桜街道で

ちぃひろ 作

 サルトリーヌ皇国の都トゥムラグはこの桜街道をずっと進んだ先にある。
 二頭の馬は、人二人が座る荷馬車を引いて、底なしの闇に向かって歩き続けていた。
「なあ、ユジ。俺は昼間一人で行けると駄々をこねたが、父上は正しかったらしい。夜の桜街道がこんなに怖いものだとは思わなかったよ」ラキチは言った。
「坊っちゃま。夜というのは昼の世界とは全く別のものなのでございます」ユジは意地悪く笑ってみせた。
 ラキチは今年で十七。この歳はサルトリーヌ皇国において、元服の歳にあたる。翌月行われる皇民会議にて、アリスバル街の市(いち)を父の補佐として共に統制する権利を都トゥムラグの大首長トウラグより受けることになっていた。
 今馬を走らせ、トゥムラグの街に向かうのは何よりそのためである。
 父の元に手紙が届いたのはつい一月ほど前のことだ。トゥムラグで親しくしている宝石商の旦那からだった。貿易で儲けたトーワという人物がアリスバルの市の統制権を狙っている。トーワは大首長トウラグに取り入るため密かに珍しい宝石を送ったらしい、ということだった。
 現アリスバルの市の統制権はラキチの父にある。将来的には父の権限をそっくりそのまま受け継ぐつもりで、今回はそれを見越しての任命なのである。
 任命が確実になればラキチの家も安泰である。市の統制権を得るといるのは街の実権を握るのに等しい。市に店を出すための出店料、店の売上にかける税の一部によって自然に金が懐に飛び込んでくるのは勿論のこと、店の場所などを贔屓してもらいたい者が良い品を持ってラキチの家を訪れる。
 それがもしトーワに奪われてしまったら……。父はトウラグにラキチを遣わすことにした。
 アリスバルからトゥムラグまではこの桜街道をひたすら進めば辿り着ける。馬車なら三時間もかからない距離だ。
 ラキチにとってトゥムラグはよく行く馴染みの街だし、馬の扱いに自信のあるラキチは過去に何度か一人でトゥムラグを訪れている。だから今回もそのつもりだった。
 しかし、それを父は許さなかった。人目を憚って、夜にアリスバルを経つことになったからだ。夜道は危険だと父は言った。
 それを言われたとき、ラキチは自分が臆病者だと言われた気がして随分と機嫌を損ねたが、街道に出てしまうと父の言ったことに納得せざるを得なかった。
 夜の桜街道は桁違いに恐ろしいのである。
 桜街道は名前の通り道沿いに延々と桜が植えられた街道である。過去にサルトリーヌ皇国の戦勝記念に植えられたのだという。
 毎年この時期になると見計らったように一斉に桜が咲き誇る。昼に見ると花弁の柔らかな色合いが美しく、心癒されるものなのだが、夜に見ると暗がりに浮かび上がるおどろおどろしい木と変に艶やかな花びらのそのあまりの不気味さに、そこを通った者は物の怪に取り憑かれたような感覚に襲われる。
 今灯りといえば、馬車の荷台の左右に付けられた松明二本しかない。この二本の松明の赤黒い炎が桜のその姿を闇に浮かび上がらせた。
 ずっしりとした木が両手を広げるようにして枝を張り巡らせ己の両脇に雄々しく立ち並び、まるでラキチを阻んでいるように見える。何より一度(ひとたび)風が吹くと、いっせいに桜の花弁と花弁の影が宙に舞い上がり、ラキチを嘲笑うが如く踊り狂うのだ。
「ユジ。ユジが居てくれて正直良かったよ。一人でいたら心細くなって、気が狂って幻でもみてしまったかもしれない」ラキチはユジに言った。
 ラキチはユジが大好きだった。過去に隊商護衛の経歴を持つ彼は、ラキチの家の用心棒の中でも飛び抜けて強く、逞しかった。三十路前ではあるが筋骨隆々の引き締まった体は衣の上から見ても美しい。ラキチ自慢の家臣だった。
「お坊ちゃま。確かにこんな絶景、妖(あやかし)が好んで見に来ていてもおかしくありませんね。けれども、知っておりますか。本当に怖いのは妖ではないのです」ユジの目がぎらりと光った。
「妖より怖いものとはなんだ」勇ましいユジが怖いというものが何であるのか、ラキチは興味津々で尋ねた。
「ああ、それは人でございます。ああ、ラキチ坊っちゃま。羽織を脱ぐ間、馬の相手を代わってもらえますか?」ユジはラキチに鞭を手渡し、寒さしのぎに着ていた厚手の羽織を脱いだ。
「人?こんな夜中に誰が出歩くというのだ?」ラキチはユジが差し出した手に鞭を返しながら答えた。
「誰と言われますと、それは色々おりますが……例えば今も一人、我々をつけている者がいることにはお気づきですか」
 突然のユジの言葉にラキチは背が凍る思いがした。
「ユジ、冗談はよせ」ラキチは嘘であることを願い、半ば笑い飛ばすつもりで言った。
 しかしユジは真剣な顔をして答えた。
「冗談じゃございません。相手が誰がわからない以上、こちらから働きかけるのは得策ではないとみますが……」
「いつからつけられているのだ?」
「十分ほど前からでございましょう」ユジの淡々とした答えが、かえってそれが真実であることを示しており、ラキチの頭は真っ白になった。
「ど、どうするというのだ」ラキチはユジを恐る恐る見た。
「そうですね。坊っちゃまはお気づきでないと想いますが、さっきまでは辺りが村だったです。しかし、今丁度誰も住む者のいない古戦場地に入りました。……答えはそう遠くないうち出るかと思います」ユジは落ち着いた顔で、いや、寧ろこの状況を楽しむような表情で、しゃんと前を向いていた。
「ラキチ。今から言うことを必ず聞きなさい。座席の下に身を屈めなさい。それから何があっても私が良しというまで、顔を上げないで下さい」そう言ってラキチを無理やり座席の下に押し込んだ。ラキチは何が何だかわからず、ただされるがままに従った。
 その時だ。ひょうっという音が耳を掠めた。ラキチは音の正体が気になって顔をあげようとすると、ユジに押し戻された。
「死にたいのですか?」ユジがそっと言った。ラキチは顔を上げないよう気をつけながら首を回して視線を上に向けた。
 座席に弓矢が突き刺さり、細やかに震えていた。
 さっきまでラキチが座っていた場所だった。ラキチは震えだした。冷や汗が止まらない。言い知れぬ恐怖が身体中を駆け巡った。
 馬も敵の存在に気がついたのか、狂ったように駆け出した。
