征四郎疾風剣〔Ⅲ〕

ー 暁の章 ー 楼下の宴



限りなく季節は移り

再び(めぐ)り来たる春

桜下の(さかづき)に心 (やなや)

花吹雪の中 舞い踊る

()の袖の(あで)やかさよ

川面に浮かぶ屋形の上

三味(しゃみ)の合い間に小判が飛び()

路傍(ろぼう)()して食を乞う者さえも笑みを浮かべ

(わらべ)の声 甲高(かんだか)(あた)りに響き

屋台の煙 朦々(もうもう)として芳香を漂わす

墨堤(ぼくてい)の 流れに眼を(とど)むれば

まるで 花天井(はなてんじょう)(もと)

浮かれる幾十万の人々を乗せ

大川を(さかのぼ)大船(たいせん)の如くに見ゆ

大江戸はまさに今 春爛漫(はるらんまん)の時を迎え

人々はこの世の春を 心ゆくまでに謳歌(おうか)せり


【旅の宿】

京都を発つてからまだ半日も経たぬうちに 、さすがに旅慣れぬ菊千代の足が痛み歩けなくなった。。街道沿いを行き交う人々の目を気にしながらも、菊千代は征四郎の背中に(すがって)っていた。「あそこに茶店が見える。少し休んでいきましょう・・。」愛想のいい茶店の女房に入れてもらった茶を片手に、征四郎は蓬餅(よもぎもち)を旨そうに食べた。「別れ際におかあはんに、あんなきついこと言うてしもて・・今頃さみしがって居るんと違うやろか。」遠くの山々の頂には、白い雪が早春の夕日を浴びて赤く輝いていた。「次の宿場で、手紙を書いて届けてやりましょう。きっと安心しますよ。菊千代さんの元気な様子を知ったら。さ、行きましょうか、日暮れまでには草津の宿に着かなくては、温泉に入ったら、少しは足の痛みもましになりますよ。」そう言って征四郎は屈み込み背中を向けた。草津宿に着いた頃にはもう日はとっぷりと暮れ、旅籠(はたご)の屋号を書いた灯りがあちらこちらにともる中、剛力の引き込み女たちが、自分の宿に一人でも多くの客を入れようと旅人の腕や肩を掴んでは中に引き入れている。「ちょいと、お侍様!奥様を(かつい)でちゃあ、さぞお疲れございましょう。それに奥様の具合も、うちの湯に入り美味しい料理を食べたら、たちまち元気におなりになりますよ。今ならいいお部屋も空いてるし、さあ、込まないうちに、お入んなさいな。さ、どうぞどうぞ!」その言葉に誘われて、征四郎は、『木津屋』と言う旅籠の暖簾(のれん)(くぐ)った。


【仇討ち】

翌朝も菊千代の足の痛みは続いたため、征四郎はしばらくこの宿に滞在することにした。別に急ぐ旅でもない。三日目の朝には腫れも引き痛みも取れたので、それではと旅籠を出て少し肌寒い風の中歩き始めて間もなく、四五間先の松並木の辺りに人だかりがして騒がしい。二人の横を駆け抜けていく一人を引き留め、何かあったのかと聞くと「仇討だってよ!」と言って走り去った。近寄ってみると、(たすき)を掛け頭に白い鉢巻を占めた二十歳前後の姉と弟らしき二人が、五十過ぎとみられる痩せた浪人風の男に対峙し、互いに白刃を向け合っている。しかもその浪人の袴を泣き叫ぶ三歳くらいの女の子が掴んで離さない。浪人は悲痛な声で「志乃!離せと言うに!ええい!離れよ!」と突き放そうとするが、必死にしがみついて離れない。「征はん。何とかしてあげておくれやす・・。」との菊千代の声にやむなく征四郎は「お待ちなさい!双方とも刀をお引きなさい!」と言いながら間に入り、「如何なる遺恨かわ存ぜぬが、衆目にさらすは武門の恥と心得る。それに、ここは人が行き交う街道筋、その真ん中にて、刃を振り回せば他の人々に危害が及ぶ恐れもあり、双方ともそれは望まぬところと推察仕る。然るべき時に然るべき場所にて存分になされては如何か。はばかりながら、(それがし)がしかと見分役をお引き受け申すが、双方の言い分を承りたい。」征四郎の真摯な態度に姉弟 は互いに頷き、姉が「そちらが逃げも隠れもせぬと誓うなら。」と折れたのを受けて、相手側の浪人も「落ちぶれようと武士の端くれ、逃げも隠れもいたさぬ。」と刀を納めた。周りの野次馬たちは気が削がれたのか口々に何かを呟きながら徐々にその人数を減らし、やがては当人たちを残して居なくなった。征四郎は『木津屋』の亭主に頼んで客が引き払った二階の一部屋を借りて、双方を招いた。今回の仇討ちに及ぶまでの成り行きを問い正し、双方が互いに争わずに済む道を探ろうとしたのである。


