こんな小さな町なら、私だって普通に住めるの。もう誰も私の過去を知る人はいない、おっさん以外はね」
「ここは辺鄙な町だ。人も少ないし、事件すら聞きやしない。簡素なのに何故かみんな恵まれて暮らしている不思議な町なんだよ、ある意味では、この町の秘密さえ知れば、俺は守り神になれるかもな?」
冗談にもない事を言うペテン師に、彼女は笑いもせずにサイテーの守り神とだけ返しておいた。風向きが変わらないのは、何かが迫っている予感でしかない。赤城の武勇伝を受け流しながら、彼女はただ空だけを見つめていた。
「ところでおっさん、なんであざみ野に行きたいだけなのについてくんの?変態」
この町の南西に位置するこの町一の田舎であるいわみ野から歩いてあざみ野に向かう彼女は、嫌味を含めて赤城に聞いた。
「先週も言っただろ、今年もこの町で町内会の催し事があるって。それがな、今年は演劇なんだとよ、町の守り神としてここはしっかり手伝いに行こうと思ってな。どうだ、お前さんも来ないか?」
「行くはずないでしょ、だいたい去年そんなものあったけ?どうでもいいけど私は巻き飲まないでね、いつだったかホワイトクリスマスイベントとかバカ騒ぎして、神楽さんとこの大木を飾るって言い出して私が骨を折る羽目になったのよ」
2人の会話が聞こえてくると、町を行き交う住人はひとまずは安心して見守っていた。それがこの町が今日も平和であることの象徴のようなものだという事を当人たちが知ることは、今のところ皆無であろう。守り神の正体は未だ彼らの知るところではないのだ。

十九章『旅する脚本家』
バスが到着するのは、その日の早朝の予定だった。が、沙織たちは昨晩の大雨により、土砂崩れが起きた地方を避けて遠回りをすることとなってしまったのだった。それにより大幅な時間がとられた一行は夕方になってようやくこの町にたどり着いたのである。荷物を運びに町中から僅かだが若者が集まってきてくれていた。沙織は町内会の方々に挨拶に出向くため1人町役場まで歩いていた。
「しばらくは帰れない…か、梅雨さえ終われば盛大にこの夏が味わえるってのに、にしても蒸し暑っ」
ひとり呟くことしかできずにただ歩いていた沙織はそこで、誰かが向こうから手を振っている事に気付いた。だが、ふり返すのも変であり、そもそも自分ではない誰かに手を振っているのだろうと、後ろを振り返りさえしたものの、沙織の後ろには人影も見当たらず、どうしても、気になって仕方ない。思わず手を振ってみようとも思ったが、そこまできて別の誰かであったとなればこれもまた居心地が悪い、というよりかは羞恥心が勝ってしまうときた。沙織は、ヤケになって無視を貫き通す事にしておいた。それにしても不思議な町だと沙織は感じていた。対して大きな町ではないにもかかわらず、割り増し、人の活気様は盛んだ。高校卒業以来、演劇の道を進んでは様々な町を見てきたが、未だ自然体で付き合ってくれる町の住民などあまりいなかったからだ。沙織は気を持ち直すと、今後の予定について考える事にしたのだった。

二十章『揺れる風鈴は』
「ねぇ関根くんはさ、兄弟はいないの?」
リビングに散らばる段ボール用紙を片付けながら、関根は涼の言葉に少しだけ手を止めた。そんな姿を見た涼はすぐに話題を変えようとしたが、関根はいますよと元気に答えた。
「弟がひとり。まぁあんまり会わないんで、気の合う兄弟ではないんですけどね。そんなこと言うなら、涼さんこそ、いそうですよ?」
私が?と不意をつかれた涼は、荷物を地面に置くと少しだけ考えながら口を開くのだった。
「もともと私のお父さんはね、私のお母さんと結婚する前後に、他の2人の女性と結婚しててね、3人目の女性には結婚以前から亡くした夫の子供がいたんだけど、自分の子供はいなくてね、はじめに結婚した女性には3人姉妹がいたんだ。そしてね、ここからが不思議な巡り合わせになっていくの」
楽しそうに話し始めた涼の、綺麗に整えられたショートへアを眺めながら、関根は自分の作業の手を止めてその話を聞き始めた。彼女がこの家に今日引っ越してきてから、随分と長い時間を関根は涼と過ごしていた。彼女がここに来てはじめにこの家の窓に飾った風鈴が、涼しい音を奏で続けていることが、唯一の救いだったか、弟の話を伏せながらも、関根はただただ笑顔で話し始めたこれまでに、吸い込まれるように聞き入っていった。部屋が違うのに、向こうからは時折、風鈴がチリンチリンと音を響かせていた。

二十一章『北風』
雨粒が紫陽花の花びらをつたっていく。カタツムリがのびのびと目を伸ばし、灰色の空を追うようにして向きを変えていく。寒いかぜが吹き始めていた。あの蒸し暑い湿気に囚われたような空気がどこからともなくやってくる風にかき消されてゆくようだ。けれど、そんな伝言は誰からも聞いてない。誰から聞かずとも、どこかでわかっている。そんな気がした。町に息づく時間が羽を伸ばしている。記憶のない、時のないこの山々の中で、人々の言葉がひとつになる時、この町の選んだ答えが、未来を決めてゆくのだ。風に身を委ね、ようやく、世界の目がさめる。

二十二章『梅雨の住居人』
乾いたタオルを手渡されてもなお、孝大は黙っていた。松岡はのんびりと、縁側でくつろぎ、孝大のいる部屋へはまだ行かないことにしていた。氷の音がして振り返ると、カランコロンと冷えたお茶を手に奥さんがごめんねぇとやって来たのだった。松岡は礼を言いながら話しかけた。
「孝大くんは、いつも裏口から?」
笑いながら奥さんは答えてくれた。
「まさか!けどね〜、こんな町にもガラの悪いヤンチャな子たちがいてね。多分、孝大も、今は闘ってるんだろうね」
「奥さんはご存知なのに、いいんですか?」
「ふふ、まぁ少し変な親かもしれないけど、私たちは子供の世界を大切にしたいと思ってるの。それって、もう私たちが忘れていった何かじゃないのかなって…あ、まだまっちゃんは若いわよね!」
「いえいえ〜私もなかなかですよ?しょっちゅう親と理解しあえずに喧嘩ばかり、だから、親には親の、子供には子供の考え方と世界があるんだろうなぁって、何気なく思ってたりしました」
2人の会話はずっと続いていた。ほんの少しだけ、遠くの空に黒い雲が見えた。松岡は雨だなと予感している。奥さんはというと、孝大の話をそっちのけで女優について話しかけてきていた。松岡の本業が女優であることは、もはや町内の周知の事実なのだろう。松岡は改めてそのネットワークの素早さにやや驚きつつも、気分転換となるこの旅で自分を変えようとしていたのだった。

二十三章『雨、そうそう』
豪雨の中、列車が走り続けていた。雨の日ほど、室内の雰囲気が何故か楽しく思えてしまうものだ。太り気味の青年は持参していた大きなサンドウィッチをたいらげると車窓に打ち付ける大きな雨粒を眺めていた。一粒の雨が降りたった刹那、すべては、一瞬だった。先ほどまでうんと晴れ渡っていた空は何かを境とするかの如く大雨に変容していたのだ。眠気をこらえきれずに眠っていた青年はというとその雨音に眠気が飛んでいき、気がつくと間食にとリュックの中にある食べ物全てに手をつけていた。車窓の向こう側には雨霧によってほんの先まで見渡すことができなくなっている。青年は随分と降ってるなぁと呟きながら水を飲み干した。車内はどんよりしてはいたが、どこからともなくくる冷房に救われていた。
「どこまでおいきで?」
しわがれた声が聞こえ、青年は通路をはさんだ隣の向い席に座る老人に軽く会釈してから答えた。
「終着までですよ。そこからは山越えのバスにね。お爺さんは?」
「ならワシと同じやの。終着駅に孫達が待っとるけ。この辺りの人間か?」
「いやいやまさか。夜明けから都市を出て新幹線やら特急やらを経てようやく昼の今に至りますよ」
苦笑しながら説明する青年に老人もゆっくりと笑い返していた。
「里帰りかえ?」
不意に突かれた設問に青年は、少しだけ笑うのを止めると向い席を眺めながら答えた。
「里帰り…になるんですかねぇ。元々はある町に住んでたんですけどね?高校が遠くにある町に統合されて、友達も先生も散り散りになってしまったんですよ。今日はその町に向かってるところなんです」
老人はしっかりと頷きながら、青年の話に見を傾けていた。車窓の向こうには大粒の雨がいつまでも振り続けていた。

二十四章『まぶたの裏に』
「馬鹿野郎!何やってるんだ!」
「離してよ考大くん!もう何も変えられないのなら、今こうするしかないの!」
「そんなことしても傷つくのは大石じゃないか!」
乱れ合う二人の体が互いを牽制する。止めようすれば必ずどこからか手が出ては、我武者羅な喧嘩のように互いの服をつかみ合い必死に睨み合う。ともに小柄な体型の大石と考大は、双方の力にまだ差の出ていない年頃のせいか、未だ決着のつかぬ決闘となっていた。だが、考大の右腕がサッと大石の持っていた包丁を奪っために形勢は一気に逆転となった…はずだった。
「あんたたち、何やってんの…?」
顔貌を蒼白にした二人が振り返った先には一人の女性が闇夜に立っていた。沈黙が残酷なまでに長く続く。大石が腰を抜かして地面に崩れながら呟いた。
「…お母さん」
考大は思わず叫ぶかのように飛び跳ねるとベッドの上から上半身を起こした。落ち着いて!とベッド横で松岡と関根が背中をさすってくれている。何が起きていた?ゼイゼイと息が荒いのが自分でもわかる。現状把握にしばらく時間がかかった。悪夢だ…。
「かなりうなされてたよ?考大くん」
前日一泊限りでここ桃園民宿舎へやって来た女優こと松岡が、心配そうに考大の顔を見つめていた。その隣ではこの民宿舎でお手伝いさんとして働いてくれている高校三年生の関根も同じような表情を浮かべている。
「だ、大丈夫です。すみません」
考大は頭を抱えるように額に手をおいた。よほどの悪夢だったのか、あまり覚えてはいないが、額には汗がしたたるように吹き出していた。関根が薬とお茶を取りに行くと、松岡は考大のベッドの足元に座り込み、ゆっくりときいてきた。
「悪夢、だよね…。ずっとそうなの?」
考大はいいえと首を振りそうになり、うつむいてしまった。この町には、見えない空気ばかりが漂っていて、生きた心地がしない。それはあえて誰もが言わずに日々を暮らしているからに過ぎなかった。だから、見ず知らずの他人に、考大は口を開くことにしたのだった。
「…もう五年も前の出来事です」

二十五章『老婆と神隠し』
旭は坦々と語り始めていた。客が時折頷きながらその話に耳を傾ける。
「というわけで、元々この町は2つになど別れとらんかった。いわみ野とあざみ野に分けられるようになったのは、ほんの十数年前に過ぎないんやね。私が生まれた頃は野原ですらなく、小さな山々に囲まれた村でしかなかった。それもまた時の流れによって多くの物語が受け継がれていき、今に至るんじゃ。産婆としてまだこの町の役に立てとるんわ、彼らのおかげでもある」
なるほど、と客はゆっくり嚙み砕くように答えるとしばらく黙っていた。旭は懐かしいさねぇと呟いている。客はそういえばと問いた。
「そういえば、はじめに話してくださった物言わぬ人影とは、やっぱ遠くにしか現れないんですよね?」
「私らはやはり近寄ることはできなかった。いわゆるこの町の神様と呼ばれる原因だったろうさね」
「神様…か、そんな人影がこの町に古くからある言い伝えとどう捉えられてるんですか?」
「この町には、外側の世界とつながる線を持っていない。電車は通らない。バスは町内バスのみで、この町につなげてくれるバス会社などは当にいなくなった。外側行きの整備された道路なんてものは昔からない。そんなこの町に唯一どんな世代においても共通するのはその人影が私らの中に紛れて、すべての人々を見守ってくれているってことさね。出会った人間は遠目にしかわからないだろうけど、その姿を見た後に、忘れた頃になんとなく思い出すそうじゃ、ああ、あれが神様だったのだと」
客は納得するように頷き、遠くの空に見える雨雲を横目で見ていた。
「遠目にしかわからない、けれどわかってしまう。もしかすると、その人影…つまり神様は、案外近くにいるかもしれないということになりますよね、不思議な話です。これまで、様々な言い伝えやらを聞いてきましたが、身近にいる神様とは初めてですよ」
「上川さんとこの息子さんだろ?あんたもここに戻ってきて1年になるんだから、こんな老いぼれとではなく、同じ若者たちと時間を過ごしんさい」
わかってますよと笑いながら上川は答えていた。
「それじゃ自分はこれくらいで、そろそろ大雨になりそうなんでね。色々と聞かしていただいてありがとうございました。旭婆さんも身体に気をつけてね、それと、俺が話した夢もまたしっかり報告しますんで」
「わぁってるよ、楽しみさね」
ゴロゴロと雷が聞こえ始めた町の中を青年がゆっくりと消えていった。その背中を見送り終えた旭は茶屋の戸を閉めるとすっかり冷え切ったお茶を飲み干した。
「この町の人間が…取ることのできなかった責任を、取りに来たのかね…」

二十六章『結んで開く』
岡本はジム仲間である裕翔と別れてから1人ジムに残って着替えていた。まだ昼前であってやけに腹が減っている。そんな事を悟ったかのように胃が鳴った。窓がバンバンと音を立てているのは、もしかすると雨の前兆のような気がする。岡本はそう考えながらむさ苦しい部屋を出ようとした、が、まだ部屋の隅で1人ベンチプレスを続けている男がいたため、鍵だけ残しておきますよと、言い去ろうとしたが、それは止められることとなった。1年も前から自分や裕翔と同じように通い続けているその青年が、かなり変わっていたからだ。
「気がつかないうちに見違えたよ」
岡本は感嘆しつつ口を開いた。それを自分のことと認識したのか、ベンチプレスをゆっくり下げ終えた青年がいやいやと汗を拭いながら立ち上がる。
「岡本さんがそれを言いますか?俺なんてまだまだですよ」
「いや、俺たちも続けてるが、まさか同じ部屋で黙って続けてた君は凄いよ、変化が」
そうなんですかねぇと褒められたことを気にしてか半分ニヤついている青年を見ながら、岡本はそういえばこいつは誰なんだろうか?と疑問に思った。それを悟ったのか、青年は岡本に言った。
「岡本さん、自分今から旭婆さんの茶屋に用事があるんで、そこまで一緒に帰りませんか?」

二十七章『言わ猿』
「ねえ!一泊する女優さんって来たの⁉︎」
バンと盛大に音を立てて玄関から走りこんできた夏菜子に、美しく着物を着込んだ祖母がメっと叱りを入れてる。
「あなた今日一日中どこほっつき歩いていたのよ!母さんと喧嘩中だからってね、店のお手伝いを関根くんだけに任せてぶらぶら外に出るのはダメよ!」
「えーっと、小夜川のあざみ野河川敷で岩場さんとこのお孫さんたちと遊んでから、昼からは旭婆ちゃんとこでのんびりして、そんでから泊まりに来る女優さん思い出したから、お迎えに行こうと仁乃神社の向こうにある鳥居まで行ってきたんだけどね、ずっと待っても来ないからもうこっちに来てるんだって気づいて急いで走ってきた‼︎」
ペラペラと語られる早口言葉のような今日一日の出来事を祖母は、はぁとため息まじりにそちらにおられるからご挨拶に行きなさいとだけ言っておいた。
バンと盛大に開かれた襖がにわかに危ない音を立て広い縁側と繋がった広間の静寂を打ち破った。ここ桃園民宿舎の奥さんである自分の母親が祖母のような諦め混じりのため息を吐いていた。だが、その横にはどこか懐かしい可愛さを持つ女性が足を崩してこちらにややビビりつつ笑っていた。
「あなたが私と同い年の女優さん⁉︎」
「松岡です、よろしくね夏菜子ちゃん」
気のせいだろうか、夏菜子は何かの声と重なり頭痛のような痛みが一瞬だけ襲った。一瞬…だけだったはずだ。そんなことはどうでもよく、夏菜子は呑気にスゲェ本物か!と叫びながらさっそく自分のシャツにサインを求めていた。苦笑い気味に松岡が私有名じゃないよ?と呟きながら結局サインしていた。そんな光景に、奥さんはどこなしに感慨深い眼差しで見つめ続けていた、が、ポタリと手に落ちてきた雫にふと上を向いた。
「あら、雨ね」
松岡はいよいよかとだけ呟くとサイン入りのシャツを見ながら踊りだす夏菜子を横目で見つつ、長い旅になっちゃうかもねと、心の中で囁いた。

二十八章『豪雨のご挨拶』
大粒の雨がひとひきり降り続ける土砂道を2人の影が走っていた。片方のズボンは当に泥まみれで洗濯するのにも躊躇うほどの汚れ様だが、片方はというとサンダルにミニスカートだったためか被害はひどくなかった。
「こんなの聞いてないんだけど!」
走りながら真央は大声で横にいる町交番の赤城に怒り混じりに聞いた。だが赤城も今回は黙っていられないようで大声で怒鳴り返すように返答した。
「知るか!こっちが聞きてぇよ!というか大雨すぎて前が見えないぞこれ!今どこだ!」
「はぁ⁉︎この町の中央交番が何言ってんのよ!この町の地理くらい覚えててよ!」
罵声混じりに飛び交う会話が続く中、真央は走り続けている一瞬、何かとすれ違った気がした。ふと立ち止まり大雨の中、数メートル先まで見えない砂利道に消えていったはずの何かを眺める。
「今の何…?…影」
「おい急に立ち止まるな!…どうした?」
ザアザア降りの灰色の世界で、2人はどこでもないどこかを探していた。そんな2人の耳に走っていた方向から人の声が聞こてきたことは今になって思えば幸いだったと思う。
「あ、ちょ!誰かいるよ!ユッコ!聞かなきゃ!」
とも思ったが、大して喜べる状況でもないようだった。どうやら向こう側にいる人間たちも現在の位置を把握できていないようだった。躊躇いがちに真央は赤城と灰色の世界の向こうに歩いて行った。すると、なんとそこには傘をさしてこっちに手を振る何十人もの人々がいたのだった。
「あんたら、誰?」
真央が仰々しく問いかけた。すると幾人かがこちらにやってきて第一声を放った。
「私たち、今回の町内会での催し事に参加させていただく演劇の劇団です。本当に申し訳ないのですが、団長である沙織って子が行方不明で、挙句にこの土砂降りで私たちもこの駐車場から動けない状態なんです!」
何はともあれ、あ、ここ駐車場なんだ、と真央と赤城は安心していた。ここは既にあざみ野だった。