 ユジが視線は周囲に送りながら、ラキチの頭を右手で優しく撫でた。ごつごつの手だった。
「心配には及びません」ユジはそういうと、足元から弓矢を取り出し、先程弓矢が飛んできた方向とは違う方向に矢を放った。
「夜目が効くのです」ユジが呟いた。
 しかし、敵に当たりはしなかったようで、応戦の矢がひょうひょうと音を立てて返ってきた。
 けれども、ユジもこの短時間で木の盾を立てかけていたので、矢は盾に刺さっただけだった。
「炙り出せれば、それで充分」ユジは盾から顔を出し、再び闇に矢を放った。
 屈んだラキチに盾の向こうの様子はわからない。しかし、突然聞こえた蹄の音に、敵の乗った馬がこちらに飛び出してきたことはわかった。
 けれども一瞬の間もないうちに、馬の悲鳴が聞こえた。ユジが相手の馬を撃ったのだ。
 馬車の速度が落ちた。ユジが片手で馬車を操っているのが見えた。荷台の減速機を少しずつ引き、そして馬の手綱を引いて徐々に減速させていった。二頭の馬は興奮して落ち着かない様子で息を荒立てていたが、やがて荷台が完全に動かなくなったことに気がつくと、それ以上走ろうとはしなくなった。
「いいですか、決してここを動いてはなりませんよ」ユジはそういうと、荷台に置いていた太刀を手に取り、一飛びで盾を越えると、馬車から降りてしまった。
 ラキチは馬車に一人取り残されてしまった。ラキチは震えが止まらなかった。叫びたいほどに恐ろしいのだが、声すらでない。
 耳を手で塞いでみたが、金属がぶつかり合う高い音が聞こえてくる。
 もしユジが負ければ、ラキチもここで死ぬに違いない。
 誰かが自分たちを殺そうとしている。何故かはわからない。いや、理由などないに違いない。少なくとも自分たちは殺されるべき人間ではない。ここで、自分たちを殺そうとすることは、あまりにも不条理なことだ。
 そのことに気がつくと、今度は恐怖を超えて怒りがふつふつと湧いてきた。
 何故自分たちがこんな目に合わなければならないのだ。腹の底が熱くなって、掌からじわりと汗が滲み出た。
 常に勇猛果敢であれ。父の口癖が頭に浮かんだ。
 そうだ。俺は誇り高き血を受け継ぐ子だ。父の子だ。強き剣を手に取ろう。勇みてゆこう。真(まこと)の正義を見せてやろう。
 ラキチは荷台から、短刀を探し出し鞘から刀を抜いた。そしてその柄を掴み、馬車の盾を立てかけていない側に短刀を落とした。そして、それに自分も続き、下に降りて荷台の影に潜み、辺りの様子を伺った。
 車輪の下からユジの背中と矢を背負った相手の姿が見えた。お互いに間合をとりながら、睨み合っている。勝負に気を取られている二人は、余程注意しないとこちらには気がつかないはずだ。
「義賊鬼神丸は、噂通りの手練れらしいな」ユジの面白がる声が闇に響いた。
 ラキチは唇を噛んだ。鬼神丸の噂は聞いたことがある。人を襲って殺しては、盗みを働く最悪の輩だという。
 ラキチは今自分たちが置かれている状況を理解した。
「あんたも、なかなかだよ」影が強く表情こそわからないものの、鬼神丸が気味悪い笑みを浮かべた姿は容易に想像できた。
 鬼神丸は巨漢でこそなかったが、仁王立ちをしているただそれだけで、人の足を竦ませる雰囲気があった。後ろ一つに束ねられた髪が春の夜風になびき、松明の炎にあぶり出された影が鬼神丸の背後に雄々しくそびえ立っている。
「こんなところで懸賞首に会えるなんて、とんでもない幸運だったか……」
「はたまた災難だったのか」ユジの言葉の後を鬼神丸が継いだ。
「いいさ。別嬪に殺されるならば、武人冥利に尽きる。まあ当然殺される予定は無いけどな」そう言いユジは太刀を斜めに構えた。
 そうして刃先を鬼神丸に向け、突っ込んでいった。鬼神丸は素早く矢をつがえて放った。矢はユジに向かって真っ直ぐ飛んでゆく。ユジはそれを太刀一振りで払い落とした。
「この近距離戦で弓を使おうなど愚の骨頂」ユジはそう叫び、鬼神丸の首めがけて腕を大きく振り上げた。しかし鬼神丸はそれよ りも早くユジの腕の中に入り込み、腹に拳を突き上げた。けれども、ユジは体を左に捻り拳を避け、太刀を手前に引いて再び鬼神丸の首を狙った。鬼神丸は瞬時に頭を下げ、ユジの足を蹴った。
 ユジは少しよろめいたが、すぐに立て直し、鬼神丸の真上から襲いかかった。ラキチは完全に太刀が鬼神丸を捉えたと思った。
 しかし、鬼神丸は左腕を突き出し、太刀を跳ねあげた。跳ねあげた時に袖がめくれ、銀の腕輪をしていたのがわかった。
 それでもユジは手を止めない。相手が息つく暇を与えず、上下左右から浴びせるように太刀を振った。鬼神丸はそれを器用にも既のところでよけてゆく。
 ラキチはようやくなぜユジに荷台で待つように言われたのかわかった。ラキチを危険から逃がすためではない。ラキチがあの場に出たのなら、足手まといになるのが見えているからだ。
 あまりの俊敏な動きにラキチは二人を目で追うのがようやくだった。館で行う鍛錬武術とは訳が違う。ユジが今まで武術稽古をつけてくれたとき、どれほど手を抜いてくれていたかわかった。
 最早二人の動きは舞のように見えた。ユジの太刀の軌道は弧を描き、それを鬼神丸が衣の袖を閃かせながら軽快に避けた。
 しかしついにユジの太刀が鬼神丸の頬に触れた。鋭い刃先が頬を撫でるように通った瞬間、赤い血潮が桜吹雪に飛び移った。赤黒い炎に照らしだされたその光景は恐ろしくも幻想的であった。
 ユジが最後の一太刀を振り上げた。もう鬼神丸は足を引こうにも間に合わない。確実に捉えたと思った。
 けれども鬼神丸は退くどころか、頭をからユジの胸元に飛び込んだ。
 刹那の出来事だった。鬼神丸は袖口から手の中に滑り落とすように短刀を取り出し、真下からそれを鞘ごとユジの顎に叩き込んだ。
 勢いそのままにユジは大の字に倒れ、動かなくなった。土埃が宙に舞った。
 ユジが負けるなんて、ユジが死ぬなんて……。
 ラキチは信じられなかったし、信じたくもなかった。強く、優しく、誇り気高いユジの笑顔が頭に浮かんだ。
 ラキチにとって血の繋がりはなくとも、主従の関係であっても、それでもユジは兄のような存在だった。
 鬼神丸がユジの傍に屈んだ。
 とどめを刺すつもりだ!