【 双方の言い分】

「わたくしは、今は亡き桐生藩 江戸留守居役、小手島鶴衛門の娘で勢津と申しまする。横に控えまするは弟の彦四郎にございまする。そこに居る逢瀬六三郎は、一昨年の三月十八の夕刻、城中の花見の宴の帰り道の我が父を待ち伏せし、卑怯にも後ろから切り掛り死に至らしめたる憎っくき父の(かたき)、今日願を掛けた神仏の思し召しによってか、この宿場にて偶然に出くわし、この時とばかりに亡き父の無念を晴らさんと仇打ちに臨んだ次第にござりまする。」娘はそういって、口を一文字に結ぶと目を閉じ、弟ととも泣き伏した。「逢瀬六三郎殿とやら、このお二人の申すことに相違はござらぬか。」と向き直った征四郎が聞きただすと、以外にも六三郎はこう釈明した。「私は天地神明に掛けて申し上げる。私はそのようなことには全く身に覚えが無く、小手島殿が落命されたことなど、今の今まで全く存じませなんだ。」「おのれこの場に及んで、まだそのような言い逃れをするか!」と歯ぎしり噛んで刀の柄に手を掛け詰め寄る二人を制して、征四郎は逢瀬の言い分に聞き入った。「お二人がなんと言われようと、私は小手島殿を手に掛けた覚え一切なく、敵呼ばわりされるなど迷惑千番でござる。」「何!?ならばなぜ国元を捨て逐電なされたか、その訳を申されい!」彦四郎の言葉に逢瀬は、「それは、ちと仔細がござって・・・それだけは申すわけにはまいらぬ。身どもだけでなく、さるお方にその・・・ご迷惑が及ぶ故。」「逢瀬殿、もしそちらが身に覚えが無い濡れ衣を着せられて居ると言われるなら、まずお身の潔白を明らかにされるほか、このお二人の疑念を払拭することは叶いますまい。今は武士の一分などにこだわらず、訳を話されたら。」征四郎の言葉に促され、逢瀬は覚悟を決めたらしく次のように話しだした。



【雪越えの道】

「実は、拙者はさるお屋敷に奉公しておりました折に、(あるじ)が嫡男を産めぬお内儀に対し、あまりに横暴なのを見かねて、慰めのお言葉を掛けたり、受けた傷の手当などをしておる内に、若気の至りもあってか、主の留守中に、うかつにも情を通じてしまいました。」「何と!?不義をしてしまったと言われるのか。」「はい。不義密通は死を持って償わねばならぬ 大罪。やがて主にこのことを知られれば、わが身はともかくお内儀がどんな責め苦をうけるかと案じられ、ある夜、手に手を取って何処か他国で暮らそうと、国境を超えたのでございまする。」「それは、何時のことでござる。」「一昨年の節分の雪の降る寒い夜、主が酒に酔い眠りに落ちた真夜中のことでございました。おりしも前日より降り積もった雪が深く、峠を越えるのに難渋(なんじゅう)いたしましたが、気付いた 追ってを(しの)ぐに有利 と考え、あえてその日を選んだのでござる。すでにその時はお内儀、いや佐世殿はこの志乃を身ごもっておりましたので、主が二人の関係に気付くのは明日かもしれぬと恐れ、一刻の猶予もならなかったのです。」「して、その佐世殿はその後如何なされた。」その征四郎の問いに、さすが心を乱されたのか、袴を握りしめていた両手のこぶしを震わせ、「去年の暮、新年のあくるを待つことなく流行(はやり)り病に倒れ、この志乃の行く末を案じながら、息を、息をひきとりました・・・。」そう言って、泣き崩れた。しばらくして気を取り直し、「我が主は蛇の如く執念深い上に、自らの名誉を何よりも重んずる性格、いずれは追っ手を差し向け我々三人の命を奪わんとするは必定(ひつじょう)と考え、一日として心安らぐ日は、ございませなんだ。非常手段とはいえ、それによって佐世殿の命を縮め申したことが何より悔やまれてならぬ。そこへ(にわか)(かたき) 呼ばわり、もう生も根も付き果て、挙句の果てに佐世殿を失った今、このままこの二人に打たれてしまうも何かの縁と、刀を手にしたまでのこと。愚かな所業とお笑い下されいご免!。」と言うや否や、脇差を引き抜き腹に突き刺さんとするを、征四郎の腕がそれを(さえぎ)った。「武士の情けでござる!お見逃し下されい!」「なりませぬ!そこもとが死ねば、この志乃殿が天涯孤独の身となり、佐世殿がそれを許すはずがございますまい!」「・・・・・・。」「志乃殿を立派に成人させてこそ、そこもとを頼りに生き、病に果てた佐世殿が浮かばれるのではございませぬか・・・。」征四郎の言葉に、六三郎はただただ涙を流しながら「佐世殿・・・済まなかった。許してくだされい・・許されい、佐世殿・・・・。」と言う言葉を何度も繰り返していた。


