季節の森

「日常」 と言えば誰もが身近な時間の流れを思い浮かべるでしょう。
けれど、他人のそれはどうでしょうか?
奇異に映りもし、感嘆の声を上げ、或いは悲鳴に変わる事もあるでしょう。
それらはつまり、「冒険」なのです。

「事実は小説よりも奇なり」
私は、先人達の残された言葉にはそんな含みがあるように思えるのです。

そんな私の「日常」をご賞味頂ければ幸いです。

序章

 平成二十八年十一月三十日。晴れ。
 今朝の自室、男性の読み流したそれがラジオから響いていた。
 見上げる空は雲に覆われて暗くすら感じてしまっていて、ほわり浮かんだ朝食の風景を振りつつ掻き消す。
 だから。と言う訳じゃないけれど、五年勤めた会社をたった今辞めたばかりだ。
 人ごみと喧騒はそんな事などおかまいなし。相変わらずの広島市内は慌しくも賑やかで、その足で待つ大通りの赤信号、ガラス張りのファーストフード店、コーヒーショップは系列化されたチェーン店ばかりが軒を並べて、それに群がる若者の街を演出している。
 まるで「馬鹿騒ぎをせよ」とばかりに。
 僕にはそれが色んな色に塗られて詰められた夜店のひよこに見えてしまう。
まさに今、私を買ってとひ弱にぴよぴよと鳴く哀れなそれだ。
「どうぞ」
 網目の粗い気休め程度のセーターが覆う、霜焼けであろう赤く腫れた親指は、「愚かなる聖戦。目覚めよ!」と大きな文字のフルカラー小冊子を差し出していた。
 おそらくは自分より年上であろう頬の扱けた女性は貧相な身なりで、それはそれは気持ち悪いくらいの笑顔をにんまりと添える。
 この女性には僕がぴよぴよと鳴いているように見えたのだろうか。だとしたらお門違いもいいところだ。
 ツートンカラーで薄暗い曇天模様のこの僕に、見るからにコストの高そうなフルカラーの小冊子を束に持ち、「幸せですか?」なんてすんなりと続けるのだから。そんなのは幸せそうな奴に言う言葉じゃない、と辿り着いてしまえば、多少腹立たしくもなってくる。
「(押し売りは)結構です」
 語気を強めた営業スマイルの僕に、女性はゆったりと微笑む。
 何故そんなに幸せを振り撒こうと言うのだろう。自分が幸せであるのならそれで十分ではないか。そもそも、その「幸せ」とやらは誰が決めて誰が求めるものなのですか? とてもじゃないけれどそんな事を言う貴女のそれを、僕は「幸せ」だとは到底思えやしない。
 女性は信号待ちをする誰彼に関係なく差し出しては微笑んでいる。それを受け取る人なんて誰一人いやしないのに。
 張り付いた面みたいに笑うその人のそれすらが、ぴよぴよと鳴くそれに見えてしまう。
 交差点、響いたひよこの鳴き声に待ち人達は一斉に動き出す。
 信号は、青。
 今度は誰に買われるのだろう。
 鼻の頭に白い何か。それが初雪なのだと気付いた頃、そんな事を不意に思ったのだった。

第一章

 自宅から徒歩三分、最寄り駅で路面電車のステップに足を掛けた時、以前の通勤風景が不意に脳裏を過ぎった。
 ステップに張り付く桜の花びらは何処からの旅行者だろう。
 ビニール傘越しに見上げた空は埃の塊みたいで、そんな薫りを雨は運んでくれていた。
 プラスチック製の安っぽい吊り革、指に伝う温かい雫、ジーンズを濡らす他人の傘、噎せるような咳払いと囁く息遣い、湿るジャケットの裾から香る埃っぽい臭い、誰からともなく漂うベンゼンの香り、汗と整髪料の香り。
 透明の小さな傘を杖のように持つこんな雨の日、脳裏と同様に車内は人と香りで溢れていた。
 ジーンズにジャケット。それなのに脳裏の自分はスーツ姿だ。家族との買い物やデート、友人との馬鹿な時間にだってこんな雨の日はあった筈なのに…
 掴む吊革、気付けばそっと微かな軋みをあげていた。

                    ○

「床が滑りやすくなっております。お足元にご注意下さい。次の停車駅―――
 路面電車を途中で乗り換え、揺られる事十五分。頬杖で眺める車窓を占め始めた緑に、ぼんやりと田舎を重ねるセンチメンタルさんを我に返らせる。
 「上京」ならぬ「下市」。
 生まれ育った田舎からJRの最寄り駅へは車で四十分。上り下りで言えば下り方面のそこから広島市内へは一時間と半時間。電車の乗り換えを何度も繰り返した六年前の母の心境に少しでも報いられているのだろうか。
 市内電車の乗り換え前を含めれば全行程四十分ほどで「市内」では無くなる目的駅にもうすぐ到着だ。
 床の滴は窪みに寄り添い、浮き付き震える桜の花びらは揺れに促されて踊り出す。
車内はもうすっきりとしていて、ゆったりと空いた席にもありつけていた。
 母子であろう賑やかな子供を嗜める女性と、微笑ましく見守る老齢のご夫婦。それらはまるで休日の午後みたいに僕を優しく包んでくれていて、メディアの言う「戦時下」なんて印象はこれっぽっちも感じない。
 事務的に発せられた駅名は車掌さん独特のあの発音で、その細く若い印象通り、同年代であろう車掌は落とし入れる運賃に愛想程度の会釈で答えた。
 座席を名残惜しみつつの下車はほんのりとした肌寒さで、鼻を衝く緑の香りは身を包む。
 しめて三百七十円也。
 目深に差すビニール傘から、動き出した電車を何となく見送っていた。
 頭上を叩く雨粒、踏み固められて剥き出しの冷たそうな土肌は、張り付いたまばらな花びらが少しだけ温か味を添えていて、ここからは桜並木の川土手をゆっくりと歩き進む。
 誰一人すれ違う事の無い整えられた参道。疎らに撒いた桜の花びらが浮く所々の水溜りに気付けば、どうやら雨は上がっていたらしい。
 水溜りに写ったそれは、ついさっき見上げたそれよりも狭くて、とても低い。それが少しだけ寂しくて、畳んだ傘で地面をいじるように突っついて水を切った。
 見渡す並木道に並ぶ雨上がりの桜はそれほど大きくもない五分咲きくらいかな。ガードレールは邪魔だけれど、それでも立ち並ぶその存在はとても見応えがある。
 歩き、所々剥げかけてくすんだ朱色の鳥居が見える頃、急勾配の長い石段も見えてきた。鳥居の補修なんて想像もつかないけれど、山道や石段脇の雑草は丁寧に刈り取られていて、石段の崩れや痛みも見られないところを考えてみれば、きっと手間と費用は相当なものなのだろう。
 鳥居から真っ直ぐ伸びた見上げる長い石段。濃い栗の花のような香りに包まれながら、未踏の花弁絨毯をゆっくりと上り進む。その一足、背徳感にも似た心持が踏み下ろす先を疎らな場所へと誘ってしまうのは、未踏の新雪同様、唯々美しいからだ。
 それは高校の修学旅行の時。何故かシートに巻かれた時計塔に、創作中の雪像も疎らな開催準備真っ只中の雪祭り会場。夜景は綺麗だったけれど、何より感動したのがゲレンデの未踏の新雪、パウダースノーだった。
 綻ぶ頬、ゆっくりと登る十段程で絨毯は終わり、石段脇、針葉樹の林から微かな雨音が聞こえ始めた。それは広葉樹の弾く葉音とはまるで違う滴る雫のような雨音で、神聖な雰囲気を一層高めて涼やかに響いている。
 アパート五階の自室から眺める景色ばかりでは飽きると言う事も無いのだけれど、こんな雨の日はこうゆう「散歩」が衝動的にしたくなる。そんな日は決まってこの神社へと足は向いてしまうのだ。
 小さなビニール傘を開いてじわりと回し、傘越しの景色を楽しみながら、更にゆっくりと踏み上った。
 ここのところ雨続きで連日にはなるけれど、別段この神社に特別な思い出や思い入れは全く無くて、近所で知る樹木に囲まれた静かで落ち着ける場所がこの神社だっただけのこと。探せば自宅近くに似たような場所が無いとは言えないのに、そうしないのは何だかんだと考えてもこの場所がお気に入りになりつつあるからだろう。
 残り七段を残し、麓の駅からようやく神社に到着だ。
 日頃の運動不足と昨日も来たせいだろうか、ゆっくり登った筈の忙しない肩からは微かな息切れを感じて、足は少し重たくて気だるい。
 見上げる境内地の下手、登る階段の終点右脇にもうすぐ小さな吹き曝しの休憩所が見える。六畳程のそこで決まって読書を楽しむのが、この「散歩」の主軸なのだ。
 ベンチの背凭れが壁になった内側ぐるりの座板は少し変わっていて、芯の朽ちたドーナツ状のでっかい杉の切り株を厚く輪切りにした板が座板に使われている。磨きは荒く、恐らくは薬剤の塗布も成されていない木地そのものの肌触りだろう。僕はそれがとても好きで、何度となくそれを撫でてしまう。中でも、出入り口左側、手前の角付近の木目はとても乱れていて、無数の小さな節はほんのり盛り上がっている。撫でれば飴色に輝くそこに腰を下ろし文庫本に目を走らせるその時間が、ここ最近では「大変な贅沢」なのだ。
 節の無い板や柱は高値で取引されているらしいけれど、見た目の美しさもさることながら建築材料等の基準からも「強度」なのだそうで、無節は強度が保たれるのだと、以前ベンチへ訪れた年配男性から一方的に御高説頂いた。けれど細かい事は全く覚えておらず、専ら好みの輝きを放つ節と年輪が興味の対象と言う訳だ。
 含み笑いで上り終えた七段から見下ろす階下は霧状の雨粒で淡い銀色の世界。それは木目同様幻想的とさえ感じてしまうほど、極まりなく美しい。
雨の日は、だから止められない。
やっぱり三百七十円は決して高くはないと自答しつつ休憩所に向けた足、無意識に止めていた。
 先客、が居る。
 お気に入りのあの場所とは向かいの角、出入り口右手の角に見える後姿は、低い背凭れに頬杖をついていた。
 こんな時は酷くがっかりとして、それは先を越された事への不満などでは無くて、プライベートな空間で無くなった事への喪失感からだ。
 休憩所入り口の軒下に身を入れ、足元を眺めながら畳んだ傘の先、コンクリートの敲きを二度突っついて見上げる空。ノックの甲斐も空しく先客の心持ちは量れずじまいで、入り口脇の背凭れに持ち手を掛けた。
 性分もあって関わりは最低限に留めたいカタツムリの僕に、容赦の無い視線はしっかりと突き刺さっている。
 しょうがない、会釈なりと。と振り向き、合わせた視線の主に、動きは止まっていた。
 観光地でもないこんな場所で出会う人と言えば、中年、もしくは年配の地元男性と相場は決まっているし、こんな雨降りだ。だから余計に以外だった。
 顎先より少し下でそろえられた流れる細い黒髪、おそらくは三十代であろう落ち着いた雰囲気を纏うくたびれた風な無表情なのに、喉元程に長い前髪から覗く目だけを向けられた視線は射るようでやっと我に返れた。
 愛想程度の会釈で早々にお気に入りの場所へと腰を下ろしたその間、女性は微動だにしなかった。組まれた膝の上、片手で開かれた真新しい紙カバーの文庫本すらも。
 左後ろポケット、萎れた紙カバーの文庫本を広げる僕からやっと視線は解かれ、不満気な溜息が小さく漏れる。
 どうやら先客であったこの人の心象も「喪失感」だったのかもしれない。

                    ○

 痺れた右足を組み直して紛らわせる。
 霧雨は少し重くなったみたいで、見上げた軒先から滴る雫は足早になっていた。
「どっかで会ったか?」
 唐突のぶっきらぼうな口調はぞくりと、文庫本から女性へ向き直らせる。
 頬杖をつき、身動ぎさえしていない風の全く変わらない格好で、相変わらず射るような目だけが僕を覗いていた。
 気圧された数瞬、質問を飲み込めないでいたけれど、何とか働かせる浅い思慮からも思い当たる節は無くて、それは当然会った事も見た事も無い綺麗な人だと思えるだけだった。けれど‥違和感がある。この人を知らないのに初めて会った気がしないのは何故だろうか。改めて深く反芻する記憶の中でもこの人と初対面な事に変わりはないし、それはきっとこの人も感じたのであろう勘違いなのだ。と、何故かぐだぐだとそう思えた。
「いいえ」
 語尾は上げ、視線を本へと落とす。それは好意的とはとても言えないけれど、こんな視線の人とは拘りたくもない。だから文庫本は今が一番面白いところだ。と自分に言い聞かせていた。
「悪い」
 ぽつりと矢継ぎ早に返されればその本音を見抜かれているようで、焦ったこちらも矢継ぎ早になる。
「いえ」
 抑え、発した語尾は文庫本へと向けたまま。
どこか張り詰め、切り取られた風景画のようなその時間は、組み替えられた女性の足と屋根から滴る雫の足早なリズムでやっと流れ出した。
 捲るページの音が殊更大きく聞こえるほど雨音はおしとやかではないのに、衣擦れやベンチの軋み、靴底の微かに擂れる石粒でさえ会話以上に主張してくる。
 元々プライベートな空間ではない事になど腰を下ろす前にはっきりと自覚してはいたし、遭えて存在を無視していた筈が逆に意識してしまった。と言う訳でもないのに、この女性から発せられる雰囲気が何だかずっと刺す様だったからだろう。
 声を掛けられてそれに気付く程のほほんと生活してはいない。とは言いたいけれど、以前の上司に「お日向さん」との愛称を頂いたもので、この刺すような雰囲気にようやく気付けて警戒するこの瞬間は、元上司の評する通りとても遅過ぎたのだ。
 ともあれ、単に邪魔なのであれば立ち去れば良いのだから簡単だけれど、そうでない場合が厄介で、「悪い」の返答から考えれば、それは‥明らかに後者だ。
 よし、帰ろう!
 そんな決断より少し早く、女性は低くぽつりぽつりと響かせ始めた。
「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」
 本当にぼそり、ぼそりと発せられた独り言のようなそれは誰へと言う事もなく、もしも呪いの呪文だと言われてもさもありなんと皆返せるほど不気味に響いていた。
 視線を向ければ無表情であの瞳が覗いている。
 いやいや… 後者は後者でもこの人は最悪の部類だ。いきなり吉田松陰の詠った愛国の和歌が飛び出したのだから「戦時下」と言われる国内であれば尚更で、馬鹿な僕にだってその意味は分かり過ぎるくらい理解できる。
 「お前は日本人か?」と問われているのだ。いや、もしくは「同じ日本人か?」と問われているのかもしれない。
 事実、吉田松陰の詠ったこの和歌を故意に誤記掲載する国内屈指の新聞社もあって、第二次大戦後からの柵は、日本在住の他国民族とのバランスを言うに及ばず悪化させている。それに現在支那政府に乗っ取られた台湾と、その間際にある沖縄を横目に見れば、それは間違いなく間直に迫っているとも言えて、「戦時下」と称される日本の世界情勢も考慮すれば、この愛国を示す歌の解釈はとても繊細過ぎて言葉に出すことすら恐ろしい。
 もし‥この女性が日本人でなかったなら…
 日本が「平和」であった頃なら他愛無い冗談で濁せもしたけれど、支那・朝鮮との緊張感が高まる現在の国内状態ではそうも言っていられない。在日の外国人関係者、それに右翼過激派や軍関係者の可能性だってある。下手な事は言えないし、これはどうしたものだろう…。
 焦り本に目を落とし、口にしたのは読んでいた万葉集(現代語訳)の歌だった。
「はなはだも、降らぬ雨故(あめゆゑ)にはたづみ、いたくな行(ゆ)きそ、人の知るべく」
 「頻繁に逢っているわけでもないのに、そんなに噂をたてないで」との恋心を詠んだ歌らしく、焦った僕は強引にもついさっき読んだばかりのこの歌を、ぽつりぽつり、なんとか詠み終えた。
 たぶん僕が日本人である事はこれで少し伝わるだろう。それに女性がそうでない時でも解釈は何とでもなるだろうと、なんとか捻り出した僕の浅はかで薄っぺらな答えだった。
 ちらりと窺った女性の顎は頬杖から上がり、少し驚いた様子にも見える。
 針のような沈黙…  と、女性の返答に今度は僕が驚かされた。
「世の中に、たえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」
 記憶の引き出しをがたがたと忙しなく巡らせてみる。
 これは‥ 伊勢物語、渚の院での歌だ。
 確か、桜を眺めながら詠まれた歌で「この世の中に桜と云うものがなかったなら、春になっても、咲くのを待ちどおしがったり、散るのを惜しんだりすることもなく、のんびりした気持ちでいられるだろうに」と言うような意味だったと思う。
 伊勢物語(勿論、現代語訳)は一通り流し読み程度にしか読んでいなかったけれど、桜の下で春を詠むほのぼのとしたこの歌は何となく覚えていた。けれど、この女性の詠んだこの歌に込められた解釈はどうゆう意味を持つのだろう‥ 日本人としての価値観だろうか、それとも社会風刺なのだろうか。真意も測りかねるけれど、僕にはそれすら判断できずにいた。
 でも、この歌には返し歌がある。
「散ればこそ、いとど桜はめでたけれ、憂き世になにか、久しかるべき」
 そう詠む僕の脳裏には「桜は惜しまれて散るからこそ素晴らしいのだ。世に永遠なるものは何もない」と、千年以上前の日本でこんな解釈をしたその人の感性と、時代への望郷の念、郷愁の念がじんわりと渦巻いた。
 それを遮ったのは女性の押さえ込んだ微かな笑い声で、無表情から一転この表情なのだから僕でなくとも言葉は続かないだろう。
 女性はおもむろに立ち上がり傘を持つ。
「花の色は、移りにけりないたづらに、わが身世にふる、ながめせしまに」
 出入り口に向かう歩幅同様、ぽつり、ぽつりと少しだけ柔らかく詠み進める女性のその瞳と絡んだ視線に瞬きは添えられて、開かれた薄桃色の傘へとコマ送りのように解き流された。
 暗いコンクリートの天井、枕越しに見回すここは…
 自室のベッド、せんべい布団の上だった。
 呆気に取られる、と言う言葉が正しいのだろうか。
 ただ何かに囚われたように声を出すどころか身動きさえ忘れていた。
 石段へと消える女性は背景にピントを合わせた写真みたいに切り取れて、脳裏に浮き出る絵本を眺めるように薄桃色の後姿も鮮明に。
「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
 桜の花の色はすっかりあせて、長雨がふっていた間にわたしの美しかった姿かたちもおとろえてしまった。むなしく世をすごし、もの思いにふけっていた間に。
 その歌の意味とは裏腹に、脳裏の写真はとても綺麗で美しく、雨の景色に溶け込んだ薄桃色のアクセントがいっそう神秘的に魅せていた。
 迷惑にも現実へと連れ戻してくれたのは淡々とした雨粒の音で、あの休憩所、軒下から滴る雫は馬の蹄を真似る指のように、ベランダのガラスサッシを柔らかく、静かにそっと叩いている。
 気付けば汗ばむ首元の薄っぺらな肌を荒く拭い撫でていた。
 やっぱり夢‥だったのかな。
 そう思える程、吉田松陰の歌、女性の去り際に残したあの歌の解釈も、窓を叩く優しげなリズムで、不規則に、不器用に包み込んでいた。
「うわごと言いよったけど、大丈夫なん?」
 幼さの香る同居人の窺う声音はほそりと響く。
「そんなはず‥ないよ」
 濃く香る広島弁は冗談気にも笑い声だ。
「「びわの」に頼みんちゃい」
 それはきっと僕と同じ苦笑いなのだろう。多少お礼を込めたそれとの意味合いは違っていたとしても。
「うん‥そうだね」
 鼻からも漏らし、枕に再度沈めて深い呼吸を重ねながら、ふつふつ考えてみる。
 僕の記憶が正しければ神社であの会話をしたのはもう三日も前の事で、それを再度夢にまで見たのはそれほどの衝撃だったのだろうか。
 脳裏に浮かぶのは薄桃色のあの写真、それでも眠りを促す機器に大金を支払う人々を想えば、「戦時下」なんて称される日本のストレス社会ではあっても、夢見る僕はきっと幸せな部類の人間なのだ。とは多少の負け惜しみもある。
 大金を支払う人々。
 そう、夢は買えるのだ。
 だから、失業保険給付中でありながらのほほんとあの人の夢を見る僕には、そんな「娯楽」に月五万以上を注ぎ込む人々が成功者のように思えるし、貯えと言えば雀の涙ほど。懐の深さは六年前よりずっと浅くて、浅くて…とても卑しい。
 それが腹立たしくもあって、背けていた当初はよくも解らずネットの眉唾な噂だろう、などとゴシップ誌程度に考えてはいたのだけれど、それを売っている「びわの」をそこいらの子供でも知っている現在、「そうなりつつある」が正しいのかもしれない。
 だから、こうしてベッドに腰掛けて開いて握る手の平はいつも通りなのだと、目尻の端を滲ませ大きなあくびをするのだ。
 うん、今日も平和だ。
 霧雨がふわりと舞うやわらかな風が見えるようで、何故だかぼぅっとベランダを眺めていた。
 優しい雨… きっと、もう少ししたら桜も満開だろう。
 世界中の誰もが心からの笑みでいられる。
 何故だか不意にそう思えたのだった。

第二章

「――ですから、日本国民による決断が必要なのです。日本在住、あるいは帰化した方々にその権利を求められるのは甚だ遺憾と言わざるを――」
 スイッチを入れた小さな赤い携帯ラジオは、聞き飽きた日本の行く末への懲りもしない「大論争」を響かせた。
 百円で友人から譲り受けたこれをダイヤル選局する、この音と作業はアナログちっくでとても好きだ。それに、今流れだした恐らくはリクエストであろうブルーグラスのこの曲、クリップルクリークも響いていた論争などとは安らぎも好感も比較になんてなりはしない。
 支那、朝鮮には参ったもので、要はお金なのだろうけれど、それにしたって過去を遡る理由で戦争なんてどの国に言わせても馬鹿げてる。
 ラジオを投げ渡され、弾き渡した百円玉を満足げに受け取った友人とも、互いに声を荒げた事は数知れず。それでも行き着いた先は、この百円の真っ赤な携帯ラジオだった。
 だから稀に昔話のネタになる事はあるけれど、流石にそれらを蒸し返すなんて事は愚かな愚行なのだと、この僕でさえ知っているのに。
 開いた炊飯器で雑穀米は冷え固まっていた。
 過去を遡れば甘い湯気の香るほかほかご飯。日本人なら誰もが共感する幸せの象徴だろう。
「昨日の残り?」
 同居人、懲りない彼女の興味はいつも唐突で、それへの返答の多くは「無視」なのだけれど、今は過去を遡って何となく幸せだし、事実、僕はそんなに心の狭い男ではない。と、愉しげに漏れる吐息には自分ながら呆れたものだ。
「うん、おにぎりにするよ」
「今日も読書?」
「ハローワーク」
「変な奴じゃ。雨の日だけ読書言うんはウチには解らん」
「そう? 情緒は知るべきかも」
 玄関前の狭い流し台、他愛ない返答に含み笑いを滲ませながら残りをおにぎりにして口に放り込んだ。
 話はこれでお終い。との無言の提案空しく反論は続くのだけれど、手に残った米粒を唇で啄ばみながらここはさらりと流しておく。
 それにしても、以外に美味しい。雑穀米の味と食感は冷えた頃合が僕好みらしかった。
 発見、発見。
 こんなに暢気なご飯にありつけてはいても、戦時下とも言われる世情ではある。だから緊迫感の薄い広島のこの地で安穏と就職活動中の現在、二十六ともなれば少しの焦りもあるけれど、今大切なのは、何よりもまずバランスなのだ。心も、体も。とは、お世話になりっぱなしだった年配男性からの受け売りで、真面目に型にはまる事が最も正しい選択なのだと信じていたこの僕が、どれ程世間に乏しい人間であったのかは、鼻から漏れる溜息の深さで遡った幸せを霧散させるのに十分だ。
 軽く洗い、半端にジーンズで拭った湿る手でお尻の左ポケットに文庫本を滑り込ませ、租借しながら薄手のジャケットを羽織って薄皮のブーツに取り掛かる。
「お留守番、よろしく」
「はぁ?! つまらん!」
「よろしく」
 履き終えて重ねた言葉の意味するところはすんなりと理解してもらえたみたいだ。けれど賢く懲りない彼女、意味への理解とは別だとばかり、膨れっ面であろう文句はやっぱり止まないらしかった。
 返事は半端に挙げた手でそれとなく。
「じゃぁ、行ってきます」
 止まない文句に重ねる挨拶。今日も暢気な小春日和だ。

                    ○

 晴れの日は午前中からハローワークへと足を運ぶのが僕の日課になっている。
 街中の喧騒とは違う何とも言えないざわめきは、室内を埋める誰もが誰かを窺うようだからだろうか。
「ご用件は?」
「失業保険の手続きを」
 そう告げて座る待合所やパソコンの椅子からは、直視せざるを得ない厳しい現実が、江戸っ子でもないのに唸る煮え湯の如く浴びせられ、求人情報に自衛隊や民間組織の募集が目立つようにもなれば、「厳しい現実」と言うよりは「逃れられない現実」には違いない。
 在宅のバイトが順調な事もあり、専ら失業保険の需給目的であれば危機感はそれ程でもなく、ハローワークでそれらの椅子に座る時ふと考えるのは、「幸せ」についてだ。
 お金と仕事の縁はあまりに現実的で、放尿・放屁に勝るとも劣らない生理的とも言えるくらい身近であったのに、失えば何気なく過した通勤風景でさえ確かにあったのであろう幻のようにも思えてくる。
 現状そうなのは実力不足や大失敗と言った内部的破壊も一因ではあるのだけれど、それらだけではなくて、不運な要因が突然ノックもせず、それなりの未来を薙ぎ払ったからだ。
 理不尽極まりないそれらから五ヶ月と少し、支那・朝鮮からの宣戦布告ともとれる外交と宣言に、日本は集団的自衛権の行使を含む防衛の為の緊急措置を発動させ、沖縄・九州・四国・中国・近畿地方の沿岸部と日本海沿岸部を含む地域を特別警戒区域に指定してしまった。
 それからはもうメディアと政治はぐちゃぐちゃで、戦争未経験の専門家と称する方々の右派・左派に分かれての「大論戦」が連日TVで流れれば、在日外国人と日本国籍へと帰化していた元外国人による、デモや暴動が連日連夜街を賑わせている。
 不運な事に会社は警戒区域の中でも特に面倒な地域に鎮座していて、得意先の多くも区域内であれば、言わずもがな滞りとその対処に明け暮れる日々が続いたのだ。
 その後は推して知るべしの結果と言えば諦めもつくけれど、あのベンチでの一件も決して傍観者気分ではいられないのだと、液晶の検索フォームに写り込んだ自分の顔は今更ながらの渋さだった。
 けれど、僕にはあの人の言葉が暴力的な私情から出たものでは無い事にくらい気付けてはいるし、最後のあの歌が妙に引っかかっていた。
 切り取られた脳裏の写真、疲れた風な無表情で刺すように瞳を覗かせるあの人の何とも表現の難しいこの残り香は、突然の衝撃と困惑からかあまりにも謎めいていて、ふとした瞬間に滑り込んでくる。
「二百七十一番の方、どうぞ」
「はい」
 次の雨の日、名も知らぬその女性はあの場所に現れるだろうか。
 劇的な世の流れと身の周りの異様な変化よりも、興味は謎めく女性へと注がれていた。

                    ○

 目覚めてすぐ、ぼやける瞼を擦りながら窓に目をやる。
 「雨だ」
 あれから三日、思わず滑り出たほど、僕は雨を待つようになっていた。
 ルームメイトの皮肉も心地よく、愛想程度に掲げたビニール傘片手に、いつもより三十分早い「よろしく」を重ねる。
 電車の床に踏まれて張り付く桜の花びらはなんとも儚げで、下車した山道の水溜りを一跨ぎに飛び越したのはせめてものハナムケからだ。
 桜並木は予想を上回る見事な満開で、疎らに覗く青い新芽もとても美しい。
 息を弾ませて未踏の桜絨毯が美しい石段を上れば、頂からの眼下には幻想的な桜色の風景が広がっていた。
 ふと考えてみれば前回の桜絨毯も未踏だった。あの日女性が降りたのは今駆け上がったこの石段だったのに、僕より先にここから上ったはずの桜絨毯は足跡一つ無く美しかった。だとしたら踏むのを躊躇って石段脇を登ったのだろうか? 多少穿った考え方ではあるけれど、呆れるくらいのそんな妄想でさえかたつむりの僕は弾ませてしまう。
 傘を叩く雨粒は賑やかで、振り向いた休憩所は、 無人だった。

                    ○

「金曜も休みか」
 呟くような言葉、ピンクの折り畳み傘の水気を切る女性は無表情で一瞥した。
 無人の休憩所をどこか寂しく感じていた僕は、声を掛けられてからやっと気付けた嬉しさを再度膨らませたのだから、やっぱり元上司の評した通り「お日向さん」には違いない。
 文庫本の帯が言う文句のそれほど、面白いとはとても思えやしないのに。
 薄手のパーカーと細身のジーンズにパンプス。女性は見るからに「部屋着です」と言わんばかりの格好だ。
 仕事終わりなのだろうか、それとも家庭に事情でもあるのだろうか。無気力ともとれる無表情は相も変わらずで、ちらり、ちらりと見え隠れする影のようなものがある。
 この場所に訪れるのはどう言う事情かは分からないけれど、幾度となく廻らせたあの和歌の解釈はこの人への警戒をやんわりと解いていた。
 だから、今日も気分転換には違いないのだろう。と、意地悪げな言葉には、少しだけ悪戯に返してみる。
「はい、雨でそちらもお休みですか?」
 あの日と同じ場所にゆっくりと腰を下ろし、「暇なもんだ」と一瞥無愛想に答えた。
 言うやおもむろに小さなバッグから綺麗な紙カバーの文庫本を広げ、頬杖を付けばそれに目を落とす。
 気負いも衒いも無い自然なその仕草はゆったりとしていて、僕にはそれがとても大人びて見えた。
 こちらの存在など気にもかけない流れる所作から滲むのはきっと、余計な詮索は望まない、と言う事らしい。
 雨の日は少しだけ外を見たくなるカタツムリな性格は、たぶんこの人も同じなのかもしれない。なんて本に視線を落としてはいても、脳裏の呆れる解釈を幾通りも廻らせては、優しげな雨粒の滴りがゆったりと洗い流してくれていた。

                    ○

 痺れた足を組みかえる以外はベンチの軋みもなく、さして本降りでもない雨音はやわらかく響く。それとは異質な物音はごそごそと、気付けば女性の手に平たい銀色をした入れ物が見えた。
 西部劇やマフィア映画でよく見るお酒の入ったあれ、なんて言うんだろう。
 キャップを捻り女性は口に含む。
 微かに漂う香りは濃密で甘い。これは…お酒、なのだろうか?
 飲んでも梅酒程度の僕だからよくは分からないけれど、記憶から辿れたのは、やっぱり何もかも解らないままの「お酒」までだった。何だか情けない。
 それでもこの人の謎めいた口元はひどく印象的で、写真の現像のようなそれは官能的に脳裏に焼きついてしまう。
 モノクロから、一色、一色と色合いを帯び、無表情なフルカラーで飲み下す女性はキャップを捻り、顔色も雰囲気も全く変わらない。
 きっと本当に普段どおりの所作はそうで、パンプスを履くのと同程度の習慣なのだろう、と視野の端で眺めていた。
 銀色の平たいそれはベンチのバッグ脇に置かれ、手には真新しい紙カバーの文庫本が納まる。
 この文庫本が帯の文句通りに面白ければこの人なんて気にはしないのに。とは流石に馬鹿な事だと苦笑いを堪えなければならないけれど、この本は本当に「ハズレ」だった。

                    ○

 主人公の女性が統べる下町の極道一家。女だてらに威勢よく啖呵を切る人情味溢れる時代小説は、色恋と赤裸々な性生活を主軸に登場人物を繋ぐ、言うならば人と社会の裏面が垣間見える内容で、娯楽に程遠い考えさせられる部類のこの先を読み進めるには、かなりの気力が必要だろうと思えた。
 天井を仰ぎ、深く読み疲れを吐き出す。
 不意にごそごそと、向けた視線は銀色のそれに口を付ける女性の視線とかち合った。
「飲むか?」
 飲み下し、突然発せられた言葉の意味をすぐには理解出来なかった。
 それは同性からでさえ躊躇してしまう行為ではあるし、昼間から飲むような事だって常識外だろう。もしかして験されているのだろうか? いや、挑戦的な雰囲気は相変わらずだけれど、どちらかと言えば身内に勧める雰囲気に近いのかな‥、いや、わからない。
 そんな事を考えてみても、お酒が得意でない僕はほとんど飲めないのだからそう伝える他無いのだ。
 小さく振って、しっかり視線を合わせる。
「得意でないのでお気持ちだけ。それより、何か食べた方が胃に優しいですよ」
 元上司も友人もそう言っていたし、僕にも身に覚えの一つや二つはある。
 女性はほんの少しだけ眉をあげるように動かし、不満とも残念ともとれる小さな鼻息を洩らした。
「ある、食うか?」
 これは‥ デジャヴだ。
 脳裏を過ぎったのは節の無い板の話をしてくれた近所に住むと言う年配の男性、自称「どぶろく中毒」の大谷さんだ。
 二週間ほど前、小春日和の午前中に大谷さんはここでどぶろくの一升瓶を抱え、久しぶりに連れが出来たと喜びながら、焼いた後であろうスルメやらゲンチョウを千切っては僕に勧めてくれたのだ。
 特にゲンチョウを差し出された時の「この味が分かるか?」なんて「お前にはもったいない」と顔に大書してそう言ったのだから、それはそれは鮮明だ。
 ゲンチョウはお世辞にも美味しいとは言えず、癖のある香りと塩味が欲しいと僕が思えたくらいの薄味だった。
 それらを全て面倒だとは言わないけれど、この場所での楽しみは落ち着ける優雅な時間。だから雨の日の午前中は僕の読書日和になった訳だ。
 けれど考えてみれば今と何ら変わらないこの状況から察するに、女性の中味が年配男性のそれと変わらないのかもしれない、などと突飛な考えにこっそりと苦笑いを忍ばせつつも、せっかくの好意に甘える事にした。
「頂きます」
 ごそごそと取り出されたのは半透明で緑色した丸く平たい手の平サイズの入れ物だ。
 捻って蓋を外したそれを僕にずいっと向けてくる。
 中身はぎっしりと詰まった豆の詰め合わせだ。
 アーモンド、ピスタチオ、クルミ、ピーナッツ、他にも何種類か目に映るそれらで準備は万端と言う訳らしい。
 流石、ポスト大谷さんだ。
 急かすように少しだけ再度突き出すのは気の短い性分だからだろうか。
「頂きます」
 急ぎ返して、クルミとピスタチオを摘み出した。
 数瞬、微かな微笑で答えた女性もピスタチオを摘み出し、蓋は捻らず被せられバッグの上にちょこんと鎮座する。
「悪かった」
 ピスタチオを割りながら目も向けずそうぽそりと漏らす女性の声は妙に愛らしく、悪さをして叱られた子供の言い訳みたいでとても不器用に思えた。
 たぶんこの間のやり取りの詫びなのだろうと、僕にしてはすんなりと思い至った。
 きっとこの人は日本人で、あの日僕が感じたように面倒な厄介事を避けたかっただけなのだろう。それが女性であれば更に面倒事の幅も広がりはするだろうし、幾分攻撃的にも感じるこの人からは、先手必勝の性分がたっぷりと滲み出ている。
 だからこんなにも不器用に見えるのだろう。と、そう考えが纏まってしまえば「どうしてあんな歌を?」と意地悪く聞きたくもなったけれど、それは場違いな言葉になりそうでそっと仕舞い込んだ。
「あんなに洒落た会話は初めてです」
 そう笑みを添えたけれど、事実、最初こそは色々と疑いもし、妄想ばかりして逃出したかったのだ。それが見送る頃にはもう少しとばかりに楽しんでいたのだから、僕はやっぱり「お日向さん」でも仕方ない。
 微かな笑みに視線を交わせば、ピスタチオはとっくに放り込まれた後で、僕もクルミを放り込み、含み笑いでそれに答える。
 この人との会話がとても言葉少なに成立してしまうのは凄く不思議だし、それでも何故か伝わったと確信が持てるこの妙な感覚は何なのだろう。
 「どっかで会ったか?」と問われた時と同様の、この違和感とも言える奇妙な心持の正体は分からないけれど、何故だかとても心地良いのだけは確かだった。
「万葉集に伊勢物語とはな」
「ですね。現代語訳を流し読み程度なので、出てきたのは奇跡ですけど」
 互いに含み笑いは続き、ぽつりぽつりと会話とも呼べない短い問答はゆったりと、静かな静寂を挟みつつも、何気ない、本当に取り留めの無い話ばかりが終わる事なく続いたのだった。
 雰囲気とは不思議なもので、「互いを詮索しない」との、言わず語らず暗黙の了解は成立してしまう。それでも多少の返答からは本の趣味程度を知る事が出来た。 
 奇しくも「ハズレ」の文庫本も例外ではなくて、「ご愁傷様」との労いの言葉をしっかりと頂戴したのだ。
 途中、大谷さんを話題に出したものの、小さく首を振る女性は「自称どぶろく中毒」の年配男性を知らなかった。
 何故女性がここを訪れるのかなんて聞けはしないけれど、きっと雨の日に思い立った時だけここに足を運んでいるのだろう。そう思うことにした。
 視線の強さは生来のものなのか、多少柔らかくなったであろう今でもその鋭さは変わらない。
 と、震えるポケットが余韻を漣で遮った。
 幾分慌てて手にした携帯、アラームの思わぬ時間の経過に驚いてしまった。
 ルームメイトの止まない文句が脳裏を過ぎる。
 もう少し、と後ろ髪を引かれるけれど、流石に口になど出せなかった。
「そろそろ行きます。ご馳走様でした」
「ああ」
 相変わらずの声音で微かに微笑む女性に、傘を掲げて会釈を挟み、雨粒を弾く小ぶりのビニール傘に身を縮め込ませた。
 景色は白、降りる石段に雨粒は弾けて足元までがぼんやりと白ばむ。
 薄い靄のようでとても綺麗だ。
 石段の麓、見下ろす山道の桜はもうすぐ儚げに散るだろう。
「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
 がらりと変わる解釈を女性に幾通りも重ねながら、家路へと歩を進めたのだった。

                    ○

 針葉樹の葉を叩く雨音はやっぱり涼やかに聞こえてくる。
 今日もお気に入りのこの場所に腰を下ろす。
 あれから五日‥か。
 雨を心待ちにしてはいたのだけれど、今日は何だか気乗りせず、到着したのはいつもより遅い時間だった。
 「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
 山道の桜並木は萌える新芽で一変していて、桜絨毯の美しさは見る影も無かった。けれどそれ以上に、自分なりに辿り着いたこの歌の解釈がしっくりと治まらず、その解釈を幾通り巡らせても、桜の散った今、あの人はこの場所へはもう来ないだろうと予感めいたものがあったからかもしれない。
 手にした携帯は九時を過ぎ、漏れた吐息は予感ではなく、萌える新芽と同様の儚げな経過を告げていた。
 この場所でゆったりと文字に眼を走らせる事が何よりの気分転換で至福の時であったのに、それすらがおぼろげで曖昧なものに思えてくる。
 「ハズレ」の文庫本の文字はプログラム言語のように理解できてはいても、空想や妄想するようなイメージとしてスクリーンに雪崩れ込んではこなかった。
「ご愁傷様」
 そう聞こえたような気がして、出入り口、向かいの席、白ばむ急勾配の階段へと視線は流れる。
 想えばあの人はとても不思議な人で、今まで出会ったどの人とも重ならないとても奇異な存在だった。
 失業保険需給中ではあるけれど、社会人六年目の営業職ともなれば対外的な人付き合いも含めて色々な人達と出会えているとは思う。けれど、記憶の中にあるそうした人達の中でも、あの人はあまりにも鮮明だった。
 背景にピントを合わせた薄桃色のアクセントが映えるあの写真も、無表情のフルカラーで飲み下す官能的なこの写真も、大人びた謎めきはしっかりと脳裏に焼きついたままだ。
 それはきっとまだ僕が知り得ず、その年齢に差し掛からなければ理解出来ないであろう、想像すらもしなかった年上の異性が持つ新たな一面なのかもしれない。
 そんな疑問とも言えない過ぎりに、自分ながら相槌を打てるほど文字は相変わらずのプログラム言語で、脳裏のスライドショーには延々とあの女性が流れている。
 たっぷりと湿気を含んだ捲る指は音を立て、必要以上に纏わりつく。
 もう、僕はこの場所に座ることはないだろう。
 お気に入りだったこの場所に、例え雨の日の午前中であったとしても。

第三章

「そろそろ時間じゃろ?」
 突然響いた声に、目覚まし電波時計は午前一時四十五分。
 締め切ったガラス冊子からは、警察車両のサイレンが遠くに聞こえている。
 相変わらずの雑多な街、いつも通りの賑わい同様、御忠告も何とも煩わしい。
「うん、ありがとう」
 ベッドの煎餅布団の上、腹ばいでノートパソコンに向かい、以前の取引先からぽつぽつ受けた安価な単純作業を切り上げた。
 薄っぺらい毛布を蹴りはぎながらの外気は少しひんやりとしていて、まだ重い頭と凝り固まった首筋を乱暴に掻く僕も、どうやら変わらずいつも通りだ。
 大欠伸でセルを回せば腹の虫も燃料を催促してきた。
 今日も、生きている。
 フローリングの二・三冊と何着かを足で掃きながら厳選する配置はいつもの事で、相変わらずの自室はそんな有様だった。
 政府の言う退避区域から逃れるべく、以前の住処から市内電車で二十分程のここに引っ越したのは三ヶ月と少し前。それでもずっと長く住んだ場所のように愛着を感じてしまうのは、厳選された配置に居座る愛すべき奴等との日々の賜物だろうか。
 日本を離れた事は一度も無く、大阪や東京へ出張で何度か足を伸ばした程度。平和な島国根性丸出しの広島県に生まれてからの二十六年の内、五年と少しだけ社会人もしてみたけれど、田舎育ちの僕には都会と呼ばれる広島市内も肌に合わなかった。
 田舎育ちだと外面は良くなるらしく、決して他人と本音で交われない自分に気付いたのもその頃だった。
 一言で言ってしまえば、人付き合いがとても苦手なのだ。
 以前の職場で、上司に「愛想笑いでも無いよりゃましだ」なんて言われるまでは自分の笑顔が愛想程度だと知られている事に微塵も疑いはなかった。それでも不思議と恥ずかしさは無くて、板についた笑顔で返せた僕も、たぶんそうゆう人間なのだろう。
 隣の部屋には小さな流し台に食器数枚とフライパンを盛った水切り籠、ユニットバスを含めた四畳半に玄関とおぼしき六十センチ角に区切られたコンクリートの打ちっぱなしが小じんまりと見える。それを縁取る金属の回り縁に段差はなく、詰め込まれた息苦しさを嫌が墺にも物語る。
 そんな二間を仕切っていた木枠のガラス引き戸を六畳間に立て掛けたのはその息苦しさからだ。
 上達したのかは疑問だけれど、今よりも財布の紐への危機感と無駄な意気込みで安食材に工夫を凝らし始めたのは、一人暮らしを始めた十八の頃だ。
 流し台の脇には昨日作った激安パスタの残骸と、ペットボトルが詰め込まれた小さなコンビニのビニール袋が二袋。右耳の寝癖を弄りながら、一瞥向き合う現実から逃避すべく呟いた。
「まだ‥大丈夫」
「はよぉ片付けんさいや」
 間髪入れずのこの突っ込みは俄然意欲を打ち消して、唯々すぅっと項垂れてしまう。
 面倒だ…この二袋も、この突っ込みも。
「はぃはぃ‥今日捨てます」
「返事は一回。教えてもらわんかったん?」
 僕の為に色々と心配してくれているらしいのは分かるのだけれど、上から目線のこの口調はやっぱりどうしようもなく面倒で、言葉を返す事すらもそう。
 ここに越して来る前はと言えば今よりもっと狭い部屋で、コンピュータの専門学校を卒業後、デザインと印刷実務、それに営業を兼ねたデザイン事務所での五年間は厭きるほど充実していた。
 仕事終わりに同僚と酒を酌み交わした日々がとても昔の事のように思えるのは、それ程に美化されているからだろうか。
 そこに不思議な雰囲気でなんとも表現の難しい勝気な女の子を含めるのには、何だか寂しさを感じてしまう。
 退職からふた月も経つ今、シンプルが好きと言えば聞えはいいけれど、二十六にもなってこの閑散する部屋からは、誰が観たって女っ化の無さと口座の残高を容易に想像できる事だろう。
 頭を掻きつつ記憶を辿りながらの洗面台へは足取りも重い。
 本当に、それらはいきなりだったから。
 世界の流れは思いのほか速く、実感の無い「戦争」の二文字を掲げた時代の波は、事務所を波打ち際の木の葉の様に弄び呆気なく藻屑と化してしまった。
 それは五ヶ月程前、テレビや新聞、ネットやラジオなどで速報された実感のまるで無い映画のような内容だった。
 ロシアにそそのかされたのであろうと噂される支那主導の元、支那・朝鮮が自ら招いた困窮した世界状勢を打破すべく、各海域の潜水艦から日本を含む各国へとミサイルを撃ち込んだと報道された。
 それは今尚、毎日のように多様なメディアで放送もされている。
 ラジオによればそれらは威嚇だったのか、着弾点はどれも海面ばかりで、この攻撃による被害は皆無だったとの内容だけれど、緊迫した世界状勢は有事への変調を色濃く忍ばせたままだ。
 平和呆けした日本国民の一人としては当初全く想像も出来ていなくて、連日流されるニュースを見ては、同僚共々口を揃えて「映画のようだ」と実感すら沸いてこず、それはイラク戦争の時も然り。幼くもあったけれど貿易センタービルに旅客機が突っ込み、積み木崩しのように倒壊したビルを見ていたあの時と全く同じだった。
 あれから五ヶ月経過した現在も世界状勢は緊迫と均衡をなんとか保ってはいるものの、現在日本に滞在している外国人の強制送還を含む、有事に対応すべく動き出した日本政府に苦言を呈す程に、日本国民の危機感は薄く、同様に素っ気ない。
 日教組の強い中国地方だからだろうか、プロパガンダに踊らされる現在も、まさに平和呆けそのものだと言えるのだ。
 思えば小学校の頃、誰もが仲良くしなさいと、兄弟は仲良くしなさいと親にすら毎日言われていた筈なのに、なんで人は人を傷付けなければ生きられないのだろうか。
 自主退社を申し出たのはそんな昔の純粋さを省みる事が多くなった、そんな頃だった。それはきっと諸々のしがらみから逃れるべく逸った、愚かな決断の断片だったとも今は思えてくる。
 蛇口の持ち手はひんやりとして、四月にしては水が冷たい。
 ユニットバスの洗面鏡に写り入んだ顔は、アナグラ生活の疲労を感じさせるのに十分過ぎる酷さだ。元々男前でもないのだけれど…。
 四人兄弟の次男に生まれ、どちらかと言えば放人主義の両親から愛情を注がれて十八年。それから一人暮らし六年目にもなると鏡の中の自分が話し相手になっている。
 この世の中はどれほどの人で賑わい、どれほどの独りがいるのだろうか…いや、考えるのは止めにしよう。
 そう考えるのも、人と関わる事が僕には楽しいと思えないからだ。
 異性であれ同性であれ、心から繋がれる事など到底想像もできなくて、関わってしまえば見てみぬ振りもできなくなる。だから何かが起こる度に関わらなければならない面倒臭さを考えれば億劫にもなりはするし、何より、人を知る事が怖い。
 家族や親戚でさえ、僕は知る事が怖いのだ。
 どんなに寄り添って、どんなに深く関わり合ったとしても、その代償を天秤に賭け、打算的に皮算用なんてするのが大人の事情なのだと、誰もがそうなのだと、僕は知ってしまったのだ。
 そんな自分だから呟いては苦笑の反芻で、つい最近までずっと寝不足が続いているし、原因は何もそればかりではなくて、説明のし難い「夢」も深く関わっている。
 目覚めれば夢は終わり。誰もが知っている当たり前の事だけれど、今までに二度だけ現実との境界線を越える出来事を体験と言うのか、体感してしまったからだ。
 言ってしまえば虫の知らせで、目覚めた後もそれらは現実と繋がっていた。
 知人男性の死を夢で見た深夜、起きてトイレに向かう途中、その男性の呪文のような声だけが延々と聞こえていたのだから何とも不思議だった。
 この男性は真冬であっても半袖・半ズボンがトレードマークの豪快で陽気な人で、「これからは農業だ」と僕に勧めた元気な声音は四十代と若々しく、純粋で少年のようなこの人が亡くなるなどとは誰一人思わなかっただろう。
 一緒に旅行もし、色々とお世話頂いた日々から暫くして、男性の声が延々と響いたその日に亡くなったと後に聞く事になるのだけれど、夢と声のせいかあまり驚きは無かった。
 もう一つは母方の祖父の夢だ。
 この夢を見た当時は入院先のベッドの上で、仕事終わりに突然襲われたふくらはぎの原因不明の痛みから高熱に魘され、人生初の長期入院をした時だった。
 母方の祖父は厳格で厳しい人であったと聞いていたけれど、僕たち孫にはとても優しかった。
 入院中の夢に祖父が出てきた事は確かに覚えているのに、何を話したのかは全く記憶に無いのが残念と言えば残念で、祖父が夢に登場したのだけは鮮明に焼き付いている。
 痛みも退かないうちの退院には兄が付き添ってくれて、歩行が困難だった僕への生活の心配から暫らく兄の部屋でお世話になった。けれど、その退院前に祖父は亡くなっていて、祖父の葬式に僕は参列出来なかった。
 思い返せば、叔父に伝えられた「近くに居るのに来てくれん」との祖父の寂しさにすら、薄情にもたった一度しかお見舞いに行かなかった。
 行こうと思えば一時間とかからない広島の大学病院にすら‥。
 後悔、と言えば、眠るような綺麗な顔で棺に納まり、十七でこの世を去った末弟もそうだ。その経緯が同級生によるリンチであった事で、何もしてやれなかった不甲斐なさから身勝手にも自分を責め、布団に横たわる末弟に縋り、繰り返し、詫びを重ねたのはもう七年も前になる。
 それにもかかわらず祖父にそんな想いをさせた大馬鹿はこの僕だ。
 本当に、大馬鹿以外の何者でもないと、今更ながら拳を握るのだ。けれどそれは枷のように僕を縛りもして、眠るような末弟の棺が骨だけに変わったあの時の衝撃、末弟の「死」を本当の意味で理解したあの瞬間を忘れる事が出来ない。
 だから人の「死」に、人生に関わる事への恐怖は、常に傍らで付き纏っている。
 そう言えば、末弟の葬式の後、ひどい腹痛で病院に担ぎ込まれ、それから数時間後、同じ病室にすぐ下の弟も腹痛で運び込まれてきたのには、思い返す今も少しだけ笑えてしまって、今更ながらの愚兄っぷりを嘆くには時間が経ち過ぎているのだろうとも。
 何かの本で読んだのか、聞いたのか、現代社会での「死」は病室のベッドばかりで、家で最期を看取る事が普通だった時代から、「死」は疎遠なものへと変わりつつあるらしい。
 知人男性や祖父、それに何も言わずに逝った末弟が僕に伝えたかった事とは何だったのだろうかと、深く、深く考える日々は、「夢」・「意識」と言うものを一変させてしまった。
 科学・夢・臨死体験・宗教・スピリチュアル・倫理・法学等、色々な書籍やラジオ、映画やTVを貪る様に探しては頷き、また横に振るような日々が今も悶々と続いている。
「無視せんとってや」
「‥考え事」
「愚考じゃ。 ウチに相談したら即解決―――
 さっきから五月蝿く響くルームメイトの迷惑なこの声も、その頃から僕の生活に浸透して違和感無く溶け込んでいる。
 それはクイズ番組の問題を考え込んでいた時、囁く様な答えに耳を疑ったのが始まりだった。
 救いがあるとすれば、僕以外には聞こえていない事で、他の人との会話の最中に響いたとしても会話は途切れる事無く続いたし、それを重ねる毎に少しずつ姿の見えぬ「同居人」を理解する事ができた。
 驚くことに同居人が言う他の人への評価や性格診断はとても鋭く、決して言葉に出せないであろうプライベートな内容まで聞こえてくれば会話の相手への表情に困る事も常だった。
 その声は唐突に響いたかと思えば気付かぬうちに聞こえなくなっていたりと神出鬼没で、だから面倒な時は「お留守番」と称して釘を刺せば聞こえなくなってのんびり出来るのだけれど、数日もすればそれまでの出来事をネタにお説教が始まるのだ。その事を考えれば、聞き流すのが最良と言わざるをえず、そんな現状は今も続いているのだ。
 迷惑以外の何者でもないこの現象に最近ようやく慣れてはきたけれど、全くと言っていい程プライベートは無くなってしまった。だから散歩は僕にとって大切な癒しだった。
 開いた蛇口から広がるシャワーは頃合の温度で、頭皮から顎先へと温かく流れ出す。
 ふわり、地面が揺れる。意識を少しだけ遠くに感じ、頭を垂れてこめかみを流れる血液の循環音を感覚として認識した数瞬の後、おぼろげな頭の中身はふわりと定着した。
 重い目眩だ。
 きっと昨日の昼から何も食べていないからだろう。このまま意識を失えば僕はどこに行くのだろうか…などとかぶりを振るのだった。
 三途の川や閻魔大王、見渡す限りの花畑や広大な草原。死後再び意識を取り戻した幸運なその人々の表現が多種多様に存在する「臨死体験」はそれを示す重要な何かを窺わせている。だから公共放送でのドキュメンタリー「臨死体験」は僕の興味を大いに刺激した。
 国籍・宗教・年齢・性別に関わらず、「死後とは」を基準に臨死体験経験者をリポートした内容は、「死」を境に性格すらも激変させるとの、全く新たな視点を僕に示してくれた。このドキュメンタリーをリポートしたリポーターへの興味から、同人の著書「宇宙からの帰還」を読み、更に意識への興味と新たな視点を示されたのはもう三年も前の事だ。
 宇宙飛行士は大気圏を脱するその瞬間、言葉に出来ない「何か」を感じ取るそうで、その感覚に宇宙からの帰還後、人生観が大きく変わると言った内容だった。
 読み進めていくうち意外だったのは、宇宙飛行士が科学分野の技術屋集団で、いわゆる純粋な職人と称されていた事だ。職人とは万国共通、融通の利かない性格は同じらしいのだけれど、そんな宇宙飛行士を内面から変化させる「何か」とはどんなものなのだろうか、どんな感覚なのだろうかと考えれば疑問も尽きはしない。
 おぎゃぁと生まれたその瞬間、人生をどう生きるのか、宇宙飛行士が持つ「宇宙飛行」のような目的や目標を持って誰もが生まれてきたのだろうか‥などとも考えてしまう。
 僕自身、死について考えれば恐怖を覚えた事もあるけれど、虫の知らせとも言える現実と繋がる夢の体験後は少し違った感覚を得る事になった。
 それを言葉にするのは酷く難しいけれど、眠りから次の目覚めへの繋がりが、死後、生まれ変われるとしたらこんな感覚なのでは…と感じられたからだ。
 少し前までなら、怪しい宗教の勧誘みたいで馬鹿らしい内容だけれど、現実と繋がる夢を体感すれば誰もがはっきりと理解出来ると思う。
 それは宇宙飛行士のように、それは臨死体験経験者のように、はっきりと体感してはいても朧にしか表現出来ないジレンマに苦しむような感覚なのかもしれない。
 シャワーを閉めながら、濡れた髪を伝う水滴は額をするりと撫でてなめらかに滴る。
 こうやって得るシャワーを浴びると言う行為の感覚を人に伝える事や、そうして共有する事と同様に、地球外で持ち得るような、死の淵で持ち得るような、僕で言えば現実に繋がる夢の感覚をもしも共有できたなら、個としての存在意義は勿論、他の個とも言葉を交わす事なく共有し共存できる、つまり、国家・人種・性別・年齢・言語・風習・習慣、上げればきりの無い全ての壁を超越した魂の共存が可能なのでは‥ と、何気なく思えてくる。
 これが現在の結論と言えば抽象的ではあるけれど、一つの考え方と解釈すればそう言えるのかもしれない。だから最近、「意識」と「魂」の解釈が僕の中で曖昧になり始めてきた。
 実際に「死」を体感すれば誰もが釈迦に説法になる事は、僕のみならず全ての人類に言えるのだから、こんな無駄な事を考えていればそりゃ睡眠不足にもなりはする。
 ともあれ、このひと月の睡眠不足解消は「びわの」にお世話になってはいるのだけれど。
 髪を拭き、体を拭うタオルはごわごわと、それでも拭いきれない吸水力の乏しさは、自分の全てのように思えた。