二十九章『霧の向こうに』
「昨日で大雨は去ったんじゃないの⁈」
誰もいない土砂降りの雨の中を行方不明者として扱われている沙織がくしゃみをしながら走っていた。先ほどまで普通の住宅街を進んでいたはずなのに今ではほんの数メートル先も見えない灰色の世界に変わっている。蒸し暑いこともあって軽い格好でいた沙織は自身を恨んでいた。なんたる寒さ。太陽も陰りを指すと気温が一気に下がったようだ。駄目だ、本当に迷ったかも。そう沙織は呟きながら、とりあえずはどこか雨宿りできる場所を探し当ててそこに入る事にした。シャッターの閉じられたどこかの店の屋根の下で、ずぶ濡れの服を絞りながら沙織は今更ながらに地面がアスファルトの道ではなくなっている事に気づく。あぁあ、止むまでは道もわかんないや。圏外表示の携帯をぱかっと閉じた沙織は深くため息を吐く。だが、同時に少し離れた屋根下の端からも同じため息が聞こえた。若干ビクッと驚きつつ沙織は見えない雨霧の向こうにいるはずの人影に聞こえるくらいの声で話しかけた。
「あの…?雨、酷いですよね…」
酷いのはそのコミュ力の無さだと沙織は自分にツッコミを入れていた。だが案外向こう側からは野太くしっかりした男声が聞こえてきた。
「あれ、誰かおられたんですね。気づかずにすみません」
「あいえ、あの、申し訳ないんですが、こっちには来ない方が個人的には嬉しいです、えと…服が」
そう言って沙織は自身の大雨によって下着がもはや透けてしまったシャツを見ながら顔を赤くしつつ、こちらにやってきてくれようとした男性を止めた。男性の方はというと事情をなんとなしに察したのかすみませんとだけ言って元いた位置へ戻ってくれたようだった。それだけ言ってもなんだか気まずい雰囲気しかない沙織は一生懸命記憶を辿りつつもう一度同じことを言った。
「あの、雨が…やっぱ酷いですよね…?」
やっぱコミュ力ねーよ私。
「ええ確かに。大雨は去ったと俺も知り合いから聞いていたんですけどね、自分の勘が当たってしまったっぽいです」
うるさいくらいの豪雨の中、見えない雨霧の壁に、2人がのんびりと会話を始める。向こうの声は大雨のせいかやたら途切れ途切れにしか聞こえなかったが、言いたいことは伝わっていた。沙織は誰とも知らぬ向こう側の存在がいるという事にどこか安心してぼーっと外を見つめていた。

三十章『車中温、上昇中』
ワイパーが千切れんばかりに左右へ水を弾き飛ばしている、が、そんな事を気に留めずに大粒の雨がフロントガラスを打ち付けていた。
「こんな事までしていただいてすみません」
「いいのいいの!第一こんな土砂降りでまともに傘一本じゃ帰れないっしょ。関根くんには今日引っ越しを手伝ってもらった恩もあるしね〜、あ、ここ右折?」
「あはい、右折して次は左折で」
涼は数メートル先まで見えない雨霧を徐行で車を進ませていた。関根はチラッとだけ横目で涼を見る。容姿の端麗さとは裏腹にどこか妖艶すら感じられる瞳が、19歳の女性とは思えないほど美しく見えた。この人は呑気なのか、ただ悪魔のように優しいだけなのか、ひとつ歳が違うだけで、こんなにも差が出るものなのか?関根はなんとなしに自分の未熟さというかガキな部分を思い知ったような気がしてますます何も口に出せなかった。でも話さないとこの雰囲気は持ちようがない気もする。
「す、涼さんは、どうしてこの町で一人暮らしを始めたのですか?」
「うーん?あぁ、なんだろうね。思い入れがある町っていうのかな、けど両親もお姉ちゃんたちもこの町とは縁もないわけだし、ううん、お父さんか。不思議な夏を過ごしたことがある、って感じ?この町でね」
涼はいつもののんびりとした表情から少しだけ遠い目に変えて呟いた。ワイパーの音だけが激しく擦れる音が聞こえている。気のせいか、関根の緊張した心情のせいか、2人だけの車内は少し暑い。冷房が効いていないのか? はたまた効きすぎておかしくなったのか?
「お父さん、ですか?でももう随分と前にお亡くなりになったんじゃ?」
「それよりもずっと前のことよ、あれは、多分13年前だね。そうかぁ、もうそんなに…」
関根は、父親というキーワードで失言だという事に気づき、車が桃園民宿舎に着くまでそれ以上の深い入りはできなかった。この町の住人にはこの町に住み続ける理由が多い、そう思っただけだった。関根は心の優しい青年だ。やさぐれ、人を傷つけてばかりの愚弟とは違うとよく住人から言ってくださるが、そんな弟でも、関根にとっては立派な、けれど近づき難い弟であることに間違いはなかった。今しがた、運転席でのんびり他の話にふける女性に、そんな聞いてはいけない事を、自分が弟の話をされるような、そんな事をしてしまったような気がして、なんだか、情けなかった。

三十一章『西陽』
夕暮れと夕闇の隙間から西陽が差していた。どんなに時間がたっても、変わらない景色がある、そう思うとするならばその景色はまさしくこの瞬間であろう。人が行き交う世界も、人影ですら見当たらぬ世界でも、陽は昇り沈む。変わらぬものの価値と変わりゆくものの価値は等しく人間の奥深くに眠っているのだろう。雨がやまない日が続いても、彼らが求めるものを求め生きていくように。わけもなく涙を流す黄昏時に人がどこか寂しくなるように。それもそうだと誰かの呟きが聞こえた、気がした。なんだか、気がするって気持ち、寂しい。ああ、これが…かたわれ時…。誰そ彼、世界が…ぼやけていた。

三十二章『雨時々、紫陽花』
予想を超えた豪雨により、この町から出るための道路がもとより整備されていない獣道であることから、どうも土砂崩れが起きていたようで、地盤が緩いあいだはしばらくこの町からは出られないとのことだった。その先にあるバス停留所もどうやらこの1週間は運行を見合わせているようだ。松岡は事務所に連絡をいれるとこの際にと長期の休みを取ることにしたのであった。
「本当に申し訳ございません、自分も働くので何かあればどんどん言ってくださいね?」
やっぱりあなたは夏菜子とはえらく違うわぁ、こちらこそよ?ありがとう、と奥さんと旦那さんから言われながら、松岡はこの桃園民宿舎での帰宅未定の滞在を始めたのであった。
「とは言ったものの、特別覚えてくださっているのは、奥さんたちくらいなのかな…何も言うことはなかったけど」
豪雨の夕方から翌朝にかけては色々あった。孝大が池に落ちたり、夏菜子に何枚ものシャツにサインを書かされたり、お手伝いさんの関根が見たこともない可愛らしいお嬢さんと玄関を開けてやってきたり。孝大に関しては、彼の過去とその悪夢にうなされる理由も、何となしに聞かせてもらった部分だけを読み取れば、それはトラウマだとしか言いようもなく、何だか知らないうちに時間が進み過ぎてしまった浦島太郎のような気分だった。朝よりは少し和らいだ雨の中を暑さ凌ぎに松岡は傘を片手に散歩していた。だが1人でいればいるほど考え事が増えそうな気がして面倒になってくる。気のせいか腹立たしくもなってきた。一泊だけこの町を見るだけだったはずが、逆に逃げられない状況の方が言葉としてあっているだろう。人間関係とか、優先順位とか、そういものを1度さらぴんに戻してから立て直してみたいが為にやってきた今回の旅だ。大粒の雫が道路脇に連なる紫陽花の花びらを伝っていた。松岡はふぅとため息のような息を吐きつつ呟いてみた。
「なんで雨の日は憂鬱になるのかなぁ…。こんなに空気がいい場所なのに…神様も意地悪だなぁ」
「あぁあぁあ!病まないったら止まない!病まなければ止むものも止まらなくなるでしょ!」
思わず声をあげて驚いた松岡の前に、1人の少女がケラケラと笑いながら立っていた。
「だ、誰?病んでるわけじゃないんだけど」
あれそうなの?と少女が、よほど見当違いだったのか意外そうに驚いている。いや意外そうな顔をされる筋合いはないんだけど…。その少女はどっかの女子高校生なのだろう。見たことのあるような無いようなごく普通のセーラー服を着て傘一本だけを手に紫陽花を見つめていた。容姿は昨晩の関根の横にいた女性とは違って美女というわけではないのだが、何故か懐かしい雰囲気を醸し出している。いや、どこにでもいそうで、案外素朴さで言えば可愛らしいというのだろうか、そんな女子だった。
「だってあまりにも病んでる顔してたよ?普段は活発的で元気な女性に限ってそんな裏面があったりするのって、やっぱ本当なんだね!」
「それはドラマの見過ぎよ。ていうか高校生なんでしょ?今日の学校は平常授業だって知り合いの方から聞いてるからね、サボってないで早く学校に行きなよ」
敬語使わない歳下って初めてだ…ていうか普段は活発って、同性のストーカーなんてこの町にいるの?やっぱ田舎のネットワークは計り知れないなと松岡は身に実感していた。閉塞的な世界においては、未だに未知の部分が多い。
「雨だもーん豪雨だもーん、今日は行きませーん。それよりお姉さん名前なんて言うの?」
「私?それは個人情報。言うわけない…って、この町じゃ意味ないのか。…松岡って言うの、よろしくね」
「…そうか!じゃぁ、まっちゃんだね」
なんか痛い…と松岡は頭の痛みを刹那に感じていた。不思議な痛みが走り去っていった気分だった。前を見るが、女子高校生はいつものように笑っているだけだ。
「こんな日に1人で。ねぇ、何かあったの?」
気を取り直した松岡は、色とりどりの紫陽花を見渡しながら答えた。
「私ね、この町に一人旅で来たんだけど、実はこの町を選んだ事には、理由があったんだ」
女子高校生は、ゆっくり頷いて微笑んだ。

三十三章『遠い町の担任教師』
太り気味の眼鏡をかけた青年は、都市から新幹線とローカル線電車を乗り継ぐこと6時間、ようやく終着駅に着くと、話し相手になってくださった老人とも別れ、1人、とある母校にやって来ていた。
「あれ?上川くんじゃないの、久しいねぇ。もう20歳だ?」
職員室を覗いていた上川に、廊下の向こうから懐かしい担任が声をかけてくれた。
「米田先生、お久しぶりです。八月なんであと少しですよ」
ここは田舎、とは言っても生まれ育ったあの町とは違う。マンションだってあるし、ゲームセンターだってある。高層ビルなんかがあるわけではないが、それなりに会社や企業組合が物静かに鎮座している町だ。
「オヤジさんは元気にしてらっしゃるか?」
「すっかり都会人ですよ、けど色々相変わらずなところも残ってて大変です」
「それもまた父親だ。もうお前さんが卒業して2年になるんだな、上京した世界はどうだ?」
「人が多すぎてはじめはビビりまくってましたけどね、電車が何重にも交差して走っている光景なんて圧巻でしたよ、意外と慣れちまうもんでしたが」
「あの町唯一の高校が突然廃校になったんだ、当然受け入れ態勢の無かった周辺の町の高校やここの、お前さんたちへの扱いは酷かったな。それが4年前か…入学したてのお前さんが懐かしいよ」
「結局卒業までこの高校にいたのは俺だけでしたよね、馴染めないったらありゃしなかった。なんせこれから入学式、だったんすからね。俺たちの子供を持つ世代の親はほとんどが引っ越し騒ぎを起こして、そりゃもう夜逃げのような勢いでした」
「それは何度も聞いたよ。けどこうしてここにまた足を運んでくれたのも、やっぱ母校としての思い出になってくれたってことだろ?」
「あの町から来たガキなんて、どこのクラスでも浮いてましたけどね。そうだ、今日食事どうですか?」
「教え子に食事を誘われる日が来るとはな。近くに美味いラーメン屋があるぞ?」

三十四章『頼まれごと』
ただいまぁと言いながら帰宅する大石に、母親がおかえりなさいと笑顔で答えていた。姿が見えないあたり、キッチンで夕飯の支度でもしているのだろうか。
「今日は学校どうだった?」
「普通だったよ!」
ニコニコとしながら大石は何事もなかったかのように返した。梅雨の勢いは増す一方で、ここのところ大雨が続いている。孝大を見かけることなく過ぎていく毎日はなんとなく憂鬱だった。そんな事を考えながら自室に行こうと階段を上りかけた大石を母親が引き止める。
「あごめんね!ちょっと今手が離せないからお母さん行けないんだけど、お買い物頼まれてくれないかしら?」
「雨だよう…」
「お願いよ〜」
「はいはい」
雨日和の続くこの町には、先週までの蒸し暑さがどこかへ行ってしまったようで、外に出てみるとなんだか涼しい気持ちにはなりはしたものの、やはりこの大雨の中を歩くのはどうしても嫌だった。
「面倒なんだよクソババァが」
露骨な本音を呟きつつ、大石は黒い傘を片手にトボトボと近くのスーパーへと歩いていた。近くと言っても、ここあざみ野と向こうのいわみ野を繋ぐ垣根通りの外れにスーパーはあるものだから、なんせ道のりは遠いといったらありゃしなかった。このクソつまらない世界が一変してしまえばいいのにと大石は考えつつ、スーパーの玄関手前まで来て向こう側からやって来る影と目を合わしてしまったのである。
「…なんであんたがここにいんの?」
白い傘を、畳み掛けてこちらに気づいた孝大が失神するかのような目でこちらを見ている。
「か、買い物だよ…親に頼まれて」
偶然というものはやたら気味の悪い不確定要素だと大石は実感し、少し微笑んだ。

三十五章『相談事』
手を重ね合わせ、祈りを終えた夏菜子は、人知れずいわみ野の端に位置する小山の山頂でようやく目を開いた。雨なのに夏菜子の服はどこも濡れていない。今朝に比べて少しおさまりをみせていた雨は思いのほか小雨といこともあって、樹々の生い茂るこの森の中では比較的濡れる心配はないのだ。
「たまにここにきちゃうんだよなぁ。誰の命日とかわかんないけど、そうしとかなきゃいけない気がする」
ボソリと呟いてみるも、誰かに聞こえるわけでもなく、何故か夏菜子は性に合わずしんみりとしていた。ここは御影神社だ。古くから町の神社として祭られているようだが、町の人間が総出でここに来ることはない。気がついたら自分だけが気分がてらに寄っているようなものに過ぎない。それ以外にと言えばちょうど1年ほど前に見覚えのない太り気味な眼鏡の青年が何かを祈っていたくらいだ。他人のいないこの空間では夏菜子の弱音やら本音やらが時に身を委ねるように呟かれてゆく唯一の場所だ。遠くで鳥が鳴いている。風がそよぎ、小雨の雫が静かに葉の上を溢れ落ちていった。
「この町って何か抜けてるよね、そんな気がする。…時間、なのかな?それよりも母さんよ、旭婆ちゃんの言う通り仲直りはしてみたものの、結局言い分が変わらないんだもん、また喧嘩しちゃった…うーん、変わんないのは私、か。まっちゃんも旭婆ちゃんとおんなじこと言うもんね〜」
御影神社の御神体に向けられたものなのか、それともただの呟きなのか、夏菜子はどちらともつかぬ言い方で神社をしばらくのあいだ眺め続けていた。

三十六章『岡本という男』
「今日は雨でも降んのか?」
「いや、もう去ってるんじゃないですかね」
ジムからの帰り道、岡本は青年と話しながら垣根通りを歩いていた。ここでは古くから慣れ親しまれたこの町の商店街のようなところである。故に人もまばらだが通りを闊歩していた。
「そういえば聞きたかったんだが、上川くんはどうしてこの町に1人で引っ越してきたんだ?」
上川は苦笑気味にバイトのお金でも精一杯なんで、住んでると言うべきか、などと呟いていたが、どうしても答えを待っているような岡本の表情に質問返しをした。
「いやいや、そんなこと言うなら岡本さんはどうしてここに?去年はお互いあまりそういう所は話さない部分も多かったですもんね」
「そうか、確かにそうだったよな。…俺は物心がついた頃には親戚の育ての親に世話されて、普通の街に住んで、普通に恋をして、普通の学校生活を送ってたんだけどよ、ある日ひょんなことで生みの親のいた場所を知る機会があってな、何でもこの町で生まれてこの町で死んだって聞いたんだ。俺は当時から救急救命士になる事が夢だったから、せっかくなら両親の影の中で夢を追い続けて、必ず叶えて見せようってな、そうすれば…まぁ、親が死んだ理由なんて誰も教えちゃくれなかったが、2人の前に胸張って生きていけるんじゃないかとそう解釈して、しばらくは短大にいたが、それも退学してここにやってきたんだ」
岡本は歳上なはずなのに、その無邪気に夢を語る様を上川は、ずっと頷きながら見上げていた。どうやら、この町の人間は、いまだ岡本に対して、両親の死の真実を伝える気はないらしい。それでもどこか輝きにも似た強さを感じさせる岡本を、上川は感慨深く見つめ続けていた。そうだ、こんな人の夢を夢のままで終わらせないために、この町の夢も終わらせないために。自分がここにやってきた真意を語ることもなく、上川は岡本と別れると、旭の営む茶屋へと足を運んだのであった。