【仇討の知らせ】

「勢津殿。」「はい。」「この、逢瀬殿の(おっしゃ)りよう、そのお人柄からして嘘偽りを申されているとは思われぬが、誠真実であるとすれば、そなたのお父上が落命されたのが花見の時期だとすると、その時にはすでに逢瀬殿は国元を離れていることになるが。そなたは、お父上を手に掛けたのがこの逢瀬殿であると誰から聞かされたのか伺いたい。」「我が父とご同役の早瀬又之丞様でございまする。」これを聞いて、先ほどからうつむいて落涙していた逢瀬が顔をあげると、「今、今なんと申された・・。」と勢津の顔を見つめながら訪ねた。「はあ?はい、父とご同役の早瀬又之丞様が、私の父を手に掛けたのが逢瀬殿であるとわたくしに教えてくれました。その目で父を背後から切り付け逃げる姿をはっきりとこの目で見たと、そう言われたのです。」「なんと!私のかつての主、佐世殿の夫が、その、早瀬又之丞でございます!非情な方ではあれどかつての主、名を出して(はずかし)めてはと、今まで名は伏せておりましたが、なぜかつての主がそんな嘘偽りを、さては拙者を恨んだ末に他人の罪を着せ、仇討の名のもとにその命奪わんと画策せしか!なんと卑劣ななされよう。」「それでは、われらが敵と狙いし逢瀬殿は、早瀬様のご家来であったと申されるか!?」「いかにも、我が逢瀬家は代々早瀬家に使える身分でござる。」先ほどから腕組みをして、思案顔の征四郎が尋ねた「勢津殿は早瀬殿から、敵を見つけた折には助太刀の手の者を送る故すぐには名乗り出ぬよう言われてはおりませぬか?」「はい。どうしてそれがお分かりになるのですか?」それには答えず征四郎は、勢津にこう言った。「勢津殿、早瀬又之丞宛てに、早飛脚にて次の内容を(したた)めた便りを送られい。『草津宿にて目指す敵、逢瀬六三郎を見つけだし候、助太刀をと思い候らえども、一人の敵を多勢で打ち取ったとあれば武門の恥、助太刀は無用と心得、三日後の二月十八日の夕刻、草津宿八幡神社裏の仏ガ原に於いて我ら姉弟のみにて逢瀬六三郎めを打ち果たすべく、戦いを挑むことに決し候、
まずはご報告まで。』と、よろしゅうござるか。」「は、はい・・。」


【 仏が原の闘い】

杉や檜の 木立に囲まれた一角に、石仏の散らばる草原があった。この場所は、戦いに明け暮れた遠い戦国の昔に焼失した寺院の跡で、ススキの枯れ残りが、風に揺れ早春の夕日に影を落としている。そこに佇む三人の人影があった。「逢瀬六三郎!卑怯にも我が父、小手島鶴衛門を背後から切り付け殺害し姿をくらませた憎っくき敵、今日こそ汝を打ち果たし、父の無念を晴らしてくれん!彦四郎油断するでないぞ。」「はい姉上!」「ええい!そなたの父を殺害した覚えは無いと何度言えばわかるのだ。人違いだと言うに、これ以上付きまとうと容赦はせぬぞ!」深編笠の侍の言葉を遮るかのように「問答う無用!えい!」左右から切りかかる二人の刃を易々と(かわ)した相手は、腰の刀を抜きざまに姉の胴を払い、返す刀で弟を右肩口から袈裟掛けに切り下げた。二人はそのまま草の上に倒れ動かなくなった。「だから、止めておけと言ったのに馬鹿な奴らめ。」浪人は懐紙を取り出し白刃を拭うと、その場を立ち去ろうとした。すると突然、夕闇の林
の陰から宗十郎頭巾で顔を隠した一団が現れて走り寄り、彼を取り囲むと一斉に刀を抜き放った。「何者だ!拙者を逢瀬六三郎と知っての狼藉か!」その問いに頭目らしき一人が口を開いた。「冥途の土産に聞かせてやろう。貴様に生きていられては、せっかく掴みかけた出世の妨げになるのよ。」「何!?お主たちは先ほどの姉弟とは無縁の者たちか。」「あの者たちは唯の操り人形。自分の父を手に掛けた相手に騙されているとも知らずに、命を落としおったわ。」「やはりそうであったか。」{何?」「先ほどの姉弟の父、小手島鶴衛門殿を殺害し、その罪を自分の妻を奪い駆け落ちした逢瀬六三郎殿に着せたのは、やはりお主であったか。早瀬又之丞。」そう言って侍は深編笠之紐を解き、顔を(あら)わにした。「貴様、何者だ!」「名は嵯峨征四郎。ふとした縁で巡り合った小手島姉妹の助太刀をかってでた。」その声と同時に、倒れていた姉弟がすっくと立ち上がり、「我が父、小手島鶴衛門を殺害せし、真の敵早瀬又之丞!今こそ長年の恨みをはらさん覚悟いたせ!」と白刃を構え走り寄ってきた。「何を小癪な、切り捨てい!」 その声を合図に一斉に切り掛かる相手に対し、征四郎の眼にも止まらぬ速さで抜き放った剣が「ピユッ!ビユッ!」という音とともに空を切ったかと思うと、後ろを取り囲んでいた四名の者がほぼ同時に動きを止め、そのまま地面にどうと倒れて動かなくなった。瞬く間に四名を倒した征四郎の剣裁きのあまりの速さに恐れをなしたのか、早瀬を含む三名はたじろぎ一歩後ろに下がった。「無駄な殺生は好まぬが手向かう者は容赦はせぬぞ!」征四郎の声に恐れ慄き、二名の者は早瀬一人を残し逃げ去った。「金で雇われた者は薄情なものだな。命が危なくなれば平気で雇い主を裏切る。」追い詰められた早瀬は、観念したかのように持っていた刀を逆手に持つと、いきなりそれを腹に突き立てた。崩れる体を引き起こした征四郎に、早瀬は口から血を流しながら、「あいつが・・小手島が憎かった。あいつがいなければ、俺が・・俺が・・・。」そう言い残すと、呆然と立ち尽くす小手島姉弟の見下ろす中、やがて息絶えた。征四郎の峰打ちを受け気を失った者たちの一人に早瀬の従者がいた。事実を知らされた彼は、この地で主人を荼毘に付し遺骨を抱いて国元に帰り、旅先で急に倒れそのまま亡くなったと家族に伝え、主人の名誉を守り早瀬家に汚名が及ぶのを防いだのであった。小手島姉弟は、国元に帰り目指す敵、逢瀬六三郎はすでに逃亡先で流行り病に罹り死亡していたため、
打ち果たせなかったと報告、勢津はその後、叔父恒右衛門の養女となり勘定方の桜井重光のもとへ嫁いだ。弟彦四郎は蘭学医飯田是友樹の弟子となった。