                    ○

 空腹感でだるい体にのろのろと薄手のパーカーを羽織らせる。
 この部屋には冷蔵庫も無ければ洗濯機も無い。駅から徒歩三分、五階建てビル五階の1DKが僕唯一の城だ。
駅近くの立地を考慮すれば破格の家賃は月三万二千円でエレベーター無し。だから、出費が嵩んだ身としてはとても有り難い。
 大きな家電製品は引越しの時に前の大家さんに引き取ってもらった。費用を浮かせる打算的な考えもあったけれど、五階まで階段で運ぶのを想像するだけで気力を失わせるその面倒臭さと、徒歩十五分圏内に生活用品を扱う全てが揃う利便性がそう決断させたのだ。
 スーパー・コンビニエンスストア・コインランドリー・薬局・モールや電気店など、全く不自由する事は無いけれど、三食外食出来る身分になれるのはまだまだ先の事で、財布の中身はと言えば当然知れている。もっと頑張らねば。
 そんな経済状態もあってか、黒ずんだ壁と多少の埃っぽさやカビ臭さに拘らなければ、内装・外装共に何の問題も無い。見回す床に散乱した情報誌とペットボトル、脱ぎ捨てられた洗濯物がありありと生活感を匂わせている。
「…片付けるか」
「今日は偉いじゃん」
「ご指導の賜物です」
 皮肉たっぷりの答えの後、続く説教は全て聞き流した。
 洗濯物を百均の籠に投げ込んで部屋の隅へ、情報誌は揃えて紐で縛ってゴミと共に積み重ねた。「夜中にバタバタとしていては隣近所にご迷惑がかかる」などと最もらしい理屈を洩らしては喉の奥で苦笑するのだ。と言うのも、ここの壁や床はとても薄くて、越したばかりの頃、短気であろう隣人からは壁への挨拶を度々頂戴したからで、もちろん倍にして返事を返したのは言うまでもなく、都会と言う環境であればこんな会話の方が話は早いらしかった。
「このくらいで勘弁しといてやろう」
 ものぐさな僕は腰に手を当て、誰にと言わず満足気に漏らすのだった。
 続く説教は勿論、聞き流したのは言うまでもない。

                    ○

「鍵、掛けたん忘れんさんなよ」
 ドアのキーを回しながら手にはゴミの袋を二抱え。
お説教の言葉通り、幾つもの事を同時にこなすのは苦手なほうで、よく、閉め忘れたのでは?と舞い戻る事も実は多い。
 この作業は以外にも僕の重要事項上位にランクインしていて、自分で言うのもなんだけれど、ちょっと抜けたとこがあるのはそれとなく自覚しているつもり。ともあれまずはご飯にしよう。飯は食わねど何とやら、は僕には無理っ。
「お留守番よろしく」
 ふと感じるこの街の匂いは湿っていて、排気ガスと街独特の親しみある香りが現実への帰還を実感させてくれるこの外気を、最近はとても自然に感じる事が出来るようになった。
 街には街の匂いがある事を越してきて初めて気付いた時、感傷的にも田舎の実家を思い出す始末で、匂いや香りには場所を強く記憶してイメージする力があるのだと改めて思い知った。
 廊下は薄暗く、突き当たりに緊急避難用通路を示す表示がぼんやりと浮いている。
 そんな景色の午前二時を回る頃、僕はいつものリフレッシュに出掛ける。リフレッシュと言ってもどこかで読書と言う訳じゃなくて、赤い携帯ラジオの持ち主が「引っ越し祝い」だと強引に訪れ勧めた寝不足の解消法。端的に言えば健康管理に行くのだ。
 この悪友と言うのがまた変わっていて、遠洋漁業に出て二年程帰って来なかったり、半年穴掘りに行ってくると言い残し、トンネルの発破作業に携わるなど、気が向いた時に気が向いた事をするまさに自由人。僕の引越し祝いに押し掛けた時も、いつか何処かで野垂れ死ぬんじゃないのかと冗談気に話しては、それを陽気に一蹴する豪快で楽しい奴なのだ。
 その時の話によれば金を掘ると豪語していて、きっと今頃は南米あたりで掘削しているはずで、そんな奴に唆されたのが酸素カプセルを応用したリラクゼーションマシン「季節の森」だった。
 始めたのはひと月ほど前。退職後の余計な事を考えずに済む事と、件の悪友の健康的な機嫌の良さに不信感を抱きつつも、システム名の和やかなイメージにつられてなんとなく。当初は本当に暇潰しのつもりだった。
 「季節の森」の運営会社は「びわの」と言った。
外資系会社で不安もあったけれど、運営陣のサポートは迅速で的確なものだった。それでも「快適な夢を売ります」とのキャッチコピーは胡散臭い事この上なくも、「夢」に関わる技術である事と、会員制のこのシステムを利用すればお金も少し稼げると言った悪友の一言が一番の決め手だったと思う。
 事実、酸素カプセルを使えばポイントが溜まり、稼いだポイントは電子マネーとして受け取る事ができる。もちろん「季節の森」のシステム内に預ける事もできて、そのポイントで無料利用も出来る素晴らしいシステムだ。これを使わない手は無いと、多くの有象無象同様に時間を削ってカプセルを奪い合う小遣い稼ぎと言う訳なのだ。
 お金の関わるシステムだからだろうか、継続的に利用しないとIDは削除され二度とログインできない仕様は、常に頭の片隅にこびりつくまさに旨い商売と言わざるをえない。
 このシステムは「季節の森」にのみ実装されていて、他のリラクゼーション機器やシステムには実装されていない。銀行がバックアップしているとの噂もあって、テストの様な意味合いもあるのだろうかとネットでは憶測も飛び交う程、注目のシステムらしかった。
 先月のポイントは電子マネーに交換されて口座に振り込まれていた。
 七万二千六百円
 ATMで通帳を二度見返してしまったのを思い出して苦笑してしまうのは、失業保険で食い繋ぐ予定だった僕を想定外の副収入が目を丸くせざるを得なかったからだ。「びわの」は採算が取れているのだろうかと胡散臭げな疑問を強烈に感じはするけれど、出費に汲々とする僕は感謝と期待をせずにはいられない。
 街の喧騒に最近は慣れてきたものの、田舎から出てきたばかりの専門学校入学当時、道行く人全てに挨拶をしていた程の田舎物だったのだ。近所の誰彼など無く、むしろそう言った感覚や感情が稀な都会に暮らせば、他人に無関心になる事が当たり前だと知った時は不快に感じもしたけれど、環境への順応は僕にもはっきりとそれを自覚させてしまった。
 幼い魔女が修行の為に訪れた街、あの赤いリボンの映える少女を思い浮かべてしまう。
 人生が上手く行かない時は大抵人間関係が絡んでくる。都会に暮らすと言う事は人生を上手に生きるという事、なのだろうか。
 街の明かりに照らされた見上げる雲一つない夜空には、心もとない星が一つ、うっすらと儚げに灯っていた。

                    ○

「ありがとうございましたー」
 自宅ビルの隣接ビルには一階フロアにコンビニが入っている。
ここで晩御飯を買うのが僕の日課になっていた。
 いつもと変わらず緑茶のペットボトル500ミリリットルの前でレタスサンドを遠目で探してみたけれど、まだ陳列前だったのか品切れみたいで、緑茶と鮭と昆布のおにぎり、それといつものから揚げがぶら下げるビニール袋の中身だ。
 外は相変わらずの月夜で、少しだけ風が冷たい。
 売れ筋人気No1のまだ温かいから揚げをほおばりつつ向かう先はネットカフェ。もちろん、「季節の森」を楽しみに、健康管理と蓄財に向かうのだ。
 「季節の森」のコマーシャル、「快適な眠りを約束します」との謳い文句はラジオで流れるキャッチコピーだ。それに釣られてか装置は最近とても人気が高くて、不規則な睡眠を強いられる現代社会人のマストアイテムみたいな扱いになりつつある。
 人気の秘密は夢をリクエスト出来ると言う胡散臭くも目新しい機能がそうらしい。リクエストと言ってもざっくりとしたもので、映画のジャンルみたいな大まかなくくりらしく、例えば「恋愛」で言えば悲恋なのか、はたまたラブコメディーなのか、その内容を詳細にリクエストする事は出来ず、なんとな~く恋愛の夢が観られると言うくらいだ。けれど、メディアの放送ではそれが人気の秘密なのだそうで、これから始める人はちょっとがっかりするかもしれない。
 まあ夢の内容はどうあれ、酸素に満たされたカプセルは少し閉塞感があるものの、快適な睡眠と寝覚めを事実約束してくれているのだ。とは言っても体との相性もあるらしく、キャッチコピー通りにはいかない人もいるようなので、まだ万人にお勧めとはいかないようだ。
 僕はと言えばその心配は全く無くて、寝惚ける事もなくとても快適に利用出来ている。
 リラックス出来るのは勿論の事、何よりまず使う外部装置が凄くて、利用中の全身を保護・拘束する目的と長時間身体を預ける為の負担軽減からフラットタイプの特殊な椅子がロボットのコックピットのようでとても格好良いのだ。まさに、男のロマン!
 それらを包むように、盗難や悪戯などの被害を防ぐマジックミラー加工が施された強化プラスチックカプセルがコックピットの雰囲気を一層高め、何度体験しても湧き上がるその高揚感で素直に酔えてしまうのだ。
 その酸素カプセルを家庭に設置した例も聞いた事があるけれど、設置費用やスペースの問題、ことランニングコストは機器のメンテナンスも含まれるので、かなりの割高になるみたいだし、機器はインターネットに接続してからの起動らしく、多くはネットカフェやエステサロンへの設置が一般的になっている。でも楽しい事にお金が絡むとなれば規制はつきもので、「季節の森」のサービス開始後、人的被害が発生してからは法的な規制がかかってしまった。その最たるものが現実世界へのストレスや不満からの逃避と言われている。
 夢の世界に浸り、依存し、現実世界の身体が衰弱して死に至るまで機器の使用を続けたケースが世間を賑わせたからだ。
 法的には、利用者を看視する第三者を置く事が義務付けられて、「びわの」は定期的な確認がとれるネットカフェやエステサロン等での利用を推奨しているけれど、ニュースによればそれらの場所以外からのログインもまだ数多く確認されているらしく、第三者が利用者の確認をとれていれば違反とはならないので、規制はモラルに任せられているのが現状のようだ。
 ともあれ、それ程に魅力的な「季節の森」を体感すれば誰もがそれを疎ましく感じる事だろう。かく言う僕自身そう感じる程、そのクオリティーはとても素晴らしいのだ。
 向かう先はネットカフェ「心の蒼」。
 歩きながら食べる鮭おにぎりはいつも通りの味で、緑茶との相性も悪くない。
 自宅から徒歩十五分、片側二車線道路を渡って、角にある理髪店から、軽自動車一台がギリギリ通れる細い路地を左に入ると、電信柱が更に圧迫感を与える窮屈な脇道に出る。
 アスファルトの所々に出来た水溜りが月明かりに照らされて街を写していた。
 立ち並ぶ建物はどれも古い鉄筋コンクリートの三から五階建てだ。手の平すら入らない程犇いているこの景色は、田舎出身の僕には華やかな繁華街や幹線道路沿いより何故か心穏やかでいられた。ネットカフェ「心の蒼」を選んだのはその辺りが決め手なのだ。と、まぁそう言う事にしておこう。
 通りの突き当たり、ネットカフェ「心の蒼」はひっそりと明かりを灯していた。
 歩きながら食べていたこんぶおにぎりをリスの様に咀嚼しながら、急ぎお茶で飲み下す。
 やっぱり断然こんぶ派だ、美味いっ
 美味しい物は最後に食べるようにしていて、ケーキに乗っかっていた大きないちごを浚われた幼い日の兄の愚行が今日の僕をそうさせたのだろうか。
 こんな事など忘れてしまえばいいのに、思い出す度に腹立たしくも懐かしくて笑ってしまいそうになる。それは「心の蒼」の佇まいにも言える事で、「季節の森」と同様にいつもの皮肉を約束事のように贈るのだった。
「相変わらず胡散臭い」
 言葉通りの佇まいは、小じんまりとした鉄筋コンクリートの三階建て。古びた白い外壁には流れた雨の跡が黒く水垢の層を成し、その所々は浮き上がっていて、指でつつけばぽろぽろと崩れそうだ。それに窓が極端に少ないのは施工主の趣味だろうか。だとすればその人はかなりの変わり者だ。
 そんな風体の建物にくっ付いた四角く分厚い木作りの扉は飴色で、真鍮製のノブにまで手入れは行き届いている。背の高い者ならぶつけてしまいそうなその扉は一人が通ればやっとの小さなもので、その脇には何種類もの植物が植えられた大小様々な鉢が所狭しく乱雑に並べられ、それらの鉢から伸びた花であろう植物につぼみは無く、腰の高さにまで茎を伸ばした葉は雨上がりの水滴に濡れている。
 それらの更に奥、使われていない色々な鉢が植えられていたであろう植物が枯れたまま無造作に積み上げられ、そこから生えた雑草が細長く青々としがみついている様は、磨き上げられた飴色の扉と真鍮製のノブとは対照的な主の趣味を薫らせる。
 扉横には細いネオン官が「心の蒼」と壁から浮き出して、ぽぅっと淡い緑色でぼんやり灯っていた。
 不意に心の左の点、ネオン官が不規則に点滅した。
 ネットカフェには全く見えない事も含め、店主に報告しておこう。きっと訪れる人は、何の店なのだろうかと、文字すら読めなければ更に疑問に思うことうけあいだ。
初めてこの店の扉をお腹を空かせてくぐった時などは、疑いもせず喫茶店だと思い込んでいて、店主に大笑いされたのを思い返せば、表情はやっぱり曇るばかり。そんな醜態を思い返しながら、おにぎりの包装と飲みかけの緑茶をビニール袋に突っ込んで、鈍く光るノブをそっと回すのだった。

                    ○

 微かなジャズ、薄暗いフローリングのロビーには、入り口左手に細長く低めのカウンターテーブルで区切られた重厚な木造りの受付がまず目に写る。右手には腰より少しだけ高い小さなテーブルが二台。添えられた椅子四脚も木造りのシンプルなデザインで、多少窮屈ではありつつも閉塞感を感じさせない優しい艶を帯びている。
 僕はこの雰囲気がとても好きで、美術館でそうするように、ずっと眺めていたくなる。そんな相変わらずのロビーには、今日も他にお客さんはいないようだ。
「嫌なら帰んな」
 流れるような細い黒髪、長く美しい前髪の隙間から覗く挑戦的な視線が、平たいウイスキーの小瓶越しにカウンターから意地悪く一瞥する。
「趣のある雰囲気が好きなんです」
「どうだか」
 そう、ベンチで出会ったあの時みたいに、言葉少なな会話がいつものやり取りなのだ。
 就職活動中とは言っても、持て余す時間とは裏腹にぺったんこの財布では遊びにも行けず、気晴らしと言えば散歩と読書くらいのもので、新たな安らぎの場所を散策してみればこんな所であのベンチの女性に出会ってしまったのだ。そして、あの女性はこの店の店主だった。
だから、ここでの失言は命取りとも言える。
 ここへの入会を申し出た時の開口一番が「気に入らない面だ、帰れ」だったのだから、気難しさで言えば言い過ぎではないと思うし、それに、その日買っていたビニール袋の中身がレタスサンドとブラックコーヒーだった事が入会の決め手になったのだから、何が障るか分かったものじゃない。
 レタスサンドとブラックコーヒーは女性の胃袋に消え、変わりにホットケーキの菓子パンとミルクセーキが僕を靠れさせた。
 今考えても理不尽な内容だったと、不甲斐ない僕は口元をなんとか緩ませる。
 未だによく解らない人だけれど、この女性の興味の範疇に納まれたのはやっぱり幸運だった。
 年上であろう柔らかく爽やかな香りを漂わせる美しいこの人からは、想像もできない性格と物言いが他との拒絶をありありと窺わせている。多少強引ではあるけれどその辺りは共感できるところも多くて、新天地での数少ない知人としても貴重な存在なのだ。
 狭いカウンターの中、背もたれの長い肘置きの付いた回転椅子を左右にゆっくりと揺らしながら、掌サイズの液晶テレビを彼女はいつもじっと眺めている。
 その液晶テレビからは音を消した白黒映画が流れているのを僕は知っていて、台詞やBGMを全て記憶しているのだと言っていた。理解の難しい人の感性を知ってはいても、やっぱり共感にまでは届かず、目の前のこの人の頭の中はきっと本当に変わっているのだと、それだけには力強く首を縦に振れるのだ。
「上機嫌だな」
 と、そんな僕を見透かしたように液晶から目を移す事無く面倒くさそうに釘を刺してくる。変わり者でもあり、察しは恐ろしいほどに鋭敏なのだ。
 それでも何とか平静を保つ術を、ここひと月程で学べてはいると思う。
「いいえ、レタスサンドは売り切れでした」
 俄かに口元はつり上がり、頬杖のまま向けられた視線だけの上目遣いで店主は続けた。
「よっぽど好きなんだな」
 こんな目をする時はいつも意地の悪い事を考えているのだ。
「なんとか入会できましたから」
 予想の範疇ならば切り返しに困る事もなく逆に意地悪く苦笑する僕に、店主は少し目を丸くした後、呆れたのか視線は液晶へと、何かを飲み込んだようだった。
 きっとホットケーキの菓子パンとミルクセーキが過ったに違いない。未踏の桜花弁絨毯が示した通り、その言動や仕草が物語るのとは間逆で、根はとても優しい人なのだ。
 暫くして言葉は選ばれたらしく、一呼吸置いてからぽつりと漏らした。
「お前は上客だ」
 瞳はしっかりと僕を見上げていて、少したじろいでしまう。
 それ程今日の店主も美しいのだ。
 絶対にそれを口にすべきでない事は店主との無言の約束事でもあって、少し難しくもあるけれど語彙の少ない口下手な僕にとってはとても話し易い人とは言える。
 苦笑いのまま「言葉通りであれば嬉しいです」と出しかけた時、不意に開かれたか細い軋みに、互いの視線は扉へと向けられていた。
 視線の先、見た事のない人がひょっこりと顔を覗かせている。
そもそもロビーで他の人と出くわす事など、入会からひと月程経つけれど初めてで、どういう人なのかとゆう疑問よりも余計な会話は避けたかったのが本音だ。
 ゆっくりとテーブルセットの小さな椅子に腰かけてカウンター前を譲った。
 用向きは分からないけれど、こちらは別段急ぎではないし、酸素カプセルは外部操作に店主がどうしても立ち会わなければならず、この人を待たせる事になるからだ。
「あら。珍しいわね」
 その身体には不釣合いな、薄い生地の見るからにだぶだぶなパーカーを頭からすっぽりと被り、こちらを見ながらロビーの薄暗い照明に揺れている。
 言葉はカウンターテーブルへと向けられているのは言うまでもなく、照明のせいか細めの眉毛は店主と同年代以上にも感じ、その表情は明らかに訝しげだ。
「今日は早かったな。旦那と喧嘩か?」
 だぶだぶパーカーの女性は視線をカウンターに移して楽しげに笑っている。
「馬鹿ね、お尻の下が心地良いらしいわ。千鶴には悪いけど。ふふっ」
 言いながら会員証をカウンターへ差し出した。
 店主の名前は千鶴さん。
通い始めてひと月になろうかと言うのに、僕はまだ名前すら聞けずにいたのだ。
「のろけんな」
 呆れた風に軽く音をたてて会員証をひったくり、何やらご立腹の様子で書き込んでいる。
 そう言えば、入会の時に名前や連絡先など書かされた覚えがない。表にでかでかと73と書かれたラミネート加工のカードを手渡されただけだった。トラブルの際、個人の特定に問題は無いのだろうか‥なんて、僕が店主に進言できる程親密ではないし、千鶴さんと呼べたとしても、店主は僕の名前をまだ知らない筈だ。
 顔見知りってこんなものなのだろうか。
「あ‥ 君、ミルクセーキのお客さん?」
 なんとなく作業中の千鶴さんを見ていた僕は、びくりとパーカーの女性と目が合ってしまった。
「千鶴ぅ、可愛いじゃないの。ふふんっ」
 カウンターに寄り掛かり、作業中の千鶴さんに意地悪く言う様は、親しさと気安さをゆったりと滲ませる。
「春子」
 相変わらずの物言いで会員証を返す千鶴さんからちらりと視線を感じ、ドキリとしたけれどそれには応じず、なんとも場違いな雰囲気に視線を泳がせ、落ち着けずにいる自分を哀れに感じてしまう。けれど春子さんと言うお客さんは千鶴さんと仲も良さそうで、近所に友人がいない僕としては二人のやり取りがとても羨ましく映った。
「ふふっ いつものとこでいい?」
「ああ」
「ありがとっ」
 カウンターから手に取った会員証にキスしながらカウンターへウィンクを贈る春子さんは明るい人らしく、その声は終始弾んでいる。僕の横を通って突き当たりの階段、ではなく、何故か僕の座るテーブルの空いた席にゆっくりと腰かけた。
 痛いほどの視線はまじまじと僕を見つめ、少し前のめりに小声の唇は滑らかに回りだした。
「ねぇ、千鶴って無口でしょぉ? ふふっ 君、名前は? このお店に来たのはひと月くらい前でしょ?」
 矢継ぎ早の質問に困惑していると、酒と香水の甘い香りがふわりと鼻をくすぐり、意地悪な視線はしっかりと僕に向けられていて、威圧感にも似た雰囲気に耐え切れず言葉を出しかけた時、それは直前で遮られた。
「春子」
 間延びした棒読み口調には苛立ちを滲ませ、頬杖越しで横目の視線はしっかりと春子さんに釘を刺した。
「だってぇ、ここ女の子専用でしょぉ?」
 … ‥ん?
 数瞬、何を言っているのか分からなかった。それに春子さんの声が終始弾んでいたのは、手頃な玩具を発見したからだという事にも気付けず、女性専用の指す意味を沈思黙考していた。
 記憶を辿ってどう考えても女性専用に繋がる会話や情報は何も見つからない。どういう意味だろうか…。ふと視線を感じ、ちらりと見れば千鶴さんの瞳は「相手にするな」と、狩られる前の獲物の心境をひしひしと感じずにはいられない。
「女専用って訳じゃない」
「他に男性会員はいないじゃない?」
 千鶴さんは大きくため息をついておもむろに煙草を咥え、ジッポは音を立てて口元を照らす。
「男だろうが女だろうが」
 漏れた白い塊が包むように沸き立った。
「気に入らない奴は来なけりゃいい」
 煙を細く吐き出す千鶴さんの口元は官能的で、それを眺めながら考えてみれば、なるほど。色々と繋がる会話がいくつかある。
 千鶴さんは確かに少し変わってはいるけれど、曖昧な表現はせず、必ずはっきりとした言葉をいつも端的に伝えてくれる。と、突き刺さる視線に恐る恐る目をやると、春子さんはにやにやと意地悪く眺めていた。
 これは・・・ 雄の逃走本能をかなり刺激する危険な香り‥ 顔が引き攣りそうだ。
 その瞳は僕を見据えたまま、ぬるりとした輝きを更に増す。
「で、名前くらい、いいでしょぅ?」
 この言葉は僕へなのか、千鶴さんへなのか‥ たぶん‥きっと両方だろう。
千鶴さんを盗み見れば、無言の後姿からは端的に名前だけを告げる事だけが許されているのだと容易に理解出来るし、何よりもその仕草の意味の先にとても驚いていた。
 千鶴さんは僕の名前に興味があるのだ。
 表現がストレートな分、中間が無いのであろう彼女のそれは強請るのと同様で、こんな人への甘え方があるのだと関心して少し見入ってしまった。なので無意味な間と雰囲気に飲まれて縮こまった喉を小さく咳払いで一喝し、はっきりとそれを言葉にした。
「碓氷 聡です」
 春子さんの口元はゆるり、ゆるりと釣り上がり、見据える瞳は艶やかな妖しさを帯びてくる。
 やっぱり…ちょっと怖い。
「ふ~~ん。千鶴ぅ、聡君だってぇ。で、聡君は男性会員一号な訳だ。んふっ」
「春子、いい加減にっ…つっ」
 銜え煙草がどうやら胸元に落ちたらしい。
黒が白ばむほど着古したのであろう伸び切った細身の七部袖Tシャツは胸元がかなり空いていて、立ち上がって慌てて叩いている様は滑稽と言うより微笑ましくすら思えてくる。
「あらあら、ふふっ 変わらないわねそうゆうところ」
「あーっ くそっ 何がだよっ」
 春子さんは懐かしそうに千鶴さんを横目で眺めながらゆっくりと続ける。
「千鶴ってさぁ、昔から動揺すると煙草吸うじゃない? で、からかうと落とすのよねぇ」
 目の前で頬杖を付き、目だけが向けられたその表情はとても穏やかで、意地悪な言葉とは裏腹に声音はとても優しげなものだ。
「ふんっ 言ってろっ」
 春子さんはとても楽しそうにまた笑っていた。
「君、合格ね」
 ゴウカク?
 考える間も無く、言いながら席を立つ春子さんに合わせ、ゆっくりと席を立とうとテーブルに左手を着いた時、視線を遮る影と左頬に柔らかい何か。酒と香水の甘い香りを残して足音は脇をすり抜けた。
「千鶴が香水つけるのなんて…ふふっ」
 つけるのなんて?
 固まっていた僕はヒールの足音にハッとした。
 後姿から表情を窺えない春子さんは、通路を進みながら後ろ手に手を振っている。
「春子っ ‥ったく」
 頭をがしがし掻きながら椅子にどさりと座る千鶴さんは、深く溜息をついた。
 悪さをして叱られた様なその表情は、あの時、ベンチでの不器用な詫び方そのものだけれど、この場所ではとても不思議に映った。
「気にすんなよ。昔からああなんだ」
 液晶テレビに目を落とし、いつも通りの頬杖をついて言ってはいるけれど、観ているのは白黒映画じゃない事だけは僕にも何となく分かる。
 カウンターへと進み、きっと命取りになるであろう失言に、意を決した。
 強張っているであろう精一杯の笑顔で。
「いいえ、収穫でした。‥‥千鶴さん」
 目を丸くしてこちらを見上げる千鶴さんの瞳は、照明の加減か少しだけ潤んで見えて何だかきょとんと可愛らしい。
 悟られぬよう、頭を掻きながら一呼吸置いて続ける。
「でも… びっくりはしましたけど」
 瞳を細めながらいつもの調子でずいっと手を伸ばし、「会員証」
 ぶっきらぼうで無愛想な物言いはどうやらいつもの彼女らしい。
 失言には至らない程度には受け取ってもらえたみたいで、ほっとした一息をゆっくりと吐き出せた。
 手渡すカードにカウンターの下で何やら米粒みたいに小さく書いている。細いカウンターテーブルに少し前屈みに作業する千鶴さんからは、いつもの柔らかで爽やかな石鹸っぽい香りと、微かな煙草の匂いがした。
「ほら、八番だろ?  ‥聡」
 視線を鍵束へ落としたまま、幾分棒読みでカウンターにカードを滑らせる手はいつもより柔らかく感じる。それは何となく照れくさそうにも見えるけれど、言葉少なな会話から一足飛びに親しい呼びまわしともなれば単に慣れないだけだろう。でも僕はそうもいかず、いつも通りの文句に名前が加えられた、ただそれだけなのに心は踊り、受け取り頷きながら、いつも通りの一言を出来るだけいつも通りに。
「お願いします」
 鍵の束を鳴らしながら指先でくるりと回して歩く彼女と二人、階下へと急かされながら歩むのだった。
「そう言えば、表のネオン切れて――
「ん? そう言や昨日春子も――
 会話の内容など何であろうとよかった。
 春子さんには悟られてしまっただろうか。
 千鶴さんには、たぶん、もうずっと以前に。
 僕は本当に、人付き合いがとても苦手なのだ。

第四章

 鍵の束をカウンターの下、所定のフックに吊るし、吐きながら深く椅子に身を沈める。
「聡‥ かぁ」
 密やかに呟いていた。
 そう言えば今日、初めて聞いたんだ。そんな事も考えなかったんだ‥あたし。
 ‥しかし、「収穫でした 千鶴さん」には参った。年甲斐もなく動揺なんてして…。
 今日の会話もそうだが、「レタスサンド」はあたしにとってかなり特別なモノなんだ。なのにアイツは「なんとか入会できましたから」なんて言いやがった。「よっぽど好きなんだな」の意味をよく考えてみろ… なんてあたしが言える訳がない。
 左頬のまだほわりと温かいお守りを、戸惑うように、壊さぬように、躊躇う指先はそっと、そっと触れていた。

 女として生まれ、薄化粧が映える事も、女らしくシンプルに着飾る自分らしさを誰より誇らしく感じている事も、あたしはあたしをよく知っている。
 三十四年の歳月、喜びも、楽しみも、女として十分に、存分に堪能してきた。
 只、その喜びを分かち合う多くが同性であっただけの事。周りの同性はそれを受け入れない事が多かったし、性的な干渉では特にそうだった。
 異性の友人も少なくないが、多くは愛の無いセックスが目的だろう事は明々白々。他愛無い世間話をする程度に納まれば、友人と呼べる異性はいないのかもしれない。
 異性の裸体に興味を覚えない。と言えば嘘になるが、それはダビデ像を美しいと感じるようなもんで、そこに欲求を駆り立てるような興味と興奮は欠片も無かった。
 同性へと言えば、素直に駆り立てられる。
 そう、あたしは 同性愛者 と呼ばれた。

 思考から滲み出るその仕草も、会話に含まれる余分な要素も、絡める指先のしなやかさも、触れ合う肌の滑らかさも暖かさも、項から鎖骨にかけての華奢なラインも、脳髄を刺激する甘い薫りも、異性のそれとはまるで違う。
 浸り、酔い痴れる幸せと喜びは、異性に到底求め得られないものなのだから。
 春子はそれを受け入れてくれた数少ない独りだった。
 あたしを骨の髄までの幸福で満たし、愛でるような指が、唇が、あたしの身体に触れていない場所など存在しないと言えるほど、酔い痴れ、毛先の一本まで浸っていた。
 それは単に性的興奮を得る為だけの干渉じゃなくて、春子から滲み出る雰囲気、ブーツを履く時のつま先を打ち付ける変な癖や、食器を洗う時の鼻歌のリズム、メモをとるペン先の滑り、酒臭くてほんのり甘いだぶだぶの着古したパーカーからでさえ、あたしへの至上の幸福と至高の愛が溢れてくる。
 例えそれが嫌な仕草や罵声であっても、春子の一挙手一投足があたしに絶対の幸せを約束している。
 そんな風に、素直に… そう言えたんだ。

 この椅子に座って春子を待つ。
 どれほど幸せで、どれほど苦しかったのか判らない。

「行き止まりなんだよ」
 それはあたしの口癖だった。
「千鶴は可愛いね」
「愛してる」
 どちらの台詞も決まって春子は微笑んで、少し冷たい手があたしを柔らかく抱き締めた。
 例えば「中絶」、例えば「堕胎」。
 どんなに愛しても、行き着く先はやっぱり「行き止まり」だ。
 でもそれは儀式みたいなもんで、春子は全くそれらを気にしなかった。
 彼女にはちゃんと見えていて、背けるでもなく、そうある事が自然なように。
 だからあたしにはそれが熔けるほどの幸せで、気を抜けば瞼から溢れるほど痛い。
 そんなあたしの隙間を埋めて有り余る存在。 それが、春子だ。

「千鶴が香水つけるのなんて…」
 春子のベッドで聞いたそれは何気ない一言で、ほんとに何気ない、聞き漏らせば小川のせせらぎのように自然な唇の震えだった。
 あたしの一挙手一投足は春子への幸せと愛の塊だと自負できる。だからその言葉に不安なんてこれっぽっちも無かった。
 本当に久しぶりに唇を重ねた時、それは巨大なガラスが打ち割られ音をたてて崩れるように、重ねながら、絡ませながら、彼女の顎先に温かい雫が出来ては消えていたからだ。
 それが幸せで感極まったものでない事にくらい、あたしには、
 あたしには ワカリタクなかった
 ワカリタクなかったのに
 ワカリタクないのに…


 ひと月と少し前。
 そう、雨の日だった。
 可愛らしい女みたいな顔した小柄な男が閉店間際にやってきたんだ。
 長い黒髪を後ろで束ね、顔の左側にだけ垂れた癖つきの長い前髪がリボンみたいに揺れていた。
 どこかで見たような。とも思えたけど、それをネタにくっちゃべる程暇じゃないし、いつも通りの客として扱う事にした。
 テーブルに着くなり「メニューはないんですか?」なんていきなり言いやがった。
 前にもそんな客とも呼べない輩は稀に訪れたが、そんな事はどうだっていい。
「飯なら他で食いな」
 そう言ってやったらきょとんと目を丸くして、何を考えてんのかさっぱりだ。
 普通なら怒るか呆れるかして出て行くのに、そんな素振りすら見せやしない。
 こんな顔する奴がいるんだなぁってアホくさくもなった頃、「飲み物はいいですか?」だってっ。
 何だこいつは、って思ったら何だか笑えてきて危うく表情に出そうになった。 声にこそ出さなかったが、ほんとに間抜けな言葉に楽しげな期待を感じてしまって、妙な角度からじわりと攻め込んでくる能天気な意表の突き方には、もしかしたら回転の悪い子なのかとも。
 そしたらきょろきょろハムスターみたいに周りを見回して自分の失敗にどうやら気付いたらしい。そりゃそうだ。ここは飯を食う要素なんて欠片もないんだから。
 何やら期待出来そうだとほくそ笑んだのも束の間、変な堪え方をして攣りそうな腹筋なのに、またこのお馬鹿は間違った。
「梅酒はありますか?」はないだろっ 梅酒ってっ
 もしここがバーでも居酒屋じゃないんだ。もうちょっと他に何かあるだろ。もう腹筋鍛えさせないでくれ、頼むよ。息ができない。
 千切れそうだと思ったから掌を向けて、腹筋が落ち着くまで待たせる。
 ひとしきり笑いを噛み殺し、目尻を拭ったところで窺えば、流石に気を悪くしたのかそっぽを向いて、尖らせた唇はテーブルに頬杖をついている。
 へぇ、こいつは小動物だな。仏頂面もそれなりに可愛らしいじゃない。
「これは私物。バーじゃない」
 カウンターの平たいウイスキー小瓶を指して丁寧に言ってやった。
 これ以上間違われると、それなりに自信のある腹筋も耐えられるかどうか心配だからだ。
 やっぱりバーだと思ってたらしいヤツはそのまま、固まった。
 ツボだった。
 もう笑えて笑えて、明後日あたりは筋肉痛確定だろう。どちらにしても腹筋は千切れそうになる結末だったらしい。諦めておもいっきり大声で笑った。笑った後は喉が痛くて咳き込んで、久々に本気で笑った事を後悔したくらいに。
 ひとしきり笑い終わって落ち着くまで、なんとヤツは待っくれていたらしい。
 律儀な性分なのか? 表情は仏頂面から居心地の悪そうな顔になって、テーブルを見ながらきっと自分の新たな間違いを一生懸命探してるんだろう。それはそれで楽しみではあったが、ちょっとだけ可哀相になってせめてもの情けに正解をすっぱりと。
「ネットカフェ。飯は持込み」
 その言葉に耳まで赤くして、俯き加減の早口は「飲食店だとばかり、すいません」と会釈もそこそこに足音を立てて出て行ったんだ。
 お馬鹿だけどかっわいいなぁ。
 それがアイツの第一印象だった。
 その夜、店に来た春子に千切れそうになった腹筋の訳を、目撃者であるカウンターの隅、小さな鉢で鎮座する白髭サボテンに同意を求めながら、腹を抱えて長々と。
 それが始まりだった。

 それから数日後、同じ時間帯にヤツは懲りずにやってきた。
 文句でも言いに来たのかとも思ったが、その日は暇を持て余してたとこで、一応目的なりと聞いとこうと、悪戯心の上目遣い。
「何の用?」
 赤くして泳がせるあたり、初心で女を知らないんだろうなぁ。こりゃ弄り甲斐がある。
 ワクワクしながら眺めていれば、「入会したいんですけど」とは以外や以外。
 ふむふむ、どうしたものやら。
 あたしの記憶と経験上、男は信用できない生き物だ。トラブルを背負って両手に抱えて。
 ここはお引取り頂くのが賢明だ。だから、台詞はこうだ。
「気に入らない面だ、帰れ」
 完璧だ。さようなら。
 すると目を丸くしたと思えば伏目がちに溜息をついて、テーブルの席に座りだす始末。
 こいつは何考えてんだ? それに感情が表情に出てる事に気が付いてないお馬鹿らしい。「他に行きゃいいだろ」なんて言うのは無意味だと悟った。
 そんな心中など無関係とばかりにマイペースなコイツはさらりと「ここでご飯食べていいですか?」だと… あたしの言葉の意味が理解出来ないんだろうか。
 たぶん、コイツは兵だ。
 「喫茶店じゃない、帰れ」って口に出す前に、ふと悪戯な案を思いついた。
 朝方、春子が嫌がらせに置いて行った胃にもたれそうなホットケーキの菓子パンと缶のミルクセーキをカウンターに並べる。そうしている間にアイツはもうゴソゴソとサンドイッチとコーヒーを取り出していた。
「なあ」
 カウンターの上のホットケーキパンとミルクセーキを指しながら「交換」と悪戯っぽく提案してみる。
 どんな反応をするだろう。この間のあの反応だ。期待は出来ると思ってワクワクしながら待つあたしを、アイツのあからさまな怪訝な視線がカウンターのパンと缶を真剣にじっと見て、また真剣にあたしを見ている。
 何だかこの間すらワクワクしてしまう。
「お願いします」
 ほぉ。少しの間で返された答えは予想とやはり違って意外だ。そう言うのはお人好しかそれが大好きかのどちらかだし、九割は断ると思っていたから。
「本当に?」
 再度尋ねた小動物は男らしく、「二言ありません」と、またもや以外だった。
 その外見とは不釣合いな台詞には、のほほんとしたハムスターの余韻は欠片もなく、不思議な違和感を感じてしまう。
 そんな矢先、「コーヒーの蓋、半分開けちゃいました。それでもいいですか?」と、なんとも掴みどころの難しい奴だ。
 自分の大雑把な性分は多少なりと理解しているし、こちらから提案した以上その旨は伝えるのが礼儀だろう。
「成立」
 ヤツはにっこり微笑んで、コーヒーの蓋を締め直してカウンターのそれらと交換した。
 なんだか不思議だった。勝ったようでも、負けたようでもある。
 期待した反応ではなかったからなのか…まあ、丁度お昼時だ。
 食べ始めたあたしに微笑みながら「いただきます」と続ける素直さは、あたしにはどこかむず痒い。
 サンドイッチはマヨネーズソースの効いたレタスサンド。ブラックコーヒーは飲み口の広い捻って閉める蓋付きの缶で、まだだいぶ温かい。
 美味しい。
 が、アイツを見て噴出しそうになった。
 明らかに眉をしかめて、食べ合わせの悪さを隠そうともしない。いや、隠してるつもりなんだろうが、それがもっと滑稽に映って危うく大掃除する破目になるところだった。
 期待を裏切らないこいつは本当に面白いし、何だろう、少しだけ可愛らしい。
 美味しい所に当たった時は表情と靴先が小刻みに連動していて、小動物のようなその仕草を眺めていると、何とも言えず癒されてしまう。
 食べ終えたヤツに何となく声を掛けたのはきっと疑問からじゃなく、寝入り端の子供を突っつくあれみたいなもんだろう。
「好きなのか?」
 前髪のリボンがあんなに揺れたのは驚いたからか、それでもくすりと笑みを浮かべ「どちらも。でも…食べ合わせは最悪ですね」と苦笑する。
 悪戯心は何処へやらで、何だかとても微笑ましくなる。そんな心持に油断したからだろうか、「なら交えなきゃよかっ―――
 無意識に口を突いた言葉が、慌てたあたしの口元に手を当てさせた。
 それなのに楽しげに微笑むコイツはするりと「お好きなんでしょ? レタスサンドとブラックコーヒー」。そう言う変わり者でお人好しなのに、不思議と腹は立たなかった。
 恥ずかしさや苛立ちは皆無で、どうしてだか‥何となく安らいでしまう。
「有難う御座いました。ご馳走様です」
 言うやビニール袋に纏めたゴミを音も無く持ち、早々と扉へ進んでいる。
 確かに可愛らしいとは思った。だけど、特別な何かがあった訳じゃない。
 ただ本当に、何気なく言葉はするりと出ていた。
「忘れ物」
 73番。真新しいラミネート加工のカードをカウンターに置いて目配せすれば、ヤツの訝しげな視線は少しだけ見開かれる。
 そんな顔されちゃ、あたしが期待してたみたいじゃないか、気に食わない。
 だから腹立たしさは隠さなかった。
「営業時間と注意事項は裏に書いてある通り。質問は?」
 裏面に視線を走らせ、はにかむ兵。
「レタスサンドとブラックコーヒー、次も必要ですか?」
 へぇ、伊達に腹筋マシーンじゃないって事か。精一杯なんだろうジョークを悪気も無く披露するコイツは、やっぱり相当な兵らしい。
 これなら楽しみは残しといてもいいだろう。
「気分次第。他は?」
「ありません」
 満面の笑みに目を背けてしまったのはむず痒いコイツの素直さにだ。
 何だか妙にそれが恥ずかしくて、短く締めくくった。
「またな」
「はい」
 視界の端、弾む声音で軽く会釈するヤツからは、ほのかに甘いさっぱりとした香り。
 扉の軋みがロビーを静寂へと戻した頃、あたしはコーヒーの缶を指で軽く突っついていた。
 そう言えば、誰かと一緒に食事をするなんてここ最近じゃ無かったなぁ。春子も忙しいって言ってたし、何か久しぶりだ。
 それを楽しかったと心中で単語にする事すら避けていたんだと、あたしは気付いてしまった。
 あいつとはやっぱり何処かで会ってる筈だ。思い出す程の拘わりじゃないだろうが… いや、やっぱり気のせいか。
 ホットケーキとミルクセーキ。負い目のような借りのような。あの昼食は思った以上に高くついたらしい。
 サボテンをちらりと、含む安価なブラックコーヒー。
 うん、美味い。
 液晶へ目をやれば、フォークに靴紐を絡め、喜劇王がブーツを美味そうに食っていた。

 その翌日、ホットケーキとミルクセーキの顛末を、鎮座する白髭サボテンと一緒に長々と春子に話したんだ。
 それから暫くして、あたしは人生で何度目か、いつもと違う香水を買った。
 清潔感のあるさっぱりとした甘い香り。
 春子の顎先に雫を見たのはそれからひと月を過ぎない頃だった。
 その日から春子とは肌も唇も重ねていない。それは示し合わせたように。
 だけど今、この瞬間でさえ互いの振る舞いには溢れんばかりの愛が満ちている。
 それはこれからも、何があろうとずっと変わりはしない。
 それから少しして、春子が異性との付き合いを告白したあの時、春子はダビデ像になった。
 そして今日、彼女から聡へのキス。
 この椅子で待つ間の苦しみと痛みを、それらは滔々と麻痺させてゆく。
 ゆっくりと、柔らかく融解させる初心でぬるま湯のアイツの笑みは、解りたくなかったあたしを滲ませては侵食し、深く、深く潜没させてゆく。
 そう‥ あたしは、同性愛者と呼ばれている。