三十七章『町役場』
空になったティーカップを片手に、誰もいない部屋で、男は窓の向こうに映る雨粒を眺めていた。すると扉をノックする音が聞こえ、ゆっくりとそれが開かれると向こうから中年の女性が入ってきた。
「町長、建設課の今月の予算案についての件ですが、そろそろ期限迫ってますよ。先月から推してるので向こう側がうるさいったらありゃしないんですわ」
町長と呼ばれた男は、この町の管理を担う男のようだ。カップに茶葉とお湯を入れつつ町長はゆっくりと返した。
「神楽さんまぁ落ち着いて。その件は次の水曜の会議で発表するつもりですよ。連絡事項はそれぐらいですか?」
「ええまぁ…、あ、そういえばあまり見ない若い男の子が町長に面会を求めているんですが、よろしいですか?」
「あまり見ない?そんな町民はいないはずだが…うん、通してあげてください」
町長の、老けているように見えるもその姿勢は中年の男にしてはしっかりとしていて貫禄を感じさせていた。しばらくして、扉をノックする音が聞こえると、町長はどうぞと扉に向かって喋った。すると扉が開き、1人の青年が現れたのだった。
「確かに見ない顔だ。名前を聞いてもいいかね?それと要件も」
町長は茶葉を残したままカップに口をつけた。眼前では青年は左手に持った書類を町長のもとまで持ってくると、返答した。
「ご多忙の中失礼します。自分は、上川と申します。たたり年以来ですね…町長」
「っっ⁉︎⁉︎」
パリンという音がして、カップが床で砕け散った。手足が冷え、軽く震えている。町長はその瞳孔を広げると、上川と名乗った青年を見上げた。青年はそのまま続けた。
「今回は、この夏の…これまでの夏の、終わらせ方をお持ちいたしました」
雨が降りしきる梅雨の日々、安穏とした灰色の世界が広がり、終わりを見せるはずのないその刹那、54歳を迎えた町長という男は、この町の代表者として威厳を見せては…いなかった。どうしようもなく、どうしようもないほどに、ただただ、震えているばかりであったのだ。

三十八章『1人の気持ち』
あざみ野の西南に位置する小さな町内公会堂では、劇団員たちによる強化合宿と舞台上の演出テストが行われていた。大雨止まぬこの梅雨の真っ只中においても町の人々がポツリポツリと会堂内で作業の手伝いを始めるあたり、誰かが声でもかけてくれたのだろう。赤城は、真央が旭んとこの婆さんや町内会の面々と作業に勤しんでいる姿を横目に感慨深い気持ちになっていた。鑑別所では一言も喋らない奴だと思っていたものの、出所してからはみるみると物を言うようになった。パソコンがとにかく上手いようなので警察側からは厳重警戒されているほどのようだが、赤城はそうは思わなかった。真央自身は来たことは一度もなかったが、この町が亡き母親の故郷だったことから出所したしばらく後にここへやってきた。この町とは訳あって繋がりのあった赤城は彼女の世話係のような気持ちでこの町の出張交番勤務を請け負うようになったわけであったが、いつしかそれもこの町の計らいによって警察側から正式な勤務としてこの町に置かれるようになっていった。もちろん真央は嫌がってはいるようだが、なんとなしにお互いが、まともな話し相手になれているような気もして、そんな間柄を、赤城は過去を思い出しながら苦笑したのであった。しばらくして、1人そんな考え事にふけっていた赤城のもとに町役場から1人の役員が小走りにやって来た。
「あ、永野さんじゃないですか。先日の工事お疲れ様でしたね、どうかされたんですか?」
「赤城さん、大変なんだ。ここだけの話だから口外は避けてほしいんだが聞いてくれ」
「…わかりました」
永野と呼ばれた町役場の職員は小声になると赤城の耳元で囁いた。
「実はだな…13年前の記憶を持った青年がこの町に…1年近くも住んでいたんだ」
「?!」
「赤城さん、あんたも知ってると思うが、この地に住む町民のほとんどが、あの年に起きた全てを当時の世代の子供たちの記憶から、無理矢理忘れさせた。悔やんでいる者も中にはいるが、ようやくみんなが綺麗さっぱり忘れかけてるんだ、何も今更それを持ち上げる必要はないじゃないか。だから、その青年には特に注意してくれないか?あんたは警察だ、この町のために貢献してくれ」
「…13年前、ですか…。その、青年の名というのは?」
「…上川くんだ。上川先生の…息子さんだよ」

三十九章『ふたりの隙間』
気のせいだろうか、先ほどまで、あらん限りの勢いで地に打ち付けていた大雨の雫が、減ったような気がする。そんな沙織の考えを読み取ったかのように、未だ晴れぬ濃い雨霧の向こう側の男性が少しおさまりましたね、と語りかけてきた。
「ですよね、さっきまでと違う雨だ」
1時間以上前に降り始めた土砂降りの雨を避けて雨宿りをしていた沙織は、雨霧の向こう側にいるもう1人の見えない男性と、しばらくのあいだ、どうでもいい話で盛り上がった。互いの存在も、ここにいる理由も触れることはなかった。他人の間柄でそんなことは話さないだろうと沙織もわかっていたし、向こうもそんな礼儀のある人間でよかったと思っていた。お互いの呼び名を沙織がアルファベットのSで、向こう側の男性が同じくアルファベットのOにしたことも、ちょっと気に入っていた。この町は人がいるのかいないのか、いまいちわからないところが多い。けれど、この人はきっといい人なんだろうと沙織は思っていた。ついついそんな事を考えていたら、恋人の話題になった。
「私なんて、あまりいい恋愛したことありませんよ?そんなこと言うOさんは、どうだったんですか?絶対いるでしょ??」
「まさか、雨霧で見えないだけで、見た目が本当は凄くゴツい男なんですよ?…けどまぁいました、1人だけだけど、これが本当に凄くいい奴だったんですよ」
「あらら?やっぱりフラれたんですね?」
「そこで期待されんのは腑に落ちないけど?でも、Sさんのご期待に添えて、フられたんですよ」
「でも偶然!大丈夫ですよOさん?私も前に付き合っていた奴にフラれたんですねこれが」
「そうだったんですね!お互いフラれたコンビなんだ」
「なんですかそれ!一緒にしないでくださいよね〜、けど、そのフってきた奴がやっぱり、今思えば本当に、いい人だったんだなって感じます」
どこか似たり寄ったりなふたりの会話が終わりを迎えたのは、こうして大雨の勢いがおさまった頃だった。Oの方が予定があったらしく、今のうちに走って行くつもりのようだった。
「まだ止んではいないんで、気をつけてくださいね!」
「はい!というか変なアルファベットとか色々付き合わせていたしまって、すみません」
「楽しかったのに謝らないでくださいよ!あ、今度こそ待ち合わせしてみませんか??」
「Sさんが楽しかったならよかった、それいいですね!こんな雨霧のなかでの約束ですが…それじゃ明後日の15時にもう一度ここで、というのは?」
「わかりました、じゃこの雨霧での約束、忘れないでくださいね、Oさんって言いますから!」
「もちろんですよ、じゃその時には自分もSさんで呼びますからね」
男の影が少しだけ去っていく様子が見えた。相変わらず霧は濃く、ふたりはやはり、一度も顔を合わさずにその場から離れていったのであった。不思議な出会いというのもあるものだと沙織は考えながら、自分もこうしてはいられないと、町役場にではなく、一旦劇団員の乗ったバスのある方向へと着替えを取りにその屋根の外へ走り始めていった。

四十章『雲の切れ間に』
1週間以上続いた豪雨は、夕方頃に少しだけ穏やかな青空を見せていた。道という道に水溜りができており、ほのかに甘い香りがするのは気のせいではないだろうと、涼は考えつつ、いわみ野とあざみ野を分ける小夜川を上流に向かって歩いていた。ほとんど家から出られなかったこの豪雨のあいだは、引越しの荷物やら片づけやらが案外はかどったこともあって、今日に至るまでにはほぼ部屋のあらかたの作業は終わっていた。だが地元の天気予報いわく、この上を通る大きな雨雲は、あと1日だけ大雨を運んでくるらしい。涼はその前にと、池やら川やらを見比べるていきながら蛍を探していた。雨は止んだものの青空は雨雲の隙間からしか見えない。風が遠くで吹いているのがわかった。山々を撫でる風が、どこからともなく雨を運んでくるのだろうか。そのとき、ひとり佇んでその景色を見守る涼に声をかける者がいた。
「蛍ならまだいないんじゃない?」
大雑把に髪をポニーテールにしたその女性は涼と同じように小夜川の水面をにらみつつそう言った。驚いたように涼が返す。
「え、本当?この時期だって聞いたんだけどなぁ。あ、すみません、私先週からいわみ野に引っ越してきました、涼です。よろしくお願いします」
刹那、雲の切れ間から射し込む光が、眩しいほどに2人のあいだを去っていった。
「あぁ!もしかして関根くんが連れてきたっていう美人さんか!私いなかったもんねあの時。えと、桃園民宿舎の夏菜子!関根くんから聞いてたりした?」
「え!じゃあなたが夏菜子さんですね、失礼しました!」
なんで謝るのよ〜というか顔小さっと笑いながら返す夏菜子と話しつつ、涼は違和感を隠しきれていなかった。なんだろう。凄く遠いのに…少しだけ懐かしい気がした…。多分、気のせいだ。
「今日あたりはさっきまで小雨だったし、大雨で流された蛍たちも明日か明後日あたりには見れると思うけど、ちょっと上ってみよ?」
「でも、夏菜子さん用事とか大丈夫なのですか?」
「いいのいいの!何からしたらいいか将来のことにすら時間を持て余しちゃってる身分だし、今朝から仁乃神社でボーってしてるだけだったからさ!」
ふたりはそんな会話を続けながら、ゆっくりと川を上り始めていた。風の音だけが聞こえるこの町の季節はようやく幕を閉じようとしていた。涼は思い出しそうな何かを考えていたが、夏菜子の無邪気っぷりを見ているとなんだかどうでもよくなってきたわけで、蒸さ苦しかったあのどんよりとした空気がどこにもないことに少しだけ、虚しさを感じたのであった。

四十一章『梅雨蛍』
13年前にも、小夜川には蛍がいた。緑豊かなこの町の至る所に、儚く光る灯火が消えては現れていた。河川敷を走る子供たちにはそれが蛍であることを知っているはずもなく、何か凄い現象であるかのように天を仰ぐのであった。
「裕翔!これスゲェ光ってる!」
「かーくん知らないの?これ虫なんだぜ!」
まだ幼い上川と裕翔が呑気な会話をしていた。横で少し背の高いセーラー服を着た高校生らしき女の子が上川に囁く。
「上川くんこれが蛍だよ?」
「あ!じゃ絵本の虫だ…マキちゃんは何でも知ってら!」
「そりゃぁ頭がいい女の子だからね?」
得意気に胸を張る女子高生に小学校に入ったばかりの面々がちょっとだけ苦笑いしていた。そんな様子に釘をさすように夏菜子が口を開いた。
「でも、マキちゃん昨日かーくんのお母さんに叱られてたよ〜」
「あー夏菜子見てたの〜?上川先生はいつもああなのよねぇ…最近宿題全然出してないし…」
「マキちゃん私もまだ夏休みの宿題やってないから大丈夫!岡くんにやってもらえばいいよ!」
ひとりでケンケンパをしていた幼い松岡が、同じく幼い岡本をみてニヤニヤしながら口を挟んだ。
「聞こえてるよまっちゃん。僕は嫌だよ」
「岡くんに無理なら誰にしよっかなぁ〜」
裕翔があっと声を漏らし、女子高生にコソコソ話をするように手で口を隠しながら呟いた。
「マキちゃんには俺の兄ちゃんがいるじゃん!」
納得するかのように、上川や岡本、そして夏菜子や松岡らが頷きながらニヤニヤしていた。上川がやたら下手な口笛で煽っている。
「え、潤くん⁉︎やだ、ち、違うわよ!」
「違うくない!もうできてる!」
こら!と頭をグリグリされる裕翔を見ながら、上川はぼんやりと周りを浮遊する灯火を眺めていた。なんだか夏の始まりなのかなとだけ思ってしまったりする。夏の良さがいまいちわからない年頃だろうけど、この時確かに彼らは、少しだけ、夏の良さがわかった気がした。ぼんやりと梅雨明けの蛍を眺めながら空を仰いでいた上川が、ぽつりと呟いた。
「なんだか…花火みたいだ」
ふいに遠くの風が、樹々の葉を波立たせながら、やって来た。その瞬間が黄昏時を知らしめるかのように、全員がその空を見上げていた。

四十二章『記憶の存在意義』
交通手段を梅雨の嵐によって失い、桃園民宿舎にしばらく長居することとなった若手女優、松岡は、豪雨の夜からしばらくたったある雨の日に、学校をサボって町を徘徊していた女子高生に出くわし、それ以来ずっと紫陽花並び咲く道で、会話が続いていた。
「でもそれもさ、13年前の出来事だからね、記憶ってどこまでに価値があるのかって思うとね、やっぱムシャクシャするんだ」
ついさっき出会ったばかりの歳下にここまで話していた松岡は少しだけそんな自分に驚いていた。女子高生の方はというと先程までの浮かれ様とは違ってゆっくり頷きながら微笑んではずっと聞いてくれていた。ペラペラと言えてしまうのは、初対面だからなのだろうか、それとも…。
「まっちゃんみたいに落ち着いた雰囲気持った人でも、ムシャクシャすることもあるんだね」
「何よそれ、案外ここに来た時は、目的とか忘れてパーっと田舎に住み着きたいとか思ってたよ?はしゃいでたしね」
「目的、か。自分探しってわけでもなく、親探しでもなく?」
「そう、私は…、私が出逢い共に同じ時間を経て一生のかけがえのない存在となるはずだった人々の心を、奪いにきたのだからね」
雨が小雨になりかけていた。風が落ち着いているのは、ここではないどこかから吹きつつある証拠だろうか。松岡はふと思い出すと女子高生に聞いた。
「ごめん、そいや名前聞いてなかったよね」
セーラー服のスカートがそよ風でゆっくりと波を描いている。彼女はただのサボリ魔でーすと適当に返すと、小夜川の方角へと歩き始めた。はぁと溜め息をつきつつ松岡もとりあえずついていく。河川敷の方にはそこまで距離もなく、少しだけ坂を登ればもう水の流れる音が聞こえていた。昨日、ようやく雨が晴れた。最後にひと雨降るらしいと聞いていた翌日の今日は、のどかな小雨が続いていたが、どうもそれは、今ようやく終わりを迎えようとしているらしかった。
「梅雨が終わるって、どうゆうことか、まっちゃんわかる?」
透明のビニール傘と一緒に自分もクルクル回る彼女の姿を見ながら、松岡は少しだけ間を置いてから返した。
「蛍が…見れなくなるってこと?」
ふふっと笑いながら女子高生は坂を登り終えると、松岡よりも早く先を見据えていた。その先にはこの町をふたつに分ける大きな小夜川と、まばらではあったが、ちらほらと蛍が飛んでいた。静かに点滅を繰り返しながら、浮遊するそれはまるで、いつかの思い出のように…。松岡はハッと気づくと、それよりも早く記憶の断片が脳裏をよぎっていた。…梅雨…小夜川…蛍…女子高生…。
「ねぇ、あなたは…!」
後ろを振り返る松岡に、佇んだままの女子高生はえへへと笑いながら、さしていた傘をクルッと一回転させると、ゆっくりと閉じてから口を開いた。
「梅雨が終わるってことはね…本当の夏が、明日から、くるってことなんだよ?」
あぁ、そうだった。そういう言い方が、あの人の口癖だったからだ。雨は、もう止んでいた。けど何故だろう。なぜ雨が止んでいるのに、頬には雫がこぼれるのだろう。
「あ、あれ…?私…なんで涙を…?」
目元から頬を伝い、涙を溢れさして彼女を見つめていた松岡は、自分の涙に今気づいたようだった。雨雲がものすごい勢いで空を渡っていた。そうか…むさ苦しい季節なのに…終わると、案外寂しくなるものなんだ…。どうして泣いているのか、松岡にはわかっていた。わかっていたからこそ、理解できなかった。
「あれ?向こう側にいるのってさ、もしかしてまっちゃんとこの娘さんじゃない?」
いかにも他人行儀な言い方だったが、確かに向こう側にいたのは、夏菜子と、もう1人は関根が手伝いに行った家の美人さんだろう。
「会いに行こうよ〜」
こうして、走り出した彼女に引っ張られるように松岡も涙を拭いて橋へ向かった。まだ…今は考えないでおこう。そう、胸に秘めながら。

四十三章
前編『旅の結末』
「どれだけあの町からお前を守ったのか、お前にわかるのか?」
父親から幾度となく繰り返されたこの言葉の真意を、上川はまだ知らなかった。いや、これまでの記憶を欠かすことなく生きてきたからこそ、当然の環境に疑問を持ったことなどなかったからだ。自分の故郷で何があったのか、それくらいずっと覚えてここまできたのだ。生きてきたこの約20年間に、何の支障もなかった。だが、それでも知りたかった。
「蛍…か。結局見れなかったな、今年も…」
喧騒とした大都市に帰ってきた上川は、ぼんやりと、陽炎の向こうにそびえるビル群を眺めていた。暑い。でも、こんな暑さが夏だとは思えなかった。高校生活を支えてくれた米田教師と卒業以来に再会した上川は、あれから長い間これまでを振り返り、久しぶりに語り合った。だが、上川は結局、あの町へは足を踏み入れる勇気を持てずに帰ってきていた。踏み込んでしまえば、もう後戻りのできる世界ではないことだとどこかでわかっていたからだ。時間の問題だろうか?いいや、それはおそらく、上川の覚悟の問題だろう。だがそれでも、行かなければ始まらないことは百も承知だった。はぁと溜め息をつきながら歩く高層ビル群に狭められた人通りの多い道は、酷く上川を苦しめていた。ただ守られてばかりじゃ何も始まらないような気がしていた。あの町で起きた物語。あの町に住む親友。例え彼らが自分を赤の他人だと思い込んでいても、どうしようもなく、上川にとってはかけがえのない存在たちであること。伝えたいことが山ほどあった。けれども、近くの母校に行っただけで足はすくんでいた。すべての人間にとって、自分という存在が決して尊い命ではない事を、上川自身がよくわかっていたからだ。父親から預かったハンドバックを、強く握りしめた。行かねばならない。
「…もう一度、俺は、あの町に住もう」
そうしたら、かつて父親たちが成しえなかった約束を、目的を、夢を、実現することができるかもしれない。いや…しなければいけないんだ。その為に、俺はあの町へ行こうと決意したのだから。当然、父親からは何度も反対されるだろうとは予想している。それでも、上川の決意は、既に決まっていた。
「一生かけても、いや何生かけてもいい。それで俺たちの未来を変えられるなら、何度だって生きてやる」
その瞬間、数多の人間が行き交う街のなかに、たったひとりの青年の覚悟が生まれたのであった。

