聞きたくありません

聞きたくありません

 時計の針が午前三時で静止していた。
 眠る前に枕を目覚めたい時刻の数だけ叩いておくとその時間に覚醒する。というおまじないを習慣的に行っている。おまじないの通り毎朝午前七時に私は目覚める。それにしても薄暗い。カーテンを開けると霧が立ちこめて向いの建物の屋根が見えない。まるで湯煙の中だ。黄色く点々としているのは対岸のアパートメントの廊下灯だろう。白く煙る空へは、大きなまるいものが青々しくにじんでいる。あれはなんだろう。月にしても太陽にしても大きい。飛行船、宇宙船、未知の物体。方角は東。今日は休日。懐中電灯の電池は十分。靴紐は新しくしたばかり。さて、歩いてみる。

 霧は飲みもののようだった。
 冷たくなめらかに喉をうるおす。花と真新しい葉っぱの匂いが小匙半分くらい入っている。呼気は透明で、息を吹いたところの白い霧がその形に割れた。ふう、ふう、ふう。吐くと白が割れる。ふう、ふう、ふう。アパートメントの階段下で霧を割っていると、急に眼前へ人間が浮かびあがって驚いた。ベーカリーサンカクの見習い小僧だった。紙袋を抱えている。
 おどろいた、ゆうれいをよびだしたかとおもった。
 こっちこそ、へんなおとがきこえるから、ゆうれいかとおもった、びょうきもちの。
 すごいきりだねえ。
 すごいきりです。
 それはぱんだね、どいつぱんだね。
 あげませんよ。
 見習い小僧は紙袋を横へ隠した。隣家のおじいさんへ持っていくパンだと知っていたので、深追いは避ける。おじいさんは半年前おばあさんに旅立たれ、時々デイ・ドリーム・ビリーヴァーを歌っている。おばあさんはベーカリーサンカクのドイツパンを好きだった。見習い小僧の焼く下手な練習のパンも、ほめ上手に食べてあげていた。見習い小僧は照れているんだか鼻にかけているんだかわからない素っ気ない調子で言っていた。
 いればもないはでたべるんですよ、おばあちゃん。
 固いパンでも歯茎だけで食べられる。おばあさんは煎餅も歯茎で食べた。歯へ固執しない生き方に勇気をもらった。歯磨きは苦手だ。
 どこへいくつもりですか、こんなきりのなか。
 ひがし。
 ひがしとは。
 ほら、あのあおいの。
 ちかづけませんよ、きっと、とおいもの。
 まあまあまあまあ。
 いっしょにいってあげましょうか。
 まあまあまあまあ。
 横からくちを出されるとかなわないし迷子になった時に文句を言われるのも腹が立つからお断りする。少し歩くだけで小僧もアパートメントも霧の中へ消えた。手を伸ばしたところくらいしか見えない。霧と靄のちがいは、見通しのちがいだったように記憶している。よってこれは霧だ。見事な霧。東の空とおぼしき空間へにじむ青くまるいものは、歩いても歩いても同じ大きさで浮かんでいる。森の方から歩いてきた小僧はその様子を観察して近づけないと断じたのかもしれない。青いにじみは色鉛筆と水彩絵の具を混ぜた具合だ。
 手に入れられないものが好きだった。ちいさい頃から。遠いほどに心ひかれる。それは希少でうつくしい。触ってはいけないものも好きだ。美術館や博物館の、触ってはいけませという表示。なでまわしたいくらいのうつくしいものを、喉から手が出そうな気持ちでじっと見つめる。胃からこみあげる触手のような支配欲。あの青い光はきっと遠く手に触れられないもの。誰かが青い光へたどりついてしまったら困る。もしも光の中心を解明されたらどうしよう。見習い小僧はきっと解明したがる種類の人間だ。だから側にいられたら迷惑なのだ。なるほど、と自分の行動に納得する。
 歩けども歩けども、青い光は近づかない。これなら安心していくらでも歩ける。青い光はなんだろうと歩き始めたというのに。
 歩いているうちに足下がやわらかくなってきて泥を踏む感触へ変わった。そのうちくるぶし辺りまで沈んでしまった。沈んでは足をあげ、足をあげればもう片方が深く沈み、どんどんアスファルトの中にめりこんでゆく。膝、太もも、腰、腹、みぞおち、胸、鎖骨、喉。
 青い光が白い霧の底から明るく浮かぶ。
 助けを求めるわけでもなく、あの明るいものへ手を伸ばす。
 アスファルトだった舗道は土と草の匂いだ。首へからんでいるのは植物の細い根。最初冷たく感じられた偽蟻地獄は今や心地よくあたたかい。皮膚一枚で隔てられた内臓と同じ温度だ。ダンゴムシ。私は石の裏のダンゴムシ。春の公園。砂場へつらなる山。脱ぎ捨てられた縞模様の靴下。ベンチのぬくもり。ジャングルジムの影。鉄の熱さ。触れて弾ける皮膚感覚。植物の根から流れこむ記憶。このまま沈んでも差しつかえない。
 眠りかけたその時、急に腕を引っぱられた。
 肩に電流が走り、からだが一気に冷えた。私は地上へ引きあげられていた。隣にパン屋の見習い小僧が立っている。土へ還る心地よさを奪われ、見習い小僧に腹が立った。めらりと燃えた憎悪で文句を言う。
 いたいじゃないの。
 うまりかけていたのをたすけてあげたのになんですか、そのかおつきは。
 きもちよくうまっていたのに。
 文句を言ってはみたが、地上の温度へからだがなじむのも一瞬で、息もできなくなるところだったわけであり、それは困るから、一応礼を言った。礼は文句より短くすんだ。見習い小僧は礼にはかまわずに地面の軟化についての考えを述べた。
 おなじところをぐるぐるまわっているからずっとみていたのです。あんまりおなじところをふむものだから、じめんのほうがバターみたいにやわらかくなったのでしょう。とらのはなしをしってますか。
 聞きたくないことを聞いてしまった。
 空を見あげると、全体が薄青く光っている。霧が晴れてきて、太陽に照らされた全体が光っているのだ。青い光のかたまりは消えていた。腕を伸ばそうとも、もう届かない。歩いても見つからない。もう届かないと知って、心臓が少しやわらかくなった心地がした。光の元へ辿りついてもみたかったけれど、やはり解き明かしたくはなかった。
 つづいて見習い小僧が青い光についての解釈を述べようとしたものだから、私はひとさし指をくちへあてて首を横に振った。
「聞きたくありません」

聞きたくありません

聞きたくありません

時間のとまった朝、霧の中で青い光にさそわれる「私」のおはなしです。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-30

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