【 小梅村に母を訪ねて 】

逢瀬六三郎、志乃親子を伴った征四郎 達が到着した江戸は(まさ)春爛漫(はるらんまん)、 桜の花の真っ盛りを迎えていた。上野をはじめ桜の名所には花見客がどっと詰めかけ、溢れんばかりの賑わいを呈していた。一行はひとまずその喧噪を離れ、向島にある以前の従者、又平の住む小梅村 を訪ねた。征四郎の母、浪江に菊千代を逢わせるためである。「お母上様、初めてお目にかかります。菊千代どす。以後よろしゅうにお頼み申します。」菊千代は、出迎えた浪江にそう言って頭を下げた。「おお、そなたが菊千代殿か、さぞ慣れぬ長旅で疲れたであろう。ささ、中に入って休みなされや。」浪江は嬉しそうに菊千代の手を取り、家の中へと招き入れた。征四郎は躊躇する逢瀬親子の後で敷居を跨いだ。武家の生まれではなく、しかも芸妓の身である菊千代を果たして母は受け入れてくれるであろうか、という征四郎の不安は小半時もせぬうちに消え去った。二人は他の三人には目もくれず、京の土産話や江戸の噂話に花を咲かせ、気を使った又平が差し出した茶に気づくまで、口を閉じなかったからである。志乃は先ほど来、遠方からの美形を伴った客を観ようと集まった、隣近所の子供たちに交じり、歓声をあげながら遊びに興じている。「逢瀬殿は、江戸に知り合いや、縁者がござるのか。」「いいえ、誰一人としておりませぬ。」征四郎の問いに逢瀬六三郎は首を横に振って答えた。又平の家は手狭で、四人を止める部屋も布団も無いため一行は、別れを惜しむ浪江を後に残して、日本橋近くの舟宿、柳家 に入った。「まあまあ、嵯峨様お久しぶりで、松井の旦那から上方に行かれたとは伺っておりましたが、お元気そうで何より、皆様方もさぞお疲れで御座いましょう。ささ、おあがり頂いてお(くつろ)ぎくださいませ。」女将のお仙は、そう言って一行を離れの部屋へと案内した。日本橋の旦那衆の宴席にも使われるというその座敷は襖を取り外せば、ゆうに二十畳はあろうかという広さで、あけ放たれた障子の向こうには常客の庭師が造ってくれたという禅寺風の石庭があり、その風情は、植えられた紅枝垂れの可憐な美しさとも相まって、菊千代に望郷の涙を誘うほど見事なものであった。「このお庭をお造りや
したのは、京のお方と違いますやろか、なんとのう大覚寺さんらのとよう似てるような気がしますけど。」「その通りでございますよ。この庭をお造りになった安蔵様は、名前は忘れてしまいましたが京の有名なお寺のお庭も手掛けたとか、おっしゃておりました。」お仙の暖かい心の籠ったもてなしと、京には無い新鮮な魚介を使った料理に舌鼓を打った一行はすっかり元気を取り戻し、征四郎に江戸見物をねだりだした。それではと、征四郎は「お江戸に行ったら、浅草の観音さんにお参りをしたい。」と言っていた菊千代の願いも叶えるべく、手始めに浅草に連れて行くことにしたのである。