                    ○

「ほら、八番だろ? ‥‥聡」
 幾分棒読みな千鶴さんに急かされながら、カウンターから通路へ押しやられた。
「お願いします」
 くるりと指先で回される鍵束の動きとその音で、彼女の機嫌の良し悪しは何となく分かるようになった。
 たぶん、今日は悪い日だろう。
 さっきの春子さんとのやり取りが原因だろうか。
 膨らませた嬉しさで考えてはみても、非は僕にもありそうで気分を変えてほしかったのと、それを言葉に出せないその息苦しさから嬉しさは萎み、そこから逃れるべく強引に切り出した。
「そう言えば、表のネオン切れてました。心の左側の点だけですけど」
「ん? そう言や昨日春子もそんな事言ってたな」
 ここひと月で言えば饒舌とも言える程の言葉のやり取りでも、真意は何処へやらで何とも落ち着けず、次の語彙を忙しなく積み重ねる。
「それに、表にネットカフェの表示はほしいです」
「お前みたいなのが来れば楽しいだろ?」
 意地悪く微笑んでくれた彼女曰く、この通路の突き当たりに見える手摺りは地下室へと続く急な階段への入り口で、以前は倉庫として使われていたらしい。
 「季節の森」のあまりの人気に酸素カプセル装置は品切れ続出で、その価格は高騰していた程なのに、この技術に無関心だった彼女は装置の導入など微塵も考えていなかったらしい。
 それから数ヶ月経つ間、複数の女性客から装置の設置を来店の度に懇願されて、最後はとうとう根負けしたのだとも聞いている。案外押しに弱いのかもしれない…などと考えてみたりもするけれど、僕だってそんな命知らずじゃない。一応、参考までに。
 発売当初、一時期はかなりセールスに熱が入っていたらしく、「心の蒼」の様な小規模店でさえパンフレットを山にする程メーカーの売り込みが扉を叩いたそうだ。
 営業経験のある僕にはそれを他人事の様に決して聞き流せなかった。営業は本当に辛かったのだ。
 当初全く無関心だった彼女に係れば、営業努力空しくパンフレットはゴミ箱行きの末路を辿り、必要になる頃には情報収集に困る有様なのだから、彼女らしいと言えばそれらしく聞こえるから不思議だ。
 しかし! 救いの神はいつも意外な角度から手を差し伸べるのが世の常なのでしょう。ふらりと現れた、見るからに不幸を背負ったガリガリでしわしわの七十過ぎくらいのおじいちゃん(おじいちゃんの容姿は千鶴さんが特に熱心に説明してくれた)が営業に訪れ、置いて行ったパンフレットの50%OFFのデザインに即決したそうだ。
 その頃、市場は価格競争に突入していて、量産した在庫、特に設置スペースが広く重量の重い初期タイプはかなり売れ残っていたみたいで、即決させる程の割引が実現したのだとはおじいちゃん談の模様。
 「心の蒼」への設置が地下室になったのも、察するに恐らくその重量からだろう。
 おじいちゃんは大手代理店の下請け会社の社長さんで、初期タイプを抱えさせられてあっぷあっぷしていたらしく、涙ながらに感謝されて気持ち悪かったと嫌そうな顔で嬉しそうに話す千鶴さんが印象的だった。けれど、設置もメンテナンスもスムーズで手早かったらしく、そこの所は素直にご満悦のご様子だ。
 この初期タイプはとてもゆったりと座れて、他のネットカフェにも足を運ぶお客さんからも評価は高いらしく、聞けば装置を壁一面に並べて、三段、或いは四段に積み重ね、カプセルホテルのような状態も少なくないらしいのだ。
 よくよく考えてみれば、いつも八番機が空いているのは千鶴さんの計らいからだろうか? それに今日は珍しく「上客だ」とも言ってくれたし‥罠かもしれない…とちょっと真剣に考えてしまう。
 ともあれそんな状態なので、現実はどこも厳しいらしい。千鶴さんもローンとメンテナンス費、それに加えて月々定額の「季節の森」の契約費用八台分は割と大きいらしく、頭を悩ませているらしかった。
 特にメンテナンス費は馬鹿にならないみたいで「募金しろ」なんて冗談めかして言ってくる。そんな時の彼女の言葉はとても女性的で優しく上目遣いで言われれば、その度に背筋に冷たいものを感じずにはいられないのだ。
 けれど「季節の森」の関係もあり、ほぼ毎日通う僕はそれなりに大切にされている、とは思う。…たぶん。
 真っ直ぐで急な階段を降り始めると、少しずつ低下する気温のためか肌寒くなってくる。地下室特有の環境だろうか。
 その突き当たり、鉄製の小ぶりな扉を開けるのはいつも僕の役目だ。
 「面倒臭い」と言っているが、以前は「後ろを歩くな」と言っていたのだから、天邪鬼な彼女の本音はまず出てはこない。この人は根っから素直じゃないのだ。けれどそこが彼女の彼女らしさでもある。
 四角い金属製の扉は、厚みもある重厚な造りで、僕の背丈でも頭が触れそうなくらい低く、一人がやっと通れる大きさだ。
 そんな時千鶴さんは背中を突っついて先を急がせる。その表情は窺い知れないので何とも言えないけれど、もしや、頭をぶつけさせようと? 事実、そんな悪戯を千鶴さんは平気でやってのける。
 きっと僕は彼女の玩具と化しているのは間違いないだろう。
 振り向こうとしてまた突っつかれた。
「急げ」
 その声に悪戯な余韻は欠片も無い。ここは素直に急いでおこう。
 壁も床も天井もコンクリートの打ちっ放しのまま飾り気が何もなく、給排気用のファンが低く静かに唸っている。室内は扉から奥に向かって長細い間取りで、明るめの照明はオレンジ色の暖色。天井は思い切りジャンプすれば頭が当たりそうな高さだから少し圧迫感がある。
 階段と同じくらいの気温はちょっと肌寒く感じるけれど、きっと装置の排出熱を考慮しての温度設定なのだろう。
 空気はかなり澄んでいて、午後の陽だまりのような温かな香りが埃っぽさを全く感じさせないのはとても不思議だ。だから僕はこの香りがとても好きになった。彼女の趣味なのだろうか。
 今日はいつもより饒舌ではあるし、息苦しい雰囲気にもおされて以前からの疑問を口にしてしまった。
「この香り、お好きなんですか?」
 唐突だったせいか、その答えは少し遅れて帰ってきた。
「和ませてくれる」
 背中からの声はいつものぶっきらぼうなものではなく、優しくて、どこか懐かしむような響きがある。
「僕も、好きです」
「ほらっ」
 ぶっきらぼうに放ち、突っ突く微笑みが目に浮かぶようで、この温かな香りがもう少しだけ特別なものになった。
 目の前のマジックミラー加工が施された強化プラスチックのカプセルは横向きに、頭を壁に二列、向かい合わせで並べられた部屋の真ん中が通路になっている。
 装置同士はわりとゆったりと置かれていて熱の篭らない十分なスペースがあり、壁際には装置のものであろう配管や配線がむき出しのまま、太い結束バンドで所々纏めてあるのが見える。
 メンテナンスの素早さはこの辺りから窺えた。
 他の装置はきっと見知らぬ誰かによって利用されているのだろうけれど、マジックミラー越しには確認出来ず、無人のはずの八番機と比べてもその見分けは全くつかない。
 一番奥にある八番機はもう目の前だ。
 八番機が好きなのは、壁際だからに他ならなず、学校の教室で言えば窓際最後尾の席みたいでなんだかとても落ち着くのだ。
 付け加えるとすれば、カウンターから一番遠く、過ごせる時間が長いから、なんて事は口が裂けたって言える訳がない。
 ふと気付けば掃除は行き届いていて、彼女の性格からはこんな状態を維持出来るはずがない。等と勘ぐっていた頭はしっかりと小突かれた。
「あほ」
 呆れ顔のまま、八番機のカプセルハッチをゆっくりと開き、背中を掌で押しつつぶっきらぼうに言い放つ。
「さっさと入れ」
 慌てて「はいっ」と続けるのは後が怖いからで、無駄口は避け、装置用のIDカードを彼女に渡し、靴をカプセル内の足元にある専用の籠に入れてから急いでシートに身を収めた。
 タオル生地にも似た素材の手触りはとても柔らかく、シートは人型に凹みがあり、包み込まれる様に身を納めると、頭が少し高い位置で、腰がほんの少し沈んで、膝が少し持ち上がる体勢になる。
 何度座っても、これはとても気持ちいい。それにかっこいい!
 それから使用中の四肢を保護する為に、頭、肩、二の腕、手首、腰、膝、足首を半輪形の薄い金属板の内側にシートと同素材を張り付けた器具で軽く固定する。脱着はとても簡単だ。
 「自分で出来るからいいです」と、いつも千鶴さんには言うのだけれど、全く取り合ってはもらえない。
「怪我されちゃ迷惑だ」
 そう言いつつ、今日も変わらずの悪戯っぽい笑みにはどうしたって強張ってしまう。
 後が怖いとはこうゆう事で、ジーンズの上からでも足を触られるのがとてもくすぐったくて、特に膝を留める固定具を取り着ける時だ。
「ふふ、痛くしやしないよ」
 その目は僕の表情を観察しながら器具は手探りで留めるのだから、意地悪以外の何者でもない。これだけは簡便してほしい。
 「こうゆうのが好きなんだろ?」なんてからかわれた事も一度や二度じゃないけれど、ベンチで感じた大谷さんにも「男が好きなんじゃろ?」とからかわれもしたし、きっと同じ中身の彼女はそうゆう人なんだと、今はもう諦めている。
 心拍を計る為だろうか、心電図を使う時に張り付けるコード付きの電極に似た物を胸に二箇所張り付けるのだけれど、彼女はこれも毎回楽しみにしているようで、それにも言わずと諦めは通り越していた。
 最初に自分で張り付ければ問題解決なのだけれど、以前自分で張り付けていたら凄く怒られたのだ。精密機器ではあるし、色々と順序があるのかもしれない。それを聞くような愚行はしないけれど、理由は絶対に言わないし、言っても本心でない事は容易に想像できてしまうのだから。
 そんな千鶴さんの手は、いつも少しだけ冷たい。
 Tシャツの下に、お腹の方から手を入れて胸の真ん中に片方張り付ける。もう片方は胸の左側、横の辺りに張り付ける。
 ここで無駄に時間をかけて張り付けるのが彼女のいつもの意地悪らしく、毎回「熱いな」とか「弱いんだろ」なんて好き勝手にされてしまう僕はやっぱり玩具だ。
 敢えて指摘などしてしまえば、次からはもっとねちっこく意地悪される事は馬鹿な僕にだって想像できる。だから、いつもじっと我慢の子なのだ。
 他のお客さんにはどうなのだろう。機会があればそれとなく聞いてみたいものだ。
 いつもはそんな彼女なのに、今日の手探りと張り付ける間は終始無言で、気のせいか触れている時間を少し長くも感じる。それはどこか寂しそうで、胸に当たる冷たさがそう想わせた。
 それらに気が済むと、彼女はパネルを操作してIDカードを差し込んだ後、十秒程で外部設定を完了させた。
「いいぞ。体に異常、違和感はないか?」
 うって変わった管理者側の口調は、装置利用への緊張感をここでいつも高める。
「問題ありません。お願いします」
「よし、よい眠りを」
 いつもの台詞で強化プラスチック製のカプセルハッチを彼女はゆっくりと閉じてくれる。
 と、おもむろにハッチは開き「忘れてた」と面倒くさそうに覆い被さった。
 彼女の顔が僕の顔の左側に沈み込んでいて、表情は全く窺えない。
 面食らって、言葉どころか身動ぎもできず強張らせる僕に、ゆっくりと、密やかに。
「何度もエベレストに登ってる登山家が言ってたんだが、腰を下ろして休んだまま死んでた…なんてのがあるらしい。そんな所からでも帰ってこれるお守りがあるらしいんだが、それが何か解るか?」
 囁く彼女の左手が僕の顔をぐいっと右に傾けて、左頬に左頬をぐりぐりと擦り付けてきた。
 ゆっくりとした深い息遣いが耳元を撫でながら、頬から耳へ、耳から耳の後ろ側の首筋へ。それからまた頬の方へと、少し冷たい頬は撫でるように往復して、ぞくりと体は強張る。と、深く深呼吸するような彼女の温かい息遣いが、離れる頬を優しく撫で抜けた。
 頭が真っ白だった。
 何が起こったのか、どこを見るでもなく、ぼぅっと眺めるように。
「香りだ」
 我に返れば、彼女は柔らかく微笑んでいた。
 その笑顔がとても優しくて、とても綺麗でずっと見ていたくて、彼女の瞳を、ただぼうっと。
「不足か?」
 口元はにやりとつり上り、からかわれていたのだとようやく気付けば顔がどうしようもなく熱い。それにとても腹立たしくもなってきて無視してやった。
 悪戯にしては度を越していると憤慨してはいたけれど、そこはやっぱり千鶴さんだ。そうゆう人なのだと… そう結論が出た頃、彼女のいつもの言葉が届く。
「よい眠りを」
 ゆっくりとハッチは閉じられ、気配はすぐに消えてしまう。
左頬の温もりとあの柔らかで爽やかな香りがカプセル内を優しく包んでいる。
 香り… お守り…
 あんな千鶴さんは初めてで、このお守りと称される彼女の突飛な行動、その答えの出ぬままにぐるぐると、何故か不意に湧き出した寂しさで、胸は切なく感じた事のない痛みに独り囚われている。
 事務的で機械的な音声ガイダンスに寂しさは遮られた。
『コード、00083372450、回線コード確認、システム正常、リンク先、季節の森……リンク確認、認証しました』
 濃密な酸素に包まれたからだろうか、八番機の微かな給排気音すら過敏になった聴覚は意識させる。
 ガイダンスの音声と入れ替わるように森のBGMがステップアップで耳に届く。
 鳥の囀り、小川のせせらぎ、風が葉を揺らすざわめき、目を閉じればカプセルごと深い森の中に居るような錯覚に陥る。
『季節の森へようこそ』
 音声ガイダンスはいつも通り、ゆったりと心地よい。
『あなたの望む夢を想像して下さい』
 機械的ではあるけれど、何とも優しげに響いてくる。
 今日も千鶴さんの夢を見たい。出来れば笑顔の彼女の夢を。
 そんな妄想もつかの間、急激な眩しさと乾きに瞼は視野を奪い、白から黒へ、徹夜続きにやっと眠れるあの気持ちの良さで、何かから途切れるように深く眠りに落ちるのだった。

                    ○

 揚げをほおばる。
 味はあのコンビニのものには程遠く、素揚げに近い食感と薄味はお世辞にも美味しいとは言えなかった。
「おい、そりゃ不味いって事か?」
 心の蒼のあのロビーのテーブルセットに座る千鶴さんは怒りを隠さず、彼女らしさを存分に言い放った。
「感動したんです」
 とは我ながら苦しい言い訳だ。
 ふんっと言葉を続けない彼女はいつもより少しだけ素直にも見えてくる。
「あらあら、ご馳走様だ事。まだ私は食べてもないんだけど、ふふっ」
 意地悪く交互に視線を向けるのはあの春子さんだ。
「でも千鶴が料理なんてねぇ~。私の記憶には無いわ、あははっ」
 本当に楽しそうに春子さんは笑う。
 本当に、とても楽しそうに。
 「あたしだって料理くらいはするっ …得意じゃないだけだ」と語尾に力は無くそっぽを向いた目だけは、僕にこう言っていた。「後で分かってんだろうなっ」
 それは随分と理不尽なのでは… と言葉になど出せはしないけれど「お手柔らかに」と何とか視線で告げるのだった。
 今日のテーブルにはキャンドルまで立てる懲り様で、それ以上に特別な何かを感じずにはいられないけれど、春子さんへの敬意の表れである事は重々承知もしている。
 最近元気の無い春子さんに千鶴さんから夕食の招待をしたのだと、キャンドルを含む準備の最中それとなく聞いていたからだ。
 料理以外の段取りはとてもてきぱきと指示してはこなす千鶴さんだけど、こと料理に関してはとてもスムーズとは言い難かった。
 「うおっ」「くっそ」と跳ねる油に罵声を浴びせつつ格闘する様は、よく噴出さずに見守れたものだと我ながら関心してしまうくらい。そんな彼女にしてみれば、やっぱり特別なのだろう。
「で、春子はどうなんだよ」
 相変わらずそっぽを向いてそんな事を気にしている千鶴さんも、可愛らしくて笑えてしまう。
 春子さんもそうだったらしく、大笑いで千鶴さんの表情を曇らせた後、涙を拭っている。
「うん、ふふっ」
 噴出しそうな春子さんは続ける。
 勿論、千鶴さんはすっごい仏頂面だ。
 そんな彼女に構わず大笑いの春子さんは楽しげにから揚げらしい素揚げに噛りつく。
「私好みで最高よっ あははっ」
「二度と作らないからな!」
 怒り心頭ですっごい仏頂面の一瞥は、春子さんの声を更に大きくさせた。
 多少のとばっちりは覚悟しておこう‥。
 春子さんを夕食に招待した理由は「最近元気が無いから」とだけ聞かされていたけれど、千鶴さんが誰かにこんなに気を使うのは初めての事だ。それほど春子さんは大切な人なのだろうと、少しだけ妬けてしまった。
「私たち肉食だったでしょ? だから、ほんと美味しいよ。聡君もそう言ってるもの、ねぇ?」
 素揚げなから揚げをほおばっていた僕に急に向けられた二人の視線はそれぞれ別の意味があるのだろうけれど、僕に求められている事に変わりはなく、「とても美味しいです」と満面の笑みで答える。
「今更だろっ」との素直じゃない千鶴さんの人差し指は腕組みをしきりに叩いていた。
 頬杖をついてワインを飲み下す春子さんはとても嬉しそうで、何処か懐かしそうに千鶴さんを眺めている。
 千鶴さんもウィスキーに口をつけては鼻息を荒く漏らす。
 春子さんはワイン党、千鶴さんはウィスキー派で、僕の前だけワイングラスとウィスキーグラスの両方が置かれていた。
 お酒の得意でない僕には、注がれたグラス二つからとても危険な香りがするのは‥たぶん気のせいだろう。
「あら、減ってないじゃない」
「ほんと女々しいヤツだな、飲め飲め」
 悪戯の大好きなこの二人の口調は何とも楽しげで、愛想程度にワインに口をつけた後、素あげのから揚げを齧ってからウィスキーにちびりと口をつける。
 楽しげに笑う千鶴さんに目配せする春子さんはきっとろくな事を考えていないだろう。
 それでもこの雰囲気はとても楽しくて、ついつい後を追うように引き込まれていくのだった。


「それで、旦那とはどうなんだ?」
 大げさな手振りで肩まで挙げた両手をひらひらと、春子さんは不満気に落として面倒臭く漏らした。
「どうもこうもないわ。相変わらず無口だけど傍には居てくれるし…まぁね、いつも通りって言えばそうよ」
 優しく響くジャズをBGMにワインをぐびりと飲み下し、深々と吐き出して続ける。
「ほんとに千鶴が羨ましいわ。だってそうでしょぉ? こんなに楽しそうなあなたを見るのなんてほんと久しぶりなんだもん。ねぇ?」
 向けられた視線の返答に困惑していれば、すかさず千鶴さんが割って入った。
「そりゃ楽しいよ。春子と食事ってどれくらいぶりだっけ?」
 ウィスキーグラスに口をつけたまま春子さんを窺うようにちびりちびりと。
 呆れ顔で溜息も小さく、だからか春子さんは楽しげな笑顔で続けた。
「そうねぇ~ ふた月くらいにはなるでしょうね。でも、ほとんど外食ばかりだったから今日はとても新鮮よ。ありがと。ふふっ」
 意味深な視線を交互に投げながら春子さんはとても無邪気に微笑んだ。
 この視線に千鶴さんは呆れ顔でウィスキーを一口。そのやり取りが友人・知人の少ない僕にしてみれば眩しいもので、つい言葉に出してしまった。
「何だか羨ましいです。越してきて間がないので、知人すら少なくて」
 僕の言葉はそんなに変だったのだろうか、二人は互いに見合わせてから息を合わせて笑い出した。
 思いがけない二人の反応にどうしてよいのか分からず、素揚げなから揚げをほおばり、ワインとウィスキーで流し込む。
「ちょっとぉ~ 千鶴、笑い過ぎよっ」
「春子だってっ ふふっ 悪い悪い。お前は気にしなくていいからな。んふっ」
 二人はえらく上機嫌で見合わせながら再度吹き出す始末。
 疎外感は否めないけれど、楽しそうなこの二人に、心持はそれほど悪くなかった。
「そう言えば聡、パスタ作ってなかったか?」
 春子さんの艶やかな瞳の輝きに意欲的な食欲を感じ取れた。
「あ、野菜スティックも忘れてました。一緒に出していいですか?」
「お願い!」
 間髪入れずの返答は春子さん。反応は上場だ。
 会釈で立ち上がる景色はゆらりと、身体は浮かぶように感じる。
「ちょっと千鶴ぅ~ どうやって仕込んだのよっ んふっ」
「こいつが勝手に―――
 言葉は途中で途切れ、ぐらリと目前に床が。
 自動で開くスモーク加工の強化プラスチックカプセルがモーター音を響かせていた。
 まだ倒れ込む衝撃が迫ってきそうで少し落ち着かない。それに、千鶴さんの声が聞えてきそうで、そっと見回してしまった。
 こんな事を言ったら彼女はどんな顔をするだろう。
 苦笑いで体を起こして履いた靴の感触は夢の中と何ら変わらない。
 カプセル内にはまだほんのりと、あの柔らかくて爽やかな香りが漂っていた。
 もちろん、僕の左頬からも。
「おはよう」
 頬をひと撫で、ロビーへとゆるり歩き出した。

                    ○

「おはよう」
 呟いて、確かめながらカプセルからゆっくりと腰を上げた。
 今日観た夢は、見知らぬゴスロリファッション女性にケーキを出せと詰め寄られ、毎度の事ながら千鶴さんに意地悪く笑われる理不尽な内容だった。
 それは酷く現実的で、昨日観た千鶴さんと春子さんとの食事の夢と同じく、酷く妄想めいた内容だった。
 この装置を使い始めて気付いた事は毎回しっかりと記憶に残っていて、夢と言うよりは体験した現実と言っても差支えがない現実感だ。
 その他の酸素カプセル装置は他のメーカーも色々と出してはいるけれど、環境音楽や好みの音楽を聴きながら眠れる程度のサービスがほとんど。だから「季節の森」はとても変わったコンセプトのサービスと技術で、どのメディアもまだ連日に渡り取り上げている。
 「びわの」の酸素カプセルは「季節の森」のシステムネットワークに管理され、音声認識を装備したソフトウェアシステム、それに脈拍や血圧、体温管理は脳内までも網羅する最先端の技術らしい。
 このシステムが何故実現したのかは最新の脳科学分野への貢献と言えば聞こえがいいけれど、要は睡眠時間内の身体の変化を逐一ネットワークでサーバに送信する事で、確かなデータを個人レベルで収集・蓄積する臨床実験のような役割を果たしているらしいからだ。と、知ったかぶりにも程があるネット情報ではあるのだけれど…。
 多くの酸素カプセルの利用料金はやっぱり高めで、毎日続けるとそれはとても支払える金額ではなくなってしまうのに対し、「季節の森」は毎日続けると溜まる蓄積ポイントが、月末にはそれなりの金額の現金にもなる。
 その代わり睡眠中の身体データがどう利用されようと文句を言う事が出来ないのだから、自分の身体の中身を八時間分のデータとして売ると言っても言い過ぎじゃないと思えるし、世界の情勢や日本国内に敷かれた警戒区域などもあって、ハローワークで味わった現実の厳しさにも見え隠れするこのストレス社会を考慮すれば、安眠を求める国民の心理も理解できると言うものだ。
 僕はと言えば、悪友に勧められた事もあるけれど、睡眠不足に困っていたのは間違いの無い事実で、その解消方法の一つとしてほぼ毎日利用している。勿論、毎日利用すれば多少お金にもなるのだから一石二鳥と言う皮算用もあるのだ。
 今のところ事故などは報告されていないし、ネットの書き込みに不安要素を謳うものも確かにあるけれど、快適な睡眠に満足している書き込みが多数を占める現状を考慮すれば、無理せず安全に使えるだろう。とは思っている。
 それに、お金が関わるとなると装置の争奪戦に拍車も掛かり、多少のリスクはあっても続けると言う人も少なくない。
 かく言う僕も失業保険受給者で就職活動中の現在、この装置に助けてもらっているのは弁解の余地もない事実。この「心の蒼」で八番機を利用するのは僕の日課になっているのだ。
 ロビーでは千鶴さんがガタガタと掃除を始めていた。
 僕が「季節の森」を終えて階段を昇ればいつも見えてくる光景だ。
 「心の蒼」の営業時間は、午後九時~翌昼十二時までの十四時間。カウンター後ろの丸い壁掛け時計は十一時時四十八分。後片付けを先に済ませたい彼女は、今、まさにそれに追われている訳だ。
「おぉ。楽しめたか?」
「はい、今日もよく眠れました」
 額の汗を手の甲で撫でる彼女のいつもと変わらない短い挨拶。変わらない返答を返す僕もここに居て、突拍子もない夢などは映画のワンシーンのようで、現実は本当にいつも通りだ。
「なあ、ちょっと手伝わないか?」
 ‥…え?
 面食らって彼女の顔を暫く見入ってしまった。
 お決まりの文句は「ん、またな」でいつも終わりなのだ。
「おい、そんな顔する事無いだろ」
 彼女は腰に手を当て、拭いていたであろう布巾ごとテーブルに手をついて物凄く嫌そうな顔をした。
「そんな顔、してましたか?」
「してるだろ」
 間髪入れずの返答で呆れたように溜息をつき、額に軽く張り付いた数本の前髪ごと無造作に掻き揚げる。
 お世辞抜きに今日の千鶴さんもとても綺麗だ。
「んで、ここ以外の時間は何してんだ?」
 突拍子もなく余韻を吹き飛ばす彼女の質問は、いつも端的過ぎて中間がまるで無い。だから何について聞かれているのか推測しなければならず返答にも時間がかかっていたけれど、最近は慣れたものだ。
「睡眠時間はここでの時間ですし、後は自宅で受けた仕事をやりながらの家事全般と就職活動、くらいです」
 と、思い付く範囲で全てを端的に言えばどれかが当たる作戦。営業の時もこれで何度か救われたのだから、僕の営業力とコミュニケーション能力はその程度。
「そうか…。なら頼みたいんだが」
 伏目がちに口元に手を当てて、いやに歯切れの悪い言葉だ。そんな仕草といつもと違う雰囲気に多少の興味が沸いてしまう。けれど天秤は、問えば降り掛かるであろう面倒臭さと多少の興味をゆらゆらと、そこへ彼女への興味を加えれば傾きは天秤の意味をまるで成さなかった。
「どんな事ですか?」
 僕に椅子を勧めながら向かいの椅子へ神妙に腰を掛けた。
「後々は二十四時間にしたい」
 両肘をテーブルに立て、口元を両手で隠すように真剣な瞳もそう語っている。
 それは‥ここで働けと言う事だろうか? ろくに会話もせず、まだひと月程しか面識の無いこの僕にだ。それにお店だからお金のやり取りだってある。二十四時間ともなれば僕一人でそれらをこなす時間だって少なくないだろう。
 それだけの信用が向けられているのだろうか…。 
 面倒事は御免だけれど、装置でのさっきの夢と昨日の夢がもう少しだけ聞いてみようと僕に囁く。
「勤まりそうですか?」
「だからだ」
 重ねる返答とその瞳は一度も僕から逸らさず見据えたままだ。
 何だかこちらが折れるまで延々と続きそうで、早くこの緊張から逃れたくて仕方なくなる気弱な僕には威圧感とすら感じてしまう。
 脅されてはいないはずなのに、それに近い心境はそれほどの迫力を滲ませる何かがあるのだろうか。それを尋ねる程馬鹿ではないし、他でもない彼女が困っているのは確かだ。それに昨日と今日のあの夢は、この「心の蒼」にしっかりと繋がっていたのだから、そうする事が自然なように感じて、良くも考えず言葉だけがするりと出てしまった。
「僕に出来る事であれば」
「助かる」
 やと解かれた視線からは安堵の深さが窺えて、僕の呼吸はことさら深くはなったけれど、純粋に頼られる事が嬉しかったからでもある。
「そんな顔するな。催促したみたいだろ」
「少しは「募金」出来るチャンスですから」
 仕返しとばかりに微笑む僕に、嫌そうに眉を寄せて悔しそうだ。
「ふんっ 感謝するよ」
 いつかの夢の中、これってデジャヴだ。
 本当にこの人は素直じゃないけれど、知っていれば逆な訳で、素直な彼女の本音なのかもしれない。
 凄く嬉しいだろう事は指先の癖で良く分かる。鍵束をくるりと回すあの仕草と一緒だ。
 あらぬ方を向いてはいても、右手の人差し指が腕組みされた左腕をせわしなく叩く。それが彼女の照れ隠しなのはだいぶ前から気付けてはいたし、そんな仕草を見てしまったら思わず緩みそうで、ぐっと堪えなければならないから少しだけ辛い。
「よし、早速頼む。まずは二階と三階のゴミ集めだ。ほらっ」
 えっ…と、今からですか?? …とはとても言えない。
 当然の如く差し出されたゴミ袋を掴んではみても、既に踵を返してテーブルを拭き始めた彼女に、言質は既に取られているのだ。
「はぃ」
 出来る限り精一杯の笑顔でそう答えた。
 折り目も新しい透明なでっかいビニール袋には、でかでかと「もえるゴミ」と可愛らしい丸文字で描いてある。恐らくこの字は…と邪推するのは止めておこう。
 現実世界へようこそ。
 実感しつつもふと考えてみれば、カプセル装置だけを利用する僕は地下室以外を初めて見る事になる。それはそれで新鮮味を感じられて、少しだけワクワクしてしまった。あくまでも、ほんの少しだけ…。
 とは言え、やっぱり寝起きの足取りは夢の中とは対照的に重く感じる。
 細く、見慣れた階段の上り口は思った通り少し窮屈で、二階に上ると窮屈な通路が一本、照明を抑えた心持ち暗い雰囲気だ。
 突き当たりには階段の上り口、その脇に扉も見える。
 それを遮るように、広く明かりが漏れていた。
 扉の無いでっかい部屋がドンと口を空けているここがどうやらリラックスルームらしい。
 中はとても広く、恐らくは建物いっぱいの間取りのようだ。
天井も壁も真っ白で、壁を埋めるように並べられた本棚には、文庫本やコミックスがずらりと並んでいる。温か味のある明かりはロビー同様少し薄暗く調整されていて、間接照明も程好く効いている。
 壁や天井が白色でも少しも眩しくはなく、これなら本を読むにも最適な環境だろうと少し関心してしまった。
 下ろした視線に映る床は毛足の長い、動物で言えばブチ柄模様の絨毯が敷かれ、一人掛けから三人掛けと、不揃いで種類もバラバラのソファーに同じ物は無いようだ。
 それらはどれも原色に近いカラフルなデザインで、あちらこちらと八方を向くその間隔さえ不規則でバラバラに置かれていた。
 それらに添えられるようにとても小さな数台の机がちょこんと点在し、見渡せば部屋の隅の小机に重ねられたノートパソコンが十台程と、キャスター付きの白くて細かいメッシュ生地を張った目隠しが何枚も並んでいた。
 それらは色んな形で、それをどんな風に使うのかは想像など出来はしないけれど、雰囲気で言うならばお洒落な理髪店の待合室みたいだ。
 なんとも慣れない雰囲気にそろりと部屋に入りかけると、部屋の入り口には丸い葉っぱのでっかい観葉植物がどっしりと構えていて、その脇の壁には下駄箱らしき斜め置き収納が三列、シンプルに取り付けられていた。
 どうやらリラックスルームは土足厳禁なのだろう。
 千鶴さんの言葉からはこの辺りまで推察しなければならないらしいく、この先はとっても長そうだ。
 ともあれやるとなれば早く終わらせてしまおう。商売は、早い・安い・旨いが原則だ。と、元上司の口癖を思い出す。
「よしっ、やるか」
 靴を脱いで部屋の中のゴミ箱を回り、可愛らしい丸文字も微笑ましいビニール袋に手早く集めて回った。
 部屋はとても綺麗に保たれていて、机の上や下、ソファーの座席やその下にもゴミらしきゴミは見当たらない。
 ゴミ箱の中身を集めれば概ね終了のようで、少し気負い過ぎだった。
 通路のスニーカーを履いて突き当たりの脇、上り階段の下になるらしい扉は、お手洗いだった。
 ならば、お手洗いのゴミも忘れずに回収、回収っと。
 それから上った三階の間取りは二階と全く同じで、違うところと言えば、毛足の長い絨毯が牛柄模様に変わり、ソファーの代わりにベッドが複数置かれていた事だ。
 さすが千鶴さん、凡人な僕には意味なんて全く分かりません…。
 三階も二階と同様にとても綺麗に保たれていて、ゴミ箱の中身を纏めるだけで済んでしまった。
 三階のトイレのゴミも纏めて膨らんだ袋をわさわさと、急ぎロビーに降りた僕の目に飛び込んできた光景、千鶴さんが床の隅をモップで磨いていた。
 こんな事を毎日この人がしているなんて誰が想像するだろう。
 可愛らしい燃えるゴミの袋を片手にそんな事を考えていると、容赦のない言葉は降り注いだ。
「ゴミはここっ 次、上の掃除。廊下と階段、トイレもだ。 ほらっ」
 そう言うと雑巾入りの小さなバケツと柄の長い充電式の片手掃除機。それと柄の長い粘着ロールをコロコロさせてくっつけるコロコロを纏めて手渡された。
 何だか理不尽な感情がむくむくと膨らんできたけれど、ふとした疑問がそれを掻き消した。
 コロコロのこれって、ちゃんと商品名があるんだろうか。千鶴さんは知っているのかな?
「これの名前ってあるんですか?」
「はぁ?  ‥コロコロだろ。急げ」
 言われるままに頷きはしたけれど、彼女の口からコロコロなんて言葉を聞くと妙な感じがして、受け取って階段を上る頃には、じわり、じわりと笑いが込み上げてきた。
「急げ」
 階下からの声は大きくも棒読みで、僕の心中など筒抜けとばかりに追い討ちをかけてくる。
 ぞくりとした怖ろしさは拭えないけれど、今は別の意味で恐ろしい。急がねば!
 二つ返事で駆け上がったその勢いのまま、丁寧に手早く掃除をこなしたのだった。

                    ○

 心中は理不尽な何かを感じずにはいられなかったけれど、久々に誰かの何かに関われた事が素直に嬉しくて、それが千鶴さんのお願いともなればべき乗だ。
 以外だったのはあの千鶴さんが掃除をマメにする人だったとは…それにゴミ袋の燃えるごみにしてもそうだし、「コロコロ」にはだいぶやられてしまった。
 「先入観は危険を招く」と元上司も言っていたし、うん‥気を付けよう。
 そんな思いとは真逆な口元は、少しだけそっと緩んでしまった。
 掃除をやっと終わらせてロビーに戻ると千鶴さんの姿は見当たらない。多少の親しみあるこの風景に足りないあの人が、酷く寂しいと思った。
 どこかに出掛けたのだろうか。それとも地下室だろうか。
 彼女の名前を呼ぼうとした矢先、カウンター脇の扉が軋んで、彼女はひょっこりと隙間から顔を出した。
「おぉ、終わったか?」
「はい。どこも綺麗に保たれてて、掃除と言うよりは片付けでした」
「客に厳命してるからな。使えるのは当たり前じゃない」
 テーブルでの脅迫めいたあの笑みを浮かべる彼女は、経営者としての才覚も多分に滲ませている。人とはよく分からないもので、彼女のそうした仕草に意味があるのだと、この時ばかりは素直に感心と納得の頷きを返すのだった。
「下の掃除はやっといたから、今日はこれで終わり。少し酒を飲むんだが、付き合うか?」
 今日は本当に妙な日だ。変わった事が多過ぎて戸惑ってしまうけれど、寝起きの疲れと予想外の労働で少し落ち着きたかったのは僕も同じだった。
「お邪魔でなければ」
 目を細めながら彼女は扉の中へ消えてしまった。
 磨かれた机と椅子は飴色に輝いて見える。今までそんな事になど全く気付けなかったし、思えば店の入り口の扉もそうだった。彼女の拘りなのか趣味なのか、見方を変えれば同じ物でも全く違って見えてくる。それはきっと今日の千鶴さんにも…。
磨かれたカウンター前に掃除道具を纏めて置いた。
 写りそうな椅子に腰掛けて、テーブルをすーっと撫でながら、繰り返される彼女の成果を一人幸せに感じてみる。やおら扉は開かれて、器用なのか合理的なのか、左脇にはウイスキーボトルを挟み、その手にはグラスが二つ。右手には小皿を持って歩み寄る彼女と目が合うと、にやりと意味深な笑みを浮かべた。
「ウイスキーでいいだろ?」
 本当は甘いお酒の方が好みなのだけど、それ程礼儀知らずにはなれないし、伝えるのはまた次の機会にしよう。彼女の楽しげな笑顔はどうやら歓迎してくれているらしいのだから。
「はい」
 小さな皿に盛られた乾き物のナッツを優しく置いて、音も立てずこちらへ滑らせてくれた。
 ベンチで勧められたあの豆の詰め合わせだ。
 笑みを浮かべた彼女からグラスがずいっと差し出され、持てばウイスキーは並々と注がれる。
 思い出す営業の日々…僕が一番辛かったのは、今はなんとか飲めるようになったお酒だけれど、当時は全くの下戸だった事だ。「俺の酒が飲めんのか?」の決まり文句がどれほど僕を苦しめたのかは、思い返すだけで頭痛がしてくる。
 楽しい記憶ばかりを留めておければ誰もが幸せなのに、神と言う存在が居るのなら、そうしなかった訳を完結に二百字以内で文章にまとめてほしいものだ。
「おい、聞いてんのか? バイトの話、細かい事を決めたいんだが」
「あ、えと、はい。時間帯は酸素カプセルの時間以外であればいつでも」
「そうか… 暫くは付いて教えたいし、二十時~三時はどうだ?」
「はい、問題ありません」
「決まり」
 にっこりと微笑んだ彼女は僕のグラスに優しく当てて、満足そうに口に運んだ。
 ウイスキーは少しキツイけれど、香りがとても良くて美味しい。
 一緒に飲む人で味が変わるのかな。そう思える程にウィスキーはとても美味しかった。もしかして高いお酒なのだろうか。もしそうなら申し訳ない、銘柄を覚えておこう。
 ゆっくりと喉に流し込むと焼けるような刺激すら心地良く感じてくる。
 彼女もこんな心持で居てくれるのだろうか。そもそも彼女がこんなに他人と交わる様を想像する事すら出来ないほど普段はとてもそっけない。
 他人に関心を持つような素振りをしないし、そこには拒絶さえ窺える程の近寄り難さを遺憾なく発揮しているのだ。
 それは会員カードにも言えて、カードに氏名の記入欄もなければ入会の登録用紙すら無かったのだから、よくよく考えてみれば僕以上の人嫌いなのかもしれない。それこそ人との関わりを極限まで削ぎ落とすように。
 唯一違ったのは数日前の春子さんとのやり取りくらいだろう。だから僕をバイトに雇ったのにはもっと別な訳がありそうなのだ。
 無粋な質問も詮索もするつもりはないけれど、それが何なのかは彼女の口から聞ける日をゆっくりと待つ事になるだろう。それに、そう言う僕も彼女に負けず劣らず人嫌いだし、トラブル嫌いでもある。だから先にそれを解消しておいた方がお互いの為だろう。
 もしもこの一言で「心の蒼」と離れる事になっても、これだけは譲れない。
 お酒の力も少しだけ借りて覚悟を決めて口火を切った。
「千鶴さん。お給料はいりません、それでもいいですか?」
 彼女の目は本当に訝しげな艶やかさを帯びていて、冗談の通じない鋭さを纏った。
「何企んでんだ」
「僕はネットカフェについてあまり知りませんしやれる事は限られてます。だからお給料が頂けるくらいになれた時に声をかけて下さい。駄目ですか?」
 一息に畳み掛ける返答は、彼女の目をまん丸にして、さっきまでの表情はどこかへ飛んで行ってしまって、理解が追い着いていないみたいだ。
 そんな彼女に笑顔でいたいのだけれど、今はそうもいかない。
 僕が一番避けたいのはお金のやり取りだからだ。
 お金の関わらない人付き合いでさえ難しいこの僕が、お金の面倒事も抱えるなんて考えられもしない。以前彼女が言った「募金しろ」は全くの冗談だったけれど、お給料を頂くバイトの立場であればどうだろう。冗談に冗談で返せはしても、お給料を気持ちよく頂けるとはとても思えない。それに何より、千鶴さんとはビジネスの関係で割り切るような付き合い方をしたくなかったからだ。
 社長と部下ではなく、あくまでも個人的な、プライベートな関係を保ちつつのお手伝いをしたい。人に言わせればそれは無責任だと言われるかもしれないけれど、はなからビジネスと割り切れないのであれば、はなから利益を求めない選択もあるはずだ。
 千鶴さんは僕の目を真剣に睨んでくれた。それからずっと瞬きを忘れたみたいに。
 短く疲れた風に零した彼女は、いかにも不満そうにピスタチオを摘み出した。
 僕もピスタチオを一摘み。互いに難しい顔のまま口に運んで、租借顔を見合わせての根競べは、彼女の負けだった。
「分かったよ」
 それはきっと彼女の優しさで、バイトの話を僕に口にするまでの間、悩ませたであろう計画や段取りを全て飲み込んで僕の我侭を通してくれたのだ。だから僕は少し困った風に笑う。
 彼女はそんな僕を「あほ」とばかりに、ウィスキーを口に運んだ。
 ミックスナッツは何種類もあるけれど、僕はピスタチオが一番好きだ。
 さっきから彼女はピスタチオばかり選んで食べていて、わざとそうしているその仕草は子供のようで、そんな雰囲気の彼女とお酒を飲んでいるなんて、未だに信じられない。
「お前も飲め。給料分は飲み食いしてけ。ふふっ」
 だいぶまわってきたようで首元は赤らみ、目の潤いは濃くなっていて、口元は普段よりも饒舌のようだ。
「はい」
 互いの含み笑いはまだまだ続きそうで、本当に楽しい時間。そんな雰囲気もあってか、越してきて初めて自分の事を人に話してしまった。
 家族構成や子供の頃の事。専門学校時代の馬鹿な友達数人と普段着でスノーボードを楽しんでぐちゃぐちゃに濡れてしまった事。
 その時一人が腕を骨折して、その友人を病院まで往復した友達がスキー場からの帰り道でおかまを掘った事。 それに、印刷会社での仕事や取引先とのトラブルや、そんな日々に出合った不思議な雰囲気の勝気な女の子の話までも、 彼女はそれらを興味深く楽しそうに聞いてくれたのだ。
 例えそれが社交辞令であったとしても今の僕には十分だった。
 ひとしきり話し終えた僕から、今度は遠くを眺めるように少し寂しさを湛えた瞳で、千鶴さんはゆっくりと話し始めた。
「あたしは三人姉妹の末っ子で、勉強よりも運動が得意だった。そんな雰囲気はあるだろ?」
 少しだけ重い頭でゆっくりと頷く。
「そんなだから女友達ばっかで、親父の勧めもあったんだが高校は女子高、大学は女子大だった。そんなだから…どこへ行ってもモテてたなぁ…」
 グラスの中のウイスキーに何を観ているのかは…何となく。
〔昔を懐かしむ時は 今が寂しい時〕
 そう‥誰かがそう言っていた。きっと今はそう言う事なのだろう。
「放ってはおかないでしょうね」
 僕の返答に微笑む彼女は艶っぽさも加わり、凶悪な程に美しい。
「お前は優しいな」
 困った風でもあり、それはきっと何も纏わない自然な笑顔だからだろう。
「あたしがOLやってたって言ったら信じるか? まぁ、やってたんだ。それにセクハラも酷くてな…上司を殴って辞めてやったわけだ」
 彼女のグラスが空きそうで、ボトルからゆっくりと彼女のグラスへ並々と注ぐ。
「ん。それから、貯金叩いて借金して、ここを買い取った」
 ゆらゆらと、眺めるような視線は持ち上げたグラスに注がれたままだ。
「春子とはその頃出会ってな。それから、それからな… 恋に‥落ちた」
 麦茶みたいに一気にグラスの半分を空け、とても深く吐き出すように、肩はじわりと下がっている。
 それを聞いても何故か驚きは無くて、むしろ千鶴さんからそんな話を聞けた事の方が嬉しかったのかもしれない。春子さんには旦那さんが居ると言っていた。それが夫であれ恋人であれ、人生で言うところのパートナーとはその人なのだろう。僕は千鶴さんの何になれるだろう。
 良き友人に? 良き理解者に? 良き仕事のパートナーに? 良き牧師に?
 そっと考えてはみても、やっぱり僕は僕で、彼女は彼女で、他の何者にもなれるはずはない。
 きっと僕はこの瞬間、よく知らない知人から気の許せる友人程度には出世できたのだろうと、場違いにも苦笑いの胸中だった。
「花の色は、移りにけりないたづらに、わが身世にふる、ながめせしまに」
 あの和歌がふと脳裏を過ぎった。
「こんな話でそんな顔するヤツはいない」
 どんな顔をしていたのだろう‥よく分からない。
 けれど彼女は目を細めながらそんな事を言って優しく微笑んでくれている。だから、今はそれだけで十分だと思った。やっぱり僕は僕で、彼女は彼女なのだから。
「千鶴さんは、千鶴さんです。貴女らしいとか、そんな曖昧なものじゃなくて、他の誰でもない‥千鶴さんです」
 返答とも言えない素直な心中の僕に、彼女は告解を終えたからなのだろうか、その瞳の潤いは更に濃くなって、優しい笑みのまま腕を枕にテーブルへと頭を預けた。
 ピスタチオを一つ手に取って放り込むと、潤んだ瞳が美しい前髪越しに僕を見つめて、また微笑んだ。
〔昔を懐かしむ時は 今が寂しい時〕
 そう言った人は誰だっただろうか。
 向けられたその瞳に、どうしても微笑まずにはいられなかった。
 彼女が今、何を観て何を想っているのかを知る術は無いけれど、それはきっと幸せな部類である事だけは、きっと間違いないと思えたからだ。
 それとは別に、普段の彼女からは想像もできない女性らしさもあって、それに胸を擽られるようで、何にとは言えないけれどゆったりと満たされてしまう。
 小皿からクルミを摘んだ時、ぴくりと指先は強張った。
 温かい。
 お酒のせいだろうか、重い頭の僕は触れてようやくそれに気付いた。
 ぼぅっと眺めるような僕に映った彼女の潤んだ瞳はそっと閉じられて、触れた指先がぎこちなく甲を撫でてくる。
 それはまるで、何かを確かめるように。
 クルミは小皿へ微かな音をたて、ぎこちなく這う戸惑う指先はゆっくりと、柔らかに絡まっては解かれていく。
 言葉の無い会話がこんなにも伝わるものなのだと、人付き合いの苦手な僕は自己完結の妙な納得を誰にとなく求めている。
 それはとても不思議で、言葉になど絶対に表現出来ない感情なのだと今更ながら気付いてしまえば、僕の「お日向さん」ぶりもきっと筋金入りに違いないと、自問自答の僕を多少置いてけぼりにしたまま、彼女は僕の手を掴んでひょいっと引いてしてしまった。
 突然の事に硬直してされるがままの頭は真っ白だ。
 戸惑い固まった僕の手は彼女の温かな吐息で撫でられて、その首元へと運ばれながら強張りは更に強くなる。それでも強引な指先は遠慮がちに柔らかな指と絡まり、首元にもう少しだけそっと沈み込んでから彼女の枕になってしまった。
 触れるように絡んだ指先は少しだけ強く握られて、固まっていた強張りはゆっくりと解けてしまう。
 もう一度少しだけ強く握られたのは「ちょっと借りる」とでも言わんばかり。だから僕も少しだけ優しく握り返した。
 「高いですよ」の返答は、きっと彼女の勝手な解釈に変わっているのだろうけれど。
 でもこれはきっと彼女の悪戯ではなくて、栗で言えば鬼皮を割った渋皮のその先にある、ぎっしりと詰まった実のようなものだろう。
 鬼皮の、あのグラスに満たされたウィスキーに観ていたその何かが、渋皮の彼女にこんな仕草をさせるのだから。
 暫くそんな会話が続いた後、彼女の気持ち良さそうで静かな寝息が聞こえてきた。
 大きくもない小さなテーブル。器用に蹲る彼女はふてぶてしくってぶっきらぼうで、見上げていても見下ろしていそうないつもの存在感が嘘みたいに、とても無垢で華奢な少女のようだ。
 湧き上がるそんな感情に浚い損ねたクルミを二つ放り込んで、磨り潰せるであろう限界を延々と探し続けていた。

                    ○

 随分とそうしていたのか腕が痺れてしまって、動かすに動かせない辛さと、そこに居座る柔らかい頬の微笑ましさに鬩ぎ合いながらの苦笑い。と、カウンターの方から小さく震える音がした。彼女の携帯電話だろうか?
 起こすべきかと躊躇する僕を待たずにそれは止んでしまった。仕事の電話であれば大変だ。もう一度コールがあれば今度は起こそう。
 可愛らしい彼女は相変わらずの寝息で幸せそうに、口元をもぐもぐさせている。きっとピスタチオの欠片が口の中に残っているのだろう。
 不意に店のドアノブの微かな金属音に続いて、ゆっくりと扉は小さな軋みを上げた。
 ひょっこりと顔を覗かせたその人に、内側から全身が総毛立った。
 今日の主役とでも言うべき人、春子さんだ。
 彼女は見るや、その表情は僕の逃走本能をこれでもかと刺激してくる。
 起こすべきかと立ち上がりかけた僕に掌を向け、そのままゆっくりと足音を忍ばせて傍らまで歩み寄ると、にんまり交互に視線を移す。仰け反る僕にその顔はずぃっと近づけられて、耳打ちするような密やかな声音は、以前と同様でとても楽しげに届いた。
「兎ちゃんはどっちだろうね?」
 目の前のこの二人の中で、おそらく僕は「兎ちゃん」なんて言われているのだろう。この複雑とも言える心持はどうしたものだろうか。それでも無理やり言葉にすればきっとこうだろう。 
「追いかけられてる方は、たぶん僕です」
 噴出しそうな口元に手を当てて、楽しそうにウインクしてからにんまりと続ける。
「って事にしといてあげて。 んふっ」
 言うや彼女は階段へ足音を忍ばせ、そっと上がってしまった。
 これは何で、僕はどんな顔をしていただろう。きっと強敵を前に震える兎だったに違いないのだけれど、今日の話はそれをどこかへ追い遣るようで、何とも言えないもどかしさでいっぱいになる。ともあれ、この目の前の人をどうしたものだろうか… 掌を向けて「起こすな」とのサインをくれたのは春子さんだけれど、妙に鼓動は高鳴って、気付けば背中はじっとりと汗ばんでいた。
 暫くして廊下の軋みを最小限にと、そろりそろり春子さんは通路を戻ってきた。
 規則的な寝息をたててじっと静かに眠る、起きればぶっきらぼうでふてぶてしい兎の寝顔を優しく見つめながら、また僕に密やかな耳打ちをした。
「撫でてあげて。 凄く、喜ぶから」
 テーブルに蹲るこの人の過去に、春子さんの記憶の中では懐かしめるほどのそれらを重ね合せているのだろう。呆れた風でもあり困った風でもあり、優しげに微笑む彼女はそっと僕を一瞥する。
 きっと僕なんかが想像できない程、胸の内には秘められているであろうその笑顔で。
「蹴られない様に気をつけます」
 自虐的とも言える捨て身のジョークに当てた手で笑いを堪え、「勘弁して」とばかりに一瞥をくれつつも、ひらりと後ろ手に手を振りながら足音を殺して扉の外に消えてしまった。
 高鳴る鼓動は落ち着かず、暫くは何も考える事も出来なくて、もぐもぐと動く兎ちゃんの口元の動きで「撫でてあげて 凄く喜ぶから」と、春子さんのあの笑顔が過ぎった。
 寝顔の可愛らしい凶暴兎の柔らかい髪を、恐る恐るそっと撫でてみる。
 微かに身動ぎする凶暴兎のこの人は、何だか催促しているようにも思えるのだからとても不思議だ。眠っていたってこの人のず太さも筋金入りなのだろう。
「千鶴ぅっ 忘れ物持って帰るからねっ」
 凍りついたお尻が浮くほど息が詰まる。それは千鶴さんも同じだったのか音を立てて起き上がった。
「携帯ちゃんと持っててよ? じゃぁね、兎ちゃんっ んふっ」
 声を響かせ、口の端をにんまりと、扉の隙間から覗いていた頭はすっと隠れてしまった。
 嵐のような人だ、と思った。今度は扉がちゃんと閉まるのを確認してしまったくらい心臓は強く胸を打ち、固まったままの千鶴さんを眺めながら動けないでいた。
 がたりと椅子を立つ千鶴さんも我に返ったのか、「携帯、携帯…」と唱えながらふらふらカウンターの回転椅子へ倒れ込んだ。
 まどろむような雰囲気から一転、妙な気まずさが沸きあがってくる。
 カチカチと聞えるのは携帯の履歴でも確認しているのだろう。
「忘れ物取りに行ったら可愛い兎ちゃんが居たんだけど。二匹も。だと。ははっ ☆まで付けて」
 まだ頭がしっかりしていないのか、ぽつりぽつりと言い聞かせるような口調は不機嫌な態度だけど、どこか嬉しそうに「二羽だよ」と微かに聞こえた。
「蹴らないで下さいね」
 真顔の僕に、その口元はつり上がる。
「いつも、優しいだろ?」
 やっぱり千鶴さんは、千鶴さんだ。彼女らしさへの呆れが気まずさをさらりと一転させた。
「とても」
 降参の意はこれで伝わるだろうか。ついでに嫌そうな苦笑いを添えてみても、短い溜息で一蹴された僕の返答はまるで無視され、何事も無かったように真顔で彼女は続けた。
「気付いてたろ。携帯」
 千鶴さんがそんな風に言うのも、踏み込まれたくない何かがあるのだろう。
 春子さんのあの微笑みが、じわり、じわりと胸を締め付けてくる。
〔昔を懐かしむ時は 今が寂しい時〕
 結局、誰が言ったのかどうしても思い出せない。けれどあの日彼女が最後に口にしたあの和歌が脳裏を過ぎり、共振するそれらは原色を爆ぜながら幾重にも塗り重なる。
 そんな千鶴さんに倣う訳じゃないけれど、あんな風に無視された仕返しを考えてはみても、それを素直な言葉にすれば俯けるほど恥ずかしくて、語尾はどうしたって小さくなってしまう。
「寝顔が、その‥ 可愛くて起こせませんでした…」
 彼女はと窺えば、目を見開いたそのままで固まっていた。
 そんなだから顔なんて見ていられなくて、それはきっと僕も言えた顔じゃなかっただろうけれど。
 ウィスキーの香り漂うロビーにしっかりと響いたのは、いつもの乾いたあの一言だった。
「あほ」