 ラキチは自分が鬼神丸より強いとか弱いとか、そんなことは露ほども考えなかった。ただ、ユジが殺されるのを黙って見ていることなど耐えられなかった。
 ラキチは短刀を握り直した。そして荷台の影から飛び出し、刃先を鬼神丸に向け、叫び声をあげながら弾丸の如く突っ込んでいた。
 鬼神丸がこちらを振り返った。ラキチの目と鬼神丸の目が噛み合った。しかし鬼神丸のその目には、恐怖も驚きも映っていなかった。迫ってくる死にもこれほどまでに冷静なのかと逆にラキチは驚いた。けれどもこの距離まで詰められたのであれば、ラキチは鬼神丸を殺せると確信していた。
 あと三寸。三寸で刃が鬼神丸に触れるという時に、ラキチの体がふわりと浮いた。
 鈍い痛みが全身を走り、気がつけばラキチは投げ飛ばされていた。
 足元に長い影が近づくのが見えて、鬼神丸が歩み寄ってきたことがわかった。
 形勢逆転だ。
 目の片隅に、先ほどまで自分が持っていた短刀を弄ぶ手が見えたとき、自分が死ぬ様子がありありと頭に浮かんだ。
 一気に先程の勇気はどこかに消えてしまった。足も手も震えて使い物になりそうにない。
「あんたにゃ、まだ私は殺せやしない」上から声が降ってきた。
 弱い自分が辛くって、情けなくて、悔しくて、胸は張り裂けそうだったが、もうどうしようもない。自分の命は敵の手の中なのだ。
 どうせ死ぬなら、最期くらい勇ましく死にたい。
 恐怖を必死で押し殺し、顔をゆっくりとあげた。死ぬその瞬間まで睨んでやろうと思った。
 見下ろす鬼神丸とがっちり目があった。
「いい目をしてるが、あんたがこれ以上襲ってこなければ、私もあんたを殺しゃしないよ」鬼神丸はそう言い、短刀を遠くに放り投げた。
 鬼神丸は穏やかにそこに立っていた。ゆるりと立つその姿からは殺気というものが感じられなかった。
 何よりラキチが驚いたのは、鬼神丸が女だったということだ。
 ユジと同じくらいの歳であろうその女は、体に対して多少大きい男物の旅装束をゆったりと着こなし、普通それぐらいの歳の女がするであろう化粧は一つもしていなかった。
 そもそも、女の盗人なんて聞いたことがない。
「女……なのか?」ラキチはおずおずと口を開いた。
「私が男に見えるかい。女だよ」ラキチは茫然と目の前の女を眺めた。
「力比べではね、女が男にかなうはずはないんだが、殺し合いになると、ことは変わってくるんだよ」ラキチの心の中を読んだかのように鬼神丸は答えた。
 すっと鬼神丸が後ろを振り返って、ユジの側に再び屈んだ。
「やめろ!その男に手を出すな」ラキチは咄嗟に叫んだ。
「こいつも殺してなんかないさ。気絶してるだけだよ。気絶している間に自分の舌で窒息しないように、整えてやるのさ」鬼神丸はユジの衣を引っ張り状態を起こすと、そのままよいしょと持ち上げて、ラキチが乗ってきた馬車の荷台の空いているところに乗せ、体勢を整えた。
「どうせ、こいつの目が覚めるまでには大分あるんだ。あったかいもんでも作ってやるから、ついておいで。あんた、馬に一人で乗れるかい?そうかい。なら、私の馬に乗りな。ちょっと矢が掠ったから、機嫌は悪いと思うが、行先にはきちんと連れて行ってくれるだろう」鬼神丸は桜の木の下で、落ち着きなく土を蹴っている馬を指差して言った。
「普段はいいやつだから、よろしく頼むよ」
 わけがわからないラキチは、ただ言われるがままに従った。どうせ、やりあったってラキチに勝ち目がないということはさっき理解した。素直に聞くしかない。
 鬼神丸はラキチの馬車に乗り、ラキチの馬はその後に続き道を進んだ。すぐに街道を逸れ、脇道に入り、さらに行くと道なき道を進んだ。道を外れてしまうと、自分がどこを歩いているのかもはやわからず、とんでもないところに来たのではないかと不安になった。
 前を行く馬車の松明が辛うじて辺りを照らしていたが、ラキチがここがどこかを知るには不十分であった。
考えてみたら、ラキチは街道沿いしか通ったことがないのだ。街道の外に他の世界があることは知ってはいたけれども、その実感はなかった。
 怖くはあるけれども、明るい時にここに来て見たかったな。なんとなく、そうも思った。
 幸い鬼神丸の馬は行き先を理解しているようで、前方の鬼神丸を見失うこともなかった。
 十分ほど歩いたところで、目的地に辿り着いた。土手に穴が掘られており、それが鬼神丸の住処だった。
 鬼神丸は馬車の松明を外し、穴の中に持って入り、中央に作られた簡素な炉に火を灯した。そしてラキチも中に入るよう促した。
 鬼神丸が再び外に出て馬たちの世話をしている間、ラキチは藁で編んだ敷物の上に座り辺りを見回していた。
 もっとも逃げようとしても逃げられるとは思わなかった。
 鬼神丸の住処は随分と質素なものだった。
 ラキチは盗人の住まいとはもっと豪華絢爛、贅沢の限りを尽くしているものだと思っていたので驚いた。
 穴の奥に食材が積み上げられているだけで、お宝なんてどこにもない。
 炉の上に鍋が置かれてあるが、その中身はラキチが普段食べているものよりもずっとひもじかった。
 ただ武具は土むき出しの壁に沿って豊富に置かれてあった。弓だけで五張、太刀も三振り、他には槍に手投げ剣、盾、それからいくつものラキチが知らない武具が置いてあった。
 鬼神丸がユジを背中に抱えて帰ってきた。ちょっと雑な運び方で、何度か垂れ下がった腕や足を壁にぶつけているのを見た。重さのせいかもしれないが、わざとなのかもしれない。ぶつける度にユジは呻き声のようなものを漏らしたが鬼神丸はそれをことごとく無視していた。しかしなんとかユジはごわごわの敷物の上に寝かせられた。
 ラキチはユジの横に駆け寄り、呼びかけた。けれども、ユジは伸び上がっており、ラキチの声に答える気配はなかった。
「大丈夫。よく眠ってくれるように薬を仕込ませてもらったのさ」後ろから鬼神丸がラキチの肩に硬くて温かい手を置いた。