 
【他人の空似】

  いつもながら、浅草寺の参道は大勢の参拝客で賑わっていた。手を繋ぎながら楽しそうに前を歩く志乃と菊千代を見乍ら、六三郎が口を開いた。「嵯峨殿はこの江戸で、これからどうなさるおつもりでおられるのですか?」「まずは、以前世話になっていた植木屋の親方の家に挨拶に行って後、住んで居た長屋のみんなにも会いに行ってから、その後の暮らし向きのことは菊千代さんとも話し合って、ゆっくりと考えようと思っていますが、逢瀬殿ももしよければ、私たちと一緒に江戸で暮らすことをお考えになっては如何かな?志乃殿もあんなに菊千代さんになついていることだし。」「(それがし)のような無骨ものでも暮らしていけるものでしょうか?」「侍の心を捨てて周りのあらゆる人々を、同じ人間同士だという気持ちで受け入れることができれば、自ずと道は開けるものですよ。私はそうして生業と沢山の知り合いや友を得た。」征四郎は心ひそかに、長谷部親子の墓参にも行こうと決めていた。ただ墓前で何を祈ろうかと、まだ戸惑ってはいたが・・・。

 征四郎は久しぶりに懐かしい縄暖簾の手触りを楽しんだ。「お宮さん、お久しぶり。」「いやあああ!征四郎様!おかえりなさいませ!いつ江戸にお戻りになったんです?お前さん!ちょっとお前さん!早くきておくれえな、征四郎さんが戻ってらっしゃいましたよ。ちょっとお前さんったら・・・。」お宮は嬉しそう叫んで、板場の亭主を呼んだ。「こりゃあ征四郎様。お久しぶりで・・・。」出てきた亭主のそばには三歳くらいの女の子が微笑んでいた。「娘のお光です。ほらお光。お客様にご挨拶は?」「こんにちは、お光坊。お母さんにそっくりだね。」征四郎が笑いかけるその子は、恥ずかしそうに母親の袖に顔を隠した。「松井の旦那が寂しがっていましたから、あなた様が帰ったと知ったらきっとお喜びになりますよ。ねえ、お前さん・・・。」「硅次郎さんはお元気ですか?」「ええ、とっても。まだ相変わらずの、やもめ暮らしですけどね。」「外に、あなた方に引き合わせたい、私の家族同然の人たちがいます。菊千代さん、逢瀬殿、お志乃ちゃん、さあ中に入って!歩き回ったからお腹がすいただろう。ここで昼餉を食べていこう。」 麗らかな外の通りには春風が、何処からともなく甘い花の匂いを運んできていた。


 頬についたご飯粒に気付かぬほど夢中で食べる志乃の横で、菊千代の箸の動きが止まったのを見て、征四郎が言った。「菊千代さんどうかしたのかな、食がすすまないようだが・・。」「いえ、ただちょっと気になることが。」「気になること?」「征はんは、お一人で兄弟はいてはらしまへんどしたなあ。」「ええ、それがどうかしたんですか?」「ならあれはきっと、他人の空似やったんどす。」「他人の空似とは、どこかで私に良く似た人を見たんですか?」「実はさっき、浅草寺さんの門のそばで猿回しをしていた男はんが、征はんにあんまりよう似ていたさかいに、びっくりして思わず征はんの顔と見比べてしもうて、兄弟かと間違うほどよう似ておいやしたさかい。さっきからその男はんの顔が気になって、頭から離れんのどす。」そう言って菊千代は征四郎の顔をじっと眺めた。「はははは・・なんだ、そうでしたか江戸にはざっと百万はくだらないほどの人々が暮らして居る、そんな人が居たとしても不思議はありませんよ。私はてっきり旅の疲れがでたのではと。」「この江戸には、そんなにぎょうさんのお人がいてはんのどすか・・・。」しかし征四郎の言葉を聞いても、菊千代には何故か納得できなかった。「それにしても、よう似ておいやしたなあ、あの男はん。年は征はんより上みたいに見えたけど・・・。」


【 伊助親方の計らい】 

一年半に及んだ上方暮らしの間も、様々な手助けを受けた伊助親方の屋敷を訊ね、世話になった礼を言い、積もる話をし終わった後「征四郎さん、あんたに見せたいものがあるんだが、今日はお暇ですかい?じゃあ出かけましょう。おい、お兼ね、ちょいと出かけてくるぜ・・。」そう言って伊助は征四郎を連れ出した。行く先を問うと、「まあ黙って、ついて来ておくんなさい。」二人は麗らかな春の陽の中浮かれる花見客の間を縫って小半時ほど歩き、上野寛永寺近くの屋敷の門の前で足を止めた。「征四郎さん、ここですよ。」見れば入口には、立派な厚い檜の板に墨で黒々と、『剣術指南飛龍館道場』と銘打った真新しい看板が下がっている。「ここは、親方の知り合いの方の道場ですか?」と聞くと、「ええそれやあ、知り合いも知り合い、何を隠そう、征四郎さん。ここはあんたの為にあっしが抑えといた、あんたが主の道場でさあ。」「ええっ!?今、今何と言われた!」「ここは、征四郎さん、いや征四郎先生。あなた様の道場だと言ったんですよ。」「あっ!はははは・・。親方少し酒を飲み過ぎたんじゃあないですか。冗談もほどほどにしては、お兼ねさんも心配しているかも、さあさもう帰りましょう。」そう言っても、伊助は黙ってにこにこ笑った儘で、一歩もそこを動こうとはしなかった。「まさか・・・本気なんですか?」じっと顔を覗き込む征四郎に、伊助はなおも笑顔を絶やさず、ゆっくりと大きく頷いた。「そう、その通り。上野寛永寺裏剣術指南飛龍館道場の主は、あっしの目の前にびっくり(まなこ)で立っていなさる、嵯峨征四郎先生、あなた様なんですぜ。」