中編『とあるバス停にて』
バス停で立ち続けること2時間、母校の町にいても特に用のなかった上川は、リュックひとつ背負い、一日に3回しかこないバスを待ち続けていた。横にも1人の男性が立っていたが特に目立った様子もなくベンチに座っている。
「くそ、これは想定していなかったな、家の前のバス停なら10分に一本なのに…」
上川はうなだれながらリュックに重みを感じていた。父親から手渡されていたハンドバックはそのまま入れている。引っ越すと言っても自室がそこまで余計なものに埋め尽くされていなかった為、手間はかなりはぶかれていた。先に向かわせた荷物の整理よりも手間がかかったのは、父親との口論だった。勿論のこと、反対された。何よりもあの町を知っていたからこそ出てきた父親の意見は、筋も通っていたし、事実だったからだ。自分の気持ちを親に伝えるということがここまで身を狭くする思いだっとは思わなかった。なんせ親には親の思いやりがあることをこの歳にもなるとわかってしまうからだ。だが、気持ちは揺らぐことはなかった。上川にも行かねばならない理由があったからだ。一週間ほどして、長かった梅雨が終わろうとする頃、ようやくその決着はついた。父親はこれも何かの縁なのかもしれないとだけ呟くと、引越しの手続きを手伝ってくれたのであった。けれど、上川は胸を張って帰ってこようと決めていた。何と言われようとも、馬鹿にされようとも、何年かかるかわからないこれからの目的を果たす為、上川は腹をくくっていたのだ。
「とは言ったものの、これから始めるっつても、地道にやっていくしかないんだよな。資格なんて数年やそこらで取れるものでもないから」
だからこそ、米田教師という存在は大きかった。元担任に会いに行ったのにも、夢を語るだけでなくその実現に、ともに携わって欲しかったからだ。木材で作られたバス停の小屋には座布団が椅子に敷かれており、なかなかの居心地だった。上川は背をもたれながら、ふと自分の体に目をやりつつ呟いた。
「痩せないとな…まずは筋トレか?」
「まずは、ランニングだよ」
慌てて横を見ると、先ほどまで黙り込んで本を読んでいた男性がこっちを見て腹を指差していた。うるさい。だがごもっともだった。
「そうなりますね、ジムとか行かれてるんですか?」
上川は苦笑いしながら男性に語りかけた。
「少しだけだけどね、でも俺もまだ未熟だぞ?向こうの町に住み着く予定なんだが、もしかして君も旅行か何かかい?」
上川は少し驚きつつはい、と答えていた。極力人との関わりを避けていこうとは思っていたが、気が抜けていたようだ。
「そうか、じゃ一緒にジムにでも行かないか?かなりの田舎だけどジムがあるらしいし、時間があるときにやってみようよ、って言うのは野暮かな」
「実は…旅じゃないんですよ。自分も今日からあの町で住む予定の人間なんです」
向こうにいた男性は初めてニコッと笑顔を見せると安心したように今後の予定を教えてくれてた。こうなったら仕方がない。目的に一歩ずつ近づきながら、体力も鍛えていこうと上川は決めたのであった。
「ところで、君の名前は?」
「すみません遅くなりました。自分、上川って言います」
「上川くんだね、よろしく。俺は、岡本だ」
胸をえぐられたような気持ちだった。そんなはずはないと思いながら、上川は冷静を保ち、笑顔でよろしくお願いしますとだけ言っておいた。岡本、岡本…。岡くん…。思わず、涙が出そうだった。平静を保つことだけに集中していないと、何もかも溢れかえってしまいそうだった。わかっている。こんなところで、何もかも打ち明けられるはずはない、なぜなら、彼は、岡本は、上川の事を忘れている以前に、記憶から消されているからだ。
「お、バスが来たぞ上川くん」
ようやくやってきた小さなマイクロバスに乗り込み、ふたりは静かなバスの中でゆったりとこれからの生活費などについて語り合っていた。上川は次第にこれから起こりうる同じような現象を、しっかりと受け入れていこうと、考えたのであった。

後編『ふるさと』
最寄りのバス停、と言ってもあの町からは随分と距離のある道のりだ。3時間ほど経て貸切だったバスを降りた上川は、岡本と共にアスファルトの道路から外れて綺麗な山道を1時間ほど歩いて向かっていた。時折、つたに覆われて緑色と化した鳥居が何列にも並んで立っている。隙間に見える赤色がやや不気味だ。
「随分と歩きますね…」
上川は岡本の足を引っ張りながら息を荒げる。そんな様子とは逆に息切れひとつしない岡本は上川の歩幅に合わせつつ歩いてくれている。そんな気遣いが一番屈辱だった。上川はこれも運動のうちと考えながら歩き続けていた。
「なんか、不思議な町なんだよね〜」
上川はビクリとしながらどこがです?と聞いていた。岡くんは…覚えていない。けど何かに勘付いているのか?
「別に…。こういうのってたまにないか?既視感ってやつ?ありえねーけどよ」
そう…だったのか。上川は岡本の背中を眺めながら返した。
「デジャブですね?こんな風景を前にも見たことが…」
その時だった。そんな会話をしていたふたりは、唐突に動きを止めると口を閉じた。
「…梅雨、明けてたんだな」
ミーンミンミンと風のように流れるように、樹々のどこかで蝉が鳴いていた。不思議と耳障りにならない。心地いいほど颯然としている。1年ぶりの季節の到来に、ふたりはそれぞれの内で感慨深く浸っていることだろう。
「あ、あそこに見える鳥居は…手入れされてますよ、ほら!その向こうに町が!」
上川は岡本を置いて1人走り出していた。疲れている分、やたら笑えてしまう。足が震えでもしているんだろうか。…なんだろう。はじめは親のためやら、生まれ故郷のためやらでここへ来る決意をしていた。けれど。
「理由はいくらでもあらぁ!ただ!…あのままで終わっちゃ…いけないだろうが!」
息を荒げながら上川はそう叫んでいた。多分、岡本の方には聞こえてすらいないだろうけど。自分に言い聞かせているだけだった。やがて樹々の無い、一望を見渡せる所までやって来た。
「だから!…だから…、誰かが最後までやり遂げるべきなんだ!」
口では目的とよく言うが、目的なんて軽いもんじゃない。この町の夢だったんだ。過去に縛られるんじゃなくて、未来を紐解いていくんだ。俺たちの…手で。
「やぁ、1週間ぶりかな?」
ようやく追いついてきた岡本とふたりで町の景色をしばらく眺めていると、そこへ聞き覚えのある声がかけられた。
「米田先生、今回は無理を聞いてもらって本当に…」
「ああいや、礼は1年後に待ってるよ」
ニヤりとしながら言う米田教師と上川のやりとりを疑問符を浮かべながら聞いていた岡本も何も質問せずにじゃぁ1年後だね、と返してくれていた。何も聞いてこないあたり、どこか変わっていないなと上川は安心してしまっていた。岡くん…俺は、絶対にこの町の現状を変えてみせるよ…!その時は、必ず、岡くんも自分の過去を受け止められるように、背中を押すから…!
「蝉時雨だな…」
米田教師がポツリと呟いた。呼応するかのようにサァサァと樹々を風が分けて通ってゆく。青い田圃が稲穂を天へ向けている。夏の風が波を立てて稲の隙間を通り過ぎていった。上川は眼鏡を掛け直すと、ふるさとをその視界いっぱいに入れると、大きく息を吸った。
「…夏が、来た」
それは…上川がこの町へようやく帰ってきたある梅雨終わりの日のことであった。こうして、時は1年後の現在へ至る。だが、忘れてならないのは、現在へ至るまでの上川という男が、どのようにして1年を生きてきたかである。何のためにこの町へ足を踏み入れ、何を目的に決意したのか、上川なる者が求め歩んだこの1年と、遡る13年前の彼らの記憶が、結びあわさる時、物語は過去と現在を結ぶ架け橋へ変わるだろう。そして、いつの日かこの町に夜明けが訪れる時、その輝きを取り戻すのは、他ならぬこの男と彼らであることを、忘れてはならないのだ。

四十四章
前編『ふたりだけの時間』
雨が降り続いているせいか、スーパーまで買い物に来る人の気配はあまり見当たらない。店員ものんびりと新聞を読んでいた。
「ね、そこの空芯菜とって」
限定半額シールの貼られた野菜コーナーを指差して言う大石に孝大は無言で手を伸ばす。
「返事ぐらいしなよ?」
笑顔で語りかけられるその眼差しには、潤みのある瞳の代わりに情のない恐怖すらも感じられた。
「ぁあ、うん」
適当に答えた孝大は心の中で溜息をつく。ふたりで入店してからというもの、このありさまが半時間ほど続いている。話したいこともあるけど、逃げたい気持ちもあって、既に孝大の胸中はいっぱいいっぱいだった。
「これで、えーと?…よし、頼まれものは揃ったかな!孝大の探してのは、あごだしで最後?」
「そう、だね」
ふたりは同じカートの上と下にそれぞれの頼まれたものをカゴに入れてレジまで押していった。第三者がこの一部始終を見ているとするならば、天地がひっくり返るほど驚愕していただろう。学校では虐め虐められる関係。特にいじめグループからは特別扱いと呼称されるほどそのやり口はいつも非道だ。なのにそんな風景からはまるで想像もできないふたりの姿は、異常な光景だった。
「…大石」
「何?」
「こういう事、前にもあったよね…春休みの風神市場でここらの人のほとんどが出払っているときに…いつもの君じゃなかった。いや、いつもと変わんないんだけどさ、なんか優しー」
「ー何言ってんの?気持ち悪いくらいクズだね孝大は。そんなの、いつでもできるからに決まってるでしょ」
「…そうか」
孝大は納得したのかしてないのか、曖昧な頷き方をすると、レジでの会計を大石からもらったお金と合わせて支払った。店員がさも眠たげに椅子に座り込みいびきをかき始めた頃、大石と孝大はそれぞれのバッグに買い込んだものを入れていた。
「なんでこの町ってさ、お祭りとかないのかな。毎年催し事とかはあるくせに、屋台一つ出さないって…なんかつまんない」
大石の呟きに孝大は最後の豆腐をビニール袋で包んでからバックに突っ込むと返した。
「知らないけど…俺もそれは思ってた」
ふたりの会話がたとたどしく続く中、なんとなく見た窓の向こうの小雨は、どうやらもう止んでいるようだった。ぼーっと大石が袋の中身を整理している光景を横目に孝大は、梅雨の終わりを感じていた。このあいだ見た悪夢だって、もう5年も前のことになる。大石本人が誰よりもあの出来事の被害者になるのかもしれないのだろうけど、それでも…。
「なぁ大石」
「今度は何よ?」
「…いつまで恨んでも構わないけどさ、俺はお前がまたあの時みたいに道を外しそうになったら、止めてみせるからな」
袋を探る手が止まり、大石はいつも通りの笑顔をやめると少しだけ窓の向こうを見つめてから返した。
「…勝手にすれば?あんたなんかに助けられる覚えもないし、あの時が無けりゃあんただって私から憎まれずにすんでんのよ」
「わかってるよ、でも守るって決めたんだ」
少しだけ語気を強めて答えた孝大に大石がはじめて苛立ち紛れの声を出していた。
「いい加減にしてよ、もうほっといてよ!なんで私なんかにかまうのよ!」
「…なんて言うな」
「え?」
「私なんか…なんて言うな」
孝大はバッグを肩にかけると先に歩き始めた。自動ドアまで来てからガラスごしに後ろの大石を見る。大石はそのまま口にした。
「孝大…あんたが、お母さんを殺そうとしていた私を止めたのは…何のため?」
自動ドアの真上の天井では、センサーが2人にまだ気づかずに赤く点灯している。その小さなライトを眺めながら孝大は聞き返した。
「じゃあさ、なんで大石は…自分のお母さんを殺そうとしたんだ?」
そんな事…言わなくてもわかりきった話じゃないのと言わんばかりに、大石は孝大を睨みつけている。孝大は続けた。
「大石のお母さんが、自分の娘…つまり大石に狂気的なほどの愛情を持っているのは俺も、町内の人はみんな知っているよ?だからって何で殺そうとまで思えるの?」
「わかんないの?アレは異常なの…毎日毎日これまで生きてきてずっと…ずっと過保護過ぎるのよ…。あの夜以降だって変わらず今でも狂ってる。そんな親のそばで生きてたら、私だって…怖いのよ!」
店員が目を覚ましたのかこっちの方を見て呆然としていた。話の内容は理解できていないのだろう。孝大は内心でホッとしながら大石に対して、返した。
「親を殺す子供が平然といていいわけないだろ。もっとそういうの話しあえよ。理解しようとか思えよ。嫌だったら目の前でそう言えよ。同じ屋根の下で一緒に生きてんだろ、母の手ひとつでまだ育ててもらってる途中なんだろ。止めた俺を恨もうと勝手だが、人の道は絶対に逸れんな」
ぐうの音も出ないのか大石はその場で突っ立ったまま黙っていた。それでも、その小さな顔には孝大を睨むほどの余裕はあるようだ。孝大は久々に本音を幼馴染に言ったような気がした。ここのところ、中学校に入ってからは大石が孝大だけを目の敵にする様子を気に入ったいじめグループが大石と加わったことによって、よりその陰湿ないじめが増えたこともあり、当の大石とふたりでしっかり話すのは数年ぶりのような気もしたのだった。

後編『ふたりだけの出口』
「もう帰るよ。大石だってこんなところを彼氏さんには見つけられたくないだろ」
しばらくして孝大から出た言葉に、大石は返事もせずについて歩き始めた。いじめグループのリーダーが、自分の彼女が男と一緒にいるのを見て何も起きないわけがないことは、お互いによくわかっていたからだ。孝大が足を伸ばすとセンサーが青になり、ふたりは開いた自動ドアの出口を通って行った。すると先ほどまでの曇り空から一変し一瞬のうちに風が吹いて青空をつくっている事に気がついた。にわかに雨の匂いがあたりをただよっていて少し湿っぽい。大石は別れて歩き出そうとした孝大の後ろ姿に声をかけた。
「ねえ。私は…あんたの事が大っ嫌い」
「…今更だろ。わかってるよ、じゃあー」
「ーでもさ!でも……あんたの意見は、嫌いじゃないかも」
「…熱でもあんのか?」
「爪はがすよ?」
ふたりは、生まれも育ちもこの町であり、その関係は生まれた頃からの幼馴染だ。共に知を得て愛を学んだ。小さな世界だが、それでも世界が広く思えるほどにふたりはここまで成長していた。修復されるような関係ではないことも承知している。それでも、と大石は…孝大は…感じていた。
「…雨、止んだみたいだな」
ふと空を見上げた孝大につられるように、彼を睨んでいた大石が空を仰ぐ。ふたりを見守っていたかのように、道脇で座り込んでいたキツネが大きくあくびをしていた。
「花火…見てみたいな」
「会うたび言うよな、それ」
空を仰ぎながら呟いた大石のその言葉に孝大は返すも少し間を置いてから、打ち上げたいな、と呟き返す。帰ってきた言葉が肯定の返事だったことが少し嬉しかったのか、気味の悪い笑みなのか本当の笑顔なのかわからないような顔をして大石は、鼻で笑った。相変わらず読めない奴だと、孝大は考えながら歩き始める。多分、まだお互いに理解しあえる時ではないのだろう。どんなに時間がたっても心の傷は治らない時だってある。親の溺愛が狂気的なほどの愛情を生んでいた。父を早くに亡くした大石はその理由が急病だと聞かされても納得はいかず、ただただ受け入れざるをえない世界でずっと苦しみ続けるほかなかった。そんな娘を想ってか、いつからか母親は娘にたいして度を超えたと言っても過言ではないほどの愛情を注ぎ始めた。無論、彼女の気持ちが不信感で満ちた親子関係から恐怖の対象へと変化したことは言うまでもない。孝大は歩きを止めると後ろに振り向き大石に話しかけた。
「もしさ、花火が今年こそ打ち上げられるとしたら、大石はどうする?」
「どうするって…。まぁそんなことありえないでしょ。お母さんはそういうの何故か反対するし…けど、うん、もしも打ち上げられたなら、あんたの努力にみならって私も何か夢でもつくってみよっかな、その時は」
真顔で信じられない発言をした彼女を前に孝大は大石にまだ素の自分が残っていることが少しだけ嬉しくて笑みをこらえた。
「…そっか、わかった」
頷いた孝大は踵を返すともう振り返る事もなく歩き始めた。風が心地いい。気のせいか、雨の匂いで少しだけ鼻がくすぐったい。大石はキツネにウィンクすると孝大とは逆の方向に歩き始めた。バッグの中で野菜の香りがプンプンする。帰りを待つ存在がいないよりはましであるような気がして、大石はこれまでとは違う考え方に静かに動揺していた。これもまた孝大のせいなのだろうか。
「…変わんないね、あんたは」
もうとうに後ろへ消えた男には聞こえるはずもない言葉を、大石はため息と一緒に出した。いつも学校では晒し者にしている男子なんかと連んでいると、多分周りの友達は自分までも嘲笑うかもしれない。でも、何故か…大石は5年前のことを振り返りながら少しだけ…ほんの少しだけ、罪悪感を感じたのであった。
「梅雨が明けたら、何が始まるんだろ…」
淡い夕闇が夜空をつくりあげていた。見惚れるほど美しいその空の下、大石は、孝大は、それぞれの思いを胸に、家に向かって行ったのであった。