「鍋もあったまっただろ。食べな」そう言うと、鬼神丸は木の椀に木の柄杓で鍋の中身をすくって、木の匙を添えてラキチに手渡そうとした。
「いらない」ラキチは首を振った。
「どうしてだい?ほら、毒は入ってないよ」鬼神丸は自ら鍋の中身を食べて見せた。
「いらない」ラキチは繰り返した。
 いくらでもラキチを殺せる瞬間があったのにもそうしていないことから、ラキチは既に鬼神丸の己を殺す気がないという言葉は信じていた。
 だから毒の問題ではなかった。盗人に施されることを、わずかな正義感が拒んでいたのである。
 それにラキチは木の食器を見るのは初めてだった。いつも真っ白な陶器や透き通ったガラスに入ったものを食べていた。茶色い木の食器は随分と不清潔に見える。そんなもので食べる気にはならない。
「泥棒と同じ釜の飯なんて食えるか」悪党に歯が立たなかった悔しさも加わって、ラキチはせめてもの抵抗と歯を食いしばり呟いた。
 考えれば考えるほど、今こうして盗人の世話になっているということが、許されざるべきことのように思えてくる。
「なあ。なぜ殺さなかった」ラキチは鋭い口調で尋ねた。
「盗みが目的だからさ。殺しは目的じゃない。殺す必要がなければ、わざわざ殺しゃしない」鬼神丸は熱々の鍋を自分の椀にとりながら淡々と答えた。
「じゃあ、今までお前は人を殺さなかったのか」
 鬼神丸は首をゆっくりと振った。
「いや。この手についた穢れが洗い落とせないほどたくさん」鬼神丸は匙を一度置き火に己の手をかざした。
「じゃあ、何故俺たちは殺されなかった。情けでもかけられたのか?殺すにも値しなかったのか?」
「あんたはあそこで殺されたかったと言うのかい?」
 ラキチは答えられなかった。当然死にたくはなかった。けれども敵が自分を殺さなかったのは、何かとても不当なことであるような気がしてたまらなかったのだ。
 鬼神丸は静かに鍋をすすった。そして椀を置き、一呼吸置いてから口調柔らかに口を開いた。
「あんたの言ったことは半分当たっている。でも半分違う。あんたたちを殺さなかったのは、あんたたちが弱かったからだ。私にあんたらを殺さずすむだけの余裕があった……。ああ、あんたの連れを悪く言うつもりはないよ。確かにやつは思っていたより強かった」ラキチの頬に赤みが差したのを見て鬼神丸は慌てて付け足した。
「でも、上には上がいるってことさ。それにあんたの連れくらいのやつが束になって襲ってくることもある。そんな時は、殺らないとこっちが殺られるんでね」
 ラキチは黙り込んだ。
 今目の前にあるのは穏やかな一人の女の顔だった。天井に開けられた煙抜きの穴のめがけて走る湯気の揺らめきの奥に、今日一日何事もなかのような平和な顔をした彼女がいる。けれども、鬼神丸が噂通りのとんでもない手練れだったということも真実だった。その腕でいくつもの危険を乗り越えてきたからこその落ち着きなのだろう。
 一見穏やかそうに見えるこの女が潜り抜けてきた修羅を思うと、己の弱さが余計に身に染みた。
 鬼神丸はラキチを静かに眺めていたが、やがて立ち上がって言った。
「食べな。さっき腹の音が聞こえたよ。私はちょっと頬の傷洗ってくる」
 確かにラキチは気がつけばお腹が減っていた。意地を張って食べないでいても、何も得にはならない。
 湯気立ち昇る鍋と穴の外に向かう鬼神丸の無防備な背中が目に入った。
 ラキチは一つ大きな溜息をつくと、鍋の方を選んだ。
 木の椀を持ち上げてみる。思いの外軽くて、しかも丈夫そうであった。鍋の中身を椀に入れてみる。あまり美味しそうには見えなかった。雑穀を煮たものらしい。
 匙ですくって食べてみる。口の中に温もりと出汁の旨みが広がった。想像していたより、ずっと美味しい。
「どうだい?いけるだろ。昔、料理の手ほどきは受けてるんだ。味には自信があるよ」鬼神丸が穴に戻ってきた。
ラキチはしぶしぶ頷いた。
 血が洗い落とされた鬼神丸の頬は、うっすらと筋のような傷痕を残すばかりで、さほど酷い傷ではなかったことがわかった。
「なあ。鬼神丸。あんた、いつもこんな生活送ってるのか?」ラキチは汁をすすりながら、鬼神丸に問うた。
「食事のことかい?そうだね。その日あるものを使って作るからね。でも、大体似たようなもんかな」
「いや、そうじゃなくてさ。誰かを襲って、傷つけて、盗んで……。ずっとこうして生きているのか?」
「別に毎日盗みをしているわけじゃないさ。必要な時だけ。……そういう答えが聞きたいんじゃないね。そうだよ。もうずっと、盗人をしている」
 けれども、そう言い胡座をかいて座った鬼神丸に盗人の面影はなかった。
 ラキチは盗人になる者は狂人か何かだと思っていた。しかし鬼神丸と呼ばれこの地に名を轟かす盗人は、近くで見れば偏屈ないただの女だったのである。その凡人が当たり前の如く盗みを働くのがラキチには許せなかった。
「なんで、盗人なんかになったんだ。そんなの卑怯者がすることだ」わずかにでも栄養をとったことで、体が熱を持ち、ラキチには再び正義の心が湧き上がっていた。
「卑怯者……。確かにそうかもしれないね。間違いないよ。けれどもね、なりたくて、盗人になるやつなんか、どこにもいないさ」
「どんな理由であれ、盗みは悪いことだ」ラキチは鬼神丸をありったけの力を込めて睨んだ。鬼神丸はとりあう様子もなく、再び鍋の中身をおかわりした。
 鬼神丸が食べる間、ラキチはずっと睨み続けた。鬼神丸も何も語らなかったし、外で鳴く虫の声が聞こえるほど静かな時間だった。
 しばらく黙る間に、腹が立てども今は明らかに鬼神丸の立場が強いということを思い出し、また溜息ついた。溜息をついてしまうと、怒りも少し収まった。
「そういえば、ユジが……あんたが顎を叩き割ったやつだが……言っていた、ギゾクってなんだ。あんたのことギゾク鬼神丸って呼んでただろう」自分で作っておきながら、やはり沈黙というのはどこか気まずく、ラキチは何か話すきっかけが欲しくて思わず尋ねた。