                    ○

 強引にも昨日から「心の蒼」でのバイト生活が始まってしまった。おかげで自宅でのバイトは断らざるをえなくなったけれど、後悔は全くしていない。とは言え、バイトと言っても見習い以下なのでお給料など頂けようはずも無く、その声が掛かるまではしっかりと勉強の日々なのだ。とは僕の我侭なのだけれど。
 最初が肝心と言う事で入れた気合は多少の空回り、店の前に着いたのは三十分も前だった。
 昨日はあんな話を聞いてしまったし、当の春子さんともあんな状態で話すはめになってしまって、多少すっきりしないところもあるにはある。けれど一旦受けたのだからそこはきっちりとこなしたい。
気合を入れ直して飴色のノブを力強く回した。
 いつもの場所でいつもの液晶テレビに視線を落とし、いつものようにそっけない言葉は届く。
「早いな」
 ぶっきらぼうないつもの口調に昨日の気まずさは欠片も感じさせない。それには安堵したのが本でだけれど、それへの寂しさが少しだけあるのも確かだった。
「はい。だいぶ早いですけど、いいですか?」
 顎で軽くカウンターへと促す彼女らしい合図で「入んな」と短く続いた。
 カウンターの中はとても狭くて、あの肘置付き回転座椅子も恐らく一周回すのがやっとだろう。椅子に座る彼女は後ろ手に手招きして、来店客のリストや来店明細の書き込み方、新しいカードや入会に必要な条件、鍵や判子等の備品類の所定の位置などを細かく一度に伝えてきた。
 こんな説明じゃとても覚えられやしない。
「その都度教えて頂け――
「覚えろ」
 そう遮るのだから何とも理不尽な説明で、初っ端から彼女らしさを存分に滲ませてくる。
「何とか頑張ります」
 彼女はもう次の説明を始めていて、僕の言葉など全く届いていないようだ。
 本当に一通りの説明だけで今更の不安は抱えつつも、まずは接客と来店リストへの書き込みを素っ気なく命じられた。
「おぉ、お前の椅子な、自分で持って来い」
 との視線は階段の下、カウンターの突き当たりのあの扉に目配せをしている。
 ここは‥彼女がウィスキーを小脇に、グラスとミックスナッツを持ち出してきたあの部屋だ。湯沸し室みたいなものだろうか。と、動きの止まった背中を痛いくらいに突っつかれた。
 まさに言葉通りの痛みで指示されたとは言え、案内も無くずかずかと踏み入る様で、なんだかもやもやと落ち着かない。
 磨かれた扉は店の扉と同じく飴色に輝いていて、ドアノブも顔こそ映らないけれど使い込まれた職人道具のように艶やかだ。
 扉を開けると、中はとても狭かった。
 フローリングの床は畳を長く繋げた二畳くらいしかなく、階段下の間取りらしく奥に行く程天井は低くなっていて、右手に小さな流し台とコンロが一つ。左手には細長いベッドと、脇に置かれた同じ高さの小さな台には二本の酒瓶。それに緑でまん丸の小さな鉢植えサボテンも置かれていて、室内は地下室のあの香りで満たされていた。
 言ってしまえば何にもない部屋の中は小奇麗に掃除されているし、キッチンもピカピカに磨かれていて料理の痕跡は無く、酒瓶と乱れた毛布以外に生活観は全く感じられない。と言う事は、仮眠室なのだろう。
「早くしろ」
 急かす口調は、きっとじろじろ見るなと言う事だ。
 部屋の突き当たり、天井のかなり低い一番奥にカウンターで千鶴さんがいつも座っている回転椅子がでんと居座っていた。これ以外に椅子は無いのだから、きっとこれの事だろう。
 軽く持ち上げてみると椅子は凄く重たくて、なるほど‥そりゃ僕の初仕事にもなるわけだ。
 やっと持ち上げて少し引きずるようにカウンターの隅に置いた後は少し汗ばんでいて、休憩も兼ねて部屋の中を少しだけ眺めて扉を閉めた。
 振り向くと彼女の顔がくっつきそうな程近く、思わず顔は引き攣り仰け反る僕に、眉根の皺も深い彼女はにやりと、鼻息も荒くゆるりと洩らした。
「女の部屋を覗くのは、良い趣味じゃない」
 どうやら生活観の無いこの部屋は彼女の私室も同様らしい。そこにある筈のまるで無い生活観もそうだし、三階にベッドを置いてみたりと、僕とはかなり違った価値観なのは何となく。それでも入れと言われたのだから少し理不尽ではあるけれど、非礼を詫びるのは僕の方だろう。口元が物語る悪戯気な何かには、遭えて触れずにおこう。
「すみません。女性の部屋は初めてだったので」
 僕の額を突っ突いて「あほ」と付け加えた彼女の悪戯っぽさは何ともやり辛い。
 気を取り直して眺めるカウンター内は、椅子を横並びで置けるはずもなく、鶴の一声は背中合わせの縦並びに納めてしまった。
 いつも彼女が座っていた回転椅子にゆっくりと腰を下ろし、背凭れに体を預けてみる。
 座り心地はとても良い。ふかふかと言うよりは柔らかい皮に包まれて程好く押し返される感覚だ。肘置きに手を置いてその具合を確かめていた時、遠巻きに放たれた面倒くさそうな声音が背後から響いた。
「これからお前が接客。分からない事は聞きな」
「はい。沢山聞いても怒らないで下さいね」
 後ろの回転椅子から漏れる彼女の溜息はとても短く呆れているようで、聞いた後が何とも恐ろしい想像を掻き立てる。
 ともあれ最初が肝心だ。 しっかり頑張ろう。
 と、気負ってはみてもじっとしている時間はとても長く感じるもので、待ち合わせに早く着き過ぎた時みたいに、何とも表現の難しい心持ちで落ち着けない。
 以前の営業経験はあるものの、接客業は全くの未経験なのだ。それに、仕事で「待つ」なんて事を体験するのも初めてで、彼女が液晶テレビで白黒映画を見る理由も今となっては何となく理解できるような気がする。
 暫くして訪れた数人のお客さんは皆女性客ばかりで言葉少なな人が多く、店主の無愛想な対応の賜物なのであろうと容易に想像がついた。それらをこなしていくうちに、何かの事務作業をしているようにも思えて、仕事としての手応えは皆無だった。
 まだ酸素カプセル装置の設定やその他の対応は千鶴さんが全てこなしてくれるので、今日はこの事務作業に慣れる事が僕の仕事のようだ。
 そんな空気を吹き飛ばす猛者は不意にカウンターを訪れた。
「え……誰ですの?」
 それはこっちの台詞だ。と、内心では呟きもしたのだけれど…。
 開口一番失礼な台詞の客は、全身ふりふりのゴスロリファッションに身を包み、腰までの白っぽい長髪はツインテールに纏められ、眉間の深い皺にはぶ厚い牛乳瓶の底みたいな黒縁の丸眼鏡。そこからは小さなガラス玉のような瞳が不審者でも見る怪訝な態度であからさまに匂わせていた。
 背はとても低く、低いカウンターなのに胸元より下が見えていない。高校生なのかな?
 学生の夕方以降の来店は法律で禁じられているのは僕もなんとなく。
「身分証をお願いします」
「はぁ?」
「身分証」
 重ねる催促と営業スマイルに、渋々と免許証を提示した。
 東雲杏奈(しののめあんな)さんと言うらしいこの人は、なんと僕より二つも年上で、大型特殊車両まで乗りこなす訳の分からない人だった。自衛隊にでも行っていたのだろうか。
「そ・れ・でっ 文句ありますの?」
 ここで動揺していては元営業マンとしては失格だ。免許証を手渡しながら笑顔は絶やさずゆっくりと告げる。
「失礼致しました。今日はどういったご利用でしょうか?」
「ねぇ、お姉さまは?」
 間髪入れずの返答は隣の誰かさんとそっくりで、まるで僕の話なんて聞いてやしない。店主に客層は似るのだろうか。だとしたら‥僕も? まさか、ね。でもこの人がそうなのは間違いない。たぶん「お姉さま」とは千鶴さんの事だろう。
 挑戦的で挑発的なその態度はやっぱり誰かさんにとてもよく似ていて、不覚にも少しだけ緩んでしまった。とは言えこんな訳の分からない不思議ちゃんになど負けてなんていられない。
「今日からカウンターを預からせて頂きます、碓氷です。店主は―――
 殺しきれなかったのであろう笑い声が僕の言葉を遮り、不思議ちゃん共々、視線は千鶴さんへと向けられた。
 大笑いの千鶴さんは笑いをそれでも堪えつつ何とか椅子から立ち上がる。
「いや、悪い悪い。あんまり可笑しくてな。ふふっ」
「お姉さまっ」
 つい先の挑戦的な態度は何処へやら、憧れの人に恋する乙女のような早変わりには気持ち悪ささえ感じてしまう。はっきり言って凄く苦手なタイプだ。
「すまん杏奈、今日が初日なんだ」
「それはいいんですの… それよりこの虫は何故そこに座っているのです?」
 無視? いや、虫呼ばわり? しかも不満げに指まで指して…。ちゃんとカウンターを預かるって言ったのに、この人は話なんて全く聞いてやしないのだ。ほんとに何なんだこの人は。
「雇った」
「えぇ?! わたくしがあんなに頼んでも駄目でしたのに! どうしてですの!?」
 カウンターに乗り上がるように千鶴さんに抗議する声のでかさと剣幕に、気付けば背凭れに身を押し付けていた。
「文句あるか?」
 ぐぅ…っと二の句の出ない杏奈さんの体はカウンターからずるりと苦虫を噛み潰す。
「……ありませんわ…」
 いつもの調子で千鶴さんは黙らせてしまう。それには少し同情も禁じ得ない。よく分かりますよ‥それ。
「ん。あたしの代理だから宜しくな。あんま虐めるなよ? ふふっ」
 僕の肩に手を置きながらそう言う千鶴さんに、杏奈さんはゴスロリ人形の如く固まって動かなくなってしまった。
 千鶴さんが声を掛けるまで暫くの間は本当に人形のようで、その後の僕への一瞥は苦虫を噛み潰した先のそれよりも嫌そうなものだった。
「いえ、何でもありませんの。碓氷とやらっ 二番!」
 お姫様然とした使用人への口調も腹立たしいけれど、名前を覚えていながら虫と呼ぶ、それこそ毛虫でも見るような嫌そうで吐き捨てるこの人には、ほんのちょっとだけ殺意を抱いてしまうけれど、勿論、顔になど出せるはずもなく、営業スマイルは決して崩さない。
「はい。ではカードをお願いします」
 御教授頂いた通りに書き込みを済ませて返したカードはハンカチで摘まれて、そのままごしごしとやぶ睨みのまま念入りに拭き始める。
 きっとこの人は潔癖症なのだろう。うん、きっとそうだ。それ以外の理由であればもうちょっとだけ殺意を抱く事になる。だから今後の為にも詮索は控えよう。
 傍らの千鶴さんは腹を抱えて笑いを堪えるのに必死のようで、それについては… もう諦めよう。
「千鶴さん。二番、お願いします」
「ああ。 杏奈、んふっ 急げ」
 笑いを堪えながら鍵束を持った千鶴さんはくるくると、杏奈さんの背中を軽く突っ突いた。
 どうやら今日は上機嫌らしい。
 暫くして帰ってきた千鶴さんは何も言わず、無言で椅子に腰掛けた。
 それから訪れた十二人の女性客とは挨拶を交わす程度で、僕はと言えば事務的な会話を淡々と、達成感の薄いままに目の前の小さな目覚まし時計とにらめっこだ。
 にらめっこと言えば、杏奈さんのあの反応とまではいかないけれど、やっぱり僕の存在は奇異に映っているのか、例外なく不思議そうに眺められてしまった。けれどそれへの対処があるわけでなく、慣れるまでの辛抱だろう。何せここは「女性専用」らしいのだから。
 酸素カプセル装置の利用者は予想通りの人気ぶりで、空いているのは八番機と四番機だけだ。
 弱肉強食とも言えるストレス社会に生きる現代、それなりの癒しになっているのだろうし、お小遣いも稼げてしまうのだし。
 壁掛け時計は午前三時十二分。
 千鶴さんからの反応は全く無い。
 どうしたのだろうか?
 椅子の軋みを極力抑えてそぉっと覗いてみると、開いたまま胸に伏せられた経済についての指南書を手に、細々と静かな寝息をたてていた。
 規則的な息継ぎで僕の手を枕に蹲っていた、あの可愛らしくも小憎らしい兎がいる。まさか 僕が居る事で安心して? いやいや、きっと慣れない僕のお守に疲れが出たのだろう。
 細くしなやかな黒髪を、一度だけそっと撫でてみた。
 五月蝿そうに少しの身動ぎをして、あの時と同じ無意識の催促にも見えてくる。春子さんは今日来店するのだろうか。「あの時」を感じればどうしたって脳裏を彼女が過ぎってしまう。
 春子さんと初対面のこの場所で、「今日は早いんだな」って言っていた。だとすればもう少し遅い時間が普通なのかもしれない。
 何だか起こすのが忍びなくて、もう少しだけそっとしておく事にした。
 十五分程して頭を撫でた時、彼女は目を覚ましてしまった。
「悪い。時間――
 言葉を待たずにもう一度、流れる黒髪に沿ってゆっくりと一撫で。
 彼女の深い深い吐息が僕の手首を撫でている。
「時間、過ぎてるじゃない」
 腕時計に目をやった彼女は眠気からか、少しぼんやりとそんな事をぽつりと言った。
「あんまり気持ち良さそうだったので」
 決して嫌味ではなかったのだけれど、彼女はそう受け取ったのか僕の手を五月蝿そうに払いながら、一息に立ち上がっていつもの一言をきっちりと頂いた。
「あほ」
 苦笑いの僕にいつも通りのぶっきらぼうな台詞が続けて届いた。
「ほら、八番だろ? 聡」
「はい。自分で書きますね」
 鼻から漏れ出す溜息に苦笑いの彼女は困った風に続ける。
「だな」
 八番機での悪戯には少し覚悟が必要かもしれない。
 先の仕返しもあるだろうけれど、宙を舞う鍵束は相変わらずの上機嫌を告げているのだから。

                    ○

 今日も肘置き付き回転椅子は平和だ。
 バイトを始めて数日が経つ頃、当初任されていたカードと来店名簿の記録もすんなりとこなせるようになったし、常連客の皆様とは雑談などを交せるほど。その度に隣りから咳払いが聞えるところからすると、彼女には好ましくない接客なのだろう。その辺りの匙加減もここ数日でなんとなく学んでしまった。
 とは言え、お客さんはもちろん女性客ばかりで無口な人も多く、カタツムリの僕には丁度良くもある。だから慣れてしまえば酸素カプセル装置の設定も含めて、今では帳簿以外のほぼ全てを自然とこなせるようになった。と言うのも、来客が無ければやる事も無いわけで、思ったよりも暇な時間が多いのだ。
 この空き時間を何かに使えないだろうか。少し‥考えてみよう。
 と、扉は軋み、どうやら来客のようだ。
「こんばんは。入会したいんですけど」
 桜色のワンピースにロングヘアーのストレート。手に持つ小さなバッグは光沢のある赤い皮で、ワンポイントがとても印象的な、言うなれば「元気な女の子」だ。
「こんばんは。少々お待ち下さい」
 入会の対応は今日が初めてで、よく分からず千鶴さんを窺うと何やらぶつぶつ本に目を落としている。読んでいるのは、たぶん経営についての本で、読み出すと集中してしまってなかなか気付いてもらえないのは以前にも。確かバイト初日に「入会は新しいカードを渡せばそれでいい」と言っていた‥と思う。
 薄れかけた記憶をなんとか辿れば、未成年は基本的にNG。これはきっと経営時間が夜中を挟むからだろう。後、何があろうと男は例外無くNGで、それ以外であれば問題無いはずだ。
「では会員証をどうぞ。注意事項は、カード裏面の記載通りですが、食事とお飲み物は持ち込みのみでお願い致します」
 ラミネート加工の新しいカードをにっこりと営業スマイルで手渡してから液晶テレビの白黒映画に目を移した。
 背後の変わり者が取り決めたであろう、世の流れから言えば逆行とも言えるこの妙なルールには、「お日向様」の僕でも流石に引っかかる。この人はどうだろうか? などと、興味は白黒洋画以上に悪戯な心持だ。変わり者のあの人もこんな心持だったのだろうか。
 そんなおりに届いた困惑色の薫る控え目な声音。
「あの、住所とかの記入はいいんですか?」
 そりゃ、そうですよね。ですが店主は変わり者なのです。と口に出せもせず、静かに吐息を漏らして振り向いた。
「はい、必要ありません。今から御利用ですか?」
 困惑顔で赤いバッグを胸元に抱えたまま、ワンピースの彼女はカードを見つめ、僕に視線を移してなんとか納得したようだ。
「じゃぁ‥ネットをお願いします」
「はい。では二階と三階をお選び頂けますが、ご希望は御座いますか?」
「えっと…何か違うんですか?」
「二階はソファー、三階はソファーとベッドでお寛ぎ頂けます」
「ベッドですか…」
 女性は振り払ったばかりであろう困惑の色を再度薫らせ、営業スマイルの僕を凝視していた。
 それはそうだ。僕だって未だに理解など出来はしない妙な取り合わせの家具は予想の範疇外だったし、それはきっと「ベッド」って響きが放つ異性への警戒心もあるのだろう。こんな時間帯ではあるし。
 それがどちらであろうと僕にはそれらが面倒で仕方なかった。これまで来店したお客さんはほぼ事務的なやりとりで事足りていたし、常連さんとは本の話程度はするにしても、いつもと違うこんな対応は極端にコミュニケーションを拒絶したくなる。
 背中合わせのあの人がいつも言葉少なでぶっきらぼうなのはこんな心持ちからだろうか。
 崩さない営業スマイルの僕に、苦笑いの返答は興味の方が勝ったらしい。
「変わってますね…じゃあ三階でお願いします」
「はい。では、通路奥の階段で三階へどうぞ。リラックスルーム内は土足厳禁ですので、三階、通路脇の靴箱をご利用ください」
「有難う御座います。 あの…」
 「あの」はやっぱり面倒だ。と同時に浮かんだのは支払い方法の説明がまだだった事。
「すみません、申しそびれてました。料金ですが、裏面記載の通り閉店までご利用頂いても一律千五百円です。お帰りの際のお支払いになりますので、ごゆっくりお寛ぎ下さい」
 やっぱり接客業を甘く見ていた。いつもより長い営業スマイルで頬が少し強張ってきたのだ。と、もじもじと何か言いたげなその仕草は見ていてとてもくすぐったい。もしやお手洗い? とも思ったけれど、何か違う雰囲気で、明らかに言葉を待っている。 …やれやれ。
「何かございますか?」
「あの…、お名前、聞いてもいいですか?」
 控え目な語気にゾクリと、総毛立つ震えは背後の回転椅子の揺れすらぴたりと止めた。
 そこは…きっと踏み込んではならない地雷地帯なのかもしれない。いや、それよりも質問の意図がよく理解できない。名前なんて聞かれるほど親しくもない初対面。まさかこんなタイミングでナンパ? いや…そんな馬鹿な事があるはずはない。そう思えば余計に面倒で、何であろうと極力避けたい内容なのは明らかだ。営業スマイルが引き攣る前に、ここは丁重にお断りするのが無難だろう。
「そう言った事は苦手なもので、申し訳ありません」
「いえっ あの、私っ その‥えっと…」
 一言ごとに泳いだ視線はじわりと滲み、足元へべったりと張り付いてしまった。
 これは何に対して? 僕が悪いのか? いや、それより僕にどうしろと? 何で僕がこんな目に? 疑問ばかりが通過する回送電車の環状線は光の速さで、どうすればいいのか、どう言えばいいのか、快適だった室内はエアコンを効かせ過ぎた酷い空気みたいに眩暈がしてきた。
「バイトだ」
 するりと挟み込まれた言葉に肌が粟立って動けない。語気は普段のそれなのに、彼女の登場はさらに眩暈を加速させた。
 千鶴さんの回転椅子は止まってからぴくりとも動いておらず、僕からは背凭れ、恐らく張り付いていた視線がそちらに向いているのだから、カウンター越しの彼女には背凭れには見えていないはずだ。
「どうして?」
 声音が柔らかく変わった。これは、あぁ‥そう言う事だ。目で語る彼女の語彙の多さは経験済みだけれど、目の前の彼女はそうじゃない。一点を見つめたまま、吐露は弁解のように漏れ始めた。
「いぇ…、噂なんです。このお店の…、その…バイトさんの噂です」
 バイトさん? 噂?
「へぇ~ 噂ねえ」
 間延びした如何にも嬉しそうに突き刺す声音は心底楽しそうで、致命傷を避けたい的としては、耐える事無くもう倒れたいです。
「あのっ 変な噂じゃないです。その… 可愛い‥人がいるって…」
 少しずつ小声になり、恥ずかしそうに俯くこの人はなんだか初心でとても可愛らしかった。
 ぶっきらぼうで暴力兎のあの人にもこんな仕草が出来るのだろうかなどと、不毛な妄想を回転椅子が軋みをあげて掻き消した。
「そう、か。 それで、あんたは?」
「あ‥ そうですね。すみません。千沙(ちさ)って言います。飯塚千沙です」
「だとさ」
 無理やり回転させて捻った背凭れ越しの一瞥はとても嫌そうで、為るほど。聞く前に名乗れと礼儀を欠いていた彼女への特別授業は、僕に引き継げとのお達しなのだ。
 小さく咳払いを挟んでゆっくりと引き継いだ。
「碓氷です。 よろしくお願いします、飯塚千沙さん」
「はぃ。 碓氷さん、よろしくお願いします」
「あたしには聞かないのか?」
「ぁ‥いぇ…」
「ふふっ 冗談だ。 まぁ‥常連になら、な」
 苦笑いの千沙さんを恐らくはにやりと、優しく恐喝するこの人には誰が「授業」をするのだろうか。本当に、この人にこそ必要と言うものだ。
「ひと月です。よね?」
 千沙さんから千鶴さんへと視線は流れる。
「土産があればな」
 と多少素っ気ない言葉は回転椅子を元に戻して千沙さんに向けられた。
 視線は千鶴さんと見合わせているのか、まだ困惑色濃い千沙さんはまるでカツアゲでもされているかのように弱弱しくもぽそりと漏らした。
「私…クッキー得意です」
 背後の背凭れは微かな軋みを上げながら僅かに揺れている。恐らく込み上げてきたのであろう笑いを必死に堪えているのだ。小首を傾げて苦笑いの千沙さんが助けを求める視線の先、僕の方はと言えば‥ だめだ、諦めよう。両手を肩までの降参しかない。
 待ちきれなかったのか、引き継いだのは千鶴さんだった。
「期待してる。って言いたいが、コイツにじゃないのか?」
 堪えながらも意地悪い視線に促された顔はきょとんと、僕を見て真っ赤になった。
「あのっ 失礼します」
会釈もそこそこに、小走りで階段を駆け上がってしまった。
 きっとにやにやと見送っているであろう底意地の悪いこの人に、呆れ漏れた溜息はまだ慣れない営業スマイルもあってか、なんだかどっと疲れてしまった。こんな事があるなんて想像もしていなくて、これだと企業への営業訪問の方が間違いなく楽だろう。
「可愛いんだとさ」
 その声は女性的で、揺れる背もたれ越しの視線が重力を何倍にもする。
「そんな風に言われるのは初めてです」
 嘘ではないし接客業なんてここが初めてなのだ。名詞を渡せば喋る必要も無く、インドアな僕に名前を聞かれるなんて免疫がある筈もない。だからこんなにも疲れてしまったのに‥この人はほんと意地が悪いったらありゃしない。
「ふうぅん」
いつも以上に馬鹿にしたわざとらしい相槌には、少しの苛立ちを込めてしまう。
「言葉通りですっ」
「あたしは―
「お守りがありますから」
 遮った僕の言葉に彼女は続けず、変わりに回転椅子の揺れがぴたりと止まってしまった。
 苛立ちと勢いでするりと滑った恥ずかしさに後悔もしたけれど、わざとらしく言う彼女への憤慨がどちらかと言えば強かった。
 止まった回転椅子からは大きく深い呼吸と小さな吐息が続けて漏れる。
「蹴られて泣くなよ?」
 含み笑いを漏らす回転椅子はゆっくりと小さく揺れ始めた。
 どうやらこのお守りには、恥ずかしさに見合うだけのご利益はあったらしい。
 と、一安心するのも束の間、そんな入会希望者が続けて三人も訪れ、彼女はその度に椅子を軋ませたのだから何とも居心地の悪い日だった。
 それら以外は無難に終え、装置の時間になっても千鶴さんは声を掛けてくれない。確かに逆の立場なら他でやってくれって言いたくなるのも確かだし、何とか良いかわし方を早く覚えないと気疲れで仕事どころではなくなってしまう。
 感じた事の無い疲れが頭を重たくしていた。
「何時までやりますか?」
「兎になれるまで」
 遮るように続くぶっきらぼうなこの言葉は悪戯なのだろうか? そんな事をぽつりとでも言う人ではないのに、今日はきっと無駄話が多くて流儀に反すると苛立っているに違いない。けれど匙加減などと言ってはいられなかったし、僕にどうしろと?
 兎が喜ぶ事と言えば…思い当たるのはあれしかない。
 座ったまま手を伸ばし、後ろ手にそぉっと背もたれを越えて、指先はさらさらとした髪にやっと届いた。
 窺うより先に指先は爪でぐさりと挟まれて、引っ張られて極まった逆間接の痛みで呻く口元をぐっと堪えた。引き戻そうと力を入れるも柔らかい爪はそれを許さず、何故か彼女の首と肩にゆっくりと挟まれてしまった。
 あの和歌の意味とグラスの中に観ていた何か‥との杞憂を追い遣る添えられた凶暴兎のその手は少しだけ冷たくて、それにとても意地悪らしかった。
 「降参です」の言葉より早く、頭上の階段を下りる足音が響く。
引き戻すそれは悪あがきとばかりに開放されず、足音が通路に響いてカウンターが見えるであろうギリギリになってようやく開放された。
「ほら。八番だろ? 聡」
 立ち上がってのすれ違い際、耳元で悪戯っぽくそう言うのだから意地が悪過ぎる。
「はぃ‥ お願いします」
 恨めしくも諦めの溜息を吐きながら彼女の座っていた温かい回転椅子に腰を下ろし、常連客と雑談をする千鶴さんを待ちつつ考えてみても、やっぱり僕はきっと手頃な玩具にされているのだろうと、いつもと変わらない結論に辿り着いてしまった。
 こちらの方も上手にかわす事が出来るようにならなければ…
 思いながら座るこの椅子は温かく、彼女の香りに包まれてとても心地良い。
 なんだか眠たくなってしまう。
 背中越しにはお客さんと雑談する彼女の声が微かに聞えている。
 僕が雑談する時は機嫌を損ねるくせに… ほんと‥理不尽だ…

 頬のくすぐったさに気付けば、柔らかい手が頬をやさしく抓っては放して、抓っては放してを繰り返していた。
「ほら。八番だろ? 聡」
 優しげな千鶴さんはそう言いながら、また抓っては放して遊んでいる。
 それがとても気持ちよくて名残惜しいのだけれど、壁掛け時計は急げと急かしている。
 ゆっくりと起き上がり、ほくそ笑む彼女に届かないとは知りつつも、ぽそりと噛みついてみた。
「温かかったです」
 足早に通路に進み出た僕の背中に帰ってきたのは、やっぱりいつものぶっきらぼうなあの一言だった。
「あほ」
 ちゃんと分かっていますよ。どちらの兎が追われているのかを。
「明日はメンテナンスで店は休み。お前は出勤、分かったか?」
 「はぃ」ちゃんと分かってます。
 浮かべた笑みは営業スマイルのソレではなく、自然で柔らかいものだった。
 上機嫌な鍵束の音、狭い歩幅でゆっくりと歩く足音が二つ、はちぐはぐに響いてはいるけれど、心地良いのはこの人とだから。
 この人の心中はどうなのだろうかと、そんな過りをそっと、そっと振り払うのだった。

                    ○

 「季節の森」は目立ったシステムの更新も無く、快適そのものだ。
 夢の内容はと言えば、しっかりと残る夢の記憶が現実と重なる事も多くなっていて、デジャヴとまでは言えないけれど、辿った記憶が現実なのか夢だったのかを稀にではあるけれど時折曖昧にしてしまう。他の利用者はこんな感覚を持っていないのだろうか。
 それへの興味も大いにあるけれど、夢の中で千鶴さんの逆鱗に触れた事だけは抹消したいと心から願う。
 現実、彼女がそうリアクションしなかったとしても、記憶にはしっかりと残るあの恐ろしい形相と、ねちねちと続いた嫌がらせの数々はとてもじゃないけど御免なのだ。
 まぁそんな記憶ばかりじゃないし、思い返してみても彼女の夢への出演回数はとても多かった。僕の中の千鶴さんはそんなにも大きくなってしまったのだろうかと、自分の事ながら恥かしさに無意味な動きが増えてしまう。
 ふるふると頭を振って靴に足を滑り込ませた。
 酸素カプセル装置はいつも通り自動で扉を開いていたけれど、そんな事を考えていたら少しぼぅっとしていたようで、閉店時間を過ぎてもロビーに姿を現さない馬鹿な僕を彼女はどうやら迎えに来てくれたらしい。
「何ニヤついてんだ」
「いえ、寝起きで少しぼぅっとしてて‥時間オーバーですいません」
 彼女は頭をがしがし掻き、続いた溜息は殊更に深かった。
「ならいい。 仕事だ」
「…はぃ」
 やっぱり僕は彼女の前を歩いていて、やっぱり彼女は背中を突っついていて、やっぱり寝起きの理不尽な労働を快く受けるはめになるのだから、夢の出演皆勤賞でもしょうがない。
 嫌じゃないんだから、全く、しょうがないよ。

第五章

「鉛筆には神様がいるんだよ」
 小学生の頃、同級生の健史くんは何気なくそう言った。
 彼の家は何かの宗教の教会で、詳しくは知らなかったが、言葉の意味するところはおそらく教理なのだろう。と、今ならそう思える。
 咳は急かされているだとか、切り傷や擦り傷には人との縁を大切に等々。彼の言葉はその度あたしを戸惑わせていたのに、健史くんと言われれば「鉛筆には神様がいるんだよ」がいつも過ぎる。
 当時は五月蝿いとも面倒だとも思わなかったからか、不思議とそれらは耳に残っていた。
 単に純粋だったとか、その意味に興味を持てただとか、そんな事は少しも関係なかったし、祖父の葬式を仏であげた家庭のあたしはと言われれば、単なる無宗教論者だ。
 それらはただ耳に残ってるだけ。だたそれだけの事。
 毎日この回転椅子に深く沈んで、細く白煙を吐き出すあたしにとっての時間はきっとその辺りで止まっているんだろう。
 もう‥ こんな歳だというのに…。
 鉛筆は狭いカウンターの下、小さな棚の脇にあるペン立てに二本。
 彼の言う神様は二人も居る事になる。きっと文房具屋は八百万の神で溢れ返っているはずだ。
 全く。そんなに神様が居ればあたしのささやかな願いの一つでも叶えてもらいたいね… そりゃため息だって深くなるに決まってる。もちろん、その原因は地下から上ってこない馬鹿なあいつにだし、他にもゴマンとある。
 言うなれば、どうでもよかった世界の流れがまさにそれだ。
 日本が戦争をするなんて誰が信じただろう。
 ノイズの多い液晶に流れたニューステロップはコマーシャルのようで、何とも安っぽかった。
 ロシアの冷酷な指導者を後ろ盾に、朝鮮の困窮した指導者と支那(中華人民共和国)はアメリカへ、潜水艦からミサイルをぶっ放したんだから、そりゃ喧嘩腰なんて言ってりゃ生ぬるい。
 まあ、あれだけ伸びてたGDPだって支那政府の出した数字ではあるし、信用なんて出来ないんだろうが、それも今じゃ見る影もない。そんなだからアメリカとの共存はメリットが無かっただろうし、本音を言えばロシアを後ろ盾に核開発を進めたかったんだろう。それにウイグル、チベットでの武力統治が世界に与えた影響も少なくない。
 地下資源、特にプルトニウムやレアアースの存在が支那を狂人へと狂わせたんだ。
 住み慣れた土地を、思想を守る為、独立を望んだってだけで、ゴリ押し統治が泥沼の争いを生み、遺恨を残したまま、今この瞬間も続いている。
 第三者視点からは悲劇としか言いようがないが、それを支持した無能な指導者や商戦と称すハゲタカ達につける薬は見つかるわけもなく、それは今日の日本国内だって同じ事だ。
 腰の重い臆病な政府の主要機関には毎日のように爆破予告が届き、規模の大小はあれど爆破された施設は両手両足じゃ足りなくなった。
 それでも右翼過激派なのか左翼帰化人なのかは分からないが、それらは捌け口を求めるように民間施設まで標的にする始末で、平和呆けした日本国民からは他力本願の非難轟々ばかりだ。
 けど、そうは言ってもアメリカ軍の駐屯地でもある日本は間違いなく標的な訳で、自国を攻撃されたとしても自衛維持を謳う今の政府に集中する批判もまた然りだ。
 要はどちらの側から日本を支持するのかと言う事だろう。
 守りたい物、守りたい人に銃口が向けられ刃が振り下ろされるその時、自分がどう判断するのか。
武力なのか、それとも完全なる放棄か…。
 あたし個人で言えば何をされても「どうぞ」なんて言える訳が無く、叩き伏せてでも火の粉を払うのが世の習いだ。と思ってる。
 戦場に、鉄火場に、現在の安穏とした道理が当たり前のように通用すると考える阿呆ばかりが増えた気がする。だから批判ばかりを言いはしても、何かが起こった時には他力本願の勘違い野郎ばっかじゃ右往左往するしかないんだ。
 今にこの国はハゲタカと阿呆に駆逐され、乗っ取られるに違いないとさえ思えてくる。
 軋む回転椅子を後に、吐き出す重い何か。それは仕事に遅れやがるお馬鹿なあいつのせいでもあるんだけど、と考えてはみるが、まあ答えなんて出るもんじゃない。
 今朝のニュースじゃ日本海近隣の一部地域と、沖縄・九州・四国・中国地方には市町村区切りで一時的に警戒網が敷かれたせいで沿岸部の非難区域からは大量の疎開難民が溢れてるらしい。
 政府施設や民間施設での受け入れも進められてるが、その多くは親戚縁者を頼らなければ到底収容は不可能だろうとの報道だ。もう地元であっても対岸の火事とは言ってられやしない。
 まさに「想定外の事態」と言う訳だ。
 食料自給率四割の我が国日本のスーパーやコンビニからは、インスタント食品を皮切りにありとあらゆる消耗品が店頭から一時消えはしたが、現在は品数が減ったものの通常通りの供給が成され、商売人根性の浅ましさと、それに安堵する一般庶民の掛け違いを感じずにはいられない。
 平和呆けした国民は事態を飲み込めず右往左往し、国を動かすじじいとばばあ共も身の保身に明け暮れる日々が続けば、この国内情勢も頷けるってもんだ。
 おかげでこちとら商売上がったりで、生活の中でさえ右翼なりすまし過激派なのか左翼異国人なのか分からない連中のとばっちりに目を光らせなきゃなんなくなった。
 ほんっと迷惑千番だ。
 地下室へ続く階段はひんやりと、あたしを内側から身震いさせる。
 危険な商売と言えばあたしの店だってそうだ。
 いつとばっちりに遭うとも限らない供給への不安から、消耗品の在庫を三倍に増やした結果の大赤字。なんとも頭痛がしてくるよ…全く。
 ここにネットカフェを開いて六年、それからも紆余曲折あったがなんとか平行線でやってこれてたってのに一変してこの有様だ。
 ミサイルをぶち込む指示をした人間のケツにでも盛大にぶち込んでやりゃいいのに、本当に糞馬鹿ばっかだ。
 日本政府はアメリカとの糞の役にも立たない安保を盾に自衛維持を謳っている現状、イラクの時と同じく日本が戦時下にある事を認識できずにいる寝惚けた国民は多い事だろう。
 戦争なんて遠い異国の地で起きるイベントみたいなもんだと、のほほんとした島国根性で大半の国民は口を揃えるだろうが、現状は微妙とは言え戦時下だ。それだけは、間違いのない事実なんだ。
 安穏とした店の空気みたいなこいつは、突然の変化と不安に戸惑う無力なあたしを、たっぷりとした真綿に仕込む無数の針で温かく包んでいる。
「何ニヤついてんだ?」
「いえ、寝起きで少しぼぅっとしてて‥時間オーバーですいません」
 こいつは全くのんきなもんだ… 溜息はまだまだ深くなりそうだ。
「仕事だ」
「……はぃ」
 と、まぁ心配事は色々あるが、こいつを見てれば何となく成るように成るって気がしてくるから不思議だ。それに案外物覚えが速いらしくそれなりに使えてるが、金勘定は苦手なようで、その日の売り上げすら付けようとしない。けどまぁ、他は十分余裕を持ってこなしてくれるようになったからそれだけでも良しとしとこう。
 常連客や新規入会客の覚えも良いようだし、最近は雑談に花を咲かせるあの余裕っぷりだ。それには何かイラつくが釘を刺すのも考えあっての事、あたしの流儀はいつだって間違っちゃいない。
 まぁそれはいいとして、今日はメンテナンス日だ。教える事も山とある。
 この店の休日はカプセル装置導入後から装置のメンテナンス日、毎週頭の月四回に合わせる事にした。それまではあたしが勝手に決めてたから常連にはぶつくさ文句も言われたが、ここ最近はこの流れで落ち着いただろう。
 さぁ、気合を入れてこき使ってやるか。
「ほら、さっさと上がれ」
 背中を突っついてやってようやく動き出すこいつは、時折それを待っている節がある。それを楽しみにしているあたしも言えた義理じゃないんだが、ほんと、お馬鹿ばっかだ。
 嫌そうな顔で背けてジーンズの両ポケットに親指だけ突っ込むのはこいつの照れ隠し。嬉しい時は突っ込んだまま両腕をぴったりと体に添わせるんだから分かり易いってもんじゃない。
 あたしがこんなに興味を持てた異性は初めてで、たぶんカウンターの白髭サボテンみたいなもんだろう。居ないとどっか寂しいような、そんな感じ。だけど今こんな事になってるのは、お馬鹿なこいつが装置で居眠りなんかしてやがったからだ。
 「時間オーバーですいません」なんて本気で思ってないくせに。
 一回きっちりと教育が必要だろうな。って事で、「掃除は任せた」
 カウンターの回転椅子に身を沈めて疲れを存分にアピールしてやる。
「……はぃ」
 顔なんて見なくったってはっきり分かる。たぶん泣きそうな顔して怒り心頭だろう。
 こんな仕打ちをするのは躾けも勿論だが、少しご褒美をやろうと思ってるからだ。飴と鞭ってやつだな。
 何やらゴソゴソしてんのは道具とゴミ袋を持ったんだろう。上る階段の足音もどこか弱弱しい。
 ふつりと笑えてくるが、何もそれが可笑しかった訳じゃない。悪戯な含み笑いはあたし自身へのもので、他人に仕事を任せる自分がとても信じられないからだ。
 あたしは本当に人を信用した事が無い。あの春子にさえ一線は引いていたくらいで、騙された経験も少なくないが、その経験からじゃなく性分として信用出来ないんだ。
 それは何故と問われても説明のしようがないが、ともかくどうしても嫌なんだ。それにあいつは異性でもあるし、あたしの経験と性分じゃ絶対に仕事なんか任せたりはしないのに、何でこの時間にこの椅子に座ってこんな事を考えていられるのか… それが自分への含み笑いの正体に繋がる重要な要素なんだろうが、実のところ良く解っていない。
「くしゃみみたいなもんよ」
 幼い頃、素朴な疑問や解けない問題に頭を抱えた時は、お袋によくそう言われたもんだ。
 ブルース・リーの「考えるな・感じろ」の世界に近いのかもしれないが、それで解決される問題なんてありはしない事になどとうの昔に気付いてはいても、やっぱりお袋の言葉が頭に浮かんでくる。
 それはセンチメンタルなものじゃなくて、何だろう… 巡礼のようなもんだろうか。
 直接神様が助けてくれる訳でもないのに、教会・寺院へと足を運ぶ人間の身勝手で偏った価値観が、そんな曖昧な言葉を求めてしまうんだろう。
 あいつはあたしにとってきっとそんな存在なんだ。
 身勝手で偏った価値観がそう思わせる程、あいつを見ていてあたしは…
―― るさん。千鶴さんっ」
「ん、なんだ?」
「上は終わりました。先に地下室やっちゃっていいですか?」
 当のこいつはすこぶるご機嫌斜めだ。
 まぁ、そりゃそうだろう。寝起きでこの扱いだし、他のヤツならこんな会話すらまず無理だろう。
「助かる」
 上目遣いで優しくそう言ってやればあのさくらんぼ色の耳だ。構わずになんていられなくなる。
そんなあたしも、やっぱり巡礼者なんだろうな。
「今日は装置の座席カバーをそこの籠に回収」
「クリーニングですか?」
 頷くあたしに首を竦めて呆れたのか、籠を持って地下室へ足早に降りて行った。
 そんな光景をもう見慣れたように感じるのもあたしの身勝手な価値観だろう。何とも自分に呆れてしまうが、昔ほどその気分は悪くない。と言うか、むしろ心地良くさえ感じてしまう。
 春子との時間はとても幸せだったし、今でもそう言い切れる。でもそれとはどこか違う幸せが今この瞬間には溢れてるんだ。
 言葉では上手く表現できない微妙で繊細な何かが、確かに。
 だからあたしはそれを、絶対に壊したくない。
 あいつはあたしの悪戯な「香り」をお守りだと言うし、勿論、あたしがそう言ったんだが、それを律儀に引用するあいつ。
 親指を両ポケットに突っ込む照れ隠しも、泣きそうな顔で怒るあいつも、あたしは絶対に壊したくないんだ。
 こうなる事を春子は知っていたんだろうか。どちらかと言えば巡礼者は春子にこそ相応しいのに。
 本当に人と関わる事を心から楽しむアウトドアで開放的な春子の性格は、何も自分への探究心だけが巡礼者ではない事を地でやってのける、豪快で嵐のような人間だからだ。
 お袋の話は春子にはしていない。まして、あたしが巡礼者なんて言葉を言おうもんなら「病院へ行こう」なんて真顔で言いそうだ。
 ふふっ それはそれで笑える。でも、それへの心配からじゃなく、言わずとも繋がれる何かが言葉を必要としなかったからだ。
 たぶん今頃地下室で奮闘しているあいつには言葉にしなけりゃ伝わらないんだろうけど。
 そんな鈍感なあいつは大切な何かをいっぱいに詰め込んでいる。
 あたしには無くて、あたしが無意識に望んでいる、繊細で美しいその何かを。
 踏み鳴らす足音と軋みで息を切らせながら、座席カバーで山盛りの籠でよちよちと通路を進んできた。
へぇ、あいつは結構力持ちらしい。この量なら全部盛ったのかもしれんが、あたしなら三往復しないと到底無理だからちょっとびっくりだ。
「どこに置きますか?」
 掌を向けて意地悪をするあたしは何に期待しているんだろう。
 悪戯心は不意に訪れて、風に捲られて開かれていたページを探すようにあたしの心を誘惑する。それに意味なんてないのに何故かそんな事をしてしまうんだ。
 あぁ、これがスカート捲りをする男の心境なんだろうか。
「あのっ 指が無くなっちゃいそうなんですけどっ」
「悪い。入り口の前でいい」
 置いて待つと言う選択肢は無いらしく、大真面目なあいつはあたしが本当に何かを考えていたと思ってるんだろうな。何とも言えず愛らしいじゃない。
 勿論そんな事は顔にも言葉にも出さないけど。ふふっ
 相当痛かったらしい指を下ろした後、しきりに振って指先をもじもじと女のするように揉んでいる。
 嗚々…なんて可愛いんだろう。やめられない。
「次はロビー。扉もしっかり頼む」
「……はぃ」
 怒りながら喜ぶあいつは本当に可愛いらしい。やめられる訳が無い。
「もう少ししたらメンテナンスの人間が三人来る。二時間くらいで終わるから、その後は買い出しに付き合え」
 モップと布巾を持ちながらその目は点になっている。何がそんな顔をさせるんだろうか。
 ともあれ声を掛けないと動きそうにない程固まってしまった。
「分かったか?」
「あ、はぃ。分かりました」
 何て分かり易い奴だ。どうやら嬉しかったらしい。でもあの顔はないよ。あの顔は。ふふっ
 ロビーを丁寧に掃除するあいつは本当に大真面目で、あたし以上にきっちりとこなしてくれる。常連客が「絨毯ふわふわになりましたね」「ロビーの照明変えました?」なんて言うんだから大したもんだ。
 不意に扉が軋み、招かれざる客ならぬ、弱弱しくも聞き慣れた声がやんわりと響いた。
「ほぉ? 新顔だね。蜷川(にながわ)さんは御在宅かな?」
 声に向き合う聡はきょとんとしている。そりゃそうだ。あたしの苗字が蜷川なんて知らないからな。ふふっ
「社長。今日もよろしく」
「やぁ、調子はどうだい?」
「いつも通り。装置もゴネずに順調そのもの」
「そりゃぁよかった。…それで、この子はいつも通りかぃ?」
「いつも通り。多少ゴネるが、なぁ」
 語尾をしっかりと受け取るあいつは肴にされたのが気に入らないんだろう、すっごい仏頂面だ。こりゃ笑える。
 じじいが声を上げて笑ったもんだから堪え切れず笑えてしまった。
「いやぁ、すまんすまん。沢木コーポレーションの沢木です。よろしくね」
「先週からお店でお世話になっています、碓氷です。宜しくお願いします」
 丁寧に頭を下げるあたり、さすが元営業マンだな。うん、スーツを着てれば完璧だろう。
「これはこれは、ふぅむ…蜷川さんの見る目は確かだ」
 へぇ‥こりゃ驚いた。部下は容赦なく怒り飛ばすのが当たり前だし、他の人間を褒める言葉を初めて聞いた。まして初対面の人間にあの顔はなかなかない。あたしが嬉しいのも変だけど、ここは素直に喜んどこう。
「聡、機材搬入手伝いな」
「はい」
 にっこりと営業スマイルのあいつはちょっと気持ち悪いけど、初対面だし‥まぁしょうがないか。
「ほぉ‥なる程なる程…」
 そう言う沢木のじじいはしわしわなくせにつるつるの顎を撫でて何かを企んでやがる。
 こりゃ、間違いない。
「ふむ。君、仕事を探してたらうちに来ないかぃ?」
 またこのじじいは余計な事を。そしたらこのお馬鹿も何をどう捕えたのか、相変わらずの気持ち悪い営業スマイルで飄々と返した。
「蜷川さんには大きな借金があるんです。返済できるまではとても」
「そうかぃ…。じゃぁ、済めば声を掛けさせてもらってもいいかぃ?」
 その意味の先はあたしに向けられていて、その意味するところは聡への色気もあるんだろうがあたしへの洒落なんだから、このじじい‥始末に困る。
 お前もだ、あほ聡。
「聡、さっさとやんな」
「はい。何から運べばよろしいですか?」
 その言葉に一人大笑いのじじいがあまり憎めなかった。これが年の功と言うものなんだろうか。
「じゃぁ蜷川さん。お言葉に甘えて碓氷君、お借りします」
 無駄にしわを増やされても腹が立つし、勿論ここで負けてなんてられない。
「扱いには十分な注意を」
「ははは。心得てます。では」
 手で軽く返しはしたが、じじいのやつは先週より楽しそうにしてやがる。こりゃ本当に口説きかねないな。心配はないだろうが、後で聡に釘刺しとこう。
 バタバタと汗を光らせロビーを行き来する若い社員二人と聡。一見すれば運動なんて出来そうもないくらい可愛らしいのに、あの籠を持てる力とこのフットワークだ。なかなか大したやつじゃない。
 あのじじいここまで読んでたとは思えないが、やっぱり見る目は確かなんだろう。
「千鶴さん。今日も問題なく終わりそうです」
 軽く汗を滲ませて無駄な報告を楽しげにする大真面目でお馬鹿なこいつを、ここから眺めてりゃ飽きる訳がない。
「ん。終わったら搬出もな」
「はい」
 そう言うあいつは可愛らしくも男の顔で、新しいあいつの一面が口元を少しだけ緩ませた。
 搬出も終わっての帰り際、「メンテナンスが楽しみになりましたよ」なんて、しわしわなくせにつるつるの顎を撫でながら言いやがるじじいは腹立たしかったが、やっぱり憎めなかった。
 それから聡と二人ロビーの掃除を手早く終わらせて、山盛りの籠を持たせて歩いてすぐのクリーニング店へ急いだ。
 遅くなった昼食はハンバーガーをテイクアウトして歩きながら手軽に済ませたが、どうやら聡はポテトが好物らしく、給料はいらないなんて言う無欲なこいつが初めてあたしに催促してきた。もちろん快諾はしたが、子供に強請られてるみたいで母性本能を擽られて微笑ましい。
 その後、電気店とホームセンターを回って、店の近くの大通りにある行き付けの雑貨店の入り口で、聡は大きな紙袋とビニール袋を抱えながらこっそりと隣りのケーキ屋、ゴンザレスの店をチェックしている。そんな素振りに気付かない振りをしたが、何だか女みたいに女々しいやつだ。そんなだからか、雑貨屋に入ると聡は妙な事を言い出した。
「千鶴さん。僕のバイト中だけお茶出しませんか?」
「却下」
 即答が気に食わないらしく、仏頂面は相変わらずだ。
「僕のポケットマネーで賄いますから、お願いしますっ」
 狭い店内で声を大に、いつになく真剣な瞳でついつい折れそうになったが、あたしも意思は固い方だ。面倒事をこれ以上増やされてもたまったもんじゃない。
 感じた視線は店主の村上さんで、「千鶴さん、綺麗になったわね」なんて言われる始末。鈍感なあいつには絶対に気付けない水面下のやり取りは、今日の買出しの回る先々で何度も繰り返されたのだから本当に面倒だった。
 たぶんこいつがうろちょろと子犬のように後を歩き回ったからだろう。それとも以前なら絶対に思わなかったほんわかとした楽しさが不覚にも顔に出ていたんだろうか。何か無性に腹が立ってきた。
「ほらっ カップくらい早く決めろっ」
 そう急かすのもこいつが満面の笑みで狭い店内をうろうろと動き回って気恥ずかしいからだ。
 今日の「飴」はこいつにこんな恥ずかしい動きをさせてしまった。それこそ不覚だ…。
「マグカップでもいいですか?」
 いい加減うんざりしてきて言葉に力も入らなくなる。
「早くしろ」
「千鶴さんのも買いませんか?」
「はぁ? いや、あたしのはいいから―――
「これ可愛いですよ?」
 そう遮って差し出すマグカップは、ピンク地に白色の兎の頭だけが小さくびっしりと並んでいた。遠目からはピンク色のマグカップにしか見えない絵柄だ。
 そりゃ、確かに可愛いらしい‥が、そんな事よりもっ
「いいからっ 早く自分のを決めな」
 そんなやり取りがマグカップを変えて何度か続けば、村上さんは楽しそうに頬杖をついている。とてもじゃないが居づらくてしょうがない…。
 結局聡の持つビニール袋にはピンク地に白の兎のあのカップと、色違いのオレンジ色のカップが仲良く肩を並べていた。それでもまだ店内をうろついているのは、聡の言い出したお茶のサービスをする為のティーセット選びをする為だ。
 どうしても自分が賄うからと譲らず、早く店から出たくもあって渋々合意せざるを得なかった。
 兎を被るお馬鹿なこいつは以外に強情で粘りのある性格らしい。
 「店の雰囲気を決める事にもなるから」と、外で待つと告げたあたしの足を店内へと導くのだから。
 結局シンプルなティーセットを三十、「心の蒼」へ明日届けてもらうよう話はついた。
 退店際に「そりゃ綺麗にもなるわね」なんてあんな顔して言うんだ… 苦笑いで、「借金取りですよ」なんて言わないとやってられやしない。
 あほっ!
 店に戻ると本当に疲れていて、クリーニング店に装置のカバーを取りに行くのも忘れていた。 聡はまだまだ元気そうで、結局装置へのセットまで頼む事になった。
 睡眠不足と買出しで本当に疲れが出てしまって、回転椅子に凭れてついうとうとと、気付けば芳しい香りが鼻を擽っていた。
 生クリームの甘い香りと柑橘の香り、それと‥何かの香辛料だろうか…
 体を起こすと膝の上に何かが落ちた。これは‥聡のジャケット? あいつもなかなか…。
 壁掛け時計は午後八時過ぎを指していた。
「食べましょう」
 見ればロビーのテーブルに小さく盛られたパスタの脇にリゾットが添えられた大き目の丸皿が載っている。
 皿はもう一つ同じものがあって、間にはワインボトルが置かれていた。
「ここにはお酒のグラスしかなくて困りました」
 まだ頭の回らないあたしにそんな事を言ってくる。ワインを空けながら続ける言葉であたしの戸惑いはどこかへ飛んで行ってしまった。
「冷めないうちに、んっっと、早く食べましょう」
 狐に摘まれると言うのはこんな情景からくるんだろうか。見慣れた店内が別世界のようで、返事もそこそこにゆるゆるとテーブルへと辿り着く。
「グラスは今日の戦利品です」
 そう言いながら目の前に置かれたピンクの兎のマグカップに白ワインを注ぎ始める。
 洒落た料理に洒落た酒、ワイングラスはあたしの部屋にもちゃんとある。それなのに、それなのにマグカップっ
 場違いなグラスにあたしは可笑しくてつい噴出してしまった。聞きながら自分のオレンジ兎のマグカップに満足そうにワインを注いでいる。
「外食ばかりじゃ飽きるでしょ? 手作りなので保証はしません」
 そう言いながらにっこりと軽く掲げたマグカップに軽く合わせて少し含み、綻ぶ笑みでそれに答えた。
 内心は外食続きの食生活がバレてるのが少し気恥ずかしかったのもあって、すぐにフォークを手に取る。
 パスタを口に運んだこの瞬間の驚きは生涯忘れないだろう。
 手作りだと言ったその味は食べた事の無い美味しさで、独りのあたしにはとても温かくて、温かすぎて、それはそれは卑怯なくらい染み込んできて、本当に美味いってのはこうゆう事なんだと、今更ながら思い出した。
 こいつの家庭環境は聞いてたし、あたしも小さい頃はこんな食事が当たり前だった筈なのに…。
 忘れてた懐かしさと温かさ、何よりこいつのサプライズが今頃になって視界に陽炎を映してしまう。
今日はあたしがサプライズするはずだったのに。そう言いたくても声にならなくて、あいつを見てちゃんと美味しいって言いたくても唇はもどかしくて、顔も上げられなくて。
 拭っても拭っても目の前は真夏のアスファルトの陽炎みたいにはっきりしなくて、味なんて分からなくなってきて… それなのに、それなのにこいつは咽ぶあたしに何も言わず待っていてくれた。
 寝起きだったし、目もたぶん真っ赤だろう。でも不思議と恥ずかしさはなくて、差し出されたハンカチで鼻もかんでやった。
 それでもこいつは微笑んでやがる。
 どんなやつだよ、本当に。
 それにはちょっとだけ腹が立った。

