*星空文庫

はらわれる

遠藤健人 作

 板チョコを食べるのが好きだった。チョコが好物なのではない。あのアルミホイルの包みをチリリと破り、かじりついてパキッと小気味よい音を立てるのがたまらなく好きなのである。できるだけ大きな音を鳴らすこと、また、そのときに出る細かなチョコの破片については一切注意を払わないことが肝要である。
 だから私はいつも外でチョコを食べることに決めていた。部屋を汚すのは嫌だったし、それに猫を飼っていたからでもある。猫にチョコレートは毒だといつか聞いたことがある。少量なら平気なのだろうが、念のため。
 私はあらゆるところで板チョコを試した。駅のホーム、大学構内のベンチ、祖父母の家の縁側、公園のジャングルジムの上、また商店街をぶらぶら歩きながら食べてみたりもした。
 その日、私は近所の河川敷でチョコをかじっていた。初秋の夕方の風が気持ちよかった。しまい忘れの風鈴の音がどこかからかすかに聞こえている。これからどんどん寒くなるが、それはそれで悪くはないなと私は思った。
 「おばさん、いつもチョコ食べてるね」
 それは黒いランドセルを背負った男の子だった。私は突然のことでしばらく何の反応もできなかった。こうして話しかけられること自体初めてだったし、それより何より、不意打ちの「人生初おばさん」に動揺し切っていたのである。
 「おばさんはさすがにないでしょう…私、まだハタチよ。大学生」私はなんとか言葉を絞り出した。
 「あれ、そうか」言いながら男の子はランドセルを下ろし、私の隣にちょこんと座りこんだ。「いつも遠くから見てるから、何歳くらいの人かわからなかったんだ。お姉さんならいい?」
 「うん。いつも私のこと見てるわけ?」
 「お姉さん、いろんなところでチョコ食べてるでしょ? クラスのみんな、知ってるよ」
 そうなのか。私は誰かに見られているかもしれないなどと気にしたこともなかった。
 それにしても、この子はなんなんだ? ふつう、知らない「おばさん」に急に話しかけたりするだろうか。
 「みんなは私のこと、なんて言ってるわけ?」
 「んーとね」男の子は急に言いにくそうに目線をずらした。あまり良いように噂されてはいないらしい。「きれいな人だねって…」
 「うそつけ!」あまりにも見え透いた嘘に思わず私は吹き出してしまった。「本当は?」
 「…チョコばあって」
 「チョコバー? バーじゃないよ、これは」
と言って私は軽く板チョコを持ち上げた。
 「そうじゃなくて…おばあさんの『ばあ』だよ」
 なるほど、ばばあの「ばあ」か。おばさんやらばばあやら、私は今日だけでうんと年を取ってしまったような気分になった。
 「それでね…」と男の子がもじもじしながら極めて要領悪く話し出したことには、要するに私はいわゆる妖怪というやつで、「田渕君が学校に来なくなったのはチョコばあがチョコをエサにして連れ去ったからだ」とか「街のホームレスのおじさんたちはあいつのチョコで一人ずつ毒殺されている」とかいう噂が広まっているらしい。で、この子は、妖怪なんているわけない、自分が今度あの女の人からチョコをもらってきて、みんなの前で食べてやる、とクラスメイトたちに約束したのだという。
 「でもさ、私からもらったチョコを学校に持って行ったって、そのへんで買ったものだと思われるだけじゃない? あ、でも私を友達の前まで連れて行くとかはやめてよね。暇じゃないんだから」死ぬほど暇だったが、子供が嫌いだったのでそう釘を刺しておいた。
 男の子は、一見スマートそうな印象ではあるが、その実、級友をどう納得させるのかということにはあまり考えが及んでいないようで、「でも…一応チョコは…もらえませんか?」ともごもごと言った。
 「まあ、チョコはあげてもいいけどさ…」と私は答えた。根も葉もない噂だが、まあ別にどうでもいい。悪くないじゃないか、チョコばあも。名前だけなら、あまり害のない妖怪のようでもある。小豆洗い、座敷童、あかなめ、チョコばあ…。
 妖怪チョコばあ…ね…。
 「親とか先生は私のことを知らないでしょう?」
 「うーん、わからない。話したことない」
 「大人に私のことを話すんじゃないよ」
 「話さないと思うけど…なんで?」いぶかしげに男の子は私に尋ねた。
 「祓われるんだ」と言って私はチョコを一口かじる。
 「…はらわれる?」
 「大人たちに知られると、私はこの街を追い出される」私は一切感情を表に出さずに、ただぼんやりと川の方を見つめながら話し続けた。
 「……」男の子は半笑いのまま固まっている。話についていけなくなっているようだ。
 「私は本当にあんたたちの言う妖怪ってやつで、普段は子供たちにしか姿は見えない。だけど、何かの拍子に大人たちに存在が知られてしまうと、たちまち迫害の対象になってしまう」
 「あー…」男の子の半笑いは私への嘲笑に変化していた。さすがにそんな子供だましの嘘は通用しませんよ、といわんばかりの表情だ。「だまそうとしてるでしょ? さっき大学生って…」
 「君は小学五・六年生かな?」私は尋ねる。
 「まだ四年生」男の子は答える。
 「そうか、ちょっと大人びて見えるね。私だって、君くらいの子が妖怪なんて話を簡単に信じるとは思っちゃいないよ。クラスのみんなも噂を楽しんでるだけだろうしね。サンタだってもう信じてないでしょう?」
 「うん」
 「だから私は嘘はつかない。本当に伝えたいことを話すときは、ためらっちゃいけない。それがどんなにおかしな話に思えてもね、本当のことだけは曲げちゃいけない。私が言ってること、わかるよね?」
 私は無表情のまま男の子の顔をのぞきこんだ。嘘に決まっている、だけど、ひょっとすると、もしかしたら…と彼の心は揺れ始めていた。
 「わかるよ…でも妖怪なんて、そんなの…」
 「本当は妖怪なんて呼び方はしてほしくないんだ。『妖怪チョコばあ』なんていかにも滑稽じゃないか。私は人間によく似た別の生き物だ。そんなのはそこらじゅうにいくらでもいる。みんな目立たないようにひっそりと生きている。そうしないと祓われてしまうから。私たちは人間にとてもよく似ている。でも、だから祓われる。人間と同じにならなければ。でも何をすれば同じことになるのか、私たちにはわからない。私は少し目立ちすぎた。君にみつかった。話しかけられた。私たちと話ができる子供は滅多にいない。君と私はどこか見えない場所でつながれている。君は自分から私に声をかけたと思っているけれど、本当は私の方が君を引き寄せたのかもしれない。あるいは、私は君に引き寄せられてこの街に来たのかもしれない」
 私は慎重に、言葉をひとつひとつ積み上げていくイメージで話し続けた。男の子は明らかに怯えていた。
 「お姉さんは…はらわれて…この街に来たの…別の街を…」彼の呼吸は浅くなっている。
 「私はこの街が好きだ。この街では、人も、別の生き物も、決して私の邪魔をしてこない」私は大きく深呼吸した。「私はここで生きるしかない。私はこの街で生活をしている。それだけだよ。ただそれだけだから。ね?」
 男の子はかすかに顎を震わせながら小さく頷いた。
 五時の鐘が鳴った。まだ陽は落ちていないが、少し肌寒くなってきた。河川敷に作られた小さなグラウンドでは、野球少年たちが帰り支度を始めていた。
 「これ、あげる」私はバッグから新しい板チョコを取り出して、男の子に差し出した。「大丈夫、本当にただのチョコだから。本当に本当。明日、みんなの前でそれ食べて、そんで…まあなんとか説得しなさい、妖怪じゃないって」私はもう面倒臭くなっていた。
 男の子は、こんな気味の悪いものは受け取りたくないが、断るのも…といった感じで、ありがとう、とぼそっとつぶやきながらチョコを受け取った。
 私は、じゃ、と軽く言って立ち上がり、振り返らずに河川敷を後にした。