 けれども鬼神丸はそう呼ばれることが嫌だったらしい。
「家に帰ってあんたの親父にでも聞きな。私はね、義賊って呼ばれるのが嫌いなのさ。何を言おうと、人殺しの盗人には違いないから」声を荒げたりはしなかったが、その声に明らかな不服の気持ちが見てとれた。
 空気がまた少し重くなった。
 別に盗人と良い雰囲気になる必要なんてないのだが、どうも友人と仲違いしてしまった時のような感じがして、落ち着かない。
また妙な沈黙が続いた。
 しかし次に先に口を開いたのは向こうだった。
「悪かったね。気分を害させたりして」ラキチは思わず鬼神丸を二度見した。
 いくら見た目が普通の女だからといっても、彼女は正真正銘大悪党の鬼神丸なのだ。盗人に謝罪の言葉はあまりにも不釣り合いだ。
「謝るなんてなんだよ。あんた、盗人らしくない」
「そうかい?私は生粋の盗人だよ。あんたがこの世に生まれる前からこの稼業をしている」鬼神丸は首を傾げて言った。
「でも、盗人のように見えない」ラキチは首を振って言った。
「そうかい。でも、あんたの盗人の想像ってどんなもんだい。そっちの方が間違っているんじゃないか」
 ラキチは思わず言葉に詰まった。確かにこれまで一度も盗人なんかと話したことはない。
 見たことなら一度あった。盗みはを働いた罪人が処刑場まで檻の馬車で運ばれていくのに遭遇した。目はぎろついて、髪はボサボサ、唇がいやらしくめくりあがったその者たちを幼きラキチは恐ろしく思ったものであった。これが罪人なのだとラキチは知った。
 けれども、その知ったというのは知った気がしただけで、本当のところは何も知らなかったのかもしれない。だって見ただけなのだから。
「そうかもしれない」ラキチは呟いた。
 この人はラキチが思う盗人とは随分違っている。ずっと穏やかで温かみがある。それならば、いつ道を違ったのだろう。いや、それとも盗人が道を誤った者の末路だというのは、それすらもラキチの思い込みであるのだろうか。
「なあ、もう一回聞くけどさ。どうして盗人になった」ラキチの声は穴の中に静かに響いた。
 鬼神丸は少しためらった。けれども「長い話になるよ」と前置きしてから、ぽつぽつと話し始めた。
「いくら昔から盗人やっていると言っても、生まれた時から盗人だったわけではないからね。私はね、たいそう小さくて貧しい村に生まれたんだ」鬼神丸の声は昔物語を読み聞かせるような、低くて柔らかい耳の奥でよく響く声だった。
「私が五つになった頃畑に病気が流行って、食うもんがなくなってね。それで食いぶち減らしに私は人買いに売られ、トゥムラグの妓楼に売り飛ばされたんだ」
「それは親がすることはないな。平気でそんなことするなんて。それに、同じ村の者はそれを止めなかったのか? 村人とはそんな薄情な生き物だったのか」ラキチは奥歯を噛み締め、床を手で打った。
 すると鬼神丸がラキチの背を軽く叩いて気を落ち着かせた。
「まあまあ。それで村人を一括りにするのがあんたの悪い癖だ。現に私は今、村人に生かされている。それに考えてみな。一家で飢え死にするか、首を括るか、娘一人売りに出すかなら、答えは一つだろう」
「お金がないっていうのは、働かない者の言葉だ。家族を養えるよう働くのが当たり前だろ」
「知らないのかい。あんたたちが作った条例のおかげでね、一つの村が市で売れる作物は一つの種類までなんだ。それが駄目になってしまったら、おしまいさ。そりゃどの村も必死にその作物を作ろうとするからさ、国全体でのとれ高は上がっただろうさ。けれどね、一つ病が出ると、その村は稼ぎがなくなる」
 勿論条例のことは知っていた。大学で習うし、将来アリスバルの市を治めるならば、知らないでは済まされない知識だ。
「でも、農耕以外で働けばいい。それは禁じられていないはずだ」
「勿論してたはずさ。けれども、下請けで得る作業なんていくらやっても儲からない。どこかで誰かに金をぶんだくられるからね。まあ何を言おうと、それで私は売られたのさ。けれどもね、売られたのは私にとって、そんなに悪いことじゃなかった」
「どういうことだ?」
「私が売られたのはトゥムラグ一の妓楼でね。なかなかに格式高い店だったんだ。事実上の公娼だよ。相手にする人もかなりの金持ちばかりだからね、そう簡単に座敷には出さしてもらえない。幼いうちは禿(かむろ)として、とことん鍛えられるのさ」
「鍛えられる?」
「座敷での作法は勿論、語学、算学、薬学、政治に料理。他にもあったかな。隠居した遊女たちからありとあらゆる手ほどきを受けるんだ。無論、もし村で暮らしいていたら知らなかったであろう知識ばかりだ。貧しい村で生まれた私にとっては、毎日が楽しみだった。今思えば、その頃が一番幸せだったかもしれない」
「それでも、妓楼は悪しきものだ。それで、風俗店は禁止になったはずだ」風俗廃止令のことは大学で習った。父からも、トゥムラグの風紀を引き締めた良法として聞いている。
「その通り。私が座敷に上がる前に、令が出された。私の店は真っ先に潰されたよ。高官たちの汚職の温床になっていたからね。けれども、私たちはそんなこと関係ない。稼がなきゃ生きていけないんだ。けれども、遊女をしていたやつ雇ってくれるまともな店なんてないさ」
「でも、遊女なんてすべき仕事じゃない。妓楼はなくすべきものだったんだ」ラキチは言い張った。
「でも、あんたが思うほど妓楼は減ってないよ。質の悪い私娼はこっそりと営業していたから、殆どの仲間はそこに行った。確かに名のある妓楼は消えたが、皮肉なことに、法にそぐわない粗悪な店は逆に増えたんだよ。そんなこと令を出す前からわかっていたはずだ。つまり私の妓楼は高官の権力闘争に巻き込まれて潰されたのさ」