四十五章『もしも見守ることができるなら』
上川は茶を飲み干すと、腰を下ろして花瓶の水を入れ替えている老婆旭に声をかけた。
「旭婆さん、今日もありがとね。また何か手伝えることがあれば言ってください」
「あらもう帰んのかい?本当に助かってばかりさね〜。いつもありがとね、ほれもう旬やけ持って行きん」
旭はそう言うと新聞紙の上に山の如く積もる野菜の中からピーマンがやせ細ったようなものの大量に入った袋をひとつ取り出すと上川に渡してきた。疑問符を浮かべながら受け取った上川は礼を言いいながら玄関から空を見上げた。
「やけに小雨ですね〜。6月も終わり明日からは7月ですよ…もう1年…か」
旭はそんなふうに呟く上川を眺めると考え深げに返した。
「…お父さんは決死の覚悟で、あなたを見送ってくださったんだろうさね」
「…そして1年がたって、完全にではありませんが…ようやく、スタート地点に立てたような気がしますよ」
旭はいつものように優しく微笑むとその言葉の意味をしっかりと受け止めるように頷いた。こうして上川は別れを告げると茶屋を出た。傘をさすもどこか降る雨の量は物足りない。だからと言って先週のような豪雨はお断りだなと内心ボヤきながら上川は茶屋からしばらく垣根通りをあざみ野へ登ると、小夜川手前の角を曲がった。すると、突然影が現れて上川を待っていたかのように声をかけた。
「また行ってたのか」
さして驚くこともなく上川は振り返らずに歩きながら返した。他人ではないとわかって少し表情も緩む。
「またって何ですか。ひとりでこの13年間をあの茶屋で生きて、まだ産婆も続けてるんですよ?コソコソと隠れながら山奥に引きこもって生きている俺たちよりもずっと大変なんですからね?」
現れた影の正体は貧乏くさい格好をしたどこか元気の有り余る老人だった。
「一応はお前さんだって住民票をヨネちゃんに頼んでおいて貰ってんだからワシよりかはよほど人間的な扱いじゃねーか」
上川は呆れたように喋るも、どこかいつもと変わらぬ日常と化しているのか楽しそうだ。
「行方不明者は帰るまで黙っててください。今日だってやり残しがあるんですからね」
「上川家は代々何も変わらんの。性格は受け継がれるんかい…ほう?その野菜…獅子唐じゃないか」
「これピーマンじゃないんですか?」
「向こうの家は今夜あたりお隣さんとこと宴会でもするんかね、炒め物なら獅子唐は美味いぞ?あとは天ぷらにするとだな」
「ああもう、お腹空くじゃないですか!早く行きますよ。俺たちもつくればいいじゃないですか」
ゲラゲラと笑い転げる老人だったが、しばらくしてそのフザた顔を少し素に戻すと上川に話した。
「…元気にしよったか?」
上川は小夜川の土手と平行に続く小道を歩きながら振り返らずに返した。
「…はい。何なら旦那のことなんか忘れてるくらいでしたよ」
「それなら、いいんだ」
老人はふと空を見上げ、その夕闇せまる淡い空模様に浮かぶ光を見つけた。すると上川もそれに気づいたのかヘヘッと笑いながら呟いた。
「…蛍…。本当に、久々だ…」
そこにはあたり一面に舞う光の粒が空を彩っていた。紫色の夕闇が緑色に光る灯火に照らされてどこか別世界にも思えてくる。傘をさしていたふたりはそこで小雨がやんでいることに気づいた。
「たったあと数日の命だと言うに…こんなにも命をかけて飛んでるんじゃの」
「…ですね。こんな蛍時雨もまた、その証です」
「ヨネちゃんのような事を言うようになったの。こいまで同居生活をしていると人は似るもんだ…キモいの」
「いい歳したジジイが若者みたいな言葉使わないでくださいよ。キモいって…同じ同居人が言えた台詞ですかそれ」
「よし、今日は獅子唐で何かこしらえてみるか。かー坊、お前さんにも手伝ってもらうぞ」
「威勢良くシカトですか。っていうか、もうその名前やめてくださいよ」
グダグダと終わらないコンビの会話が蛍時雨の中を歩いていく。馬鹿みたいだなと互いにわかっていながら、そんなこの町の風物詩にどこかうっとりとするように、感慨深い思いを胸にふたりは仁乃山とは反対の森林地帯へ歩いて行ったのであった。ここでもまた、彼らしか知らない物語が一歩進み始めていた。夏の到来を待ちわびていたかのように、雨音は響き残ることなく、去って行った。まるで何かを成し得たかのような、そんな一幕の終わりかのごとく。

四十六章『互いの砂時計』
年百年中、春夏秋冬、風がやまないのはこの町でも、ここくらいのものだろう。裕翔は遠くに見える下界を見下ろしながら草原にひとり佇んでいた。ここ仁乃山を含め、多くの山々に囲まれたこの町には北東にあざみ野と南西にいわみ野を持ち、特徴としてあげるならあざみ野は比較的町内の行事ごとの多い中心的な地域で、反対にいわみ野は田んぼ畑広がる幻想的な田舎だった。家の作りも違えば住人の性格も違う。けれどもひとつの町として、ふたつの世界は切っても切れない関係だった。そんなふたつの世界を分けているのがこの町一番の大きな川、小夜川だ。名前だけに小川とも捉えられることが多いが、この川の名前の由来は、夜空さえもが水面に映ると狭く小さく見えることからその名がついたと言われている。大きな川だが流れは緩やかで夏場は子供達の遊び場にもなるようだ。この町の至る所に湧き水が流れ出ているため、その透明さは比べるものを持たない。そんな小夜川の源流が、ここ仁乃山にある。
「説明すると長いんだよな…」
意図せぬ解説を察したのか、裕翔はポツリとそう呟いた。悠々と雲が流れていき、風が草木を揺らしている。不思議なほどに涼しく、不思議なほどに眩しかった。雨が止んでからというもの、どこもかしこもびしょ濡れだっが、ここだけは違った。風が吹き続け、日光があたり一面に照りつけているためか、既に地面は乾ききっていた。裕翔はごろんと寝転がると流れる雲の隙間に見える青い深みがかった空を見上げた。
「…今頃下では蛍でも見れてんのか…」
蛍…。そう呟いた裕翔はふと遠い昔の何かに触れた気がした。こういう事はよくある事だ。ジムでトレーニングしている時だって、町を歩いている時だって、既視感のような、未視感のようなものを感じることも。だからと言って別段気にするわけでもない。この町で生まれ、この町で育ったならば、よくある事だろうと裕翔は納得する。納得せざるを得ない。なぜなら、
「記憶を失って…もう13年…か。結局なんにも思い出せずじまいだった。こんな既視感も、もしかしたら知ってたはずの何かだったってわかけか?」
裕翔はなびく草原の隣で、同じように寝転んでいるひとりの女子高校生に問いかけた。すると彼女は手にしていた花弁を鼻にくっつけてコケコッコーと鳴き返した。裕翔は真面目に耳を傾けたことが馬鹿馬鹿しくなりフンと鼻を鳴らすと目をつむった。彼女はというと少し答え方を間違えたと感じたのかその赤いハイビスカスのような花を鼻から取ると答え返した。
「梅雨葵も知らないの?こうやって花弁を薄く剥がすとね、シールみたいにひっつけられるんだよ!」
「だからなんだよ」
「裕翔にもみんなをひっつけられる力があるって…こと?」
「自分で答えかけて俺に聞き返すな。というか、もうお前の歳を超えたんだからそろそろ敬語とか使えよ」
「見た目の話では、でしょ?」
「普通ならお前三十路だからな?」
「うっさい!どっちかって言うとそれ以上だし!」
どこで踏み外したのかふたりの会話はいつも通りに戻っていた。そよ風、と言うべきだろうか。そんな風が優しく吹いている。肌に心地いいせいか少しだけ眠いような気がした。山の形をしていながらも地平線の如く広がる草原の真ん中でふたりはふと会話を止めると妙にしんみりとした空気に包まれた。
「なぁ、真希子。…俺はよ、人生のスタートが病院で目を覚ましたあの日からだった。親も、自分の事も、この町の事も、何にも思い出せずに13年間生きてきた。そんなこと、もう嫌ってほど思い知らされたし、記憶がないくせに苦しかった。けどさ、あの病室で初めて目を覚ましたときに出会ったのは、誰でもなく、お前だった。あん時は俺がまだ6か7歳くらいでお前はやっぱり女子高校生のままだったよな。あれから10年以上もたって、なんで俺なんかとまだいんだよ?他にも女子友達とかおるんだろ?」
梅雨葵の花弁を手に乗せながら真希子と呼ばれた女子高校生はフフっと笑いながら呟いた。
「孝大くんなら、ここで、『なんかなんて言うな』っとか言っちゃうんだろうなぁ」
「あ?誰だそれ」
「この町の優秀な中学生だよ。ほら、5年か6年くらい前に強姦容疑かかった子供いたじゃん?」
「そうだっけか?…なんかいた気もしないことはないな。それよりもよ、俺なんかといてもつまんねぇっつってんだよ」
遠くの空で飛行機雲が西へ線を引いている。その跡をなぞるかのように真希子はゆっくりと手元に置いていた透明傘を天に向けてかざしつつ答えた。
「それは、私の勝手でしょ?それに、記憶はいつか必ず私が取り戻すって決めてるの。町の人がなんて言おうと、裕翔には真っ直ぐ生きて欲しい」
「よくそんな話を真顔で言えるな…。勝手に決められんのも腑に落ちんが、まぁ好きにしてろ」
自由謳歌っと叫びながら真希子は大の字に身体を伸ばした。うんと気持ちのいい空気が鼻を通っていく。どこか真似でもするかのように裕翔も伸びをする。蒼い空が眩しい。明日からは灼熱の夏がやってくるのだろうか?それとも蝉時雨のオンパレードでもくるのだろうか?いずれにせよ、裕翔はジムに行くだけでは何も変わらない事も知っていたし、それ故に夢が欲しかった。目指せるものがある、それだけが、それだけで、生きている実感を味わえる気がするからだ。ジムに通いはじめてから初めて喋った男性にはどうも夢があるようだった。たまにくる太り気味だった青年も今や見違えるほどの体格を得ている。なのに、自分は何かが変わっている気さえもしない。無気力感、と言うのだろうか。憂鬱ではない。けれど、何かが足りないのだろうと裕翔は気づいていた。
「…目的、だね?」
横から突拍子もなく真希子の声がした。心でも読まれたのかと裕翔はため息まじりにああそうだと答えた。
「なぁ真希子」
「?」
「お前さ、これがしたいとか、これが見たい、とかあるか?」
こちらも突拍子もない質問に戸惑いつつ、真希子はうーんと唸りながらふといつぞやの断片的な記憶を思い出していた。だからだろうか。それはなんとなしに出たたったひとつの願いだったのか。真希子は空を仰ぎながらポツリとそれを口にした。
「…………………打ち上げ…花火。」
「うし、わかった。打ち上げ花火な」
「え⁉︎ちょ、ちょっとは動揺してよ」
裕翔は鼻を鳴らすと真希子の頭をワシワシと掴みながら言った。
「女の願いだぞ?男に二言があるもんか」
「…潤…くん」
ふと、同じ言葉をずっと前に言われた事を、真希子は思い出していた。小声だったために裕翔には何も聞こえていなかったようだが、真希子はそれこそ動揺を隠しきれていなかった。あの日に言われた言葉を…思い出す日が来るなんて思いもしなかったからだ。裕翔は草原から立ち上がると起き上がって座ったままの真希子に言った。
「それに、あの真希子が言うくらいだ。よほどの事がない限り、そんな突拍子もない願い事なんて言わないだろ?なんか理由があんだろ…まぁ深くは聞かねーけどよ」
記憶の欠片を、探しているのだろうか。真希子は裕翔の本心にも気づいていた。多分、これは私自身と、裕翔自身の記憶の整理なのかもしれない、と。裕翔にも真実を探そうという意思があるのかもしれないのだ、と。
「どーせバレてるだろうからもう言っちまうけどよ。お前の願い事は、半分は俺の願い事でもあるんだよ」
あれ、少し違った?真希子は少し予感していた答えとは違う裕翔の言葉を聞いた。
「まぁ、なんだ?こう、願い事はひとりで願うより、誰かと願ったほうが、叶えられるんじゃねーか?それに、これまで何もせずにこの町で生きてきた俺からしたら、これまでの時間を取り戻すきっかけにもなる気がしてな」
若干笑い気味に話す裕翔の背中を、真希子は目を潤ませながら眺めていた。下界では雨雲が降りている。多分小雨でも降り続いているのだろう。そんな霧に目をやりながら夕闇の迫る風を感じた裕翔は、振り返らずに真希子へ喋った。
「ほら、今日は蛍が見られる最後のチャンスじゃないか?梅雨も終わるしよ」
「…う、うん!そうね!じゃあ降りよ?」
「おう。俺は一旦敷物とか取りに帰るからよ、先に小夜川あたりで陣取っておいてくれ」
「わかった!待ってるね」
「…真希子」
「うん?」
「この夏は、デッケェ打ち上げ花火だぞ」
「……うん…!」
たった十数年の話だ。誰も興味を持たず、この町のなかで人知れず物語は続いていた。神様の悪戯だろうか。世間の波はいつしかこの町のことを忘れて今を生きている。そこで何があったのかを知る人も知らぬ人も生きている。それなのに、真希子はその目にある雫を落とさぬように堪え続けていた。小さな世界なのに、人は生きて、その意志を受け継いで生きている。泣きたくなるような日も、我慢の限界に達する日さえも、人は生きてこの大地に足を踏みしめている。笑ってしまいそうなほど必死に。真希子はひとりの平凡な男の背を見つめながら、何かが今頃になってようやく始まろうとしていることを悟っていた。梅雨が終わりを迎え、今や夏が目の前にある。真希子自身が本当に叶えたい願いを口にしたのは、この日が、生まれて初めてだった。何を期待しているのだろうかと真希子は自問自答をする。向こうに消えていく裕翔の背中が、かつての恋人と重なったような気がした。もちろん、彼女は彼の忘れ去られた記憶とその時間を知っている。決してこの13年間ものあいだ口にしたことはなかったが、溢れ出しそうなほど知っている。そして多分、裕翔ですらも、そんな真希子が言わないでいてくれていることを知っているのだろう。そんなふたりの関係が今もなお続いているのは、互いが互いを本気で考えているからだ。記憶が消えてもなお、何かを忘れていないのか、裕翔は人として変わっていない事は多い。真希子はそんな裕翔を育ての親ととも見守り影ながら今も支えている。真希子はもう答えを決めていた。戸惑いはあるが、もしもまだ間に合うのなら、あの年に叶えられなかった願いを叶えたい、そう決心したのであった。
「この仁乃山、13年前の終止符になったんだよね…うん、この夏で、終わらそう。この町のあやふやになったものを」
真希子はセーラー服を揺らしながら山を降りていった。草原が優しい音を立ててなびいている。フワリとスカートが舞い上がるも、真希子は少し手で押さえて歩いた。先に広がる町の景色が、今だけは、鮮明に見える気がした。
「潤くん、待っててね。君の弟が、私たちの叶えられなかった願いの続きを、始めるようだよ?」
夏の大三角形が、夏夜の空の向こう側で、輝いていた。