 帰宅して、私は猫の首を撫でながら考えた。どうしてあんなに本気になって妖怪のふりをしたのか。子供が嫌いだからでも、おばさんと呼ばれたことに怒ったからでもない。からかってやろうと思ったのでも、ただむきになってしまったのでもない。
 あのとき、私は確かに妖怪だった。ただこの街でそっとしておいてほしいと思った。
 あのあと男の子がどうしたか想像してみる。彼は自宅の居間のテーブルに板チョコを置き、どうしたものかと思案する。そこで中学生の姉(がいると仮定する)が帰宅する。姉はテニス部の練習のせいで疲労困憊の体である。
 チョコレートじゃん。
 あ…もらったんだけど…。
 いらないなら食べていい?
 あ…。
 姉は躊躇なくチョコレートの包装を破り、親の敵とばかりにくらいつく。
 弟はこっそりと姉の様子を窺うが、特に何の変化もない。次の日も、その次の日も。そりゃそうだ、そもそも妖怪チョコばあなんているわけがない、あんな変なおばさんにだまされかけたなんて僕はどうかしていたのだ。
 しかし、あの日のことなどほとんど忘れかけてしまってからも、ふとしたときに考えてしまうのだ。
 たとえば、姉の焼き魚の食べ方がやたら汚くて我慢ならないと感じたとき。
 あるいは、化粧品やら占いやらアイドルのコンサートやら、自分には理解できないものに姉が金をつぎこんでいくのを見たとき。
 あるいは、姉が大学のテニスサークルで知り合ったという軽薄さだけが売りみたいな先輩と腕を組んで歩いているのを見かけたとき…。
 姉はあの妖怪がくれたチョコのせいでおかしくなったのではないか。
 もちろん、そんなバカな話があるか、と頭ではわかっているにしても。
 …本当に悪いことをした。いや、きっとあの子は私と別れた直後にあのチョコをどこかに捨ててしまって、こんなくそばばあのことなどすぐに忘れ去ってしまうだろう。けがれは真っ先に祓われなければならない。
 膝の上で猫が、ごげー、と汚い声で鳴いた。

『はらわれる』

『はらわれる』 遠藤健人 作

妖怪チョコばあ、あらわる。4,151字。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2016-08-20
CC BY

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。