「それは、俺に高官が自分勝手なやつだと言いたいのか」ラキチは自分が悪口を言われたような気がして面白くなかった。風俗禁止令の制定には父も関わっている。
 しかしラキチの怒りに反して、鬼神丸はあっさりと言い捨てた。
「高官には高官の世界があるんだろ。それは私たちの知ったところじゃない。私たちは私たちの食いぶちを探さなきゃならないんだ。ただそれだけのことさ」
 そこでちょっと間を開けて、鬼神丸は言った。
「でも、私は人を人とも思わぬ低俗な妓楼に尽くす気にはなれなかったから、街を出たんだ。それで迷い込んだ森の中で飢え死にしそうになっている時に出会ったんだ」
「誰に?」
「盗賊の一味にだよ。その盗賊団の頭領が気のいいやつでね。私の才能を見出して雇ってくれたんだ。こんな私を拾ってくれたのが、人道外れたやつだったなんて驚きだろ。気がつけば盗賊になっていた。他でもない、これが私が盗人になったわけさ」
「盗賊になることに良心は痛まなかったの?」ラキチは顔をしかめた。
「痛んださ。でもそのうち慣れる。それよりも、食べることが大切だからね。私はそこで、あんたの歳になるくらいまで、盗賊として生きるための手ほどきを受けたのさ」
「盗賊の手ほどきってどんな?」
「例えば、金を持っているやつの見分け方とか、得物の使い方とか。とにかく生きる残る方法だよ」
 鬼神丸はラキチの短刀を懐から取り出し、手の中で回して見せた。ラキチに怯えた表情が浮かんだのを見て、鬼神丸はにやりと笑った。
「あんたさっき、これを持って私に向かって突っ走ってきたろ。本当にそれで私を仕留められると思ったか」
「思ってない。意地だ」
「そこだよ。盗賊は意地で戦わない。戦の数が違うんだ。意地になって戦っていたら、いくら命があっても足りないよ」
「じゃあ、あんただったら逃げたというのか」
 鬼神丸はさぞ面白そうにラキチの目を覗きこんだ。そして自分の頭を指差して言った。
「ここを使うのさ」
「頭?」
 鬼神丸は頷いた。
「私なら馬で轢きに行くね。あんたの連れと私が離れた瞬間が狙い目だ。運よく私を殺せたかもしれないし、例え無理でも、私には隙ができてしまうから、その間にあんたの連れがなんとかしてくれただろう」
 ラキチは思わず下を向いた。敵に戦い方を教えられるなんて、物凄く歯がゆい。でも、言っていることに間違いはない。
 だから、恐ろしい。鬼神丸にはラキチの目の前で戦法を披露したところでやられないだけの自信と余裕があるのだ。自分が彼女の足元の爪にも及ばないということが、身に沁みてわかった。
 慌ててラキチは話を逸らした。
「で、その盗賊団は今どこにいるんだ?山か?そこでお前の凱旋を待っているのか?」
「いやいや。とっくの前に抜けたさ」
「抜けた?」
「頭領が死んでね、盗賊団でやっていくのが面白くなくなったのさ。十八の頃のことだから、勿論色目で見られるようになったのが嫌だったというのもあるんだが、何より自分の力を認めてもらえなかったことに頭にきたのさ。つまり、若気の至りで盗賊団を抜けたんだよ」
「じゃあ、今は独りなの」
鬼神丸は静かに頷いた。
「そうだよ」
「一人でできるものなの」
「楽じゃあない。それに、普通盗賊は街のそういう店に盗品を持って行って換金してもらうんだけどね、私の場合名前が売れ過ぎて、いい懸賞首になってしまったから……裏の世界じゃ顔も有名なんだよ……盗品を街では売れない。盗品を買い取るより私の首差し出す方がお金になるからね」
「じゃあ、盗んでも仕方がないってこと?」
「いや、金を盗んで村で物を買えば、生きてはいける」
「村?」
「市の値よりずっと高い値で色々買ってやるのさ。足りないものはお使いを頼む」
「村人はあんたを殺そうとはしないの?」
「村人はね、その辺義理堅いのさ。戦利品をね、持って村を訪れると祭りを開いてくれるんだ。そこで一度酒を酌み交わせば、首を狙われることは少ない。……ないとは言えないけどね」
「ふうん。俺たちの宝も持って行っちゃうのか」ラキチがぽつりと言った。
「ああ。宝石は売り捌けば足跡がつくから、持って行くのは金と米だけだけどね」
「足跡がつく?」
「ばれるだろ。どこの村から盗品が売られたか。ばれたら村に迷惑がかかるのさ」
「村に宝石を置いておけば?」
「村人にとってそれが何になる?私が行くのは、こんな私の戦利品でも、生きる糧になるような貧しい村さ。宝なんていくつあっても、腹は満たされない」
 ラキチは鬼神丸の横顔を眺め見た。その穏やかな表情には、鬼神と呼ばれるに価する悪を見つけることができなかった。
 寧ろ何かの使命に燃えた一種の正義感すら感じさせるような眼差がそこにあった。
 突如鬼神丸が立ち上がって、腰を叩いた。
「さっ、少し話しが過ぎたかね。あんたはここに座っておいで」
そういうと鬼神丸は、部屋を片付け始めた。鍋を洗い、衣を重ね、盗品をまとめ上げ、武具を包んだ。槍はそのままでは長過ぎたので三つに分解してしまった。
 ものの半時間で荷支度が終わってしまうのは圧巻だった。ラキチの父が新しく家を建てたとき、その転居に五日はかかった。
 最後にユジの下の敷物が残った。
 鬼神丸はユジを転がし敷物を引っ張り出した。ユジは小さく呻いたが、鬼神丸はまたもそれを無視した。
けれども、鬼神丸はユジの手首にある花弁の入墨に目を留めていた。
「この入墨……。六花組の生き残りだったのか」二本の指でユジの手首のあたりをさすりながら言った。
「りっか?」ラキチはなんのことかさっぱりわからず、つい間の抜けた声を出してしまった。
「六花組。あんたが物心ついた頃には、もうなかったかな。護衛屋さ。今もだけどね、どんな作物も育たない地にある村は農作を諦めて、村の男手集めて護衛業に精を出すんだ。護衛業は危険は大きいけど、その分儲かるんだ。その中でも一昔前に、腕が立つと評判だったのがソルレ村の六花組だ」そういえば、ユジは昔隊商護衛をしていたと言っていた。