四十七章
前編『止まっていた時間』
「…き、君は」
「覚えておられますか?」
「だが、しかし…君はあの日退院して以来…もう動ける身体ではない、と…君のお父さんから聞いていたはずだ…」
雨が降りしきる梅雨の最中、町役場の一室で町長は床に散らばるティーカップの残骸を忘れてその場に立ち尽くしていた。目の前には、もう歩くことも喋ることもできないと言われた幼い頃の面影が映された青年がいた。窓の向こうで雨霧が悠々と通り過ぎていく。凍りついたような、安穏としたような時間がたち、上川は深呼吸をすると、スッと顔立ちを変えて、口を開いた。
「爆発事件以来、確かに俺と裕翔と貴方の娘さんは大きな衝撃波を受けました。けれどその場にいた裕翔の兄である潤さんと、その恋人であった真希子さんによって、俺たちは大きな傷を残さずに病院では息を吹き返しました。真希子さんと潤さんの命と引き換えに、大きな代償とともに俺と裕翔は目を覚まし、今もこの町で生きています。残念ながら、裕翔はその後遺症と心的外傷ゆえに記憶喪失となり今でも育ての親を産みの親と認識して生きています」
町長の目は終始上川当人を一点に見つめ続けていた。よほどこの場にいるはずのない人間だったためかその動揺は隠しきれることなく続いている。だが、上川は焦ることなく淡々とこれまでの経緯を説明していた。
「裕翔の件については町長もご存知ですよね?この町ぐるみで嘘をついているのは、誰だって知っています。だからこそ、記憶を保ったままだった俺はその事件のショックでしばらく喋ることができず町の人々からは、裕翔や桃園民宿舎の夏菜子さんの時のように嘘を吹き込まれそうになりました。けれど俺は、父親に助けられました。父親が家の中だけで俺を父の手ひとつで育ててくれたことは今でも感謝しています。ですが、この町での状況は13年たった今でもまだ足跡を残しているんです」
雷が鳴ったせいで、数瞬だけ窓の向こうの光が射し込んできた。部屋全体が一段と暗くなったような気もした。町長はこの現実をようやく再認識するようになったのか、上川の言葉の意味を理解し始めていた。
「町長…こんなくだらない大人の問題は、あの時こそは止められるものではなかったかもしれない。だから沢山の犠牲が出ましたし、多くの人が泣き崩れました。だけど…それでもどうかしてる!なんで住む場所が違うってだけで関係のない子供までもが苦しみを背負わなければならないんだ!」
ガタンと町長は一歩後ずさりをした。眼前に佇む男の圧は驚異的なほどに町長のこれまでのトラウマを貪り食うかのように、迫っていた。
「か、上川くん…!私たちはもう、君たちの世代には…頭が上がらないんだ…どうかもう忘れてやってくれ…!寝床に君たちの泣き声がまだ響いているんだ。もう何もかもが…どうにもできなかったんだ!」
「忘れてやってくれだ?空白の世代の真相を知ることもなく、忘れたように俺たちは生きなければいけないんですか!忘れて生きている子供なんてこの町にはごまんといます。それは町長たち町民の口裏合わせた嘘によってです。けれど、みんなそれをまるで教科書のように当然と思いながら生きている。自分の親が人を殺したなんて知るはずもなく、自分の親が自分の友達の親に殺されたなんて…知るよしもなく!!」
ひとたび雷が鳴り響き、部屋が一瞬だけ光に包まれる。町長の鬼を前にしたかのような表情が浮かんでは消えていった。しばらくして、町長は恐る恐る口を開いた。
「…そこまで知っていて、何故警察には通報しないんだ?」
上川は整然とした佇まいで返した。
「この町の中央交番の赤城さんも言わばグルだし、警察に委ねても解決する話ではないからです。俺たちは復讐なんてものは考えていません。それこそ13年前の二の舞いですからね」
「生きて償え、と?いや待て…俺たちと言うのは…?」
上川は机の上に置いた書類から何かを探しつつ答えた。
「俺はひとりでどうこうできる人間ではありません。だけど、同じように夢を追い行動を共にしてくださる方々がいます。俺たちはあの年に叶えられなかった町の人々の願いを、叶えたいだけなんです」
取り出された一枚の用紙を渡され、町長はじっくり目を通した。そこにあるのは、復讐的な内容でも、理不尽な交換条件でもなく、たった一度の催し物だった。
「…は…花火」
上川は冷や汗をかいたまま熟読する町長を見ることもなく、窓の方へ向かうと、口を開いた。
「打ち上げ花火です。…覚えていないわけがありませんよね…?」
「打ち上げ花火…。あぁ、覚えているとも。だがしかし、たとえやったとしても、全員が黙っているわけでは…ないんだぞ?」
雨が窓を打ち付け風は荒々しく通り過ぎていく。上川は姿勢を崩さずに答えた。
「俺たちがまだガキで、親のいざこざとか関係なく遊びあっていた頃、町の人々同士には険悪な雰囲気が続いていたそうですね?…だけど、あの年に起きた事件がようやく収束に入り、町の誰もが新しい希望を持ってともに生きていこうとした。切り替えられる準備は誰もができていた…はずなのに」
「ああ…。死ぬまで忘れられんよ。あの年の事件があまりにも事が大きくなり過ぎた。だから、皆んなで仲直りの証となる何かをやろうって言い合っていたんだ。そして…」
「今年の夏祭りは盛大に大きな花火を打ち上げよう、ということになった…」
「予算の問題もあって、町内の資金だけでは花火なんて代物は作れるはずもなかった。だからこの町に生まれた人間は一度たりともこの町に打ち上げられる花火を見たことはなかったんだ。そんな風に…あの夏だけの問題で全ては終わる、そんな気がしたんだ」
上川は振り返ると豪雨を背に語った。
「そんな夢も希望も、また起きてしまった事件によって、花火を誘爆させてしまい、真希子さんたちは犠牲になってしまった。結果的に町の険悪な雰囲気へ逆戻りしたわけです」
「だがしかし、今頃になって花火を打ち上げても、誰かが反対を起こすかもしれない。さすれば何かまた大きな過ちが起きるかもしれないんだぞ?」
「町長、玲奈さんはお元気ですか?」
町長は顔を真っ青にした。おそらく、この上川なる男は知っているのだろう。自分の娘の行方を。
「…あぁ。何事もなく13年間生きているよ」
「玲奈さんは俺たちにとってかけがえのないお姉さんでした。皆んながこの場にいるならば、同じことを言うと思います。そして、何より俺たちが忘れていないのは、玲奈さんも、真希子さんも、潤さんも、そして町民の多くの方々が…花火を打ち上げる、たったそれだけで町の人々のためになるのならと、必死になっていたこと、です」
「…何が…言いたいんだ」
「13年たった今でも、俺たちは諦めていません。たったそれだけのことだと人は笑うかもしれませんし、確かにまだ反対する者は出てくるでしょう。おそらく、酷い目に合う覚悟も理解しています。…それでも…俺は、俺たちは…過去に生きる人々と約束したんです。何があっても、この町がやり残した夢を叶えてみせると」
「……いつか…そんな風に強情を張る男の子がいたよ」
「町長…。お願いします。この書類は、俺たちが一年間でこの夏のために備え用意してきた物と全てに携わった者たちの名簿です。後は貴方の言葉と許可で、ようやく本当の準備に、取りかかれるんです」
町長は…戸惑っていた。わかっていなかったといえば嘘になるだろう。自分と同じ世代の親友たちが次々に消えていき、その子供たちに嘘をつかなければいけない理由を、誰にも理解される事はないと、決意していた。していたはずなのに、心の中では計り知れない罪悪感で満たされていたのだ。その蓋がようやくこのひとりの青年によってこじ開けられたような気分だった。
「花火を打ち上げる、本当に…君はそれだけなのか?」
町長の言葉に上川は顔色ひとつ変えずに答えた。
「それだけです。あの日打ち上げられなかった花火が夜空の星々と共に散る時、その瞬間…すべてが変わります」
脳裏にあの年の惨劇が通り過ぎる。あの日以来町長としてこの町を守ろうと意気込んだ自分が恥ずかしいと思えるくらいに、自分自身が情けなかった。…だからこそ、なのだろうか。震える手で町長は己を律した。町長室の中にしばらくの静寂が続く。
「……上川くん。今日中に答えを出せるわけではない…。だが、要件は承った」
「わかりました。ここに電話番号を記載しておりますので、その時には、ここに連絡してください」
土砂降りの雨が続く中、上川は部屋の扉へ向かった。大人が勝手な都合をつければ自分をこの町から出すこともできるとは考えていないのだろうかと、町長は考えていた。いや、わかっていても…真っ直ぐに立ち向かったというのか、この町の禁忌に…。
「上川くん」
「はい」
扉に手が差し掛かった上川を町長は止めた。
「君がこの町にいる事は、この先町の人々に大きな不安を作るだろう。もしかすると、更なる問題へのきっかけになるかもしれない。その時は誰が君を守るんだ?」
上川は扉を開けると去り際に答えた。
「夢を叶えるのに…身を削らないでどうしろって言うんですか」
豪雨のせいだろうか。町長には覚悟を決めた男の揺るぎない胸中を察してしまったような気がしたのであった。上川の去った扉を眺め続けていた町長はふと呟いた。
「…君は…一体どれだけの重荷を背負おうとしているんだ」
その日の雨は翌日の昼にかけて、止むことはなかった。

後編『ただ目を覚ませば』
コオロギの鳴き声が窓の向こうから聞こえていた。カーテンが開いた窓からくる風によって少し揺れている。
「私たちが閉じ込めた時間は…子供たちに酷い苦痛を与えてしまっていた…」
とある個室の病室で町長はそう呟いた。いきなりのことでまだ理解が追いついていないようだ。梅雨が終わるとするならば、それはこういう日のことを言うのだろうか。
「どうやって謝ればいいのか…この歳になってもまだわからない。わからないことばかりだ。望んでいなかった。誰もがこんなことは望んじゃいなかったんだ…」
白いベッドのシーツがシワもなく整えられている。雨の日が続いたせいか、少しだけ湿っている気がする。誰かが、この上で泣いていたのだろうか…。
「取り残された私たちは、同じように取り残されたあの子たちに何もしてやれていない。…やったつもりでいるのは、大人の都合も良すぎるというものだ」
雨がやむとこの町は、少しだけ賑やかになった。町の人々が最後に一目でも蛍を見ようと家から出て来始めたからだ。夏の風物詩と言うべきものだろうか。町長はベッドから離れると窓から顔を出した。
「知っているか?上川くんは大きくなっていたぞ?…そして心も…。何か計り知れない覚悟を決めている、そんな表情だった。彼らがこの夏、大きな旗を掲げてこの町に立とうとしているんだ」
町の遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。荒々しかった雲の風向きが変わったのだろう。こんな夜は久々だった。町長の言葉に、返事をする者はいない。これまでもがそうだったように。
「…これ以上何を失えば、私たちは許されるんだ…」
町長は窓から振り返ると、ベットで眠るひとりの女性の手を握り、町長としてではなく、ひとりの娘の父親として口を開いた。
「…玲奈。お前は…あの日の打ち上げ花火が…見たかったかい?」
答える声など、返される言葉などないとわかっていながら、町長はその手を握りしめた。もう涙袋は枯れている。感情などとうの昔に捨ててきたはずだ。それなのに……辛い。
「…あの用紙を見た時…私は…つい…、見てみたいと…心のどこかで思ってしまっていた」
しわがれた顔がどこか切なく目を細めた。お前ならどうすると言わんばかりに、町長は自分の娘の眠る姿を見つめた。爆発事件によって昏睡状態となった玲奈はこの13年間、息をしているだけの人間だ。覚めるような力が彼女の心にないと医者は言っていた。わかっている。わかっているんだ…。…?
「……蛍…なのか…?」
町長はベッドから顔を上げるとあたりを見回した。するとそこには、何匹かの蛍が窓から入って病室内を飛んでいた。音もなく、ただ静寂を破らぬように。ふと気がつくと、町長はいつかの、玲奈の言葉を思い出していた。いつの日か、蛍のような光が夜の星空と一緒に光るように…花火が…見てみた…い…、と。
「…夏というのは、心苦しいほどに…思い出ばかり募るものだな」
人を怖がらないのか、窓から静かにゆっくりと浮遊する蛍は、それは美しく、少しだけ寂しく思わせていた。玲奈の心電図モニターは、あいも変わらず一定のペースを保っている。壁紙のように変わらないその風景を見ながら、町長は、娘の手を優しく掛け布の下に戻すと立ち上がった。この町の病院はここだけだ。病院といっても小さな診療科のような所で、入院施設は特別にここを作らせてもらったものだ。だが町長は毎日ここにきては娘に話しかけていた。13年間の生活の一部と化しているのだ。そんな町長のことを気にかけてか、町の人々は誰ひとりとして玲奈については極力触れないようにしている。その方が、町長にとってはよほどの苦しみであることを、知ってか知らずか…。だが昨晩は珍しいことに、ここには来れなかった。昨晩の雨の日の夕方に来た上川の言葉で眠れたものではなかったからだ。
「しばらく置き去りにしてきた事だが…この町の町長は私だ。…町の過去から逃げる町長がいてたまるものか…」
蛍が広げた町長の手のひらにしばらく止まった。意を決したかのように、町長は夜空を見上げつつ、誰かの言葉を借りて、呟いた。
「娘の夢は…私の夢だ。その夢を叶えるために、身を削らないで、どうしろっていうんだろうな」
夜空を星の如く飛んでゆく蛍を見つめて、町長は、ひとりの父としての夏の始まりを感じ始めていたのであった。

四十八章
前編『螺旋階段』
この町の町交番である赤城と真央は他の町民たちと玄関前で佇んでいた。豪雨と嵐が去り、梅雨も残すところあとわずかといったところだったが、その被害は昨年よりもひどかったようで、町内での催し物として演劇を取り計らう予定だった公会堂は、なんと水浸しだった。地形的に周りより低い場所に位置するせいか、せっかくこしらえたものも目に余る光景だ。劇団員もこの豪雨では町の人々が見に来れないということでしばらくの間この町に滞在してもらってはいたが、こうもなれば、やる気も無くすことだろう。真央はそう思いながら心の中で皮肉にも笑っていた。だが唐突に横に立つ赤城がバシャバシャと水の中に入っていき残骸を集め始めたために、真央は少し驚いた。それに続いてか町の人々もそれぞれに修復する区分を話し合いながら分かれて動き始めたのであった。変な町と思いながら真央は隅の方で小さなゴミを集めてみることにした。
「ふぅ、ゴミっていってもほとんど泥ね…どっかにパソコンでもないかな」
なかなか賑やかに働く町民を眺めながらため息をついた真央はその町民たちから離れたとことで少し休憩することにした。公会堂の周りの廊下は外に非常出口として多々繋がっており、そのひとつの扉の先には螺旋階段があった。階段を数段上ってその場に座り込んだ真央はぼーっと外の風景を眺める。この町に来て数年が経ったが未だ町には馴染めていないようにも感じる。赤城を始め多くの方に世話をしていただいてはいたが、素直に人を信じれないのがこの真央という女性の信条だった。とりたててこの町でやることもなく、仕事と言えばあざみ野で田園派遣という手伝いの必要になった民家にお邪魔して田園のお手伝いに回るというシンプルなバイトだった。競争率があるわけでもないこの町では採れたての自然がただで味わえるのだから早々にいい環境だと真央は実感していた。ごくまれにこの町の不穏な気配を感じないわけでもなかったが、赤城の存在のおかげか、悩み事すらも馬鹿馬鹿しく思えていたわけで、ありふれているようでどこか新鮮な日々を真央は過ごしていた。
「同い年の子らからしたらこんな人生…つまんないんだろうね…」
たいした過去も持ち合わせているわけではない真央は、何となくそんなこれまでに、はたして本当に価値があったのか疑問だった。消極的なのかと言われれば決してそうではない。けれど、考えずにはいられなかった。自分がやりたい事とか、そういう曖昧な所で真央は立ち止まったことなどなかったからだ。
「ここにいちゃマズイですよ?」
ふとかけられた声に真央は驚いて立ち上がった。いつ間にか、いや気がつかないうちにだろうか、自分が座っていた階段の数段上で見慣れぬ少年が膝を丸めて座り込んでいた。
「は⁉︎どゆこと…?い、いつの間に」
「え、いや…ずっと…です」
少し根暗気味同士なふたりが互いに目を細める。同類であると理解したのか真央はもう一度座り直して問うた。
「邪魔したわね…。ところで、どうしてここにいちゃマズイの?」
「いえ全然邪魔では…。そう、ですね。簡単に言ってしまうと、この町で有名な不良グループって言ったらわかりますか?」
「うん?ああ、なんだっけ…いるね。リーダーの名前がどっかで聞いたことがあるような…うんそれがどうしたの?」
少年は言うか否かを少し迷ってからそれを口にした。
「変な話、今そいつらから逃げてたとこなんですよ」
珍しくキョトンとした目をした真央は事情を把握するといつの間にかクスクスと笑ってしまっていた。赤城が見ればこんな真央は見たことがないと発狂することだろう。ありもしない起こらぬ予想を立てて真央はキモいと内心あの変態交番に腹を立てた。
「この町に高校はないから、あんたはあざ中の男子でしょ?」
少年はさして眼前の根暗そうな女性が自分と同じような人間だとわかったのか警戒を解いて話し始めていた。
「は、はい。けど、逃げるよりもボーッとどっかでのんびり隠れている方がいいような気もして…ここに」
真央は意外な面持ちだった。かの不良グループは高校のないこの町では猛威を振るういじめの主犯たちが集まったようなグループであり、その名は町の中でも悪いことしか聞かないような連中のはずだった。口々にいじめにあう子供たちは彼らが通るだけで一目散に震えだすもののはずだったが、この少年にはそんな危機感がまるでない。
「ねぇ、あんた名前は?」
真央はどことなく年の割に落ち着いたその少年に聞いた。すると、
「あ、すみません。俺、孝大っていいます。親不孝の孝に、大きいの大、で」
「…何その親不孝感満載な説明。孝大くんね。よろしく、私は真央。真ん中の真に、中央の央よ」
雨が過ぎ去っていったせいか、風が、少しだけいつもより涼しく感じれた。じんめりしているのはふたりがただ微動だにしていないせいだろう。和ましいその空間の中で、ふたりは照れ気味に自己紹介をしたのであった。

