さい

ちぃひろ 作

 机の上に高く積み上げられた原稿用紙の束は、もはや自分の背をも超えていた。僅かにできたその塊と塊の谷間に、私は万年筆を手に持ったまま埋れていた。
 あとほんの少し書くだけなのだ。頭の中に既に完成された言葉はある。それをそっくりそのまま書き写すだけで、この物語は完成する。
 しかし、私がこの原稿用紙と睨み合いを始めてから、既に三日が経つ。万年筆を握りしめた手が不快に汗ばんでいた。
書けない。
 頭の中でこの言葉がどこまでも続く螺旋階段のように何度も渦巻いた。
 書こうとせんことは決まっているのに、そこから手が動かない。手どころか体も動かない。
 私は文字通り身動きがとれなくなっていた。
 
 コツコツと書斎の戸を叩く音がした。
「あなた。入りますよ」私の許可を待つことなく、老妻が扉を開ける音がした。
 子等が独立して二人になってから、妻は随分と私の世話を焼くようになった。
 寂しい気持ちは理解できる。けれども、今私は妻の相手をするつもりなど全くなかった。
 私のエネルギーはすべてこの原稿用紙一枚に向かっているのだ。妻などの相手をしている余裕はない。
 私は振り返ることも、答えることもしなかった。
「あなた。もう三日もその調子ではありませんか。少しはお休みになったらどうなの」
 背後に妻の気配を感じた。
 珈琲を持ってきたらしい。部屋中にあの独特な渋い香りが広がった。いったいこの隙間ない机のどこに置くつもりだというのだろうか。
 腹が立つので何も答えなかった。
「ねえ、あなた。珈琲をお持ちしましたよ。頭が冴えるようにお砂糖もいれています。少し休まれてはどうですの」
 真っ白な割烹着に包まれた腕が伸びてくるのが目の隅に映り、それが椅子の背もたれを二三度揺らした。
 椅子をこのように揺らされると書くことは勿論、考えることもできない。
 私も我慢の限界だった。
「いい加減にしろ!これはお前などが口を挟むようなことではない」振り返り、私は私の机の側から妻を押しのけた。最も珈琲が零れて原稿用紙にでもかかっては大変なので、腕力というよりかは、凄味を効かせた声で追い払ったと言った方が正しい。
「全く。あなたときたら。頭の中には、サイのことしかありませんの」妻は呆れた表情を浮かべ、頭を振った。
 嗚呼そうだ。その通りだ。私の頭の中に、今サイのこと以外の何かを考える余裕などどこにもなかった。
 サイは最高の女性だった。純粋無垢であり、潔白で、正義感が強く、曲がったことは許さない。目はいつも爛々と輝き、その微笑みは見る者の心を癒す。かつてあどけなかった少女は、今や二本の足で力強く大地に立つ逞しい女性になった。
 私はその経緯を誰よりも知っている。サイのことで私が知らないことなど何もない。
 私は誰よりもサイを愛したし、その成長を見守ってきた。
 それなのに。今私はそのサイを殺そうとしているのだ。
 他のことなど考えられるはずもない。
 私にとって万年筆のあの鋭いペン先を原稿用紙に向けることは、サイの心臓に鋭利な刃物を突きつけるのに等しいかった。
「それほどまでに悩むのであれば、お話を変えれば良いではないですか。そのような態度をとられるとこちらも迷惑です。あなた、サイを生かしなさいな」妻は駄々っ子を宥めるような軽い口調で言った。ここ数年私の物語を一度も読んでいない妻には、私の気持ちがわからない。
「そうはいかない。このままサイが生き残る展開など誰も求めていないのだ。サイの自己犠牲の下にこの物語は完結せねばならぬのだ」私は紅いペルシャ絨毯の上に散らばった、くしゃくしゃの原稿用紙のいくつかをごみ箱に投げ入れながら言った。
「あなたの一筆でどうにでもなるのでしょう。そのように決まりきったものではないはずです」
「悲劇のヒロインとなってこそ、読み手の感情は一心にサイに注がれる。悲しければ悲しいほど、人々はこの物語の中に絡め取られる。ここで、情に流されるということは、読者と作品を裏切るということなのだ」私はそう答えた。