「でも、一昔前ってことは今はないんだろ」
 鬼神丸は頷いた。
「その腕が悲劇を呼んだのさ」
「どういうこと」
「彼らもまた高官の政権争いに巻き込まれたんだ。反政権派の高官に大首長の暗殺のために雇われたのさ。でも、大首長を殺し、あと少しで政権を得ることができるというところで、そやつの策略が周囲にばれた。結局、六花組は殺しの罪をなすりつけられてね」そう言って、鬼神丸は自分の首をとんと叩いてみせた。
 ラキチがぶるぶるっと身震いしたが、鬼神丸は構わず話続けた。
「六花の主だったやつはみんな粛正された。生き残ったやつも護衛業は辞めたって聞いてたけど……」
 そこで急に言葉をやめ鬼神丸はにやりと唇をめくり上げて笑った。
「今更また高官一家に仕えるなんて。余程金に困ったか、復讐の業火に身を焼いているのか……はたまた何か別の立派な志を持ってやってきたか。……あっ!こいつ舌打ちした。聞いてたな。もう少し薬を盛っておくんだった」
ラキチは足下の男を見下ろした。兄のように慕ってきたこの男が急に捉えられなくなり、腹の底に冷たいものが広がった。
 もしかすると、今までのユジと過ごしてきた日々は偽りであったのかもしれない。ユジは己を慕うラキチを腹の底で嘲笑い、どうやって利用してやろうかと考えてあぐねてきたのかもしれない。
 この一種の思いつきは思いつきに過ぎなかったのだけれども、それでも十分にラキチを傷つけた。
 その時、不意にラキチ肩にずっしりとした手が置かれた。温かな手だった。鬼神丸の手であることは振り返らないでもわかった。
「私が何を言おうとあんたはあんたが見たこいつを信じればいい。もっと自分で見たものを信じな」ラキチと同じくらいの背の鬼神丸は、そっとラキチに寄り添い、その耳に囁いた。
 ラキチは鬼神丸の顔を見た。鬼神丸は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、力強くは頷いた。
 何故かはわからなかったが、身体の力がゆっくりと抜けていった。
 鬼神丸は手をラキチの肩から降ろすとくるくると敷物を丸め、慣れた手つきで麻紐で止めた。
 そうして、荷物は全部で三つの袋と敷物にまとまった。驚いたのは、武具のその殆どを荷の中にではなく鬼神丸の衣の内に入れ込んでしまったことである。外見はただの弔道女(死者の供養のため俗世を捨て弔いの旅をする女)であるからして、これなら衣の中を怪しまれることも改められることもなく女一人で街道を歩くことができる。
 準備を終えた鬼神丸は一声叫んだ。
「さあ。私は行くよ。ユジさんとやら、こいつをあとは頼むよ」
 今度はラキチの耳にもはっきりとユジの舌を打つ音が聞こえた。ユジの指先がぴくぴく動いたが、それ以上には動かせなかったようだ。
 鬼神丸はそのまま踵を返し、振り向くことなく穴の外へと消えてった。
 鬼神丸がいなくなった穴の中は急に寂しくなって、しんと静まり返った。
 炉の火も鬼神丸が出ていく少し前に消えてしまい、周りの空気も冷め始めた。ただ、炉に手をかざすとまだ暖かさが感じられた。
 ラキチはユジの様子を時々伺いながら、しかし何をするというわけでもなく、冷たい壁に寄りかかり、長かった夜を振り返った。
 恐ろしくもあり、それでいてどこか現実味のないふわふわとした夢の中にいるような夜だった。ユジとおしゃべりしながら夜道を馬で駆けたことが、遠い昔のことのような気がする。そもそも何故馬を走らせていたのか……。ああ、トウラグに貢物をするためだ。でも、失敗した。このままでは、アリスバルの市の統制権は違う者の手に渡るかもしれない。
 頭の中に父が怒鳴る声が響いた。顔を赤らめ凄まじい勢いで叫んでいる。目は大きく見開かれ、唾が雨のように飛んだ。母が柱の後ろでそれを青ざめた表情で眺めているのだ。
 だからと言って、自分にどうしろというのか。いっそこのまま逃げて盗人にでもなろうか。
 そしていつかは捕まって。
 昔見た盗人の哀れな末路が思い出された。
 ぼさぼさ頭の汚らわしい囚人が車に乗って処刑台に連れて行かれる。周りの野次が煩くて、他の音は何も聞こえない。
不意に囚人が、振り返って、その悲しそうな目の中にラキチが映った。視線を逸らせなかった。
気がつくと囚人はユジになっていた。 ユジは助けを乞うこともなく、ただ寂しそうな瞳をこちらに向けているだけだった。
ラキチは精一杯の声でユジの名を叫んだ。何度も何度も叫んだ。けれどもどんなに叫んでも、野次の声に掻き消され、ユジまで届くはずもなかった。
 そのうちユジの顔が変化し始めた。髪が伸び、肉付きが柔らかくなって女になった。鬼神丸だった。鬼神丸は口元に微かな笑みを浮かべ穏やかに馬車に揺られていた。けれども、やっぱり誰が誰に変わろうとその瞳の哀しげな様子は変わらない。
 ラキチはそれを呆然と眺めることしかできなかった。
 ラキチは泣きそうになるのを堪えて、ただその姿を見守った。
 そのうち鬼神丸の姿も変化し始めた。
 次に誰になるのかは、もうラキチにはわかっていた。来るべき時が来たのだと思った。
 やがて鬼神丸はラキチになった。
 ラキチの目にラキチが映った。どんなに隠しても隠しきれない怯えた顔が情けないほどに映し出されていた。
 手がどうしようもなく震えている。震えを止めようと思い手元を見た。気がつけば手には枷がはめられている。ラキチこそが荷馬車で運ばれる囚人になっていた。
 ことことと荷馬車が揺れた。
 再び顔を上げると、聴衆がラキチに向かって石を投げるのが目の隅に見えた。避けられるとは思えなかった。
 どうすることもできぬ間に石はでかくなり、ラキチの額にがつんと当たった。
 ラキチはそこで目が覚めた。ラキチは自分の膝を抱え込むようにしていて寝ていた。額に膝をぶつけたらしい。