後編『視線上のアリア』
真央は孝大としばらくのあいだ語り合っていた。真央がこの町に来た経緯。孝大がいじめに合う理由。中央交番の赤城。いじめグループのリーダーとの関係性。どれこれもが互いに魅了される内容で、ふたりは親身になってそれぞれの話に聞き入っていった。螺旋階段の中で途切れることのない会話が聞こえてきたのだろう。上の階の開かれた窓からおばさんたちが顔を出しては微笑ましく顔を引っ込ませている。
「そんなところ見ちゃったら憎めないタチなんですよ、俺」
「優しすぎるよ〜孝大くんは。もっとガッと威嚇しないと?」
たわいもない会話でフフッと真央は久々に笑っていた。しつこいようだが赤城がこの表情を見るとあまりの可愛さに驚愕することだろう。そんな事もお構い無しにふたりはのんびりとした時間を送っていた。
「孝大くんはさ、いじめにあってるけど私からしたらその子たちの方が無理強いして戦いを挑んでるみたいだね」
孝大は少しだけ笑いながら答えた。
「その、リーダーの彼女の事なんですけどね」
「うんうん」
「俺、実は…好きなんすよ」
「……ドM?」
「違いますよ〜!好きでいじめにあってるわけじゃないです…その、リーダーの彼女の事が、です」
「例のかなり不気味な子がでしょ?」
「はい。例の5年前の子なんすけどね」
「…ちょっとまってね、なんか5年前ってさっきから聴いててさ思ってたんだけど…あの強姦事件とか噂されたのってさ…もしかして」
孝大は少し間を置いてから諦めたかのように答えた。
「…ほんと、ただの誤解なんですけどね。そうです。その強姦事件って言われて犯人扱いされたの…俺なんです」
真央はつまんないこんな町でも珍しい事もあるものだなと噂を聞いた当時から気になってはいたのだが、まさかのまさかこんな所でその都市伝説が目の前にいることに驚きと好奇心で満たされていた。
「え?あれが君なの?ちょっと想像つかないよ」
「いやだから誤解なんですよ。あの夜、その子を止めようとして力ずくで押さえようとしていたところを例の母親に見つかってしまって…俺がその子を襲っているように見えたのか…それ以降はさっきも言ったようにその母親からも、そいつからも嫌われ始めた、というか…そんなとこです」
ゲラゲラと真央は笑っていた。お母さんもお母さんだよねと言いながら。それもそうだ。小学生がやることではないだろう。いや時代が進みすぎたのだろうか?今の世ではありうるのかもしれない。笑いすぎたのか目に涙を含んだ真央は孝大が少しムスっとしているのを見て笑うのをおさえると、ある質問をした。
「…じゃあさ、いっそのこと告白しちゃいなよ?」
孝大はそれこそ驚愕して階段を一段上がってしまった。
「な!何でいきなりそうなるんですか!だ、だって彼氏はあのグループのリーダーなんですよ?」
真央は惜しげも無く答える。
「そうよ?でもリーダーとは縁がないわけでもないじゃん?恋人がいようがいまいが…想いってのは、伝えておくべきだよ。例え宿敵のような扱いをされててもね?」
「そんな…。それで言ったとして…もっといじめが酷くなるんじゃないですか?」
孝大なら大丈夫と言わんばかりの顔をしていた真央は変わらず返す。
「…ん〜まだ孝大くんには女の子の気持ちはわからない方がいいかもね。真っ直ぐであることは、過去に何があっても今を貫いている、それこそが本当に大切なことだよ?」
「そ、そんなものなんですかね…。そういえば真央さんは、恋とかは?」
「私はパソコンが初恋の相手で…婚約者でもあるからね〜」
「(ダメだコイツ…早くなんとかしないと)」
ただならぬツッコミを感じた真央は孝大の呟きに気づいたのがそれ以上は何も言わなかった。
「告白するって…具体的にはどうしろっていうんですか…?まさか真正面で⁉︎」
真央はうーんと唸るとこう切り出した。
「…確かにいきなりすぎるよね。そうだね〜…あ、孝大くんはさ、その子と何か約束とかしなかった?これまでで。それか、その子の叶えたいこと、みたいな?」
孝大はしばらく考えてから答えた。
「あります。約束とかはしてませんし俺ひとりでどうにかできるもんじゃないですけど……打ち上げ花火です。あいつ、毎年毎年この夏がくると呟くんですよ。なんでこの町には打ち上げ花火が無いんだーって」
真央は大きくでたねぇと呟きながら頷くと、よしっと気合を入れてから言った。
「難しいかもしれないけどさ、その子の見たい打ち上げ花火を今年こそ見せてあげるのもいいかもしれないよ?」
「…え?でも、そんなお金なんてないし…第一まだ約束とかできる機会もないし…」
真央は困り果てる孝大にVサインをする答えた。
「うちの変態交番野郎にも聞いてみるよ!お金の件は置いといて。まだ約束してないんならさ、あえてサプライズにするとか?いやバレるよねさすがに…。…わかった!これよ!ド派手な花火を打ち上げた後に告白するの!花火をバックに!」
「真央さん何かゲームのしすぎじゃないですか?そんなアニメみたいなストーリー展開そうそうできませんよ」
真央はクスクスと笑いながらも本気のようだ。
「アニメでもゲームでもいいから、やってみなきゃわかんないことだってあんのよ。この際どっかのドラマっぽく自分の想いをその時にぶつけな」
孝大は、はぁとため息をついたが、この根暗な顔をしながらも笑うとどこか可愛い女性の言うことを少しだけ聞いてみるのもいいかもしれないと思ったのであった。だが…まだ決めたわけではない。会いに行くのも嫌だし、会ったところで花火を打ち上げてあげるよなどと言おうものなら翌日からのいじめは相当な酷さになるだろう。そう簡単に会えるような相手でもないしなと孝大は考えてから、まぁ会えるまでは約束の件も保留にしておこうと決めたのである。まさかではあるが、この翌日の梅雨最後の日におつかいに頼まれて向かったスーパー先で、例の子と対面してしまうことはまだ知るよしもなく…それはそれでまた別の話としておくとしよう。
「おいおいこんなとこでサボってるとは野放しにしておけんな?」
非常玄関から顔を出した泥だらけの赤城に孝大は立ち上がってお辞儀をした。真央はと言うとフンと鼻を鳴らして台無しといった表情だ。だがクルッと振り返ると孝大に向けて笑顔で口を開いた。
「とりあえずはその件については今度聞かせてね?」
孝大は苦笑しながらもはいと答えた。こんな所でもまた新たな約束ができてしまっていた。赤城は何があったのかもさっぱり理解できないのか少々困り顔だ。すると玄関側からヒョコッと劇団員らしき女性が顔を出して、
「皆さん手伝ってくださったお礼に、なんですが少しお茶会みたいなのしませんか?」
と楽しげに誘ってくれた。彼女曰く演劇は明後日にでも公演するようだった。孝大は赤城に愚痴を垂れる真央の後ろについて歩いて行く。公会堂では最近引っ越してきた顔見知りやらこの町最高齢の産婆で有名な茶屋の老婆や町長までもがやって来ていた。なんだか賑やかである。
「孝大くん」
孝大は前を向くと真央と視線がぶつかりやや戸惑い気味になんですかと聞く。
「よくわかんないけど、この夏はちょっと面白くなりそうだね。これからはよろしくね」
どこか大石と重なるその笑顔に、ドギマギしながら孝大は笑顔で答えた。
「はい!」

四十九章
前編『ある梅雨の晴れ間』
時刻は約束の10分前きっかしだった。豪雨は去ったものの雨はまだ続いている。しかし今日に限ってはどこか晴れ気味だった。6月もあと4日ほどで終わるだろうにじんめりとした空気が去る気配はいっこうにない。このひと月ほどは毎日のように雨が降り続けていただけに時折町の住人たちで集まりあって壊れた民家の修理の手伝いに勤しんでいるようだった。演劇の催し物が予定より1週間以上も遅れそうな今、沙織たちは豪雨では町民の方々が見にこれないとわかり、雨がしばらく止むまでのあいだリハーサルとも言うべき演劇の練習に全員で没頭していた。旅する劇団と言われてはいるがこれでは部活の長期合宿のようだ。偶然ではあったが予報に反して今日は偶然そんな雨も気配を消したあくる日、劇団がこの町にやってきてから3日目となり沙織は一昨日約束していたOさんとやらの待ち合わせ場所にいた。
「…みんなには散歩してくるって言ったけど、不自然すぎるよね」
やや嘘をつくことが下手なのか沙織は浮かない顔で腕時計に目をやる。定刻だ。すると待っていたかのように屋根の下にいる沙織の死角に当たる角から声が聞こえた。
「…あ、Sさんもういたりします?」
沙織の呟き声が聞こえたのか、向こうからはあの日聞いた声とは少し違う、雨霧の邪魔のないはっきりときた声がこちらに向けられた。
「(…この声…)」
沙織が思いつく間も無く、Oの声をした男性が角から顔を出した。こうしてふたりは本当の顔を見合わせることになったのだったが、刹那、沙織と向こう側の男性は互いに永遠のような沈黙を続けた。その顔を見て…ふたりは息を吸うことをしばらく忘れていた。
「…沙織?」
「…先輩…?」
一体どうしたことだろうか。沙織の前には、遠い昔に恋仲だった岡本が立っていた。そして岡本の前には遠い昔に恋仲だった後輩が立っていたのだった。
「……もしかして、Sさんて…?」
「…Oさんて…?」
そういうことである。と言われてもこちらとして理解できる状況ではないが、つまるところ、知り合いだ。元恋人の再会、と言うべきだろうか。
「どうしてこの町に先輩が…」
沙織は驚きつつも怪しむように怪訝な顔を緩めずに問い正そうと必死だ。いや理解しようとすることに必死だと言える。当の岡本は本当に訳がわからないのか口を開けては閉じている。
「中学卒業後は親の転勤とかで、先輩は上京しましたよね…それ以来、ずっと都内にいるはずと…」
岡本は気まずそうに下を向いている。だが彼女になら伝えようと決めたのか口を開いた。
「前に産みの親が急病でふたりとも死んでたって言ったよな?…そのふたりの実家が、この町なんだ」
「…上京してすぐ、ここに?」
「いや…はじめはだいぶ悩んだし、目指してる資格とかもあるんだけど…なんだろう…少しゼロから整理して新しく始めてみようって…思って…去年からな」
沙織は淡々と喋り続けた。当時同じ中学校で先輩と後輩の関係だった沙織と岡本はこの町ではない遠くの町で、互いを知り、わかり合っていくうちにいつしか恋の芽生える存在へとそれぞれが変わっていったのであった。それはここで簡潔に語るには惜しい物語であって、このふたりが終わりを迎えた時でさえも共に憎しみの言葉ひとつすらなかったほどだ。そんなふたりがこんな所で再会を果たすとは互いに予想もしていなかったようで、ふたりの間には妙な沈黙が流れていた。遠くのどこかで鳥が鳴いていた。必然的なほどに、空は穏やかで、まどろみのない空気が、よりはっきりと明確なまでにふたりを黙らせる。会ってもいい相手なのか、そうではない相手なのか、それはふたりにしかわからない。だからこそ夏の到来はより身近に感じ、どうしようもないほどに、その瞳は互いのそれと重ね合わせる他は息を飲むことも許されない気がしたのであった。

中編『ヤギとオオカミ』
古今東西において恋というものは人の心の中に永住しておりかつ理不尽なほどに優先順位を狂わせる時がある。そんなひとときの時期に酔いしれていた時ほど露わにしたい過去は無く、沙織と岡本は行くところもなく遠くまで続くいわみ野の田んぼ道を少し話しては黙り、また話しては黙るの行程を繰り返しながら歩くのであった。幸か不幸か、雨は止みきっており、境目のわからない雨雲が上から二人を見下ろしている。この際容赦無く降りしきって欲しいのだが、そんな日にも限って天空はあらかじめ意図したかのように雨を止ませた。一方で、ふたりの心の中には、この現状から一刻も早く逃避したいという思いと、横にいる存在とのぎこちない空気がどこか、あの日の別れの続きのような気がして懐かしく、引き難いという思いとがあった。
「…なぁ、沙織」
「…はい」
「お前ってさ、彼氏とかいんのか?」
「…逆に聞きますが、先輩には彼女、いるんですか?この町とか」
「関係ないだろ」
「だったら答える義務もありませーん」
「んだそりゃ」
あいも変わらず上手くいかない会話をするもんだと考えたのはおそらくどちらもだろう。そんな空気を数年ぶりに感じるとどうやら懐かしくもなるようで、岡本はボソリと口を開いた。
「……この町になら…好きなやつはいる」
その返答が意外だったのだろう。沙織は少しだけ自分の歩幅が狭くなるのを実感していた。多分、止まることはなかったのだろうけど。
「…ほんと、先輩はすぐ好きな人ができますね〜頭の中はハッピーパラダイスシンドローム(妄想恋愛症候群)ですか?」
「やめろ。というか久々聞いたなそれ…いつだったか本番前にマッチが台詞の一部をパロディ要素含めようとか言ってさ」
「そうでしたね…それで町田先輩とあやちゃんが焦って作った病名が、」
「「妄想恋愛症候群!」」
互いの言いたいことがそれぞれの指差しで次の瞬間に決まっていた時は、気がつくとふたりとも息を合わせた答えを声に出していた。数瞬間を置いてふたりとも同じようなタイミングでハッと我に返り、やや気まずい雰囲気へ戻る。だが、どこかふたりの気持ちは先ほどよりも安らいでいた。そのせいだろうか、どちらともなく、いつしかふたりはクスクスと笑っていた。おそらくこのふたりは互いを憎むことなく別れたのだろう。裏切ることなく、冷めることなく。田んぼ道を歩くそのふたつの影はまだ気づいてはいないだろうが、その影と影の隙間には何の障壁も無いのだ。
「なんだか…先輩に久々会うと…この町に来た目的が改めてはっきりします」
「そうか、旅する劇団やってるんだもんな。大学の面々でか?」
「…いえ、高校の頃の子たちと…みんな大学はバラバラですけど」
岡本が不思議に思い問うた。
「…高校も、もしかして演劇部に入ったのか?」
沙織は迷うことなく答えた。
「はい。けど…高校の頃はなぁなぁに演劇を続けるつもりでした。中学の頃よりもなんだかつまんない目標のような気がして…」
いわみ野はどこまで広く、そして山々が必ず地平線の向こうにあることから見渡す限り大きな噴火口の中に佇んでいるようにも見えた。そんなどこか変わった集落のように点々と建つ民家を通り過ぎながら沙織は元恋人の知らない過去を振り返りつつ語っていた。
「いつの間にかその先生は私たちの夢に、忘れていた自分の夢を取り戻して、顧問にはならずに、上京して1から自分の演劇の道をやり直し始めたんです。結局取り残されたとはじめこそは思っていたんですが…」
「あ、なんとなくその先…わかったかもしれん」
岡本は少しだけ笑みを含めて答えると、沙織の目を見た。気のせいか沙織の中では先を読まれた事よりも目を見られたことのほうが一大事だったようで、若干目を泳がせていた。
「あ、で、それで、ですね…。やっぱり私たちの夢を私たちが掴むべきなんだって結論づけて、」
「それで県も地区もギリギリ乗り越えて、全国大会まで行ったのかよ」
「…はい」
「…スゲェな。スゲェよ…それって本当に頑張ったってことじゃねーか」
え?と沙織は顔を上げて横に並ぶ男を見上げた。ややぶっきらぼうなこの先輩は、頭をかきながら素直に嬉しがっているようだ。
「簡単に行ける道じゃないぞ。演出や人物の複雑な情やそういったものが何度も何度も練習を繰り返されて本物になっていって、台の上でライトアップされてようやく人の目にあてられるんだ。それをやったんだろ?…本当に誇らしいわ」
沙織はその言葉をずっと聞いていた。止まることなくいつの間にか熱くなって語り出した横の存在はどこか。嬉しそうで、懐かしそうで…切なさそうだった…。

後編『光芒に架ける約束』
沙織と岡本は少しだけ互いの近況を話し合った。もちろん、演劇部の思い出も。話したところでキリのない笑い話も、なんだか寂しくなるようなそれぞれの将来も。いわみ野は広い田んぼと集落でできた世界だが、それよりも更に南方へ小山を超えていくと遠くに海があるらしい。だがそこまで行くとさすがに時間は遅くなるためふたりは来た道を引き返すと、沙織たち劇団たちが嵐のために急遽泊まらせてもらっている小さな宿泊施設へ岡本が送ることとなった。幾分も歩くと足は少し疲れなんとなくあざみ野へ小夜川を渡って入った頃にはふたりとも長旅の果てに来たような気がしていた。
「なんとなく思っていたんですけどね」
「うん?」
「先輩はここでもう一度自分の夢を一から叶えるつもりなんですよね?」
「ああ。そのつもりだが?」
「けどこんな町じゃ、たとえご両親の亡き地元であったとしても、やはり色々と不便があるんじゃないですか?」
それは最もな話だった。というか、都会で消防職員として経済的な場所に住まいを置いている方が合理的な事だからだろう。そう沙織は言いたかった。だが岡本は少しだけ笑うと説明に困ったかのような顔をしてから口を開いた。
「なんて言ったらいんだろうな。正直に言うと、この町の救急救命士になりたいんだよな…」
沙織は続きを促すかのように黙って岡本の話を聞いていた。
「この町は伝統や文化が独自の発展をしていて、人々の性質も一見普遍的でも濃いものがあるし、そういうのってこの町に住んでいる人にしかわからないことってあるだろ?」
岡本はなるべくわかりやすく話そうとゆっくりとした口調で沙織に問いかけながら話した。
「そういう時ってさ、どこどこのなんとかさんが倒れたって言われてもその人の持病を知っていたりしたらその処置の準備もどんな病院に搬送すべきかもすばやく判断できるだろ?この町の人々を助けられるなら俺はこの町に住んでいてもっと先に知っておかなければいけない事があると思って、ここに早く引っ越して来たんだ。…まぁ、まだ勉強中だから…未来はどうなるかわからないけれど…。それでもよ、この町には少し離れた隣町か、海の方にある南の町からしか、消防隊や救急隊は駆けつけられないんだ。10年以上も前の資料では大火災が起きたにもかかわらず消防隊や救急隊が到着するまでに何時間もかかったって言うし…。それならいっそうのこと俺はこの町に有事の際に動ける小さな救急隊を設立して市の管轄で動けるこの町の救急救命士になりたい…そう思っているんだ…ごめん長くなって」
沙織はしばらく頷いて聞いていたが、いつしか夢を語る目の前の男が、どこか前よりも遠くに感じるような気がして、なんだか、羨ましかった。
「大丈夫です…」
遠い眼差しをしていた沙織は、ゆっくりと沈んでゆく大きな太陽に照らされた自分たちの長い影を見つめながら口を開いた。
「…………先輩…」
普段こそ落ち着きを払いつつもどこか明るくてツッコミを誰かしらにかけてしまうあの沙織はどこかへ消え、今だけは、いつになく神妙な顔だった。先を歩いていた岡本が珍しく振り返ると、日に照らされ頬を赤らめた沙織が立ち止まった。
「先輩…。…どうして、別れよって言ったんですか?」
時間が静かに止まった。
「……」
遠くで雷が鳴ったような気がしたが、ふたりは気にもせず互いを見やる。かつての先輩の姿が夕陽の逆光で重なって見えてしまう。だが、その質問に無言で返していた岡本はゆっくりと口を開いた。
「あのままだとさ、多分…俺たちは、止まったままだったと…思う。…それに…」
「…それに?」
「俺には、演劇以上に目指していた夢があったろ?…今でももちろんそうだ……けど、そればっかりに沙織の気持ちも考えないで勝手に俺が決めたことだ…。憎まれるならそれでもいいって、どっかで考えてしまってるし…な」
沙織は真摯な眼差しでその言葉を聞き終えると、私はと返した。
「私は…私も、中学を卒業してからは、自分なりのやり方で演劇を続けてます。大学に入ってからも他の大学に行った高校の友達とかを集めて旅する劇団をやって…。だからこの町で、まさか先輩と会うとは思ってもみませんでした…。けど、これも何かの縁かもしれません。来週…嵐が去ってから、この町で演劇をやらせていただきます。だから、その演劇を…是非見て行ってください。あれから少しは成長できたと思っています」
夕陽が様々な形をした雲の群れにかき消されていく。光が天地に散らばり、数多の方角へ光が貫いていった。
「…わかった。沙織たちの演劇、決まったら見に行くよ」
双方の胸に抱かれる夢とはなんなのだろうか?己の道を突き進むことか、それとも…。
「…おい…あれってさ」
岡本はふいに夕陽の隠れた空を指差す。そこには雲の隙間から地にではなく、天に向かって貫く光の線があった。沙織は不思議そうに呟く。
「レンブラント光線…?」
「ああ、天使の梯子…だっけか?それにしては見たこともないやつだな…光の向きが
…逆だ…」
太陽の光が雲の隙間を通して遠くへと向かっていた。幻のような天空がふたりを見つめているような気がして、ふたりは少しだけその場に佇ずむ。
「約束ですよ、先輩」
「何がだ?」
「演劇のことと…あの日の、返事も」
不思議と動揺はしなかった。あの日とは…卒業式の日のことだろう。まだ…覚えていたのか…。その日に交わされた言葉に岡本自身が返すべき返事があったのか、知っているのはここに立つふたりだけ。
「…約束、だったもんな」
「はい…」
「いい演劇見せろよ?」
「もちろんですよ」
天空を貫くように太陽の光線が辺りを支配していた。雲の中で何かが生まれたかのように、光は散乱している。雨が近いような気がした。そんな景色の下、ふたりは、ふたりの心はそのたゆまぬ想いの地平線の彼方で、繋がっていた。
「いい季節だ」
岡本の言葉が消えそうな低音で呟かれる。その日の夜は大雨が再びやってきていた。梅雨の終わりが来る時、そしてこの嵐が去る時まで、ふたりはそれぞれの想いを胸に、別れを告げたのであった。