 妻は暫く佇んでいたが、やがて誰に対するものなのか、憐れみの表情を浮かべ「残酷なものですね」と言った。
 妻がなんと言おうと、物語の結末を変えるつもりはなかった。
 この物語の終結はこれを書こうと思ったその日から決まっていた。サイの犠牲の先に希望が生まれる物語だ。
 つまりはサイの最期を最期たらしめるために、ここまで描いてきたのだと言うこともできる。これまでの全ては布石に過ぎないのだ。
 勿論、途中何度も他の展開はないのか、サイは救えないのかと考えた。しかしどう努めようとも、サイを最後まで生き抜かせようとすると、薄っぺらく奥行きのない物語になってしまう。
 美と破壊は、消して切り離せない。否が応でもそう感じざるを得なかった。
 私が低く唸った。しかし妻は相変わらず軽い。
「それほどまでに、この物語を想うのであれば、早く終わらせておしまいなさいよ」
「それが、私にとってどういうことなのか、お前はわかっていない!」私が怒鳴ると卓上ランプがガタガタと震えた。
「サイは私の血なのだ。肉なのだ。私が心血注ぎ、育ててきた大切なサイなのだ。それを物語に準ずるためだとはいえ、意図も簡単に殺せるものか」私は妻を睨みつけた。
 最早サイは、私の心の中に生きていた。その見目も心も、はっきりと自分の中に思い描くことができた。それを殺すなどということは、例えサイが空想の産物であってもできないように思われた。
 妻は私の目の前で静かに頭を振った。そうしてそのまま俯き、手に持った珈琲を遠い目で眺めていた。
 幾時かそうしていたように思う。
 やがて、妻が口を開いた。
「あなた。昔私が、サイと私とどちらが好きか、問うたことを覚えてらっしゃいますか」
 なんとなくではあるが覚えている。
 子どもを無事家から送り出したことを祝い、久しぶりに夫婦二人で行った温泉旅行の時だ。
 確か温泉に入り、部屋で寛いでいたその時に妻は急に問うてきた。
 おずおずと聞いてくる妻に対して、私はきっぱりと、サイだと言い切った。
 妻はため息を一つついたきり、その件に関してそれ以上何かを問うてくることはなかった。
 その時の気持ちに今も変わりはない。
 別に妻に魅力がないわけではない。しかしサイは別格なのだ。
 ちょうど光源氏が紫の君を理想の妻に育て上げたのと全く同様に、私もサイを幼き時から私の理想の存在になるよう書き上げていった。
 サイは幼い頃は、簡単に思い通りに動かせる子だった。書きたいように、書いたように動いた。しかし、そのうち自由意志を持つと思えるようになった。私が書きたいようにというよりかは、物語の中で彼女が彼女自身が話したいように話し、動きたいように動くように感じられるようになった。
 サイは強く美しく女性に成長した。肌は健康的に日焼けし、目鼻立ちのくっきりとした顔はよく笑った。背筋がすっと伸びており、例えどんな苦難に見舞われたとしても、前を向いていた。今まで出会ったどんな女性よりも屈強な精神を持っていた。それでいて、溢れる気品は巫女のように清らかであり、舞などを踊ると神懸かって感じられた。
 私はサイに夢中になった。サイを尊敬した。サイの言葉に何度も勇気づけられた。
 妻よりもサイを愛している、そう自覚しないわけにはいかなかった。
 生きている人間である妻が、想像から生まれたサイに敵うはずはなかった。
「今でも、そうお思いなの?」少し躊躇いがちに妻は問うてきた。
「ああ。サイは私の理想そのものなのだ。この世の人間が叶うはずがない」
「でも、それほどまでにあなたの愛していらっしゃるサイを、生き残らせたり、生き返らせたりはしないのでしょう」
「ああ」
 ふっ、と瞬間妻の視線がどこかにぶれた。
「ねえ、あなた。今私(わたくし)が何を考えているかご存知?」
 私は首を横に振った。
「私、今、サイの最期を早く描いてくれないかと心待ちにしておりますのよ」頬を軽く赤らめながら妻は言った。