「飛龍館という名前は、私の刀の鍔の龍の彫金から思いついたそうだ。」「伊助とか言うその親方は、何でそこまで征さんに尽しはんのどすやろ。」菊千代が訊ねた。「私が碌を失って食うや食わずの日々を送っていた時、無法者たちにかどわかされようとしていた、小峯さんと言う伊助さんの一人娘を助けて、家に送り届けたのが縁で伊助さんの下で働くようになった。そのことがよほどうれしかったらしい。」「そうどすか・・。それでその小峰さんと言う娘さんは、今もお家に?」「いいえ、去年の秋に同業者の家に嫁いだといってました。」「そうどすか・・・それはよろしゅうおしたなあ。」「何でも、その道場の元の主はひとり者で後継ぎもなく、病死したあと売りに出ていたので伊助さんが、私が江戸に舞い戻った際に出直す足場にと思い手に入れ、荒れていた屋敷を改修し、庭も整えて待っていてくれたらしい。」「ほんに、有り難いことどすなあ。厚かましいことかもしれまへんけど、伊助親方のせっかくのお計らい、有り難くちょうだいしては?」「ええ、これで夜露を凌ぐ家も何とかなりましたが、弟子が集まるかどうか・・。」「心配おへん、江戸にはぎょうさんお人がいてはりますし征はんの剣術の腕やったら、間違いのう教えて言うて来はります。うちは小さい頃から習い覚えた上方の芸を江戸のお方に教える事で、ちょっとでも暮らしの足しにしようかと思うてます。二人で力合わせたら、何とか食べていけますやろ。」「何だか、菊千代さんの話を聞いていると、私にもできそうな気がしてくる、それにやっと落ち着く場所を手に入れることが出来た。それだけでも有り難いことだ。」い草の香りもすがすがしい敷き替えられた畳の上に寝ながら征四郎は、眺める天井に浮かんだ亡き父と師の笑顔に心の中でこう呟いた。― 父上、長谷部先生、やっと落ち着く家が見つかりました。見ていてください。これからの私を・・・・。―  


 「お~い!みんな出てきな!征さんが、あの征さんがかえってこられやしたぜ!」「ええ!何だって・・・おおっ!征さん、帰ってきなすったんですか!いやあ 良かった。いきなり居なくなったんで、皆で心配していたんですよ!なあみんな!」「そうともよ!いやあ元気そうで何よりだ。征さんお帰りなさい!」甚兵衛長屋の住人は、久しぶりに会った征四郎を取り囲んで再開を喜びあった。中には声を詰まらせたㇼ、涙を流しながら挨拶を交わす者もいた。「こんな狭いとこに、こんな仰山な人らが暮らしておいやしたら、他人も自分の家族みたいになるんやろか。」人情味溢れる江戸の人々の姿に菊千代はそんな事を考え乍ら、この情景をみていた。


【 調理見習い 】

逢瀬六三郎、志乃親子は、大工の藤助と言う甚兵衛長屋の住人が、親方の婿養子となって出ていった後の一部屋を借り暮らすことになった。「逢瀬殿、これからは侍よりも間違いなくこの町に暮らす普通の人々が中心の世になる。あなたも古い考えに囚われず、ただの同じ人として人々に接すれば、やがてそのことがわかるようになるでしょう。」と言う征四郎の言葉を受け入れて、幼少の頃料理好きであった祖母の手ほどきを受けたことを思い出し、お宮の店の調理見習いをすることになった。征四郎に伴われて現れた逢瀬六三郎の姿を見て、お宮とその亭主は息を飲んだ。「あっ!逢瀬様、いってえその頭はどうなすったんです!?」二人が驚いたのも無理はなかった。逢瀬は髷を町人風に結い上げていたのである。「逢瀬殿は、自ら町人になろうと決心されたそうだ。それに名前もただの六さんと呼んで欲しいと、なあ六さん。」「はい、さようでござる。いや、さようでございます。女将さん、清吉親方、宜しくお願い致す、いや、お願いいたします。」そう言って深々と頭を下げた。生まれて初めて侍に頭を下げられた夫婦は、お互いに顔を見合わせ、戸惑っていたが、その横で幼いお光は何時のまにか、しっかと志乃の手を握ってにっこり笑った。「お父・・・お母あ、あたち、このお姉さんと遊びたい・・。」