 視界がぐるぐると揺れ動き、落ち着くまでにしばらくかかった。
 ゆっくりと息を吸い、昨日の出来事を思い出し顔を上げると、やはりそこは穴の中だった。
 けれども、穴からユジが消えていた。
「ユジ!」ラキチは思わず叫んだ。穴の中を見渡したが、穴の中は空っぽだ。
 一瞬いなくなったのかと肝を冷やしたが、意外にも返事は穴の外からあった。
「坊っちゃま。お目覚めですか」まだ薄暗い穴の入り口から、ユジはひょっこりと顔を出した。
 ラキチは駆け出し飛んで抱きついた。
「ユジ!大丈夫か」飛びついてから、傷でも痛んだらと慌ててその手を緩め、そして飛びついた自分に少し照れた。
 落ち着いて見ると、ユジの見た目はさほど悪くなかった。顔色もいつも通りだし、大きな怪我はしていないようだ。
 けれども、ユジは口を尖らせて言った。
「大丈夫も何も最悪の朝です。顎は痛いし、指先はまだ痺れてるし。何が眠ってくれる薬だ。あいつが盛ったのは痺れ薬でい。今度会ったらただじゃおかないから……。あれ、どうして笑っておられるのですか」
 威勢だけは良いけれども、今度会っても負けるだろうなとラキチは密かに思った。けれども、今言ったらさらに機嫌が悪くなりそうだと思ったので、それは心の中に留めることにした。
 恐らく鬼神丸は夜明けには薬の効果が切れるように計って盛っている。それくらいにこの勝負に余裕があったのだ。全力だったユジが勝てたはずかない。
「いや、別に」奥歯を強く噛み、平静を装った。
「では、再びトゥムラグを目指しましょうか。金は殆ど取られちまいましたが、まだ珍しい宝石やらが残っています。献上品としては、なんとか足りるでしょう。急げば、日が登りきる前にトウラグ亭まで辿り着けるかもしれません」
 宝石は盗らないという鬼神丸の言葉を思い出し、ラキチは頷いた。
 馬は既に整えられていた。手負いのユジに準備させたのかと思うと、ラキチは寝ていたことを申し訳なく思った。
 忘れ物があるかもしれないと最後に外から穴の中を見渡したが、暗くてよく見えなかった。けれども、再び中に入って確認しようとは思わなかった。
「いこう」ラキチは言った。
 二人は荷馬車に乗り、桜街道を目指した。
 昨日は暗くてわからなかったが、ここは草原であった。満開の桜が連なる道が遠くに見えたので、桜街道がどこかはすぐにわかった。
 草原の地平線の端に薄く明かりが差し、薄紫色になっている。もう間もなく夜は明けるだろう。
 馬の手綱は、指先に痺れの残るユジに代わりラキチが握った。慣れない道であったが、馬は素直に言うことを聞いてくれた。
 荷馬車は、上下に揺れながらも順調に道を進み、やがて桜街道に戻って来た。
 その時太陽の最初の光が、桜並木に光を浴びせた。柔らかな春の朝日が、花弁の色を鮮やかに見せた。
 桜が舞った。そこに夜のような恐ろしさは一欠片もなかった。
 荷馬車はその中をことことと進んでゆく。
 ラキチは思わずため息をついた。ユジも横で桜に見惚れているのがわかった。
「なあ、ユジ」ラキチは横で伸びをしている男に声をかけた。
「なんでしょう」ユジはのんびりと答えた。
「ユジ。なんだかさ、このままトウラグの力を借りてアリスバルの統制権を父から受け継いだとしてさ、面白くない気がするんだよね」
「はて、さて。お坊ちゃまは何が言いたいので」ユジは言った。
「世界をもっと見てみたくなったのさ」ラキチは、地平の向こうを見渡した。
 この世界のなんと広いことか。
 世の中にあんな盗人がいることを、ラキチは露ほども知らなかったし、考えたこともなかった。けれども、こんなにも世界が広いのであれば、もっと沢山自分の知りもしない存在があるに違いない。
 アリスバルという街だって、自分の目に見えない無数の存在が絡み合って成り立っているのだ。盗賊一人理解できなかった己に万の民が治められるとは思えない。
「なあ。今からトウラグのところに行くのをやめて、そのまま旅に出るって言ったら、どうなると思う?」ユジに問うた。
「旦那様はお怒りになり、お許しにならないでしょう。もしかしたら、家を追い出されるやしれません。あなたの代わりになる弟様もいらっしゃいますからね。そうなれば、例え世界を見ようとも、大事は成せませんねえ」ラキチは頷いた。
「じゃあさ。もうしばらく待って、大学学舎を卒業して、それから遊学と称して旅に出てみたらどうなるだろう」再びラキチは問うた。
「賢いお方で。それはもう立派な遊学でございます。ユジもともに参りましょう」ユジはにっこりと笑うと、ラキチの頭に手を乗せ、そうして今度は背中をピシリと叩いた。
 背筋が伸びる気がした。
 ラキチは、麗らかな春の光が生んだ春の空気を思いっきり吸い込んだ。
 なんと平和な景色なのだろう。
 日は昇った。
 荷馬車が通り過ぎた後を消すかのように、桜吹雪が街道に舞った。

桜街道で

尊敬する上橋菜穂子さんのように、いつか壮大なファンタジー小説を書いてみたいと思い、その前段階として作った作品です。頭の中で、ラキチやユジ、鬼神丸は、他にもいろんな冒険をしていますが、作者の筆が追いついていません。いつか書けたらいいなと思います。

桜街道で

桜咲き乱れる真夜中の桜街道を、少年ラキチと彼に仕えるユジは馬で駆けていた。それは大首長にこっそりと賄賂を贈るためであった。しかしその道中、二人は盗賊の鬼神丸に襲われてしまう。短編ファンタジー小説。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2016-05-08

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著作権法内での利用のみを許可します。

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