妻からのリクエスト

犬棒あたる 作

 私が病気になった時、脳や手のリハビリのつもりで、なにか文章を書いたらどうかと息子に勧められた。物を書くなど今まで無かったが、言われた通りに始めてみた。そしたら、意外と楽しい。毎日書くようになった。随想モドキがいくつか出来たころ妻に読んでもらったら「いいんじゃないの」と、どちらとも取れる反応があった。その褒め方は私がやめないように気を配っているのが見え見えだ。
まあ、良いほうに解釈してと、調子に乗っていたら、妻から自叙伝を書いてみたらと注文が来た。これは大変だ。おだてながら私の過去を暴く作戦かも知れない。ヤバイ。
 人は誰にも小説より奇なりの人生があるといわれる。恥も外聞も気にせず、他への迷惑もかまわずに自叙伝が書けたら面白いし、作家になれるかもしれない。私にその勇気はない。妻から折角合格点を貰っているのに、そのことで金箔が剥がれてはつまらない。懺悔すべき事があっても、心の中の優しい聖母マリア様の前でしたい。「哀れな子羊よ」と許してくれるだろう。うちのマリア様は恐そうだ。自叙伝を書くなら無難に「ワタシが生まれた時は紫の雲が立ち込めていた」で始めよう。はたして、二行目を妻は読んでくれるかな。
 「それならわたしに残す言葉でもいい」と彼女はまたリクエストしてきた。出来そうだが、これだって簡単な様で難しい。
なにしろ、日常における私の言動は信用されていないから。
例えば「今日は綺麗だね、いつもそう思っているけど」と言っても、「あなたに言われると白々しいのよ、何か魂胆があるの?」と、私の立場があやしくなる。話し方のどこが悪かったのか悩むことになる。
もう一つ例を挙げれば「おなかがすいているから、今日の晩御飯は何を食べても美味しいね」などと言ったら、「だから、何時までたってもわたしは上手になれないのよ。美味しいもの食べに連れて行って頂戴」となってしまう。
色々言っても妻には通じないかもしれない。とりわけ余計な言葉は付け足さないほうがいい。人生の終わりには、心をこめて、「ありがとう」とだけ言おう。
2016年5月25日

妻からのリクエスト

妻からのリクエスト

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2016-06-27

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