感想「奇跡物語としての『山椒大夫』のこと」

たかなみ なと 作

(かな漢字変換の都合上、作者名を、「森おう外」と記します。)

森おう外の「山椒大夫」は1915年(大正4年)に中央公論に発表された小説である。山椒大夫の元での苛酷な労働から逃れて別れた父母と会うために、姉の安寿は弟の厨子王を逃し、自らは沼に入水するという痛ましい出来事が、この小説の中心のストーリーとなっている。姉による自己犠牲と愛を描いた物語として、森おう外の作品中、広く人々に知れ渡っている。

しかし読み返してみて改めて考えた事だが、「山椒大夫」を一種の奇跡物語として読むことも可能ではないかと思う。安寿の愛と自己犠牲の先に、奇跡が生じることを期待した物語だと解釈することも可能であるのではないかと思う。

「山椒大夫」に描かれた奇跡、あるいはそれに類似した出来事を(現世利益的な事も含めて)以下に挙げる。厨子王は逃げるにあたり、寺院の僧侶が助けてくれるかどうかを運験しとしたのであるが、実際に厨子王は、中山の国分寺の曇猛律師に救われる。関白師実が厨子王の守本尊を手にして拝むと、娘の病気がすぐさま拭うように本復する。後に丹後の国守となった厨子王は、丹後一国での人の売り買いを禁じ、山椒大夫は買った人々を全て解放して給料を与えることにしたのであるが、そのために山椒大夫一族はいよいよ富栄える。自ら行方の知れない母を探して歩く厨子王は、畑中の道で目の不自由な女と出会い、その女の口にする詞から、厨子王は彼女こそが母だと知り、守本尊を捧げ持って額に当てると、母の目に潤いが溢れて目が開く。

その求める事柄が、現世の内容にしろ来世の内容にしろ、あるいは超自然的な内容にしろ、自己犠牲や愛の先に(奇跡としての)栄えや平和を希求することは、人間として当然ではないだろうか。

ところで森おう外は、1913年には中央公論に「阿部一族」を、1915年には新小説には「じいさんばあさん」をそれぞれ発表している。これらの2作品は共に、人間の理性と意志では抑えることの出来ない、滅亡と負への意志と衝動を主題にした小説である(もっとも、「じいさんばあさん」については、伊織の妻るんの生きざまに注目して、この小説のテーマを自己犠牲と愛だとする解釈もあるが)。

明治の文明開化と富国強兵政策の中にあって、森おう外は人間の心の闇を見つめた小説を書いた。また、1915年には心の花にて「歴史其のままと歴史離れ」という文章を発表している。そこには「山椒大夫」の創作に関して、「歴史離れがしたくて、夢のような物語を夢のように思い浮かべた」という旨の記述がある。作者が人間の心の闇からの救いに関して、人間の歴史を越えた奇跡に憧れたとしても、それは決して感傷ではないであろう。

感想「奇跡物語としての『山椒大夫』のこと」

感想「奇跡物語としての『山椒大夫』のこと」

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2015-05-20

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