五十章
前編『蛍舞うこの場所で』
「蛍だ…!」
涼は夏菜子の腕を絡めて指を差す。ややかがみ気味に地面をうかがっていた夏菜子はいきなり腕を引っ張られて、わらら!とか変な奇声を発しつつそちらに目をやる。すると、涼の指差す先にはちらほらとエメラルドに煌めく光の粒が夜の小夜川のあたりを飛んでいた。思わず夏菜子もあっと抑え気味に驚いて拳を握ってはひとり達成感に浸っている。涼はというと見たこともないような喜び顔で夕空を見上げていた。日は暮れ始め、既に遠くの東空には紫色の夜空が近づいてきていた。
「やっと見れた〜。ほんと、ようやく」
蛍はその灯火をゆっくりと点滅させ、予測のつかない方向へ向かっていた。ふたりはうっとりとその光景を眺め、どこか夏の始まりでも感じるかのように感慨深いものを感じていた。そんな夕暮れに紅く照りつけられた小夜川とその水面の光がふたりの頬を赤く染める頃、ふたりに声をかける男が来た。
「いやぁ、ようやく見れましたね〜蛍。あ、いやすみません。セーラー服の女子高生を探してるんですけど見ませんでしたか?この辺りで合致する予定なんすけど…」
その男は20代の少しやつれた哀愁を持つ細身の男だった。あまり人に話しかけることに不慣れなのかどこか挙動が不審だ。涼はやや困り気味な笑顔で見てませんねぇと答えている。夏菜子はそんな男を見て何か引っかかるような顔をしていたが多分気のせいだったのだろう。面白そうなものを見る目で男に話しかけようと必死だった。
「あ、そうだ。よかったら敷物広げてるので使ってください。ちょっとそいつ探してくるんで、荷物の番ってことで」
何が荷物の番だと内心ツッコミを入れながら涼は彼が怪しくないと分かり、夏菜子の腕を抱き締めながらお邪魔しまーすと、お邪魔することにした。男で隠れていたがその背後の向こうには割と広い敷物が広げられており、なにか宴会でもやるつもりなのか飲み物まで用意されていた。逆にお邪魔ではなかったのかと今更ながらに涼は考えもしたが、言うなればこの際に、仲を深められるかもしれないということで、これもまたいいきっかけ作りだという答えにたどり着いたのであった。
「あの男の人、あまり見たことないなぁ。多分あざみ野の人かもね」
夏菜子はウキウキした様子で垣根通りへ走っていった男の背を見ながら呟いた。夕暮れの最も長いこの時期。町のどこからか6時を教える鐘が鳴り響いているが、陽は山よりもまだ高い位置で黄金色と深夜色の飽和した夕空を作り上げていた。そんな、どこか懐かしい空間にいたふたりをまたも遠くから呼ぶ声が聞こえてきた。おーいと言わんばかりに手を振り回し駆けつけてきたのは見たこともない少女と、桃園民宿舎に長期滞在することとなった女優の松岡だった。
「あ!あれ!まっちゃんだ!横の子は知らないけど…ねぇ涼ちゃん分かる?」
「はい!松岡さんてあの女優さんですよね!でも…隣の女の子は私も知りませんねぇ」
遠くから走ってくる少女と松岡だったが、どう見ても少女に松岡が引っ張られて来るような光景だった。やや苦笑いを含めて手を振る松岡にクスクスふたりは笑っていたが、ふとその横の少女の姿を見てアッと気づく。
「あれってさ、涼ちゃん」
「はい!あの子ですよ!セーラー服の女子高生ってあの男の人が探してた子!」
そう、その少女はセーラー服を着ていた。それ以外の飾りは見当たらず、どこか垢抜けないその容姿はそれでも凛としていて綺麗な顔立ちをしていた。
「そうだよね!って、どんだけ可愛いのよあの女子高生…もしかしてアイツの彼女!?だったら赤城さん呼ばないと!」
「夏菜子さんそれはちょっとまだ早い!」
ケラケラと笑うふたりに疑問符を浮かばせながら松岡は女子高生に連れられてようやくやって来た。やや荒い息を落ち着かせようとかがんでいた松岡の横で悠々と伸びをしている女子高生はふうと息を落ち着かせると元気よく、その瞳にプレアデス星団を閉じ込めたかような輝きを見せて口を開いた。
「真希子です!よろしく!」

中編『宵灯籠』
涼は夏菜子と蛍を眺めていたが、唐突に出くわした男に、敷物の番を頼まれたことによって、駆けつけてきたセーラー服の真希子という女子高生と松岡の四人の女性陣でしばしばその男を待機する事にしていた。陽が落ちようとはしているも、夕暮れが長いこの時期ではそれもまたのんびりとしており、悠久の時間を感じるほどに小夜川の穏やかな流れや、時折吹く爽やかな風が肌を心地よくさせていた。
「へぇ、裕翔くんって言うんだ、あの男の人の名前?」
真希子が説明してくれたおかげで他の3人は先程の男が地元の兄さんという事で納得した。若者がそもそも少ないこの町では名前を出したら案外とどこの家の者か見当がつくため、裕翔という聞きなれない名前を知った彼女らは新鮮な気持ちだった。
「あんまし人前に出る事ないからね〜」
真希子は蛍を掴みそうになりながらそう最後に付け加える。夕暮れと言えど空はまだ明るく、蛍の光る色と夕焼けの色とが絶妙な世界観を醸し出している。四人は敷かれた敷物の上で並んで川に向かって座りながら各々に積もる話で盛り上がる。テンションの高い夏菜子は真希子と通じるものがあったようで仲のいい姉妹のように猛スピードで会話のキャッチボールをしている。そんなふたりを横目に涼はのんびりと松岡に話しかける。
「なんだか、懐かしい景色みたいです」
振り向かずにどうして?と問う松岡の横顔は何故か寂しそうだった。暮れ時だからだろうか、どこかでカラスの鳴き声が妙にそう促しているように感じた。
「私、実は、随分と前にこの町に来たことがあるんです…」
…知っている。
「あ、でも住んでいたわけじゃなくて、たまたまお父さんの仕事で、みたいな感じなんですが」
…覚えてるよ。
「…まぁ、私自身あまり覚えがいいわけでもないんで…たいした記憶じゃないんですが…」
幸か不幸か、その記憶の断片を誰かに持っていて欲しかったのかもしれない。それでも、松岡はただ淡々とそれを聞いた。
「何か、あったんだね?」
その言葉に少なからぬ重みを感じ、涼は黙った。何かはあったのだ。けれど、涼は黙る。愛おしい記憶と共に、語ることの許されない出来事も共に起きていた事も。あの日々を共に過ごした仲間は今頃、どこへいったのだろうか。薄れゆく過去の中でしか彼らは生きていないのだろうか。誰も、知らないのだろうか。誰もが、忘れているのだろうか。
「色々とあるよね〜」
軽く流すように松岡は伸びをした。誤魔化してはいるが、気を遣ってくれたのだろう。涼は沈黙を守りながら、その横顔に心ながら感謝していた。その反対側で少しだけ誰かがこちらを見た気もしたが、多分気のせいだろう。そういうことにしておいた。
「…あ!裕翔だ!ぽんこ〜つ野〜郎!」
唐突に奇怪な歌で根暗気味な男の名前を呼んだ真希子はふいに立ち上がるとおーいと両手を振った。出会ってからというもの感じていたが、この子はどこにいてもこう、自由なままなのだろうなと夏菜子はフフッと笑いながら感じていた。土手から見下げて通りから出てきた裕翔は、何かしら食べ物を調達してくれたのかガサガサとビニール袋を両手に歩いてきている。手伝え!とか妙に命令口調な言葉が聞こえた気もしなくもないが四人はニコニコと裕翔を待っていた。
「クソ、てめぇら、手伝えよ!」
「男でしょ〜?しっかりしっかり」
真希子にニヤニヤからかわれつつ、怒り気味だった裕翔は女性が3人もいることに早くも上機嫌になりやがりだした。コイツ…。
「見ない顔だな。もう終わってるかもしんないけど、自己紹介でもしようぜ?」

後編『蛍火』
見渡すすべての緑に蛍が飛んでいた。ふいに五人の会話が止まってはその美しくも儚い灯火に何度も心奪われる。夕暮れが闇夜へ変わろうとする頃、五人は夜空に幾つもの星を見つけ、その度に夏の夜を感じていた。どれくらいが過ぎてか、裕翔は唐突に口を開いた。
「みんなよ。こんな辺鄙な町なんかに、どうしてこだわるんだ?」
ふいに呟かれた低音の裕翔の声が四人の視線を集めた。誰に聞いたのかはわからないが、多分、みんなにだ。
「ジャンルって言うか、みんな違うだろ?この町に来た経緯は」
こだわり?ジャンル?言葉の意味がいまいち理解できなかった涼は少しだけうーんと蛍を眺めながら考え込む。夏菜子さんはもとからこの町に住んでいるわけだし、進んでこの町に居座りたいわけでもないのかもしれない?いや、どうなのだろう。そんなことはまだ知り合ってばかりだし、色々と知らないことだらけだと涼は思った。真希子ちゃんというお転婆な子も、同じく笑くぼの可愛い夏菜子さんだって、一泊限りの予定が梅雨の豪雨でしばらく帰れなくなった松岡さんも。誰もあまり口にはしないけど、多分何かしらの理由があってこの町に来たのだろう。
「私、案外この町好きよ」
そんな事を呟いた夏菜子に松岡は横に振り向いて少し驚いた様子をしている。虫の音が鳴る土手の草原で五人は夜空を見上げた。
「よく母さんとは喧嘩するし、高校卒業してから私自身まだちゃんとした仕事すら見つけられてないけど…。でも色んな人がいて、しっかり見ててくれて、弟だってあんなんだけど、お人よしな所もあるしね」
夏菜子と目のあった松岡はニッと笑って返す。涼はキョトンとしていたが真希子はどこか嬉しそうにニヤニヤしていた。裕翔はそうかぁと敷物の上で寝っ転がった。
「俺もさ、訳あって気がついたらこの町の住人だったけどよ、なんだかんだでこの町のお世話になってるよ。だから何か恩返しみたいなものでもしてみたくてな」
一番端っこでそう語る裕翔に四人がカッコつけんなとか野次を飛ばしてくる。イヒヒと笑う裕翔はそれでも楽しそうだ。
「やめろって。涼…ちゃんだっけ?それと、松岡さん?…まぁ俺みたいなバカもいるけど、楽しんでくださいよ。女はこんなのしかいねーけど」
初対面なのに何それと言い張る夏菜子やスカートも気にせずバタバタ足で反抗する真希子が横でブーブー文句を垂れていたが、涼や松岡は互いに顔を見合わせると頷きあって裕翔にうん!元気よく返した。
「でさでさ、その恩返しとかって何??」
そう裕翔に聞く夏菜子の言葉には、涼もどこか気になって顔を乗り出す。裕翔は少しもったいぶるように手を組むと夜空を見上げてからそれを口にした。
「…世界一の、デッケェ打ち上げ花火だ」
おおぉと夏菜子や涼の歓声が聞こえる中、松岡は真希子の方を見やる。必然的にだったが見てしまったその表情には語り尽くせぬ想いを胸に宿した者のそれがあった。
「そんなに恩返ししたいならお金のかかることじゃなくてもっと町民のボランティア的なことは考えなかったの?」
少し呆れた様子で松岡が裕翔に聞くと、
「いや、これはまぁ、町への恩返しも含めているんですけどね、本当はついさっき決めた俺の夢でもあるんすよ」
はぁ?と夏菜子が首をかしげる。何それと言わんばかりに周りは続きを促した。
「いや、明確な理由とか求めるなよ?俺がそう決めた、それだけよ。まだ下ごしらえが必要だろ?なんか話してるとこっちがやる気でてきたぞ」
ひとりで熱くなり始めた隅っこの男にややため息交じりの真希子が笑っていた。涼や夏菜子が何かしら手伝えることがないか冗談交じりに話していると、松岡がふいに口を開いた。
「裕翔くん、君、実は本気でしょ?」
しばらく間を置いて黙っていた面々に裕翔は応えた。
「なんでそう思えるんです?」
君はいつもそうだった。松岡は心中で苦笑い気味に呟く。ただ花火を打ち上げる、それは人からすればたったそれだけの事に思えるが、この記憶を持つ人間なら、誰しもが耳を疑う意思表明だろう。…君のお兄さんのこと、わかってて言えてるの?どういうことか、君には理解できてるの?
「有言実行、守れるのって?」
「おう!」
簡単に言ってくれちゃうね。松岡は笑いながらあっそ、とだけ返しておいた。真希子のあの横顔を見てしまえば、こっちだって否定のしようもなくなるじゃない。
「…この蛍も、なんだか花火みたいね」
涼の言葉に、四人が涼を見やる。そうだねぇと見上げては寝ころんで自分の腕を枕代わりにした真希子が呟く。
「短い命でも、一生懸命光り続けてるんだよね」
松岡が体操座りのまま口にする。
「それぞれの想いが光ってるみたいに、ね」
つられて夏菜子も大の字に寝そべると答えた。
「色んな想いの蛍火かぁ。綺麗だなぁ…」
空に浮かぶ宵の灯籠に、五人は息を飲んで眺めていた。美しくもささやかなその光にそれぞれは何を思っているのだろうか。
出逢ったばかりの若者たちはそうして梅雨の終わりを告げた夜空を見上げては、感慨深い何かにふけってみる。誰ともなく吐いた息が夏の風にさらわれていく。緩やかな空間のはずなのに、時間が進み出していた。
「梅雨も梅雨でいいもんだけどな、俺はこれからの夏が何よりも楽しみだ」
裕翔の言葉に他の四人が無言で頷いた。そうだ。ようやく始まるのだ。本当の夏が、ようやく…。
「…はじまり、はじまり」
真希子の言葉が、
裕翔の頬を緩ませ、
涼と松岡が揃って笑い返し、
夏菜子が夜空を仰いだ刹那、
暮れた陽の残照と共に、夏の風が、
すべての人々のなかで、
産声を上げたのだった。

八月の残響
序~遣らずの雨~

完。

八月の残響 ~序~

『やっと雨やんだっていうね…』

この度は【八月の残響 序~遣らずの雨~】を読んでいただき誠にありがとうございました。感謝の極まりを朝ドラで解消する原作者たるD'Arcです。初めまして。いやもしくはお久しぶりですご無沙汰してましたw

常日頃思っているのは、どうして車内で席を譲る時ほどあんなに愛と勇気が試されているように感じるのかってことなんですが、さして自分は様子を伺う派です。なんせ眼力と圧をかけられてまだ座ってますからね。あ、良い子はしっかり席を譲るように(ただしお小遣いを渡してくれる老人に限る)。

さて、いよいよ残響物語も、前編をどうにか終えることができ、ようやくと言っていいかはともかく、梅雨を乗り切れましたね〜。この達成感なんとも言えない…w
様々なストーリー性を背負うそれぞれの主人公たちが群像風に登場していくため、物語を時系列順に並べて読むのは難解だとおもいます。ですが、これもまた物語…しっかりわかるような設定なのでご安心を。
サブタイトルである【遣らずの雨】という言葉の意味は、作中でも語られることはありませんでしたが、実質この町で起きたほとんどの理由が、この【遣らずの雨】と関与しています。暇なときにでも少しだけ調べてみてください。あ、川中美幸さんの雨ではありませんのでご注意を。(笑)

ファンタジーが唯一ひとつだけ入っていますがこの町というのは現代の少し時代の遅れた日本のど田舎というのを念頭に置いて読んでいただけたら理解も早いかとおもいます。そしてまだまだ続くこの町での物語なのですが、【序】という文字は、序章や序幕という意味合いではなく、物語を三部構成に分けた日本古来の【序破急】というストーリーパーツによるものです。つまり前編ということです。ということで、次回からは【破】の中編に突入するんですね。自分の低脳な発想が追いつけるかにすべてがかかってはいるんですが、これもまたもうひとつの物語。来年の残響の季節までに終わらせたらなと考えております。(汗)

覚えきれるかわからないほどの若者たちが登場してくれましたが、一体この町を舞台に彼らはどういう生き様を見せてくれるのでしょうか。まだ見ぬ明日に期待を寄せて、夏を思い出しながら、夏を感じながら、この物語を読んでいただけたら原作者共に本望です。

それでは、蝉時雨ふりしきる夏のあの町で、ふたたびお会いしましょう。

著・D'Arc

八月の残響 ~序~

遣らずの雨と共に、今年もまたこの町に梅雨が降りたった六月。隔絶された小さな町で、若者たちは己の過去と未来の隙間で、立ち止まっていた。 個々の人間性を問う、 人と時の、青春群像劇。

  • 自由詩
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2016-08-23

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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