「美味しいですか?」
「聞くな、恥ずかしい」
 肩を竦めながら、こいつはにっこりと笑ってくれている。
 また溢れそうになるけど、今はちゃんと味わって食べたい。命尽きるその瞬間に、滲むような思い出し笑いをこれでもかってくらい沢山したいから。
 フィットチーネであろうパスタも、とろけるようなリゾットも食べた事の無い味だった。
 香辛料はバジルと檸檬? よく分からない。
 パスタソースの多少だまになって溶けきっていない何かは口に触るけど、甘い香りなのに重たくもなくて、凄くさっぱりと食べられた。
「学校は料理だったのか?」
「いえ、PCです。自炊ですから」
 さらりと言ってのけるのだから相当器用な方なんだろう。こんな味付けを自炊でやられちゃレストランはおまんまの食い上げだよ。でも、ソースのだまはいつものこいつらしくて逆に安心できた。
「本当に美味かった。ありがと」
 白ワインとの相性も良くて、この家でのこんな夕食は初めてだった。春子とだってこんな食事はした事がない。ましてや見慣れたロビーの、この小さなテーブルでなんだから。
「嬉しいです。作った甲斐がありました」
 全く、こいつはどんな奴なのか分からない。聞けば調理器具と食器は自宅から持って来たと言うし、マグカップは流石に狙ってたんだろうけど、このカップを見る度に思い出すんだろうなぁ。まだまだあたしは泣かせてもらえそうな、子供のように無力で無邪気に笑う事ができそうな、そんな予感が胸を撫でるようで瞼に溢れそうだった。
 凄く幸せだ。 やばい、また‥。
 だから今日のメンテナンスや買出しの事をひとしきり話して大笑いした。
 「綺麗になったね」なんて言われた事で余計に笑えて、涙はなんとか誤魔化せそうだ。
 聞けばあのじじいはやっぱり口説いてたらしく、それにはちょっと腹が立ったが、PC専門のこいつは知らない振りですっ呆けてたらしい。案外そっちも器用なのかもしれない。それにこのタイミングで夢にバイト中のあたしがよく出てくると恥ずかしげも無くそう言うんだ。
 バイトが楽しみになったなんて言うこいつが「「季節の森」いいですよ」なんて真顔で勧めるもんだから可笑しく可笑しくて、何だか子供みたいなこいつが微笑ましくも可笑しくて、嬉しくって泣き笑った。
 「気が向いたらな」には、にわか巡礼者のあたしがこっそり顔を出している。
 だから笑ったついでに備え付けのノートPCのメンテナンスを無理矢理押し付けてやった。
 勿論、台詞はこうだ。
「あたしに借金してんだろ?」
 言質はちゃんと取ってある。そんな態度は本当のところ嬉しいに決まってるし、そんな顔したって逃がしてなんてやりはしない。
 「心の蒼」からずっと離れないように、がっちりと。
 あたしがそんな思いでいる事は、気付くまでは秘密にしておこう。
 鈍感なこいつには、この先も、ずっと。

                    ○

 あれからもう二週間が経とうとしていた。
 今までと違ったリズムの毎日はとても新鮮で、僕を凄く楽しませてくれている。
 来店客の中には苦手な人も居るけれど、それは些細な事で、そう考えてしまう程僕の中ではこの時間が大切なものになっていた。
 背中越しの肘置き付き回転椅子は今日も小刻みに軋みながら揺れている。
 一週間と五日前に届いたティーカップセットは思ったよりもかなり活躍していて、店のロビーがカフェとして開放されてからは常にお客さんで埋まっているからだ。
 「席が増えると嬉しい」と言うお客さんも多いのだけれど、千鶴さんは頑として譲らなかった。元々乗り気ではなかったのもあってか、どうやらロビーが賑やかな事が本当にお気に召さないらしく、表にメニューを書いた黒板を置きたいと願い出た時もその瞳は火のようで、二度と口にしてはならない事が無言の約束事になってしまった。
「んと‥コーヒーと紅茶お願いします。後、ダックワーズとデストルクッキーと原ドーナツも」
 そうなのだ。その原因は僕の趣味「お取り寄せ」にも深く関わっていて、甘いもの好きの僕がそんな事をしているのを「女々しい」と素っ気なく言い放ち、来店客とお菓子の雑談などを少しでも長くしようものなら執拗に咳払いが飛んでくるのだ。もう少しだけ協力的であってくれてもいいのだけれど、絶対にカフェへは手を出さないその頑なな姿勢がひどく子供染みていて、今では微笑ましくすらあった。要は、すっごい意地っ張りなのだ。
「はい、お持ち致します」
 千鶴さんの回転椅子は今も重たく軋みを上げている。
 背中合わせで縦並びの配置は今もそのまま、僕がカフェの切り盛りを始めてからは彼女と入れ替わり、狭いこの部屋のコンロでお茶の準備をさせてもらっている。
 「部屋中菓子の匂いで胸焼けする」「菓子だらけで冷蔵庫にビールが入らない」などと、それらが彼女の逆鱗に触れているのだろうとは承知しているのだけれど、他に方法も無いのでなんとか押し切るかたちで現在に至るのだ。お客さんにも喜んでもらいたいけれど、何よりもまず彼女に喜んでもらいたい。そもそもは彼女の笑顔の為のカフェなのだから。
「碓氷、紅茶。ピエールのピスタチオマカロンと吉原殿中」
 毛虫でも見るようなつぶらな瞳は牛乳瓶の底のように丸い黒縁丸眼鏡越しに見下していた。
 僕の最も苦手で、はっきりと言えば多少の殺意を覚えるこの東雲杏奈さんも本当に変わっていて、大型特殊車両も乗りこなすその風貌も、腰まで長いツインテールにゴスロリファッションとくるのだ。それに紅茶と吉原殿中とくれば誰だってそう思うに違いない。
 だからだろうか、吉原殿中は彼女のリクエストで取り寄せたのだけれど、以外によく注文される事に驚いてしまった。
「はぃ。三階でしょうか?」
 最近は板についてきた営業スマイルだけど、どうもこの人の前では少し引き攣ってしまう。
 彼女はと言えば言葉などは全て無視して、もう千鶴さんと話し始めてしまった。
 僕の存在なんて全く気にしちゃいないのだ。ほんのりと湧き上がるこの些細な殺意をどう処理すべきか…もしも聖人君子の僕が居るのならどこか遠くに捨ててきて欲しいものだ。とは言え、初めてカフェでお茶をしている杏奈さんを見たらそんな考えも吹き飛んでしまった。
 それはそれは少女のように満面の笑みを浮かべ、うっとりと紅茶を楽しむ彼女はとても憎めたものじゃない。でも僕の視線に気付くとあの藪睨みの目つきで、本当に訳の分からない憎み切れない人なのだ。
「聡、二階にコーヒー二つ、原ドーナツ三つ、猫ラベルチョコ二つ」
「はい」
 何で彼女がそんな事を言うのかと言えば、各階へのサービスの為に無線のインターフォンを購入してくれて、上の階の注文はカフェ唯一の仕事として彼女が手を貸してくれているのだ。
 僕の特製ブレンド紅茶も「美味い」なんて言ってくれたし、指をしきりに動かしながら、どうやら拘りのあるらしいコーヒー豆を嫌そうな顔で押し付けてもくれて、わざわざ手挽きの豆挽きまで用意してくれたのだから、当初は一緒に楽しめそうでワクワクしていたのに…。
 だからそう言う意味では凄く嬉しいのだけれど、もう少しにこやかであってくれても‥とは、きっと欲張り過ぎなのだろう。
 機械が苦手なのか説明書を広げただけで投げ渡し、後は僕に丸投げだったインターフォンを使わず、杏奈さんがわざわざ降りて来るのは千鶴さんとの会話の為だろう。だから人には長所と短所があるのだと、そう思う事にした。
 それでもその度にあの視線に晒されるのは癪に障るけれど、頬に手を添えお茶を楽しむ彼女を想像すれば、百歩譲ってではあるにしろそれも悪くないなと思えてもくる。
 こうして運ぶコーヒーと紅茶、それにお菓子達をとても嬉しそうに喜んでくれるお客さんがいて、紅茶にピスタチオマカロンと吉原殿中なる変わった組み合わせを嬉しそうに三階へ運ぶ杏奈さんもいる。それにこれから運ぶコーヒー二つと原ドーナツ三つ、それと猫ラベルチョコ二つを受け取るお客さんの笑顔を想うだけで、料理を彼女に「美味しい」と言ってもらえた時のように、共有できる嬉しさと楽しさを感じずにはいられない。
 足音も軽く運び終えて回転椅子に身を沈めた僕に、千鶴さんは突然切り出した。
「一人でも大丈夫か?」
 ぶっきらぼうに放たれた背中越しの言葉の意味するところはつまり‥カフェとネットを僕一人でやれるかと言う事だろう。
「だいぶ慣れてきました。もう少しすれば大丈夫です」
 読みかけの「いちご同盟」に目を落とし、続きに目を走らせていた耳に届いたのは妙な言葉だった。
「ん。それで‥だな…」
 こんな歯切れの悪い言葉を聞くのはこれで二度目だ。
 一度目はこのバイトへの誘いの時だったのだからとても気になる。もしやカフェへの文句だろうか。
「そこ‥狭いだろ」
 狭い? どう言う事だろう… テーブル? この場合は‥ソコなのだからおそらく回転椅子の事だろう。けれどそんな歯切れの悪い言葉になる筈も無く、困惑しつつも取り合えず椅子から腰を上げた。
「椅子ですか?」
「あぁ。狭ければずらしていい」
 確かにキッチンへの出入りを窮屈だとは感じていたけれど、椅子の配置だってそれ以上に窮屈だ。取り敢えず背凭れ同士が当たるぎりぎりまで寄せて座りかけた僕に、ぶっきらぼうな小声が低く響いた。
「もう少し」
 小声でそう言う彼女が望んでいる事にようやく気付けて、それがとても信じられない気持ちのまま口元だけは綻んでしまった。
「はぃ」
 キッチンを使うようになってからは少しずつ距離が近くなって、もう背凭れはくっ付きそうな距離なのに、これ以上くっ付けろと言われれば互いの背凭れを回して寄せる他無いのだから、彼女にしてみればあの歯切れの悪さになるのだろう。
 このところ僕への不満から多少ぎこちなくなっていたやり取りへの譲歩と言えば聞こえはいいのだろうか。要は仲直りがしたいのだ。
 お客さんの目も気になるけれど、僕の回転椅子がロビーに向くくらい思い切って寄せたのだった。
 満足気な彼女の吐息が聞えてはいても、何事も無かったように腰をゆっくりと椅子へ沈める。
 彼女の提案通りの新しい配置は想った通りとても窮屈で、僕だけがお客さんの方を向くようなかたちに収まって不公平にも思えてきた。
 背凭れをぴったりとくっつけた状態から、背凭れの厚みと手の平一枚分くらい近づけただけなのに、少し右を向けば液晶の白黒映画に目を落とす彼女の横顔がすぐ傍に見えて、何だかとても恥ずかしい。だから少しだけ後悔もしていた。
 ロビーは満員で、常に人目に晒されているこの肘置き付きの回転椅子は、考えてみればとても居心地の悪い場所なのに何故か凄く落ち着けているのに気が付いて、自分の呆れる変化に口元はじわりと緩んでしまう。
 視線を感じれば千鶴さんはじっと僕を見ていて、ふっ っと鼻で笑うその仕草は見透かされたようで、恥ずかしさから目を落とした「いちご同盟」の続きを多少慌てて探してみる。と、頭にゆっくりと重みが掛かった。
 枕にそうするように重なりはゆっくりと擦り合わされ、ここが最良とばかり、深い深呼吸にも似た吐息が一つ。
 重なりはそのままに、小さく回転椅子が揺れ始めた。
 揺れは僕の椅子もゆっくりと揺らしていて、何だかとても心地良い。
 眠ってしまえたら本当に幸せなのにな。何せあのお守りがすぐ傍で鼻をずっと擽っているのだから。
「あの‥よろしいかしら」
 声は僕に向けられたもので、きっとカフェのお客さんだろう。
 不満気な溜息が隣りから聞えてきたけれど、重なりはぐっと押し戻された。
「行って来い」には少し乱暴だけど、それはそれで彼女らしい。
「はい、参ります」
 声の主は今日初めて来店してくれた七十過ぎのおばあちゃん。シンプルで清貧と言う言葉が相応しい、少しふくよかで優しげに僕を眺めているその耳には、首から下げられた細い蔓の老眼鏡と補聴器が見えた。
「母に紅茶をお願いできますか?」
 娘さんであろうその人は、優し気に微笑むおばあちゃんと一緒に初めての来店だ。ポニーテールに大きな紫色の蝶の髪留めがよく映える、とても綺麗な人だった。
「はい。お持ち致します」
 空いたカップを下げる僕を、テーブルの二人はにこやかに見送ってくれてとても気分が良い。その内面から滲み出るやさしい暖かさがそう思わせるのだろう。幸せだ。

「お待たせ致しました」
 シンプルなティーカップにダックワーズを添えて。
「こちらは…?」
 おばあちゃんは添えられたダックワーズを眺めながらきょとんと言葉を向けてきた。
 口に人差し指を当てる所作で「ごゆっくり」と告げる僕に、にっこりと微笑んでくれて、隣りの娘さんも軽い会釈に笑顔を添えてくれた。
 一礼で回転椅子に戻ろうと踵を返す直前、おばあちゃんのゆっくりとした声が掛かった。
「貴方はおいくつでいらっしゃるの?」
「二十六になります」
「あら… お若いとは思っていたけれど、もう少しお兄様だったみたいね」
 ちょっとびっくりしつつも微笑みながら、非礼をやんわりと匂わせるあたりは、その長い人生経験を感じさせる上品な言い回しだ。
「若輩に違いありません」
 そう微笑むとおばあちゃんは優しく笑い出してしまった。
 呆気にとられた僕に、小さく手招きをして顔を近づけるや、「ごめんなさいね。亡くなった主人にそっくりだと思ったら、同じ事を言うものだから」と小声で告げ、ちらりと千鶴さんに視線を移してゆっくりと続けた。
「貴方が魅力的なのも頷けるわ。大切になさってね」
 懐かしそうに微笑むとそう言って目を細めるのだ。
 照れ臭くてむず痒かったけれど、ちょっとしたサプライズのつもりがサプライズされたようで、不本意ではあったけれどそれはそれでとても嬉しかった。
「はい」
 二人はとても楽しそうに微笑んでいた。
 にっこりと一礼を添えてから回転椅子へ腰を下ろした時、耳元で千鶴さんが変な事をぽつりと漏らした。
「お前の背伸びもたまには肴になるんだな」
 魚? 背伸び? よく分からない。
 僕のそんな顔を困ったように笑ってから殊更ゆっくりと続けた。
「お前は話の種。あのばあちゃんはお前の背伸びした態度が可笑しかったんだ」
 あ… そう気付いたら凄く恥ずかしくなってきて、開いた「いちご同盟」に目を走らせても内容は全く頭に入らなかった。そんな僕をにやにやと虐めるこの人を大事にしろだなんて、あのおばあちゃんも本当に意地が悪い。でも、それは表面的な事で心持はとても気持ちの良いものだった。また足を運んでもらう頃には、もう少し踵も地に着けておきたい。
 不意に重みが頭に擦りあわされて、意地悪な声音が耳に届く。
「大事にしろよ?」
 重なりからは声が直接頭に響いてきて、心の深くまで木霊する。とは想っても意地悪く言うこの人に素直な返事をするのが何だか癪で、せめてもの仕返しは少し強引に。
「ピンクの兎ちゃんですからね」
 言いながらカウンターに置かれたマグカップを指差す頭はこつんと当てられたけれど、それからまたゆっくりと重なって「あほ」と心に深く響くいつもの一言を頂戴したのだった。
 「いちご同盟」はいつ読み終えられるだろうか。文面に目を走らせる僕の脳裏はピンクの兎ちゃんがあちらこちらで跳ね回っている。
 二人して小さく揺れる肘置き付きの回転椅子に、軋む響きは欠片もなかった。

                    ○

 何故か今日は憂鬱で仕方ない。
 こうして重なりを感じながら過ごせる日々も、もうあと僅かだから? あたしはそれを感傷的にも嘆いているんだろうか。それともこれから増えるであろう過剰な労働を嘆いているんだろうか。はたまた先の見えない運営に店の未来を嘆いているんだろうか…。
 あの酸素カプセル装置は思った程の利益はなく、当初見積もった返済計画も余裕を失ってきてる。何故そんなモノに手を出したのか…面倒事は心底嫌なのに未だよく解っていない。これが世に言う時代の流れと言うもんだろうか。
 ゆるり、ゆるりと小さく揺らすもう一つの背凭れからは、鼻から抜ける微笑と溜息にも似た息遣いが時折漣のように聞えてくる。あたしはそれをどうしても壊したくなくて、こいつの顔を見られずにいた。
 これじゃまるで恋する乙女だ。もし十五のあたしならどう感じただろうかなんて、そんな自分を愚かにも笑う事がここ最近の暇潰しになるなんて、少し前のあたしなら失笑ものだろう。きっとこいつが読んでる「いちご同盟」のせいだ。うん、きっとそうに違いない。
 あたしはずうっと昔にそれを読んでいて、不覚にも涙した事はお袋とのほろ苦い思い出なんだが、それを今頃引っ張り出してくるこいつはいったいどうゆう奴なのか。あたしの興味を無意識に刺激するんだから、お袋なら「くしゃみみたいなもの」って言うんだろうな。
 それにしても、こいつはのほほんとした羊のようで時には兎みたいに強請るお馬鹿でお人よしの筈なのに、ここ二週間程の動きには感嘆の二文字が頭を過る。けど、そんな事は絶対に言ってやりはしないとこが味噌なんだが、それ程に心底あたしを楽しませ、この「心の蒼」に柔らかく優しい風を吹かせてくれている。
 それに、目を見張るのは何もそこばかりじゃない。今日はあの馴染みの雑貨店からカップが届いて二週間。たったそれだけの期間でこの売り上げは本当に凄い。いや、凄すぎる。
 どうせあいつが言い出した事だし、すぐに飽きるだろうと思ってたのにこんな結果になるなんて… あたしは経営者に向いていないのかもしれない。これだけ本を読み漁り、成功者の手記も数多く読破したこのあたしよりも、「いちご同盟」を読むこいつの方が現実には利益を上げているんだから。
自信を無くすよ‥全く。
 この事実を素直に認めるにはプライドが邪魔してしまうが、それが気にもならないくらいこの数字は凄いもんだ。でもそれをこいつには絶対教えられない。勿論、あたしの立つ瀬が無くなるのも確かだし、天狗になられても迷惑千万。と、それもあるけど、この商売は水物に変わりないからだ。
 いつ何が起きてもいいように、予防線は何重にだって張っておくもの。何も知らないこいつにも、もちろん知ってるこのあたしにも。
 そりゃぁ、意気消沈のそんな顔よりも、満面の笑みで喜ぶあの顔をあたしは見ていたい。 だから当初は出資を考えていたのに、こいつは本当に自分のポケットマネーで賄っていて、あたしは一銭も出資なんてしていない。揃えてやった物と言えば、趣味の豆と豆挽きとインターホンくらいだが、そんなものは微々たるもので、それとなく話を振れば事も無げに「「季節の森」の利益でお釣りがきます」なんて言うんだ。そんなに儲かるのか? とても信じられない。「いちご同盟」のこいつなのに。
 そんな事をこないだ春子に愚痴ってやったらそりゃ大笑いされて、「千鶴は贅沢なのよ」なんて素っ気なくされてしまった。そればかりか「兎ちゃんはどっちだろうね?」なんてからかうんだからもう好きにしてくれって感じだ。こっちは真剣に悩んでんのに、全く。
何だか腹が立つからあんまり考えないようにしよう。
ともあれ、豆挽きもインターホンも活躍してるし、当面は安心して見てられそうだ。
 それにしても、一昨日のあのばあちゃんは確かに的を射ていて、あいつのどこか無理に背伸びした振る舞いの意味が何故なのかは、あたしもよく分かってる。あたしとの年齢差が原因で、あの年頃のあたしもそんな振る舞いをしていたもんだと苦笑いも微笑ましい。
 少なからずあたしに興味を持ってくれていて、合わせる為の背伸びなんだから、擽ったくもなるってもんだ。だからもう少しだけ、それをゆっくりと眺めていよう。
「聡。三階に紅茶とダックワーズ」
「はい」
 こんなやり取りも来月からはもう出来なくなる。まだあいつには伝えてないが、来月からフルタイム営業に切替えるつもりだ。だから余計後ろ髪を引かれるんだろうな。春子も「その方がいいんじゃない? 千鶴の傷も浅くて済むし」なんて嫌味を言うんだから。
 あたしはあいつに何を望んでるんだろう。何を期待してるんだろう。
 あいつは何を期待してるんだろう。あたしはあいつに何をしてやれるだろうか… きっと春子にはそれが分かっててあんな事を言うんだろうな。
 あたしはただ、今のこの充実した幸せを壊したくないだけ。だからあいつの望みが何なのか…あたしはまだそれを、やっぱり解りたくない。
「今日も盛況です。でも、少し落ち着けそうです」
 言いながら回転椅子に深く沈めて、読みかけの「いちご同盟」を開くこいつの頭は、すぐにあたしの頭と優しく重なる。それが当たり前のように感じるんだから、そりゃ寂しくも感じるはずだし、腹立たしくもなってくる。だからぶっきらぼうにこう言うんだ。
「明日はメンテナンス。買出し、付き合えよ」
 重なりはゆっくりと擦りあわされ、「快く」の合意にあたしも答える。
 春子以外の他人とこんな会話が出来るなんて自分でも信じられない。ずぅっと昔の無垢なあたしにさえ、こんな会話は出来なかったはずなのに。
 あたしの砂の城は、こうして三度触れても崩れる事は無いらしい。触れれば崩れそうな砂の城は、眺めれば幸せをくれるけど、波に浚われるのを誰もが知っているから美しいんだ。
 波打ち際のその時までは、もう少しだけ…
「お姉さま?」
「ん? ああ、杏奈か」
 気付けば哀しげに窺う子猫が覗き込んでいた。
「泣きそうなお顔ですわよ?」
「そんな訳ない」
 ふふっ そんな筈はないよ。確かに少し胸は痛いけど、こんなにも満たされてるんだから。
「なら…いいんですの」
「それで、今日は何を頼んだんだ?」
 杏奈のこの格好にもプライベートにも詮索した事は一度だって無い。だからあたしは杏奈の事を何も知らない。何故かあたしに尻尾を振るのが楽しいらしく、可愛い服があっただの、ネイルが乗らないだのと、そんなどうでもいい話を少し楽しみに聞くのがいつもの事だ。
「ピエールのピスタチオマカロンと猫ラベルチョコですの。 もちろん、紅茶は外せませんわ。 ふふっ」
「あいつに感謝しろよ?」
 言うやもぉそりゃ吐瀉物でも見下ろすような杏奈があたしはとても面白いし、そんな視線の先のあいつはもっと面白い。愛らし過ぎてやめられやしない。
「お姉さまは…何でわたくしでは駄目でしたの?」
 急にそんな事を聞かれても返答に困ってしまうが…しいて言うなら‥
「たまたま居たのがこいつだ」
 杏奈に睨まれながらお茶の準備するあいつは、ふふっ そっぽ向いてやがる。ほんと、可愛らしいじゃない。
「お姉さま… 綺麗になりましたものね」
 厚いレンズの黒縁丸眼鏡越しに、困ったような視線が向けられていた。
「いつも、だろうが」
「そぅ…ですわねっ」
 微笑む杏奈はカウンターに乗り上がるようにずぃっと顔を近づけてそう言うのだから、こいつもこいつで困ったやつだ。
「ほら。無駄話は嫌いだ」
 廊下へと目配せするといつものしゅんとした子猫が聡から丸盆のお茶セットを受け取れば一瞬で輝く子猫ちゃん。それを楽しそうに見送るあいつの横顔はここ最近で一番の笑顔だろう。そして、それはずぅっと昔に還らせてくれるような幸せをあたしに滲ませてくれるんだ。
 うん。あたしは凄く幸せだ。
「聡。コーヒー」
 にっこりと微笑んであたしのピンクのカップを背凭れ越しに取りながら「いつも綺麗ですよ」なんて言いやがった。それは杏奈の「泣きそうな顔ですわよ?」に気を使ってなのか、杏奈を使って悪戯した事への腹いせなのか。まぁ、どちらにしてもお馬鹿でお人良しには変わりない。
「あほ」
 嬉しそうな溜息が優しく遠ざかる。
 こいつはあたしをこんなにも幸せにしてくれる。でもそれはこいつの優しさで、どの人間に対してもそう。あのばあちゃんの紅茶に添えたあの菓子のように、それがあたしにだけの特別なものじゃないって事を、あたしはちゃんと気付いている。
 あいつはいつだってお馬鹿でお人好しなんだから。
「どうぞ」
 差し出されたカップにはミルクの泡で下手糞な兎が描いてあった。
 歪んだ小さなハートマークが二つ。
 ほら。本当にお馬鹿でお人好しだ。
 こんな事しちゃ飲めないだろが。 お馬鹿。
 傍らで続きに目を走らせるこいつを、重なりから感じながらの一口。不味い訳が無い。そりゃぁ…あたしの豆だもの。 ふふっ
 そう思ったら「あほ」なんて無意識に言ってしまう。もちろん、満足気な深い吐息を待ちながら。
 嗚々…幸せだ。
 と、水を差す時計の針が恨めしい。
 重なりを押して続きなんて読ませてやるもんか。
「ほら、八番だろ? 聡」
 読めば最後にこいつは絶対泣くだろう。そんな泣き顔でさえあたしはどうしても見たくない。
 重なりはゆっくりと撫でるように優しく返されて、もう少しだけ後ろ髪を引かれてしまう。
 「はぃ。お願いします」
 鍵束をゆっくりと手に取って、いつもより強く背中を突っついてやった。

                    ○

 この時間からは回転椅子に腰を下ろすのが億劫になる。
 酸素カプセルなんて止めちまえばいいのに。…とは言えないよ。言える訳がない。
 あんまり続けて酸素カプセルで寝るもんだから皮肉を言えば、「楽しいですよ。ある程度は稼げますし」なんてあっけらかんと言ってのける。
 そんな風に言われちゃ興味も湧くってもんで、今度誘われたら、で考えてみよう。
 ロビーのカフェは十一時までだし、この時間からはお茶の食器は客に運ばせるようにしている。「飲み食い出来るのは当たり前じゃない」の文句でばっちり解決だ。それにフルタイムになればカウンターから離れずに済むし、うん、完璧。
 洗い物は少しの時だけあたしがやってやる事にした。「多いと腹が立つ」って言えば、あいつは満面の笑みで「ありがとうございます」だから、こんな楽しみを逃してたまるかって。
「あら、随分楽しそうね」
「ああ。やっと開放されたからな」
「素直になんなさいよっ」
 いつの間に現れたのか、春子はにやにやといつものようにカードを差し出した。
「あたしはいっつも素直だよ」
「彼の前では特にね。 ふふっ」
 いやに突っかかる。睨んでやったらウインクしやがって…ほんと腹が立つ。でも、否定のできないあたしはせめてもの皮肉で答えるしかない。
「あたしには贅沢だよ」
 ふんっとばかりに、大きな溜息は春子の怒った時の癖だった。
「全くっ どこのお姫様よ。恋に恋するなんて流行らないわ、今時」
「あいつはっ …砂の城なんだ」
「そう。じゃぁフルタイムにするの?」
「うん。来月から」
 名簿に書き込みながら短く言えば、素っ気ない春子の背中はカウンターに預けられた。
「そんなにきついの?」
「余裕。って言いたいけど、まぁ、いつも通り」
「じゃぁこのままでいいでしょ」
 言葉が出なくて溜息なんてついてしまった。
「傷は浅い方があたしの為なんだろ? ふふっ」
 春子の短い大きな溜息が「お馬鹿」って言ってるのはよく分かってる。
「そんなんじゃぁ、彼、可哀相な事になるわね」
 溜息は殊更に大きかった。
 春子のこんな溜息を聞いたのは‥確か春子が男と付き合いだす少し前だったかな。
「あいつの優しさはあたしだけのもんじゃない」
「あんた… 本気で言ってる?」
「その方が傷は浅くて済むん―――
 振り向いた春子に言い終わらぬうちに、びっくりした春子を見て、あたしは自分が泣いている事に気付いてしまった。
 春子の前だからだろうか、疲れが出たのだろうか。やり場の無い怒りとも悲しみともつかない感情が関を切って溢れ出した。
 一度崩壊してしまえばもう止めようが無かった。
 奥歯はガタガタと、口を塞ぎ、震える指で拭っても拭っても駄目だった。もうそれすら億劫で、何でこんなに辛いのか解らなくなって、ただただ苦しくてどうしようもない。
「今日は乾燥してるから、  しょぉがないわねぇ」
 カウンターに背中を預けながら、あたしの治まるのを何も言わず待ってくれていた。

                    ○

「砂の城は千鶴なんだよ? 自覚なさいよ」
 低めのカウンターに頬杖を付きながら春子はそっと話し出した。
「浚われるのが怖くて、千鶴の事だから「解りたくない」なんて考えてるんでしょ」
 まだ少しだけ止まらない流れを拭いながら頷くのがやっとだった。
「甘えたいんでしょ?」
 やっぱりまだ頷くのがやっとだった。
「私はそんな貴女が好きだけど、彼がそうとは限らないわよ?」
 「あいつはそんなやつじゃない」と首を振るので精一杯。
「なら、素直になんなさいよ」
 指で額を突っつかれて、それでも返す言葉が無くって。じわり、じわりとまた溢れそうになる。
 無言の告解は彼女への懺悔のようにも感じていたから。
「臆病な千鶴は変わらないわね。あんまり待たせてると‥ほんとに浚われちゃうんだから」
「…いやだ」
「お馬鹿。 ふふっ」
 だからなんとか治まったその目で無理矢理睨んでやった。格好なんて、つくはずもないのに。
「相談料」
 そう言うといつものようにカードにキスしながら通路へさっさと行ってしまった。
 何だかまだ落ち着かない。あいつがここに居なくて本当に良かった。あいつの泣き顔なんて絶対に見たくないし、あたしのこんな顔なんて絶対に見せられやしない。
「そうそう。 酷い顔よ。それと、利子が付くからね。覚悟しといてっ ふふっ」
 にやりと寂し気に笑っていた。
「分かってる」
 そう返すのが精一杯だった。
 困ったように笑う寂しげな春子。やり場の無い自分への怒りなのか何なのか…。
 顔を流しながら、それでもあいつの事ばかり考えてしまって。何度も、何度も泣けてきた。
 水なのか涙なのか分からなくて。
 解らなくてもいい なんて思えなくて。

 やっと落ち着いたのは閉店時間際だった。
 サングラスで隠してたのにバレバレで、帰り際の客には変に心配されるし、春子にはまた「酷い顔よ」って笑われた。それがまた聞えてきそうで、急いで軽く化粧を直してから、シンクに埋まる大量の洗い物に手を付けた。
 鏡のあたしはやっぱり酷い顔だった。
 泡だらけの手で、こんな顔であいつに何て言えばいいんだろう。きっとその前に突拍子も無い事をあいつは言うに決まってる。
 考えるだけで泣きそうになるあたしは、本当に「巡礼者」そのものだ。
 解りたくないあたしはもう居ない。解ってしまえば後戻りも出来ない。
 「前進とよべるようなもの」
 そんな言葉をどこかで読んだのを思い出していた。
 無人のロビーに地下室の扉を響かせてもうすぐあいつが帰ってくる。
愛らしくて、お人好しで、あたし以上にお馬鹿なあいつ。
 こんなあたしを、あいつは受け入れてくれるだろうか。
 そんなあたしを、あたしはようやく受け入れる事が出来そうだった。

                    ○

 のんびりとした昼下がりの駅前大通、初夏の薫る空気は清清しい。
 それなのに僕はパンパンに膨れた紙袋とビニール袋を両手首に下げ、両手には大きめの段ボール箱を二つも抱えていた。
「碓氷っ 遅いですわっ!」
 聴き慣れもしたこの罵声と共に、何故か今日はこんな事になっている。
 両腕をぶんぶんと子供みたいに大股で歩くこの人に、素直な返答などは煙を掻くが如くに届くはずもなく、それでも愛想程度に反応しておかなければきっと後が面倒になる。などと考える僕はいつも通りだ。
「次はどちらへ?」
 「もう勘弁して下さい」と滲ませる心情も全くの無視。僕の水面は微塵も揺れる事はなく、むしろ涼風香る清清しさでいっぱいだ。
千鶴さんなら背中を突っついてくれるのに…。
 歩幅も大きくずんずんと進む杏奈さんは今日もいつものファッションスタイルで、後ろをついて歩く僕を公衆の視線は射るようだ。それは杏奈さんの格好からか、はたまた抱える大量の荷物になのかは…おそらく前者が妥当だろう。
 到底理解なんてできないけれど、前を歩くあの人は真昼間からこんな格好でうろつける兵らしい。
 と、軽い衝撃で段ボール箱が押し返された。
 ぶつけてしまった?
 人通りの少なくはない駅前大通りだ。中身はトイレットペーパーと千鶴さん用の細かな発泡スチロールボールが入ったクッションでとても軽いのだけれど、視界確保はとても難しかった。
「すみません」
 慌てて体を捻って確認すれば、つんのめったようにうつ伏せに倒れた杏奈さん。
 あれ? 何で?
 上半身を起こし、奥歯をギリギリと目を釣り上げた真っ赤な顔で彼女は睨む。その手は報復の為か握り込まれていて、そこからはみ出した薄桃色の紙切れで事の推移は明らかになった。
 千鶴さんから僕が預かった買出しリストのメモ用紙を確認する為、きっと杏奈さんは立ち止まったのだろう。それでこそ背の低いこの人なのに前方を見辛い僕にしてみれば罠としか言いようがない。
 立ち上がって服を軽く叩いているその形相は、声にならぬ声が聞こえてきそうな程だ。
 両腕を両足の横でピンと伸ばすその握り拳は後の不幸を過ぎらせるけれど、何だか幼い女の子っぽい仕草にも見えて、不覚にも可愛らしいと思ってしまった。
 詰め寄る彼女が小柄なせいか、目線はどうしても見下ろすかたちでなんとも微笑ましく、凄む彼女が滑稽に思えたその時、左足に激痛が走った。
 荷物を危うく落としかけたけれどなんとかそれだけは堪え、歪んだ顔で謝罪を告げようとした矢先、続けて右足に激痛が走り、その痛みはずっと途切れる事が無い。見れば右足は彼女の足で踏んずけられたまま、火のような瞳が睨んでいた。
「すみませんっ 前が見えにくかったんですっ」
 それでも気は治まらなかったのか、踏んでいた足をぐりぐりと磨り潰すように踏みつけてから一睨みし、ふんっ っとばかりに踵を返してずんずんと歩き出す。
 千鶴さんとなら…などと不毛な妄想を掻き消しつつも、非が僕にあるのは周知の事実。反感や文句は滲ませられず、不明の行き先へ一足ごとの理不尽な激痛に耐えながら、力無く歩き出すのだった。

                    ○

「碓氷っ お茶にしますわっ」
 じんじんとした両足の痛みが和らぎかけた頃、まだ治まらないのであろう彼女の言葉でやっと目指す先が判明した。
 千鶴さんと買出しに出かけた時はテイクアウトのファーストフードがいつもの事で、店内でゆったりと食事なんて事は一度も無かった。そんな事を考えるのも朝ご飯と昼食抜きでおやつタイムにまでずれ込んだのと、この大量の荷物のせいで椅子がだいぶ恋しいからだ。
 それと言うのも今日はちょっとした緊急事態で、珍しく千鶴さんが体調を崩してしまった。だから店内の清掃と座席カバーのクリーニングを一人で済ませ、クリーニング済みの座席カバーを装置にセットするところまで完璧にこなし、「いらない」と力無く呟く千鶴さんの昼食を枕元へ準備してから手渡されたのが、あの薄桃色のメモ用紙だった。
 それを手に買出しに向かうべく開いた店の扉の前で、仁王立の杏奈さんは僕をどうしようもない疲労感で出迎えてくれた。
曰く、「お姉さまに、ぜ・ひ・にっと頼まれましたの」らしく、予想外の困惑で、会話もままならなかった千鶴さんはきっとそれどころではなかったのだと思う。
 そんなこんなで普段以上の疲れを抱えつつ、あれやこれやと千鶴さんの心配をしながら独走する杏奈さんの荷物持ちともなれば、そろそろ足を労っても許されると言うものだ。けれど見た目にも人目を引く変な喋り方のこの人は何処でどんな食事をするのだろう。
 千鶴さんとは大分違う流れに、それはそれで多少の興味をそそられていた。
「入りますわよっ」
 「お茶にしますわ」から数分程度。もちろん僕の返答など待つ訳もなく、ずんずんとビルの「引く」と書かれた片開きのガラス扉を押して潜ってしまった。
 杏奈さんの入ったビルはかなり古そうな五階立てで、裏側なのか建物を示すビル名等はどこを見ても見当たらない。それにかなり薄汚れていて、「お茶」との繋がりは少しだけ不安になる。
「碓氷っ!」
 むすっとご機嫌斜めの杏奈さんは扉を開けたままの仁王立ちだ。
「はいっ」
 扉前へと小走りに、片開きの扉を荷物に気をつけながらなんとか潜る。
 入った通路はとても狭くこの荷物を持ったまま体を捻るのがやっとの事で、人とすれ違うなんて到底無理だ。確保した視界半分から見える杏奈さんはずんずんと、打ちっぱなしのコンクリート通路の角、オレンジ色に塗られたエレベーター扉の前で腰に手を当て、見慣れた仁王立ちの後姿はとても凛々しい。勿論エレベーターを待つこの人に僕の存在を認識してほしいなどとは露とも思わないけれど、そんなに肩肘を張っていて疲れないのだろうかと、ほんの少しだけ気に掛かった。 あくまでも、ほんの少しだけ。
 重たく響かせて開くエレベーターは歴史を感じさせる年代物だけれど奥行きは広く、入ってしまえば通路よりはだいぶ余裕があった。
「碓氷、三階」
 付き人よろしくエレベーターボーイまでこなしてはいても、見なくても吐き捨てるような口調に表情を想像できてしまうのだから、なんとも複雑でやりきれない。
「はい」
 今日の買出し中ずっとこの調子だったからか、もう腹も立たなくなってしまった。けれど、壁の腰より少し高い位置に浮き付く、手摺りであろう鉄の平板が邪魔をして体を捻りにくく、それより高い位置で荷物をキープしていないと彼女との距離も保てない。何故かそこだけは余裕の無くなった疲労からか腹立たしくて、少し乱暴に趣のある大きめのボタンを押してやろうと左肘を上げた。
「ぅやっ」
 彼女の擬音がエレベーターの扉を閉めてしまった。まだボタンを押せてもいない。
「どうかしま―――
 両肩を抱くように杏奈さんのぐぬぅ~っと唸るあの形相が僕の言葉を遮った。
「このっ 男にっ あるまじきっ 行為っ ですっ わっ このっ 変態っっ!!」
 言葉の途切れる度に僕の右足は蹴られて踏まれ、扉に押付けられるように追い遣られる。
 流石に僕もこれには我慢できず、語気は荒くなった。
「ちょっと、何なんですかっ 痛いですよ!」
 非難の視線を向けると、彼女は耳まで真っ赤に唸るあの形相のまま、握り込まれた拳をピンと体に添わせて怒鳴り散らした。
「このっ 白々しいっ! む、胸を触っておいて何て言い草ですのっ!!!」
 あ… 体を捻った時に?・・・血の気が引くと言うのはこうゆう感覚なのかと実感した。。
「すみませんっ ボタンを押そうと―――
「見苦しいですわ! このっ 変態っっ!!」
 わなわなと感情の噴出した彼女に僕のいい訳など遮られ、右足には激痛が走る。全体重が掛かったであろう僕の足はぐりぐりと磨り潰され、憤怒の形相で踏みつけられていた。
 「掴んだって出来る隙間が悲嘆の厚みだ」とはようやく開放される頃に胸中で呟いたせめてもの仕返しで、弁解も許されず三階通路を憤怒のオーラで進む彼女の後をとぼとぼと、項垂れて続くのだった。

                    ○

 ふんっと鼻から漏らす杏奈さんの怒りはまだ治まっていない。
 当然とばかりに一瞥をくれて明かりの灯る木造りの扉に手をかけた。
 中央に掛かる四角く薄い木のプレートに「See Na」と焼きつけられた文字はちょこんとして可愛らしい。それに扉の上の壁にはアイリスを模ったガラスの照明が壁から生える細い金属と繋がっていて、浮き出るようなガラス照明と上半分の丸い木扉は、白雪姫に出てくるホビットの玄関扉を想わせる、まさに御伽噺の扉だ。コンクリート剥き出しの通路にこんな扉がいきなり表れれば、物語の始まりはこんな感じなんだろう。と、そんな風にも思えた。
 カランと喫茶店のような鐘の音が響いくと、中から微かにピアノの音も聞こえてきた。 
 彼女はと言えばもうすたすた店内へと入ってしまった。
 「china」の店名からは何の店だか連想できず、疑問だらけのまま彼女の後を追って扉を潜ったのだった。
 ビルの通路が薄暗かったからか店内はとても明るい。
 目隠しに囲まれた小さな台はぽつんと、レジの置かれた狭い空間にどうやら人の姿は無いらしい。持て余してガラス製の照明器具が垂れ下がる天井を見上げていると、響いたのは女性の艶やかな声だった。
「いらっしゃい。 あら‥お連れ様?」
 そうゆるりと喋るこの女性の衣装にまず目を奪われた。
 店の扉も雰囲気もメルヘンな御伽噺そのものなのに、女性は何故だか不釣合いな和服で、和装と言っても浴衣のようなシンプルな絵柄は白地も涼やかに金魚が泳ぐ。
 この女性といい、杏奈さんといい、「類は友を呼ぶ」の典型なのだろうか。
 そんな僕の視線と黙考はぴしゃりと遮られた。
「ですわ」
 見下した一瞥を僕に挟んでから、彼女はころりとにこやかに続ける。
「お茶を頂きに参りましたの。よろしくて?」
「えぇ。喜んで」
 そう微笑み返す女性の年の頃は四十代だろうか。口元の小さなほくろもそうだけれど、その口調や言葉の返し方からも大人びた雰囲気を漂わせる人だ。
「手荷物、お預かりしても?」
 女性は優し気に片手を差し伸べた。
「はい、お願いします」
 緊張気味の僕の手から丁寧に、一つ、一つと、レジの内側に置かれた植物の茎か蔓で編みこまれた平たい籠の中に纏めてくれた。
「いつものでよろしいかしら?」
 纏め終え、杏奈さんに向き直る女性の表情は微笑を湛えたままだ。
「えぇ、よろしくてよ」
にこやかな杏奈さんは僕の存在など歯牙にもかけていないご様子だ。
「それで‥そちらのお連れ様は?」
 視線は僕へと向けられているけれど、言葉はおそらく杏奈さんへだろう。窺うと嫌そうな一瞥でそっけなく返された。
「餌でも惜しいくらいですわっ」
と腕組みはお怒りの仁王立ちだった。
 女性はきょとんとしてから一転、コロコロと手を当て笑い出してしまう。
 対照的にそっぽを向いた杏奈さんは酷い仏頂面だった。
「これは失礼、貴女がこんな方といらっしゃるなんて思わなかったものだから」
 笑い声は後を引かず、女性は微笑を湛えている。 きっと洒落を含めた社交辞令なのだろう。
 仏頂面に気を使ってか、女性は待たずに切り出した。
「お連れ様にはこちらで御用意致しましょう」
 流し目にも似た笑顔を向けられて不覚にもドキリとしてしまった。
「綾姉さま!」
「んふっ ごめんね杏ちゃん」
「碓氷っ 行きますわよっ」
 杏ちゃん? 綾姉さま? 最後のところはやり取りが早すぎて、お店についてもこの女性についても疑問だらけの僕は、ただただ焦りながら先行く杏奈さんを追いかけるべく返事をする事しか出来なかった。
「はぃっ」
 綾姉さまと呼ばれたあの女性に「いつもの」と言われるほど通い詰めているのか、木目の濃い木製の仕切りで迷路のような店内を、杏奈さんは迷う事無くずんずん進む。
 おもむろに立ち止まった扉を開けると、顰めた一瞥の後、面倒くさそうな言葉が続いた。
「ここは猫カフェですの。扉は二重で猫の逃走防止ですわ。私が合図するまで外扉には触らないで下さいましっ」
 語尾にはしっかりと拒絶を滲ませるのだからどんな安らぎの空間であっても安らげよう筈もない。
 返答を待たず扉は響いて閉まり、少しの後に「よろしくてよ」と言葉は続いた。
 上がらない心持ちのまま扉を開けると外の仕切りと変わらない木製の仕切りに扉が窮屈に構えていた。
 外扉を閉め内扉を開けた瞬間、足元から白い物が胸元にへばりつく。
 「お閉めなさい」
 同時に響いた言葉への反応が先か、胸元への反応が先かなど、慌ててそれどころではない。 見れば胸元には丸々と太った三毛猫がべったりとへばり付いていた。
 慌てて扉を閉めて胸元の三毛猫を捕獲とばかりに抱き上げてから、ようやく落ち着いて見回す事ができた。
 どうやら猫はこの三毛猫一匹だけのようで、杏奈さんは苦々しく一瞥してから三毛猫を僕から奪取する。
 天井までしっかりと仕切られた空間は四畳程でとても狭く、二重扉の造りもあってか少し窮屈だ。置かれた小さめの丸いガラステーブルは足が金属製でどっしりと構え、恋しかった椅子は背凭れの無い木製の座板で、足はやっぱり金属製だった。爪とぎ防止なのだろうか。
 二脚ある椅子の片方は既に杏奈さんのお尻の下に収まり、胸にはまん丸に蹲る三毛猫を抱えていた。
「お座りになればっ」
 まだ彼女は治まらないご様子だ。
 思い返せば彼女への非道の数々。駅前では後ろから突き飛ばし、エレベーターで胸を触るなどと、どちらも故意ではないにしろ起こった事実は事実なのだ。
「すみません、色々と失礼な事を。本当にすみませんでした」
 彼女は抱えた三毛猫を撫でながら、窓の外をしかめっ面で眺めたままだ。
 こんな状態では彼女の真向かいになど座れる訳もなく、頭を再度垂らした。
 小さく抜けたのは溜息だろうか。
 彼女は窓の外を恐らくは見たまま、ぽつり、ぽつりと紡ぎを続ける。
「嫌な人だと思いましたの…」
「馬鹿な人だと思いましたの…」
「女々しい人だと思いましたの…」
「不器用な人だと思いましたの…」
「お人好しだと思いましたの…」
 暫くは無言のまま、後を継ぐように三毛猫が一声のんびりと鳴いた。
 顔を上げ、目に映ったのは意外な光景。眼鏡を外して微笑みながら、撫でる三毛猫に目を落とす、それはそれは可愛らしい女の子が居た。
 不覚にも目を逸らせなかった。
 含み笑いの可愛らしい女の子は、撫でながらそっと優しく続ける。
「ですが… 過去は、やっぱり過去ですわ」
 それは晴れやかな笑顔だった。
「それに故意でないのは承知してましたの。でも‥セクハラまでするとは思いませんでしたわ」
 途中掛け直された眼鏡越しに、俯き加減に向けられた瞳から怒りの色は消えてはいたけれど、眉根に寄せられた皺の深さに尋常ではない恨みが窺える。
 固まる僕をよそに、眉根の皺はゆっくりと解かれ、細く長い吐息がそれに続いた。
「居ないと始まりませんもの。 お座りなさいな」
 困り顔で微笑む表情は小学生時代お世話になった女性担任の先生のようだった。
「はい」
 再度深く頭を下げてから向かいの席へと腰を下ろす。血液とは違う何かが通うようなスーっとした感覚がジンジンと痛む両足をじんわりと駆け巡った。
「席を外しますわ。団吉を」
 仏頂面の言葉と三毛猫は有無もなく押し付けられ、彼女は小走りに扉を潜っってしまった。
 受付のあの女性の声が微かに響き、鉢合わせに驚く杏奈さんの声がはっきりと聞こえて少し面白かった。
 団吉と呼ばれたこの三毛猫も、ぴくりと耳をそばだてた。
「飲み物をお持ちしました」
 団吉がそばだてたのはこの人の気配だったのか、音も無く現れた女性に面食らってしまう。
「あ、ありがとうございます」
 微笑む女性は含み笑いでメロンソーダとアイスコーヒーをテーブルに置きながら「お連れ様といらっしゃるなんて」と微笑を添えた。
 団吉にも小さな平皿で足元にミルクを置いてから「男性なんですもの」とは肩を竦めて少し呆れた風だった。
 大通りとエレベーターで彼女は烈火の如く顔を歪めたのだ。不本意な愚行を振り消せば、そんな邪推になどなる筈もなかった。
「期待外れもいいところです」
 のんびりと鳴く団吉を続けて撫でながら、小さな鈴の付いた喉元を擽ってみる。
「あら、お礼なのでは?」
 ゴロゴロと鳴く団吉は幸せそうに催促していたけれど、僕は別の意味で女性に催促の視線を注ぐ事になった。
 きょとんと観ていた女性は、一転艶やかに瞳を輝かせ、「それに‥とても楽しそうでしたわ」と踵を返した。
「お礼ですか?」
 もう少しだけ、と胸に痞えた疑問を拭い去るべく懇願の一言には扉に手を掛けた肩越しの一瞥で、着物のせいか妙に艶やかに映る。
「ふふっ ご本人からお伺いになって。ワッフルはもう少しかかりますから」
 意味深な笑みを残し、女性は音も無く扉に消えてしまった。
 団吉をゆっくりと撫でながら「お礼」に繋がる行為について深く反芻してはみたけれど、思い当たる出来事は何も浮かばないままだった。

                    ○

 団吉を胸に抱く杏奈さんは何故かすこぶる上機嫌で、メロンソーダのアイスクリームを口に運んではうっとりと頬に手を添える。
 僕の視線に気付いても以前のような見下す色合いは見せず、何故か仏頂面で窓へと視線を避けるのだった。
 一応、認知して頂ける程度には出世できたらしい。
「姉さま‥お食事なさったかしら」
 窓を向いたままそう言うのだから、どうやら調子の悪い千鶴さんを放って食べるのを咎めたのだろう。
 本当に‥少しは食べてもらえたのだろうか。
「勧めようにも、あの人は人嫌いですから」
「そうとも言えませんわ」
 僕を薮睨みの彼女は本当に面倒くさそうに言った。
「ま、いいですわ。それはそうと」
 おもむろに団吉を僕に向け、彼の両手は彼女の両手に握られてぴこぴこと操られる。
「これからの買出しにお手伝いは必要ではなくて?」
 これは‥あの女性の言った「お礼」の続きなのだろうか。
 彼女の装いと団吉のコミカルな動きはぬいぐるみを抱く少女のように可愛らしかったのだけれど、返答候補に浮かんだ言葉はお世辞にも褒められたものではなかった。拒否など全く受け付けないであろうこの人はそれを言わせたいのだろうか? いや、おそらく待っているのだ。
 意を決し、軽い咳払いを挟んでから思い切って答えた。
「猫の手も借りたい‥ですね」
 団吉の手はピコピコと、彼女が噴出すのに時間はかからなかった。
 こんな風にこの人と笑い合えるなんて想像すらしていなかった。けれどそれへの解釈よりもベッドで蹲るあの人は大丈夫なのだろうかと、笑顔の脳裏はそっと囁いていた。
 そんな事などはお構い無しと、左手の人差し指をピンと立ててから僕に向け、何故か得意気な杏奈さんは愉しそうに続ける。
「私が居ないと、始まりませんわ」
 スモーク加工のハッチを空けるモーター音が響いていた。
 「私が居ないと」とは? 悪戯っぽく薮睨みしていた彼女の言葉は自信たっぷりの余韻を残し、夢の中でとは言え憎み切れない人だったと、苦笑いの頭を振って追い遣った。
 そう言えば「お礼」とは何の事だったのか凄く気になる。けれど現実には有り得ない夢の中での出来事なのだ。それへの馬鹿馬鹿しさと、食べ損なったワッフルへと惹かれる諦めの溜息は、無人の地下室を哀しく響かせた。
 珍しく夢の出演時間が短かった千鶴さんに何だか無性に会いたくなって、押し付けられる労働の過ぎりなどお構い無しで足早に階段を駆け上る。
 あの夢の意味するところはよく解らないけれど、あるとすれば千鶴さんでも調子を崩すと言うひどく有りがちな心象だ。だから少しの不安もあって、想わずにはいられないのだ。
 とにかく元気な彼女に少しでも早く会いたくて、階段を勢いよく跳ね上がった。