【 手紙 】

「どうぞお入りください。」門番の言葉に促され征四郎は屋敷内に足を踏み入れた。玄関の板の間でその男は胡坐をかいて手紙を読んでいたが、読み終わると顔をあげて言った。「あんた、これを何時書いてもらったんだい?」「はい、二月ほど前に。」「あいつは死んだよ。」「え!?まさか、坂本さんとても元気で、餞別だと言って私の懐に自分の胴まきを放り込んでくれましたよ。」「京の潜伏場所で、何者かが差し向けた刺客に暗殺されたそうだ・・。」「刺客に暗殺された!?そんな、あの人が、信じられない、北辰一刀流の免許皆伝の上に、南蛮渡りの連発銃を常に持っていたのに・・。」「それを使う間もなくいきなり襲われたんだろう。」勝はそう言って、気落ちした表情を見せた。「あいつには、もっと生きていて貰いたかったよ。」「勝先生は、坂本さんとは何処で知りあったのですか?」「あいつは、俺を斬ろうとこの屋敷に自分からでむいたのさ。」「え!先生を殺しにきたんですか?」「ああ、その通り、それが逆に誰かにやられちまった、人の値打ちも分からねえ何処かの野暮な野郎になあ・・。」そう言って勝は握りしめた拳で床板をドンと叩いて悔しがった。 


【 しっぺ返し】

「で、もう吹っ切れたのかい?征さん。」征四郎の盃に酒を注ぎながら硅次郎が言った。「いや、例え誤った生き方をしていたとしても、兄弟同然の者を手に掛けてしまったんです。一生吹っ切ることは出来ないでしょう。」「いまでこそいうが、あの人もあんたの手に掛かって果てた方が、良かったかもよ。もしお上の手に捕まって居たら張り付け獄門になり大勢の眼に晒されることになったし、野放しにされていたらさらに多くの罪を犯していたかもしれねえ。きっと草葉の影であんたに礼をいってるだろうよ。おい、お宮さん。酒を頼む。」「は~い!」しばらくして銚子を持ったお宮が席にやって来た。「お宮さん、六三郎殿・・いや六さん元気にやっていますか?」「ええ、もう何品かの料理は任されてて、うちの人の話じゃあ、とっても筋がいいって、あの様子じゃあ半年もすりゃあ板場を任せても大丈夫だっていってましたよ。おとといなんか暇なときに六さんに店を任せて湯に行っちゃったんですよ。」「それを聞いて安心しました。」「おいおい、あんまり亭主を遊ばすとどっかにいい女でも作られたらどうするんだい?」「大丈夫ですよ、松井の旦那あの人、私にぞっこんなんだから。他の女には目もくれやしませんよ。何処かの誰かさんと違って。ねえ、征さん。」「相変わらず、しっぺがやしがきついねえ。ところで征さん、実はある一件であんたの考えが聴きたくて呼んだんだ。」


【般若の刺青】

 「その一件てえのは一月ほど前、夜回りの七蔵って年寄が真夜中に慌てて、人が殺されていると自身番に駆け込んできた。詰めていた者が確かめに行くと浪人風情の男が二人倒れており、どちらも体に何か所も刀傷を受けてすでにこと切れていた。あくる朝知らせを受けておいらが立ち会ったが、最初は仲間同士の内輪揉めの末の斬り合いで命を落としたのかと思ったが、妙なことに気が付いた。」「妙なこと?」「ああ、斬り合いがあった晩は真夏のしかも、一月前から照り込んだ日が続いて蒸せかえるような暑さで、汗で着物が体に纏わりついて動きにくかったのか、二人とも上半身裸で渡り会ったらしい。その右手の肩辺りに、どちらも般若の刺青(いれずみ)があったんでえ。これをどう思うかあんたの考えを聞かせてくんな。」「なるほど普通、町民の間の刺青と言えば、犯罪を犯した罰印にお上によって
入れられるか、自分で彫る場合は博徒のように威勢を示すためのものだったり、男女の色恋の契りの堅さを誓うものですよね。しかしその浪人たちの場合はそのいずれにも当てはまらない。しかも二人とも同じ場所に同じ般若の刺青だとすると、これは何かの徒党を組んだ仲間の印で一度彫れば消えない刺青からみて、その結束の強さや般若の形から何かの怒りや怨念を内に秘めた者たちの集まり属しており、その連中に寄って何らかの理由で葬り去られたのではないかと思われます。」「おいらもそう睨んでるが、このご時世だ。この江戸にも不逞の浪人どもが大勢入り込んでいて、何が起こっても不思議じゃあねえ。もしこの般若の刺青を彫ってるやつらがこの江戸で何か大掛かりな騒動をもくろんでいるとすりゃあ見過ごすわけにゃあいかねえ。」啓次郎はそう言って盃を一気に飲み干して征四郎の顔を正面から見つめ直していった。「征さん、この江戸の町民たちを、そんな騒動に巻き込みたくねえんだ。あんたの力を貸してくれねえか。」「ええ、私にできることがあれば、何でも言ってください。」そう言って征四郎は、真剣な眼差しを向ける啓次郎の盃に酒を注ぎながら、にっこりと笑った。   