「私の心配はいらぬよ。時期に書き終わる。そうしたら、また食事もとるし、睡眠もとる。今は好きなようにさせてくれないか」穏やかな声で私は答えた。
「いいえ、そのようなことではございません。私、サイに嫉妬しているのです」
「嫉妬?」
「ええ。物語の登場人物に嫉妬するなど、世間様に言ったら笑われるでしょうね。けれども、何とも言えない妙な心持ちがして仕方がないのです。サイに、消えてくれと……元からこの世にはいないのにそれもまた変な話なのですが……思わずにはいられないのです」
 私は驚いた。妻がサイに嫉妬していようなどとは思いもしなかった。
 確かに妻は私がこれほどにもサイに惚れ込んでしまつたことを快く思ってはいなかった。しかしそれは、家族や自身の生活を顧みず、執筆に全エネルギーを注いでしまうことへの戸惑いや怒りであると思っていた。
 何より妻自身がそう言っていたのだ。もっと他の物事も大切になさい、というのが妻の口癖だった。
 それに恋だなんだという観点を想像の世界に持ち込んでくるのは、妻らしくない。私は妻のその現実を生き抜く力を尊敬し、彼女を嫁にもらうことに決めたのだから。
 妻は今まで私に隠していただけなのだろうか。嫉妬というその獰猛な感情を、表にはちらりとも見せず心の中に飼いならしていたのだろうか。
 私は妻の顔を見た。
 妻は決して怒鳴ったり、喚いたりする質ではない。今もまた、声を大きく荒げるようなことはしなかった。
 しかし、妻から漂うものに私は少なからず恐れを感じた。きりきりと胃が締め付けられる。それがどこからくるものかはわからなかったが、はっきりと彼女は私よりも強いのだと認識した。
 そしてまた同時に、私は妻に美しさも感じていた。
 無論、五児を育て上げた妻に官能を刺激するような美はなかった。皮膚はたるみ、皺が刻まれ、髪はかつての艶を失っていた。
 けれども、その一見静かに見える感情の、その奥に潜む本流のあまりの激しさに私は心撃たれた。そうして、そのような激しさを持つ妻を、人間として美しいと思った。畏敬の念すら感じた。
 妻は射抜くように私を見つめていた。私は目をそらすことすらできなかった。体に電流が走ったかのように指先に鈍い痺れを感じた。
 どれほどそうしていただろう。この時が永遠に続くように感じられた。
 きっと実際には数秒のことだったのだろう。
 やがて妻は不意に口元を緩め、私に言った。
「せっかくの珈琲が冷めてしまいました。入れ直してきますよ。今度こそ飲んで下さいね」そうして部屋を出て行った。
 私はふっと息を吐き出した。そして静かに机に向かった。
 そしてずっしりと重い万年筆を手に取り、一心に書き始めた。
 今度は筆が止まることはなかった。
 早く書き上げよう。
 もはや私の中でサイはただの架空の人物でしかなくなった。サイは私が作り上げた幻であり、その幻がどのような結末を迎えようとも、それは然程重要ではないと思うようになった。
 それよりも、妻とともに楽しい余生を送ることこそが重要なことだと感じた。
 背後で扉が引かれ、また押された音がした。しかし、人の気配はない。
 妻が私の様子を見て、入ってくるのをやめたのだろう。
 この物語を書き終えたら、妻とともに温泉旅行にでも行こう。今までとんだ苦労をかけたのだ。余生は妻に捧げよう。
 あれ程渋っていた、物語の結末は、その後二日で書き上げた。

さい

妻(さい)という言葉の美しさから想像を膨らまして書いた作品です。
私が書く物語は、どうも気がつかぬうちに男性が女性の上で転がされている物語が多いような気がします……。

さい

私の妻は私の書く小説の主人公に嫉妬していた。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2016-05-08

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