                    ○

 水音もカチャカチャと、目に飛び込んできたのはでっかいサングラス。
シンクは大量の食器と泡で溢れていた。
 「多いと腹が立つ」なんて言ってたのに…この人は本当に素直じゃない。
 何もそればかりがそうではなくて、よく見ればほんのり赤く腫れた瞼で普段と変わらずぶっきらぼうに「おお。楽しめたか?」なんて、少しだけ嗄れた声でそう言うのだから。
 あんな顔でこんな事をその声で言うのだ。「どうしたんですか?」なんて言葉に出せるはずもなく、あれやこれやとその原因を想像してはみても、納得できる良解など思い浮かぶはずもなかった。
 下手な考え休むに似たり、とは昔の人もよく言ったもので、結局浅はかにも導き出せた結論は「花粉症?」程度。まずそんな事は無いだろうけれど、今日の装置で悪戯をする彼女はこんな瞼をしていなかった。それから後に何かあったんだろう…もしや、春子さんと何か? それとも病気や副作用の類だろうか…。
 考えるその愚考の先は、瞼の原因から少しずつ向きを変えて、知った気になっていた彼女のプライベートな部分を知らずに語る、軽薄な自分への自責の念で溢れていた。
「ほらっ 仕事」
 こんな顔でにやりと笑いながら言う彼女はどこか痛々しくて、でも、それへの言葉を僕はやっぱり返せずにいる。
「はい。変わります」
 なんとか笑顔で長袖Tシャツの袖を捲り上げ、何故かたじろぐ彼女を押し退ける。
 呆れたような笑顔で溜息も軽く、水切り籠の食器を大雑把に拭き始めた。
 それでなくても小さな部屋の小さなキッチン。変な緊張感に包まれながら、二人窮屈に仕事を黙々とこなせば、時折触れる互いの肘に、視線はどうしたってあの顔とかち合ってしまう。
「そっち行け」
 何故だかいつも以上にぶっきらぼうな彼女はすぐに目を背けて短く吐いた。
 そんな仕草は避けられているようで、事実、シンクから腰半分もずれていた。
「これが限界です…」
 慣れない緊張感と圧迫感もあったのだけれど、地下階段を駆け上がったあの時の心躍る感情を、予想外の出来事で萎ませてしまった自分が情けない。
 気の利いた言葉の一つも出せない薄っぺらな自分がどうしようもなく腹立たしかった。
 水がやけに冷たくて妙に指に絡みつく。
「なんだよ」
 聞きたいのは僕の方です。って言えればどんなにか楽なのに、どう切り返せばいいのかやっぱり言葉は出てこない。そもそも女性とこんなにも気まずい雰囲気になる事なんて初めてだし、こないだの食事の時とも違っていて、役不足なのだけは十分に理解できた。
「何でもありません」
「あのな、その顔だ。喧嘩売ってんのか?」
 ぅぐっ… 冗談抜きの不機嫌な彼女の肘が僕のわき腹に突き刺さる。
「そんな訳ないです。ちょっと、考え事です」
「ふうぅん」
 わざとらしい相槌はこんな心情の僕になんて欠片も気付いてなくて、馬鹿にされたようで、何だか無性に腹立たしくて、腹立たしさの原因を思わず口にしてしまっていた。
「いつもそうです。千鶴さんはいつも大事な事を言わないんです。そりゃ僕だって自分が馬鹿な事くらいは理解してます。けど言ってもらえないのも辛いんです。もっと頼ってくれてもいいんじゃないですかっ」
 よくもまぁつらつらと自分勝手な事を言えたものだと思ったけれど、後悔は微塵もなかった。
 彼女はと言えば、面食らって固まっているのだろう。 ちょっとは反省してください。
 小さな舌打ちの後、彼女の手は水切り籠ごと食器を小さく跳ね躍らせた。
「言える訳ないだろがっ」
 怒り心頭の彼女は噛みつかんばかりの剣幕だ。でも僕だってここで退く訳にはいかない。
 僕だって男の子なのだ。
「言ってくださいよっ」
 かち合った視線は暫く無言の罵声を飛ばし合い、彼女は震えながら涙を滲ませた。
 卑怯だ。と思った。
 泣けば解決する事なんて世の中に一つだってありはしないのに。それでも薄っぺらな僕は退けなかった。どうしてもこの人の本音を聞きたかったからだ。
 彼女はとうとう涙を流した。その瞳は僕をじっと睨みながら。
 涙は柔らかなあの頬を伝い、震える顎先へと流れ落ちる。
「お前だからっ」
 短く押し殺して吐き出された躊躇いの無い本音は傷だらけで、擦り切れんばかりに振り返ったのであろう過去の彼女そのものだった。
 例えモラルだとしても、少数派の意見は非常識と受け取られてしまう。彼女の選択してきた幸せを否定する事なんて誰にも出来きはしないけれど、受け入れられる事はそれ以上に難しい。
 不器用なこの人はその絶壁をこの顔で登るのだ。きっと何度も、何度も手を滑らせながら。
 そんなだから…僕に言える事は、こんな言葉しか見つからない。
「お手伝い、させてもらえますか?」
 夢で杏奈さんがそう教えてくれたように、どうしようもないこの蟠りは僕の唇を揺らし、滑らかにそう言わせてくれた。
 ちゃんと笑えているだろうか。
 彼女は顔を歪ませて俯いている。
 それでも、やっぱり綺麗だと思った。
 僕の手は素早く握られたまま乱暴に引き寄せられ、左頬は左頬にぐりぐりと擦り付けられる。
「お前が居ないと始まらない」
 彼女のぶっきらぼうな鼻声は、あの夢の杏奈さんと同じだった。
 この人が傍に居て、傍に居る事が出来て何より幸せなんだと、そう言葉には出せないけれど、頬を擦り寄せて返す僕を、彼女はすり寄せ寄り掛かってきた。
 引っ張られてから押された重心のずれに、後退りを耐えるように慌てて彼女を抱き止めた僕のお尻はシンクに当たって何とか踏み止まれた。
 左頬に温かく流れたのは彼女の涙だろう。
 彼女は鼻水を啜り、咽びながら泣き出してしまった。
 それでも頼られる事は凄く幸せで、幸せ過ぎると胸が痛む事を、僕はこの時初めて知ってしまった。
 頭を撫でると、顔を埋めるや、しゃくりながら泣きだした。
 とても小柄に思えるくらい、震え、声を上げるこの人は何を想っていたのだろう。誰を想っているのだろう。
 きっとそれは胸元を握り込む長袖Tシャツの中にも、咽び吐き出される息遣いのひとつひとつにも。
 それはきっと彼女自身へで、それはきっと嵐のようなあの女性へで、それはきっとこの薄っぺらな馬鹿な僕へで。それはきっと…
 いくら巡らせても言葉でなんて縛れやしない。こんな気持ちを縛れる訳がない。
 感情を、想いをぶちまけるこんな姿さえ、僕には心から美しいと思えた。
 それから彼女はずっと治まらなくて、撫で続けながら暫くはずっとそうしていた。

 胸元で拭われた彼女の顔はとても酷い顔で、どちらとなく互いに大笑いしてしまった。
 何故かTシャツは僕のだけ泡だらけのぐしゃぐしゃで、何故か彼女の開口一番は「疲れた。今日はよろしく」で、何故か右往左往する僕はそれを疎ましくも幸せに感じている。
 考えてみればいつもと同じなのだけれど、それはそれで、やっぱり理不尽だった。
 いつも通りの軽い文句に嫌そうな顔を添えてはみても、サングラスをずらして意地悪くそう笑うのだ。
「手伝いたいんだろ?」
 その瞳の妖しさは以前の比じゃなくて、僕は彼女にとてつもない武器を供えてしまったのだと、後悔したって今更遅い。
 言質は首に二度と外せない錠前付きで、彼女の手元を繋いでしまったのだから。
 だからこっ恥ずかしくても堂々と言うしかないじゃないですか。
「千鶴さんですから」
 震える声で「あほ」なんて、いつものその一言。
 けれどその余韻と温かさは、以前のそれよりも確かな存在を感じさせてくれるのだった。

                    ○

 掃除と後片付けも落ち着き、背中合わせのあの回転椅子で、何でもないお馬鹿な会話を沢木社長の大笑いで遮られる事になった。
「碓氷君。今日はこちらの手伝いはいいからね。蜷川さんに申し訳ない」
 そう言いながら顎を摘んで微笑んでいた。
 僕等の顔はそんなに酷かったのだろうか。もしくは彼女の…
「社長。助かるよ」
 さっきまで泣きそうな声であんな事を言っていたのを沢木社長は気付いているのだろうか… そう考えれば考えるほど何だかとても恥ずかしくなってくる。
「では、後ほど」
 軽い会釈を千鶴さんと交して僕には意味深な笑みを残し、沢木社長は若い社員と足早に地下室へと降りて行った。
「あのじじぃ…。 聡、今日は買出しも頼む」
「え…と」
 妖しい瞳は僕を優しくも艶やかに睨み据える。
「手伝いたいんだろ?」
 断れると思ってんのか?の上目遣いとその声音。けれど、何でも続けばそれなりに対処も出来ると言うもの。返答には嫌味もしっかり込めてみた。
「リストは兎柄でお願いします」
 とても嫌そうな顔を添えてみたけれど、何故か微笑む彼女だった。

                    ○

 装置のカバーはもちろんクリーニング店へ。
 リスト内容はかなり少なくて、先週のあの量は僕への嫌がらせとしか思えなかった。
 電気店を回って、ホームセンターでの買出しは順調で、帰り際に店先で見つけたサボテンに目が止まった。
 「心の蒼」の植物達の多くはサボテンなので、彼女の好みはこの子達なのかもしれない。
 目に止まったのは「カネノナルキ(黄金花月)」なるゴージャスなネーミングで花も咲くらしく、鉢植えも小さいし、お店に置けば運気も上がりそうだ。
 そう考えていたらポケットマネーで買ってしまっていた。
 以前の僕なら、間違いなく素通りしていたのに、こんな事を考える自分の突飛な行動に笑えてしまって、少しウキウキもしてしまう。
 足取りは軽く、最後に足を伸ばしたのは以前カップを買ったこの雑貨店だ。
 店先で、ふと隣のケーキ屋のおやじさんと目が合ってしまった。
 ショーウィンドウの中身をチェックするつもりが、恰幅の良い中年男性をとは‥と、にっこり小さく手招きをしている。新手の客引き? 一度入ってみたかったし、お昼ご飯もまだだから、千鶴さんへのお土産にしよう。
 喫茶店の鐘のような音が響いて、甘く芳しい香りが一気に身を包んだ。これだけで本当に幸せになる香り。
「いらっしゃい」
 おやじさんは華やかな店にはそぐわない低くしゃがれた声で、どうやら歓迎してくれているらしかった。
服装こそケーキ職人のそれなのだけれど、何故か何とか組の親分さんみたいな雰囲気すら香ってくるのは如何なものだろうか。と、そんな事よりも、招かれたのは僕なのだ。
「こんにちは。何か御用でしょうか?」
 お客として来店しながらも飛び込み営業のようで昔を思い出し、内心はとてもドキドキしていた。ちゃんと笑顔はそれらしいだろうか。
「君、「心の蒼」のバイト君だろ?」
 開口一番がこれで、返答に困惑している僕を遮るように続ける。
「いや、気を悪くしないでくれ。この辺りじゃ有名なんだ」
「そう…なんですか? よく解りませんが、何だか変な感じです」
「だろうな。あの千鶴君の所だし…それに、芸能人みたいでいいじゃないか。はっはっは」
 そう笑うこの人はやっぱりなんとか組の親分さんみたいだ‥と突っ込みは置いといて、僕が「心の蒼」でバイトしているのを知られているのだ。それに手招きの理由も気になるところ。
「噂も気になりますけど、僕に何か?」
 額を熊のような手でぴしゃりと豪快に打ちつけた。
「こりゃすまん。いやな、君んとこの店が結構評判良くてな。カフェやってんだって?」
 偵察なのかな? どうやら仕事についてらしいし、どんな話かは聞けば分かるだろう。後で千鶴さんに報告しとこう。
「はい。最近始めたんですけど、上々だと思います」
「そおかぁ…それで相談なんだが、千鶴君にワシの店のケーキを扱って欲しいんだ。頼んでくれないか?」
「ケーキですか…」
 考えてもみなかった高価な商品だ。 眺めるガラスケース越しの宝石達は一層輝いて見える。
「別に無理にとは言わんが、お互い悪い話じゃないと思うんだ。千鶴君に頼んでみてほしい。駄目かい?」
 こんな商品を「心の蒼」で扱えたなら‥ 考えただけでも楽しくなってしまう。
「あの、取り扱えるとしたらどんな商品がありますか?」
 ガラスケースを抱えんばかりの大げさに広げられた両腕は本当に熊のようだ。
「全部。どれでも大丈夫だよ。だが、季節の商品もあるから少しずつ変わるけどね」
 内心は飛び込み営業の心持だったのに、聞けば逆にプレゼンされているのには少し違和感があって可笑しかった。けれど僕は単なるアルバイトで、決定権は全て彼女にあるのだ。
「なるほど…。ですが、僕の一存では決められないので、一旦持ち帰ってもいいですか?」
 太く濃い眉は下がって曇る。
「それは構わないよ。しかし…」
弱弱しくも言葉通りであれば「千鶴君」なんてあの人を言うくらいだから、普段の付き合いはそれなりにあるのだろう。それにご近所さんと言えなくもない距離だ。それなら僕よりも。
「千鶴さんに直接頼んで頂ければ話は早いと思います。僕なんてバイト以下ですから」
 言葉を待たず弾かれたように何事か言いかけたけれど、暫く俯いてから弱弱しく続けた。
「いや…隣りの雑貨屋。村上さんから聞いてな。その…お前さん、千鶴君のコレなんだろ?」
 そのごつい手はこっそりと、可愛らしい少女のするように、小指がぴんと立っていた。
 何とも言えない違和感にたじろぎつつ、それが親指でないのは‥気にしたら負けみたいだ。
 妙な倦怠感はさておき、落ち着いてよく考えてみれば何でそんな事を雑貨屋の村上さんとやらが言っていたのだろうか。むしろその話の出所に頭をぐるぐると回転させると、行き着く先はあの雑貨屋での千鶴さんとのやり取りに行き当たった。
 確かに僕が彼女に強請る形になってはいたけれど、こんな所でこんな話になっているなんて。
「なんだ。違うのか…」
 とても残念そうに項垂れながら勝手な妄想の熊親分はそう呟いた。
 内心複雑な心境ではあったけれど、あのごつい体が萎んだようにも見える。千鶴さんも店の経営には頭を悩ませているし、その手助けになればこそのカフェなのだから、このおやじさんの手助けにもなればそれはとても嬉しい。
「あの、噂については良く分かりませんけど、ケーキなら扱えればと思います。売れるかどうかは保障出来兼ねますけど」
「ほんとかっ」
 着いた両手のショーウィンドウが割れるんじゃないかと思うほど身を乗り出して、嬉しそうに僕を威嚇している。たぶん、この人は何につけてもオーバーアクションなんだろう。
「え、えぇ。カフェは僕が担当なんです。千鶴さんの了解が得られれば、明日からでも」
 瞳はみるみる潤みを増している。そんなに困っていたのだろうか? それとも涙もろいだけなのだろうか。
「ありがとうっ よろしく頼むっ」
 おやじさんに両肩を何度も力強く叩かれるうちに、内心はかなり恐ろしくなってきた。
「おやじさん。売れる保障は出来兼ねますよ? それに千鶴さんに了解を得ないと僕としても難しいので…少し作戦を練りましょう」
 両手はそのままに、眉を上げて語尾に食らい付いた。
「どんな?」
「ケーキも案外美味い作戦です」
 夢のカフェでは美味しそうなケーキを笑顔で楽しむお客さん達が居たのだ。例え夢ではあっても、僕の確信めいた笑みがおやじさんに火を着けるには十分だった。
 作戦内容はこうだ。
 僕が作る夕飯のデザートにおやじさんのケーキを出して千鶴さんに食べさせる。美味いの一言があれば、お客さんにも…の流れで、言質作戦と言う訳だ。
「で、彼女の好みは?」
「お酒はウイスキーが好みらしくて、銘柄は―――
 熊のようなこのおやじさんとの甘味討論は以外に盛り上がって凄く楽しく、三十分程で特製レシピは完成に漕ぎ着けたのだった。
「六時くらいに取りに来てくれ。不味いなんて言わせやしないっ」
 そう啖呵を切るのだから僕も負けてはいられない。
「よろしくお願いします。それでは六時に」
 おやじさんは腕に力瘤を盛り上げて見送ってくれた。けれど、やっぱりごつい…。流行らないのはその声音とルックスのせいなのでは…とは言えず、噂話にこりごりなのも確かだし、詮索は控える事にした。
 隣りの雑貨屋では笑顔の村上さんが笑顔で出迎えてくれた。
 「千鶴さんは元気?」には、ケーキ屋の熊店主との噂話もあってか、女性とは噂好きで詮索が趣味のようだ。湧き上がる警戒心から短く「はい」とだけ返せば、ほら、この笑顔だ。
 千鶴さんはそうゆう面では男性的で、僕に「女々しい」とすら言い放つのだから、女性にも色々とあるのだろう。けれど「それはどちらに?」と問われれば「両方」と答えなければならず、考えてみればどちらも同じ事だった。
 となれば長居は無用! ‥とは言え、ケーキを扱うともなれば準備は必要で、杏奈さんであろう女性に迫られる夢、その確信めいたものもあって、ケーキ用の小皿とフォークのシンプルな物を明日の届でお願いしてから、手早く買出しと挨拶を済ませ足早に「心の蒼」へと舞い戻った。

                    ○

「遅かったな。もうじじいは帰ったぞ」
 サングラスを外した頬をほんのり赤く染める彼女は回転椅子からぶっきらぼうに響かせた。
「すみません。ちょっと見とれてて」
 言いながら「カネノナルキ(黄金花月)」をカウンターへ差し出した。
「お前も無駄遣いするんだな」
 無愛想な仕草でも人差し指は上機嫌を語っている。やっぱりこの人は素直じゃない。
「縁起が良いと思って、ちょっと迷ったんですけど、この子にしました」
「いいじゃない。どこに置く?」
「お好きな所に。千鶴さんにですから」
 彼女は伏目がちに俯いて何かに耐えているようだ。それが涙だと分かって、僕の方が切なくなってしまう。今日の彼女はとても涙脆いのだ。
「あほ」
 涙声の彼女はそんな目で僕を睨んでくる。
 そんな時なのに、僕の腹の虫は雰囲気を読めない「お日向さん」だった。
 さっきのケーキのせいだとは言えないけれど、鳴ってしまったものはしょうがない。
二人して見合わせてから大笑いした。
 拭いながら彼女は笑っている。
「何食う?」
「フライドポテト」
 甘い物も好きだけれど、フライドポテトと並べればその差は歴然。この間も千鶴さんに強請ってしまったほど。
 やおら彼女は立ち上がり、自室で何やらごそごそと音を立てて、その手にはハンバーガー店のでっかい紙袋を持ってにやりとこちらを見つめている。
「食おう」
 そんな顔で買ってきてくれたのだと思えば、その気持ちがとても嬉しかった。
「はい、頂きます」
 ロビーのテーブル、互いのサプライズに大笑いしながら食べるポテトとハンバーガーは凄く美味しくて、千鶴さんのポテトもこっそり摘んで食べていた。
 何度目かで手首は掴まれて、摘んだポテトを指ごと一口に食べられてしまった。
 触れた唇は柔らかくて、とてもドキドキしてしまって、それが悪戯じゃないって事だけは何となく分かった。
「ほら。お前も食え」
 そう言う嫌そうな顔は僕にポテトをずぃっと向ける。
 これが世に言う「あ~ん」と言うものだろうか… ちょっと違うような気がするけれど、彼女の望みだけはちゃんと理解できる。
 同じように指ごと食べると、彼女のこの大笑いだ。
 昨日とは何かが少しずつ変わってしまっていて、それがあまりにも自然で違和感を感じなかった事に驚きながら、この餌付けともとれる行為を互いに大笑いしつつ無くなるまで繰り返したのだった。
 食べ終わると指先は少しふやけてしまっていて…ちょっと恥ずかしい。
 ウイスキーを口に運ぶ彼女の言葉は、酔いと眠気からか少しとろんとした響きで、お給料の話になったけれどやっぱりまだまだ頂けない。
 そしたら意外な提案だった。
「装置はメンテが終わったらいつでも使っていい」
 嬉しさもあって、甘える事にしたけれど、それこそ休日のプライベートを一緒に過ごすようなもので、彼女の口からそんな言葉が出るなんてとても信じられなかった。
 それならと、一緒に楽しみたくて「季節の森」にそれとなく誘ってみたら「メンテ日に、気が向いたらな」との快諾で少し拍子抜けしてしまった。
 本当に今日の彼女はどこか違っていて、でも、それを深く考えるよりもそんな彼女をずっと眺めていたくて、何故だかそれがとても心地良かった。
 きっと人としては好いてくれているとは思う。けれど、僕をどう想ってくれているのか… 本音がとても気になってしまう。
 そんな彼女の体力はもう限界なのだろう。暫くするとテーブルに伏せて寝息をたてはじめた。
 規則的な寝息が如何にも兎みたいで可愛らしい。
 ベッドから運んだ薄手の毛布をそっと掛けて、夕食の準備に取り掛かった。

                    ○

 今日は自宅でシチューを作り、パンを用意して後で温める事にした。
 小さな鍋とお皿を抱えて訪れたあのケーキ屋では、満面の笑みのおやじさんが小さな箱を手渡してくれた。
 「金はいい」と言われたけれど、ビジネスはビジネス。渋々受け取るおやじさんに「明日からよろしくお願いします」と笑顔で店を後にした。
 音を殺して開いたロビーは静かで、彼女はまだぐっすりと眠っていた。
夕食までにはまだ少し時間がある。シチューを温め直すだけだし、と腰を下ろした回転椅子での黙考はうつらうつらと、彼女の芳しいお守りが優しく包んでくれていた。

                    ○

 おぼろげな視界の壁掛け時計は十時を指している。
 やばいっ 少し眠り過ぎた。
 跳ね起きると、テーブルに彼女は居ない。どこかへ出かけたのだろうか。
 見れば鍋はコンロに置かれていて、皿は水切り籠に並べられていた。
 彼女の仕業だ。と口元を緩ませながら鍋に火を点けた。
「今日はシチューだな」
 扉から顔だけ覗かせた彼女はとても楽しそうだ。長く美しい前髪は濡れていて艶やかで、きっとお風呂に入っていたのだろう。それにとても甘い香りがする。
「すみません。遅くなりました」
「手伝う」
 ぶっきらぼうで嬉しげに響かせる甘い香りの彼女は薄い紫色のシルクのパジャマ姿だ。それがとても色っぽくて視線は外したまま、そのやり場に困りつつも視野の端には彼女を収めながら鍋をかき回した。
 彼女は平皿にロールパンを無造作に盛り付けて脇をすり抜けて、戻れば切り分けたケーキをでっかい平皿にそぉっと並べて、また脇をすり抜けて行った。きっと大雑把な彼女にしてみればケーキもひっくり返したいくらいだろう。それなのにあの手つきで‥何だか笑えてしまう。
 口元を緩ませながら、丸い深皿に取り分けたシチューをテーブルへと運ぶのだった。
 食事の時間がこんなにも楽しい。
 大笑いしながら、頬を抓られながら、嫌な顔を添えたスプーンで指されながら、差し伸べられたパン切れを指ごと食べながら、それからまた大笑いしながら。
 僕は無意識にもこの温かい幸せを望んでいたことに初めて気が付いた。家族で言えば皆が集う団欒の光景に似ているのだろうか。胸が詰まるような何かが潤ませずにはいられなかった。
 とても満ち足りた気分。
「美味しいですか?」
 甘さ控えめのケーキはウイスキーシロップがたっぷりと浸み込んだパウンドケーキで、ウイスキーに漬け込まれていたであろうレーズンからは大人の風味が香ってくる。
「……美味い」
 本当にそう思ったらしく、一切れ目よりも大きく切られた二切れ目を続けて口に運んだ。
 驚いていた口元もどうやら綻んだらしい。
「お前の仕業だろう?」
 意地悪くそう僕に囁いた。
「バレちゃいました?」
「バレバレだ」
 重なる返答、噴出すような笑い声が互いを当たり前のように包む。
 と、突然彼女は僕のケーキをぐっさりとフォークを回して齧り始めた。
「僕のですよ」
 テーブルに身を乗り出してそれを齧る僕も、相当のフアンらしい。
「好みなんだ。いいだろ?」
「お皿に乗ってますよ?」
「近い方が、安心だ」
「逃げませんよ」
「逃げるのはお前だろ?」
「目の前に大好物がぶら下がってますから」
「ふふっ そりゃそうだ」
お馬鹿な会話はケーキを齧る唇が触れるくらい小さくなるまで続いて、最後は彼女が一口に食べてしまった。満面の笑みだ。
 ウイスキーを含み、飲み下しながら見据える彼女はゆっくりと切り出した。
「それで、何を企んでんだ?」
 ほんのりお酒もまわっていて、真正面から本題をぶつけてみた。
「ケーキを置きたいんです」
「ここにか?」
「はい」
 間髪入れずの返事にその眉間の皺は深かったけれど、それはゆっくりと解かれて、じっと見つめる僕に最後は呆れたようだった。
「分かったよ。好きにやんな」
 安堵と嬉しさで気分は更に高揚して口をするりと動かした。
「頑張りますね」
 ウイスキーグラスを合わせながら、おやじさんの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
 帰り際、彼女は何事か言いかけたけれど、一呼吸置いて頭をくしゃりと掻いた。
「ありがとな」
 あらぬ方を向いているのは恥ずかしいからだろう。きっと飲み込んだのであろう、その「何か」にも。

                    ○

 開店前、あのお馬鹿はケーキ屋のくされオヤジとケーキ用の陳列棚を抱えてやってきた。
ガラスと真鋳で出来た小さな陳列棚は、そりゃぁシンプルで可愛いとは思ったけど。
 あのゴンザレスまでこいつに入れ込んじまうとは…。
 あたしに言わせればこのオヤジはゴンザレスだ。その愛称への評価は当人曰く「品が無い」とあの風貌で言うんだから自覚が無いんだろう。
「譲って頂きました」
 あたしの溜息はこいつのこの手回しの良さに呆れているからじゃない。「好きにやんな」と言ってしまった自分への後悔からだ。
 ばか聡はゴンザレスからケーキを仕入れてここで売ると言い、なんでも人助けになるんだと言うが、助けて欲しいのはこっちだってのに…とんでもないお人好しだ。
 手回しの良さで言えば、昼過ぎに皿とフォークも村上さんが届けてくれて、「追加はいつでも声かけてね」なんて言われりゃ呆れて物も言えなかった。
「ここでもいいですか?」
 お馬鹿はカウンター前に仮置きして額の汗を肩口で拭いながら満足げな笑顔を向けてくる。
「好きにしな」
 考えるのも疲れた。
 あのケーキは相当高価な代物だったらしく、食ったが最後でこの有様だ。
 春子にまた笑われるだろうな。あの意地の悪い、寂し気な笑顔で‥。
 ゴンザレスは帰り際、「美味かったろ?」なんて飄々と言いやがった。
「美味かった。けど、高くつき過ぎだ」
「安いもんだろ」
 あいつを見ながらそう言いやがって、開店前に本当に疲れてしまう。
「そう願いたいね。よろしく頼むよ」
 力瘤で挨拶を返すあたり‥まぁそれなりに期待できそうだ。
「ケーキは開店前にオヤジさんが届けてくれるそうです」
 意気揚々と楽しげにそんな事を言われたら怒れやしないし、今はその元気もない。
「任せた」
 嬉しそうに微笑みながらケーキ用の皿とフォークを店開きしているあいつを眺めていると、それはそれで落ち着いてしまう。
 都会に生まれて都会で育ったあたしには、古民家に祖父母、縁側でスイカや焼き芋にかぶりつくなんて、猫のバスが活躍する某アニメのような経験は全くない。
 それには憧れもあったが、故郷は鉄筋コンクリートの市営マンション、三階の角部屋だった。
 そんなあたしの心のオアシスは植物を眺める事で、最初は小さな観葉植物から始まって、サボテン・一年草・多年草と続き、気付けばロビー・トイレ・キッチン・寝室のテーブルに至るまで、店のありとあらゆる所で我が子は目に映るようになった。そしてそれらとこいつはあたしを撫で洗うように和ませてくれるんだ。
 そう。あたしはこいつが恋しいんだ。
 一人の時間がほんとに寂しくて、無駄に煙草の本数が増えてしまった。
 情けないが、こいつの傍は居心地が良過ぎて、あのカネノナルキを見る度にあいつを思い出して枕にしがみついてるなんて誰にも言えやしない。
 カネノナルキはベッドの脇のサボテンと入れ替えて、サボテンはカウンターの白髭と並べたんだが、あいつは気付いてるだろうか。
 そんなあたしだから、浸るのがどうしようもなく怖かった。足先で湯船の温度を確かめるように、何度も何度も。
 「臆病」なんて春子は言ってたけど…言われて当然、本当にそうだ。
 それがどうした事か、昨日とうとう頭の先まで一気に浸かってしまった。居心地が良過ぎて、ぬるま湯のあいつからはもう上がれやしない。
 大風邪ひいて馬鹿みたいにくしゃみして、背筋を震わせながら涙を堪えるのなんて絶対に御免だ。 絶対に。
「千鶴さん。これどうですか?」
 届いた皿とフォークを持ってあたしに品評のお伺いらしい。大真面目で、お馬鹿で、可愛らしくて、それにセンスもいい。あたしの好みをちゃんと理解してる。
「いいじゃない」
 ほら、その満面の笑み。
 あたしの胸の奥をとことん擽って、あのポーカーフェイスのあたしはどこへ行ってしまったんだろうか。
 きっと春子に言わせれば「贅沢なのよ」だろうけど、それが出来れば苦労しないんだけどな。たぶん、そのうちに… きっと。
 それはそうと食器を置くスペースがあるのか? そろそろ水切り籠じゃ追いつかなくなるだろうし、どうしたものか…。
 別にそれはあいつの仕事だからあたしが考えるのも変だが、どちらにしてもフルタイムになれば今のベッドじゃ仮眠どころじゃなくなる。こりゃ後々死活問題になりそうだ。
 あいつにしてみれば事は計画的に進んでいるんだろうが、あたしに言わせれば今日を過ごせる最低限のプランに過ぎない。けど、まぁ突拍子もないこんな事を続けざまにやってのける行動力には脱帽だ。起業するなら二十代とは誰かの本でも読んだけど、本当、その通りだ。
 怖い物知らずのこいつにはあたしが必要なんだと、肯定する自分に悲哀すら感じてしまう程に。
 流し台からはカチャカチャと、当の聡はもう皿とフォークを洗っているらしい。本当にちょろちょろと良く働くし、ずっと居ればあたしはかなり楽できる。
 こんな事考えるなんて、お馬鹿はあたしの方だな。 ふふっ と、それは置いといて、どう考えたってもう地下室の倉庫をいじるくらいしか考えつかない。なら、今週末にでも業者に頼んどこう。そうなると…。
 考えたらあいつはバイトして地下の装置で寝て後は家に帰るだけなんだから、いっそ地下室に住めばいい。うん、ちょっと強引かもしれないが…家賃だって浮くし、給料だって払ってるわけじゃないし、合理的に考えればそれが一番だ。
「なぁ。家賃は?」
「月、三万二千です」
「そうか。荷物は多いのか?」
 続けざまの質問は流石にあいつも勘ぐったのか、返答は遅かった。
「ベッドと布団…後は食器と調理器具に…ノートPCと服と参考書くらいです」
「冷蔵庫と洗濯機は? TVも無いのか?」
「一人暮らしですから」
 ふむ。それくらいなら十分地下室に納まりそうだ。
「ならここに住めばいい」
 鈍い音がした。落としたな、あいつ。ふふっ 分かりやすいやつだ。
「どうした? 嫌なのか?」
「いぇ、あの…嫌とかではなくて、流石にそれはちょっと」
 困ったような声がなんとも可愛らしい顔を想像させる。笑いを堪えるのが辛いがとてもやめられない。
「給料は家賃って事でいいだろ? それと、来月からフルタイム営業に切り替えるからな」
「えぇっ そんな急に決めて大丈夫なんですか?」
 声音は驚いてはいるらしいが食器は落とさなかった。「ここに住めばいい」よりは素直に飲み込めたらしい。なら、畳み掛けるのが常套手段。
「あたしが決めた。文句あるか?」
「……ありません…」
 んふっ そうであろう、そうであろう。
「じゃ、決まりな。今月で部屋は引き払え。引越しは手伝ってやる」
「無茶苦茶ですよ…。あの…千鶴さんはいいんですか? その‥僕なんかが越してきても」
「歓迎するよ」
 即答したからか返答は無いが、きっとあの可愛らしい顔を耳まで真っ赤にしてんだろうなぁ。
 本音を言えばあいつはどんな顔してどんな言葉であたしを喜ばせてくれるだろう。言えるわけないが、言ってやらなきゃ絶対分からないお馬鹿だ。
 あたしが離れたくないんだよ。 あほ。
「あの…もう決定ですか?」
「決まり」
「…はぃ」
 どんな顔してんのか見てみたいが、今はポーカーフェイスに自信がない。こんな風ににへらと笑える自分も、強引に招き入れる自分も、ここでこうやってそう考える自分も、本当にお馬鹿で愛おしい。こんな自分を愛しいと思えるのは幸せなことかもしれない。
 傍に居てくれさえすれば、あたしは自分を愛すことも、あいつを愛すことも素直にできてしまうんだから。
 もうあたしのもんだ。 絶対に逃がさない。
 洗い物を終えたあいつが回転椅子に深く座って、落ち着かな気にそわそわと覗っているのは 見なくたって分かる。それが凄く可愛らしいだろう事も。
「あの…色々と手続きとか‥あるので。もしも無理な場合は‥申し訳ないですけど…」
 そりゃそうだ。今日の明日のと言っても世には流れと言うものがある。あたしだってそんな馬鹿な妄想は考えちゃいないが、まぁ、流れを作っとくにこしたことはない。
 いつものように優しく重ねて、確かめるように三度擦り合わせた。
 弱弱しく合わされた挨拶は「お手やわらかに」と言ったとこだろう。
 あぁ…やめられないよ。ほんとうに、やめられない。
 不意に扉が開いて、ゴンザレスがでかいケーキの箱を二つ息を切らせて運んできた。
 重なりを押してゴンザレスを早く返すよう促すと、傍らで深い溜息が一つ。
「オヤジさんこちらにお願いします。支払いはその都度で構いませんか?」
「有り難い。それで、今日はこんなもんなんだが、どうだ?」
「…どれも美味しそうです。早速棚に並べますね。支払いはこれで」
「確かに。すまんが領収書は明日で頼むよ。店が空になるからこれで失礼する。 千鶴君、ありがとう」
 ありがとう? あたしの耳もおかしくなったらしい。
 だいたいゴンザレスは人とあまり話さない。あたしとはちょっと違った無口なんだが…ゴンザレスから「ありがとう」なんて聞いた事あるやつは客でも滅多にいないと思う。むしろそう言われたなんて聞いてもそれすら怪しいくらいだ。あたしだって初めて言われたんだから、このお馬鹿は相当気に入られたんだろう。
 全くどういうやつなのか。
「気持ち悪い。けど、届けてもらえて助かる。 ありがと」
 目を丸くしたゴンザレスは、何やら聡に耳打ちをしている。内容は分からないが、あたしの逆鱗に触れる内容なのは何となく。後で聡を締め上げねば。
 今度はゴンザレスが声を上げ仰け反って驚愕の雰囲気だ。あのお馬鹿はまた何を言ったんだ? こりゃ教育が必要らしいな。覚悟しとけよ、お馬鹿。
「聡君はワシが早く唾つけとくんだった。まだ間に合うか?」
 やっぱりあのお馬鹿は余計なことを…教育よりもお仕置きだな。
「あたしは構わない」
 ほらっ 早くじじいの時みたいにあたしが良いって言いな。分かってんだろ?
「僕は…「心の蒼」が大好きです。なので、すみません」
 お馬鹿…そりゃストレート過ぎるだろがっ どんな顔すりゃいいんだよ。見てみろ、ゴンザレスの方が赤い顔してんだろ。あほ聡。
「藪を突いて何とやらだな。すまんすまん。はっはっはっ」
 あぁ…明日からが思いやられる…こりゃ釘を刺しとかないと。
「噂話にも気をつけてくれ。でないと…こいつが悲しむことになる」
 お前が嫌そうな顔しても駄目だろがっ お馬鹿…パワーバランスが大事なんだよ、こういう時は特にっ
「あ、あぁ、気をつけるよ。じゃぁまた明日」
 引き攣った顔でバタバタと帰って行くあの様子だと釘は深めに打てたらしい。なんとかイーブンってとこか。 まぁ初日だし、よしとしとこう。
「オヤジさんは千鶴さんが苦手みたいですね」
「ゴンザレスと何話してたんだ?」
「「いつもああなのか?」って聞かれたので、「いつも通りです」って答えただけですけど」
 こいつは何にも分かっちゃいない。とは言っても、そこは良いとこでもあるから気付くまでは放っておこう。
「あほ」
 深い溜息をつきながらお馬鹿はケーキの陳列に奮闘し始めた。
「千鶴さん。ケーキは上がいいですか? 下がいいですか?」
「そりゃ上がいいだろ。下は菓子並べるんだろ?」
「そうですね。あの、手伝ってもらっていいですか。ひっくり返しそうで」
 そんなに嬉しそうに言われちゃ断れやしない。けど、やってみるとかなり難しい。
ケーキに触れられないのが一番いらいらするが、結局あたしが荷物持ちみたいになって… 何か腹が立つ。明日からはゴンザレスにやらせよう。
 並べたガラス張りの陳列棚は凄く豪華に見えた。「いちご同盟」のこいつだからなのか…でもたまには褒めてやらないとな。
「案外それらしいな。凄いじゃない」
「初日だし気合も入ります。それに…千鶴さんとですから」
 そんな顔されたらあたしの方が照れるだろうが。
 我慢できなくてちょっとだけ「兎柄のお守り」をやってしまった。
 まだぼぅっとあたしを眺めてるこいつはとんでもなく可愛らしい。
「足りないのか?」
 可愛い兎は顔を真っ赤にしてキッチンへ逃げ込んでしまった。
ちょっとやり過ぎたかもしれない。
自重しよう…。

                    ○

 開店前から疲れて始まった今日のカフェは、こいつのせいでついにあたしまで借り出される始末だ。
 ケーキは飛ぶように売れて、二時間で完売してしまったし、こうゆう流れの時にはお菓子もいつも以上に出てしまうものなのか、棚の中にはもう少ししか残っていない。
 ゴンザレス、聡に感謝しろよ。それと、あたしにもな。
 そうだ、あのケーキをもう一回持って来させよう。あれは本当に美味かった。終わったら聡と一緒にまた食べよう。唇が触れるくらい小さくなるまでゆっくりと。 ふふっ
「お姉さまっ 緩んでますわよ」
「お、杏奈か。ちょっと遅かったな」
 あたしの言葉の意味が理解できないんだろう。きょとんと見つめる杏奈も可愛らしい。
「何ですの? 確かに少しお店に来るのが遅れましたけれど…」
「こいつに聞いてみな」
「嫌ですわっ」
 もぉ…毎回本当に楽しませてくれる。杏奈…最高っ
「それで、どうなさいましたの? 教えて下さいまし」
「ケーキ」
 陳列棚に目配せすれば命の危険に周囲を警戒する小動物がここにいる。
 こいつは笑えるっ やめられやしないっ あぁ‥腹筋が保つか心配だ。本当に。
「まさか‥完売……。お姉さまっ 酷いですわっ」
 天地がひっくり返ったような変わり様はやっぱり杏奈だな。そこらへんも凄く可愛いらしい。でも残念ながら責任者はこいつなんだ。
「仕入れはこいつ」
 傍らでびくりと体を震わせたこいつはきっと泣きそうなくらい困ってるに違いない。
 んふっ もぉ腹筋が限界だ。想像するだけであたしは壊れそうだった。
「碓氷っ 明日からはわたしくのキープを命じますっ よろしいことっ」
「仕入れを増やします。ご希望がありましたらお伺いしますが?」
「むぅっ…イチゴの‥タルト…モンブラン…」
「ご希望に添えるよ―――
「あはははは――――
 もう限界だった。 涙まで出てきて、もうちょっと油断してたら鼻水まで出てきそうだった。
 聡に頼むのがそんなに嫌ならあたしに頼めばいいのに、杏奈も不器用で可愛らしい。
 聡も引き攣った営業スマイルでいけしゃぁしゃぁとあんな事言って、本当に腹の底から笑ってしまった。
 杏奈は相当ご立腹のようで、引き攣った聡は怒涛の文句をまだ浴びている。
 紅茶セットの準備を終えたのか、杏奈は目を輝かせてあたしにそれを見せに来た。
 なんと、モンブランが乗っかっている。
 あいつ自分で食べる用に隠してやがったな。
「女々しい奴だろ?」
「今回は大目に見て差し上げますわ」
 宝石でも眺めるようなこの満面の笑みが、何より聡を喜ばせているんだろう。あたしはちょっとだけそれが解ってしまった。
 傍らの回転椅子では満足そうな溜息が聞えている。
 胸の奥、じわりと湧き上がるこれは何だろう。 凄く温かい。
「ほら。無駄話は嫌いだ。楽しんできな」
「もちろんですわ。 碓氷…ありが…」
 告げ切らないうちに嬉しそうに三階へ上がって行ってしまった。
 最後の方は消え入るようで聞えなかったが、杏奈が礼を? 聡に? ちょっと以外だった。
 傍らのこいつはあんまりの事に固まってるみたいで、頭で突っついてやったらやっと動き出した。
 きっと頭の中は明日のケーキの仕入れでいっぱいのはずで、何だか微笑ましいな。
「お前の食い意地もたまには役に立つんだな」
「あれはっ ‥千鶴さんと食べようと…」
 やっぱりこいつはお人よしで、お馬鹿で、器用なようでとっても不器用だった。
「嬉しいよ」
 あたしは少しだけ素直になれそうだ。
 重なりを互いに三度擦りあわせ、とてもとても満たされていた。
 それからはいつもの忙しさだったが、聡はそうもいかなかった。
 ケーキが無い事へのクレームと、杏奈同様にリクエストの嵐を正面から浴びていたからだ。
 「パイ」だの「ムース」だの「大福」だのと、よくもまぁ色々と出てくるもんだ。
 聡が言うには、明日から種類を増やして四ホール分置く事にしたらしい。本当にそんなに売れるのか心配だが、「残れば食べます」と豪語するあいつにしてみれば幸せなのかもしれない。 一つくらいなら手伝ってやるか。と、責任を押し付けて悠長に考えていた。
 装置でひとしきり悪戯した後、いつものように扉を潜った春子はこの顛末をひっくり返るほどびっくりして、あたしの方が驚いた。
 春子はこの店がそんな風に変化するとは思っていなかったらしく、あたしが許した事も含めてか、まだ唖然としている。
 食品衛生管理だの弁護士だのと心配事を捲し立て、あたしに忠告しだすくらいだから相当だろう。元々ネットカフェだし、多少忍術を使った衛生管理とその他諸々は開店当初から全く問題無い。でもその気持ちは本当に嬉しかった。
 当の春子も甘いものは大好物で、結局あたしがリクエストを聞く羽目になってしまった。
 お前のせいだ、あほ聡。
「甘いのはお互い様よ」
そう言われても返す言葉がなくって、「感謝してる」としか言えなかった。
 本当にそうだったし、寂しげな笑顔にはこれ以上とても。
 あと少しだけ、引越しの件はあたしとあいつだけの秘密にしておこう。
 春子に秘密なんて‥あたしも少し変われたんだろうか。
 交わされる言葉は何処か遠くに聞こえていて、胸は温かくも繰り返し、巻かれた茨を鼓動のリズムで押し広げるのだった。

                    ○

 翌日からは本当に大変な事になった。
 あの時は余れば一つくらいなら手伝ってやろう…なんて甘い事を考えていたのがそもそもの間違いで、開店四時間は全く座る事が出来ないくらい走り回った。
もちろん聡はずっと走りっぱなしで、キッチンでもあたふたと右往左往している。
 四ホールなんてあっという間に無くなって、またリクエストの嵐を受けていた。
 これはちょっと考えた方がいいのかも。
 聡の分析によれば、まだ定着していないのと、品切れの危機感から争奪戦が繰り広げられているらしく、しばらくは落ち着くまでの辛抱らしいとの事だ。
 開店前にゴンザレスは嬉しそうに追加の注文を受けていたが、まだまだ増えそうで心配だ。ほんと‥大丈夫だろうか。
 とにもかくにも、落ち着けたのが聡のバイト終わり前だったからなんとか助かった。
 勿論、その仕返しは装置でたっぷりと。 ふふっ
 あ‥そう言えば春子のケーキを取り置くの忘れてた。こないだの借りもあるし、結構やばい…確か、あいつがこっそり隠してたあのロールケーキ、あれを「利子」に捧げよう。
 聡…ごめん。
 そんな上っ面とは対照的に、あいつの怒困の顔が浮かぶようで、それはそれで楽し気な予感が脳裏を過る。
 ペン立ての「神様」を走らせながら、利己的な願いを連ねるのだった。

第六章

 先週の千鶴は私の知る限り初めて見る姿ばかりだった。
 どんなに強請られようと、あんな顔で、あんな声で、あんな姿で強請られる事なんて一度もなかった…
 彼は千鶴にとってそれ程大切で、あったかいんだね。
 ちょっとだけ寂しい。 けど、やっぱり嬉しい。
 「心の蒼」にはもう長く通ってるのに、ここ最近の変わり様は私もびっくりするくらい。
 あの娘には絶対無理だし、ましてやあんな事までOKするなんて思いもしなかった。
 だから本当にびっくりしちゃって… でも、あの娘のあんな顔見ちゃったら笑わずになんていられないけどね。 ふふっ
 世の中は連休で私も色々と誘われてるんだけど、週末はいつもより早い時間に顔を出す事にしたの。
 理由?  んふっ
 それはね、先週のあの娘がちょっとだけ変だったのもあるんだけど、メールで「カフェ止めたい」って愚痴ってきたからなのよ。
 こんな風に甘えてもらえるのは前のあの娘と同じなのに‥どうしてだろうね。今は全然違うのよ…。
 ううん、いいの。
 それにね、今回はちょっと毛色が違うみたいだったの。
 で、冷やかし半分って訳。 んふっ
 あの娘ったら可笑しいのよ? 開口一番「いらっしゃい」だって。
 ふふっ
 あの千鶴がよ? 信じられる? んふふっ
 あ、ごめんごめん。 お酒こぼしちゃったね。 ちょっと待ってて。
 テーブルの文房具やらお酒の缶は足音で小さくオーケストラだ。
 ん…しょっとっ。
 OKっ で、続きね。
 一番面白かったのがね、彼、聡君。
 千鶴の彼よ。前に話したでしょ?  うん。
 で、彼とあの娘が喧嘩してたの。まぁ、喧嘩ってよりは…いつもの千鶴の一方的なへそ曲がりなんだけどね。 ふふっ
 んっ~ぁ~…  あら、これ美味しいわね。買い溜めだわ。
 ん? ぁ、ごめん、でね、事件の詳細はこうなの。
 カフェを開放したのは聞いてるでしょ?
 そう。そのカフェに噂がたってて、それがほんと面白いのよ!
◆ 「心の蒼」でお茶するとその恋は必ず実る ◆
 だってっ んふっ あははは―――
 ごめんごめん。あんまり可笑しくって。でも、どこにでも有りそうで無い話でしょ?
 んふっ それにね…その噂の原因はあの二人なのよ。
 知ってるでしょ? あの娘が彼にべったりなのっ ふふふっ
 要はそれが原因って訳。
 んっ…ぁ~ 美味しい。
 でね、開口一番の「いらっしゃい」の意味が分かっちゃったのよ。
 え? 分からないの?  お馬鹿ねぇ~ ふふっ
 それはねぇ… あの娘がもっとべったりになってたのよっ  あはは――
 ん~…あら、空いちゃった。ちょっと待っててね。
 テーブルの空き缶はわたしの足音を殊更おでぶみたいに響かせた。

 しょっと。
 あ~ 私もおばさんの仲間入りかなぁ~ 「よいしょ」って。 ふふふっ
 でね、あれ? どこまで話したっけ?
 ん~…! そうそう。 もっとべったりになってたってとこまでね。
 んっ…ぁ~それでね、あの二人を見てたお客さん達の噂が広まっちゃってこんな話になっちゃってたの。可笑しいでしょ? ふふっ
 それに、あの千鶴がね、カフェだけ男の客もOKにしちゃったんだよ。信じられる?
 それが女性客からの猛プッシュで渋々OKしたらしいんだけど、そこからがまた面白いのよ。
 「カフェの男性客はカップル限定」なんだってっ あははっ
 あの娘もほんとに変わったわぁ… ふふっ
 でね、お店の中もべったりなカップルばっかり並んでて、あの娘のおへそ曲げちゃったって訳。
 だからね、それがこのメールの顛末なのよ。笑えるでしょ? ふふっ
 そしたらあの二人、ほんっとにお馬鹿なのよ。 んふっ
 んっ…ぁ~
 で、私、はっきり言ってあげたの。
「カフェは聡君の発案でしょ?  それにね…貴女達見てたら噂の出所も頷けるわ。 気付いてる? 破壊力は相当なものよ?」
 ふふっ そしたらあの娘、あんな顔するんだもん んふっ あはは―――
 あ~可笑しいっ んふっ
 でね、もっと面白いのがね、あの二人それに全然気付いてなかったのよっ あははは―――
 あ~ 明後日あたり筋肉痛だわ。 んふふっ
 それにね、それを周りには隠せてた気になってて、顔には「むしろ我慢してる」って書いてるんだから大笑いしちゃったわよ。もう可笑しくて可笑しくてっ んふふふふっ
 あ~、あの二人の顔見せてあげたかったわぁ… ほんと‥幸せそうだったんだもの。
 んっ…ぁ~ やっぱりこれ美味しい。
 ん? 続き? うん。 そうね。
 私はお姉さんだからちゃんと解決策を提案してあげたわ。だから、他のお客に聞えるようにこう言ってあげたの。
「黙らせるくらいもっと見せ付けてやればいいのよ」
 そしたら二人して真っ赤な顔してそっぽ向くんだから。 ふふっ
 可愛くって笑わずにいられなかったわよ。 んふっ
 んっ…んっ‥ぁ~
 で、それにはちゃんと考えがあって、あの二人は凄く不器用なのよね、根本的に。
 だって自分達が噂になってる事も、お馬鹿な破壊力にも気付けてないのよ?
 ふふっ だから回りくどいのは止めにして、ストレートに荒療治って訳。
 私って凄いでしょ? んふっ
 だから今週末にでも早めに行ってみるつもりなの。 楽しみでしょ? ふふっ
 んっ…ぁ~
 あら、空いちゃった……
 流石に腹筋も保たないし、何だか疲れちゃったわ…。
 貴方も疲れたでしょ? そぉ? んふっ
 それじゃ、おやすみなさい。 ふふっ

                    ○

 ちょっとっ 聞いて聞いてっ また腹筋千切れそうだったのよっ んふふふっ
 ちょっと待ってて、すぐ着替えるから。
 あ、今日はおつまみもあるのよ。ピスタチオっ
 欲しいの? だぁ~んめっ ふふっ

 それじゃ~お仕事お疲れ様~ かんぱ~ぃ!
 んっんっ…ぁ~~
 仕事終わりはやっぱり美味しいわぁ~  んっ ピスタチオも美味しいっ ふふっ
 そうそう! で、聞いてくれる? あの二人の顛末。 んふっ
 あ~今日は腹筋もつかしら。 んふふふっ
 それがね、 さっき行ってきたんだけど、もぉすっごい効果で大爆笑しちゃったわよっ あははは―――
 ごめんごめんっ でね、あの二人やっぱりぎくしゃくしちゃっててね。
 どう言えばいいかなぁ… ん~‥中学生みたいだった、かな? んふふっ
 そうっ あれじゃまるで初恋の中学生よっ あははははは―――
 は~ 可笑しいでしょ? んふっ
 でね、見てるこっちがいじらしくて大笑いしちゃった訳。
 そしたらあの二人の顔ったらないのよっ んふっ
 特にあの娘の顔ったらなかったわよっ ほんとにっ んふふふふっ
 んっ…ぁ~  やっぱりこれ美味しいわ。
 んふっ でね、あの娘、怒るに怒れずむすっとしてたんだけど、お客さん達にも効果があったらしくって、「助かった」ってあんな顔して言うもんだから可笑しくて可笑しくて。 んふっ
 そりゃ破壊力満天なのが自分達もだって分かればお客さんだって自重するわよ。ねぇ? あははは――
 ごめんごめん、んでね、そんな感じで、結局はお客さんのマナーの問題だったんだけど、なんとか一件落着した訳なの。
 んっ…ぁ~。
 でもね、千鶴はやっぱり腑に落ちない様子で憤慨してたけど、聡君は何やら納得のご様子だったし、面白かったのがね、千鶴のべたべた意地悪攻撃をやんわり受け流してた事。
 聡君もなかなか… ふふっ
 だから、最後に千鶴に意地悪しちゃった。
「お守りって香水でしょ? ここで売ったらどうかしら?」
 何でお客さんまで分かるくらいバレちゃったのか教えてあげなきゃね。
 だって千鶴の香りが聡君から漂ってくるのよ?
 バレバレよねぇ~ んふっ
「カウンターが狭いからだ」
 なんて、そんな事言うんだから。あんなに慌てちゃって、ねぇ? ふふっ
 ほんと可愛いわよ。 んふふっ
 それにね、聡君も前とは少し違ってて、千鶴との立ち位置が少し変わったのかも。
 だってね、「眺めてるとそれ以上かもしれませんね」なんて言うのよ?
 まだちょっと板についてないけど、ほんとに素敵になったわ。悔しいくらいよ。
 その後の千鶴の顔も凄くて、もぉ可笑しくて可笑しくて噴き出しちゃったんだから。 んふふふっ
 そりゃ千鶴だって怒るに怒れないわよね。あんな風に言ってもらえたら嬉しいに決まってるもの。
 でも… あの顔はないわよっ あはははは―――
 ほんとに恨みがましく聡君を見つめる千鶴はとっても可愛くって、意地悪く微笑みながら千鶴を見つめる聡君も凄く可愛らしかった。
 だからね、凄く羨ましくって、ついつい言っちゃったの。
「私も彼とイチャイチャ見せ付けてやろうかしら」
 貴方は笑ってくれる? ふふっ
 そしたらね、ほんっとに嫌そうな顔して言うのよ?
「簡便してくれ。もうこりごりだ…」
「…ですね」
 って自分達の事は棚に上げてそんな事言うんだから、失礼しちゃうわよ。全くっ ふふっ
 どう、貴方は笑ってくれるかな。
 私も意地が悪いから帰り際にもうちょっとだけ意地悪になったの。
「仲良く喧嘩してね」
 そう言いたかったけど… だって、ね…
 辛くなるの分かってたから。
 だから、…ね ‥ちょっとだけ  泣いていい?

 陽炎越の向こう、突っつく小さな鉢はカタカタと、丸いサボテンは笑ってるみたいに揺れていた。

                    ○

「あらあら。ご馳走さまな顔だことっ」
「あぁ、いらっしゃい。あいつのおかげで大忙しだからな」
「大儲けでしょ? ふふっ」
 視線はピンクのマグカップ… 春子も意地が悪いってもんじゃない。けど、考えてみても春子のおかげなんだよな。ここは礼の一つでも。
「感謝してる」
 相変わらず意地悪に笑う春子はちょっと痩せたみたいだ。
「じゃぁあたしも貢献しなきゃね」
 いつものように差し出すその手も以前の艶やかさは薄らいできてる。
「疲れてんのはお互い様。甘いものでも食べる?」
「千鶴たち見てたらもう十分。 ふふっ でも折角だから「いちごのムース」頂くわ」
「コーヒーとガトーショコラも付けとく」
「あら。良い事でもあったの?」
「別に。この時間からだとたぶん残るだろうし、美味い時に食ったほうがいい」
「ありがと。あまぁ~い彼にもお礼言っといてね。 ふふっ」
「良く言っとく」
「んふっ 素直になったわね。 千鶴‥凄く綺麗になったもの」
 急に変な事を言い出すのはいつもの事だけど、穏やかな瞳は潤んでいるようにも。
「いつも通りだよ」
「ご謙遜。ふふっ」
「おばか。いつものとこでいい?」
「うん。ありがと」
 いつものようにカードにキスしてお茶セットを持って階段を上っていった。
 ちょっと疲れてるみたいで心配だな。後でそれとなくメールしてみよう。偽りなく、春子にはずっと幸せでいてほしいんだ。
 あの頃のあたしは、きっと今の春子みたいに見えてただろう。あいつはどんな風にあたしを見てたんだろう。そんな話なんてこれっぽっちもしてないのに、それなのにあいつを全部知ってるみたいな気になるのはどうしてだろう。
 最近あいつの事を考えるとこんな事になってしまって、不安とかそう言うんじゃなくて、何かあいつの考えてる事が妙に気になってしまう。
 聞けば解決するって訳でもなくて、あたしの納得のいく答えをあたし自身が見つけられずにいるいるような… たぶん、それがとても知りたいんだ。
 そう言えば、あいつとキスすらした事がない…これって問題じゃないだろうか。
 世のカップルはどんな風に愛し合うんだろう。
 たぶんあいつは童貞で、一線を越える事を恐れてるようにも感じるし、我慢してるようにも感じる。けど、そう言うあたしだっていい歳して枕にしがみついてるし、それに、あたしにだってそうしたい時はあるんだ。
 あいつの事考えながら枕にしがみついてるって知ったらどんな顔するだろう。
 その前にあたしが恥ずかしくて死んでしまうかもしれない…
 やめよう… 不毛だ…。
 前はそんな事すら思わなかったのに、今はそうじゃない。 …何でだろう。
 こんなだからあいつの事を考えると疑問ばかりになってしまう。
 いっその事もう籍だけ入れてしまおうかな。それから、キスだってしたいし、ちゃんと愛し合いたい。そうすればこんな事を考えずに済むのかもしれない。
 いや、それも違うのかな。よく分からない。
 椅子に座って、あいつの事ばっかり考えるのは幸せだけど、最後は何か腹が立つ。
 次のメンテ日には覚悟しとけよ。 あほ聡。
 そうだ。メンテ日に春子も呼んで一緒にご飯を食べよう。
 久々に一緒にお酒も飲んで、楽しい時間を過ごそう。
 あいつはちゃんと分かってくれるし、春子だって喜んでくれると思う。
 春子の彼も呼べればそれが一番いい。皆で一緒に楽しもう。 ふふっ

 帰り際の春子にそう告げると楽しげな笑みを返してくれた。
 あたしは酷い女だろうか。
 以前の恋人にも、現在の恋人にも好かれたいと願う醜い女なんだろうか。
 例えそうであったとしても幸せでいてほしい。そう願うことは昔となんら変わりない。
 カネノナルキが目撃してるように、白髭サボテンが目撃してるように、それが全部で、あたしなんだから。

                    ○

 気持ち悪い…
 トイレまでなんてとても間に合わなかった。
 ベッドから滑り落ちたままゴミ箱を抱えて、胃の中のもの全部吐き出していた。
 涙が出てきて、辛くて、苦しくて、頭痛は割れるよう。
 「聡」―――
 そう呼んでいたけど、言葉になっていたかは分からない。

                    ○

――― さんっ ねぇっ 千鶴さんっ 千鶴っ  千鶴ってばっ」
「あぁ、千鶴さん。大丈夫ですか?」
 半泣きの聡があたしを抱えて呼んでくれていたのに気付いたのはどれくらい後だったんだろう。
 見たら凄く安心してしまって、心細かったのが嘘みたい。
 あぁ…温かい。
「千鶴さん? ねえ、凄い熱だし、大丈夫ですか?」
 こいつ険しい顔して泣いてやがる。あたしはお前の泣き顔なんて見たくないのに。
 泣かないでくれよ。あたしまで悲しくなるだろ。  お馬鹿。
「呼び捨てにしたろ‥あほ」
 頭が痛かったからなのか、このだるさからなのか、精一杯笑ったつもりなのに、飛んできたのは罵声だった。
「あほはどっちですかっ こんなところに倒れて死んでるのかと思ったじゃないですかっ」
 本気で怒ってくれてんだ… 可愛いったらありゃしないよ。
「ごめん… 悪いけどベッドまで…」
「そうですね、すみません。寒かったでしょ?」
 自分の目尻を肩口で拭いながら軽々とあたしをお姫様抱っこして、優しくベッドに寝かせてくれる。
 そうだ。こんな風に抱き上げられる事が密かな夢だったのに、こんなんじゃ格好がつかないよ。馬鹿だな、あたし。
 馬鹿ついでにまた今度やらせよう。 うん、絶対やらせよう。
 嗚呼…それにしても風邪なんて何年ぶりだろう。気持ちの緩みなんだろうか。
 それから汚れた顔を綺麗にしてくれて、節々の痛みでままならないあたしの服を脱がせてくれた。
「下着、ホック‥外して」
 下着の締め付けが窮屈で息苦しくて外してほしかっただけなのに、こいつは馬鹿真面目に下着まで取り替えようとする。流石にそれには大真面目なお馬鹿の間違いを訂正しなきゃならなかったが、そこにはいやらしさなんて欠片もなくて、凄く真剣で、あたしの方が恥ずかしかった。
 五年くらい前だったら「お嫁に行けない」って冗談にも言いそうだけど、もうそんな歳でもない。けど、下着までは恥ずかしいだろが。 あほ。
 でも…言ってみようかな。どんな顔するだろう…
「もぅお嫁に行けなぃ」
「僕がもらうからいいんです。 はぃ、体温計です。 あーんして」
 怒ったような顔でそう言うのは、きっとあたしが無理してた事への怒りだろうし、それにお馬鹿でお人好しのこいつの事だ、それに気付けなかった自分が許せなくてそれどころじゃないんだろうな。
 でも、「あーん」って ふふっ 「僕がもらうから」なんて真顔で言うんだから泣けてくる。
「どうしたんですか? 痛い? どこ?」
 そんなに慌てなくっても大丈夫だって。
「頭。だるい。熱い」
 言ってたらもっと泣けてきて、しがみついてしまった。
 体温はもう一回計らないといけなくなった。あたしもとことんお馬鹿だ。
 毛布をかけてもらって落ち着いてからも、とにかく体がだるくて、熱くて頭が割れるようだった。けど、撫でられてる手が温かくて、頭の痛いのがとれてくみたいに気持ちいい。
 それ大好きだ。
「八度六分か… 氷と‥お水も飲みたいでしょ? 準備してきますね」
 シャツの裾を握り締めていた。 どうしても一緒に居てほしくて。
 体中の関節が痛くて、痛かったけど、どうしても居てほしかった。
「分かってます。すぐ戻ってきますから、良い子にしてて下さい」
 温かな温もりをあたしの甲に残し、扉へと向けられた横顔はすぐさま遠ざかる。
 だめ! 行かないでっ
 開く装置のハッチ、微かなモーター音が伸ばしたそれを倒木のように横たえた。
 あぁ… 夢、だったのか…。

 のろりシートに座りかぶりを振る頭はまだはっきりとしない。その声はちゃんと耳に届いてはいても。
「千鶴、時間よ。速く上がってきて」
 春子‥やっぱり少しやつれたな。そんな事を想った。
「悪い。すぐ上がるよ」
「本当よ。心配かけさせないで」
 ちくりと刺さる真剣な余韻を普段の明るい声音が包んでくれる。
「だな。あたしま―――
「ごはんっ 千鶴のおごりだからね」
 遮る語尾を落ち着けたのは春子の優しさなのは、いや、呆れているのかもしれない。
 そんな笑顔はあたしを待たず、階上へと消えてしまう。
 あぁ‥そうか… あいつが行ってしまって、もうひと月…。
 カプセルハッチ越し、隣りの八番機はいつも通り、低くそう唸っていた。

                    ○

「ごめん。ごはん、どこがいい?」
 溜息はとても深い。自分でそう思うくらいなんだから…しょうがないか。
 千鶴は店の片付けやら掃除を終わらせて、相変わらずぼさぼさの頭を掻きながらそんな風に切り出した。
「そんなに我侭じゃないつもりだけど?」
 そう。最近の貴女はそんな風にしか笑わなくなったね。
「ごめん。じゃ「入来(いりき)」へ行こう」
「うん」
 ここ最近は「入来」ばかりで、流石に食べ飽きたのもあるし、中華は胃にもたれるのに私はそれを言い出せずにいる。それに、千鶴の身支度がとても早いのはお化粧の行程を省き過ぎてるから。
 だからそれへの忠告も言えないでいる。
 聡君が八番機で眠り続けてひと月と少し。閉店間際のお昼前、彼が目覚めなかったその日、千鶴は見た事も無いくらい取り乱していた。
 私が側に居るのさえ気付かなかったほど。
 そんな装置を私の職場が導入していて、それを使って私が眠ってるなんてこの娘が知ったら… そんなだから、そんなの言える訳無いじゃない。
 それでもこうして一緒に居る事を言い訳のように喜ぶ私は、そんな私をお馬鹿で本当に幸せ者だと、今更ながらの軽薄さで薄汚れた心中だ。
 あの日から、ずっと隣りの六番機で毎日眠る千鶴が痛々しくも辛くて、苦しくて、それでも裏腹に嬉しくて。いっそ彼がこの世から居なくなっていたほうが… そんな酷い言葉さえ浮かんでしまう、可愛くない女になってしまった。
 だから懺悔の罪滅ぼしはこのカウンターの回転椅子に座る事で、あの娘に睡眠時間を提供する日々を送る事になったわけだけど… それ以前のどこか満たされていた幸せは欠片も無くなっていた。
 意地の悪い、酷い自己満足。
 分かってる。分かってるけど‥ こんな事しか出来ないんだわ。
「じゃぁ、行こっか」
 整えきれてない乱れた髪。目元のクマも色濃いカサついた唇で答えるこの子の笑みはどうしようもなく私を責め立て、じわり、じわりと真綿の一瞥で扉へと進む。
 だから私は、今、何も言えないでいる。

                    ○

 「入来」の敷居を跨いだ時、続け様の来店に気付いて春子を視野の端で窺った。
 呆れたような長い溜息でも笑顔はいつも通りだ。
 そう、いつも通り。
 「収穫でした、千鶴さん」なんて言ったあの日から、あいつが装置で眠り続ける日々の春子はこんな顔で微笑んでくれる。
 それが、どうしようもなく辛い‥。
 それはあいつがあたしの傍に居た以前より近くて、とても近くて… 近くて‥酷く苦しい。
 こんな心持ちになるのは、あの装置で観る夢が現実と変わらないくらい現実的だからだろう。
 事実、あたしは記憶の中で風邪もひき、あいつに看病され、フルタイム営業の店のカフェじゃケーキまで出してるってのに…。
 現実はそんな看病なんて一度もされてないし、そんな記憶が辛くて始めた無理やりのカフェはコーヒーと紅茶。お守りを初めて渡したあの日、あいつが言った記憶の中のお馬鹿な趣味、お取り寄せを始めてしまったこんなあたしをとてつもなく億劫にさせるだけだった。
 この「健康お粥コース」すら喉を通らないくらいに。
「ほら、頼んだの千鶴でしょ。しっかり食べなきゃだめよ」
「あぁ。春子のそれって何?」
「あなた… ちゃんと注文聞いてた? もぉっ 「魚介の炊き込みご飯・低カロリー美容コース」よ」
 静かに怒るその説明よりも、箸を握って立てられた揺れる人差し指に触れもせず小突かれる。
「これだからもぉ。それはそうと、聡君はどうなの? お店のままでいられる?」
「うん。沢木のじじいと医者が言うには」
「そう… 彼のお母さんは、何て?」
 それは… 考えたくもない。
 あの日、あたしは今までの人生で聞いたどの罵声よりも、あいつの母親の、あの眼が焼きついて離れない。
 あいつの父親が諌め続けても止まなかった無尽蔵に飛ばされたどの罵声よりも、あたしの今を、こうしてどうしようもなく縛り付ける。
 その日、飛んで訪れた「びわの」の専務、それに沢木のじいさんと市の職員、それに警察にも母親の矛先は向けられたが、行政への掛け合いや八番機からの原因究明に奔走する彼等より、何も出来ずただ立ち尽くすだけのあたしの方へ、今も多くは向けられたままだ。
 子供なんて持った事のないあたしは只、ただその吐き出される全てを浴びる事が…それしか今は‥今は出来ない。
「あの人は‥ あの人もその方がいいらしい」
「‥そっかぁ。あれからずっと毎日だものね。 お昼の間だけ?」
「そう。十二時前にはいつも」
「そっかそっか。じゃぁもうお店で親子してるわけだ」
「うん。顔合わせ辛いし」
「ん。時間は大切よ。言葉じゃないわ」
 この笑みの春子に、結局言葉は出てこない。
 縦に振る首はあたしの頭じゃないみたいに支えるのが面倒だ。
 含んだ味の無いお粥、添えたほうれん草の煮浸しも砂を噛むように口を止める。
「ねぇ、そう言えば、「びわの」の専務って言ってたあの小デブちゃんは何も言ってこないの?」
「うん。事故の原因究明と人命が最優先とか何とか。それからは何も」
 小デブちゃんかぁ。そう言えば淵東(えんどう)とか言った専務はあれから本当に全く音沙汰が無い。それに、市の職員、盛川って言ったっけ。あの男は今日の夕方に来るって言ってたな。沢木のじいさんは明後日だって言ってたし、このところ来客は招かざる客ばかりだ。
 だからあの日から二日も経てば新聞やらテレビやら、メディアの取材が店の前を取り囲んでそりゃ大変だったし、多少落ち着いた今でも招かざる客の方がやっぱり多い。
「なるほどねぇ。どこもかしこもたらい回しって訳だ。 そうそう、「びわの」の「季節の森未帰還者」ってどこの局でもそんなニュースばかりだけど、「帰覚者」も結構いるらしいわ。 って聞いてる?」
「‥あぁ、ごめん、聞いてるよ。けど、あたしはあいつの家族じゃないから」
「もぉっ そう言う意味じゃないの。彼も「帰覚者」になる確率が高いって事よ」
 こんなだから春子が助力を申し出てくれたのがどんなに救いになっているか知れない。
 臨時休業のあの日から三日で営業再開出来たのも、メディアを蹴散らす嵐のような対応、眠れなくなったあたしの変わりに、あいつが装置に入ってた午前三時から、あいつの母親を迎える為に早仕舞いを始める八時までの店番と、寝返りをうたせる聡のケアを買って出てくれたんだ。
「感謝してる」
「何よ今更」
 ほら、あの笑顔で今も微笑んでくれるんだ。事故のあったあの装置で同じ時間に眠り、夢の中であいつを探すこんな馬鹿なあたしを。
 そんな春子だから、利用停止の装置で眠ると言ったあたしの背中を優しく押してくれたんだ。
 一言も、何も言わずにそっと。
 ごめん。
「もぉ、そんな顔されちゃ喉も通らないわよ。ほら」
 左手のお粥碗に放り込まれた人参は、崩れるほど優しい飴色の甘煮だった。

                    ○

「ちゃんと休むのよ」
 駅前大通り、指を立てての決め台詞を押し付け、春子は踵を返す。
 仕事に出掛ける元恋人を見送るのが、ここひと月の見慣れた光景だ。
「ありがと」
「仕事、だからね」
 後ろ手に手を振りながら、足早なヒールは音を立てて行ってしまう。
 きっと春子に流れる時間の速さはそうなんだろう。
 あたしは‥ あたしは足踏みさえままならない、ゆらゆらと揺れながら立ち尽くしたそのままだ。
 そんなあたしをたぶん、きっと春子はもどかしいんだ。
 あたしが、いつまでもこんなだから。
 握り込んだカサついた指、もう一度強く握り込んでみる。
 力は、ちゃんと入ってる。大丈夫、あたしは大丈夫。
 春子は振り返らぬまま、いつも通り颯爽と改札を抜けて行った。
 いつもより返す踵の歩幅は大きく、あいつの眠るあたしの店へ、パンプスの響きも高らかに。

                    ○

 「心の蒼」、大通りの角から店を眺めていた。
 この店を買って初めて眺めたのがこの場所だった。
 忘れられるわけがない。
 傍らには春子も居て、「ワクワクするね」なんて自分事のように喜んでたっけ。
 あれから何年経ったのか、それこそ‥ばあちゃんになってそうなくらいにも。
 ふふっ 馬鹿だ。
 一足、二足、足元を見守る視線にも何故だか笑えてくる。
 でも、そう思えるくらいには歳をとったわけだ。自分ながら他人を見るようで、それはそれで微笑ましい。
 さて、あいつはどうしてるかな。母親と親子してんだろうな。
 たぶんあたしの愚痴を母親から耳にタコぐらいに聞いてるはずだ。それが少々刺さろうが‥もう動じない。動じてなんてやりはしない。
 決意の扉へ一息に腕を伸ばした。
「馬鹿って何よっ 分かってるわよそんな事くらいっ」
 腕を‥止めてしまった。
「今更‥ そんな事を言いたいんじゃないのっ」
 聡の、母親の声だ。
「私だってね、こんなの言いたいたくないのは分かってるで… だからちゃんと聞いてっ」
 電話‥か。
 何にしても聞き耳を立てるほど噂には不自由していない。
 時間、潰してくるか。
「千鶴さんっ 聡がそう言ってたでしょ、あの人なんて言わないでっ」
 危うく声を上げそうで、ぞわりと心臓は凍りつく。
 それでも酷く脈打つ胸、踵は返したまま縫い付けられた。
「そう。私はね、私は感謝してるのよ。 ‥でもね、悔しいじゃない…」
 大通りの角、段差に踊る自転車は警音器を響かせ通り過ぎる。
「そうでしょ? 母親なんてそんなものなのよ。それにね、千鶴さん凄いのよ? 私が来るまでにお掃除も何もかも終わらせててね… うん、そう。ちゃんと着替えさせて帰るのに、聡の服が毎日変わってるの… 前髪だって綺麗に整ってて… それに髭だって全く伸びないのよ? ‥何でかしらね…。 だからここに来てもする事なんて何もないの。何もないから… 分かる? お父さん」
 涙声だった。瞼から溢れて止まらなかった。息も出来ない咽る口元は覆えば酷く漏れてしまって、啜り上げる鼻水も、奥歯も鳴らして止められない。だから拭えもしなかった。
 電話口の声は聞こえていても、縫い付けられた足は言う事を聞かず留まらせる。
 覆った手にも、七部袖Tシャツを握り込む手にも、力ばかりが震えのようにあたしをずっと揺さ振っていた。
 動じてなんてやりはしない。 動じてなんて‥やりはしない…
 意固地な痴態を晒し、それでも頑なに振り払う生意気な自分を恥じるようで、とても歳相応の振る舞いではなかったというのに。
 際限なく浴びせられた罵声に込められた意味になど、全く気付けず立ち回る愚かなあたしをあの人は‥あいつの両親は‥ あたしは… 本当に大馬鹿だ。
「千鶴さん。 貴女のお店でしょ。入りんさいよ」
 びくり半身で窺うあたしを、眉根の深さが恐ろしくも温かく見据えていた。
 「千鶴さん」そう呼ばれたのは初めてで、何故かそれが嬉しくて、辛くて、苦しくて、溢れても尚こみ上げる感情を抑え切れない。
 暖かな掌が背中にそっと触れて、ゆるり動きだす。
「ごめんなさいね。  ありがとう…」
 覆った手は意味を成さなくなった。
 唯々温かくて、優しくも突き刺さる。
 聡が行ってしまったあの日。あれから初めて、あたしは人前で涙を流した。
 無節操に、恥しげも無く露な醜態で。
 背中の温かさに促され、剥がれてようやく動き出せた。
「さぁ、入りんさい。これじゃ私が苛めてるみたいじゃない」
 不満気で柔らかくて、それでいて温かくて妙に染込んでくる。
 泣けるほどに笑えない、とても‥とても酷い冗談だった。

                    ○

「聡はね、お人好し過ぎるのよ。気を使い過ぎるの」
 キッチンのシンクで高ぶりを拭うあたしに、そんな言葉が虚ろに響いた。
「だから…まぁ、言わなくても…ね」
 母親とは偉大なのだと、我が母親に痛いほど教えられていたはずなのに、あたしはそれを理解できないでいたんだ。
 我侭で、年端もいかない小娘みたいに。
「はぃ」
 鏡の中は酷い顔だった。それこそ、十年後の自分を観るように。
「少し‥話さない?」
 晒すなら今しかない。そう思えるほど暖かい温もりに満ちている。
 この場所からの返事は無礼だ。と思えば、足はロビーのテーブル、向かい合わせの椅子へと腰を下ろしていた。
「だけど‥酷い顔ね。美人が台無しだわ」
 悪戯娘のそれのように頬杖をついて言われても仕方ない。
 言葉なんて出てこなくって、眼も合わせられなくて‥ 絡めて握り込んだ両手を腿で挟み、ただテーブルの一点を見つめる事しか出来なかった。
「ここはね、笑うとこなの。碓氷家のマナーよ」
 碓氷家… そうか‥あたしは蜷川家の人間で、骨の髄までそうなんだと今更ながら言葉の真意を飲み込んだ。
 事実とは異なる記憶の中、酒を飲んで甘えては食事と共に満たされて、ここがあたしの「家」なんだといつもあいつは教えてくれていた。
 精一杯の笑顔でいたいのに喉の奥は苦しくて、嬉しくて、溢れそうな目尻が頷きたいあたしを留めたまま、陽炎の向こう、おぼろげに見える偉大なこの人に向けるのがやっとだ。
「綺麗だわ… 聡も面食いね」
 頷きたくも留めたい目尻からはぱたぱたと、挟み込んだ両手に滴る雫は止められない。耐えられやしない。
「すみまぜんっ あたじっ あだしっ‥あた―――
「笑うところなの」
 柔らかく遮られ、呆れた風に笑っていた。
「碓氷家、なのよ」
 それは優し過ぎて、嬉しくて、うれしくて、向けて無理やり言葉にした。
「あ"い」
 数瞬の間の後、弾かれたように笑われてしまった。豪快に、「ようこそ」とでも楽しげに。
 鼻水だって凄くて、それでも俯けやしなくて、拭うなんて到底無理だった。
 投げかけられた言葉はあたしの隙間に滑り込んで、喉の奥を苦しいくらい急き立てる。
 無理に止めようと、咽びで溢れた全てがぐしゃぐしゃになって、それでもいいやって思えて、咽びはもっと引っ掛かる。
 鼻水を啜り上げるあたしに差し出されたハンカチは、記憶の聡があたしに差し出したそれ。
 気付けば反射的に手を向け、今のあたしにそれを握る資格は無いと思えた。だからテーブルの上で合わせた両手は握りこんでぐっと堪える。
 だのに… 涙でぐしゃぐしゃの両手を、聡のそれで拭ってくれている。
 拭ってくれて…

 声を上げていた。
 節操もなく、溢れる全てを漏らしながら。

                    ○

 どれくらいそうしていただろう。
 肩も、腕も、喉も、背中も、筋肉痛みたいに突っ張って酷い痛みだ。
 重ねられた掌とハンカチはあれからずっと離れなかった。
 咽びも、溢れた諸々も潮を引き、陽炎越しだったその人の笑顔は変わらない。
「すみません」
 声にならない声だったし、こんな顔じゃ様になんてなりはしない。
 鼻水を啜り上げながらなんて、今まで経験すらないんだからそんな言葉しか出てこなかった。
 それでも笑顔をくしゃりと、落ち着いた響きはあたしにじわりと伝わる。
「聡は‥ね、貴女の事ばっかりだったの。 あ、前にね、電話で話したのよ。だから私慌てちゃって。取り乱しちゃってね」
 宙を舞う瞳は何かに耐えるようでもあり、遡るようでもあり、それらの想いの先、向けられたのは露に醜態を晒す本音のあたしへだった。
「正直に言えば‥嫉妬ね。恋人を取られた感じ。 解る?」
 そんなに単純な言葉じゃないのはちゃんと理解できた。だから解るなんてこれっぽっちも思えなくて、振ってそれには答える。
「そうね、貴女はこれからだもの」
 眩しいくらいの笑顔があたしを見つめていた。
「だからっ 悔しいのよ」
 突然続いた笑顔のままハンカチ越しに力強く握られて、ハンカチを残してするりと離れた。
 両手から視線を外せずにいたあたしに、何事も無かった風に平然と、それは当然とばかり当たり前の如く。
「聡の管理は貴女の役目、でしょ」
 素っ気なくも、懐の深さは並大抵ではなかった。
「はい」
 向けた視線はするり背けられ、あたしの決意は空を切る。
「でも、どうしてもって言うなら‥いいわ」
 あらぬ方を向いたまま、その横顔から何を望まれているのかは十分に。
 だからハンカチは畳んで前ポケットに丁寧に仕舞い込んで、持ち主の「管理」をすべく立ち上がった。
「一緒に、お願いします。  お義母さん」
 眉を持ち上げ困った風な一瞥。
「‥今更碓氷さんっていうのも変だし、まぁ、母親みたいなものだわね。それに、お願いされちゃ…仕方ないわ」
 慣れた足取りは地下室へ、当たり前のようにあたしを引き連れて優々と歩き出す。
 暦は初夏、ほろ苦くも暖かい、優しい午後の出来事だった。

                    ○

「千鶴さん、そっち持って」
「はい」
 抱え上げた膝下にシートカバーを滑り込ませた。
 エアコンは効いていても動けば汗ばむ肌にTシャツは纏わりつく。
 聡の足…こんなに細かったっけ‥。
 お義母さん曰く、お気に入りらしいジンベイから伸びるつるりとした足は女の子みたいに白くて、やっぱりとても細かった。
 床擦れが怖くて三十分と空けず寝返りはうたせてるけど、春子に頼んでるのもあるし、筋肉を解すマッサージはどうしても十分にはこなせないでいる。お義母さんはそれを知っていてか、訪れては全身をくまなく揉み解していた。
「千鶴さん、少し休みんさい」
 聡を揉み解すのは自分の役目とばかりにその手は止めず、あたしへの気遣いも忘れずに居てくれる。
 あたしには出来すぎた義母だ。
「荒木先生がね、褒めてたわよ。強張りも、肌の荒れだって全く無いって」
 聡から手を離せないでいるあたしを再度急かす言葉は続く。
 視線は聡の閉じられた瞳に向けられたまま、あたしを更に労ってくれる。
 詰まる胸で、つとめて明るく返した。
「お茶、淹れてきます」
 それでも不満げに一瞥は添えられて、揉み解す手を止めることなく言葉は続く。
「ゆっくり淹れてらっしゃい」
「はぃ」
 階段へ向ける歩みは足音を極力殺しながら。
 当たり前のようなこんな会話をもうどれくらい続けているだろう。管だらけの聡の状態は平行線のまま、義母は相も変わらずの素っ気なさであたしを優しく包んでくれている。それがどんなにあたしを救ってくれているのかを言葉にする事は到底できやしない。
「もう少しかかりそう?」
 響いたその声の主、春子にもそうだ。感謝なんて薄っぺらな言葉をあれからずっとあたしは言えずにいるんだから。
「うん。お茶淹れに上がってきた」
「お昼はどうする? お母さんと食べるんでしょ?」
「ん。作って持ってきてもらってるし‥それに、春子の分―――
「入来の「健康お粥セット」が待ってるわ。 ふふっ」
 意地悪くあたしのお決まりのメニューで遮られるのはこれで何度目だろう。
「春子のも淹れるから」
 両手を挙げて降参とばかりに了承するのもいつもの事、それが当たり前みたいに繰り返されるお昼前の景色だ。
 お義母さんは紅茶。あたしは時々紅茶だけど、今日はコーヒーにしよう。春子もいつもコーヒーだし。
 食器の準備も淹れる手順も、もう手馴れたもんだ。あいつが起きて来たって手を出す余地はこれっぽっちもない。ざまぁみろだ。あほ。
 自分でも惚れ惚れする手際の良さでお湯の温度を測っていた。
 突然、春子の視線。大小の金属片がばら撒かれる硬質な音がロビーに響き渡った。
「地下室よっ」
 あたしより先に飛び出したのは春子だった。
 春子の後を追って地下室へ駆け下りた時、義母は床にうつ伏せのまま肩を震わせていた。
 散乱した医療用器具、金属の薄い盆に並べられていた、それらの上で。
 春子に背中を押されて促されるまで、時間が止まったようだった。
「お義母さんっ」
 駆け寄ったあたしにしがみ付いた義母は、言葉を詰らせてあたしを見つめる瞳だけで訴えている。
「さとしっ…」
 胸の辺りを押さえ、俯き苦しそうにそうに漏らす義母を抱いたまま、聡を遠目から窺って、窺って、あたしはどうにかなりそうだった。
「いっ…」
 漏らし、しがみ付いたままの義母は体を起こし、向けられた笑顔の瞳は涙で溢れていた。
 その涙が痛みからじゃないのはあたしにだって分かる。
「呼んでるの‥ 千鶴さん、呼んでるのっ」
 聡の腕が宙を舞うようにゆらゆらと、ゆらゆらと揺れていた。
「私っ 呼んで来る! 荒木先生でいいよねっ」
 あたしの視線とかち合った春子は弾かれて駆け上がった。
 足が‥足が言う事を利かない。
 咽び泣く義母も同じらしかった。それでも義母はあたしを押して聡へと促す。
 医療器具を掃く金気音、たった数メートルが縮まらない。
 義母の咽ぶ声、遠ざかるように這って、這って八番機のシートを握って体を引き起こした。
 消え入るようなか細い声。管を震わす微かな呻きは酷いかすれで、それでもちゃんと、ちゃんと聞こえた。
「え‥うぅ…ぁ‥」
 閉じられたままの瞼からは滴が溢れ、宙を舞う右腕は糸が切れたみたいに肘から落ちる。
 慌てて握り締めた手は抵抗する事はなくて、一切の力みは感じられない。
「聡? なぁ‥ さとしっ おいっ 聡っ さとしっ―――
 どんなに呼んでも、どんなに叫んでも、聡は‥ 聡は返事をしてくれなかった。
 瞼に僅かに留まる滴は玉のように揺れて、扱けた頬を伝って流れ落ちる。
 夢なら覚めないでくれと、真っ白なあたしは繰り返し、繰り返し、そう、繰り返していた。

                    ○

 誰もが焦っていた。
 荒木先生、沢木のじじい、誰も彼もが忙しない。
「心電図の変化は?」
「ケーブル繋いでっ 急げ馬鹿野郎っ」
「システムに異常が無い? 蓄積データはっ」
「バイタルは安定してる。再チェックしてっ」
 誰も彼もが焦ってる。
 うるさいよ。
 こんなんじゃあたしの声が聞こえないだろ。
 そんなんじゃ聡が起きらんないだろ。
 そんなんじゃ‥ 夢みたいじゃないか… なぁ‥聡。
 何だろ‥妙に背中が温かい。
 温かい。
「千鶴。歩ける?」
 耳元で囁かれた春子の声はとても事務的に聞こえた。
「え‥ さとし…」
「ほらっ 摑まってっ」
 がばりと引き起こされて、春子の信じられない力強さで引き寄せられた。
「しっかりしなさいよっ もぉっ」
 肩を借りてやっと歩くあたしは何処へ行くんだろう。聡はそこに居るのに。
 そうだ、聡だ。
「聡っ 聡はっ?」
「ちょっとっ 暴れないでよっ」
「だって聡が呼――
「千鶴っ」
 額にくっ付きそうな憤怒の形相が仰け反らせる。
「今、皆さんが尽力して下さってるから、大丈夫。 聞こえてるよねっ」
 おずおずとこくり頷くあたしを強引に黙らせて、それ以上の力でロビーの回転椅子まで運ばれてしまった。
 鼻息も荒くあたしを投げ下ろしてキッチンのコーヒーをがぶがぶと一息に飲み干した。
 ピンクの兎柄マグカップに注がれたコーヒーは乱暴にあたしの手に押し付けられる。
「ほら、飲みなさい」
 事務的な言い回しに促されて、一口含んで飲み下した。
 両手で抱えるマグカップを攫われ、置かれたカウンターから回転椅子の肘置きに両手を付いた春子はじっと睨んだままだ。
「私が分かる?」
 分かるも何も。
「春子」
 長い溜息で春子の垂れた頭は暫くそのままだった。
「千鶴… しっかりしてよ」
 上げた瞼からは滴がぽたりと、珍しい春子の泣き顔はとても奇妙に思えた。
「何で‥ 春子が泣いてん――
 肩に預けられた春子の額が、何度も、何度もあたしに押し当てられる。それが何故なのかは‥ それが何故なのかは… そうだ! 倒れてたのはお義母さんだ。
「お義母さんはっ?」
「…お父さんに連絡してくるって」
 押し付けたまま涙声の春子、上げられた視線はそれでも睨んだままだった。
「聡‥ は?」
「今、皆さんが診てくれてるから。 だから‥しっかりしてよっ もぉっ」
 涙声は怒りに染まって、瞳は冗談の通じない真剣な潤いで満ちている。
「そっか…。 夢‥観てたみたい」
「夢じゃないっ 私だってちゃんと見たものっ」
 間髪いれずの怒りを露に、春子は噛み付かんばかりに押し殺した。
「だからっ だからちゃんと受け止めなきゃいけないのっ 何が起こってもどんな内容でも千鶴がしっかりしないと駄目なんだからっ」
 最後まで一息に続け、深く息を吸い込む春子の目頭はほんのり赤く腫れていて、あたしの瞼もそうなんだと、じわり、じわりと繋がってゆく断片的な記憶は残酷に、あたしを奈落へと突き落とした。
「どうしよう‥ どうしよう春子… あいつが帰って来なかったらどうしよぅっ…」
 湧き上がる不安で合わせ、ぽたり、ぽたりと受ける握り込んだ両手よりも、駆け出しそうな自分を抑えるので精一杯だった。
「大丈夫よ」
 カウンターから優しく微笑む義母の口調はあっけらかんと、卵は今日がお買い得とでも言われたみたいにあっさりと響いた。
「だいたいご飯も食べずに考えるのが間違ってるの。こんなご馳走目の前にして失礼しちゃうわ、ほんと」
 やおらカウンターに置かれていた風呂敷包みを開いて、テーブルへ運んでさっさとおにぎりをつまみ出した。
「ほら、何してんの。春子さんもお昼まだなんでしょ?」
 おにぎりに噛り付いて、頬張って、卵焼きをぱくついている。
 ぽかんと見合わせた春子と二人、テーブルへのろのろと促されるままに椅子を引いていた。
「これ、聡の大好物。もうお馴染みよね」
 薄っぺらい荒く潰された小判型のポテトフライはあたしの手へ。
「それに、これっ やっぱり聡と言えばこれよ。外せないわ」
 摘み、押し付けられたおにぎりの角からはこんぶの佃煮が顔を覗かせていた。
「ほら春子さんも。会社に遅れちゃうんじゃない?」
 春子にもおにぎりを押し付け、卵焼きを押し付け、一人またぱくぱくと食べ始めた。
 齧ったおにぎりは紫蘇の濃い香りが美味しくて、ポテトフライは湿気ていて餌付けみたいなあの味と触感で… ただそれだけで溢れてきた。
 卵焼きを齧ったまま動かなくなった春子の口元が俄かに歪んだのは、きっと馬鹿なあたしのせいじゃない。
 そんな顔に見合わせる度に泣けてきて、最後には塩味しかしなくなってて、それでも齧るお弁当は美味しくて、春子は咽びながら食べていた。
 良い歳した大人二人がこんなになるお弁当。いつかあたしもあいつに作ってやろう。お義母さんに教わって、ちゃんと教わって、絶対、ぜったい美味しいって言わせてやろう。
 不覚にもお義母さんにお茶まで出させてしまって、齧りまくったせいで、それはそれはお腹一杯になってしまった。
 春子はあたしよりも少し多かった。だからか変な事を言い出した。
「こんなに食べたの久しぶりだわぁ。 運動会したいな」
「あら、いいわね。何が得意だった?」
「玉転がし! それに‥騎馬戦! 燃えたわぁ~」
「春子ちゃんなら応援し甲斐がありそうね」
 そんな風に言われた春子は照れたように噴出した。目尻を甲で拭いながら。
「また‥お呼ばれしてもいいですか?」
「勿論よ。でも、貴方達のお弁当でも嬉しいんだけど?」
「じゃ、あたしが作ります」
「千鶴が? 私の方が安全だと思うけど、ねぇ?」
「そりゃ‥自信はないけどさ…」
「ふふっ 楽しみね。期待しておくわ」
 お義母さんの手作りのお弁当は凄い威力で、あたし達二人を遡らせて虜にしてしまった。
 会社へと向かう春子が冗談っぽく「行ってきます」なんて言うんだから間違いない。
 春子のあんな笑顔をお義母さんは難なく引き出してしまった。
 あっけらかんと、当たり前の口調で、それはそれはとても楽しげに。
 そう言えば聡もそんなところがあったな。あいつが帰ってきたら土産話は沢山してやれそうだ。
「千鶴さん、簡単でいいからね」
「はい」
 泡を洗い流すお弁当箱は水切り籠へ。
 地下から微かに響く飛び交う諸々は忙しなくも頼もしい。
 お湯の温度は‥もう少し。
 このお茶で少しは貢献できるだろうか。
 お馬鹿でお人好しで、あたしが居てやらなきゃどうしようもない夢の中のあいつは笑う。
 午前三時、「季節の森」へとあいつを探して。

第七章

 二十四時間営業に切り替えてから、そのリズムにもやっと慣れてきた。
 あいつは可愛らしくも相変わらずの笑顔で、表情にこそ出ているが文句も言わずよく働いてくれている。あたしにはそれがとても可愛らしくて、どうしても構わずにはいられないのも、まあいつも通りではあるんだけど。
 装置で寝るまでの間は夜間への引継ぎもあって、いつも通りお馬鹿な会話で四時間と少しを過ごすのを嗜好の楽しみにしてるあたしは、やっぱりお馬鹿な殉教者でしかない。
 この時間になればもうロビーのカフェは閉めてるし、洗い物は寝起きのこいつにやらせるんだから、今は二人でゆっくりと過ごしたい。
 それでもこいつが「八番」へ眠りに行くまでの後一時間程。湯船に身を委ねるような解放感と温かさで、家族以外では誰より自然に心から温め、陶酔せてくれるんだ。
 あの、春子よりも。
 ちらりと盗み見ればお馬鹿は文庫本を必死に追いかけているらしい。
 只、本当にそれだけであたしは満たされてしまう。
「ねえ」
 ぬるま湯の心持ち、ジャズも微かなロビーに水差す面倒な声は、閉まる扉と合わせて響いた。
 受付側の回転椅子に座るあたしの目の前、見知らぬ同年代とおぼしき女は憮然と立っていた。落ち着かない視線はこの店の生業にだろう、店内をゆっくりと見回している。
 後ろのお馬鹿も確かそうだったと、想い浮かぶこいつの可愛らしかった顔が瞬時に思い起こせるあたり、きっとその時にあたしはもう…
「飲める?」
 そうだった。今、目の前にいるのはこの女だった。と、ぴっちりとした藤色で鮮やかな長袖Tシャツの華奢な体を眺めながら、背もたれに身を押しつけた。それは生気を纏わない酷く低い声音、それに含まれた隠そうともしない危険な威圧感が否応なくそうさせていた。
 危うく呑まれそうになったのもそうだが、単純にこの女のそんな態度が気に食わない。それに‥この店に面倒事は隣のこいつだけで十分だ。勿論、あたし個人にも。
「閉店」
 言い放つあたしを見知らぬ女は無表情で見下ろした。その眉も動かさず、暫くの間瞬きすらしなかった。そこにはどんな感情も変化も感じる事ができない、そう、まるで蝋人形のよう。
 この女…いや、たぶん男だ。こんなのは男の持つ雰囲気のそれだし、外見はどうあれこいつは危ない。あたしの直感はそう告げていたのに、隣でやり取りを窺うこいつの方を向けないでいる。目を逸した途端それは現実になりそうだから。
「閉店、さよなら」
 そう唇が伸びた瞬きの直後、左肩に激痛が走った。
 いつってえ!!!
 突然の痛みと恐怖で体は強ばり、堪えきれず蹲り無様に呻く。
 堪え、閉じられていた瞼を薄く開く事しかできない。
 どうしようもなく肩が痛い。が、触れる肩に出血もなく外傷は‥ないらしい。
 殴られた?
 と、うまく聞き取れない聡の大声で何とか体を起こした時、扉に駆ける聡が目前を横切る。
 「行くな」と痛みに伸びきらなかったあたしの手はしっかりと握られて、扉を一瞥凝視する聡は初めて見る形相だ。
 再度扉へと足を向けるその手を掴んだまま合わせた視線。
 行くな。
 「でも!」との大書顔は再度あたしの手を引きはしたが、離さないあたしに歪んだ眉根の深い皺は‥ 閉じられる瞼がゆっくりと伸ばすように一息、長く吐き出された。
「大丈夫ですか?」
 押さえ込む静かな声音。秋空のようにうって変わるカウンター越しの泣きそうな顔が覗いていた。
 少し骨ばった手。やっぱり男なんだな‥こいつは。
 その手は力強く握られていて、胸を叩いていた忙しない鼓動も、痛みも、何とも言えない安堵でそれらをすぅっと攫ってゆく。何故かそれがちょっとだけ笑えて、少しだけ骨ばった泣きそうなこいつには、ちゃんと伝えてやらなければ。
「大丈夫。それより‥ あたしは殴られたのか?」
 肩が落ちるほど長い溜息。俄かに険しさは泣きそうなそれを覆い出す。
「いぇ…たぶんスタンガンです」
 骨ばった手、その瞳は再度怒りに満ちていた。
 あたしは大丈夫なんだよ。お前がそんな顔する事なんてこれっぽっちもないんだ。だから努めて明るく普段通りに。
「殴られたと思った」
 言葉通り殴られたような衝撃、聡が言うのが事実ならこれがスタンガンの痛みなのだと妙に関心してしまった。護身用とは言え世の防犯グッズは相当な出来の良さなんだと、今こんなに冷静でいられるのはこいつのおかげだろう。
 瞳の奥、はぜる炎を押し込めるよう、聡は長い瞬きで答える。
「知り合いですか?」
 そう聞くんだからこいつも心当たりはないんだろう。勿論あたしだってそうだ。
「お前の知り合いじゃなけりゃな」
 それは安堵なのか、握られた手と反対、カウンターに乗る聡の握り込まれていた指は音を立て、それからすっと解けた。
「警察、呼びましょう」
 落ち着いて店内を見回せば、消えた女男以外は普段と何も変わらない。
 薄明るくもジャズの静かに響く店内。 被害は…あたし一人か。
 深く一呼吸入れると、何もかも普段通りだった。
「いい。実害も無いんだ、ほら」
 七分袖Tシャツの襟首をずらして衝撃のあった肩を出せば、握られていた手と視線は即座に離れる。そんなつもりは更々無かったが、耳まで真っ赤にするこいつにはどうやら刺激が強かったらしい。
「ほら、何ともないだろ?」
「分かりましたからっ しまってください」
 ふふっ やめられない。やめられやしない。
 緩みそうになる頬を誤魔化す浅はかなあたし。
「お前が怪我でもしちゃ、あたしの責任なんだ。だから、な?」
 窘める言印に口を尖らせて抵抗しつつ、それでもまだ何やらもごもごと言いたげだったが、あたしの為に色々と気遣いし、体を張ろうとまでしてくれた事が小躍りさせるくらい嬉しいんだ。こいつの中にあたしはちゃんと居て、ゆったりと寛げる心地よい場所もちゃんと作ってくれている。嬉しくない訳が無い。
「ありがと」
 「しょうがないですね」と大書のしかめっ面で微笑むこいつには毎度の事ながら参ってしまう。ほんと、感謝してるよ。
 兎の騎士は開け放たれたままの扉から外を確認してから扉を閉め、回転椅子に腰を沈める頃には全くのいつも通り。一騒動あったなんて誰が信じるだろうか。
「ほんとに大丈夫ですか?」
 当たり前に重ねられる側頭部から響く気遣いには三度擦り合わせて答え、我慢できなくてついでに頭にキスしてみた。
 以外に反応は薄く、物足りないなんて不満げだったあたしの頬を、柔らかく撫でるそれはおずおずと躊躇うように。
 緩む‥が、我慢だ。それでも緩んでしまって「スタンガン野郎には悪いけどな」と誤魔化しきれない恥かしさも込み上げてくる。
 そんなだから重なりから伝う微かな息遣いに頭の先までどっぷりと浸ってしまう。もう、ここからは上がれやしない。
「野郎って‥ 男だったんですかっ?」
 ふふっ まったく、鈍いやつだ。
「たぶんな」
「そう‥ですか…」
 しかし、今日のあの女男は何だったんだ? 見た事もない人間に、しかも女男にスタンガンで攻撃された女なんて、この広い世の中でもそう多くない筈だ。
 目的は…恨み? あんな女男に恨まれる覚えはない…おそらくは無差別だろう。だとしたらこの店になのか、あたしへなのか…それともこいつ? 右翼過激派なのか? 偽装した左翼異国人の可能性も十分にある。考えれば切りはないが、まぁ、情報が無いんだ。後は知り合いにそれとなく話を繋いでみよう。また起こるとも限らないし、張れる物は何だって‥な。
 それからは傍らで常にこちらを窺う可愛らしい兎騎士の手綱をぴんと、時間いっぱい狩人気分をたっぷりと楽しんだのだった。

                       ○

「なぁ」
 地下室から上がったばかりで寝ぼけ眼の僕に、難しい顔をした千鶴さんはぽつりと呟いた。言葉は宙を飛び、空をさまよい着地点を探しているみたいに。
 俗に言う上の空なのだろうけれど、こんな言葉の掛けられ方をしたのは、たぶん初めてだ。
 言葉の着地点、頭を過ったのは数時間前に起こった予期せぬトラブルだった。
「スタンガン女男ですか?」
 以外だったのか、彼女の評した「スタンガン女男」を言い当てられたからか、続かない返答の代わりをそっと付け足した。
「思い当たる事でも?」
 少しの後、彼女はため息と重ねて声を大にした。
「分からん!」
 …広島弁だ。彼女の口から広島弁が飛び出して質問と回答を同時に忘れかけた。
「どした?」
 自分の口から広島弁が出た事に気づかないのか、気にする素振りはついぞ見受けられない。
「いえ、進展無しですか」
「だ」
 難しい笑みは本当にお手上げなのだろう。自分の事ではないだけに彼女への一歩はいつもなかなか踏み込めない。僕に出来る事は何だろうか。満面の笑みとはいかなくとも、この不自然な笑みは何ともし堅くて…。
 キッチンを窺うと洗い物は就寝前と変わらずそのまま置かれている。忽ち僕が出来る事はこれなのだ。
 うん、妙に納得してしまった。
 何故か水音を最小限にと、食器同士の鈍い音にまで気を配りながら泡だらけの水盥に手を浸ける。
「ありがとな」
 背凭れ越しに響いたのはぶっきらぼうでそんな言葉だった。
 それはこの食器洗いへとも取れたけれど、きっと本音はもっと以前。だって彼女の声音はとても柔らかく優しいものだったのだから。
 「嬉しいです」少しでも力になれているのなら。
 返答はいつも通り、ぶっきらぼうに小さく響く。
「あほ」
 僕はいつも通り食器を片付ける。
 彼女の全てに細心の注意を払いながら。

 水切り籠を二回、芸術的に盛られていた食器を拭き終えてから一息をついた時、彼女は突然声を張った。
「聡、見てみろ」
 急ぎ向かい肩越しに覗き込んだ携帯の液晶には「スタンガン事件」なる文字が踊っている。
 何で?と疑問を払拭すべく文面に目を走らせれば、どうやらこの界隈で「スタンガン女男」は続け様に次々と店舗の受付を襲い、卑劣で強引な手口は心の蒼と同様らしかった。
 その犯行先の殆どが小規模店舗の受付だったのだけれど、近所ではあってもゴンザレスの親父さんには被害が無いみたいで、きっと胸を撫で下ろしている事だろう。親父さんはあの容姿で以外と細いところがあるのだ。きっとスタンガン女男もあの風体に恐れをなしたのだろう、と彼女との含み笑いは無言のままに一致した。
 落ち着いて考えてもみれば、目撃者や捕り抑えられるリスクはかなり高い。どれも受付の人間だけが標的のような犯行内容で、そのメリットなど皆無ではあるし、おそらく強盗目的ではないだろう。それにも関わらず犯行を続け、現在も捕まっていないのはどういう事だろうか、と未だ逃走中との情報がメールで数件届いているらしい。町内の連絡網みたいなものだろうか? よく解らないけれど近場で起こっているのは確かなようだった。
「まだこの町内で暴れてるらしい。きっちり釣り銭渡してやんなきゃな」
 瞳はぎらりと口元は釣り上がる。「スタンガン女男」には少しの同情を禁じ得ないけれど、怪我なんて事にはなってほしくない。願わくばこの人が出会わぬ様にと祈るばかりだ。と心の中での合掌は長く長く続いたのだった。