【 人足酒場 】

「お侍さん、ちょいと財布の中が寂しいんじゃあありませんかい?」月代(さかやき)を伸ばし、無精ひげが茫々の浪人に博徒風の頬に傷のある男が話しかけた。「ああ、この辺りにの口入屋を当たってみたが、あぶれちまって酒代おろかここ二、三日はろくに飯も食っていない。」「こんな男くせえ人足相手の店より、もうちょっとましな小料理屋でいっぺえやりませんかい。」「俺に(おご)ってくれるのか、でその見返りは?」「あんたのその剣術の腕を買いたいんで。」「俺の剣術の腕?わかるのか今日初めて会ったばかりなのに。」「あっしやこの仕事について二十五年、十六のがきの頃からいろんな連中を見てきた。あんたの腕が人並み外れていることぐらいは一目見ただけで分かりやすぜ。」「ほう、そりゃあ恐れ入谷の鬼子母神だ。」「だんな、そんな言い回しをどこで・・。」「俺もおまえの仕事じゃあねえが、浪人暮らしに慣れちまって侍言葉を忘れちまったのよ。」「だんな、いいこと仰いますね。あっしゃあ仕事抜きでだんなが気に入りましたよ。で、まだ名前を伺ってませんでしたっけ。」「名前?そうさなあ・・。」浪人は路地に差し込む月の光に眼をやりながら答えた。「秋月左馬之助とでも言っておこうか。」

                                   
【道場主】

「貴殿も 、文無しの身でござるか。」楊威神道流神村道場と看板のかかる屋敷内の廊下で、屯している七、八人の浪人の一人が話しかけてきた。「まあそんなところだ。いい稼ぎになると聞いてここに連れて来られたんだが、仕事の内容は知らされてはおらぬ。お主は聞いておるか。」「いや、拙者も聞かされてはおらぬ。ああ、申し遅れた拙者は佐竹平九郎と申す。以後よろしくお頼み申す。」「秋月左馬之助でござる。しかし殺風景な道場よなあ、稽古場にも弟子らしき名札や木刀も見当たらぬ。」「さよう、それに神村何某という道場主の名もとんと聞いたことが御座らぬ。」がやがやと世間話に興じる浪人達が一斉に口を閉じた。廊下の先の離れの部屋の障子が開き白髪混じりの長髪を肩に垂らした道場主らしき人物が、従者を伴って現れた。「各々方、こちらは当道場の主じ、神村幽斎先生でございます。今日はお集まりいただき御足労でした。今から稽古場にて先生からお話が御座る故、稽古場にてお待ちくださるよう・・。」そう言って両者は再び離れの部屋に戻って行った。



【 烏合の衆 】 

「各々方、今や我らを統帥していたかつての徳川幕府の権威は、薩長同盟との鳥羽伏見の戦いの敗北を見ても明らかなように今や頼るに足らぬ存在とあいなった。事もあろうに時の十五代将軍は何と我等武士たちが命を掛け、数百年の長きに渡って維持してきた政事の役目を、事もあろうに此の国難の中、大政奉還と銘打って朝廷にいとも簡単に放り投げてしまった。この様なことが罷り通って良いものか。我等はたとえ家は没落し碌を追われた身とは言え、天地神明に掛けての武士としての魂は、決して失ってはおらぬ、その侍としての誇りは今もこの胸の奥に脈々と息づいている。日々の糧にも事欠く暮らしに絶え、中には借財の末に妻子を如何わしい場所に送らざるを得ぬ羽目に陥ったもの達もいる中、此の我らのやりどころのない憤りはもはや我慢の限度を超えている。そうではあるまいか、各々方!」そう声高に演説し、浪人達を煽動しようとする師範代らしき男の横で、白髪の道場主は道場内に腰を下ろしている数十名の浪人たちを無言で眺めながら、その眼は数人の男たちに注がれていた。― 後は烏合の衆か、取るに足らぬ石潰しどもめが・・。ー



【 選ばれし者達 】 

道場の離れの一室に居並ぶ6名の浪人たちに向かって、師範代と称するものが口を開いた。「この場に選ばれしお主たち6名は、ここに居られるわれらが首領、神村幽斎先生のおめがねに適ったもの達である。今後、幽斎先生の手足となって働いてもらいたい。その働きによっては破格の手当てが支給されることとなる。」「それは有難いが我々は何をすればよいのか、お聞かせ願いたい。」佐竹平九郎が尋ねた。「まあそうあせらずに、時が来ればお明かし申そう。それまでは、この金子で酒でも飲んで英気を養っておられよ。」そういって師範代は懐から取り出した小判を一枚ずつ手渡した。「おう、久しぶりに見るの黄金色よ、ありがたや・・。」そういって指し頂くものもある様子に幽斎と師範代は顔を見合わせ、にんまりと微笑んだ。

 「のう秋月殿、そこもとはあの師範代と神村幽斎とか言う老人をどう思う。また我等に何をやらせるつもりで雇ったのであろかのう。」居酒屋の差し向かいで、杯を飲み干しながら平九郎が尋ねた。「さあ、まだ見当がつかぬが我等不貞の浪人の、しかも剣術の腕を見込んでというと、何か大それたことを企んでいるんじゃあねいのかい。話によっちゃあ俺は降りるよ。今の世の中、侍が命をかけてやるほどのものなんざあ、あるもんか。なあ佐竹さんよう。」外はやっと暑くて長い夏の一日が、暮れようとしていた。   (つづく)



この物語は完全なるフィクションであり、登場する人名、地名その他一切の物事は、実際に存在するものと全く関係がありません。
( 筆者敬白 )

征四郎疾風剣〔Ⅲ〕

征四郎疾風剣〔Ⅲ〕

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted