*星空文庫

雨の猫曜日

かくら 作

雨の猫曜日

待ち合わせは路地裏の積み重ねられた木箱の陰。
「空気が重くなってきたわ。雨になるから外へ出るのはおやめなさい」
 確かに水の気配が満ちている。昼だというのに町は青暗い。だが、少年は母の忠告を尻尾で払った。
「まだ降ってきたわけぢゃなし。雨になる前にはやつも来るだろうし」
 しかしいくら待っても待ち合わせの相手は現れず、やがて黒い雲が押し寄せてきた。最初、空との離別を惜しんでいた雨だったが、間もなく地上を潤す役目を思い出し、潔い落下を始めた。雨に叩かれた少年は路地に棄てられた椅子の下へ避難した。濡れた毛並みは魚の鱗のようで、彼にとっては不快だった。もとのやわらかさに戻そうと何度も舐めるが、拭いきれるものではない。あきらめて雨を眺める。石畳の溝を流れ、雨がいくつもの川をつくっていた。川の交差点で煙草の吸い殻が押し流され排水溝へ消える。突然空が光って雷鳴が轟き、彼は瞳孔を丸く開いて背骨を強ばらせた。


「強い雨が降ると世界が終わる気がする」
 母は雨が降るといつも窓から顔をそむけて悲しげに髭をふるわせた。
「あなたたちのお父さんはね、雨の日に攫われてしまったのよ」
 雨の日には猫攫いが増える。甘い言葉で誘い、傘の下へ、レインコートの内側へ、猫を隠す。母が最後に見た夫は、檻に閉じこめられた姿だった。
「どうにかなるさ」
 檻の中で夫は軽く尻尾を振ったという。
「あなたたちは軽いところが似ているから心配なのよ」
 母はそう言って少年の額を舐めた。兄弟の中では彼の毛皮の模様が一番父親に似ているらしい。父親が攫われたのは彼の生まれる前のことだ。顔も知らぬ父親だが、彼は親しみを感じている。どうにかなるさ、という髭一本分あるかないかの軽さ。雷が鳴るたびに尻尾のふくらむ臆病な彼だが、慎重さに欠ける飄々とした父親の遺伝があるはずだと考えれば、いくらか心強い。母はいつも悲しげな白猫だが、雨が降る日は絶望といっていいほどに白さを増す。世界は終わらずに、雨が止んでも、母は白くありつづける。青い目の透明が底を失って果てのない淵へつながる。どうにかなるよ、どうにかなってるじゃないか。彼の言葉は母に届かない。母の世界はいつでもどうにもなっていないのだ。ただ白くなっていく。母は猫らしくもなく、過去を生きている。


「坊ちゃん、傘をいかがかな」
 不意に声が響いた。少年よりひと回り大きな雄猫が椅子に入ってきた。鉤尻尾の雄猫は、少年の鼻を舐めて挨拶をよこした。
「傘なんて持ってないぢゃないか、あんた」
「おお、寒い寒い」
 鉤猫は雨に濡れた肩を少年に押しつけてくる。少年は押し返して鉤尻尾に噛みついた。鉤猫こそが待ち合わせの相手だった。最近喫茶室の裏で知り合った友人である。黒と白の斑模様の毛皮が熊猫に似ている。ちいさな熊猫として、喫茶室の客に鶏肉を与えられている。少年とて黒と白だが、決して彼のようなひとの笑いを誘う模様ではないと、自身では線を引いている。
「そうかなあ、同じようなものじゃないか。ほらどうだ」
 鉤猫は少年の肩を抱いて客の前に座らせた。すると客は倍の鶏肉を皿へ準備した。そういうつきあいである。
「あんたがさっさと来ないから、雨が降ってきたんだ」
 香箱になった鉤猫に身を寄せて、少年は抗議した。鉤猫は目を細めて鼻をひくひくと動かす。
「雨ね。いい匂いじゃないか」
「いい匂い?」
「ほら、おまえも座って」
 少年は促されるままに香箱になり、鉤猫と同じ方向へ顔を向けた。雷は遠ざかり、雨は勢いを弱めている。
「推測するに、これは空を掬った匂いなのさ」
「ちがうよ」
「じゃあなんの匂い?」
 問われて少年は考える。雨といえば母の目を思い出す。悲しげな透明だ。果てのない透明。白猫は世界の果てを見ている。
「世界の果ての匂い」
「へえ、おもしろい」
 少年は鉤猫に興味を持たれて得意の気持ちになる。
「世界の果ては透明で白い匂い、青い匂い、レインコートの匂い、檻の中の斑猫の匂い」
「なんだいそれは。謎掛けか」
「ちがうよ。別にそのまんま」
 解説を始めたら、母親にお尻を舐めてもらっているねんねの仔猫と誤解されかねない。肩に手を回されるたび、一段下の猫扱いされている気がするのだ。反面、肩に回される鉤猫の黒と白の腕の温度は一瞬で眠気に襲われるくらいに心地いい。鉤猫の匂いは兄弟達と似ている。兄弟もみんな黒と白の斑だ。模様が同じだと匂いも似るのかな、と少年は考えるが、それを母にも鉤猫にも言えない。少年は攫われた父親を鉤猫に重ねないでもない。まさかそれも言えない。格好悪い仔猫みたいだ、と少年は思う。ただ、一度だけ鉤猫に出自を尋ねたことがある。
「雨の雲から黒い水たまりに落ちたのさ。だからこういう黒と白の斑になったというわけさ」
 はぐらかされたのか、本当にそうなのか知れない。結局どうでもいいのである。困ったことに、適当なことばかり言う鉤猫の隣が、少年には居心地がいいのだ。少年は鉤猫の温度を感じて眠くなる。目を閉じかけては開く。鉤猫はすでに糸のような目になって眠っている。雷はどこかにいなくなった。石畳には水の膜が張っている。雨の王冠が生まれては崩れる。その数が次第に少なくなってきた。少年は尻尾をまるめ、鉤猫にもたれる。やわらかな呼吸が伝わる。雨が遠くに聞こえる。世界の果てに雨が去っていく。最後の王冠が消えた時、少年と鉤猫は黒と白の斑模様のひとつのかたまりになっていた。

『雨の猫曜日』

『雨の猫曜日』 かくら 作

雨の日の猫のおはなしです

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2016-06-26
Copyrighted

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