                       ○

 客の引けた店内、各階のゴミを纏めてから掃除とも言えない整理をして窺うと、「もえるごみ」の大袋を収集場所へとの厳命を受けた。
 回転椅子に沈み込む彼女は疲れを隠しきれないのだろう、いや、隠さないのだ。目を閉じて天を仰いでいる。
 なるほど、ここからは僕の出番と言う訳だ。心もゆっくりと休めてもらう為にも頑張ろう。
 僕の快い返事には片手を上げてやんわりと答え、深々と一つ吐き出した。重い荷物を一つ、足下にでも下ろせたのだろうか。でもそれだけで今は満足だ。
 大袋二抱えを店先の右手、突き当たりの角が収集場所とは名ばかりで、目の粗い緑色したビニールネットが出迎える店舗脇にいつも積み上げる。
 道から見えると衛生的でないのか、少し奥まった所にあるから昼間でも薄暗くてあまり気持ちの良い場所とは言えないけれど、彼女の為にもこなさなければならない事は他に山ほどある。
 意気揚々と狭く暗いアスファルトへ一歩、がさりと蠢く陰に肌は泡立つ、動きは止まる。
 人だ。浮浪者? 
 いや、どうやら違う。身綺麗に整えられた服装は所々に汚れが目立つけれど、浮浪者の身なりじゃない… って、血?
 暗がりの人影が押さえる腹部は黒く服を滲ませ、呼吸の度に滲み滴る手は真っ赤に染まっていて、よく見れば押さえるその腕にも裂けたTシャツの隙間から切り傷が覗く。
「どうしたんで―――
 すか、とは続かなかった。虚ろに向けられた瞳、それはあの「スタンガン女男」だった。
 女男は口元から血を滲ませ、虚ろな瞳で眉根も寄せず睨んでいたけれど、それも続かない程どうやら弱っているらしい。逸らし苦しそうに咳込んだ口元からは血が滲み、腹部からの出血も酷くて、押さえる手からはべっとりとした血液が微かな湯気を上げていた。
 こんな時、人は割と冷静らしい。そして、行うべきは何なのかをも人は知っているのだ。今、僕がそうであるように。
 痛みを堪える為か低く呻き身を捩りながら、どうやら立ち去ろうとする女男に、僕は肩を貸していた。
 向かおうとしていた先は何処だったのだろうか。眩しく目をしばたかせながら、日向の香りに包まれた地下室の装置に身を納め、ぼぅっとコンクリートの天井を眺めていた。

                       ○

「客は掃けた」
 気だるげな回転椅子越しのぶっきらぼうな響きが寝起きの空ろな僕を出迎えてくれた。
 お客さんが居ようと居まいとやる事は決まっている訳で、もうここからは仕事なのだ。
「はい」
 流し台は芋の子を洗うような状態で、今日は手をつけられていなかった。
 思い至るのは「スタンガン女男」の一件。きっと千鶴さんもそれどころじゃなかったんだろう。
「何とも無い」なんてあんな風に言ってはいたけれど、本当に大丈夫なのだろうか。
「肩は平気ですか?」
 少し回された回転椅子の背凭れ越しに覗いた口元は「心配するな」と素っ気なく隠れてしまう。
 カフェの終わった静かなこのロビーで彼女は蹲り呻いていたなんて、それこそ夢のような、夢であってくれたならよかったと心から願ってはいても、現実は当たり前のように残酷で、手前勝手に留め置ける記憶とはやっぱり違っている。
 それでも事務的に仕事の段取りを組み立てる頭はちゃんと働いていて、がらんとした今なら各階の掃除も気を使わずにこなせるだろうと、もう見慣れたゴミ袋や掃除機やらに手を伸ばすのだった。
 三階のベッドではたまに寝過ごした女性客のあられもない姿が出迎えてくれたりと、男としては気不味い記憶も手前勝手ではあって、仕事としても足枷にしかならない状況もままあった。だからこのタイミングは僕にとって絶好とも言えて、流し台の芋の子達は頭の隅へと押し遣られたのだ。
 各階は常識的な常連客の皆さんに保たれたいつもの清潔感で溢れている。
片付けとも言える掃除にはさほど時間も掛からないし、慣れてきたのもあるけれど、やっぱり「心の蒼」の客層の良さでそうさせてもらえているのが実感としてはやっぱり強い。だから多少手前勝手な気不味い記憶があったとしても、それはほんの些細な事だ。とは流し台の芋の子達に手を付けた今もそう言えれば嬉しいのだけれど… やっぱりそうもいかないものだ。
 留め置ける手前勝手で気不味い記憶の欠片はあまりにも鮮明で、彼女にあんな事を、あんな口元で言わせてしまったのだから。
 男としてはとても不甲斐なくも感じるし、何より自分自身が許せないでいる。
 あの状況、あの瞬間にもっと何か出来たんじゃないかと思えてならないからだ。
 そりゃ、格好良く映画のように守る事が出来たとしたら、それこそ手前勝手に誇らしくも思えるのだろうけれど、そうじゃない現実はどうしたって重く圧し掛かってくる。
 洗い流す水の冷たさは、じわりと責めたてるようだった。

                       ○

 宙を彷徨う間延びした声音が微かに響く。
「なぁ」
 ぞくり、と背が粟立った。
 過る夢の記憶は数瞬の事でも、それを継ぐ言葉が一度喉の奥でつっかえたのは、それの先を記憶と繋ぐにはあまりにも馬鹿げてはいるし、何より彼女の発したそれが夢の中のそれと重なる驚きとしても大きかったからだ。
「スタンガン女男‥ですか?」
 背凭れを半身にまで回してこちらを覗き、固まる彼女のそれは夢と一緒だった。
 やっぱり言葉が出ないのか、合わせた視線のまま数刻。これが夢の通りなら僕はこう言ったはずだ。
「思い当たる事でも?」
 思い出したように細めた視線は背凭れに消え、鼻息も荒く吐き出すようにあの広島弁が響いた。
「分からんっ」
 この後、僕は何て続けただろう‥。いや、この先に繋がる夢の中の出来事は、僕にとっても彼女にとっても望ましくない事だ。「スタンガン女男」が蹲っていたのはあのゴミ置き場の影で、尋常ならざる血だらけの状態だったのはどうしてだろうか… 記憶はそこまででぷっつりと途切れてしまっていて、何故か肩を貸した夢の判断は間違っていたようにも思えてくる。まさか…そんな事があるわけな―――
「どした?」
 遮られるそれらが馬鹿らしく思えて、自分の口から広島弁が出た事に気づかないこの人にも感じる微笑ましさがじわりと湧きおこる。
「いえ。進展無しですか?」
「だ」
 深く吐き出す即答の彼女が言うその文句の示す先は、きっと虚ろな僕へのささやかな窺いと呆れる何かである事は何となく。
 水切り籠に食器をと伸ばした手をそうする所作の一つ一つが自分の日常で、彼女はそれを奇しくも喜んでくれていて、それも確かな日常で‥ そう考え行き着く先はやっぱり彼女の、あの笑顔だった。
「ありがとな」
 タイミングとは大切なものだけれど、こうまでぴしゃりと合わせられては筒抜けのようで流石に恐ろしくもある。けれど、それ以上に「嬉しいです」
 鼻から抜ける愉しげな溜息の後、静かに、そっと、僕にはちゃんと聞こえましたよ。
「あほ」
 心地よい、いつもの響きはかなり控え目だけれど、そうさせるのは「スタンガン女男」の一件には違いない。また起こっては大問題だ、気構えだけはその時の為に。
 塔の食器を拭き終わり、沈んだまま泡だらけの残り少ない救出を始めたのだった。

                       ○

 地下室の掃除を終え、ロビーの掃除に取り掛かった時、彼女からゴミ出しの催促には間延びした一瞥を添えられた。
「何度も言わせるな」
 そう言うや天を仰ぐ彼女の心は何処かへ行っているようで、それでもしっかりと段取りは崩さないのだから、そこはやっぱり彼女らしい。
 地下室の掃除前に一度声を掛けられていたのだけれど、地下室とロビーを終わらせれば少しだけ集まるゴミも一緒にしたかったのもあって、纏めた「もえるゴミ」の口は空けたままでいた。いつもの合理的な判断を欠いているのもどこか上の空だからだろう。
「ここ、済ませてからでもいいですか?」
 窺えば眉を顰めて微笑む口元。
「‥そうだな」
 そこにはいつもの底意地の悪さは感じられない。 きっとそんな彼女も…。
 彼女がそんな風だから尚更動きは手早くなって、纏めたゴミ袋の口もしっかりと、抱えて扉を開けた僕に視線はずっと向けられたままだった。それはとても温かくて、ちょっとだけむず痒くて。だからそれへは合わせないまま扉に手を掛けた。
 強めの日差しも心地よい正午過ぎの街。そんな中にあっても喧騒とは一線を隠す店の通りは相も変わらずの落ち着いた静けさで、耳を澄ませば蝉の声や大通りを走る車の排気音が微かに聞こえる程度。刺す様な日差しでさえ、少しウキウキとした心持ちで足取りも軽くなる。
 こんな天気ではあっても、道の突き当たり、店の裏手になるコンクリート製のゴミ置き場の一角は軒下で、年中日陰らしい。だからなのか変な湿気もあって、猫やカラスの目撃回数はかなり多い。それらの被害は屋根と目の細かいネットに守られて、今のところ無事のようで安心してはいるけれど、好ましい季節の外気であはあっても衛生的で無いのと、この通りの中で死角になっているこの場所の印象は当然良くはないのだ。
 今日、夢の中では血塗れのスタンガン女男に肩を貸していた。
 寝起きから今までのデジャヴとも言える繋がりはどうしたってスタンガン女男を警戒させるけれど、窺う裏手、ひんやりとしたゴミ捨て場には人の姿は無かった。
 まぁ‥それが当たり前なのだろうけれど、肩から力を抜く事ができた。とは言え眺めていても仕方ない。いつもの要領でネットを開いてゴミを壁際に積み重ね、閉じて返す踵を通りへと向ける僕の肩は既に掴まれていた。
 掴んだ腕は藤色の長袖Tシャツ、ぴっちりとした華奢なシルエット、逆光の首元はとても高い。それよりも肩を掴む力の凄さに驚いていた。
「騒ぐな。そのまま前を」
 僕より頭一つ分は高いだろうその位置から、低く事務的であり多少早口な聞き覚えのあるその声、藤色の長袖Tシャツと華奢なシルエットは間違いない。こいつはスタンガン女男だ。
 千鶴さんへの卑怯な一撃への怒りが数瞬のうちに湧き起こる。けれどスタンガンを持っていたくらいだ。何を隠しているか分かったものじゃない。裏腹に体は動かせない。
 掴まれている右肩はそうされているだけなのに何故か痺れだし、利き腕に力が入らなくなっていた。スタンガン女男の登場に面食らったのもあるけれど、防御すらままならない利き腕を捥がれた最悪な状況に流れる汗は酷く冷たい。
 言われるままゴミ置き場へと向き直った。
「痺れてきたでしょう。これは合気道の業です。怪我などしたくもありませんし、させたくもありません。ですから動かないで下さい」
 淡々と事務的に紡ぐスタンガン女男は肩を更に締め上げた。
 絶対的な力の差、肩にめり込んだ指先を振り払う事は出来ないのだと、右腕と肩周りは脇腹近くまで感覚は薄れてきている。
 首を小さく縦に振る。妙な痺れを生み出す右肩の指を少しでも速く外したかった。けれど指は肩にめり込んだまま事務的な言葉は尚も続く。
「ご理解頂けて何よりです。二、三質問致しますのでお答え下さい」
 縦に振って力無く。
「それでは一つめ。貴方の大切な方への一撃はどうでしたか? 私を殺したいと思いましたか?」
 殺したい。などとは欠片も思わない。けれど正直なところ捕まえて多少痛めつけてやりたいとは思った。警察へ突き出してやりたいのが今も本音だから、首を振ってそれには答える。
「では二つめ。向けたスタンガンが銃口であっても同じでしょうか?」
 間を置かずの質問は妙な方向だと思った。確かに銃口であったなら恐らく千鶴さんは今頃病院のベッドの上か、下手をすれば棺に納まっていたかもしれない。そんな状態の千鶴さんを前に、警察に突き出すなんて考えはあまりにも生ぬるい。もしもそんな状況であったなら‥ 僕はきっとこのスタンガン女男を殺してしまいかねないと思った。
 同じじゃない。と首を振って何とか答える。肩の痺れはもう尋常じゃない。
 追い討ちの如く続く質問の語気とめり込んだ指の力は更に強まり、肩は同時に押し下げられた。
「三つめ。それでは何故最初から私を殺そうと思わなかったのですか?」
 尚も事務的に淡々と響く言葉とは対照的に、押し下げられる右肩の痺れでついに膝を折ってしまった。それでも尚、更に肩は締め上げられる。
 限界だ。
「わからない!」
 痺れの辛さとネジの外れた質問に昂りは抑え切れなかった。
 俄かに掴まれていた指は緩み、左手で即座に払い除けた。
 血が巡るように温かく、痺れは痛みともつかない電気の流れのような右腕を抱いて摩り、それでも消えない奇妙な痛みに蹲る僕に、呟くような言葉は弱く降り注いだ。
「そうやってこの日本では洗脳されているのです」
 洗脳? とコンクリートの地面に何かが落下した。背中のお尻付近、それは布のずた袋を投げ置いたような、粘土のでっかい塊を落としたような、とても奇妙な音に思えた。
 痺れが痛みに変わった右腕を摩りながら、音のした背中を跪いたまま半身にそろりと窺って呆気にとられた。
 コンクリート床に這い蹲っていたのはスタンガン女男だった。
 動きも呻きもしない。それはまるでサスペンス劇場の遺体発見現場そのものだ。何故ならコンクリートの地面には赤い血糊が流れていたから。
 忍び寄ったのであろう野良猫が傍らで体を擦り寄せている。
 そしてひと鳴き。
 それでもスタンガン女男はぴくりともせず、思考の先はやっと安否の確認へと行き着いた。
「おい」
 恐る恐る声を掛けても反応が無い。突くように背中を押しても、反応は無かった。
 焦り背中から心音を確認すると、鼓動は確かに脈打っている。
 安堵の溜息を漏らしてすぐに、何故自分がこのスタンガン女男を心配しているのか訳が解らなくて、それでも血糊が本物の血液だと臭いで理解してしまえば放置など出来はしなかった。
 こんな血液の滴る重症を負いながら、このスタンガン女男は何が言いたかったのだろうか。
 「何故最初から殺そうと思わなかったのですか?」とは?
 「そうやってこの日本では洗脳されているのです」とは?
 仮定の話であるならば一連の質問は全く意味を成さないけれど、実際に攻撃をした本人に言われれば現実そのものでしかない。けれど「殺したいと思いましたか?」とはあまりにも常軌を逸している。いや、ネジの外れたその質問よりも、今はこのスタンガン女男をどうにかしなければ。
 血液を滴らせる、気絶したのか瀕死なのかすら解らない憎むべきスタンガン女男を肩で担ぎ、息を弾ませる記憶の中で、烈火の如く罵声を飛ばしたあの人を想う。
 きっと怒るだろうな… それにめちゃくちゃ重いっ
 気を失ったままの抱える犯罪者は暢気なものだ。きっと僕はそれ以上の痛手をねちねちと、数日に亘って負わされる事は間違いの無い事実なのだから。

                       ○

 彼女はあの重い肘置き付き回転椅子を音を立てて立ち上がった。
重傷を負った「スタンガン女男」へなのか、肩を貸している事へなのか、それはきっとその両方であろう形相の目は泳ぎ、立ち上がったところで固まったままだ。
「おいっ トラブルは御免だって言ったよな!」
 言うに及ばず、反論の余地も無い頷きを深く、「手当を」との言葉に震える拳はわなわなと継げないでいる。
「すみません」
 両腕はだらりと、ロビーの椅子に目配せした千鶴さんは音を立てて椅子に身を投げた。
 横目の彼女に頭を垂れ、気が付いたらしい呻くスタンガン女男をロビーの椅子に座らせる。
「救急車を呼びます」
 座り込み、背凭れに垂れた虚ろな視線を落としたままのスタンガン女男へ。勿論、僕の背中越しの彼女にも。
 細々と呻き、意に反するとの言葉にならない視線を睨み黙らせたのは千鶴さんだった。
「五月蝿い!」
 視線を千鶴さんへ移すことなく沈黙で答えるスタンガン女男は観念したのだろう。虚ろな瞳は閉じられて、浅く短い息遣いで眠気に耐えているようにも思えた。それでもそんな視線を僕へと向けて、スキニージーンズの前ポケットに突っ込んだ手をテーブルに力無く落とす。握り込まれていた紙幣らしいくしゃくしゃに丸められていたそれは、テーブルにカサリと。
「迷惑じゃ言ぅとろぉが!」
 千里眼の一瞥をくれる千鶴さんの二の句に代わり、ドス黒い血を噎せるように袖口で押さえる女男は、再度僕に目配せをした。
 その視線の先、くしゃくしゃの一万円札数枚には赤黒い斑点が生臭い臭いで僕を我に返らせ、急ぎキッチンから持ち出した乾いた布巾を血液の染み出る腹部に押し当てた。
 携帯から急ぎ119番通報をしてから十五分ほどでストレッチャーに横たわるスタンガン女男を見送ったその間、対応する僕意外は救急隊員の端的な質問のみが響き、スタンガン女男は呻きすらしなかった。
 ゴミがまた出てしまった。そんな事を虚ろに考えながら、くしゃくしゃに丸められた紙幣はカウンターの隅へ、テーブルと椅子に固まりかけた血液の後始末を終始無言でこなしていた。
 拭き取って綺麗に見えてはいても臭いは何故か拭い切れず、キッチンの消毒用に使っていたミントの消臭スプレーを使って拭き取った三度目に、ようやく気にならない程度に拭い取れた。
 台所でそれらの片づけを終えた頃、先に口を開いたのは彼女だった。
「弁解してみろ」
 強い語気とその言葉通り、下手な小細工は通用しない豪速球は僕の急所へと投げ込まれた。
 どこから話せばいいだろうか。別段彼女の機嫌をとろうなどと小細工をするつもりはなくて、起こった事を端的に伝える為の整理と順序は大切だ。事の起こりは‥そうだ、肩を掴まれたんだった。まずはそこから。
「ゴミを捨てた時、背中から肩を掴まれました」
 彼女がこれを話せるだけの落ち着きがあるのかを間をとって確かめてみる。
「で?」
 温情薄く事務的な響きはあるけれど、どうやら聞いてもらえるみたいで少しほっとした。
「肩が痺れて動かせませんでした。凄い力でした」
 彼女は身動き一つせずに言葉も発さない。無言の後姿は「続けろ」と僕を促す。
「スタンガン女男に三度質問されました。一つ目は「貴方の大切な方への一撃はどうでしたか? 私を殺したいと思いましたか?」そう聞かれました」
 彼女はそれでも無言で促した。
「二つ目は「向けたスタンガンが銃口であっても同じでしょうか?」と。三つ目は「それでは何故最初から私を殺そうと思わなかったのですか?」そう聞かれて、最後に「そうやってこの日本では洗脳されているのです」って言われました」
 彼女の沈黙は長くて、とても長くて、この場に意識は向けられていないように思えた。
「その後、振り向くとスタンガン女男が倒れていました」
 台所から回転椅子へと腰を下ろした時、彼女はぼそりと漏らした。
「お前がやったんじゃなけりゃ、それでいい」
 深くはき出す彼女が怒っていたのは傷を負わせたのが僕じゃないかと心配してくれていたのだと、暢気な僕はようやく気付いて申し訳なさがこみ上げる。
「すいません。もっと早く話すべきでした」
「わかりゃいい。けどな、面倒事は御免だ」
「すみません」
「謝るな。お前は悪い事をした訳じゃない。だけどな、世の中そんなに単純で純粋じゃないって事だ」
 言うや僕の膝にぽとりと落ちたのは小さなタグ付きの鍵だった。
「あの馬鹿が置いて行きやがった八万の中に入ってた。分かるか? やばい端渡って血塗れの鍵だ。お前の純粋な親切にあのくそ馬鹿は面倒事を押し付けて行きやがったんだ」
 舌打ちで忌々しいとばかりに鼻息も荒い。彼女の性分ではそれも当然だけれど、運び込んだ事を後悔すべきではないのだと彼女は言ってくれたのだ。救われたような心持ちだった。
「肩を痺れさせたのは合気道の技だって言ってました。力の差って言うんでしょうか、居るんですね、ああゆう人が」
「上には上がいる」
 それから事務作業を始めてしまった彼女の優しくも嗜める声音は、いつもの彼女に戻っていた。
「鍵は預かっとく。金は当然、迷惑料だからな」
「はい」
 他言無用とのお達しは十分に理解しました。けど、スタンガン女男は結局何がしたかったのだろうか。千鶴さんにはスタンガンの一撃を食らわせ、僕に危害を加える事もせず血塗れの八万円と鍵を残して病院へと担ぎ込まれた。そんな一貫性の無い行動とあの質問に言動だ。どうしたって疑問ばかりが湧いてきて、据わりの合わないお尻の心地悪さのように落ち着けずにいる。
 不意に彼女は言葉を掛けてきた。
「警察が来ても何も言うな。お前は倒れてたあのくそ馬鹿を介抱した親切なバイト君。分かったか?」
「はい。考えてみてもスタンガン女男は何がしたいのか僕には全く分かりませんから」
「それでいい。深入りはするな」
「‥はい」
「お前の話通りならくだらないとばっちりだ。気にするな」
「とばっちり‥ですか」
「そうだ。「日本では洗脳されている」そう言ったんだろ?」
「はい」
「なら偽右翼過激派か左翼異国人か、何にしても関わらない方がいい部類の連中だ」
「過激派‥ですか」
「ニュースくらいは見てるだろ」
「ネットの新聞記事くらいなら‥」
「新聞だけじゃ駄目だ。報道規制もあるだろうが、中身はだいたい正確じゃない。教科書だってそうだったろ?」
「教科書ですか? いぇ‥そんな風に考えた事がなくて」
「だからあのくそ馬鹿は「洗脳されている」なんて言ったんだ。どこで何を言ったってそれが正確な情報で、疑う余地の無い正しい事だと誰が言い切れる」
「確かに‥そうですけど、教科書は普通だったかと…」
「あのなぁ… 「何で最初から殺そうと思わなかったのか?」って言ったんだろ? よく考えてみろ。想像力の欠如ってのをあのくそ馬鹿は言いたいんだよっ 今の話で言や教科書が絶対的に正しい事ばっかだと思ってる事それ事態がそうなんだ。算数だって国語だって新しい発見や間違いがありゃその都度ちゃんと訂正されてるだろが」
「いぇ…知りませんでした」
 千鶴さんの溜息はとてもとても深かった。
「そこはいいとこでもあるんだが、ちょっとは疑う事も覚えろ。あのくそ馬鹿が言った洗脳ってのはそうゆう事で、要は、貧相な想像力でまともに自分で判断できない民族になりつつあるって言ってんだ。今の日本国内じゃ道端に死体が転がったって次は自分や家族が危ないなんて危機感持つ奴より、自治体がどうの、政府がどうのと文句垂れて終わりの奴が多いはずだ。だから、あのくそ馬鹿の言う先は、 …たぶん歴史についてだ」
「歴史…ですか?」
「お前はなに人だ」
 それは棒読みで僕を馬鹿にしているみたいに小さく笑う。そんな仕草が多少腹立たしくもあって少し語気は強くなってしまった。
「日本人です」
「なら文化や風習や習慣はどうやって覚えたんだ?」
 そう聞かれると‥どう言っていいのか…
「学校で習ったものもありますし、自然に身に付いたとしか…」
「だろ? 明日からフランス人になれって言われたってなれる訳がない。毎日パンばっか食ってちゃ米が恋しくなるってもんだ」
「あ、それ凄く分かります」
「な。あたしも生粋の日本人で広島人だから外国人の感覚が分かる訳が無いんだ。だから衝突が起こってくる。どの国の歴史にも戦争はあるだろ」
「そう言われると‥ 確かにそうですね」
「そこで問題なのが教科書だ。広島は日教組が強いだろ?」
「確かにそうゆう意見も聞きますね」
「そう。要は右か左かって事」
「ええ、それなら分かります。ネットの世界ではかなり情報量もありますから」
「そうなのか? ネットの方は知らないが、まぁ世界中どこの国にも言える事だ。教科書が教える歴史ってのに問題があるとあたしは思ってる」
「確かにそうですね。確かな情報が掲載されると限らなければ、尚更です」
「いやいやそうじゃない。いや、それもあるんだが、どちらからの視点で表現されてるかが問題なんだ」
「それは‥どうゆう事ですか?」
「加害者か被害者」
「あ、なるほど。戦争映画なんかでどちらの国視点なのかって事ですね」
「だ。お前にしちゃ上出来だが、教科書は娯楽じゃないから難しい」
「ですね。確かに学校で習った外国との戦争の歴史で言えば、朝鮮や支那への虐殺なんかをビデオで勉強しました。言われてみると‥僕が勉強したのは加害者視点、ですね」
「まぁ…実際は酷い仕打ちをした兵隊も居たとはじいさんから聞いてはいるが、殺るか殺られるかの戦争中の出来事を、今の感覚で今更のほほんとどうこう言うのもな。それに普通、どの国も自国を卑下する教え方はしないんだが、日本人の気質なんだろう。そうゆう美徳ってのが古くからあるし、外国人がよく言うだろ? ぺこぺこ頭を下げるのが日本人だ、とか」
「ほんとですね。諸外国の方から見ればそう見えるんですね。「礼に始まり礼に終わる」みたいなのがきっと弱弱しいのかもしれませんね」
「まぁその辺はあたしには分からんが、第二次大戦後の名残が未だに尾を引いてるわけだ」
「在日、帰化人の方々ですね」
 千鶴さんの回転椅子がぎしりと回し、どうやら僕を窺ったらしい。
「へぇ。お前がそんな風に言うとは思わなかった」
「結構ネットでは賑やかなんです。千鶴さんが言うように、そうゆう表現は憚られる節がありますけど、ここは日本で在日の方々の国ではないんですから、言うべき時はちゃんと言うべきです」
「そりゃそうだ。気に入らなけりゃ出て行きゃいいって話だしな」
「全くその通りだと思います。日本国内の刑事事件が示す通り、犯罪者の大多数が日本人ではないんですから、隣の家で我が物顔の生活する方がどうかしてるんです」
「歯に衣着せぬ言い回しだな。お前、恨みでもあるのか?」
「いえ、全くありません。逆に友人に支那や朝鮮の在日三世がいるんですけど、国籍は違えど真面目に生活してる帰化した友人達の立場はとても苦しいらしいんです。母国籍人とも日本人とも言えないらしくて」
「へぇ。そりゃどうゆう意味でだ?」
「母国の人からは他民族扱いの差別をされるみたいで、日本国内では母国籍を名乗るのが憚られるんだって言ってました。同い年で男性の友人なんかは結婚しても日本名で通して、お嫁さん以外の家族は彼が朝鮮籍だった事を知らないらしいんです」
「まぁ… そりゃしょうがないわな」
「です。なのでそれをちゃんと言える日本社会にすべきだとは思うんですけど、今はこんな国際情勢ですから‥複雑ですよね」
「いや、お前が言った通りシンプルなんだと思う。ここは日本でそいつらの国じゃない。我が家は我が家。隣の家じゃ寛げやしないのが道理だ。それに日本は元々他国民族を受け入れるような政治体制でも法体制でも無いし、そんな国民気質でもない。島国根性って言えば聞こえは悪いが、保守的でそれが正解なんだとあたしは思う」
「そうですね。農耕民族気質って言うんでしょうか‥。確かに支那や朝鮮の在日の方々が持つ特権は、他の諸外国の方が日本に移り住むよりもかなり優遇されてますから」
「だな。その辺が今回政府のやった送還措置の本音だろ。それにお前が今日連れて来たあのくそ馬鹿もそうだ。とばっちりがとうとうこの店にまで来やがった」
「すみません…」
「そうゆう意味じゃない。あたしへの一撃もそうだが、あのくそ馬鹿が言った「洗脳」ってのが諸悪の根源だって話だ」
「…プロパガンダの事ですか?」
「ん。今日はえらく察しがいいな。気付いてたのか?」
「いえ、色々と話してるうちに何となくです。ネットではどちらかと言えばそっちの方が賑やかなので」
「そっかそっか。なら話は早い。漫画、アニメ、新聞、雑誌、ニュースにラジオ、映画や音楽なんかもそうだが、要はメディアと人をもっと疑ってかかれって事だ。捻じ曲げた論法で気付かないうちに牙を折るのはプロパガンダの常套手段だからな。自国を卑下しまくった歴史教科書なんてほんの一例だし、NHKですら他国の放送局になりつつあるんだ。お前も気を付けろよ」
「はい。でも、千鶴さんは別ですから」
「あほ。例えあたしの言葉でも鵜呑みにするのは懸命じゃない。まぁ…褒め言葉としては受け取っとく」
「肝に銘じます」
「ん。それより買出しはいいのか? 昼飯も期待してんだが」
「もうそんな時間ですか!?」
 壁掛け時計はもう三時を過ぎていた。
「すぐ買出しに行ってきます。リストはありますか?」
「ん」
 後ろ手に差し出された四つ折りされたピンク色のメモ用紙は既に用意されていたらしい。
救急隊員からの通報があったと、私服警察官が心の蒼の扉を叩いたのはそんな頃だった。

                       ○

「ほんで‥、第一発見者は、…えぇっと」
 刈り込んだ短い髪を乱暴に掻きながら向けられる血走った瞳はどんよりと、今まさに叩き起こされました、と言わんばかりの中年男性の歯切れは悪い。
 最初からこの人が警察の人だと言われてもぴんとこないくらいの冴えないサラリーマンっぷりには驚いたけれど、どうやら大雑把な性格もそこに加えなければならないらしい。
「碓氷です。これから買出しなので手短にお願いします」
 これで三度目なのだから、答える僕の返答にも力は無くなると言うものだ。
「おお! そうじゃった、悪い悪い。 うすい‥碓氷っと。ほいで、あちらの美人さんは?」
 彼女はと言えば、刑事さんが訪れてからも全くの無視で事務仕事を続けていた。唸りながら僕を見たって刑事さん、無駄と言うものです。
「このお店のオーナーです。僕は先月からここでアルバイトをさせて頂いてます」
 視線は僕から彼女へ、それからまた僕へと向けられて、刑事さんはまた頭をバリバリと掻いて深い鼻息を一つひねり出す。
「なるほどのぉ。そのバイト君が何でまたあのぉな重症患者を見つけてきたんかいのぉや」
 酷い備後弁だと思った。広島県は東西に分かれた横に長い県だからか、東側、特に福山市近辺は備後弁を使う人が多い。僕の地元もそうだから馴染み深くもあって落ち着くのだけれど、言葉として上品とは決して言えない響きが僕を標準語へと誘った。
「そこのゴミ捨て場にゴミを捨てに行ったら倒れてました」
「ほぉほぉ‥倒れとった、と。 ほいで、面識はあるんか?」
 あると言えばあるけれど彼女との事前の打ち合わせがある。それに変な疑いをかけられるのも避けたいし、勿論それには嘘のないように。
「いえ。知らない人です」
 千鶴さんがぴくりと反応したけれど、動きはそこまでだった。
「ほぉか、ほぉか。ほいで‥担いで店に連れて来て手当てした、んじゃろ?」
「はい。傷口を布で押さえてました」
「なるほど。刺された腹を圧迫止血か。ほんならこの椅子にもテーブルにも床にも血痕が残ってないのは何でなんかのぉや?」
「固まると落ちなくなると思って掃除しました。駄目でしたか?」
「いいや、別に構わんのじゃけどの、表に血痕もあったし‥まぁ供述通りじゃろお。ほぉよっ 表の血痕も掃除せんと後がのこるど?」
「今からでも構いませんか?」
「いや、もぉちぃっと待ってくれぇや。すまんが鑑識が終わったら声かけるけぇそれからで頼むわ」
「はい」
「まぁ‥女子のようなあの男は大丈夫じゃろう。じゃが外傷があるのがのぉ…。聞いとるか?スタンガン事件」
「はい。界隈の噂程度ですけど」
「ほぉかぁ‥。まぁ、あんたらも気ぃ付けての」
「はい」
「ほんなら何かあったら呼んでくれぇや。捜査二課の作間言やぁワシんとこに話がくるけぇの」
 ゆらりと立ち上がった刑事さんの足元はふらふらと、扉を開けて外を暫く眺めた後、半身で手を振り上げた薄ら笑いで外へと消えて行った。
「あの野郎…ありゃ厄介だな。気を付けろよ」
「分かりました。疲れてたら先に休んでて下さいね。じゃ、買出し行ってきます」
 四つ折にされたピンクのメモ用紙をひらひらと、店の通りで何気なく見た丸文字の文面の最後。「リクエスト 兎柄のお守り」
 あんな話をしながらこんな悪戯をするあの人の下へ速く帰りたくて、足音も軽く野次馬でごったがえした路地を意気揚々と駆け出していた。

                       ○

 多くもなかった買出し品を右手にぶら下げたまま、僕は動けなくなってしまった。
「おぉ。どうした? 早く準備始めろ」
 千鶴さんが声をかけてくれて助かった、と言いたいけれど、どうしたってよそよそしくなってしまう。
「聡君、お邪魔してるよ。ついでにケーキもあそこだ」
 ごつい指はカウンターの端の空箱だけれど、ケーキ棚は既に陳列された後のようだ。
「ありがとうございます」
 何故か千鶴さんがほくそ笑んで今にも笑い出さんばかり。
 どうして僕がこんな営業スマイルでいるのかと言えば、どうしたって警戒してしまう見慣れぬ顔ぶれが三人、ロビーの椅子から僕を眺めているからだ。
「お久しぶりね。もっと遊びに来てくれればいいのに」
 そう意味深な笑みで頬杖を付くのは雑貨店の村上さんだ。僕はこの人がとても苦手で、千鶴さんとのネタを常に聞き出そうと僕を窺うあの瞳が一定の距離を保たせる。
「その節は有難う御座いました」
 営業スマイルではあるけれど、素っ気ない僕の歓迎の一言が気に入らないのか眉を大きく持ち上げた。
「ほぉほぉ。なるほどのぉ…」
 剛毛の長い眉毛に隠れた、閉じているのか開いているのかよく分からない細い目が、真っ白く長い髭を撫でながらこちらを覗いている。作務衣のよく似合う肩まで長い白髪のとてもほっそりとした、ほっそりとしすぎて心配してしまうくらいのこのおじいちゃんは誰?
「へぇ~。千鶴さんって面食いだったんだね」
 とは、こちらも初めて見る女性だ。頭の横だけ刈り上げたような奇抜な髪型だけれど、僕に見覚えは無い。千鶴さんと同年代くらいかな?
「聡、仕込み」
「はい」
 棒読みの彼女に多少慌ててキッチンへ逃げ込んだ僕は救われたのだと理解は出来るけれど、今までこんな顔ぶれがこの場所に集まった事なんて一度も無い。やっぱり表の野次馬達が原因なのだろうか。もっとも警察も鑑識も引き上げたのか、路上のチョークの跡を残し、野次馬達も引き上げた後ではあったのだけれど。
「千鶴さん、ちゃんと紹介してよ」
「駄目だ。律子には聞きたい事があるって言ったろ?」
 千鶴さんと…あの同年代の女性はリツコさん‥か。
「そうよ律ちゃん。今は会議の途中でしょ。それに‥もうすぐお茶なんか出してくれるわよ?あの子」
 またこれだ。村上さんはこんな風に人をダシに色々な複線を張るのが得意なのだ。本当に迷惑千番なのは毎度の事だけれど、いつもより少しだけ緊張しているのか声はよく通っている。
「聡、コーヒーでいいからな」
「はい」
「へぇ~。千鶴さんってそんな顔するんだ」
「こら。律っちゃん、失礼よ」
 お茶への心配なのか、律子さんを嗜める村上さんの語尾は何とも嬉しげに聞こえてくれば、ゴンザレスの親父さんもあの老人も笑い出してしまった。
 咳払いをはさんで続けたのは千鶴さんだった。
「噂程度には聞いてるとっ ん"んっ 思うが、思うがっ 律っ 笑うなっ」
「いやぁ~ごめんごめん。やっぱさぁ千鶴さん最っ高だわっ あははは」
「律ちゃん、千鶴さんにも悪いんじゃが、話が前に進まんのはワシも辛い。そろそろ晩飯を食いに帰らにゃならんのよ」
 おじいちゃんの言葉に間延びしたような静寂。
「あ~‥ そっか。もうそんな時間なのか。あたしも店空けたままだし、ごめんごめん」
「分かりゃいい」
「よく言うよ。この惚気大王」
 律子さんを完全無視の千鶴さんは何事も無く続けた。
「んじゃ、スタンガン事件についてだが、被害に遭ったのはマッジと律だけでいいか?」
「うん。私のとこは昼前だったかな」
「ワシのところは‥午前中の早い時間じゃった。それと‥千鶴さん、そろそろマッジは止めてくれんかのぉ。向洋(むかいなだ)と言えば誰もがワシじゃと分かるわぃ」
「長い」
 ぽつりぽつりと息継ぎも多かった向洋のおじいちゃんの発言の長さになのか、苗字へなのか分からないけれど、千鶴さんは一言で終わらせてしまった。年上の年配ともなれば情の深い千鶴さんだ。かなりの配慮があるものだとばかり考えていた僕にはちょっと以外だった。
「悪いが時間が無い」
「はいよ」
 マッジおじいちゃんはさして変化の無い返事を返した。感情の起伏は笑わない限り僕には見分けられそうにない。
「で、被害はあったのか?」
「ウチは店舗の鉢植えがひっくり返ったくらいかなぁ。あぁ、後バイトがスタンガンで軽い火傷したくらい」
「そうさなぁ‥。店の品物には被害はなかったはずじゃ。常連の健吾朗がワシを庇って倒れたが‥、救急車にも乗らずに自宅に帰ったよ」
「そっか…。ならどこも物取りじゃないのは確かだな。それで、何か言ってなかったか?」
「うむぅ~… いやぁ、いきなりじゃったからのぉ」
「私の所もそう。手招きするから近づいたらバチッ って感じ」
「恐ろしいもんだ。ウチも村上さんも隣同士だから、地理があるのかもしれんね」
「そうね。千鶴さんとこはどうなの?」
「‥同じだよ。被害無し」
 全員の何とも言えない溜息と言葉はとても重たかった。だからいつも通りで切り出した。
「お茶が入りました」
 マッジおじいちゃんと律子さんの座るテーブルにはコーヒーと紅茶。勿論、紅茶はマッジおじいちゃんだ。年配の方がコーヒーよりも紅茶を好む傾向にあるのはカフェを始めてから気付いた事で、やっぱりマッジおじいちゃんはそれを喜んで受け取ってくれた。
 村上さんとゴンザレスの親父さんの席もコーヒーと紅茶。ゴンザレスの親父さんは紅茶が好みらしく、シフォンケーキに使うお茶の葉には拘りがあるのだと前に力説してくれたからだ。
 もちろん最後は千鶴さん。兎柄のピンク色したマグカップに並々と。
 微笑む村上さんをよそに、千鶴さんは素っ気なく受け取った。きっと付き合いきれないのだろう。
「お茶菓子はお好みと言う事で、どれでもお好きな物をどうぞ」
 陳列棚へと促すと律子さんと村上さんは駆け寄って好みのケーキを指差し、待ちかねたと大書した満面の笑みを向けた。
 村上さんと律子さんは言うに及ばず、マッジおじいちゃんには柔らかい甘さ控え目のロールケーキを。ゴンザレスの親父さんには吉原殿中を出してみた。
 いちごのムースを手に回転椅子へ腰を下ろして眺めるマッジおじいちゃんは、髭にクリームをつけながらもくもくと美味しそうだ。ゴンザレスの親父さんは最初こそ恐る恐るだったけれど、二口目にはほとんどを一口で食べてしまった。これなら満足してもらえそうだ。
 傍らの回転椅子から視線を感じ、千鶴さんを窺うと、彼女は口を空けて待っていた。
 「ムースでもいいですか?」との無言の問いは杞憂に終わり、そっとひと匙彼女の口へと運んだのだった。
「それじゃぁ、スタンガン事件についてだが、犯人の人相はどうだった? 律」
 多少口に残っていたのか、コーヒーで流し込みながら慌てて続けた。
「細身の女みたいな男だった。見た目はね女なんだけど、声って言うのかな、雰囲気がそうだったからたぶん間違いないと思う」
 千鶴さんに促されたマッジおじいちゃんは節目がちだ。
「すまんが、背は高かったんじゃが… 何せいきなりじゃったから‥目がのぉ…」
「分かったよ。マッジ、ありがとう」
 マッジおじいちゃんの眉毛がみるみる持ち上がり、目は見開かれている。律子さんが僕をそっと指差してにやにやしてたけれど、とても相手には出来そうもなかった。
 さして気にならなかったのか千鶴さんは変わらず続けた。
「律とマッジの印象を合わせると、背の高い細身の女みたいな男って事になるんだが…実はその男を昼間こいつが担いで来たんだ。腹を刺されてたから救急車を呼んだ」
「マジ!? 彼ってそこの彼が? ちょっと‥意外だなぁ」
「それで今日の騒ぎって訳だわね。聡君は大丈夫だったの?」
 千鶴さんを窺えば、端的にとの視線が痛いけれど発言はどうやら許された。
「店の前で倒れてたので119番通報しただけです」
「とまぁそんな流れで、スタンガン事件の犯人は今頃病院のベッドだろうよ。この界隈じゃ色々と暴れた痕跡がまだあるだろうし、複数犯の可能性も否定できない。情報収集も兼ねて、律、防犯用の刷り物を作ってくれ」
 律子さんはとても面倒くさそうに唇を尖らせて抗議してはいるけれど、どこか芝居染みていたのは彼女の性分らしく、後は愉しげに「任せて」とのお言葉だった。
「金は出すから心配するな。んじゃ、よろしくっ」
 両手を掲げて解散とばかり、千鶴さんはピンクのマグカップに口を付けた。

                       ○

 頼りになるのかならないのか、あいつは面倒事ばかり持ち込んでくる。それは絶対の幸せであるし、もう、あたしにとっても不可欠な要素ですらある。
「あら、良い夢だったみたいね」
 まだ定まらない足元、垂れた頭は首に堪えてるのに、口元にはそれがしっかりと。何だかな。春子に素直にそう言える日はまだまだ先になりそう。
「面倒事ばっかだよ。あたしはいつも振り回されてばっか」
「んふっ それはそれはご・ち・そ・う・さ・ま」
 解り易いそれには答えなかった。答えられない理由もあるが、そんな事よりも寝起きの体が言う事を利かない。
 のろのろとゴミ袋を摘み出しつつ、繰り返してきた掃除の段取りを夢の日々に重ねるのだった。

                       ○

 もはや義母と言える、あたしよりも少しだけ小さい豪快なその人は、いつも通り、のほほんと厳しくも優しく嗜めてくれる。それが今日のあいつと重なるなんて、儀母と呼ぶに抵抗のないこの人とも流石に話せてはいない。それでいて、あたしだけのあいつなんだと妙な拘りもあるんだから、人ってのは本当に身勝手なもんだ。
「じゃあ、明日もいつも通りでお願いね。 ‥少し、休めなさいね」
 座るカウンターのあたしを見据え、薄い緑色したふろしき包みの空弁当を胸で抱え直し、床板をぱたぱたとご帰宅の流れだ。
「お願いします」
 慌ててボールペンを投げ、扉の持ち手にはなんとか先に触れられた。
「軽いのよ?」
 片腕で軽々抱え直す胸のふろしき包み。眉を持ち上げ呆れたように漏らした。それには噛み合わない間抜けな苦笑いが自然と。それくらいにはこの人との時間を楽しめてはいるんだ。
 扉を押し開けてのお見送りも何とか慣れてきた。そして、そんな日々と同様に、日傘を差す義母は一度も振り向かない。肌を焼くような日差しと咽る多湿な外気。大通りの角を曲がる義母を見送る頃、蝉の耳鳴りに機嫌を損ねるあたしが居た。

                       ○

 見送りの後、実は昨日の残業、事務仕事をようやく終えコーヒーブレイクでの店の天井。もしも夢だと言われても、あたしはきっと受け入れるだろう。それは決して投げ遣りな感情じゃなく、あの装置で観る夢がそう思わせるからだ。
 事実、あたしはこの店のオーナーで、あいつはバイトなんかじゃない。それでもそんな記憶を夢だと言われても、あたしは、平気でこう言える。
「惚れてんだ」
 火を点けていたタバコは、長い長い燃え滓を留めたまま。
あほらしい、全く。
 あのふろしき包みのお弁当。そう言えば、あたしが作ったあの日もお義母さんは用意してくれていた。保険だったんだろうか。そう思えるくらいの量だったし、義母のお弁当とは対照的に、あたしのサンドイッチは半分も売れ残った。蘇る春子の台詞が余計にそう感じさせて、今日は何をやっても、考えてもすっきりしない日らしい。
 夕方六時半、いつも聞こえるサイレンにも似たそれが響いている。 もう夕方なんだな。
 この音が近隣の町工場からのもので、終業を知らせる合図だって事は春子が呆れて教えてくれたんだ。それくらい、あたしはこの店以外の事に頓着しない。それに、エアコンが好きじゃない。
 だからと言って店を熱帯雨林にするわけにもいかず、除湿程度の設定でよしとする現状、この店への執着もそれ程じゃないのかも。まぁ、どちらにしても、今日はすっきりとしない日だ。
「もおやっとるんかぃのぉや」
 扉は音もなく開いていた。
 薄ら笑いのくたびれた中年男は伸びた無精髭を摩りながら眺めていた。その仕草が妙に引っ掛かり、方言丸出しの口調にも苛立ちを覚える。それは面識の無いおっさんが親密な間柄だと言いたげでもあり、あたしの逆鱗をひと撫で。
「閉店」
 残業書類に目を通し、バインダーへ纏めながら早く帰れと促す。 が、男は悪びれもせず飄々と続けた。
「まぁそう邪険にせぇでもえかろぉが。あの兄ちゃん、えぇっと…、おぉっ 碓氷じゃったのぉや。会いたいんじゃが、居るんじゃろ?」
 髪が頬を叩くほど捻り凝視していた。男の見ている小さな手帳、それには見覚えがある。確か刑事だと言っていたそれは夢の中の出来事で―――
「ほれ」
 向けられたそれは警察手帳らしく、このおっさんらしい小奇麗な写真も見て取れた。
 慣れた手つきでスラックスの後ろポケットに突っ込みながら、薄ら笑いの瞳は寝起きのように充血している。
「んで、兄ちゃんは元気か?」
 だめだ、頭が追いついていない。そう考えてはいても夢のフラッシュバックが呼吸を次第に浅くするばかり。
「別にとって食おう言うんじゃないけぇ、そぉ怖い顔せんでもえかろ―――
「何が目的だっ」
 あたしは遮り叫んでいた。この男を脅威だと本能がそう判断したからだろうか。いや、夢の中でもこの男は異様ではあった。それに、あいつだってすこぶる警戒してたんだ。あいつの知り合いって訳じゃないだろうし、義母の居ない時間帯を調べてたって不思議じゃない。それに何より、頭の中が追いついてこない。
「スタンガン事件‥ 覚えとらんのか?」
 忘れるも何も、肩への一撃は今考えても腹立たしい。だが、それは夢の中の出来事で、このおっさんが現実に現れてこんな事を言うんだ。白昼夢でも見てるのか…いや、これは現実だ。夢の中じゃ順風満帆の大もうけのはずが、さっき纏めた書類の数字は酷いもんだった。ならどうする? あの夢の中の出来事をこのおっさんに確かめるにはどうしたら… そうだ、聡の言ってた事を聞けば真偽は明確だ。それにこのおっさんの目的にも辿り着けるかもしれない。
「あいつはっ 何て言ってた」
 確か、あいつは「界隈の噂程度」とか言ってた。間違いないはずだ。
「あいつ? 兄ちゃんがか?」
 ごそごそと取り出した手帳に眉をしかめながら続ける。
「えぇっと‥ おぉ、界隈の噂程度、じゃったろ?」
 間違いない。ただ、何でこいつがそんな記憶を持ちながら今ここに現れてんのか、いや、逆に何で現れたんだろうか。あいつが眠りこけてひと月と少し。現実はメディアと世間ににぐちゃぐちゃにされた生活の中で観た夢だ。もしかして、このおっさんは夢の中のあの時、既にあいつが眠りこけてるって事を知っていた? だから今日、聡に会わせろと言っていたのか。だとしたらこのおっさんの目的は、聡だ!
「あんたの目的は何だ? 聡に何の用だ。聡をどうするつもりだっ 警察だろうが何だろうがあいつには指一本触れさせんっ」
 気付けば立ち上がっていた。それでも男は頭をがしがしと、手の平で乱暴に掻いた瞳は血走ったまま、薄ら笑いは消えていた。
「聞きたい事は山とある。あんたもそうなんじゃろぉ」
 男の放つ視線は鋭さを増して縫い付ける。が、頭を掻いた次の瞬間、大きく漏らした。
「また来るわ」
 薄ら笑いでひょうきんにそんな事を言う男の肩透かしを食らってしまって、昂ぶりは捌け口を求めて指先まで震わせる。それでも男は飄々と既に半身は扉の外へ、半端に挙げた手をひらひらと合わせた視線に薄ら笑いは足音もなく、閉まる軋みの金具が微かに響いた。
 捨て台詞のひとつでも言ってやりたかった。それなのに言葉が出なかった。どうやら感情が限界を超えると言葉には出せないらしい。けど、腹が立ってしょうがない。くそっ くそったれっ
 と、開いた扉から覘いた姿は常連の篠崎(しのざき)さんだ。
「もう開いて‥るわよね?」
 あたしをまじまじと、窺いの眼差しは困惑色。それがあたしの顰めっ面の成せる業なのだと、申し訳程度に笑みを添えた。
 カウンターへ置かれたカードから思い返しても、さっきの出来事は本当に現実なんだろうかと、狐に摘まれるってのはこんな気分を言うんだろう。この篠崎さんならどう思うだろうか。それなら多少の変化も望ましい事かもしれない。
「あぁ。久々に下でもどう?」
「え‥っと、地下って使えるようになったの?」
「いや… 久々に二階でもどうかなって」
「ぁ‥うん、そうね。 だけどいつものところでいいわ。少し休みたいし」
「そっか。んじゃいつものとこでごゆっくり」
 そう笑みで返すカウンターのカードはそっと弾かれて、互いの勘違いも場違いに、「ありがとう」との常識的な反応が篠崎さんらしく、夢ではないと物語っていた。
 階段を上る彼女のパンプスは、背凭れに垂れる頭上を微かに過ぎる。
 空欄ばかりの来店リスト、その脇に立てた昨日の残業書類の数字をそれとなく捲るも、やはり数字はすこぶる悪い。
 あのおっさん、何て名前だったっけかな。それに、追わなかった自分を今更責めたって始まりはしない。
 理解し難い白昼夢のような現実。
 それは更なる現実として、重く、足早に圧し掛かっていた。

季節の森

これをご覧頂く頃、「疲れた」等とお言葉を頂いている事でしょう。
まず、お付き合い頂けました事、心より感謝申し上げます。
本当に有難う御座います。

お皿に盛らせて頂いたのは、誠に勝手ながら、私の妄想する「日常」です。
それらは作中の、彼ら、或いは彼女らの「日常」であり、一種タブーとされているドレッシングで味付けをさせて頂きました。
この味付けは、今後少しずつ変化しますので、含めてお楽しみ頂ければと思います。

「日常」はこれからも続きますが、賛否両論頂ければ幸いです。
                                      『一』

季節の森

近隣諸国との衝突が激しさを増す平成二十八年六月。 日本は戦争を始めた。 広島県広島市、警戒区域内に構える印刷会社に努めて六年目、碓氷 聡(うすいさとし)二十六歳は、諸々の面倒事を逃れるべく、同年十一月。辞表を提出する。 蜷川 千鶴(にながわちづる)三十四歳。広島市、警戒区域外にネットカフェ「心の蒼」を構える経営者である。時代の流れは商売の形態を少しずつ変化させ、自身が謳うポーカーフェイスもまた、その変化に戸惑う毎日を過ごしていた。 そんな折、日本全国に普及した薬物を使わない営利睡眠システム「季節の森」を営利目的で利用する聡と、無頓着にもこの装置で運営する千鶴は出会い、運命の歯車は刻々と回り始める。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-12

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. 序章
  2. 第一章
  3. 第二章
  4. 第三章
  5. 第四章
  6. 第五章
  7. 第六章
  8. 第七章